46神様は、戦争をやめた人にご褒美をくれます。 せっかく異世界なので
第46章 神様は、戦争をやめた人にご褒美をくれます
港から戻った日の昼前。
ホテルの玄関に、また人が集まっていました。
「今度は何?」
どろちゃんが聞きます。
「分かりません」
ホテルの担当の女性が答えました。
「朝にはございませんでした」
「また神様?」
「おそらく」
玄関の奥。
大きな箱が四つ。
それから。
箱ではないものが一つ。
薄い金属板です。
「五つ?」
フランソワさんが数えました。
「一、二、三、四……五だね」
「今回の代表団も、五者でございました」
「うん」
四つの箱には、それぞれ行き先ではなく、人が分かるような印が付いていました。
フランス。
イングランド。
ネーデルラント。
サヴォイア。
「国への荷物?」
お父様が首を振りました。
「違うようだ」
箱の上に、小さな札があります。
どろちゃんが読みました。
「今回、自分で決めた人へ、だって」
「自分で?」
「戦争を続けるか、やめるか。その最後の判断をした人」
お父様は四つの箱を見ました。
「では、国への贈答ではないな」
「うん。個人のご褒美みたい」
そこまで読んで。
どろちゃんは、床に置かれた薄い金属板を見ました。
「じゃあ、こっちは?」
持ち上げます。
重くはありません。
でも、紙ではありません。
消えないように、最初から金属へ文字が刻まれています。
こちらはキリル文字ではありません。
この場にいる誰でも読める、ナーロッパの共通語です。
「読めます?」
「読めるよ。みんなも読める」
どろちゃんは、一行目を指で追いました。
参加賞。
少し止まりました。
「……参加賞」
「参加賞?」
帝国側の代表が聞き返しました。
「そう書いてある」
次です。
神聖ローマ帝国。
帝国側の人たちが、全員こちらを見ました。
「ちゃんと帝国のだね」
「続きは?」
「ある」
どろちゃんは読みます。
全権を持つ皇帝が来ていません。
また次回。
静かになりました。
どろちゃんは、もう一度金属板を見ました。
「……すごく分かりやすい」
お父様も見ます。
「皇帝陛下がおられないから、今回はここまで、という意味だろう」
「神様、忘れてなかった」
「忘れていたと思ったのですか」
帝国側の代表が、少しだけ嫌そうな顔をしました。
「だって、箱が四つしかなかったから」
「我々には板がございます」
「参加賞だけどね」
「そこは二度言わなくてよろしい」
アン女王が、少し口元を動かしました。
ルイ十四世も、笑わないようにしている顔です。
帝国側の代表は、金属板を両手で持ち直しました。
「これは持ち帰ります」
「うん。皇帝陛下に見せてね」
「必ず」
「次は本人来るかな」
「そのように申し伝えます」
参加賞なのに。
ずいぶん重い仕事をする板になりました。
◇ ◇ ◇
四つの箱は、全員がいるところで開けることになりました。
「先に一つだけ開けると、あとで面倒になる」
お父様が言いました。
「中身違うもんね」
「違うと決まったわけではない」
「神様だよ?」
「だからこそだ」
会議室へ運びます。
昨日まで世界地図が広がっていた大きな机の上です。
今日は地図を端へ寄せました。
最初は、フランスの箱。
ルイ十四世が前に立ちます。
「余が開けるのか」
「王様のだから」
「爆発はせぬだろうな」
「神様、そこまで性格悪くないと思う」
「思う、か」
「たぶん」
「不安を増やすな」
留め具を外します。
中には、さらに布に包まれたものがありました。
ルイ十四世自身ではなく、付きの人が慎重に布を開きます。
金色が見えました。
「……」
「わ」
どろちゃんが先に声を出しました。
高さは三十センチほど。
台座の上に、一人の男が立っています。
長い髪。
豪華な衣装。
片足を少し前へ出した立ち姿。
小さな剣。
細かな飾り。
そして顔。
どう見ても、ルイ十四世でした。
「王様だ」
「見れば分かる」
「すごく王様」
