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54貴族令嬢は、パリの地面と川を見ます ルイ14世も乗って航空測量におでかけ

第54章 貴族令嬢は、パリの地面と川を見ます




 フランスの財務長官が持ち帰った手紙は、ヴェルサイユへ届きました。


 差出人は、ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト。


 中身は、パリからストラスブールまで鉄道を造りませんか、というものです。


 ルイ十四世は、一度読みました。


 途中へ戻って、もう一度読みました。


 東側では、まずストラスブールからサヴェルヌまで。


 ライン川を上ってきたレールをストラスブールで荷揚げし、敷いた線路を次の工事にも使う。


 工事用列車が走れるようになれば、旅客も郵便も小口貨物も載せる。


 運賃を取る。


 ライデンの鉄道は研究線なので、世界で最初に一般の客を乗せて営業する鉄道という名誉は、フランスへ。


 そこまで読んだところで、ルイ十四世が言いました。


「うまいことを書く」


 財務長官は答えませんでした。


「名誉は余へ渡す」


「はい」


「工事費も余へ渡す」


「……そちらも、はい」


「しかもパリまでだ」


 手紙を机へ置きます。


「面白い」


 財務長官は、少しだけ安心しました。


 王が面白いと言ったからといって、国庫から金が出ると決まったわけではありません。


 けれど、捨てられる話でもなくなりました。


「ひとつ足りぬな」


「何でございましょう」


「パリのどこから線を出す」


「そこまでは書かれておりません」


「決めていないのか」


「おそらく」


 ルイ十四世は、もう一度手紙を見ました。


「ならば、見に来るだろう」



     ◇ ◇ ◇



 どろちゃんは、もう見に行っていました。


 ただし、その日は誰も連れていません。


 タドポール君の後席には、大型航空カメラが入っています。


 人の座る場所はありません。


 フィルム。


 カメラ。


 支持架台。


 撮影に必要な機材。


 重量も確認しました。


 天候も確認します。


 パリまで飛び、何度か方向を変えて市街とその周辺を撮影し、そのまま帰る予定でした。


『今日は写真だけだな』


「うん。降りないよ」


『燃料は』


「往復しても大丈夫」


『ならいい』


 タドポール君が離陸しました。


 西へ向かいます。



     ◇ ◇ ◇



 パリへ近づくと、高度を保ったまま撮影に入りました。


 中心部だけではありません。


 セーヌ。


 橋。


 街道。


 市街地の端。


 まだ建物の少ない場所。


 水の集まりそうな低地。


 将来、町が広がりそうなところ。


 東へ抜ける交通路。


 一回で終わりません。


 方向を変えます。


 もう一度。


 少し離れて、別の角度から。


『ここは一枚多く撮っておいてもいいんじゃないか』


「うん」


 撮ります。


 後の時代ならパリ東駅ができ、その少し北東側にはシャトー=ランドンと呼ばれる場所があります。


 今は鉄道駅もありません。


 でも、町から東へ線路を出すなら、このあたりは候補になります。


 ただし、まだ決めません。


 空から町を見ただけでは分からないことがあります。


 土地の所有者。


 地面の状態。


 水。


 道。


 建物。


 住んでいる人。


 それは地上へ降りてからです。


 撮影を終えると、どろちゃんはパリへ降りませんでした。


 機首を東へ向けます。


 帰ります。


 フィルムを持って帰らなければなりません。



     ◇ ◇ ◇



 エルレンフェルトへ戻ると、カメラからフィルムを降ろしました。


 現像します。


 乾燥。


 焼き付け。


 何枚も並べます。


 これでようやく仕事に使えます。


 どろちゃんは、大きな机へ写真を並べました。


「やっぱり、こっちかな」


 指で追います。


 パリ中心部ではありません。


 町の東側です。


 ここなら、市街の中へ無理に線路を突っ込むより楽そうです。


 ただし写真へ線を書こうとして、また困りました。


「……書きにくい」


 ペンです。


 エルレンフェルトの工場でも、筆記具はいろいろ作りました。


 以前よりはよくなっています。


 でも、航空写真や地図へ細かな文字を書き、線を引き、色を変えながら大量に注記するとなると、どうしても未来の筆記具には届きません。


 インク壺はいりません。


 途中で線がかすれません。


