49皇帝陛下のところへ、紙を三つ持っていきます 神聖ローマ帝国 カオス国家と交渉です
第49章 皇帝陛下のところへ、紙を三つ持っていきます
ろばーとっちとニュートン先生をイングランドへ送り届けて、エルレンフェルトへ戻った翌日。
食堂の大きな机には、また紙が広がっていました。
エルレンフェルト条約の控え。
二回の会議にかかった費用の帳簿。
神聖ローマ帝国側から来た代表団の宿泊記録。
そして、南の伯爵領の地図です。
会議が終わったから、紙も片づく。
そうはなりませんでした。
◇ ◇ ◇
フランソワさんがお茶を置いたところで、お父様が声をかけました。
「フランソワ、少し時間はあるか」
「はい、公爵閣下」
「それなら一緒に聞いておいてくれると助かる。今度の皇帝陛下の話は、お前にも無関係ではないからな」
フランソワさんは一瞬だけ自分を見ました。
侍女の服です。
けれど、いまは男爵でもあります。
「私も、でございますか」
「ああ。男爵になったから明日から帝国政治に詳しくなる、というわけでもないだろう?」
「残念ながら、そのようなことはございません」
どろちゃんが笑いました。
「私も詳しくないよ」
「お嬢様は、詳しくないまま会議を始めてしまわれますので」
「それ、褒めてないね」
「褒めてはおりません」
お父様も少し笑いました。
「では、そこからにしようか。ドロテーヤも、確認のつもりで聞いてくれ」
「うん」
お父様は条約の控えを机の中央へ置きました。
「まず、皇帝陛下は皇帝陛下だ。そこは間違いない。ただ、ルイ陛下がフランスについて持っている権限と、同じものを帝国全体について持っているわけではない」
フランソワさんが条約を見ます。
「皇帝陛下がお命じになっても、帝国全体がそのまま従うわけではない、ということでございますか」
「そう考えた方が近いな。帝国の中には、選帝侯もいる。大きな公爵や諸侯もいる。司教領もあれば、自由都市もある。私たちのように古くから自分の領地を治めている者もいる。それぞれが持っている権利まで、皇帝陛下一人の判断で好きに動かせるわけではない」
「では、今回の戦争についても」
「帝国の中が一枚になっているわけではないよ。バイエルンのように、皇帝側ではなくフランス側へ付いたところまである」
フランソワさんは少し考えました。
「それでは、先日の会議へ皇帝陛下が最初からお越しになっていたとしても、帝国すべてについて署名できたとは限らないのでございますね」
「その通りだ」
どろちゃんが条約の帝国に関する部分を開きました。
「だからミトロヴィッツさんは、見て、話を聞いて、署名はしたけど、帝国全部を縛る署名にはしなかったんだよね」
「ああ。そこは条約にも書いた。四か国の和平は、もう四か国の間で成立している。皇帝陛下が後から来られるからといって、もう一度ルイ陛下やアン陛下たちを集める必要はない」
「よかった」
お父様がどろちゃんを見ました。
「そこは本当に安心した顔をするな」
「またみんな運ぶの大変だもの」
「それも分かるが、外交上も呼ぶ理由がないんだ」
「分かってるよ」
フランソワさんが尋ねました。
「では、皇帝陛下には、何をお願いするのでございますか」
「お願いというより、整理だな」
お父様は指で紙を二つに分けました。
「もう決まったことと、まだ決まっていないことを分けて説明する。四か国の敵対行為の終結、通商の原則、条約当事者どうしで引き受けたことは、もう済んでいる」
「はい」
「帝国側で何をするか。皇帝陛下御自身の権限でできることは何か。帝国諸身分と話さなければならないことは何か。そこから先は、帝国側で整理してもらう」
どろちゃんが言いました。
「皇帝陛下を五人目に足すんじゃないんだね」
「そういうことだ。前の机へ椅子を一つ増やせば済む話ではない」
フランソワさんはゆっくりうなずきました。
「ようやく分かってまいりました。皇帝陛下はたいへん偉い方ですけれど、帝国そのものを一人で所有しておられるわけではないのでございますね」
「それでいい」
「王様と皇帝って、名前だけ見たら皇帝の方が何でもできそうなのにね」
「名前の大きさと、実際に動かせるものの大きさは同じではないよ、ドロテーヤ」
「うん」
説明が一つ終わりました。
でも、今日の机には、まだ二つ仕事が残っています。
◇ ◇ ◇
「こっちは請求書?」
どろちゃんが厚い束を持ち上げました。
「ああ。二回分だ」
第一回の実務者会議。
第二回の四か国会議。
帝国側から来た一行は十人。
一回につき六泊。
二回で、120人泊です。
実際に使った客室は五室。
ミトロヴィッツ伯と秘書が使った上級の客室が一室。
ほかの八人が二人ずつ使った客室が四室。
二回合わせて、五室を十二泊分使っています。
食事もあります。
十人。
一日三食。
十二日分。
会議中の茶や飲み物。
書類の写し。
書記。
会議場の事務。
そして、ミツバチちゃんによる専用送迎です。
ウィーンとエルレンフェルトの間を、来るときと帰るとき。
それを二回。
およそ2400kmの専用航空輸送になります。
「これ、皇帝陛下に渡すの?」
「皇帝陛下へ請求するわけではないよ。帝国側の代表団にかかった経費だから、帝国側の会計へ出す」
「でも持っていく」
「持っていく。ミトロヴィッツ伯の一行が二度こちらへ来たことは、向こうでも確認できるからな」