「それも見れば分かる」
像は金でできています。
衣装の留め具。
剣の柄。
胸元。
ところどころに、本物の宝石が入っています。
ルイ十四世が手に取りました。
「重いな」
「金だもん」
「全部か」
「分からない。壊して調べないよ」
「当然だ」
しばらく見てから、ルイ十四世が言いました。
「神は、余というものをよく理解しているらしい」
「自分の金像、気に入った?」
「気に入らぬとは申しておらぬ」
「気に入ったんだ」
「ドロテーヤ」
「はい」
箱にはまだ底がありました。
三枚の大きな板状のもの。
どろちゃんが見た瞬間、動きが止まりました。
「……写真」
「また未来のものか」
ルイ十四世が聞きます。
「みたい」
一枚目。
下に数字。
一八〇〇。
二枚目。
一九〇〇。
三枚目。
二〇〇〇。
どれもパリです。
けれど、一七〇三年のパリではありません。
「これは、同じ町なのか」
「うん」
「一八〇〇」
「百年くらい先」
ルイ十四世は、そこを長く見ました。
知っている道筋があります。
知っている建物があります。
でも、知らないものが増えています。
二枚目。
一九〇〇年。
巨大な鉄の塔。
広がった町。
道路。
建物。
人。
「この塔は何だ」
「写真に名前は書いてないよ」
「そなたなら分かるのではないか」
「神様が見せてくれた写真の範囲だけにしようよ」
「答えになっておらぬな」
「未来のパリを全部説明する会議じゃないでしょう」
三枚目。
二〇〇〇年。
さらに町が広がっています。
それでも、残っているものがあります。
ルイ十四世は、写真を一枚ずつ戻って見ました。
「一八〇〇」
「うん」
「一九〇〇」
「うん」
「二〇〇〇」
「うん」
「三百年後まで、パリはあるのか」
「あるね」
昨日。
どろちゃんは、この人に言いました。
何百年たっても、パリは芸術の都と呼ばれるかもしれない。
土地を取るより、文化の方が長く残るかもしれない。
今、その答えの一部が机にあります。
「昨日の話」
どろちゃんが言いました。
「覚えてる?」
「余は、一日で忘れるほど老いてはおらぬ」
「神様、聞いてたみたい」
ルイ十四世は、三枚目を持ったまま黙りました。
「余の領土が、どこまで残っているかは分からぬな」
「写真じゃ分からないね」
「王朝も」
「分からない」
「だが、パリは残っている」
「うん」
ルイ十四世は、また金の自分を見ました。
三十センチです。
未来のパリは、一枚の写真の中でも、ずっと大きい。
「こちらが褒賞で、像は余興かもしれぬな」
「金と宝石もかなり褒賞だよ」
「両方受け取っておこう」
「そこは迷わないね」
「神が余へ下さったものだ」
「はいはい」
「伯爵」
「はい」
ルイ十四世は笑いました。
◇ ◇ ◇
次はサヴォイアでした。
箱が大きいです。
開けると、最初に十字架が出てきました。
金。
こちらにも宝石が入っています。
小さなものではありません。
礼拝堂に置いても違和感のない、かなり豪華な十字架です。
サヴォイア公が慎重に持ち上げました。
「これだけでも、十分すぎるが」
「下、まだあるよ」
「分かっている」
箱の中から、もう一つの箱が出ます。
こちらは平たく、幅があります。
蓋を外します。
全員が少し前へ寄りました。
「町?」
小さな建物。
道。
川。
広場。
教会。
遺跡。
壁。
ものすごく細かい都市模型です。
「ローマだ」
サヴォイア公が先に言いました。
「うん。でも……」
どろちゃんは端にある数字を見ました。
二〇〇〇。
「未来のローマ」
模型には、二種類の建物がありました。
普通の素材で作られた建物。
そして金で作られた建物。
「なぜ、一部だけ金なのだ」
「待って。説明ある」
小さな札があります。
神様の文字です。
どろちゃんが読みました。
「一七〇三年にすでにあって、二〇〇〇年にも残っている建物だけ、金」
サヴォイア公の手が止まりました。
「残るものを示しているのか」
「そうみたい」