 少しくらい傾けても書けます。


 乾くまで紙を持ち上げられない、ということもありません。


「ボールペン欲しいなあ」


 翌朝。


 箱が来ました。


「……神様、聞いてた?」


 開けます。


 筆記具がぎっしり入っていました。


 一本取り出します。


 アルファベットがあります。


 JETSTREAM。


「あ」


 知っています。


 ロシアにいたころも、筆記具は日本製か、日本ブランドのものを選んでいました。


 どこの国へ行っても、結局そちらへ戻っていました。


「これならいい」


 どろちゃんは一本出して紙へ書きました。


 滑ります。


「うん」


 それだけで満足しました。


 箱には、ほかにもありました。


 日本ブランドの定規。


 三角定規。


 いろいろな製図用品。


 それから、CASIOと書かれた関数電卓。


「十二個もある」


 プログラム電卓ではありません。


 けれど、統計計算もできます。


 数値微分も積分もできます。


 三角関数も対数もあります。


 太陽電池とCR2032の併用です。


 予備電池まで入っています。


 取扱説明書を開きました。


「あ」


 ナーロッパの言葉です。


 どろちゃん自身は、何語で書いてあっても読めます。


 でも、それでは配った先の人たちが読めません。


 ニュートンさんも。


 ろばーとっちも。


 ライデン大学の人たちも。


 これなら、そのまま読めます。


「神様ありがとう」


 どろちゃんは本気で感謝しました。


 機能の説明も。


 キーの押し方も。


 統計計算も。


 微分も積分も。


 全部を一冊ずつナーロッパ語へ訳すところでした。



     ◇ ◇ ◇



 関数電卓は独り占めしませんでした。


 ライデン大学へ。


 ろばーとっちへ。


 ニュートンへ。


 それぞれ回します。


 ただし一つだけ、かなり強く言いました。


「開けたらだめです」


 フックが電卓を裏返しました。


「電池を替えるときは?」


「そこだけ。ほかは開けないで」


「内部構造を見るのも?」


「だめ」


「なぜだ」


「戻せなくなるから」


 フックはもう一度電卓を見ました。


「これほど整ったものなら、内部も見てみたいが」


「ろばーとっちには特に言ってるの」


「私だけか」


「ニュートンさんにも言うよ」


 実際、ニュートンにも言いました。


 内部には細かな部品があります。


 キーをばらせば位置が分からなくなります。


 基板と液晶の間の接続を外せば、それだけで復旧できなくなるかもしれません。


 中を見て勉強するには、貴重すぎました。


 使った方がいい。


 それに、説明書があります。


 式を考えるのは人。


 数値を計算するのは電卓。


 そのくらいの使い方なら、研究を邪魔しません。


 むしろ速くなります。


 神様の箱には、もう一つ大量に入っていたものがありました。


 白いチョークです。


 HAGOROMO FULLTOUCH。


「これも日本だ」


 ライデン大学へ持っていきました。


 ろばーとっちにも。


 ニュートンにも。


 黒板へ書くと、線がきれいに出ます。


 粉が出ないわけではありません。


 でも、書きやすい。


 折れにくい。


 どろちゃんはたくさん配りました。


「これなら当分あるね」


 未来の大型機械ではありません。


 飛行機でもありません。


 薬でもありません。


 でも、研究室では毎日使います。


 そういうものほど、なくなると困ります。




     ◇ ◇ ◇



 パリへ行く日は、タドポール君ではありませんでした。


 今度はミツバチちゃんです。


 現像した航空写真を大きな箱に入れます。


 折り曲げたくありません。


 書き込み用の地図もあります。


 JETSTREAMの三色ペン。


 太さの違うものを合わせて十二本。


 定規。


 鉛筆。


 紙。


 机も積み込みました。


 ミツバチちゃんの客室は、今日は人をたくさん詰めて運ぶ形ではありません。


 中央に机があります。


 飛行中に動かないよう固定しました。


 席は、その周りで地図を見やすいように使います。


 フランソワさんも一緒です。


 右席へ座ります。


 操縦は、どろちゃんだけです。


 離陸しました。


 西へ向かいます。



     ◇ ◇ ◇



 パリ近郊へ着くと、以前から使っているグルネル側の平地へ降りました。


 今回は、写真を撮るためではありません。


 地面を見るためです。


 フランス側の役人が待っていました。


