05白い鳥は種をまく 隣の領主が攻めてきた
どろちゃんのお父様が治める子爵領の、まっすぐ南には、もう一つの伯爵領がありました。
お姉様の嫁ぎ先とは、別の伯爵様です。
お姉様が暮らす伯爵領は、大きな川を東へ渡り、山をいくつか越えた先にあります。
今回の伯爵領は、同じ大きな川の西側を、子爵領からまっすぐ南へ下ったところです。
二つの領地の間には、別の川が流れていました。
その川が国境だった時代もあれば、国境が北へ動いた時代も、南へ戻った時代もあります。
いまはどちらも同じ王国ですが、川の両側で争った記憶まで、地図と一緒に書き直されたわけではありません。
そんな南の伯爵様のところへ、最近、妙な噂が届きました。
北の子爵領には、白くて、人を乗せて空を飛ぶ鳥がいる。
伯爵様は、その白い鳥が欲しくなりました。
そして、その鳥に乗っているどろちゃんも欲しくなりました。
そこで子爵家へ、たいへん立派なお手紙を送りました。
白い鳥を伯爵領へ移すこと。
どろちゃんも一緒に移り住むこと。
そして、どろちゃんを伯爵様の第二夫人にしてくださること。
最後の項目は、伯爵様としては、ずいぶん親切な提案のつもりだったようです。
どろちゃんのお父様は、きっぱり断りました。
伯爵様は、もう一度申し入れました。
お父様は、もう一度断りました。
三度目のお手紙には、お願いという言葉が使われていましたが、内容は命令でした。
それも断ると、とうとう、お手紙の代わりに騎馬隊がやってきました。
「南の伯爵軍が動きました」
知らせを持った騎手が、子爵家の庭へ駆け込んできました。
「あと一時間ほどで、境の川を越えて、こちらの領地へ入ります」
お父様は、すぐに家臣たちを集めました。
領地にも兵はいます。
けれど、畑や町を守る程度の兵です。戦い慣れた伯爵家の騎馬隊が、一気に押し込んでくれば止めるのは難しいでしょう。
どろちゃんは、書斎の隅で話を聞いていました。
「私が断ったために、領民を戦いへ巻き込むことになる」
お父様が言いました。
「お父様は、何も悪いことをしていません」
「だが、相手は軍を出してきた」
「では、その軍が川まで来られなければいいのですね」
どろちゃんは、頭の中の技師さんたちへ相談しました。
――騎馬隊は止めたいね。
――人も馬も殺さない方法がいい。
――でも、二度と同じ命令に喜んで従わなくなるくらいには、痛い目に遭ってもらおう。
技師さんたちは、少しのあいだ考えました。
飛行機を作る人々ですから、空から物を狙った場所へ届ける方法なら、よく知っています。
ただし、神様は兵器を送ってくれません。
どろちゃんも、火薬や金属片を使いたいとは思いませんでした。
そこで技師さんの一人が言いました。
――裏山に、ちょうどよく熟したものがあるよ。
「分かった。あれですね」
どろちゃんは、使用人の子どもたちを集めました。
「裏山へ行って、オオホウセンカとオオカタバミの実を、いくつか取ってきてください」
子どもたちは喜びました。
どろちゃんのお手伝いは、たいてい面白いのです。
ただし、今回は、かなりそっと運ばなければなりません。
「よく熟しているものを選んでね。でも、強く握ってはいけません」
「籠を揺すってもいけません」
「走ってはいけません」
「帰り道で転ばないでください」
注文の多いお使いでした。
この世界のオオホウセンカの実は、バスケットボールほどの大きさがあります。
オオカタバミの実は、それを細長く伸ばしたような形です。
どちらも熟した実へ強い力が加わると、果皮が一気に開き、中に詰まったビー玉ほどの種を四方へ弾き飛ばします。
山では、子どもがうっかり実を弾けさせ、額にたんこぶを作って帰ってくることもあります。
たいへん痛いのですが、騎士の持つ剣や槍よりは、はるかに穏やかな植物です。
子どもたちは、藁を厚く敷いた籠へ実を一つずつ入れ、そろりそろりと戻ってきました。
誰も途中で破裂させませんでした。
これは、かなり立派な仕事です。
どろちゃんは、籠をタドポール君の後席へ固定しました。
大きな実を外へ出しやすいよう、今日は風防を取り外します。