コロッセオ。
パンテオン。
サン・ピエトロ大聖堂。
古い教会。
宮殿。
広場の一部。
全部ではありません。
消えるものもあります。
新しく生まれるものもあります。
でも、三百年後の巨大な町の中で、いまのローマが金色の島のように残っています。
「この白い大きな建物は?」
サヴォイア公が、未来にできる建物を指しました。
「模型に名前は書いてないよ」
「そなたにも分からぬか」
「二〇〇〇年のローマの建物を、全部知ってるわけないでしょう」
「この道路は」
「模型から分かるのは、二〇〇〇年にはここにあるってことだけ」
「この町並みを、そのまま作れという意味か」
「違うと思う」
「なぜ」
「だって神様、未来の建物を金にしてないもん」
どろちゃんは、模型を横から見ました。
「金なのは、残った方でしょう」
「……なるほど」
「新しいものを作るな、でもない。古いものを全部そのままにしろ、でもないと思う」
「では何だ」
「三百年後でも、残す価値があると思われたものがあるってことじゃない?」
サヴォイア公は、金の十字架を見ました。
それから。
未来のローマを見ました。
すぐには何も言いませんでした。
◇ ◇ ◇
三つ目はイングランドです。
アン女王の箱には、細長い木箱がいくつも入っていました。
「また箱」
「中にまだあるのですね」
「たぶん」
一つ開けます。
船でした。
模型です。
帆があります。
もう一つ。
帆がありません。
煙突があります。
次。
鋼でできたような巨大な船。
さらに次。
どろちゃんにも見覚えのある、未来の貨物船らしい形。
甲板には、小さな四角い箱がびっしり積まれています。
アン女王の目が、一番最後の船で止まりました。
「これは、何を運ぶ船です?」
「たくさん」
「ずいぶん曖昧ですね」
「箱をいっぱい載せて、いろいろ運ぶ船」
「どこへ?」
「世界中」
アン女王は模型を持ち上げました。
「この国は、三百年後にも船を使っているのですか」
「少なくとも、神様はそういうものを入れたみたい」
「よろしいですね」
返事が早かったです。
ルイ十四世が横から言いました。
「そなたは未来の船でも、まず商売を見るのだな」
「船は浮かべて眺めるためのものではありません」
「軍艦もあるぞ」
「軍艦にも費用がかかります」
「そこへ戻るか」
「戻ります」
まだ箱の隅に、小さなものがあります。
ガラスの瓶。
中には、透明とも金色ともつかない液体。
光の角度で色が少し変わります。
「これ、何?」
どろちゃんが取り上げる前に、文字を見ました。
瓶の札は、この場の誰でも読めるナーロッパの共通語です。
エリクサー。
アンへ。
「……エリクサー?」
「ご存じですか」
アン女王が聞きました。
「言葉は」
「中身は?」
「知らない」
どろちゃんは瓶を光へかざしました。
「私の知ってる薬じゃない」
「神から来たのでは?」
「だから余計に分からない」
瓶の下に、折った紙があります。
またキリル文字です。
どろちゃんは開きました。
読めます。
最初の一行を読んだところで。
手が止まりました。
「どうしました?」
アン女王が聞きます。
「……」
「読めないのですか」
「読める」
「では、何と?」
どろちゃんは、もう一度紙を見ました。
「あとで」
「なぜ?」
「ここで読むものじゃないと思う」
アン女王の顔から、少しだけ笑いが消えました。
「私に関することですね」
「うん」
「悪いこと?」
「……悪いことが書いてあって、そのまま終わる手紙じゃない」
「ずいぶん分かりにくい説明ですね」
「ごめん」
どろちゃんは紙を畳みました。
「これは、女王様に渡す」
「分かりました」
アン女王は、それ以上ここでは聞きませんでした。
◇ ◇ ◇
最後はネーデルラントです。
こちらの箱は、見た目だけなら一番普通でした。
大きさも、それほどありません。
「軽いな」
受け取った全権が言いました。
「金の像ほどは重くないと思う」
