50貴族令嬢は、二日かけて皇帝陛下をお迎えします
第50章 貴族令嬢は、二日かけて皇帝陛下をお迎えします
ウィーンから戻って数日。
お父様の机には、また人の名前が並んでいました。
今回は四か国ではありません。
皇帝レオポルト一世。
皇帝のお付き。
それから、スペイン継承戦争へ自分たちの兵をまとまって送り出している帝国内の領邦や諸侯の代表。
ブランデンブルク=プロイセン。
プファルツ。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク、いわゆるハノーファー側。
ヘッセン=カッセル。
バーデン。
ヴュルテンベルク。
ヴュルツブルク。
ほかにも、帝国軍やクライスの兵力に関係する人たちがいます。
そこへ、戦場へ大きな独自戦力を出しているという理由ではなく、この説明を聞きたいと希望した有力な領邦の代表も加わりました。
全員で二十人です。
数十人の兵を出した小さな領主まで、一人ずつ代表を呼んだわけではありません。
そういうところまで数え始めたら、本当に終わらなくなります。
ただ、まとまった戦力を出している側には、皇帝陛下から出席を勧めてもらいました。
四か国の条約は、もうできています。
皇帝陛下が来ます。
帝国側へ説明する機会も作ります。
そこまで整ったところで来なければ、そのあとで「聞いていない」と言っても、少し苦しくなります。
◇ ◇ ◇
問題は、誰を呼ぶかではなくなりました。
今度は、どこへ泊めるかです。
「お父様。この人と、この人、どっちが上?」
「その聞き方をすると、たぶん話が長くなるよ」
「でも、お部屋を決めないと」
「だから、私も決めたくないんだ」
どろちゃんの前にはホテルの一覧があります。
スィート四室。
ファースト十室。
ビジネス二十室。
空いている部屋番号も書いてあります。
皇帝陛下をスィートへ入れる。
そこまでは、どろちゃんにも分かります。
その次から分かりません。
本人が伯爵でも、選帝侯の代理かもしれません。
本人が公爵でも、今回は別の資格で来るかもしれません。
聖職者でありながら領主でもある人もいます。
その人自身の爵位と、代表している相手の格が同じとは限りません。
おまけに、皇帝のお付きの中には、身分より仕事の都合で皇帝のすぐ近くに置いた方がよい人もいます。
「私には、もう分からないよ」
「私にも、間違えずに全部決める自信はない」
お父様は、ホテルの一覧を自分の方へ引きました。
「だったら、分かるところに決めてもらおう」
「皇帝陛下?」
「皇帝陛下の側だな」
お父様は新しい紙を用意させました。
客の名前は、書きません。
代わりに、ホテルの空いている部屋を全部並べます。
スィート。
ファースト。
ビジネス。
部屋番号。
隣り合っている部屋。
皇帝陛下のスィートから近い部屋。
書記や側近を近くへ置ける組み合わせ。
それをウィーンへ送りました。
「ここへ名前を書いて返してください、でいいの?」
「ああ。こちらが勝手に順位を付けるより、その方がずっといい」
「お父様、公爵なのに」
「公爵でも、余計な問題は作らない方がいいんだよ」
フランソワさんも名簿を見ました。
「私でしたら、三人目あたりでもう分からなくなります」
「私、一人目の次で分からなくなった」
「皇帝陛下の次でございますか」
「うん」
そこだけは、たいへん明快でした。
◇ ◇ ◇
返事は、ちゃんと戻ってきました。
送った一覧の空欄に、人の名前が入っています。
皇帝レオポルト一世。
スィート。
その近くにも、皇帝側が指定した人が入っています。
別のスィートにも名前があります。
ファーストにも。
ビジネスにも。
どろちゃんは上から下まで見ました。
もう一度見ました。
「……なんで、この人がこっちなの?」
「理由まで聞く必要はないよ」
「でも、こっちの人より偉そうな名前だよ」
「そう見えるだけかもしれないし、仕事の都合かもしれない。今回は皇帝陛下の側で決めてもらった。ホテルは、その通りに用意すればいい」
「分かった」
分からないまま、分かったことにしました。
少なくとも、どろちゃんが決めた順位ではありません。
それで十分です。
◇ ◇ ◇
部屋が決まると、カードも作れます。
ホテルのカードキーです。
一枚ずつ、割り当てた部屋を開けられるようにします。