フランソワさんが明細を見ました。
「航空輸送だけ、かなり性質が違いますね」
「そうだな。宿泊なら宿泊、食事なら食事で向こうにも比較するものがある。飛行機は、向こうに比較するものがない」
「馬車何台分、ではだめ?」
どろちゃんが聞きました。
「六百数十kmを数時間で運んだ仕事を、馬車の一日料金だけで比べても意味が薄いだろう」
「じゃあ高くしていい?」
「そういう話でもない」
「難しいね」
「だから明細にしてある。何人を、どこからどこまで、何回運んだか。それを見てもらって話す」
どろちゃんは紙を戻しました。
「払わないって言ったら?」
「そのときは、そのとき話すよ。まだ言われてもいないことで心配しても仕方がない」
「うん」
請求書は一つ。
次は地図です。
◇ ◇ ◇
南の伯爵領。
伯爵本人はいません。
戦争の途中で捕らえられ、その後も領主として戻ってはいません。
領地は当分の間、皇帝側の直接管理になっています。
以前、この土地をエルレンフェルトへ編入してはどうか、という話が出たことがありました。
お父様は断りました。
便利だからという理由だけで、他人の領地をただでもらうつもりはなかったからです。
けれど、今度は少し違います。
地図には、南伯爵領全部ではなく、その北西側の一部だけが囲われています。
現在のエルレンフェルト領へ接する部分から、少し広い平地まで。
面積はおよそ10km²。
約1000haです。
半分ほどが森と湿地。
残りが農地です。
村そのものは、できるだけ線の外へ出してあります。
どろちゃんは、地図の端から端まで指を動かしました。
「ここまで買えたら、ちゃんと今の領地につながるね」
「ああ。飛び地にする意味はないからな」
「でも、何に使うかは書かないんだよね」
「書く必要がない」
お父様は土地査定の紙を見ました。
「こちらが買いたいのは、この範囲の土地と、それに伴う領主権だ。買ったあと何に使うかまで、売り手に決めてもらう話ではない」
「まだできるかどうかも分からないしね」
「そういうことだ。土地を買って、調べてみたら予定していた使い方に向かないことだってある。排水も、地盤も、風も、もっと詳しく見なければ分からない」
どろちゃんの頭の中には、3000mの長い滑走路があります。
けれど、それはエルレンフェルト側の計画です。
皇帝側へ出す購入申入れには書きません。
広い隣接地を買いたい。
境界はこのあたり。
現在の利用者と権利関係は尊重する。
値段はこちらで査定した。
それだけです。
「向こうが、買ったあとフランスへ売られたら困るって言ったら?」
「それは条件にできる。こちらもそのつもりはないからな」
「用途を決められるのとは違うね」
「違うよ。取得したあと何に使うかと、領土を第三国へ渡さない約束は別の話だ」
フランソワさんが地図を見ました。
「個人が畑を一枚買うお話とは、やはり違うのでございますね」
「違うよ。代金を払うという点では売買だが、動くのは土地だけではない。境界と領主権も動く」
「そのような売買は、珍しいのでございますか」
「領地を金銭で取得すること自体は、別に初めてのことではない。うちだって、今まで境界が広がったところは買った土地が多い」
どろちゃんが言いました。
「戦争で取るよりいいよ」
「少なくとも、欲しいから戦争を始めるよりはずっといい」
お父様は地図の上へ手を置きました。
「ただし、売り手の言い値で買う理由もない」
「そこ大事」
「ああ。土地台帳と収益を調べて、こちらで見積もりを作った」
農地。
牧草地。
森。
湿地。
薪。
水路。
地代。
そこから維持と管理に必要だった分を引きます。
これまで土地が実際に生み出していたものを基準にして、二十年余り分。
それがエルレンフェルト側の最初の査定です。
将来、この土地に何を造るか。
それによって価値がどれほど上がるか。
そんな数字は入っていません。
「これで出す?」
「まずはこれで話す」
「向こうがもっと高く言ったら?」
「根拠を聞く」
「それでも高かったら?」
「買わない」
「すごく普通だ」
「買い物だからな」
フランソワさんが少し笑いました。
「公爵閣下がなさいますと、領土のお話でも商人とのお取引に聞こえてまいります」
「実際、値段を決めるところは似ているよ。ただ、契約が終わったあとに国境線まで動くところが違う」
お父様は、請求書と土地査定書を離して置きました。
「それから、この二つは絶対に混ぜない」
「請求書と土地?」
「そう。会議費用は帝国側がこちらへ払う。土地を買えたなら、土地代はこちらが払う。相殺はしない」
どろちゃんも分かりました。
「請求書を払えないなら土地をください、みたいにしないんだ」
「そんな取引に見せる必要がないからな」
三つの書類が揃いました。
条約。
請求書。
土地購入の申入れと査定書。
今度は、これを持ってウィーンへ行きます。
◇ ◇ ◇
出発の日。
ミツバチちゃんの後部扉から書類箱を積みました。
条約の控え。
二回分の請求関係書類。
土地購入申入れ。
査定書。
地図。
どの箱へ何を入れたか、フランソワさんが一覧にしています。
どろちゃんが左席。
フランソワさんが右席。
お父様は客室です。
「お父様、忘れ物ない?」
「それを娘に聞かれる日が来るとは思わなかったな」
「私、最近は忘れてないよ」
「最近は、か」
「今日は大丈夫」
