47貴族令嬢は公爵を島へ送ります 史実ではアン女王と最後に対立するマールバラ公爵夫妻をなんとかしなきゃ
第47章 貴族令嬢は公爵を島へ送ります。
エルレンフェルトへ帰ってから、数日。
どろちゃんは、また海峡を越えました。
今度は祝宴ではありません。
王様を迎えに行くのでもありません。
会議でもありません。
報告です。
ロンドン近郊の草地へタドポール君を降ろし、待っていた馬車へ乗ります。
隣にはフランソワさん。
膝の上には、分厚い書類の束。
「多いね」
「二度の会議でございますので」
「話すだけなら、もっと短いよ」
「お嬢様がお話になれば、途中で別のお話が増えます」
「増えないよ」
フランソワさんは答えませんでした。
「……増えるかも」
「はい」
馬車はロンドンの中心へは向かいません。
人家が密集しているところから少し離れます。
ロバート・フックの研究施設です。
病気を起こす微生物を扱う場所なので、住宅や井戸から距離を取っています。
研究室。
器具を置く部屋。
書類を広げる部屋。
まだ何も入っていない部屋もあります。
男爵になったから大きな家を欲しがったわけではありません。
仕事をする場所が増えました。
中へ入ると、杖の音がしました。
「遅くはありませんね」
「時間どおりだよ」
「飛行機で来る人の時間どおりは、まだ慣れません」
「ろばーとっち」
「その呼び方も、まだ慣れません」
「もう二年くらい呼んでるよ」
「慣れるとは申し上げておりません」
フランソワさんが、一歩後ろで頭を下げました。
「ご無沙汰しております」
「フランソワさん。お元気そうで」
「ありがとうございます」
フックは、どろちゃんの持っている書類を見ました。
「それが会議の報告ですか」
「うん」
「では、まず一つだけ」
「なに?」
フックは書類を受け取りませんでした。
どろちゃんを見ています。
「女王陛下に、何をしました」
「やっぱりそれ聞く?」
「当然でしょう」
「私じゃないよ」
「まだ、あなたがしたとは申し上げておりません」
「顔が言ってる」
「では言い直します」
フックは椅子を指しました。
「女王陛下がエルレンフェルトへ向かわれたときには三十八歳でした」
「うん」
「長く歩くことが難しく、脚には腫れと痛みがあり、王室医師が付いていました」
「うん」
「戻ってこられたときには、自分で飛行機から降り、二十年ほど若い姿になり、しかもあなたの服を着ていました」
「服は貸しただけ」
「そこが一番どうでもよいところです」
「女王様、着るものなくなったんだよ」
「それも聞きました」
「全部大きくなったから」
「それも聞きました」
「じゃあ知ってるじゃない」
「結果だけです」
フックは机へ手を置きました。
「私は王立協会の者です」
「私も会員だよ」
「だから、なおさらです」
「あ」
「王立協会の会員が一人、女王陛下とともに大陸へ行きました。その女王陛下が、説明のできない身体変化を起こして帰国しました。会員本人が戻ってきているのに、私が何も聞かない方がおかしいでしょう」
「そうだね」
「ようやく分かりましたか」
「今、分かった」
「座ってください」
「はい」
どろちゃんは座りました。
フランソワさんも、少し離れたところに座ります。
フックは紙を一枚出しました。
「最初からお願いします」
「会議から?」
「女王陛下の箱から」
「そこからなんだ」
「そこからです」
どろちゃんは話しました。
条約がまとまったあと。
神様から、それぞれに箱が届いたこと。
ルイ十四世には、金の像と未来のパリ。
サヴォイアには、未来のローマ。
ネーデルラントには、王冠。
そしてアン女王には、未来の船の模型がいくつも届いたこと。
「船?」
「帆船もあったし、煙突のある船もあった。最後のは大きな貨物船みたいなもの」
「女王陛下は?」
「すごく気に入ってた」
「でしょうね」
「知ってた?」
「帰国後、その話を何人にもしていると聞いています」
「やっぱり」
「続けてください」
「その箱の隅に、小さい瓶があったの」
「瓶」
「札に、エリクサー。アンへ」