ただし、それだけではありません。
カードそのものが、ホテルの中で誰なのかを確認するIDにもなります。
ホテルから丘の上の会議棟へは、斜行エレベーターでつながっています。
見た目だけなら、ホテルの廊下からそのまま会議室へ行けそうです。
でも、自由には行けません。
エレベーターを動かすところにもカードを使います。
到着しただけの人のカードでは、まだ会議棟へ上がれません。
会議の時間になって、入場を認められた人だけが使えるようにします。
「ホテルから出るのは?」
「自由だよ」
どろちゃんが聞くと、お父様が答えました。
「閉じ込めるためのカードではないからな。町へ行ってもいいし、水玉船へ乗ってもいい。会議棟へ勝手に入れないようにしているだけだ」
「じゃあ、先に来た人はストラスブール行けるね」
「時間が合えばな」
「一時間ごとに船あるよ」
「帰りの船を忘れないように言っておいてくれ」
ホテルから出るのは自由。
ケールへ行くのも自由。
ストラスブールへ渡るのも自由。
でも、会議室には入れません。
少し変なホテルです。
◇ ◇ ◇
二十人は、ミツバチちゃんで二日に分けて運ぶことになりました。
一日十人。
次の日も十人。
ウィーンからエルレンフェルトへ戻る便は、どちらも説明会の客で満席です。
ところが、その客を迎えに行くときは逆です。
エルレンフェルトからウィーンへ向かう客室十席が、全部空いています。
「空のまま飛ぶの、もったいないね」
どろちゃんが言いました。
「では、乗りたい方を募りますか」
フランソワさんが答えます。
「帰りはないけど」
「片道だけと最初からお伝えすればよろしいかと存じます」
お父様も反対しませんでした。
「どうせウィーンへ飛ぶんだ。荷物の制限と出発時刻を守れる人なら、席を売っても構わないよ」
前回の帝国代表団の輸送費とは、計算の仕方が違います。
あのときは、代表団を運ぶために飛ばした専用便でした。
今回は、誰も乗らなくてもウィーンへ行く飛行機の空席です。
かなり安くしました。
現代の価値へ換算すれば、一人およそ1000ドルの片道料金です。
帰りの席はありません。
ウィーンから自力で帰れる人だけです。
それでも、十席は埋まりました。
◇ ◇ ◇
一便目の朝。
ストラスブールから来た商人が数人。
ハイデルベルク方面から水玉船を乗り継いできた人も数人。
ウィーンで仕事をする人。
書類を持っていく人。
商談へ行く人。
遠くから来た商人の中には、ナーロッパの外で生まれた人もいます。
客室では、出発前からいくつもの言葉が聞こえていました。
どろちゃんは左席へ座りました。
フランソワさんは右席。
客室との扉は開いています。
「十人?」
「十人でございます」
「荷物は?」
「全部固定されています」
「じゃあ、案内するね」
どろちゃんは客室へ向けて話しました。
「本日はミツバチちゃんをご利用いただきありがとうございます。ウィーンまでの片道便です。離陸中と着陸中、それから揺れるところでは、必ず座ったままでいてください。荷物は動かさないでください」
まず、ナーロッパ共通語。
それで終わるつもりでした。
でも、後ろから聞こえていた言葉を思い出しました。
どろちゃんは、同じ内容を別の言葉でも話しました。
客室で何人かが顔を上げます。
もう一つ。
また別の言葉でも繰り返しました。
「お嬢様」
「なに?」
「いま、三つございましたね」
「後ろで聞こえたから」
「皆様、聞こえております」
「案内だから、聞こえた方がいいでしょう?」
「その意味では、たいへん正しいのでございますが」
後ろで小さく笑う声がしました。
エンジンが回ります。
ミツバチちゃんは草地を走り、浮きました。
◇ ◇ ◇
飛んでしまえば、馬車とは時間の流れが違います。
川が細くなります。
町が小さくなります。
道は線になります。
冬の山地へ近づくと、白いところが増えてきました。
今日は南寄りの山越えの航路です。
遠くまで雪の峰が並びます。
客室の人たちは、窓の外を見ています。
どろちゃんも前を見ながら、少し楽しくなってきました。
「右側に見えている白い峰は、標高およそ2700mです。現在、ミツバチちゃんは高度3300mを飛んでいます。谷底から見るより、山頂がずっと近くに見えます」