「私も大丈夫だよ」
どろちゃんは前を向きました。
エンジンを始動します。
今日は皇帝陛下を空へ連れてくる日ではありません。
まず、皇帝陛下へ来てもらえるかを聞きに行く日です。
ミツバチちゃんは草の滑走路を走り、東へ向かいました。
◇ ◇ ◇
ウィーン郊外。
以前から使っている草地へ降ります。
ここはエルレンフェルト家が購入済みです。
町の外。
屋敷から馬車で来られる距離。
地上には迎えの馬車が待っています。
近くには2kLの神様の燃料容器もあります。
着陸後。
機体を確認。
異常なし。
書類箱を降ろします。
お父様が草地へ立ち、東の町を見ました。
「ここを買ったときは、まさか何度も飛行機で来ることになるとは思わなかったな」
「便利でしょう?」
「ああ。これは本当に便利だ」
「じゃあ南の土地も」
「まだ買えていないよ、ドロテーヤ」
「分かってる」
「ならいい」
お父様は笑って、馬車へ乗りました。
◇ ◇ ◇
ウィーンのタウンハウス。
大使館ではありません。
宮殿でもありません。
エルレンフェルト家の者がウィーンで仕事をするときに使う、小さな町の家です。
お父様は何度も使っています。
最低限の使用人がいて、書類を置く部屋もあります。
客を通すこともできます。
どろちゃんの部屋もあります。
到着すると、お父様は着替えました。
フランソワさんと一緒に、持ってきた書類を最後に確認します。
「条約関係、こちらでございます」
「ありがとう」
「請求書はこちら。土地関係はこちらでございます」
「分けたままで頼む」
「はい、公爵閣下」
どろちゃんはソファから見ていました。
「私も行く?」
「今日は私が話してくるよ」
「皇帝陛下に会わないの?」
「会う機会はまたある。今回は条約の説明と招請、それから帝国側の実務の整理だ。人数を増やす必要はないだろう」
「じゃあ待ってる」
「町へ出ても構わないよ。ただ、夕方には戻っていてくれるとありがたい。今日の話を忘れないうちに整理したいからな」
「うん。戻る」
お父様は手袋を持ちました。
そこで、どろちゃんを見ました。
「土地は、今日決まらなくてもがっかりするなよ」
「1000haだものね」
「そう。境界も権利もある。一日で売買証書まで作れると思わない方がいい」
「でも、売らないって言われたらがっかりするよ」
「それは私も同じだ」
「じゃあ一緒」
「ああ。そこは一緒だな」
「いってらっしゃい、お父様」
「行ってくる」
馬車が出ていきました。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは少しだけ町へ出ました。
前にも見た教会。
ペストの柱。
店。
馬車。
大きな町です。
今日は誰かに呼び止められることもありませんでした。
患者も増えません。
薬を取りに走ることもありません。
何も起こらない日のウィーンでした。
午後のうちにタウンハウスへ戻ります。
フランソワさんも戻っていました。
「まだ?」
「まだでございます」
「長いね」
「皇帝陛下とのお話だけではございませんので」
「請求書の人と、土地の人もいる」
「はい」
「値切ってるかな」
「それは、お戻りになってから伺いましょう」
「うん」
外が暗くなり始めたころ。
馬車が止まりました。
玄関の扉が開きます。
お父様が帰ってきました。
「おかえり、お父様」
「ただいま」
「公爵閣下、お疲れ様でございました」
「ありがとう、フランソワ。少し楽な格好になってから話そう」
急かさなくても、結果は逃げません。
しばらくして、三人は食堂へ集まりました。
お父様が水を飲みます。
どろちゃんは待ちました。
今日はちゃんと待てました。
「さて」
お父様が言いました。
「どこから聞きたい?」
「皇帝陛下」
「やはりそこか」
「来る?」
「来てくださるそうだ」
どろちゃんの顔が明るくなりました。
「エルレンフェルトに?」
「ああ。ただし、前の四か国会議へ参加するためではない。その点は皇帝陛下とも確認した」
「もう終わった会議だもの」
「そうだ。四か国の条約は発効済み。皇帝陛下には、条約の内容と、帝国側に関係する部分を改めて説明する。そこから先は別の話になる」
フランソワさんが確認しました。
「では、フランス国王陛下やイングランド女王陛下を、再びお招きすることはないのでございますね」
「ないよ。帝国側の整理のために、四か国へもう一度同じ会議をやり直してもらう理由はない」
「安心いたしました」
「フランソワまで?」
「お嬢様が皆様を再びお運びになる日程を考えておりましたので」
「やっぱりそこなんだ」
「実務は大事だよ」
「お父様まで」
三人とも少し笑いました。
◇ ◇ ◇
「次は請求書だ」
お父様が一枚の紙を出しました。
フランソワさんへ渡します。
「これは、受領書でございますね」
「ああ。二回分、正式に受け取られた」
「払うって?」
「宿泊、食事、会議事務、書記、文書作成については大きな異論はなかった。人数も滞在日数も、帝国側に記録がある」
「飛行機は?」
「そこだけ少し時間がかかる」
「高い?」
「高い安いの前に、比較するものがないそうだ」
「やっぱり」
「馬車でも船でもない。しかも二回で約2400km、十人を専用で運んでいる。航空輸送だけは項目を分けたまま、会計側で確認することになった」
「払わない、じゃないんだね」