フックの筆が止まりました。
「あなたが作ったのではない」
「作れないよ」
「成分は」
「知らない」
「量は」
「一人分って書いてあったから、全部」
「誰が飲ませました」
「飲ませてない」
フックが顔を上げます。
「女王様が自分で飲んだ」
「あなたは勧めましたか」
「医師としては勧めてない。成分が分からないもの」
「では、なぜ」
「神様の手紙があったから」
どろちゃんは、少し声を落としました。
「ロシア語だった」
フックには読めません。
どろちゃんだけが読める神様の文字です。
「内容は」
「女王様本人のことだから、最初はみんなの前で読まなかった」
「それは妥当です」
「夜に、女王様の部屋へ行って訳した」
「何と」
どろちゃんは、少し間を置きました。
「あと十一年間、苦しい思いをしながら生きなければいけない。それは、私の望むところではない、って」
フックの筆が止まりました。
今度は長く。
「十一年」
「うん」
「そのあとに説明は?」
「ない」
「病名」
「ない」
「使い方」
「一人分って分かるくらい」
「予想される作用」
「ない」
「……それで飲んだ」
「女王様が決めた」
「王室医師は」
「反対したよ」
「あなたは」
「私が医師なら勧めないって言った」
「それでも陛下は」
「飲んだ」
フックは、しばらく紙を見ていました。
「その場にいた人は」
「王室医師。女官。側近。私とフランソワさん」
「最初の変化は」
「身体が熱いって言った」
「発熱ですか」
「体温は測ってない。中が熱いって」
「脈」
「速くなった」
「呼吸」
「できてた」
「痛み」
「なかった」
「その次は」
「光った」
また筆が止まりました。
「何が」
「女王様」
「……」
「皮膚の下から」
「比喩ではなく?」
「本当に」
フックがフランソワさんを見ました。
「ご覧になりましたか」
「はい」
「同じように見えましたか」
「わたくしにも、光って見えました」
フックは紙へ戻りました。
「続けてください」
「むくみが引いた。指輪が緩くなった。顔も変わった。身体全体が細くなったというより、病気で悪くなっていたところが戻っていく感じ」
「あなたの観察ですか」
「うん」
「若返りは」
「最後の方。顔がだんだん若くなった」
「何歳程度」
「女王様本人が、結婚したころって」
「十八歳前後」
「たぶん」
「記憶は」
「そのまま」
「話し方」
「そのまま」
「人格」
「そのまま」
「政治の判断は」
「少なくとも会議のあとと同じ」
「身体だけ」
「うん」
「翌朝の診察は」
「した」
どろちゃんは、分かる範囲で話しました。
浮腫。
圧痕。
痛み。
関節の動き。
歩行。
脈。
本人の自覚症状。
フックは途中で何度も止めました。
同じ質問を、少し違う言い方で聞きます。
「そこ、さっき言ったよ」
「確認です」
「同じだよ」
「同じと確認できました」
「めんどくさい」
「研究者でしょう」
「私もだった」
「忘れないでください」
かなり時間がかかりました。
最後にフックは紙を置きました。
「分かりません」
「私も」
「再現できますか」
「できない」
「同じ瓶は」
「ない」
「作れますか」
「無理」
「ならば、これは治療法ではありません」
「うん」
「一人に起きた出来事の記録です」
「うん」
「しかし記録は残します」
「それでいいと思う」
「あなたが何か新しい薬を作って女王陛下へ使った、という話ではないことも明記します」
「お願い」
「すでに妙な噂が出ています」
「やっぱり?」
「三十八歳で大陸へ渡った女王陛下が、若い女性の姿で帰国したのです。噂が出ない方がおかしい」
「そうだね」
「しかも、その若い女性があなたの服を着ていた」
「そこ大事?」
「噂には大事です」
「科学には?」
「どうでもよいです」
「やっぱり」
どろちゃんは、ようやく持ってきた書類を机へ置きました。
「じゃあ今度こそ会議」
「ようやくですね」
◇ ◇ ◇
二度の会議の話は、エリクサーより長くなりました。
最初は、撃つのを止めるための会議。
次は、君主や最終決定のできる者が集まった本会議。