 道路。


 水路。


 市内の管理。


 それぞれ少しずつ分かる人たちです。


 護衛もいます。


 どろちゃんは、最初に写真を一枚見せました。


「今日は、このあたりから見たいです」


 市街の東側ではありません。


 まず中心部です。


 鉄道の場所を決める前に、町そのものを見たかったからです。


「鉄道ではないのでしょうか」


「鉄道も見るよ」


「も、でございますか」


「うん」


 フランソワさんは何も言いませんでした。


 この言い方をすると、だいたい仕事が増えます。



     ◇ ◇ ◇



 馬車で移動しました。


 途中で降ります。


「ここ、歩きます」


 役人が周囲を見ました。


 王宮ではありません。


 広い道でもありません。


 家があります。


 店があります。


 馬があります。


 荷車があります。


 道の端には水が流れています。


 流れているというより、溜まりながら少しずつ動いているところもあります。


 どろちゃんは端へ寄りました。


「お嬢様、裾が」


「あ」


 フランソワさんが先に気づきました。


「ありがとう」


 道の傾き。


 雨水の跡。


 溝。


 家の入口。


 水の出る場所。


 井戸。


 市場。


 どこに何があるか見ます。


「この水、どこへ行きます?」


「先の水路へ入り、その先はセーヌへ」


「井戸は?」


「向こうの通りです」


「どれくらい?」


 役人は少し考えました。


「測ったことはございません」


「じゃあ測ろう」


 どろちゃんは歩き始めました。



     ◇ ◇ ◇



 見たいものは、すぐ増えました。


 井戸。


 共同で水を取る場所。


 便所。


 汚物を一時的に溜めている場所。


 市場。


 肉を扱うところ。


 皮を扱うところ。


 染め物をするところ。


 馬が多く集まるところ。


 ごみを置いているところ。


 雨のあとに水が溜まりそうな道。


 その水がどこへ流れるか。


 セーヌのどこから水を取っているか。


 その上流には何があるか。


 下流には何があるか。


 どろちゃんは、紙を一枚使い切りました。


 もう一枚出します。


「お嬢様」


「なに?」


「お昼でございます」


「もう?」


「はい」


「あと一つ」


「先ほども、あと一つとおっしゃいました」


「あれとは別」


「存じております」


 フランソワさんは昼食を持たせていました。


 どろちゃんが忘れると思っていたからです。


 正解でした。



     ◇ ◇ ◇



 午後には、水も採りました。


 セーヌ。


 井戸。


 別の井戸。


 人の多い場所の近く。


 少し離れた場所。


 瓶には番号を書きます。


 場所。


 時刻。


 水の見た目。


 周囲の状況。


「これも持って帰られるのですか」


「一部は。パリでも調べられるようにしたい」


「水を、ですか」


「水だけじゃないよ」


 どろちゃんは、地図を開きました。


「病気になった人が、どの辺りに住んでいたかも記録したいの」


「病院の記録でしょうか」


「病院だけだと、病気になったあとしか分からないでしょう」


 役人が黙りました。


「同じ病気の人が多いところを地図に置くの。名前はいらない。場所と人数でいい」


「それで何が分かるのでしょう」


「井戸とか、水路とか、市場とか、何か一緒に見えるかもしれないでしょう」


 病気を地図に載せる。


 道路でもありません。


 軍でもありません。


 税でもありません。


 役人にとっては、少し変な地図でした。


 どろちゃんには、神様がこういうことまで気にしているように思えました。


 赤痢。


 コレラ。


 チフス。


 戦争でなくても、人はたくさん亡くなります。


 薬だけでは減らせない死もあります。


 水。


 排水。


 ごみ。


 人が密集する場所。


 そこまで変えないと減らないものがあります。



     ◇ ◇ ◇



 翌日。


 どろちゃんはヴェルサイユへ行きました。


 航空写真。


 地図。


 水を採った場所。


 井戸。


 排水。


 市場。


 駅の候補。


 まだ何も決めていない線。


 それを持っていきます。


 ルイ十四世は、最初に紙の束を見ました。


「余は、鉄道の話をするつもりでいた」


「はい」


「なぜ下水まで付いてきた」


「駅を作るからです」


「鉄道駅を作ると、下水が要るのか」


「人が増えるでしょう」


「それはそうだな」