「違う。請求書そのものは正式に受理された」
「じゃあ、待てばいいね」
「そういうことだ」
お父様は次の紙を広げました。
◇ ◇ ◇
「土地は?」
どろちゃんが聞きました。
「売買の交渉に入ることは認められた」
「売ってくれる?」
「まだそこまでは決まっていない。でも、売却そのものを拒否されたわけではない」
地図が開きます。
約10km²。
森と湿地が半分ほど。
残りが農地。
現在のエルレンフェルト領へ続く形です。
「土地の条件は?」
「取得したあと何に使うかまで、向こうが決める話にはならなかったよ。再譲渡については、こちらが受け入れられる範囲で条件を詰めることになった」
「それならいいね」
「値段は?」
「向こうの最初の評価は、こちらより三割ほど高かった」
「高い」
「だから決めてこなかった」
「値切った?」
「こちらの査定根拠を渡して、向こうの根拠も出してもらうことにした。値切るにしても、ただ『安くしてくれ』では話にならないからな」
「農地と森と湿地を分けて?」
「ああ。地代、収益、森林利用、水路、道。それから権利を持っている者の確認もする。共同で現地を見てから、もう一度値段を決める」
フランソワさんが尋ねました。
「現在耕作している方々は、どうなるのでございますか」
「土地を買ったからといって、全部追い出すつもりはない。こちらの利用と重ならない場所は、従来どおり使ってもらえばいい。必要な補償が出る場所は、その分を別に扱う」
「では、まだかなり確認が必要でございますね」
「そうなる」
どろちゃんは地図の南側を指しました。
「新しい領主は?」
「交渉が終わるまでは、こちらが購入を申し入れている範囲を含む形で急いで新領主を決めないようにしてもらった」
「よかった」
「それから、今続いている道の利用と交易も、当面はそのまま」
「ピーナッツも?」
「来るよ」
どろちゃんは本当に安心しました。
「小鳥ちゃん、飛べる」
「皇帝陛下には、その説明まではしていないよ」
「言えば面白いのに」
「ドロテーヤ」
「はい」
「カビたピーナッツで娘がロケット飛行をする話を、土地交渉へ追加して有利になると思うか?」
どろちゃんは少し考えました。
「ならない」
「私もそう思う」
フランソワさんが口元を押さえました。
笑わないようにしているようでした。
◇ ◇ ◇
今日の結果を並べます。
皇帝陛下は、エルレンフェルトへ来る。
ただし、すでに終わった四か国会議へ五人目として加わるのではありません。
二回分の帝国代表団の請求書は正式に受理されました。
航空輸送費だけは、比較するものがないので会計側がまだ考えています。
南伯爵領のうち約10km²については、売買交渉そのものが始まりました。
値段は、まだ合いません。
だから、まだ買いません。
「一日で、ずいぶん進んだね」
「一日なら十分だよ」
お父様は椅子へ少し深く座りました。
「皇帝陛下に来ていただく話を始めて、請求書を出して、土地の売買交渉にも入った。もっとも、私の仕事は明日からの方が増えそうだな」
「まだあるの?」
「あるよ。皇帝陛下がお越しになる日を決めなければならないし、帝国側からも問い合わせが来ている」
フランソワさんが尋ねました。
「では、すぐにエルレンフェルトへ戻るのではないのでございますか」
「そのつもりはない。数日はウィーンにいた方がいいだろう。皇帝陛下の御予定と、こちらで受け入れられる日を合わせないといけないからな」
どろちゃんは少し考えました。
「じゃあ、私たちは暇?」
「私の仕事へ一日中付き合いたいなら止めないよ」
「音楽、聞きに行こうかな」
「それはよいと思う」
お父様は笑いました。
「せっかくウィーンまで来たんだ。私が戻る時間だけ分かるようにしておいてくれれば、それでいい」
「うん」
フランソワさんも、少しだけうれしそうでした。
◇ ◇ ◇
翌朝から、お父様の予想は当たりました。
皇帝側との日程調整だけではありません。
帝国内の諸侯や、その代理人から話を聞きたいという連絡が次々に入ります。
ある家は、四か国の条約が自分たちにも及ぶのかを知りたがりました。
別の家は、フランスとの通商がどうなるのかを聞きたがりました。
また別の使節は、皇帝陛下が何を承認したのかを確かめに来ました。
一人帰ると、次が来ます。
午後になっても終わりません。
どろちゃんは、最初の二組ほどを同じ部屋で聞いていました。
お父様の返事は、相手によって少しずつ言い方を変えても、基本は同じでした。
「四か国の間で成立した条約は、すでに発効しております。帝国全体を拘束する条約として作ったものではありません」
「では、我々はどう扱われるのでしょう」
「そこを個別に違う形でお話しすると、かえって分かりにくくなります。皇帝陛下がお越しになる日に、帝国側に関係する部分をまとめて説明いたします。ご都合がつくようでしたら、その際にお越しください」
次の人にも。
その次の人にも。
お父様は、ほとんど同じところまで説明しました。
誰か一人とだけ別の約束をすることはしません。
すでに終わった四か国会議を、相手が来るたびにもう一度始めることもしません。
「お父様、これ何回言うの?」
客が途切れたところで、どろちゃんが聞きました。
「私も数えなくなったよ」
「みんな一緒に来ればいいのに」
「だから、そのようにお願いしているところだ」
