57王様は峠の向こうまで乗っていきます 祝!ストラスブール線 部分開通
第57章 王様は峠の向こうまで乗っていきます
秋の朝、みつばちちゃんは十席仕様に戻っていました。
十二人を一度に運ぶため、少し詰め気味にした座席はもうありません。座席の間隔を戻し、荷物を置けるところも作り直してあります。今日は兵隊さんをまとめて運ぶ日ではありません。
パリへ王様を迎えに行く日でした。
「今日は、ほんとうに運ぶだけでいいんですよね」
出発前、どろちゃんはフランソワさんに念を押しました。
「そのはずでございます。式典も警備も祝宴も、すべてフランス側で準備なさると伺っております」
「わたし、何もしなくていい?」
「お嬢様は来賓でございます」
「ほんとうに?」
「はい」
フランソワさんは、少し笑いました。
「少なくとも、到着してから線路を直したり、お料理の数を数えたりなさる必要はございません」
「それならいい」
どろちゃんは満足して、左席へ入りました。
白い双発機、Пчёлка(プチョールカ。ミツバチ。)は滑走路を走り、朝のエルレンフェルトを離れます。
パリまでの飛行は、もう珍しい仕事ではありませんでした。
それでも今日は、迎える相手が少し違います。
ルイ十四世は、自分が大きく資金を出した鉄道の開通式へ行くのです。
しかも、その鉄道は、ただ線路が少し出来たというものではありません。
ストラスブールから北へ回り、ブリュマト、シュヴィントラッツハイム、ステンブール、サヴェルヌを通り、山を貫くトンネルを抜けて、ファルスブールまで。
夏にはまだ工事現場だったところを、もう電車が走ります。
トンネルの方が先に出来てしまったのは、どろちゃんにも少しおかしな話でした。
柔らかいところでは、ライデンやオランダの人たちが得意な地盤の扱い方を使い、硬いところでは、掘った岩そのものにも働いてもらうやり方で進めました。掘る方は思ったより早かったのです。
最後まで工事の速さを決めたのは、土でも岩でもありません。
レールでした。
鉄を作り、品質を揃え、長いレールにして運び、ガンブスハイムの方に作った陸揚げ基地と工場で枕木へ取り付ける。百メートルほどの軌道を、たくさんの門形クレーンで何点も吊り、前へ送り出す。
路盤はその先まで出来ているのに、レールが来ない。
トンネルも出来ているのに、レールが来ない。
どろちゃんが夏の間に何度も聞いた言葉でした。
そして秋になって、ようやくファルスブールまで二本の線路がつながりました。
最初から複線です。
片方はこちらへ、もう片方は向こうへ。
同じ線路を両方向に走らせるようなことは、最初からしませんでした。
正面から電車同士が出会わないだけでも、考えなければならないことがずいぶん減ります。
*
パリで待っていたルイ十四世は、朝からたいへん機嫌がよさそうでした。
トルシー侯もいます。そのほかにも、今日はフランス側の役人や軍人が何人か一緒でした。
「遅れておらぬな」
王様は、みつばちちゃんを見上げて言いました。
「遅れてないよ」
「鉄道もか」
「鉄道も。ファルスブールまで走れるよ」
「よろしい」
王様はそれだけ言って、かなり満足そうに乗り込みました。
今日は十席仕様ですから、十二席にしたときよりも余裕があります。
トルシー侯が席につきながら、車内を一度見回しました。
「前より広くなりましたな」
「戻したの」
「前が特別だったのですね」
「兵隊さん十二人だったから」
トルシー侯は一瞬だけ黙りました。
「……今日は、そういう用途でないことを喜びましょう」
「うん」
ルイ十四世が向こうから笑いました。
離陸すると、パリの町が下へ離れていきます。
今日は視察飛行ではありません。途中で何度も旋回したり、地面を詳しく見たりする必要もありません。
それでもストラスブールが近づくと、王様は窓の外をよく見ていました。
ライン川の方から延びる物流線。
ガンブスハイム付近の陸揚げ基地。
その周囲の工場。
そして、ストラスブール郊外に出来た、大きすぎる駅。
大きくしたのは、だいたい王様のせいです。
「よく見えるな」
「大きいからね」
「小さく造る必要はないと言ったはずだ」
「言った」
「ならばよい」
どろちゃんは何も言い返しませんでした。
資金を出した人が気に入っているなら、もうそれでいいのです。