「荷物も来る。馬も来る。お店も増える。家も増える。食べ物も来る。ごみも増える」


「それで町を調べたのか」


「はい」


「余の返事を待たずに?」


「だめでした?」


 ルイ十四世は少し黙りました。


「いや」


 手を振ります。


「もう驚かぬことにする」


 近くにいたトルシー侯が、少しだけ笑いました。



     ◇ ◇ ◇



 話は水から始まりました。


「陛下。まず、飲むお水を汚いものと混ぜない方がいいです」


「それは分かる」


「でも今は、途中で近くを通ったり、同じところへ流れたりするでしょう」


「全部を一度に直せ、と言うつもりか」


「それは無理」


 どろちゃんはすぐ答えました。


「古い町を全部壊して四角くするのも嫌です」


「余も、そこまでは言っておらぬ」


「でも、これから町が広がるところなら、先に決められます」


 写真を出しました。


 まだ建物の少ない場所です。


「ここなら、道を先に広く取れます」


「道か」


「その下に排水を通す」


 別の線を示します。


「飲む水は別」


「地下へ入れるのか」


「できるところは」


「詰まったらどうする」


「開けて掃除できるようにする」


 トルシー侯が、初めて少し身を乗り出しました。


「点検する場所を最初から作るのですか」


「はい。埋めて終わりにしたら、壊れたとき困るでしょう」


「かなり大きな工事になる」


 ルイ十四世が言いました。


「だから、家がいっぱい建ってからやるより今の方が安いです」


「余の金を心配しているのか」


「陛下が払うんでしょう?」


「そうだな」


 トルシー侯が、今度は本当に笑いました。



     ◇ ◇ ◇



 鉄道の駅も、市街のど真ん中へ入れる案にはしませんでした。


 後の時代のパリ東駅、その北東側のシャトー=ランドン付近にあたる一帯。


 今はまだ、未来ほど建物が詰まっていません。


「この辺りから東へ出すのがいいと思う」


「なぜルーヴルの近くまで入れぬ」


「家がいっぱいあるから」


「買えばよい」


「高いよ」


「そなたが言うのか」


「陛下のお金でしょう」


 トルシー侯が咳をしました。


 どろちゃんは写真を動かしました。


「こっちに駅を作る。大きい道も作る。荷物を置くところも作る。家も増やせる」


「新しい町を一つ造る気か」


「パリが大きくなる場所を、先に決めるだけ」


 町が広がる前なら、道路を確保できます。


 排水も入れられます。


 飲料水も入れられます。


 市場の場所も考えられます。


 既存市街を全部壊さなくて済みます。


「古い町の方は?」


「全部は無理。でも、ひどいところから直す」


「ひどい、とは」


「水が溜まる。道が狭すぎる。火事のとき逃げにくい。汚れた水が飲む水の近くへ行く。そういうところ」


「建物を壊すこともあるな」


「必要なら買います」


「買わぬ方法もある」


「だめ」


 どろちゃんは、そこだけすぐ答えました。


「住んでる人いるから」


 ルイ十四世は何も言いません。


「それに、移る場所を先に作った方がいいです」


 トルシー侯が頷きました。


「新しい区画を先に整える」


「うん。追い出してから考えたら困るでしょう」


 話は鉄道より長くなりました。



     ◇ ◇ ◇



 最後に、どろちゃんは別の地図を出しました。


 横に長い地図です。


 パリ。


 そこから東。


 ストラスブール。


「今度は、こっちを飛んで見たいです」


 ルイ十四世が見ました。


「鉄道か」


「はい」


 航空写真もあります。


 全部を同じ細かさで撮ったものではありません。


 線を通しやすそうなところは広く。


 川を渡る場所。


 町へ近づくところ。


 谷が細くなるところ。


 山へ入るところ。


 そういう場所は細かく。


 どろちゃんは、何枚かをトルシー侯の前へ置きました。


「トルシーさん、一緒に見に行きません?」


「私が、ですか」


「フランスの土地だから」


 トルシー侯は写真を一枚取りました。


「どこからでしょう」


「ここ」


 パリ東側。


 シャトー=ランドン付近。


「ここから予定してる線に沿って飛びます」


「ストラスブールまで?」


「はい」


「その後は」


「エルレンフェルトへ帰ります」


「帰る?」


「燃料入れるから」


 そこまでは、普通の相談でした。




     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 ミツバチちゃんは、パリ近郊で出発の準備をしていました。