「比較対象がおかしい」
蓋を開けます。
中にあったものを見て。
本人が閉めました。
「なぜ閉めるの」
「見間違いかと思いました」
「もう一回見れば?」
「そうします」
また開けます。
王冠です。
金。
宝石。
立派です。
どこから見ても王冠です。
「……」
「王冠だね」
「言わなくても分かります」
「かぶる?」
「かぶりません」
「即答」
「共和国の全権が、外国の会議から王冠をかぶって帰ったら、別の戦争が始まります」
「それは困る」
アン女王が、王冠を横から見ました。
「誰の紋章もありませんね」
「はい」
「スペイン王家の印もない」
全権が、自分でも確かめました。
「ない」
「では、何を意味するのでしょう」
「私に聞かないで」
どろちゃんが言いました。
「神様、説明書入れてない?」
箱の底を見ます。
ありません。
「ない」
「王国になれ、という意味でしょうか」
ネーデルラント側の一人が言いました。
「そこまで分からないよ」
「ではなぜ王冠なのです」
「少なくとも、スペインの王冠じゃないってことじゃない?」
誰もすぐには答えませんでした。
どろちゃんは、王冠そのものを指しました。
「スペインから離れて、自分たちで何になるか決めなさい、くらいかも」
「共和国のままでも?」
「神様、かぶれって書いてないでしょう」
「書いていません」
「じゃあ、王冠だけ見せて、考えろってことかもしれない」
「迷惑な褒美ですな」
ルイ十四世が言いました。
「そなたの金像よりは、軽いですよ」
「重量の話ではない」
「こちらも重量の話ではありません」
少し笑いが起きました。
ネーデルラントの全権は、王冠をもう一度箱へ戻しました。
とても丁寧に。
「これは持ち帰ります」
「個人のご褒美だって」
「だから困っているのです」
「家に飾る?」
「もっと困ります」
◇ ◇ ◇
その日の夕食。
正式な晩餐は、前日と同じ食器を使いました。
金彩。
花。
金色のカトラリー。
きらきらするクリスタルグラス。
最初の会議で使った白い皿より、今度の方が明らかに目立ちます。
「これ、持って帰ってよいのですか」
最初に聞いたのが誰だったか、どろちゃんには分かりませんでした。
でも、一人が聞くと。
隣も聞きます。
「前回は持ち帰れたと聞きました」
「箱も残っております」
「この花の皿も?」
「グラスもでしょうか」
「カトラリーも?」
どろちゃんはホテル担当の女性を見ました。
「箱ある?」
「ございます」
「人数分?」
「ございます」
「神様、やっぱり持って帰ると思ってたんだ」
「そのようでございます」
「じゃあ、いいよ」
フランソワさんが、横から小さく言いました。
「お嬢様」
「なに?」
「今回は、かなり立派なものでございます」
「でも箱あるよ」
「ございますが」
「前回も持って帰ったでしょう」
「はい」
「定番になったんじゃない?」
フランソワさんは、少しだけ考えました。
「神様がそのようにお考えなら」
「たぶん」
その返事を聞いていた人たちの顔が、少し明るくなりました。
王冠。
金像。
未来のローマ。
未来の船。
それとは別に。
晩餐で自分が使った皿とカップを持って帰れることも、ちゃんと嬉しいようでした。
料理長さんは、少し離れたところでそれを見ていました。
「料理より器の方が人気ではございませんか」
「魚もおいしかったよ」
「では、よろしゅうございます」
「料理長さんも皿欲しい?」
「私は厨房で使うものがございます」
「強い」
食事が終わると、使った器はいつものように洗われました。
乾かします。
数を確認します。
そして今回は、棚へ戻さず。
神様が最初から用意していた梱包材へ、一組ずつ入っていきました。
皿。
小皿。
カップ。
ソーサー。
金色のカトラリー。
グラス。
「割らないでね」
どろちゃんが言いました。
「お嬢様がお運びになります」
「私?」
「飛行機でございます」
「そうだった」
◇ ◇ ◇
晩餐が終わりました。