駅の横には、まだ空いている土地が広がっていました。
将来の貨物ヤードです。
だいたい三平方キロメートル。
今はその広さが、そのまま飛行場のように使えます。
「降ります」
どろちゃんは短く告げました。
みつばちちゃんは大きな貨物ヤード予定地へ向かって高度を下げます。
造成済みの地面へ車輪が触れ、少し走って止まりました。
窓の外には、もうフランス側の人が並んでいます。
旗があります。
軍楽隊もいます。
馬車もずいぶんあります。
どろちゃんはエンジンを止めてから、ため息ではなく、少し感心した声を出しました。
「ほんとうに、全部やってある」
「ですから申し上げましたでしょう」
フランソワさんが言いました。
「今日は、お嬢様がお迎えされる側です」
「変な感じ」
「たまにはよろしいかと存じます」
*
飛行機を降りたところから先は、本当にフランス側の仕事でした。
王様の到着を告げる声。
整列する兵士。
役人。
ストラスブール側の代表者。
工事に関わった技師たち。
銀行の人たち。
それぞれが決められた位置にいて、どろちゃんは誰をどこへ座らせるか考える必要がありません。
案内されたところへ行けばいいだけです。
駅は、市街の真ん中にはありません。
ルイ十四世が広いものを好み、将来狭くなることを嫌ったため、郊外へ大きな敷地を取って造られました。
長いホーム。
複数の線路。
駅前の馬車が回れる広い空間。
さらにその外側には、これから貨物を扱うための土地。
町の中心から少し離れてしまったので、駅から市街中心部と港へは電気で走る小さな車両の線路も延ばすことになっています。
大きな駅を作ったら、別の電車が必要になりました。
どろちゃんは、それもまあ仕方ないと思っていました。
ストラスブールは、どういうわけか電車が増える町になるのかもしれません。
式典は長すぎず、短すぎませんでした。
最初に地元側の挨拶があり、工事の経過が簡単に読み上げられ、共同銀行や工事関係者の名前が挙げられます。
そしてルイ十四世が立ちました。
王様は今日は、かなりしゃべりました。
フランスの東の入口であるストラスブールと、その向こうを結ぶ道であること。
川と道だけではなく、新しい交通路を国の富にすること。
工事に携わった者を評価すること。
戦争だけで国が豊かになるのではないこと。
王様らしい言い方をしながら、かなり実務的なところまで話します。
どろちゃんは来賓席で聞きながら、
――ほんとうに気に入ったんだ。
と思いました。
隣のフランソワさんは、姿勢を崩さず聞いています。
トルシー侯は少し離れたところで、いつものように何を考えているのか分かりにくい顔をしていました。
ただ、王様が鉄道を自分の事業として堂々と話していることには、たぶん満足しているのでしょう。
やがて、開通列車へ移る時刻になりました。
*
電車は、最初から電車でした。
この世界には、営業鉄道というものがまだありません。
だから、機関車が客車を引くのが普通だと思っている人もいません。
蒸気機関車を見慣れた人もいません。
そもそも、まともな鉄道用レールさえ、つい最近までありませんでした。
どろちゃんは、むしろその方がよかったと思っています。
今ある普通の鉄で、無理に高い圧力の蒸気を閉じ込める大きな釜を作る気にはなれません。
材料のばらつき。
接合部。
腐食。
水位。
安全弁。
圧力計。
どれか一つでも外せば、壊れるだけでは済みません。
周りにいる人まで星になります。
そんなものを、わざわざ鉄道の最初に持ってくる理由はありませんでした。
水がある。
発電所がある。
電動機がある。
なら、電気で走ればいい。
それだけです。
ホームに停まっている車両には、煙突がありません。
火室もありません。
車両の下には直流電動機があり、動力用の電気は六百ボルトです。
千五百ボルトにすれば送電には都合のいいところもありますが、今の工場と今の整備員に扱わせるには、どろちゃんはまだ嫌でした。
六百ボルトだって十分に人を殺せます。
運転台の回転式スイッチに、その六百ボルトを直接持ってきたりもしません。
手元に来るのは、車載の蓄電池から出る低い電圧だけ。
運転士がスイッチを一段進めると、その指令で大きな電磁接触器が動きます。
動力側では起動抵抗が入り、少しずつ抜けていきます。
バチン。
少し間を置いて、またバチン。