フランス。
イングランド。
サヴォイア。
ネーデルラント。
四者は署名しました。
スペイン王冠とフランス王冠を一つにしない。
スペインの海外市場を、一国だけの閉じた市場へ戻さない。
港。
道路。
倉庫。
水利。
戦争へ使うはずだった金を、残るものへ回す。
国境は、会議室の線だけで決めない。
山。
谷。
川。
道。
町。
市場。
現地を見てから決める。
帝国からは、ミトロヴィッツが来ました。
でも、皇帝本人ではありません。
帝国を拘束する全権もありません。
「それで署名したのですか」
「オブザーバーとして」
「皇帝陛下を勝手に条約へ入れなかった」
「うん」
「そこは大切です」
「だから次に来てもらう」
「来られますか」
「参加賞あるよ」
「何です、それは」
「金属板」
「……」
「ちゃんと書いてあるの。全権を持つ皇帝が来ていません。また次回、って」
フックは目を閉じました。
「神様は、ときどき外交を何だと思っているのでしょう」
「分からない」
「あなたも止めなかった」
「届いたあとだった」
「そうでしたね」
どろちゃんは、会議の最後の話までしました。
アン女王が未来の船を持ち帰ったこと。
帰る飛行機の中でも船を見ていたこと。
イングランドへ着いたあと、ジョージ王配が驚いていたこと。
フックは最後まで聞きました。
「それで」
「なに?」
「もう一つ、問題があります」
「まだある?」
「英国側に」
フックは少しだけ声を低くしました。
「マールバラ公爵です」
「ああ」
「ご存じなのですね」
「女王様が、帰る前に少し言ってた」
「どの程度」
「戦争を続けたい人がいるって」
「公爵だけではありません」
「奥さんも?」
「むしろ、陛下のすぐ近くにいたという意味では、公爵夫人の方が面倒かもしれません」
「やっぱり奥さん」
どろちゃんは腕を組みました。
「でも、戦争を続けたいって言うだけなら、だめじゃないでしょう」
「もちろんです」
「反対意見だから牢屋、はだめ」
「陛下も、そうお考えです」
「じゃあ放っておく?」
「そう簡単でもありません」
フックは窓の外を見ました。
「公爵は軍を知っています。将校を知っています。大陸の同盟国も知っています。夫人は宮廷を知っています。女王陛下本人を長く知っています」
「二人で一組みたい」
「そういうところがあります」
「じゃあ、女王様が和平を決めたあとも、戦争を続けるように動いたら困る」
「はい」
「でも、まだ何もしてない」
「はい」
「先に牢屋には入れられない」
「はい」
どろちゃんは考えました。
「遠くへ仕事に出したら?」
フックが、ゆっくりこちらを見ました。
「仕事」
「軍人なんでしょう」
「そうです」
「軍務なら、勝手に帰ってこられないよね」
フックは、少し黙りました。
「……伯爵」
「なに?」
「今、とても自然に恐ろしいことを言いましたね」
「仕事だよ」
「ええ。仕事です」
「大事な仕事」
「そう言えば、さらに恐ろしくなります」
「でも、本当に必要な場所がいいよ。何もないところに捨てるのは違う」
「それは同意します」
「島は?」
「なぜ島なのです」
「勝手に帰りにくい」
「理由が戻りました」
「あと、船で行ける」
「英国ですから、海外へ行くなら大抵は船です」
「奥さんも一緒」
「なぜ」
「長い仕事なら一緒の方がいいでしょう」
フックは、しばらく何も言いませんでした。
やがて。
「この話は、私が決めるものではありません」
「私も」
「ですが」
「うん」
「陛下へ報告する予定はあります」
「今日?」
「今日です」
「じゃあ一緒に行く?」
「最初から、そのつもりでした」
「先に言って」
「エリクサーの説明を聞く方が先でした」
「そっか」
「王立協会会員としては」
「はい」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
ケンジントン。
どろちゃんは、前に自分が泊まった部屋の近くを通りました。
「服、返ってくるかな」
「お嬢様」
「冗談」
「半分ほど本気に聞こえました」