 今回は大型航空カメラを積んでいません。


 写真はもうあります。


 客室には机。


 航空写真。


 書き込み用地図。


 定規。


 JETSTREAM。


 三色のものを、太さ違いで十二本。


 席は机を囲んで使えるようにしてあります。


 フランソワさんは右席です。


 客室にはトルシー侯。


 それから、フランス側の実務者。


 その予定でした。


 馬車が来ました。


 どろちゃんは、書類でも追加で届いたのだと思いました。


 人が降ります。


 ルイ十四世でした。


「あ」


「余も行く」


「え?」


「ストラスブールまで飛ぶのだろう」


「飛ぶけど」


「ならばよい」


「陛下を乗せる予定じゃなかったよ」


「乗れぬのか」


 どろちゃんは客室を見ました。


 席があります。


 重量にも問題ありません。


「乗れる」


「ではよい」


 トルシー侯は、何も言わず自分の書類を少し横へ寄せました。


 前にも似たことがありました。


「お昼ご飯、陛下の分ないよ」


「ストラスブールで食べればよい」


「降りないよ」


「ではエルレンフェルトで食べればよい」


「そこでも食べない」


 ルイ十四世が、少しだけ眉を動かしました。


「では、いつ食べる」


「そのあと、ライン川見に行くから。飛行機の中」


「聞いておらぬ」


「言ってないもん」


 トルシー侯が地図をもう一枚出しました。


 ライン川です。


「どこまででしょう」


「河口の方まで」


 トルシー侯は、一度だけ目を閉じました。


「承知しました」



     ◇ ◇ ◇



 ミツバチちゃんが離陸しました。


 パリが後ろへ下がります。


 どろちゃんは、予定していた場所へ機首を向けました。


 シャトー=ランドン付近。


 そこから東へ。


 客室では、航空写真と地図が机いっぱいに広げられています。


 JETSTREAMを一本ずつ渡しました。


 ルイ十四世は太めの赤を手に取りました。


「なぜ余が赤なのだ」


「陛下だから」


「理由になっておらぬ」


「一番偉い人、赤で直すでしょう?」


 トルシー侯は黒の細字を取りました。


 すぐに何か書き始めます。


「トルシーさん、何書いてる?」


「道路と、領主と、あとで確認が必要なところです」


「まだ飛び始めたばっかりだよ」


「ですから今から書きます」


 地図なら一本の線です。


 地上には人がいます。


 土地があります。


 領主がいます。


 橋があります。


 税があります。


 町があります。


 道があります。


 線を一本引けば、誰かが動きます。


 どろちゃんは、機体を安定させながら前を見ました。


「やっぱり、写真だけじゃ分からないね」


 後ろからトルシー侯の声がしました。


「そのために私をお連れになったのでしょう」


「うん。いっぱい書いてね」


「すでに書いております」



     ◇ ◇ ◇



 町を越えます。


 畑。


 林。


 川。


 道。


 また町。


 航空写真で広く見えた場所が、実際には少し低くなっていました。


『水を見ろ』


「うん」


 細い流れがあります。


 色の違う土地があります。


 雨の多い季節なら、様子が変わるかもしれません。


「写真番号、二十七」


 フランソワさんが後ろへ伝えました。


 紙が動きます。


「ここ、地上で調べたい」


 トルシー侯が書きます。


 ルイ十四世も赤で丸を付けました。


「そこ、陛下も気になった?」


「余も水が見えた」


「じゃあ同じ」


「少し嬉しそうに言うな」


「だって同じでしょう」


 また東へ進みます。



     ◇ ◇ ◇



 ストラスブールが見えてきました。


 ライン川。


 河港。


 これからレールを荷揚げする場所。


 東側から始まる鉄道工事。


 さらに西にはサヴェルヌ。


 その先には、これから穴を掘る山があります。


 ミツバチちゃんは降りません。


 上空から確認します。


「ここから先、東側の工事は先に始めるよ」


 トルシー侯が地図を見ました。


「西側が追いつくまで、ここだけ営業する」


「はい」


「客からお金取る」


「それも承知しております」


「世界で最初」


 後ろからルイ十四世の声がしました。


「そこは忘れぬ」


「よかった」


 機首を少し変えました。


 次はエルレンフェルトです。



     ◇ ◇ ◇



 エルレンフェルトへ着陸しました。


 燃料を補給します。


 どろちゃんは、まず残量と搭載量を確認しました。


 次はライン川沿いを長く飛びます。