大容量の電磁接触器が動く音です。
そして電動機が回り始めると、モーターそのものの音に、モーターと車輪をつなぐ平歯車の音が重なります。
グオーン。
今の電車のような、すっと消えていく電子音ではありません。発進のたびに接触器がバチン、バチンと働き、その下で平歯車がグオーンと鳴ります。
最初の鉄道としては、それで十分でした。
「では、乗るか」
ルイ十四世が言いました。
王様が先に乗り、来賓が続きます。
どろちゃんも、フランソワさんと一緒に乗りました。
今日は運転しません。
それも少し変な感じでした。
運転士は、何度も訓練した人です。
その後ろにも、今日は技術担当者がいます。
開通初日に王様を乗せるのですから、いくらなんでも一人に全部任せたりはしません。
発車の合図が出ました。
回転式のスイッチが一段動きます。
床下で接触器が動きます。
バチン。
床下で接触器が動きます。
グオーン。
電動機と平歯車の音を響かせながら、電車はゆっくり前へ出ました。速度が上がるたびに、またバチン、と次の接触器が働きます。
ホームに並んだ人たちが後ろへ動き始めます。
いえ、動いているのは電車の方でした。
王様は床下の音にも耳を向け、それから窓の外を見ました。
「ずいぶん機械の音がするな」
「歯車で車輪を回してるからね」
「だが煙は出ぬ」
「燃やしてないからね」
「馬もいない」
「いらない」
「ずいぶん簡単に言う」
「ほんとうだもん」
ルイ十四世は笑いました。
ストラスブールを出ると、線路は北へ向かいます。
最初から複線です。
片方はファルスブールへ。
もう片方はストラスブールへ。
列車同士が正面から来るような運転はしません。
もちろん、追突や分岐器の扱い、停止信号、線路へ人が入ることなど、別の危険はあります。
でも、最初から潰せる危険は潰しておいた方がいいのです。
窓の外を畑と村が流れていきます。
ブリュマト。
シュヴィントラッツハイム。
ステンブール。
沿線の人たちは、今日は仕事を止めて見に来たのでしょう。
線路の外側に大勢立っています。
兵士や係員もいます。
踏切になるところでは、馬車が止められています。
馬が驚いているところもありました。
でも、線路の上へ出てくる馬車はいません。
どろちゃんは、それを見ながら、ずっと後の別の国であった変な話を思い出しました。
道路を走る機械の前を、人が歩かされたことがあります。
赤い旗を持って。
馬を驚かせないためだとか、危ないからだとか、理由はいろいろありました。
町の中では、人が歩くような速さまで落とされたこともあります。
もちろん、当時の道路には当時の事情がありました。
馬もいました。
重い機械も危険でした。
それでも、機械の前を旗を持った人が歩く光景は、どろちゃんにはやっぱり少し変に思えます。
ここでは、たぶん、そうはなりません。
何しろ今朝、その鉄道に最初に乗っているのがルイ十四世です。
王様が資金を出し、王様が開通させた鉄道に向かって、
危ないので人を前に走らせましょう。
などと言える人は、あまりいないでしょう。
まして、線路へ石でも置いて、ばれたら。
――星になるな。
どろちゃんは、そこから先を考えるのをやめました。
もちろん、子どもが知らずに入り込むのと、家畜が逃げてくるのと、誰かがわざと邪魔をするのは別です。
だから柵を作ります。
巡回もします。
朝には線路を見ます。
わざとやった人については、どろちゃんよりフランスの役人の方がずっと怖いでしょう。
サヴェルヌが近づくと、地形が変わってきました。
そして、山へ向かいます。
その先にトンネルがあります。
夏には、列車より先に出来てしまったトンネルです。
車内の人たちが少し静かになりました。
暗い穴へ、このまま電車が入っていくからです。
照明が点きます。
速度を落としすぎることもなく、列車はそのまま坑口へ入りました。
煙はありません。
煤もありません。
蒸気もありません。
窓の外は壁になり、音だけが少し大きくなります。
ルイ十四世は、しばらく何も言いませんでした。
やがて、
「これはよいな」
とだけ言いました。
どろちゃんには、それで十分でした。
トンネルを出ると、もう峠の向こうです。
ファルスブールへ近づきます。
駅の周辺にも人が集まっていました。
列車が止まると、歓声が上がります。
王様が降りるのですから、当然といえば当然でした。