共通語。
それから、さっき客室で聞こえていた二つの言葉。
三回、同じ説明をしました。
「左下の谷は標高800mほどです。いまは谷底より2500mくらい高いところにいます」
また三回。
「お嬢様」
「うん?」
「だんだん観光案内になっております」
「せっかく見えるから」
「皆様も、かなり楽しんでおられるようでございます」
客室を見ると、本当にそうでした。
何日も馬車に揺られて山を越えるのではありません。
山の上を飛んでいます。
しかも、自分たちの言葉で山の高さまで聞こえてきます。
片道1000ドル相当。
どろちゃんは、安くしすぎたとは思いませんでした。
今日は、もともと空いていた席です。
◇ ◇ ◇
ウィーン郊外の草地へ降りると、十人の客は全員そこで降りました。
帰り便はありません。
最初から、その約束です。
待っていた馬車や迎えの人へ向かう者。
そのままウィーン市内へ行く者。
大きな商人の屋敷へ向かう者。
別れ際、客の一人がミツバチちゃんを振り返りました。
「帰りもこれなら、ずいぶん楽なのだが」
「今日はありません」
「分かっている。だから言ってみただけだ」
「バーゼルまで戻れたら、水玉船で北へ行けるよ」
「まずそこまでが遠い」
「うん」
飛行機の速さを知った直後なので、なおさら遠く感じます。
客がいなくなると、今度は皇帝側の人たちが来ました。
一便目の十人です。
皇帝陛下本人は、まだいません。
先に代表者と皇帝側の実務を扱う人が来ます。
明日、残りの十人と一緒に皇帝陛下が来る予定です。
◇ ◇ ◇
一便目の客は、遊びに来た商人たちとは違います。
みんな、何らかの資格で帝国側の説明を聞きに来ています。
プファルツ。
ブランデンブルク=プロイセン。
ハノーファー側。
ヘッセン=カッセル。
南西ドイツの領邦や、帝国軍の編成に関係する人たち。
全員をここで長く紹介する必要はありません。
名簿は、すでにお父様のところにあります。
荷物を積みます。
十人。
今度は無料の空席客ではありません。
皇帝側の説明会参加者です。
前回清算した輸送条件に基づく、公的な移動です。
「皆様、お席へお願いいたします」
フランソワさんが案内しました。
どろちゃんは操縦席で待ちます。
全員が座ります。
扉を閉じます。
帰りは、観光案内をしませんでした。
聞かれれば答えます。
でも今日は、まず安全にホテルまで運ぶ仕事です。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ戻ったのは、まだ午後でした。
飛行場には、お父様と会議棟の係が待っていました。
荷物を降ろします。
でも、ホテルへ直行はしません。
「明日お使いいただく場所ですので、先に会議棟をご案内いたします」
お父様がそう言って、十人を会議棟へ連れていきました。
どろちゃんとフランソワさんも一緒です。
翌日、どこから入り、どこで待ち、どの部屋を使うのか。
会議室。
控室。
休憩に使う場所。
便所。
ホテルへ降りる斜行エレベーター。
長い説明ではありません。
明日になってから建物の中で迷わない程度です。
ところが、代表たちは途中で足を止めました。
壁に、大きな写真があります。
前の四か国会議がすべて終わったあと、出席者がそろって撮った公式記念写真です。
会議棟には、その写真を大きく引き伸ばしたものが掲げられていました。
その周囲には、もう少し小さいといっても1mほどある額装写真が十枚ほど並んでいます。
各国の一行が到着したとき。
晩餐会。
舞踏会。
歓談しているところ。
そのほか、四か国会議の期間中に撮った写真です。
神様からいただいた航空撮影用カメラを、そのまま空から地面を撮るためだけに使っているわけではありません。
地上で人を撮るときは、レンズとボディーの間にスペーサーを入れて、近い距離へ焦点を合わせられるようにしてあります。
代表の一人が、写真を順番に見ました。
途中で、動きが止まります。
「こちらも、アン女王陛下ですか」
到着時の写真にいるアン女王。
そして、最後の公式記念写真にいるアン女王。
同じ名前が付いています。
でも、外見は大きく違います。
「はい。同じアン女王陛下です」
どろちゃんが答えました。
「会議の途中で、あの薬を?」