お父様は新しい紙を見ました。
「皇帝陛下の側とも、ようやく候補日が二つまで絞れた。随員の人数も確認している。諸侯の方々には、同じ日に来られるよう案内を出してもらう」
「説明会だね」
「ああ。和平会議をやり直すのではなく、決まったものを説明する会だ」
フランソワさんも、今度は迷わずうなずきました。
先日、お父様から皇帝と帝国の関係を聞いたばかりです。
「一人ずつ別のお話をされてしまいますと、本当に帝国内で内容が違ってしまいそうでございますね」
「そうなんだ。だから、できるだけ同じ場所で同じ文書を見てもらった方がいい」
まだ次の客が来ます。
どろちゃんとフランソワさんは、そのあたりで部屋を出ました。
◇ ◇ ◇
お父様が帝国の人たちへ同じ説明をしている間。
どろちゃんたちは、ウィーンを楽しみました。
教会で音楽を聞きました。
楽師の演奏も聞きました。
町を歩きました。
温かいものを食べました。
タウンハウスへ戻るころには、お父様の方が先に帰っている日もあれば、まだ客と話している日もありました。
そして、ある朝。
空がよく晴れていました。
「フランソワさん」
「はい」
「今日、お父様は?」
「夕方までお戻りにならないとのことでございます」
「じゃあ、インスブルック行こうか」
フランソワさんは、少しだけ黙りました。
「インスブルック、でございますか」
「うん。雪あると思う」
「雪をご覧になるために?」
「雪でも遊ぶ」
「お嬢様」
「飛行条件はちゃんと見るよ」
「そこを心配したのではございません」
それでも、フランソワさんは着替えを取りに行きました。
◇ ◇ ◇
ミツバチちゃんは、ウィーン郊外の草地から西へ飛びました。
どろちゃんが左席。
フランソワさんが右席。
今日は客室に誰もいません。
山が近づきます。
白いところが増えてきます。
やがて、谷の中に町が見えました。
インスブルックです。
どろちゃんは、すぐには降りませんでした。
町の近くを一度見ます。
川。
道。
畑。
雪。
柵。
人。
家畜。
着陸できそうな場所をいくつか見つけても、さらに回ります。
雪で白く見えていても、その下に溝があるかもしれません。
深く積もっている場所も避けたいところです。
広くて、人のいない草地。
離着陸の方向に大きな障害物がないところ。
低く通ってもう一度確認します。
「ここならいけそう」
「はい」
「一回降りる方向だけ見てからね」
もう一周。
それからミツバチちゃんは、雪の薄い草地へ静かに降りました。
エンジンが止まります。
扉を開けると、冷たい空気が一気に入りました。
「雪」
「雪でございます」
「いっぱいある」
「そのためにいらしたのでございましょう?」
「うん」
どろちゃんは笑いました。
でも、遊ぶ前にすることがあります。
二人は客室の荷物入れから、杭とロープ、それに一枚の立て札を出しました。
ミツバチちゃんのまわりを少し広めに囲うように杭を打ち、ロープを張ります。
立て札は、町へ入る側からよく見えるところへ。
文字はナーロッパ共通語です。
読者向けに意味を書くと、
エルレンフェルト公国
ラインハルト・フォン・エルレンフェルト公爵所有機
許可なく囲いの内へ入ること、機体に触れることを禁ず
違反者は処罰される
とあります。
見たこともない飛行機を野原へ置いて、人のいる町へ何時間も出かけるのです。
何もせずに離れるわけにはいきません。
「これで、少なくとも触っていいものには見えませんね」
「うん。帰ってきたら、また全部見るよ」
「機体の中へ何か入れられていても、でございますか」
「吸い込み口も、プロペラも、脚も見る。ミツバチちゃんも、変なところがあったら教えてくれるよ」
「それなら、二重で確認できますね」
「うん」
それで、ようやく遊べます。
しばらくして。
雪玉が一つ飛びました。
フランソワさんの横へ落ちます。
「お嬢様」
「外した」
「わざとではございませんね」
「もう一回」
「お待ちくださいませ」
今度は、フランソワさんの雪玉が飛んできました。
「わっ」
「当たりませんでした」
「フランソワさんも外した」
「では、もう一度でございます」
飛行機から少し離れた雪の上で、二人はしばらく遊びました。
十七歳と二十歳です。
皇帝も条約も請求書も、その間だけは関係ありませんでした。
◇ ◇ ◇
町へ入ってからも、二人はずいぶん歩きました。
山に囲まれた町は、ウィーンとはまるで違います。
服も違います。
どろちゃんは、通りを歩く女性たちを何度も見ました。
厚手のスカート。
白い袖。
胴着。
暖かそうな上着。
ショール。
帽子。
「フランソワさん」
「はい」
「これ、着たい」
「こちらの服でございますか」
「うん」
「お嬢様がお召しになるのでしたら、仕立てを直さなければならないかと存じます」
「今日できるのあるかな」
ありました。
まったく同じ寸法ではありません。
けれど、店の人が見立ててくれました。
直せるところを直します。
どろちゃんの分。
そして、フランソワさんの分。
「私はよろしいのではございませんか」
「二人で来たのに」
「私はお供でございますので」
「じゃあ、お供の服もいる」
「その理屈は、よく分かりません」
それでも、最後には二人とも着替えました。
朝、ウィーンを出たときとは違う格好です。
そのままミツバチちゃんへ戻りました。