人が少しずつ部屋へ戻ります。
どろちゃんも自分の部屋へ戻りました。
机の上に、神様の手紙の写しがあります。
本物はアン女王へ渡しました。
でも、文章は覚えています。
短いです。
短いから、余計に困ります。
「どうする?」
どろちゃんが言いました。
フランソワさんが、暖炉の近くで振り返ります。
「何をでございますか」
「女王様の手紙」
「まだ、お訳しになっておられませんね」
「うん」
「昼間は、皆様がおられましたので」
「だからやめた」
「よろしかったと思います」
「でも、このまま帰したら?」
フランソワさんは答えませんでした。
どろちゃんも黙りました。
自分はエルレンフェルト公爵家の娘です。
ここでは、お父様の娘。
ライデンでは学生でもあります。
薬剤医師でもあります。
飛行機に乗れば操縦する人です。
そして。
イングランドでは伯爵です。
その爵位をくれたのは、ウィリアム三世でした。
アン女王ではありません。
でも。
「……今の王様は、アン女王なんだよね」
「はい」
「私、女王様から爵位もらったんじゃないけど」
「爵位は引き継がれております」
「じゃあ、イングランド伯爵としては、あの人が私の女王様」
「左様でございます」
どろちゃんは立ちました。
「行く」
「私も参ります」
「うん」
「お召し替えは?」
「これでいい」
「夜でございます」
「病気と寿命の話に、服選んでる時間いらない」
フランソワさんは、それ以上言いませんでした。
◇ ◇ ◇
アン女王の部屋には、まだ灯りがありました。
いきなり入ることはできません。
取り次いでもらいます。
少し待ちます。
許可が出ました。
部屋にはアン女王。
王室医師。
女官。
側近。
昼間のエリクサーも、机の上にあります。
まだ開けていません。
「陛下」
どろちゃんは礼をしました。
「昼間の手紙を訳しに来ました」
「考え直したのですね」
「はい」
「なぜ?」
どろちゃんは、少し迷いました。
「私は、イングランドの伯爵だから」
「あなたを伯爵にしたのは、前王です」
「でも、いま私の女王様なのは陛下でしょう?」
アン女王は、すぐには答えませんでした。
「そうですね」
「だから、私が読めるのに、黙って帰すのは違うと思った」
「分かりました。お願いします」
どろちゃんは、アン女王が持っていた紙を受け取りました。
開きます。
キリル文字。
一文目。
「Вам придётся ещё одиннадцать лет жить в страданиях.」
(ヴァム・プリヂョーツァ・イショー・アヂーンナツァチ・リェート・ジーチ・フ・ストラダーニヤフ。)
どろちゃんは、そこで一度止まりました。
「そのまま言ってください」
アン女王が言いました。
「はい」
どろちゃんは訳しました。
「『あなたは、苦しい思いをしながら、まだ十一年間も生きなければいけません』」
部屋が静かになりました。
王室医師がアン女王を見ます。
女官も。
アン女王は紙を見たままでした。
「十一年」
「はい」
「それは、私があと十一年で死ぬという意味ですか」
「私は、そう読んだ」
「神が?」
「うん」
「続きは」
どろちゃんは次を読みました。
「Я этого не желаю.」
(ヤー・エータヴァ・ニ・ジェラーユ。)
「『それは、私の望むところではありません』」
それだけです。
長い説明はありません。
病名もありません。
薬の成分もありません。
十一年。
苦しい。
それを望まない。
そして、エリクサーが一本。
アン女王は、机の上の瓶を見ました。
「これを飲め、という意味でしょうね」
「たぶん」
「あなたは、これが何か分からないのでしょう」
「分からない」
「昼間、薬ではないと言いましたね」
「私の知ってる医学の薬じゃない」
「毒の可能性は?」
王室医師が聞きました。
「成分が分からないから、医学だけなら否定できません」
「では、飲ませられない」
「そう言うと思った」