「薬かどうかは、私は今も分からないよ。アン陛下が、ご自分で飲まれたものだから」
それ以上は、今日ここで説明する話ではありません。
代表たちは、もう一度写真を見ました。
四か国の会議がここで本当に開かれ、もう終わっている。
写真を見れば、それだけでもよく分かります。
◇ ◇ ◇
見学が終わると、今度はホテルへ降ります。
斜行エレベーターは、一度に十人と全部の荷物を入れるためのものではありません。
人と荷物を分けながら、二回、三回。
お父様が自分のIDカードを使って動かしました。
ホテル側へ降りると、受付があります。
ロビーの壁にも、四か国会議終了後の公式記念写真が額装して掲げられていました。
会議棟の巨大版ほどではありません。
でも、ここへ泊まる人なら誰でも目に入ります。
受付で、一人ずつカードを渡します。
名前。
部屋。
カードキー。
そして、このカードは本人確認用のIDでもあります。
「明日は、このカードをお持ちください」
お父様が説明しました。
「客室の鍵としてお使いいただけます。ただし、今夜はこのカードだけで会議棟へ上がることはできません。明日の説明会に合わせて、会議棟への入場を有効にします」
一人が、いま降りてきた斜行エレベーターを振り返りました。
「先ほどは、これで降りてきましたが」
「私のカードで動かしました。皆様のカードには、まだ上へ行く権限が入っていません」
「なるほど」
「ホテルから外へ出ることには制限はありません。町へ出ていただいても、水玉船へ乗っていただいても結構です」
「ストラスブールまで?」
「時刻が合えば行けます。最終便だけご確認ください」
別の代表が笑いました。
「会議棟へは入れないが、フランスへは行けるのですな」
「会議棟は立入管理区域ですからね」
お父様も笑いました。
次はホテルの説明です。
朝食。
食事の場所。
夕食の選び方。
風呂。
呼び鈴。
カードをなくしたとき。
水玉船の乗り場。
翌日の集合時刻。
食事は、前の実務者会議と同じ程度です。
王様や女王様を集めた正式晩餐を、毎食やるわけではありません。
朝食は部屋へ。
会議中の昼食は参加者が同じ料理。
夕食はホテルへ戻って、それぞれ選べます。
必要な説明が終わりました。
「それでは、明日の集合時刻まではご自由にお過ごしください」
ここで、いったん解散です。
各自が自分の部屋へ向かいました。
まだ午後です。
そして、翌日の説明会までは時間があります。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
先着組のうち何人かは、本当に水玉船へ乗りました。
白い船体。
大きな水玉。
ケールへ行き。
そこからストラスブールへ。
会議はまだ始まっていません。
四か国の条約について質問するのも明日からです。
だったら、町を見てきても構いません。
ホテルへ残った人は、部屋で休みました。
夕食は、それぞれ好きなものを選びます。
温かいもの。
魚。
肉。
野菜。
パン。
甘いもの。
酒を飲みたい人には酒。
お茶を頼む人にはお茶。
先着組がストラスブールから戻るころには、ホテルの窓に灯りが並んでいました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
どろちゃんとフランソワさんは、またミツバチちゃんへ乗りました。
説明会参加者の残り十人を迎えに行きます。
そして、今日の復路には皇帝陛下が乗ります。
でも、往路の客室はまた空いています。
昨日と同じように、十席は売れていました。
ストラスブールから来た商人。
ハイデルベルク方面から、水玉船を使ってエルレンフェルトまで来た人。
ウィーンで商談をする人。
役所へ書類を届ける人。
昨日の客が帰ってきて評判を広めたわけではありません。
そんな時間はありません。
昨日ウィーンへ行った人たちは、まだウィーンにいるか、帰路へついたばかりです。
二便目の客は、二便目として最初から席を取っていた人たちでした。
「今日も三つ?」
フランソワさんが聞きました。
「後ろで聞こえたらね」
客室へ入る声を聞きます。
共通語。
別の言葉。
もう一つ。
「三つある」
「ございましたか」
「うん」
どろちゃんは、昨日と同じように案内しました。
安全の話。
片道便であること。