ロープの外から一度機体を見て、囲いの中へ入ります。
外板。
脚。
プロペラ。
エンジンの吸い込み口。
扉や点検口。
二人で一周してから、杭とロープと立て札を回収しました。
操縦席へ戻ってからも、ミツバチちゃん自身に異常がないことを確かめます。
何もありません。
それで、ようやくエンジンを始動しました。
◇ ◇ ◇
夕方。
ウィーンのタウンハウス。
お父様が先に帰っていました。
玄関へ入ってきた二人を見て、しばらく何も言いません。
どろちゃんが先に笑いました。
「ただいま、お父様」
「おかえり。……ドロテーヤ、お前たちは朝と違う服で帰ってきたように見えるんだが」
「インスブルックで買ったの」
「そうか。今日はインスブルックだったのか」
「雪で遊んだよ」
「そこまで聞けば、服が変わったこと以外はだいたい分かった」
フランソワさんが少し頭を下げました。
「たいへん暖かい服でございましたので」
「フランソワまで気に入ったのなら、買ってきた甲斐はあったようだな」
「公爵閣下」
「似合っているよ。二人とも」
フランソワさんは少しだけ照れたようでした。
どろちゃんは素直に喜びました。
「お父様の方は?」
「今日も説明だ。皇帝陛下がお越しになる日は、ほぼ決まった。あとは先方の最終確認を待っている」
「私たちが雪投げてる間に?」
「そうだよ」
「お疲れ様」
「本当にそう思っている顔だな」
「思ってるよ」
その日は三人で夕食を食べました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
どろちゃんは新しく買った服を見ていました。
フランソワさんは、いつもの服へ戻っています。
「今日はどちらへ行かれるのでございますか」
「海」
「海」
「トリエステ」
フランソワさんは、昨日より少し早く理解しました。
「承知いたしました。お天気を確認いたしましょう」
「慣れたね」
「お嬢様がお決めになったあとで驚き続けても、出発が遅くなるだけでございます」
「合理的」
「お嬢様に申し上げられますと、少し複雑でございます」
この日も、お父様は朝から仕事でした。
二人はミツバチちゃんでウィーンを離れました。
◇ ◇ ◇
今度は南へ。
山を越え、アドリア海へ向かいます。
海が見えました。
その奥に、港の町があります。
トリエステです。
ここでも、いきなり町のそばへ降りることはしません。
周辺を広く見ます。
人家の少ない場所。
道と柵。
地面の傾き。
離陸するときに邪魔になるもの。
何度か回ってから、着陸に使えそうな草地を選びました。
ミツバチちゃんが止まると、今度は雪山とは違う空気があります。
「海だね」
「昨日とは、まったく違いますね」
「昨日は雪」
「本日は海でございます」
「明日はまだ決めてないよ」
「それを伺って少し安心いたしました」
町へ向かう前に、昨日と同じ仕事をします。
杭。
ロープ。
そして、エルレンフェルト公国とラインハルト公爵の名が入った立て札。
囲いを閉じてから、二人は一度ミツバチちゃんのまわりを見て歩きました。
「昨日、持ってきてよかったね」
「二日続けて使うとは思いませんでした」
「私も」
それから二人は港へ行きました。
船を見ます。
荷物を見ます。
海を見ます。
どろちゃんは港にいると、思っていたより長く動きませんでした。
「お嬢様、船をご覧になるのがお好きなのでございますか」
「うん。でも、船だけじゃないよ」
「港そのものを?」
「人も荷物も道も、ここに集まるでしょう。海の向こうにも道が続いてるみたいで面白い」
フランソワさんも海を見ました。
「エルレンフェルトには海がございませんからね」
「ないね」
それ以上は言いませんでした。
トリエステで何を見ても、この町のずっと後の姿を説明する必要はありません。
今日は、ただ遊びに来ています。
魚も食べました。
町も歩きました。
夕方になる前に、二人はまたミツバチちゃんへ戻りました。
昨日と同じように、囲いの外から機体を見ます。
それから中へ入り、外周を一周。
異物や損傷がないことを確認し、ミツバチちゃん自身の確認も取ってから、杭とロープと立て札を片づけました。
◇ ◇ ◇
「今日はトリエステだったのか」
その夜、お父様は前日ほど驚きませんでした。
「うん。海見てきた」
「昨日はインスブルックだったな」
「雪見てきた」
「私が帝国の方々へ同じ説明を繰り返している間に、お前たちはずいぶん広い範囲を見ているな」
「お父様も一緒に行けたらよかったのに」
「私もそう思わなくはないよ」
お父様は椅子へ座りました。
「ただ、今日で皇帝陛下の日程は決まった」
「ほんと?」
「ああ。次の説明会の日が決まった。皇帝陛下の随員についても、先方と人数を詰めている。帝国諸侯の方々には、その日に合わせて来ていただくよう案内を出す」
「これでもう、一人ずつ説明しなくていい?」
「案内が届くまでは来る人もいるだろうな。でも、少なくとも次に集まる場所は決まった」
フランソワさんが尋ねました。
「四か国へは、何かお知らせするのでございますか」
「説明会を開くこと自体は知らせる。ただ、再交渉の招待状にはしない。条約はもう成立しているからね」
「はい」
そこは、もう三人とも迷いませんでした。
◇ ◇ ◇
さらに数日。
ウィーンでの仕事は少しずつ片づいていきました。
そして、夕方。