 河口近くまで。


 そこからパリへ戻ります。


 給油している間に、ホテル棟から人が来ました。


 籠。


 容器。


 大きなポット。


 茶器。


 そして給仕さん。


 ルイ十四世が見ました。


「人まで乗るのか」


「お昼だから」


 ピロシキ。


 サンドイッチ。


 ジャム。


 紅茶。


 ホテル棟のレストランで用意してもらいました。


 量は少し多めです。


 予定外の王様が一人増えても、足ります。


「余の料理は」


「ないよ」


「ないのか」


「来るって言ってなかったでしょう」


「それはそうだな」


「みんな同じ」


 給仕さんは、国王を見て一瞬固まりました。


 でも仕事があります。


 機内へ荷物を固定します。


 茶器も固定。


 ポットも固定。


 自分の席もあります。


 離着陸のときや、揺れているときに立って給仕するわけではありません。


 着席。


 シートベルト。


 安定飛行になって、必要なときだけ立ちます。


 ミツバチちゃんは旅館ではありません。


 飛行機です。



     ◇ ◇ ◇



 再び離陸しました。


 今度はライン川です。


 机の上には、別の航空写真と地図があります。


 この川を、どう直せば船が通りやすくなるか。


 全部を水門で区切るつもりはありません。


 流せるところは流します。


 浅いところ。


 曲がりすぎているところ。


 分かれて船が通りにくいところ。


 必要なら浚渫。


 必要なら岸を整える。


 大きく曲がるところでは短絡水路も考える。


 ただし、地図に線を引くだけでは決めません。


 町。


 農地。


 排水。


 支流。


 港。


 堤防。


 全部を見ます。


「ここ」


 どろちゃんが言いました。


 フランソワさんが後ろへ場所を伝えます。


 トルシー侯は写真を見て、地図へ書きます。


「曲がりを切れば短くなりますが、こちらの村の水路との関係を確認する必要があります」


「じゃあ丸」


「赤ですか」


「赤は陛下」


 ルイ十四世が丸を付けました。


「余は印を付ける係なのか」


「重要なところに付けてるでしょう」


「そういうことにしておこう」


 別の場所です。


「ここ、浅い?」


「写真だけでは分かりません」


「あとで測る」


 トルシー侯が書き込みます。


 その横に、ルイ十四世がまた赤い印を付けました。



     ◇ ◇ ◇



 安定したところで、給仕さんが立ちました。


 昼食です。


 机の地図をいったん片側へ寄せます。


 全部しまうわけではありません。


 すぐにまた使います。


 ピロシキ。


 サンドイッチ。


 紅茶。


 どろちゃんの分は前へ運ばれました。


「ありがと」


 フランソワさんにもあります。


 トルシー侯にも。


 ルイ十四世にも同じものが置かれます。


 王はピロシキを見ました。


「これが余の昼食か」


「はい」


「皆と同じだな」


「同じだよ」


「王宮なら、そうはならぬ」


「ここ王宮じゃないもん」


「それもそうだ」


 一つ取ります。


 食べました。


 しばらく何も言いません。


「どう?」


「悪くない」


「ピロシキ?」


「昼食だ」


 紅茶が注がれました。


 ジャムを入れます。


「これも同じか」


「同じ」


 トルシー侯も同じものを飲んでいます。


 給仕さんも仕事が終わると、すぐ席へ戻りました。


 シートベルトを締めます。


 少し揺れました。


 そのままで正解でした。



     ◇ ◇ ◇



 ライン川を北へ進みます。


 川の姿が変わっていきます。


 流れが分かれます。


 低い土地が増えます。


 水路が増えます。


 川だけを直せばよい場所ではありません。


 堤防。


 排水。


 港。


 船。


 町。


 畑。


 海へ出る水。


 全部がつながっています。


「ここ、一本にしたらだめだね」


『そうだな』


「こっちの水、全部理由ある」


 未来の地図を知っているからといって、未来の形をそのまま作ればよいわけではありません。


 今の土地には、今の暮らしがあります。


 水路を消せば困る人がいます。


 流れを変えれば乾くところもあります。


 逆に水が溜まるところもあります。


 どろちゃんは、写真番号を伝えました。


 トルシー侯が書きます。


 書き込みは、もう地図の余白まで広がっています。


「トルシーさん」


「はい」


「いっぱい書いた?」


「かなり」


「見せて」


「まだです」


「なんで」


「飛行が終わってから整理します」


