04お手紙は空を飛ぶ
初飛行が無事に終わっても、どろちゃんの練習は終わりませんでした。
晴れた日は丘へ行き、タドポール君を組み立て、風を見て飛びます。
旋回して、上昇して、ジェットを止め、滑空して、平らな草地へ戻ってきます。
最初は少し跳ねた着陸も、やがて主輪が草へ触れたことさえ分からないほど、きれいになりました。
「今日の着陸はどうだった?」
『とても上手だったよ』
「ほんとう?」
『右の車輪から少し先に着いたけどね』
タドポール君は、ほめるだけの飛行機ではありませんでした。
ところで、飛行を続ければ、当然ジェット燃料が減ります。
誕生日に届いた金属缶も、何度か飛べば空になりました。
ところが翌朝、どろちゃんが用具置き場へ行ってみると、燃料缶はまた満タンになっています。
蓋を開ければ、昨日まで空だったはずの缶から、いつもの燃料の匂いがしました。
同じことは、グリースや潤滑油にも起きました。
使い切ったはずのリベットも、翌朝には元の数へ戻っています。羽布へ塗る塗料も、缶の縁まで満たされています。
「便利だね」
――補給できない機体を異世界へ送るほど、わたしたちも不用心ではないよ。
頭の中で、技師さんが答えました。
もっと不思議なこともありました。
離着陸を繰り返せば、車輪のタイヤは少しずつすり減ります。
けれど翌朝になると、摩耗していた表面が元へ戻っているのです。
小さな傷も消えていました。
「タドポール君、生きてるんだね」
『そうかもしれないね』
「怪我をしても治るもの」
『でも、お世話はしてね』
もちろんです。
馬が自分で傷を治せるからといって、餌も水も手入れも要らなくなるわけではありません。
タドポール君も同じでした。
操縦索の張りを確認し、接合部を点検し、グリースを差し、羽布の状態を見る。飛んだあとは泥や草を落として、用具置き場へ戻します。
治るから壊してよい、ということではありません。
生きているなら、なおさら大切に扱わなければならないのです。
そんなある日、どろちゃんの父である子爵が、書斎で困った顔をしていました。
「どうなさったの、お父様」
「お姉様の嫁ぎ先へ、急いで手紙を届けなければならないのだ」
姉が嫁いだ伯爵家の領地は、ここから東へおよそ百キロメートル。
途中には、かつて国境だった大きな川があります。
川の向こうは、もとは別の国でした。けれど今では、どちらも同じ王国の領地です。
大きな川を渡り、山をいくつか越えた谷間に、伯爵家の城がありました。
不思議なことに、川のこちら側でも向こう側でも、使われている言葉は同じです。
どろちゃんは、頭の中の技師さんたちへ尋ねました。
「この世界の昔の人は、バベルの塔を作らなかったの?」
――そうだよ。
たいへん簡単な答えでした。
馬を替えながら急いでも、手紙を届けるには時間がかかります。川を渡る船の都合もあり、山道では馬車を速く走らせることもできません。
費用もかかります。
それに、どうやら急ぐ手紙のようでした。
「私が届けます」
子爵は娘の顔を見ました。
「どのように?」
「空から」
子爵は、しばらく何も言いませんでした。
娘が空を飛んだところを、自分の目で見ています。
ですから、できないとは言えません。
ただ、父親として心配ではありました。
「途中で何かあったらどうする」
「山へ降りられます。それに、タドポール君も一緒です」
『任せて』
タドポール君の返事は、どろちゃんにしか聞こえません。
子爵は手紙を書き、封蝋を押しました。
それを革で包み、蓋の閉まる円筒形の通信筒へ入れます。
どろちゃんは通信筒に、二メートルほどの長いオレンジ色のリボンを取り付けました。
草や石の中へ落ちても、これなら見つけやすくなります。
翌朝、タドポール君は丘へ運ばれました。
いつものように主翼を取り付け、操縦系統を確認し、燃料を入れます。
どろちゃんは前席へ乗りました。
後ろ向きの後席は、今日も空いています。
「東へ百キロだよ」
『近いね』
「この世界では、遠いの」
『空では近いよ』
ジェットエンジンが甲高い音を立て始めました。
車輪止めが外されます。
タドポール君は斜面を滑り降り、十分に速度を得ると、草原から静かに離れました。
もう初飛行のときのような迷いはありません。
機首を上げすぎず、速度を保ち、斜面の先から滑らかに空へ出ます。