お父様が一枚の紙を持ってタウンハウスへ戻りました。
「土地の値段が決まったよ」
どろちゃんはすぐに顔を上げました。
「いくら?」
「こちらが最初に出した額だ」
「向こうの三割高い方じゃなくて?」
「ああ。こちらの査定根拠を確認した結果、その額でよいという返事になった」
「買う?」
「もちろん、そのために交渉していたんだ」
「じゃあ、もう私たちの土地?」
「まだだよ。代金を払って、譲渡の文書を受け取るまでは終わっていない」
どろちゃんは座り直しました。
「そうだった」
「明日、支払いに行ってくる」
「現金?」
「ああ。もう用意してある」
フランソワさんが尋ねました。
「会議費用の方も、決まりましたでしょうか」
「そちらも決まった。飛行機の料金で最後まで迷っていたようだが、結局、同じ十人を馬車でウィーンからエルレンフェルトまで往復させた場合に必要になる諸経費を基準にすることになった」
「馬車と同じ?」
どろちゃんが聞きました。
「馬車そのものだけではないよ。御者、馬の交換、途中の宿泊、そのほか陸路で移動するなら必要になる費用をまとめた額だ」
「飛行機の方がずっと速いのに」
「速さの値段を決める相場がないんだから、双方が説明できる数字に落ち着けるのは悪くないと思う」
「じゃあ、時間短縮はおまけ?」
「そう言うと、少し安売りしたように聞こえるな」
「でも、みんな早く着いたよ」
「それは間違いない」
お父様は笑いました。
「航空会社を始めたわけではないんだ。今回は、それで十分だよ」
◇ ◇ ◇
翌朝。
タウンハウスの玄関へ、支払い用の貨幣箱が運ばれました。
土地を買う代金です。
請求書の受領書とは別。
会議費用とも別。
帳簿も別です。
お父様は中身と封を確認しました。
護衛も付きます。
「重そう」
「土地だから重いわけではないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は分かってる」
どろちゃんは貨幣箱を見ました。
「私も行く?」
「今日は決済だから、私と書記で十分だよ。ドロテーヤはここで待っていてくれればいい」
「分かった」
「帰ったら文書を見せる」
「それなら待つ」
お父様は出かけました。
◇ ◇ ◇
支払いは、午前中だけでは終わりませんでした。
貨幣を確認します。
金額を照合します。
領域の境界図を確認します。
既存の農地利用や道、水路など、引き継ぐ権利関係の文書もあります。
再譲渡に関する条件も、売買文書の中へ整理されています。
最後に封印。
署名。
受領書。
譲渡証書。
国境線は、戦場ではなく机の上で動きました。
そして会議費用の方も、別の会計として処理されました。
帝国側がエルレンフェルトへ支払う額。
エルレンフェルト側が土地代として支払う額。
差し引き一枚にはしません。
それぞれ払って、それぞれ領収書を残します。
◇ ◇ ◇
午後になって、お父様がタウンハウスへ戻りました。
朝の貨幣箱はありません。
代わりに、書類箱があります。
「買えた?」
どろちゃんが聞きました。
「ああ。買えたよ」
お父様は机へ地図を広げました。
前まで赤い線で囲っていただけの約10km²。
その線が、今度は正式な境界として文書に付いています。
「ここから?」
「ここからだ。現在のエルレンフェルト領との境界は、この線がなくなる。外側はこちらへ移る」
「ほんとに1000ha増えた」
「面積だけ見ればそうだな。ただし、そこで暮らす人の生活まで今日から全部変えるわけではないよ」
「農地はそのまま?」
「こちらの利用と重ならないところは、今までの耕作を続けてもらう。森や水路も、既存の利用を確認しながら引き継ぐ」
フランソワさんも地図を見ました。
「公爵閣下、会議費用の方も受領されたのでございますか」
「ああ。そちらも別に受け取った。飛行機の分は、約束どおり馬車移動に必要だった諸経費と同じ計算だ」
どろちゃんは地図から顔を上げました。
「お金払って、お金もらってきたんだね」
「そういうことになる」
「相殺した方が早かったんじゃない?」
「早いだけならな」
お父様は二枚の領収書を見せました。
「でも、これは土地を買った支払い。こちらは会議と移動にかかった費用。何年か後に帳簿を開いても、何をいくらで売買したのか分かる方がいい」
「うん。それは分かる」
どろちゃんは、もう一度新しい境界図を見ました。
何に使うのか。
まだ、売買文書には書いてありません。
森もあります。
湿地もあります。
農地もあります。
調べることは、これからです。
でも、その土地はもう、誰かが無償でくれたものではありません。
戦争で取ったものでもありません。
エルレンフェルトが値段を出し。
相手と話し。
現金を払い。
正式に買った土地でした。
◇ ◇ ◇
第49章の小さな説明
【皇帝陛下と神聖ローマ帝国】
1703年の神聖ローマ皇帝はレオポルト1世です。
皇帝は帝国の最高位にある君主ですが、近代の中央集権国家の国王のように、帝国のすべての領邦、都市、領主の権利を一人で自由に処分できる存在ではありません。
帝国内には選帝侯、諸侯、司教領、自由都市、大小の領主領などがあり、それぞれが持っている権利や政治的立場があります。
そのため本章では、皇帝陛下を前の四か国会議へ「五人目の君主」として追加するのではなく、すでに成立したエルレンフェルト条約を説明したうえで、皇帝自身の権限で処理できることと、帝国側でさらに調整が必要なことを分けています。