「そっか」


 ルイ十四世も赤いペンを使い続けています。


 最初は何を書けばよいと聞いていました。


 もう聞きません。


 気になる場所へ丸。


 別の場所へ線。


 横に短い言葉。


 空から見ると、地図だけでは分からなかったものが一度に見えます。


 川。


 町。


 道。


 水路。


 畑。


 港。


 全部です。



     ◇ ◇ ◇



 河口に近づきました。


 水が広がります。


 海へ向かう流れ。


 入り組んだ水路。


 低地。


 港へ使えそうな場所。


 どろちゃんは高度を保ったまま、しばらく見ました。


「ここまで」


 ルイ十四世が窓の外を見ています。


「降りぬのか」


「降りません」


「ネーデルラントへ寄ってもよいだろう」


「今日はパリに帰るの」


「余がいるからか」


「最初からそういう予定」


「ならばよい」


 機首を変えました。


 南西。


 パリへ戻ります。



     ◇ ◇ ◇



 帰りの機内でも、机は片づけませんでした。


 航空写真。


 地図。


 JETSTREAM。


 定規。


 赤。


 黒。


 青。


 行きよりずっと汚れています。


 正確には、汚れたのではありません。


 情報が増えました。


 丸。


 線。


 矢印。


 疑問符。


 地名。


 名前。


 確認する場所。


 地上で測る場所。


 交渉する相手。


 工事を急がない方がよい場所。


 トルシー侯は、まだ書いています。


「トルシーさん」


「はい」


「まだ書くの?」


「今のうちに書いておかないと忘れます」


「そうだね」


 どろちゃんも同じです。


 思い出せるつもりでも、あとになると混ざります。


 だから写真を撮ります。


 だから地図へ書きます。


 だから数字を残します。


 記憶だけで工事はしません。


 ルイ十四世が赤いペンを置きました。


「これは便利だな」


「ペン?」


「それもだ」


 机の上を見ました。


「空から見ながら、その場で決めぬところがよい」


「決めないよ」


「余なら、線を引いて終わらせると思ったか」


「ちょっとだけ」


「伯爵」


「はい」


「少しは遠慮せよ」


「はい」


 トルシー侯が、最後にもう一行書きました。



     ◇ ◇ ◇



 パリ近郊へ戻りました。


 着陸します。


 給仕さんも席。


 シートベルト。


 トルシー侯も。


 ルイ十四世も。


 フランソワさんは右席です。


 進入。


 接地。


 速度が落ちます。


 ミツバチちゃんが止まりました。


 客室では、最初に地図を片づけました。


 トルシー侯は、使っていたJETSTREAMを机へ戻しかけて、少し止まりました。


「伯爵令嬢」


「はい?」


「これは、いくつか分けていただくことはできますか」


「ペン?」


「はい。インク壺を使わず、これだけ細かく書けるのは助かります」


 どろちゃんは机の上を見ました。


 三色。


 太さ違い。


 機内用に十二本積んできています。


「いいよ。ここにあるのから持っていって」


「よろしいのですか」


「いっぱい来たから。太さ違うのもあるよ」


 トルシー侯は、少し試してから何本か選びました。


 今日一日使って、もう違いは十分に分かっています。


 トルシー侯が、自分の書き込んだ地図を持ち上げます。


「これは、こちらで写しを作ってもよろしいでしょうか」


「うん。でも原本もあとで見せてね」


「もちろんです」


 ルイ十四世が赤い印の多い地図を見ました。


「鉄道の話だけだったはずだな」


「最初はね」


「今は、鉄道、下水、水道、道路、駅、新しい市街、ライン川か」


「うん」


「まだ増えるか」


 どろちゃんは少し考えました。


「たぶん」


 トルシー侯は何も言いませんでした。


 その答えになることは、最初から分かっていました。



     ◇ ◇ ◇



 数日後。


 パリでは、下水と水道の調査をする人が増えました。


 鉄道の候補地を測る人も動き始めました。


 ストラスブール側では、東から進める工事の準備が続いています。


 ライン川では、航空写真と地図に赤い丸が増えました。


 まだ工事を始めない場所もあります。


 まず水深を測る。


 流速を見る。


 土地の権利を調べる。


 町の人へ聞く。


 港を使う人へ聞く。


 それから決めます。


 どろちゃんはエルレンフェルトへ戻ると、別の机へ写真を広げました。


 今度はライデン大学へ送る分です。


 水。


 鉄道。