どろちゃんは飛行帽をかぶり、ゴーグルを着けました。
「風がたくさん入るよ」
『今日は、それでいいよ』
タドポール君は、なぜか上機嫌でした。
小さな声で、プライマリーの歌を歌っています。
今日は遊覧飛行ではありません。
けれど、どろちゃんと一緒に飛べる日は、いつでもうれしいようでした。
丘の上でジェットエンジンが始動しました。
もう使用人たちも、以前ほど驚きません。
車輪止めが外されます。
タドポール君は草の斜面を走り、いつものように、きれいに空へ浮かびました。
どろちゃんは、もう離陸に迷いません。
機首の向きも、速度も、上昇角度も、きちんとそろっています。
「南へ行こう」
『川の手前で見つけられるよ』
ほどなく、街道の上に、茶色い煙のようなものが見えてきました。
土煙です。
その下を、大勢の騎兵が北へ向かって走っています。
馬の頭と、槍と、旗が、規則正しく並んでいました。
境の川までは、もう遠くありません。
どろちゃんは騎馬隊の上を通り過ぎました。
兵士たちは、頭上の音に気づきました。
空を見上げ、伯爵様が欲しがった白い鳥を指さします。
どろちゃんはいったん前方へ出て、緩やかに旋回しました。
後席から、オオホウセンカの実を一つ抱え上げます。
「どこへ落とすの?」
――いま馬がいる場所ではない。
――果実が地面へ着くまでにも、騎馬隊は進む。
――着地した瞬間、隊列の中に騎兵がいる場所を狙え。
人や馬へ、大きな果実そのものをぶつけるのではありません。
果実が着地するとき、騎馬隊のただ中になっている地面へ落とします。
タドポール君が、高度と風と馬の速度を見ていました。
『もう少し先』
どろちゃんには、いま馬がいない地面しか見えません。
けれど、それが数秒後の騎馬隊の位置です。
『まだ』
馬たちは土煙を上げて近づいてきます。
『三、二、一――今』
どろちゃんは実を放しました。
大きな緑色の果実は、回転しながら落ちていきます。
その下へ、騎馬隊の先頭集団が進んできました。
計算どおりです。
果実は、馬と馬の間の地面へ落ちました。
ぱんっ。
乾いた大きな音とともに果皮が巻き上がり、ビー玉ほどの種が、時速八十キロメートルほどで四方へ飛び散りました。
兜に当たり、胸当てに当たり、剣を握る手に当たり、頬に当たり、馬の首や尻にも当たりました。
鎧へ当たれば、石を投げつけられたような音がします。
指や頬へ当たれば、すぐに赤く腫れます。
馬に当たれば、当然、馬も驚きます。
先頭の馬が跳ねました。
騎士が手綱を引き、その後ろの馬が追突しかけます。
整っていた隊列が、一気に崩れました。
「もう一つ行くよ」
『右側。草地へ広がろうとしている』
どろちゃんは、細長いオオカタバミの実を持ち上げました。
『右へ少し。二秒待って――今』
実は、街道を外れて前へ出ようとしていた騎兵の中の地面へ落ちました。
ぱぱんっ。
細長い果実が裂け、種を勢いよく弾き出します。
馬の腹へ当たり、騎士の腕へ当たり、旗を持つ兵士の鼻へも一つ当たりました。
旗手は鼻を押さえました。
旗は傾き、その後ろの騎兵が慌てて馬を止めます。
どろちゃんは、止まった者へは落としません。
後ろへ退く者も追いません。
けれど、隊列を整え直して前進しようとする場所には、次の実をきちんと届けました。
『左側が動くよ』
「見えた」
『今』
ぱんっ。
『指揮官が前へ出る』
「では、その近くにも」
ぱぱんっ。
白い翼が頭上を通るたび、次は自分のところへ落ちてくるかもしれません。
しかも、空の少女は、ただ驚かせているのではありません。
こちらが前進しようとするたび、痛い場所へ正確に種を届けています。
剣で斬られるよりは、はるかに安全です。
槍で突かれるよりも、ずっと安全です。
けれど、安全だからといって、何度も進んで当たりたい者はいません。
ある騎士は頬を腫らし、ある騎士は手の甲を押さえ、ある騎士は兜の中で耳を鳴らしていました。
馬たちも落ち着きません。
指揮官は前進を命じました。
けれど、最前列の騎士は馬を動かしませんでした。
もう一度命じても、誰も先頭へ出ようとしません。