「半分だけ」
取り次ぎを待ちます。
許可が出ました。
部屋にいたアン女王は、もうどろちゃんの服ではありません。
新しく仕立てた服です。
「間に合ったんだ」
「何がです」
「服」
「伯爵」
「はい」
「最初の言葉がそれですか」
「似合ってるよ」
「ありがとうございます」
アン女王が少し笑いました。
その横に、ジョージ王配もいます。
フックが礼をします。
どろちゃんも、それに続きました。
「陛下。ご報告申し上げます」
「どちらの?」
「身体の方は、フックさんに全部話しました」
「全部?」
「飲んだところから」
「光ったところも?」
「はい」
アン女王がフックを見ます。
「あなたは、どう考えます」
「分かりません」
返事が早いです。
「ずいぶん簡潔ですね」
「同じものを作れず、同じ条件を再現できず、同じ変化が別の人に起こるとも確認できません。少なくとも、通常の医術として扱えるものではありません」
「では記録だけ」
「はい。詳細に残します」
「それでよいです」
アン女王は、そこでどろちゃんを見ました。
「会議の方も?」
「持ってきました」
「それは後で書記へ渡してください」
「はい」
少し間がありました。
女王の顔から笑いが減りました。
「それより、別の話があります」
フックがわずかに姿勢を変えました。
どろちゃんは、もう何の話か分かっています。
「マールバラ公爵?」
「聞きましたか」
「少し」
「彼は有能です」
「うん」
「公爵夫人も有能です」
「うん」
「だから困っています」
アン女王は、机に置かれた紙を見ました。
「戦争継続を主張すること自体を罪にする気はありません」
「それがいいと思う」
「しかし、私が国として和平を選んだあと、軍の指揮官が独自に戦争を続ける余地は残せません」
「うん」
「公爵を侮辱して敵に回すことも避けたい」
「うん」
「公爵夫人についても同じです。長い付き合いがあります。意見が合わないからといって、牢へ入れるようなことはしたくありません」
どろちゃんは頷きました。
「仕事に出す?」
アン女王が止まりました。
フックも止まりました。
ジョージ王配だけが、少しだけ口元を動かしました。
「伯爵」
「はい」
「ロバートから、何か聞きましたね」
「軍務なら勝手に帰ってこられないって」
「そこまで私は言っていません」
フックが即座に言いました。
「私が考えた」
「知っています」
アン女王が、椅子の背へ少し寄りかかりました。
「どこへ」
「島」
「ずいぶん広いですね」
「英国の島いっぱいあるから」
「本国の島では意味がありません」
「じゃあ遠いところ」
「どの程度」
「船で何週間も」
ジョージ王配が、とうとう笑いました。
「アン」
「何です」
「この伯爵は、かなり真剣だ」
「分かっています」
「私も真剣だよ」
「それが困るのです」
アン女王は地図を持ってこさせました。
大西洋。
北アメリカ。
西インド諸島。
島がいくつもあります。
どろちゃんは地図を覗きました。
「ここは?」
「バミューダです」
「遠い?」
「十分に」
「軍はいる?」
「守備は必要です」
「港は?」
「あります」
「砦は?」
「あります」
「問題は?」
アン女王が、別の紙を取らせました。
植民地の行政。
守備。
港。
倉庫。
兵站。
民兵。
密輸。
島の防備。
仕事はあります。
「ちゃんと仕事ある」
「ありますね」
アン女王が言いました。
「公爵の経験を使う余地もある」
「大きな会戦は?」
「ありません」
「それがいいかも」
「なぜです」
「大活躍したら、もっと偉くなって帰ってくるでしょう」
フックが目を閉じました。
「伯爵」
「なに?」
「口に出しましたね」
「だめ?」
「私は聞かなかったことにします」
アン女王は、笑いませんでした。
でも怒りもしません。
「公爵に、大軍を与える必要はありません」
「うん」
「しかし、島の防備、守備隊の整理、港湾、兵站、行政との調整。能力は必要です」
「向いてる?」
「おそらく」
「じゃあ、本当に仕事だ」
「そうですね」
アン女王は地図を見たまま、しばらく考えました。