荷物を動かさないこと。
そして山地へ入ると。
また、標高の話まで始まりました。
「前方右側の峰は標高2900mほどです。現在の飛行高度は3500mです。白く見えるところが全部同じ高さではありませんので、近く見えても歩いて行こうとは思わないでください」
共通語。
二つ目。
三つ目。
「最後は必要でございましたか」
「山だから」
「そうでございますか」
客室から笑い声が聞こえました。
二日目も、観光案内付きになりました。
◇ ◇ ◇
ウィーンへ着きます。
十人が降ります。
その人たちの帰路は、それぞれです。
ミツバチちゃんの仕事は、ここで入れ替わります。
今度は、昨日とは少し空気が違いました。
馬車が増えています。
人の動きも整っています。
皇帝レオポルト一世が来るからです。
どろちゃんとフランソワさんも、いつもの旅行客を迎えるときより少しきちんと立ちました。
皇帝陛下が近づきます。
どろちゃんは礼をしました。
「陛下。エルレンフェルトまでお送りします」
「世話になる、公爵令嬢」
レオポルト一世は、後ろにいる人々と白い飛行機を見ました。
「二日に分けた理由は、これの席数だったな」
「はい。客室は十席です。昨日、先に十人お運びしました」
「昨日の十人は、もう着いているのだな」
「はい。ホテルにお入りいただいています」
「では、今日の我々で全員か」
「はい。二十人そろいます」
皇帝は、ミツバチちゃんを見上げました。
「これで十人ずつ運んだわけだな」
「はい。客室が十席ですから」
「分かりやすい理由だ」
皇帝は、少し笑いました。
◇ ◇ ◇
皇帝陛下だからといって、十一席目は増えません。
今日も十人です。
皇帝陛下。
皇帝のお付き。
残りの領邦代表。
全員が乗りました。
大きな儀礼用の荷物は持ち込みません。
数日の滞在に必要な衣類。
書類。
身の回りのもの。
それだけです。
後部扉が閉まります。
どろちゃんが左席。
フランソワさんが右席。
始動。
確認。
離陸。
ウィーンの草地が下へ離れました。
◇ ◇ ◇
皇帝陛下を乗せても、飛行機の操作は変わりません。
天気を見ます。
風を見ます。
山を見ます。
無理なら回ります。
待つ必要があれば待ちます。
今日は飛べます。
客室は、昨日の商人便より静かでした。
それでも、初めて飛行機へ乗る人が窓を見ないわけではありません。
皇帝も、ときどき外を見ています。
白い峰が近くなったところで、一人が尋ねました。
「いま、どれほどの高さにいるのです」
どろちゃんは計器を見ました。
「高度3400mです」
「下の山は?」
「あの峰で標高2600mくらいです。谷はもっと低いです」
「これほど上から帝国を見ることになるとは思わなかった」
後ろから別の声がしました。
どろちゃんは振り返りません。
前を見たまま答えます。
「地図と同じ形には見えませんよ。山が大きすぎますから」
皇帝はそれを聞いていました。
けれど、政治の話は始めませんでした。
今日は説明会ではありません。
まず、エルレンフェルトへ着くことです。
◇ ◇ ◇
午後。
ミツバチちゃんはエルレンフェルトへ戻りました。
草地の端には、お父様が待っています。
会議棟の係もいます。
機体が止まります。
エンジンが止まります。
後部扉を開きます。
皇帝陛下が降りました。
お父様が迎えます。
「陛下。エルレンフェルトへようこそお越しくださいました」
「招きに感謝する、公爵。ずいぶん早く着いた」
「馬車でお越しいただくよりは、かなり短くなりました」
「その代わり、山を上から見ることになった」
「娘が何か説明いたしましたか」
「高さまで聞いた」
お父様が、どろちゃんを見ました。
「聞かれたから答えただけだよ」
「そうか」
それ以上は言いませんでした。
◇ ◇ ◇
今日の十人も、ホテルへ入る前に会議棟を見学します。
明日使う場所です。
皇帝陛下だからといって、明日になってから建物の中を探して歩く必要はありません。
会議室。
控室。
休憩場所。
出入口。
そして、ホテルへつながる斜行エレベーター。
案内の途中で、皇帝陛下も写真の前に立ちました。
四か国会議終了後の巨大な公式記念写真。
その周囲に並ぶ、1mほどの額装写真。
到着。
晩餐会。
舞踏会。
歓談。
同じ建物で、少し前に何が行われていたのかが、そのまま残っています。