三度目には、何人かが指揮官の顔を見ました。
その視線は、こう言っていました。
それなら、あなたが先に行けばよい。
指揮官は空を見上げました。
タドポール君が、ゆっくり旋回しています。
後席には、まだ実が残っていました。
「どうする?」
『もう帰ると思うよ』
そのとおりでした。
指揮官は撤退を命じました。
来るときには整然としていた騎馬隊が、帰りには頬や腕を押さえながら、川から遠ざかっていきます。
どろちゃんは逃げる騎馬隊を追いませんでした。
残った実は、裏山へ持ち帰ります。
――残りは裏山へ戻そう。種をまくなら、元の場所がいいよ。
技師さんたちは、こういうところには細かいのでした。
その日の夕方、南の伯爵領では、出撃しなかった騎士たちが帰還兵の話を聞きました。
腫れた頬を見ました。
鎧に残った丸い傷を見ました。
馬の首や尻にできた小さな腫れも見ました。
そして、誰もが同じことを考えました。
次に同じ命令が出ても、自分は行かない。
南の伯爵様は、騎馬隊を失いませんでした。
ただし、白い鳥を捕まえに行けという命令に従う騎士たちは、かなり少なくなりました。
そして、困ったことは、それだけではありませんでした。
どろちゃんが果実を落とした場所は、伯爵領のいちばん北側です。
弾けた種は街道の脇へ、草地へ、川岸へ広がりました。
その年のうちに芽を出し、翌年には、大きなオオホウセンカとオオカタバミが、北の一帯へ並びました。
人が一人ずつ注意して歩くことはできます。
刈り払えば、道を開くこともできます。
けれど、騎馬隊が密集したまま勢いよく踏み込めば、蹄や馬体が熟した実へ触れます。
一つが弾け、馬が驚き、隣の株へ触れ、そこでもまた実が弾けます。
騎馬隊の得意な、速く、密集して、一気に攻め込む方法は使えなくなりました。
先に人を出して、一本ずつ確かめながら刈り払えば進めます。
ただし、そのころには、子爵領の人々も侵攻の準備へ気づいています。
こうして、南の伯爵領の北側には、城壁も堀もない、新しい境界ができました。
それは魔法の壁ではありません。
ただ、よく育ち、よく実り、触るとたいへん痛い植物が、たくさん生えているだけです。
伯爵様は、白い鳥も、どろちゃんも手に入れられませんでした。
代わりに手に入れたのは、北の領地いっぱいのオオホウセンカとオオカタバミ、それに、白い鳥を捕まえに行く命令を聞きたがらない騎士たちでした。
ただ一つ、伯爵様が知らなかったのは――
あの日どろちゃんが空からまいたものが、痛い種だけでなく、次の侵攻を難しくする新しい国境でもあったことでした。
◇ ◇ ◇
第五章の小さな説明
位置関係を現実の地図へ重ねると、子爵領はストラスブール近郊にあたります。お姉様の嫁ぎ先は大河を東へ渡ったドイツ側、今回の伯爵領は子爵領から真南へ続くフランス側です。子爵領と南の伯爵領の間には別の川があり、その周辺では国境がたびたび動いてきました。
現実のホウセンカやカタバミの仲間にも、熟した果実が急に裂けて種を飛ばすものがあります。ただし、バスケットボールほどの果実、ビー玉ほどの種、時速八十キロメートルほどの飛散速度は、この世界のオオホウセンカとオオカタバミの性質です。山の子どもがときどき、たんこぶを作る程度の危険はありますが、騎士の剣や槍よりはるかに致命性の低いものです。
これはクレイモアのように一方向へ破片を飛ばす仕掛けではありません。果実は地面へ当たると種を四方へ飛ばすため、騎馬隊の前方へ置くだけでは十分に当たりません。
「未来位置」とは、投下した果実が着地する時刻に騎馬隊がいる地点です。どろちゃんとタドポール君は、その地点を隊列の内側へ合わせています。
種は南の伯爵領の北端へ散らばりました。翌年から植物が広がり、人や荷車の通行を完全に止めることはありませんが、密集した騎馬隊が速度を保ったまま突入することは難しくなります。刈り払いには人手と時間がかかり、奇襲の準備も隠せません。痛い目を見て帰った騎士たちの証言と合わせ、同じ侵攻命令を繰り返しにくくする仕組みになっています。