「公爵夫人は」
「長期なら一緒でいいんじゃない?」
「本人が望まなければ」
「行かない?」
「夫人が残れば、宮廷に残ります」
「……一緒がいいね」
アン女王が、今度は少しだけ笑いました。
「そう思いますか」
「夫婦でしょう」
「そういう理由にしておきましょう」
◇ ◇ ◇
任命書は、すぐには出ませんでした。
英国には英国の手続きがあります。
役職。
権限。
給与。
現地で使える公金。
守備隊との関係。
植民地行政との関係。
本国へ送る報告。
命令系統。
紙が増えます。
どろちゃんは途中まで見ていましたが、だんだん分からなくなりました。
「まだ?」
「国家の役職です」
「飛行計画より長い」
「比べるものではありません」
フックが言いました。
表向きの任命は、立派なものになりました。
マールバラ公爵ジョン・チャーチル。
女王陛下の命により、バミューダにおける特命軍務監察、守備・港湾・兵站その他必要な軍務を統轄する。
現地の行政官と協力し、島の防備と秩序を整える。
公爵の経験にふさわしい職です。
左遷とは、どこにも書いてありません。
「任期は?」
どろちゃんが聞きました。
書記官が紙を見ました。
「女王陛下が任務の終了を認めるまで」
「何年?」
「年数では定めません」
「じゃあ帰ってきちゃうかも」
アン女王が、別の紙を見ました。
「それについては、こちらです」
「なに?」
本国側の人事管理に使う内部文書。
次回の後任選定を開始する予定。
五十年後。
どろちゃんは、二度見ました。
「五十年」
「はい」
「長いね」
「長期任務ですから」
アン女王の返事は平静でした。
フックが紙から目を離しました。
「陛下」
「何です」
「公爵は現在五十二歳です」
「存じています」
「五十年後ですと」
「後任を急いで探す必要がなくなりますね」
フックは黙りました。
どろちゃんも、少し考えました。
「お墓、バミューダになるかも」
「伯爵」
「はい」
「それは今、言わなくてよいことです」
「はい」
◇ ◇ ◇
問題は、公爵夫妻が行きたがるかどうかでした。
命令なら公爵は行かなければなりません。
軍務です。
でも最初から不機嫌にして送り出す必要はありません。
そこで出航前。
夫妻は、乗る軍艦を案内されました。
まだ港の中です。
揺れは小さいです。
艦尾側には、公爵夫妻が長い航海をするための居室が用意されています。
寝台。
机。
椅子。
食事のできる場所。
窓。
荷物を置く場所。
秘書官が使う机も近くにあります。
艦上なので宮殿ほど広くはありません。
でも、普通の兵が使う場所とはまったく違います。
サラ・チャーチルは、中へ入って、最初に窓を見ました。
「思っていたより明るいのね」
案内役が答えます。
「航海が長くなりますので、公爵夫人にもできる限り不自由のないよう整えております」
「こちらが寝室?」
「はい」
「机は」
「こちらです」
「書類箱は置ける?」
「十分に」
サラは、もう一つの部屋も見ました。
「ジョン」
「何だ」
「あなたが言っていたほど悪くないわ」
マールバラ公爵も、艦尾の窓から外を見ました。
軍艦です。
船員が動いています。
砲があります。
索具があります。
甲板では出航準備が続いています。
「軍務で行くのだからな」
「島でしょう?」
「島だから防備が要る」
「大陸より暖かいのかしら」
「そう聞いている」
「それなら、少なくとも冬の泥よりはましね」
サラは、わりと機嫌がよさそうでした。
どろちゃんは、その様子を少し離れたところから見ています。
「行きたそう」
隣のフランソワさんが言いました。
「お嬢様」
「なに?」
「聞こえます」
「小さく言ったよ」
「この船室では、意外と響きます」
「じゃあ黙る」
「お願いいたします」
アン女王本人は、船まで来ていません。
送別の文書は届いています。
重要な海外軍務を託すこと。
公爵の経験を高く評価していること。
夫人の同行を認めること。
現地で必要な権限を与えること。
どれも嘘ではありません。
公爵は任命を受けました。
夫人も同行します。
