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03丘から空へ

ひと月後、用具置き場の扉が開きました。


中から現れたものを見ても、家の人たちには、それが何なのか分かりませんでした。


長い翼があります。


車輪もあります。


座席もあります。


けれど、鳥ではありません。


荷車でも、舟でも、風車でもありません。


どろちゃんは、機首へそっと手を置きました。


「おはよう、タドポール君」


すると、タドポール君が答えました。


『おはよう、どろちゃん』


その声は、どろちゃんにしか聞こえません。


「今日は飛ぶよ」


『やっとだね』


「初めてだから、無理をしないでね」


『それは、どろちゃんに言う言葉だよ』


なかなか慎重な機体でした。


初飛行をする丘は、子爵家から五百メートルほど離れています。


タドポール君は左右の主翼を外され、胴体と翼を荷車へ載せられました。


使用人たちは、何を運んでいるのか分からないまま、たいへん慎重に荷車を押しました。


翼端を木へぶつけてはいけないことだけは、どろちゃんから何度も言われています。


丘の上へ着くと、主翼を取り付けました。


斜面は川の方へ向かって緩やかに下っています。


少し横へ外れたところには、着陸に使えそうな平らな草地がありました。


どろちゃんは草を一本ちぎり、空へ放しました。


草は斜面を上る方向へ流れていきます。


向かい風です。


「ちょうどいいね」


『うん。今日は飛びやすい』


平らな場所から飛び立つときには、長い弾性索を使ったスリングで機体を引き出します。


けれど、今日は必要ありません。


丘を下れば、重力が速度を与えてくれます。


どろちゃんは、誕生日の箱に入っていたジェット燃料を、タドポール君のタンクへ注ぎました。


燃料の量を確かめ、蓋を閉めます。


「お腹いっぱい?」


『初飛行には十分』


どろちゃんは前席へ乗り、ベルトを締めました。


後ろ向きの後席は、今日は空席です。


左右の鏡には、心配そうな父と母、執事、使用人たち、それに空になった荷車が映っています。


操縦桿を左右へ動かします。


補助翼が動きました。


前後へ動かします。


昇降舵が動きました。


ペダルを踏むと、方向舵が動きます。


「操縦系統、異常なし」


――左補助翼、よし。


――右補助翼、よし。


――昇降舵、よし。


――方向舵、よし。


――燃料系統、よし。


――お嬢さん、呼吸を忘れるな。


どろちゃんは、ゆっくり息を吐きました。


胴体へ収められていた小さなジェットエンジンを展開します。


始動装置を動かすと、細い笛のような音が始まり、少しずつ高くなりました。


馬が驚きました。


使用人も驚きました。


子爵夫妻は、それ以上に驚きました。


この世界で、ジェットエンジンの音を聞いた人は、まだ誰もいなかったからです。


「行こうか、タドポール君」


『一緒に行こう』


車輪止めが外されました。


タドポール君は、ゆっくりと斜面を下り始めました。


最初は、人が歩くほどの速さです。


やがて駆け足ほどになり、馬車より速くなりました。


草が左右へ流れます。


操縦桿が、どろちゃんの手の中で軽くなりました。


翼が風を受け始めたのです。


「まだだよ」


『分かってる』


どろちゃんは急ぎません。


速度が足りないうちに機首を上げれば、飛ぶ前に失速します。


斜面が少し急になります。


風の音が大きくなりました。


『もういいよ』


「うん」


どろちゃんは、操縦桿を静かに引きました。


車輪が草から離れました。


最初は、ほんの少しだけ。


けれど次の瞬間には、斜面の方が下へ遠ざかっていきました。


タドポール君は、空を飛んでいました。


どろちゃんはジェットの出力を少し上げました。


小さな機体は丘の先へ出て、川と町を見下ろしました。


町の人々が、空を指さしています。


鳥ではありません。


竜でもありません。


魔法使いでもありません。


まして、十五歳の子爵令嬢が操縦する機械だとは、誰にも分かりません。


「どう、タドポール君?」


『いい風だよ。どろちゃんは?』


「私も、いい気分」


ロシアで終わったはずの空が、もう一度、どろちゃんの前に広がっていました。


けれど、今日は遠くまで行きません。


初飛行は、飛び上がっただけでは成功ではありません。


無事に帰ってきて、初めて成功なのです。


どろちゃんは緩やかに旋回し、丘の横にある平らな草地へ向かいました。


ジェットの出力を下げ、停止させます。


タドポール君は、静かなグライダーになりました。


「少し右へ行くよ」


『横風がある』


「分かってる」


『なら、大丈夫』


平地が近づきます。


どろちゃんは速度を保ち、地面すれすれで操縦桿を少し引きました。


主輪が草へ触れます。


一度だけ軽く跳ね、もう一度接地しました。


車輪は草を分けながら進み、タドポール君は平地の中央で静かに止まりました。


しばらくして、子爵夫妻と使用人たちが走ってきました。


母親は、操縦席から降りたどろちゃんを強く抱きしめました。


父親は、空とタドポール君を交互に見ています。


執事は帳面を持っていましたが、何と記録すればよいのか分かりません。


「お嬢様が、用途不明の装置に乗って丘を下り、その装置ごと空へ上がり、再び地面へ戻った」


正確に書けば、そのようになります。


けれど、それでは何の説明にもなりません。


みんなは、奇跡を見たと思いました。


ところが、どろちゃんとタドポール君だけは知っていました。


これは奇跡ではなく、正しく組み立てられた機械が、正しく飛んだだけだったのです。


こうして、飛行機という言葉さえなかった世界で、最初の飛行が終わりました。


けれど、説明書には、次は工作機械と材料を届けると書かれています。


ですから、これは世界で最初に飛行機が飛んだお話であると同時に――どろちゃんの工場ができる、ほんの少し前のお話でもあったのでした。


◇ ◇ ◇


第三章の小さな説明


タドポール君は長い主翼を持つため、丘の下り斜面と向かい風があれば、比較的低い速度でも離陸できます。


平地では速度を得るため、ゴム索などの弾性索を使ったスリング発進を行います。


初飛行で長時間飛ばないのは、たいへん大切な判断です。飛行特性や操縦系統を確かめ、余裕のあるうちに着陸する。どろちゃんの中にいる技師たちは、飛ばすことより、無事に戻すことを優先しています。

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