 河川。


 都市。


 研究することが増えました。


 机の端には、神様から届いたJETSTREAMがあります。


 隣には関数電卓。


 さらに箱の中には、羽衣フルタッチ。


「便利だね」


 どろちゃんは一本取って、次の紙へ線を引きました。


 今度の線は、まだ誰の土地にも引いていませんでした。



     ◇ ◇ ◇



第54章の小さな説明



【パリの航空撮影】


 今回のパリ調査では、最初にタドポール君へ大型航空カメラを搭載して撮影します。


 大型航空カメラを搭載すると後席が機材で占有されるため、フランソワさんは同乗できません。どろちゃん一人で撮影飛行を行います。


 撮影後はパリへ着陸せず、そのままエルレンフェルトへ帰投します。フィルムを現像し、焼き付けた写真を検討してから、別の日に地上調査へ向かいます。



【パリへの二度目の飛行】


 地上調査では、大型航空カメラを積む必要がありません。


 そのためミツバチちゃんを使用し、フランソワさんも同行します。


 航空写真は折り曲げたくないため、箱に入れて運びます。客室は通常の多数旅客輸送ではなく、机を固定した移動会議室のような配置です。



【JETSTREAM】


 どろちゃんは十八世紀の筆記具を改良しようとしていますが、航空写真や地図へ大量の注記を行う用途では現代のボールペンに及びません。


 そこで神様から、日本ブランドのJETSTREAMが大量に届きます。


 今回の視察便には三色ペンを太さ違いで計十二本搭載し、航空写真と地図への書き込みに使います。


 同行したトルシー侯も使い勝手を気に入り、分けてほしいと頼むため、どろちゃんは機内積み込み分から何本かをそのまま譲ります。



【関数電卓】


 神様からCASIOの非プログラム型関数電卓が一ダース届いています。


 統計計算、三角関数、対数、数値微分、数値積分などの機能を備えています。


 電源は太陽電池とCR2032の併用で、予備のCR2032もあります。


 取扱説明書は最初からナーロッパ語で書かれています。どろちゃん自身は言語チートによって何語でも読めますが、配布先の研究者たちはそうではありません。ナーロッパ語なら、ライデン大学、ロバート・フック、ニュートンもそのまま読めるため、どろちゃんは全文を翻訳せずに済みます。


 ライデン大学だけでなく、ロバート・フックとニュートンにも分けます。


 ただし分解は禁止です。キー部品や液晶と基板の接続を外すと、十八世紀側では復旧が困難になるためです。



【羽衣フルタッチ】


 神様から大量に届いたチョークです。


 どろちゃんはライデン大学のほか、ロバート・フック、ニュートンにも分けています。



【パリの公衆衛生】


 神様は、赤痢、コレラ、チフスなど、戦争以外の感染症で亡くなる人々も気にかけています。どろちゃんへの医療・衛生・公衆衛生関係の支援には、その意図も含まれています。


 どろちゃんは鉄道駅だけを考えず、鉄道によって人口と物流が増えることを前提に、飲料水、排水、下水、道路、市場、廃棄物処理、新市街の区画まで一緒に考えます。


 既成市街を一度に壊して作り直すのではなく、将来市街化する場所を先に計画し、既成市街は必要性の高い場所から段階的に改善する方針です。



【パリ―ストラスブール予定線の視察】


 パリ東側、後世のパリ東駅からシャトー=ランドン付近にあたる一帯を起点候補として、ミツバチちゃんで予定線に沿ってストラスブール上空まで飛びます。


 トルシー侯が同行し、地図へ行政・権利・交渉上の注意事項を書き込みます。


 ルイ十四世は当初の予定にはありませんでしたが、自分も行くと言って乗り込みます。



【エルレンフェルトでの中継】


 ストラスブールでは燃料補給しません。


 ストラスブール上空を通過したあとエルレンフェルトへ戻り、そこで燃料補給を行います。


 ホテル棟のレストランから、ピロシキ、サンドイッチ、ジャム入り紅茶などの昼食と、給仕担当者を追加搭載します。



【機内での給仕】


 給仕担当者も乗員・乗客と同じく、離着陸や揺れのある場面では座席へ座り、シートベルトを着用します。


 安定飛行中に必要な時間だけ立って給仕し、終われば再び着席します。



【ライン川視察】


 エルレンフェルトからライン川沿いを北上し、河口付近まで飛びます。


 航空写真と地図を照合しながら、浅瀬、蛇行、分流、港、堤防、排水路、農地、町などを確認します。


 改良候補をその場で決定するのではなく、地上測量や権利関係の確認が必要な場所を地図へ書き込みます。


 河口付近まで確認した後、ネーデルラントへは着陸せず、そのままパリへ帰ります。


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