*
ファルスブールでは、長居はしませんでした。
地元の代表者が挨拶し、王様が応じ、工事関係者が紹介されます。
どろちゃんも何人かに挨拶されました。
でも、自分から工事の説明を始めたりはしません。
今日はそういう日ではありません。
しばらくして、折り返しの列車へ乗ります。
同じ線路を戻るのではなく、反対側の線路です。
今度はファルスブールからストラスブールへ。
途中で、反対方向へ回送される車両とすれ違いました。
ほんの短い時間です。
向こうの車両が窓の外を走り去ります。
正面からは来ません。
線路が二本あるからです。
「二本造った理由が分かりやすいな」
トルシー侯が言いました。
「一本ずつ、行く方が決まってるから」
「運行する側には、その方がありがたいでしょう」
「うん。あとで増やすより、最初に作った方が楽だし」
「費用は増えますが」
トルシー侯は、王様の方を見ました。
ルイ十四世が気づいて、
「余を見るな」
と言いました。
「陛下がお決めになった規模でございますので」
「狭いものを造って、すぐ造り直す方が無駄であろう」
「左様でございます」
トルシー侯は、それ以上言いませんでした。
どろちゃんは窓の外を見ながら、笑いそうになるのをこらえました。
*
ストラスブールへ戻った頃には、昼をかなり過ぎていました。
ホームから今度は祝典会場へ案内されます。
会場も、フランス側が全部用意していました。
駅の近くに設けられた大きな祝宴用の建物には、王家の色と紋章が飾られています。
壁には布が掛けられ、燭台と花が置かれ、楽師たちの席もあります。
席順も決まっています。
どろちゃんは案内された席へ座りました。
それだけです。
「楽」
小さな声で言うと、フランソワさんが隣で、
「お嬢様」
とだけ言いました。
「だって、何も決めなくていい」
「それが来賓でございます」
「毎回これがいい」
「難しいかと存じます」
祝宴は、フランス側が普段大きな行事で行うやり方に合わせていました。
一度に一皿ずつ運ぶのではなく、まずいくつもの料理が卓上に並びます。
肉料理。
魚料理。
温かいもの。
冷たいもの。
パン。
ソース。
果物。
甘い菓子。
それらが入れ替わりながら続いていきます。
給仕の人たちは、誰に何を出すか分かっています。
楽師たちは、会話を邪魔しないところで演奏しています。
大声で騒ぐ宴会ではなく、王様のいる正式な祝宴です。
それでも今日は祝いの日ですから、空気はかなり明るいものでした。
ルイ十四世は、ここでもよくしゃべりました。
朝の式典ほど長くはありません。
ただ、鉄道がファルスブールまで本当に通じたこと。
川から運んだ鉄が線路になり、その線路の上を人が移動したこと。
これから先も西へ延ばすこと。
そんな話を、近くにいる人たちへ次々にします。
王様の話を聞いていると、まだファルスブールまでしか出来ていないのに、もうパリまで完成しているような気分になりそうでした。
どろちゃんはパンを食べながら、
「レールが足りないんだけどなあ」
と小さく言いました。
トルシー侯には聞こえたらしく、
「それは陛下にも申し上げております」
「もっと作らないと」
「製鉄所も圧延設備も増やしております」
「でも、路盤の方が先へ行っちゃう」
「それは、工事が遅れるよりはよろしいのではありませんか」
「そうだけど」
どろちゃんは、少し考えてから肉を食べました。
たしかに、トンネルが出来ないよりはずっといいのです。
祝宴の途中で、時計を見る人が増え始めました。
三時が近づいていました。
午後三時。
そこから先は、王様や来賓のためではありません。
一般の人が電車へ乗れる時間です。
式典用の列車ではなく、営業列車が走り始めます。
*
祝宴会場から駅の方を見ることが出来ました。
どろちゃんは少し席を外し、窓の近くへ行きました。
もう人が並んでいます。
商人らしい人。
家族連れ。
荷物を持った人。
服装のよい人もいれば、そうでない人もいます。
みんな、鉄道に乗った経験はありません。
世界で最初の日だからです。
駅員が、どこから乗るのか説明しています。
線路へ降りないように言っています。
切符を確認しています。
列車の行き先を案内しています。
馬車なら御者へ行き先を言えばいい。
船なら港へ行けばいい。