「当然でしょう」
「うん。私が医師でもそう言う」
アン女王が、二人を見ました。
「では、ドロテーヤ伯爵」
「はい」
「医師ではなく、神から何度も物を受け取ってきた人として答えてください」
どろちゃんは困りました。
「そっちはもっと難しい」
「それでも」
「……神様、私たちを困らせるものはよく送ってくる」
「存じています」
「飛行機とか、工作機械とか、燃料とか、冷蔵庫とか」
「はい」
「でも、わざと人を殺すものを、名前付きで薬みたいに送ってきたことはない」
「では、あなたなら飲みますか」
どろちゃんは、すぐには答えませんでした。
「私の名前が書いてあって」
「はい」
「私が苦しんで、あと十一年しか生きないって書いてあって」
「はい」
「それを神様が望まないって書いてあったら」
「はい」
「……私は飲むと思う」
アン女王は、そこで初めて王室医師を見ました。
「あなたは反対しますね」
「いたします。少なくとも、医師としては。何が入っているのか分からないものを、陛下にお勧めすることはできません」
「もし飲むと決めたら?」
「止めます」
「それでも私が飲めば?」
医師は、しばらく答えませんでした。
「そばにおります」
「それでよいです」
アン女王は女官を見ました。
「あなたたちもいてください」
「陛下」
「一人で飲んで、明日の朝に何か起きていた、では困るでしょう」
「しかし」
「だから、見ていてください」
どろちゃんは瓶を見ました。
「今?」
「今です」
「明日の朝でも」
「十一年と書かれた手紙を読んだあと、これを枕元に置いて眠れると思いますか」
「……それは無理かも」
「でしょう?」
アン女王が瓶を取りました。
小さな栓を外します。
王室医師が止めようと手を出して。
途中で止めました。
女官が息を詰めています。
「全部飲むの?」
どろちゃんが聞きました。
「一人分なのでしょう」
「そう書いてある」
「では」
アン女王は飲みました。
◇ ◇ ◇
最初の数秒。
何も起きませんでした。
「味は?」
どろちゃんが聞きます。
「今、それを聞きますか」
「大事かと思って」
「少し甘いような……」
そこまで言って。
アン女王が胸元へ手を置きました。
「陛下?」
医師が近づきます。
「熱い」
「どこがです」
「身体の中が」
「息は?」
「できます」
「痛みは?」
「ありません」
次の瞬間。
瓶の中ではなく。
アン女王の身体の内側から、淡い光が出ました。
皮膚の下を、細い線が走るように見えます。
青でもありません。
金でもありません。
色そのものが決めにくい光です。
腕。
首。
顔。
胸。
脚。
身体の中を一周するように広がります。
「座って」
どろちゃんが言いました。
「もう座っています」
「そうだった」
医師が脈を取ります。
「速い」
「危険?」
「分かりません」
「私も」
光が強くなりました。
女官の一人が、思わず一歩下がります。
アン女王本人は、目を閉じました。
「痛い?」
「いいえ」
「苦しい?」
「いいえ。むしろ……」
「なに?」
「軽い」
変化が始まりました。
まず、手です。
むくんでいた指から、余分な腫れが引いていきます。
指輪が緩くなりました。
「外して」
どろちゃんが言いました。
女官が急いで指輪を外します。
次は顔。
腫れぼったさが減ります。
首の線が変わります。
肩。
腕。
衣装が、少しずつ身体から離れていきます。
「……服」
「陛下、動かないでください」
「動いていません」
腰回り。
脚。
体型そのものが変わっていきます。
ただ痩せるのではありません。
水が抜けただけでもありません。
長い間の病気。
痛み。
動けなかった時間。
それらが身体に積み上げたものを、一つずつほどいていくようでした。
アン女王が、急に足を動かしました。
「待って」
「痛くない」
「まだ立たないで」
「膝が痛くありません」
「分かったから、まだ座ってて」
今度は顔です。