写真を順番に見れば、アン女王の姿が途中で大きく変わっていることも分かります。
皇帝陛下は、到着時の写真と最後の写真を見比べました。
「これが、アン女王なのだな」
「はい」
「こちらも?」
「同じアン陛下です」
皇帝は、しばらく二枚を見ました。
「ウィーンでも話は聞いた。しかし、写真を並べて見ると、ずいぶん違うものだな」
「私も、目の前で見ていてびっくりしたよ」
どろちゃんは、それ以上説明しませんでした。
あの瓶の中身を知っているわけではありません。
今日の目的も、アン女王の変化を検討することではありません。
◇ ◇ ◇
見学が終わると、ホテルへ降ります。
人と荷物を二回、三回に分けます。
今度はフランソワさんがIDカードを使いました。
斜行エレベーターが、会議棟からホテル棟へ下ります。
最後に皇帝陛下とお父様も降りました。
ホテルのロビーには、こちらにも四か国会議終了後の記念写真があります。
受付では、昨日と同じようにカードを一人ずつ渡します。
皇帝陛下。
スィート。
皇帝のお付き。
各領邦の代表。
部屋割りは、全部ウィーンから返ってきた表の通りです。
「このカードが客室の鍵でございます」
ホテルの係が説明しました。
「同時に、館内での本人確認にも使用いたします。明日の説明会には必ずお持ちください」
お父様が続けました。
「今夜は、皆様のカードだけでは会議棟へ上がれません。明日の時刻に合わせて権限を有効にします。ホテルからの外出は自由です」
皇帝陛下が、先ほど降りてきた方向を見ました。
「つまり、いま上から降りてきたが、自分のカードでは戻れないわけだな」
「はい、陛下。先ほどはフランソワのカードで動かしました」
「なるほど」
そこで、昨日の先着組の話も出ました。
「昨日のお客様の中には、水玉船でストラスブールへお出かけになった方もいらっしゃいました」
「そこまで行けるのか」
「はい。時間が合えば、十分に往復できます」
「会議棟よりフランスの方が入りやすいのだな」
皇帝陛下が笑いました。
今度は、聞く相手も場所もちゃんとあります。
◇ ◇ ◇
ホテルの使い方を説明します。
朝食。
夕食。
翌日の昼食。
風呂。
呼び鈴。
水玉船。
カードをなくしたときの手続き。
翌朝の集合時刻。
食事は前の実務者会議と同じ程度です。
十分に良いものを出しますが、四か国首脳会議の正式晩餐を毎食再現するわけではありません。
必要な説明が終わりました。
「それでは、明日の集合時刻まではお休みください。外へお出かけになる場合は、水玉船の最終便だけご確認ください」
お父様がそう言って、到着時の案内を終えました。
ここで解散です。
皇帝陛下はスィートへ。
お付きの人たちも、それぞれ指定された部屋へ。
残りの代表も、ウィーンで決められた部屋へ入っていきます。
どろちゃんはロビーで、その様子を見ていました。
「これで二十人?」
フランソワさんへ小声で聞きます。
「二十人、全員ご到着でございます」
「誰も増えてない?」
「増えておりません」
「よかった」
最後の荷物が運ばれます。
最後のカードが渡されます。
二便目の帝国代表も、全員ホテルへ入りました。
会議棟の写真も見ました。
明日使う場所も知っています。
部屋も決まりました。
説明会は、明日です。
◇ ◇ ◇
第50章の小さな説明
【今回の帝国側参加者】
今回は、神聖ローマ帝国に属するすべての領邦へ一律に代表を出させているわけではありません。
スペイン継承戦争で、独自のまとまった戦力を実際に送り出している主要な領邦や、帝国軍・クライス軍の編成に大きく関係する側については、皇帝レオポルト一世から説明会への出席を勧めてもらっています。
史実のこの時期の軍事記録でも、ブランデンブルク=プロイセン、プファルツ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク系、ヘッセン=カッセルなどの軍が連合軍側で活動しており、ライン方面ではバーデン、ヴュルツブルクなどを含む帝国側諸部隊も大きく動いています。
本文では、小領主が送った数十人規模の小部隊まで一つずつ独立した代表枠にはしていません。
また、直接の派兵規模とは別に、この新しい和平・通商枠組みを無視しにくい有力領邦からの希望参加者も加わり、皇帝一行を含めて二十人としています。