秘書官。
従者。
必要な荷物。
全部が船へ入りました。
やがて。
岸との綱が外されます。
船がゆっくり動きました。
港を離れます。
テムズを下ります。
サラは艦尾の窓から、しばらく岸を見ていました。
「帰るころには、ずいぶん変わっているでしょうね」
誰も、五十年とは言いませんでした。
ジョン・チャーチルは、これからバミューダで軍務に就きます。
守備隊を整えます。
砦を見ます。
港を見ます。
倉庫を見ます。
兵站を見ます。
行政官と揉めます。
密輸にも悩まされます。
仕事は、たくさんあります。
大きな会戦はありません。
ブレンハイムも。
ラミイも。
アウデナールデも。
マルプラケも。
この世界では、まだありません。
そして。
もう、ありません。
◇ ◇ ◇
船が見えなくなってから。
どろちゃんはフックを見ました。
「これで大丈夫かな」
「何がです」
「女王様の近くで、戦争続けようってしない」
「少なくとも、すぐには難しいでしょう」
「バミューダ遠いもんね」
「ええ」
「ちゃんと仕事もある」
「ええ」
「ひどくないよね」
フックは、すぐには答えませんでした。
「公爵本人が非常に有能であれば」
「うん」
「島の防備と行政は、かなり改善されるかもしれません」
「いいことだ」
「そうですね」
「じゃあ、みんな得してる」
「公爵夫妻を除けば、そうかもしれません」
「本人たちも今、機嫌よかったよ」
「今は」
「ろばーとっち」
「何です」
「言い方が悪い」
「あなたに言われたくありません」
どろちゃんは笑いました。
海の向こうへ、船はもう見えません。
今度は飛行機ではありません。
帰ってくる時間も、決めてありませんでした。
◇ ◇ ◇
第47章の小さな説明
【ロバート・フックへの説明】
アン女王は第46章で神様から届いた本人専用のエリクサーを自ら服用し、身体だけが結婚当時の十八歳前後まで回復・若返りました。
どろちゃんは王立協会の正式会員であり、女王とともにエルレンフェルトから帰国した当事者でもあります。
ロバート・フックから見れば、会員の一人が同行した先で国家元首に説明不能な身体変化が起きたことになります。そのため、どろちゃん自身が観察経過を説明し、通常の医薬品ではなく、再現も製造もできない一回限りの事例であることを記録します。
【マールバラ公爵夫妻】
ジョン・チャーチルと妻サラは、アン女王の治世初期に強い政治的・軍事的影響力を持つ人物です。
本作では一七〇三年二月のエルレンフェルト条約によって、イングランドを含む四締約者間の大規模な戦争継続が止まります。
そのため、戦争継続を主張したことそのものを罪にはせず、軍人として必要な仕事を与えたまま、本国政治と大陸軍の指揮から物理的に遠ざける処理を採ります。
【バミューダ赴任】
本作では、マールバラ公爵をバミューダの長期軍務へ派遣します。
守備、港湾、防備施設、兵站、守備隊、行政との調整など、実際に必要な仕事を担当するため、名目だけの流刑ではありません。
軍務である以上、本人の判断だけで任地を離れて帰国することはできません。
長期任務として公爵夫人サラの同行も認めます。
表向きの任期は「女王陛下が任務終了を認めるまで」ですが、本国側の内部人事文書では、後任選定の開始予定を五十年後に置きます。
【この世界のマールバラ公爵の評価】
現実の歴史では、マールバラ公爵は一七〇四年以後のブレンハイム、ラミイ、アウデナールデ、マルプラケなどの大戦役によって、ヨーロッパを代表する軍司令官の一人として評価されます。
本作では、その前の一七〇三年に大陸軍の指揮から外れ、バミューダへ赴任します。
したがって、大規模な会戦で指揮能力を証明する機会そのものがなくなります。
バミューダでは軍務・防備・港湾・行政面で有能さを示しますが、後世の評価は「非常に有能な軍人・行政官だったが、大規模会戦での能力は検証されなかった人物」となります。
この時間線では、ジョン・チャーチルは英国本土へ恒久的に戻ることなく、後にバミューダで死去し、墓も同地に置かれます。