どろちゃんは、思わず何も言えなくなりました。
年齢が変わっていきます。
髪そのものが別人になるわけではありません。
顔立ちも同じです。
でも。
皮膚。
輪郭。
目の周り。
頬。
年齢だけが、少しずつ戻っていきます。
王室医師が脈を取ったまま、手を止めました。
「……陛下」
「何です」
「お顔が」
「顔?」
アン女王が目を開けました。
女官たちが、誰も答えません。
「鏡を」
一人が動きません。
「鏡を持ってきてください」
「はい」
今度は走りました。
大きな鏡が運ばれます。
アン女王が見ました。
長い時間。
何も言いません。
どろちゃんも、横から見ています。
「……私です」
「うん」
「これは」
アン女王が、自分の頬へ手を当てました。
「結婚した頃の私です」
どろちゃんが、鏡と本人を交互に見ました。
「十八歳くらい?」
「ええ」
「若返るって書いてなかった」
「書いていませんでした」
「神様、説明足りない」
「今、それをおっしゃるのですか」
「だって」
アン女王が、立ち上がりました。
医師と女官が同時に手を出します。
「待ってください」
「陛下」
「少しだけです」
一歩。
二歩。
三歩。
止まりません。
痛みで顔が変わりません。
足をかばいません。
椅子を探しません。
部屋の端まで歩きました。
戻ってきます。
「痛くない」
声が少し変わりました。
「どこも?」
「膝も。足も。腰も」
「むくみ見る」
「今ですか」
「今」
女官が手伝います。
どろちゃんは足首と脛を見ました。
昨日まであった腫れがありません。
指で押します。
離します。
跡が残りません。
もう一度。
「二度も?」
「信じられないから」
「結果は?」
「残らない」
左右も見ます。
熱感。
痛み。
ありません。
どろちゃんは、しばらく黙っていました。
「アセチルサリチル酸」
「はい?」
「明日、もう一回診てからだけど。今までと同じ理由で飲み続けるのは、一回止めて考えよう」
「治ったと?」
「分からない」
「まだ?」
「こんなの見て、分かったって言える医者いないよ」
王室医師が、初めて頷きました。
「その点だけは、同意いたします」
「ね」
そこで。
別の問題が起きました。
「陛下」
女官が困った顔をしています。
「何です?」
「お召し物が」
アン女王も下を見ました。
さっきまで身体に合わせて作られていた服が、完全に大きくなっています。
腰。
胸元。
袖。
どこも合いません。
女官たちが押さえています。
「……着る服がありませんね」
「あるよ」
どろちゃんが言いました。
全員が見ました。
「私の」
「お嬢様のお召し物を?」
フランソワさんが聞きます。
「だって、女王様をこれで帰せないでしょう」
「それは、もちろんでございますが」
「私、予備あるよ」
アン女王が、少し笑いました。
「伯爵の服を借りる女王、ですか」
「上司だから」
「上司?」
「イングランドでは」
アン女王の笑いが、今度は少し大きくなりました。
「では、部下の服を借りましょう」
「はい」
◇ ◇ ◇
どろちゃんの旅行用の服が運ばれました。
一番調整しやすいもの。
紐で合わせられるところがあります。
女官が少し詰めます。
袖を直します。
腰を合わせます。
上着も貸しました。
「全部返さなくてもいいよ」
「返します」
「女王様なら服いっぱい作るでしょう」
「だからこそ返します」
「そっか」
鏡の前に立ったアン女王は、もう昼間の姿ではありません。
三十八歳の女王としての記憶。
二十年間の経験。
亡くした子供たちのこと。
王位。
政治。
全部そのままです。
身体だけが、結婚した頃へ戻っています。
どろちゃんの服を着ているので、王室の肖像画のようにも見えません。
どこかの若い貴族の娘にしか見えないかもしれません。
「これで帰ったら、みんな驚くね」
「驚くでしょうね」
「王配殿下も」
アン女王は、そこで少し黙りました。
「……ええ」