【帝国側への説明会】
四か国の条約は、すでに四締約当事者の署名によって発効しています。
皇帝や帝国諸侯が後から関心を持ったからといって、四か国をもう一度集めて和平会議をやり直すわけではありません。
ウィーンでは、帝国内の諸侯や使節が個別に説明を求めてきますが、お父様は相手ごとに別の約束を作らず、基本的には「皇帝陛下がお越しになる次回の説明会で、同じ文書を見ながら確認してください」と案内します。
皇帝側とは、その説明会の日程、随員、受け入れ人数などを調整します。
【ウィーン滞在中の二人】
お父様の実務が続くため、どろちゃんとフランソワさんも数日間ウィーンへ滞在します。
自由時間には音楽を聞き、町を歩きます。
さらにミツバチちゃんを使い、インスブルックへ日帰りして雪遊びをし、現地の女性たちが着ているような服を買って帰ります。
翌日はトリエステへ飛び、港と海を見て過ごします。
どちらも飛行場が整備されている前提にはせず、上空から周辺を確認し、安全に使えそうな草地を選んで着陸しています。
【機体を置いて町へ行くとき】
ミツバチちゃんを草地へ置いたまま二人とも町へ入る場合は、機体の周囲を杭とロープで囲い、立入・接触禁止の立て札を立てます。
立て札にはエルレンフェルト公国の名、所有者であるラインハルト公爵の名、公爵所有機であること、許可なく囲いへ入ったり機体へ触れたりした者は処罰されることを、ナーロッパ共通語で記しています。
帰ってきたら、そのまま乗って出発するのではありません。
外板、脚、プロペラ、エンジン吸い込み口、扉や点検口などを外から確認し、異物や損傷がないことを確かめます。さらにミツバチちゃん自身の異常確認も行ってから始動します。
この運用ができるのは、ある程度大きく頑丈なミツバチちゃんだからです。
コウノトリちゃんは小さく軽く、外から不用意に扱われたときの損傷が怖いため、同じように無人の草地へ置いたまま長時間離れる運用は基本的にしません。
【二回の会議の請求書】
帝国側代表団は十人。
一回につき六泊で、二回合計120人泊です。
五室を十二泊使用し、食事、会議運営、書記、文書作成などの経費が加わります。
さらに、ウィーンとエルレンフェルトの間をミツバチちゃんで二往復しているため、専用航空輸送は合計約2400kmです。
航空輸送には当時の比較相場が存在しないため、最終的には、同じ人数を馬車で同区間往復させた場合に必要になる馬車、御者、馬の交換、途中宿泊などの通常の移動諸経費を基準にすることで決着します。
土地購入代とは相殺しません。
会議費用は帝国側が支払い、土地代はエルレンフェルト側が支払います。
【南伯爵領の約10km²】
購入地は約10km²、約1000haです。
おおよそ半分が森林・湿地、残り半分が農地です。
南伯爵領全体を要求するのではなく、現在のエルレンフェルト領へ連続する範囲だけを有償で取得します。
購入申入れには、特定の将来用途を記載していません。
取得後に何へ利用するかは、原則としてエルレンフェルト側で決める問題だからです。また、実際に取得して詳細に調べなければ、予定していた用途に適するかどうか分からない場合もあります。
帝国側の最初の評価はエルレンフェルト側より高いものでしたが、最終的にはエルレンフェルト側が最初に示した査定額で合意します。
数日後、お父様が現金で代金を支払い、譲渡証書と正式な境界図を受け取ります。
【土地を買うと国境が動く】
これは個人が畑や家を買うだけの不動産売買とは少し違います。
領土の有償譲渡では、土地そのものだけでなく、その土地に対する統治権や国境線も移ります。
こうした領土の売買・有償譲渡は、現実の歴史にも繰り返しあります。
よく知られた例の一つが、1803年のルイジアナ購入です。
フランスからアメリカ合衆国へ広大なルイジアナ領が譲渡され、アメリカ側が総額1500万ドル相当を負担しました。
もう一つが1867年のアラスカ購入です。
ロシア帝国からアメリカ合衆国へ720万ドルでアラスカが譲渡され、条約に基づいて領土が正式に移管されました。
どちらも1703年より後の出来事ですので、作中人物が知っている例として出しているわけではありません。読者向けの説明です。
エルレンフェルトの場合も、南伯爵領へ軍を入れて占領するのでも、皇帝から無償で土地を与えてもらうのでもありません。
価格、境界、既存の権利、そのほかの契約条件を交渉し、双方が合意したうえで代金を支払い、その範囲を正式にエルレンフェルト領へ編入します。
【ピーナッツ】
南伯爵領からは、現在も食用にならないカビ付きピーナッツがエルレンフェルトへ届いています。
領主が事実上不在でも、農民、商人、運送の仕組みは動いているためです。
小鳥ちゃんのロケット燃料「アフラ君」は、このピーナッツをペーストにして、神様から供給される酸化剤と組み合わせて作ります。
現在の問題は「ピーナッツが届かない」ことではありません。
将来、エルレンフェルトと対立する新領主が置かれ、既存の交易や通行へ制限をかけると面倒になる、という点です。
今回、必要な隣接地を正式に購入したことで、少なくともその範囲については将来の領主交代に左右されなくなります。