見守っていた使用人たちからも、ため息のような声が上がりました。
どろちゃんは、きれいに離陸できるようになっていました。
タドポール君は上昇しながら、かつて国境だった大河を越えました。
川面には帆船や小舟が見えます。
船の人々は頭上の音を聞き、見慣れない白い翼を見上げました。
どろちゃんは、その先に見える山々を目印にしました。
山の頂より、さらに同じくらい高いところまで上がります。
地上から見れば、山の二倍ほどの高さです。
「このくらいでいいね」
『帰りの分も残しておこう』
どろちゃんはジェットの出力を下げ、停止させました。
高い音が消えます。
あとは風の音だけです。
タドポール君の長い翼は、少しずつ高度を使いながら、東へ静かに滑っていきました。
下には森と畑が流れ、山の尾根がゆっくり後ろへ遠ざかります。
馬で何時間もかかる道が、空から見れば一本の線にすぎません。
一時間もたたないうちに、目的の谷が見えてきました。
谷の奥には、石造りの城があります。
姉の嫁ぎ先である、伯爵家の城です。
「着いたよ」
『でも、誰も気づいていないね』
タドポール君は、音もなく滑空しています。
城の中庭には人の姿がありますが、誰も空を見ていません。
白い翼が飛んでいるとは、考えたことさえないのです。
「では、起こしましょう」
どろちゃんは小型ジェットを再始動しました。
キーンという高い音が、谷間いっぱいに響きました。
城の窓が開きました。
中庭から人が出てきます。
兵士も、使用人も、料理人らしい人も、空を見上げています。
どろちゃんは城の上をゆっくり一周しました。
やがて、正装した年配の男性が中庭へ出てきました。
どろちゃんは以前に一度だけ会ったことがあります。
伯爵家の執事です。
「よし。あの人なら大丈夫」
通信筒を手に取りました。
風防の横にある小窓を注意深く開けます。
風が勢いよく入ってきました。
「落とすよ」
『少し左。今』
どろちゃんは通信筒を手放しました。
円筒は下へ落ち、長いオレンジ色のリボンが空中でまっすぐ伸びました。
中庭の芝生へ落ち、二度ほど跳ねて止まります。
執事が近づき、慎重に拾い上げました。
通信筒に刻まれた子爵家の紋章を確認し、蓋を開けます。
中から封蝋の付いた手紙を取り出しました。
どうやら、きちんと届いたようです。
どろちゃんはタドポール君の翼を左右へゆっくり振りました。
空を飛ぶ者の挨拶です。
城の人々に意味が伝わったかどうかは分かりません。
それでも、執事は通信筒を掲げ、深く頭を下げました。
「帰ろうか」
『うん。お姉さんには会わなくていいの?』
「今日は配達だからね。突然空から妹が降りてきたら、別のお話になっちゃうもの」
どろちゃんはジェットの出力を上げました。
タドポール君は谷間を離れ、再び高度を取ります。
こうして、子爵家から伯爵家まで、急ぎの手紙は一時間もかからずに届きました。
馬も疲れず、宿屋も使わず、川を渡る船を待つ必要もありません。
ただ一つ、伯爵家に新しい悩みが生まれたとすれば――空から手紙を届けてきた白い翼について、どのように返事を書けばよいのか、誰にも分からなかったことでした。
◇ ◇ ◇
第四章の小さな説明
「バベルの塔」は、旧約聖書の「創世記」に登場する物語です。初め、人々は同じ言葉を使っていましたが、天まで届く塔を建てようとしたため、神が人々の言葉を互いに通じないようにし、人々は各地へ散ったとされています。
どろちゃんの「この世界の昔の人は、バベルの塔を作らなかったの?」という質問は、大河を隔て、もとは別の国だった地域でも同じ言葉が通じることから、この世界では言葉が分かれた出来事そのものがなかったのではないか、という冗談です。技師さんたちは、この世界の事情を知っているので、簡単に「そうだよ」と答えています。
通信筒に付けた長いオレンジ色のリボンは、落下中と着地後の筒を見つけやすくするためのものです。どろちゃんは、静かな滑空では城の人々に気づいてもらえなかったため、投下前にジェットエンジンを再始動しています。
タドポール君の燃料や整備用品は、使った翌朝に補充され、軽い損傷や摩耗も回復します。ただし、点検や清掃が不要になるわけではありません。どろちゃんが「生きている」と感じるのは、治ることと、お世話を必要とすることの両方があるためです。