でも、電車は決められた場所で乗り、決められた場所で降ります。
その使い方から覚えてもらわなければなりません。
三時になりました。
合図が出ました。
バチン。
一般営業の最初の電車の床下で、接触器が働きました。
グオーン。
平歯車の音を響かせながら、電車が動き始めます。速度が上がるにつれて、バチン、バチンと抵抗を切り替える音が続きました。
朝、王様が乗ったのと同じ線路です。
同じ六百ボルトの電気で走ります。
同じように床下の接触器が動き、抵抗を抜きながら加速していきます。
「もう乗ってる」
どろちゃんが言いました。
フランソワさんが後ろから来ました。
「そのために造った鉄道でございましょう」
「そうだけど」
どろちゃんは、駅を離れていく電車を見ました。
朝は王様が乗りました。
午後には、普通の人が乗っています。
見世物ではありません。
これから毎日使う道になったのです。
「これで、ほんとうに開通だね」
「はい」
フランソワさんは静かに答えました。
*
夕方になる前に、王様をパリへ戻す時間になりました。
祝宴はまだ完全に終わってはいませんでしたが、ルイ十四世にはルイ十四世の予定があります。
再び貨物ヤード予定地へ向かいます。
Пчёлка(プチョールカ。ミツバチ。)は、朝と同じ場所で待っていました。
十席仕様の客室へ王様と随員が乗ります。
トルシー侯も一緒です。
「よい一日であった」
席についたルイ十四世が言いました。
「うん」
「余の鉄道は、まだ延びるのであろう」
「レールがあれば」
「作らせよ」
「作ってる」
「もっとだ」
「工場にも限界あるよ」
「ならば工場を増やせばよい」
どろちゃんは、王様の顔を見ました。
「そういうこと、簡単に言えるの、王様だけだよ」
「だから余が言っている」
トルシー侯が目を閉じました。
たぶん、聞かなかったことにしたかったのでしょう。
みつばちちゃんはストラスブールを離れます。
下には、今日開通したばかりの線路が伸びています。
まだファルスブールまで。
その先には、レールのない路盤があります。
工事現場があります。
鉄を待っている人たちがいます。
でも、今日から一部分はもう工事現場ではありません。
鉄道です。
パリへ着くと、王様たちを降ろします。
フランス側の人たちが迎えに来ています。
ルイ十四世は降りる前に、どろちゃんへ振り返りました。
「次は、さらに西だな」
「レールが出来たらね」
「忘れるな」
「忘れないよ」
王様は満足そうに降りていきました。
トルシー侯も続きます。
最後にこちらを見て、
「本日はありがとうございました、伯爵閣下」
と頭を下げました。
「今日はほんとうに何もしなくてよかった」
「飛行機を二往復なさっておりますが」
「それだけ」
「十分なお仕事かと存じます」
フランソワさんが横でうなずいていました。
給油と確認を終えると、みつばちちゃんには、どろちゃんとフランソワさんだけが残りました。
十席ある客席のほとんどが空いています。
日が傾き始めています。
「帰ろうか」
「はい、お嬢様」
エンジンが回り始めました。
パリの地面が後ろへ動きます。
やがて機体は空へ上がりました。
エルレンフェルトへ戻った頃には、もう夕方でした。
滑走路へ降り、エンジンを止めます。
朝は王様を迎えに行きました。
昼は王様と一緒に峠を越えました。
午後は、普通の人たちが電車へ乗るところを見ました。
それから王様をパリへ返して、ようやく家です。
機体を降りたどろちゃんは、伸びをしました。
「今日は、何もしなかった」
フランソワさんが少し考えてから答えました。
「お嬢様の『何もしなかった』は、一般的な意味とは少し異なるように思います」
「でも、式典は何もしてない」
「それは確かでございます」
「ごはんも作ってない」
「もちろんでございます」
「席順も決めてない」
「はい」
どろちゃんは満足しました。
「来賓、いいね」
「次もそうなるとは限りませんよ」
「えー」
二人は格納庫の方へ歩き出しました。
遠くでは、水力発電所の電気が今日も流れています。
その電気の一部は、もうストラスブールから峠の向こうまで、人を運んでいました。
世界で最初の営業鉄道は、王様を乗せたその日の午後から、もう普通のお客さんを運び始めています。
どろちゃんにとっては、それがいちばん大事な開通式でした。