【部屋割りを皇帝側へ返してもらう理由】
神聖ローマ帝国内の序列は、本人の爵位だけでは単純に決まりません。
誰を代表しているか、どの資格で出席しているか、聖界諸侯か世俗諸侯か、皇帝の側近として近くに部屋が必要か、といった事情も関係します。
そのためエルレンフェルト側では順位を独断で決めません。
ホテルの空室一覧をウィーンへ送り、皇帝側で宿泊者名を書き込んでもらい、その割当表をそのまま使っています。
皇帝レオポルト一世はスィートです。
【到着時の会議棟見学と斜行エレベーター】
参加者は飛行場からホテルへ直行せず、翌日使う会議棟を先に短時間見学します。
会議室、控室、休憩場所、出入口などを確認したあと、会議棟とホテル棟を結ぶ斜行エレベーターでホテルへ降ります。
十人と荷物を一度に詰め込まず、二回から三回に分けて運びます。
到着時は、お父様またはフランソワさんのIDカードでエレベーターを動かします。
【写真展示】
会議棟には、四か国会議終了後に全出席者で撮影した公式記念写真の巨大プリントがあります。
その周囲には、到着時、晩餐会、舞踏会、歓談などを撮影した1mほどの額装写真が約十枚あります。
ホテルのロビーにも、同じ公式記念写真を通常の額装サイズで掲示しています。
撮影には神様から供給された航空撮影用カメラを使用し、地上の人物撮影ではレンズとボディーの間にスペーサーを入れて近距離へ焦点を合わせられるようにしています。
到着時などの写真と、会議終了後の公式記念写真を見比べると、アン女王の外見が会議の途中で大きく変化したことも分かります。
【カードキーと斜行エレベーター】
ホテルのカードキーは、客室の鍵であると同時に、本人を識別するIDカードとして使います。
ホテル棟と丘の上の会議棟は斜行エレベーターで直接つながっていますが、カードに会議棟への入場権限がなければ利用できません。
そのため到着時には管理者側のカードでホテルへ降りますが、宿泊者自身のカードで今夜すぐ会議棟へ戻ることはできません。
これは宿泊者をホテルへ閉じ込める仕組みではありません。
ホテル玄関から外へ出ること、水玉船へ乗ること、町へ出ることは自由です。
管理しているのは、会議棟への入場です。
【二日間のウィーン便】
ミツバチちゃんの客室は十席です。
説明会参加者二十人を、ウィーンから二日間、十人ずつ運びます。
ウィーンからエルレンフェルトへ戻る便は二日とも参加者で満席ですが、迎えに行くエルレンフェルト発ウィーン行きには十席ずつ空席があります。
そこで、この二十席だけを片道の有料席として販売しました。
料金は現代価値換算で一人約1000ドルです。
前回の帝国代表団輸送は、その代表団のために飛ばした専用便だったため、馬車で同じ一行を運んだ場合の諸経費を基準に清算しました。
今回は、乗客がいなくても皇帝側参加者を迎えにウィーンまで飛ぶ便です。
そのため空席料金は大幅に安くしています。
帰りの席はありません。
ストラスブールから来た非ヨーロッパ系商人や、ハイデルベルク方面から水玉船で乗り継いだ旅客などで、二日とも十席が埋まりました。
【三言語の機内案内】
どろちゃんは、客室で聞こえていた言葉に合わせ、ナーロッパ共通語に加えて二つの言語でも安全案内を行います。
さらに山地へ入ると、飛行高度と目の前の山の標高まで同じ三言語で案内し始めます。
これは定期航空会社として用意されたサービスではありません。
どろちゃん本人が途中から楽しくなって始めたものです。
二日目の乗客が前日の評判を聞いて乗ったわけでもありません。
一便目の客が陸路でライン方面へ戻るには何日も必要なので、翌朝までに評判が戻る時間はありません。
【先着組の自由時間と食事】
一便目の十人は、二便目が到着するまで自由時間があります。
ホテルから外出することは制限されていないため、水玉船の時刻が合えばケールやストラスブールへ出かけられます。
食事の扱いは、以前の実務者会議と同じ程度です。
朝食は部屋へ届け、会議中の昼食は参加者全員が同じものを食べ、夕食はホテルで各自が選びます。
四か国首脳を集めた正式晩餐のような特別な食器・長い儀礼料理を毎食用意する形式にはしていません。