さっきまで笑っていた顔が、静かになりました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
帰国便が始まりました。
一便目はフランス。
ミツバチちゃんの後ろには、いつもの書類箱だけではありません。
神様から届いた金のルイ十四世。
三枚の未来のパリ。
そして、昨日の晩餐で使った食器の箱。
十人分。
「これ、荷物増えたね」
「重量には余裕がございます」
「像、固定した?」
「もちろんでございます」
「写真は?」
「曲がらないよう箱へ」
「お皿は?」
「皆様ご自身で確認なさいました」
「そこ一番厳しい」
フランソワさんが右席へ座ります。
ルイ十四世たちは客室。
離陸。
冬の地面が下へ離れます。
しばらくして、後ろから声が聞こえました。
「写真を、すぐ公開なさいますか」
「せぬ」
ルイ十四世の声です。
「では、秘蔵を?」
「それも違う。まず見る者を選ぶ」
「建築家でしょうか」
「建築家だけではない。画家も、都市を管理する者も、道を作る者も必要だ」
「未来を真似させますか」
「三百年先の町を明日作れと言えば、余が馬鹿に見える」
「陛下」
「事実であろう」
少し間があります。
「残ったものを見る」
「残ったもの?」
「余の時代から、あの写真まで残ったものだ。なぜ残したのか。それを考えさせる」
「なるほど」
「それから、消えたものも見る」
「消えたものを?」
「何を残さなかったかも、同じくらい重要だ」
どろちゃんは前で聞いていました。
「王様、ちゃんと考えてる」
「はい」
「金像の話しないね」
「後ろにございますので」
ちょうどそのとき。
「像は、余の私室へ置く」
後ろから聞こえました。
どろちゃんが笑います。
「やっぱり気に入ってる」
「はい」
パリ近郊。
グルネルの平地へ降ります。
以前から使っている場所です。
人が入っていないことを確認。
風。
進入。
接地。
止まります。
後部扉が開きました。
人より先に、金像の箱を乱暴に扱わないよう指示が飛びます。
その次に写真。
その次に食器。
「王様、人より荷物が大事みたい」
「聞こえますよ」
「もう外だから大丈夫」
「そういう問題ではございません」
ルイ十四世が降りる前に、こちらを見ました。
「次に会うときには、少なくとも一つは決めておこう」
「何を?」
「戦争をやめて浮いた金を、どこへ最初に回すかだ」
「アカデミア?」
「道かもしれぬ」
「両方」
「だから金が足りぬのだ」
「戦争より安いよ」
ルイ十四世は、少し笑って降りました。
◇ ◇ ◇
二便目。
ネーデルラントです。
今度は王冠があります。
王冠の箱。
書類。
十人分の食器。
「本当に王冠持って帰るんだ」
「置いていけません」
全権が答えました。
「個人の褒美でしょう?」
「だから、なおさら置いていけません」
「かぶらない?」
「かぶりません」
「何回聞いても?」
「何回聞かれてもです」
後部扉が閉まります。
離陸。
北へ。
低地へ向かいます。
客室では、すぐ王冠の話になりました。
「議会へ見せるのか」
「見せないわけにはいかないだろう」
「個人への褒美だぞ」
「だから私の家へ持って帰るのか?」
「それはもっとまずい」
「妻は喜ぶかもしれない」
「喜んだら困る」
「皿の方を渡せ」
「それは喜ぶだろう」
「王冠より?」
「家で使える」
「王冠も使えるぞ」
「何に」
「……飾る」
「やめろ」
どろちゃんは前で笑いました。
「お皿の方が実用品だね」
「王冠よりは」
フランソワさんも、今回は否定しませんでした。
少しして、後ろの話が真面目になります。
「しかし、あれを何の意味とする」
「スペインから完全に離れろ、だろう」
「我々はすでに自分たちで政をしている」
「なら、その先だ」
「王国に?」
「決めつけるな」
「王冠だぞ」
「神は説明を書かなかった」
「意地が悪い」
「自由に決めろ、ということかもしれない」
「それなら王冠でなく白紙でもよい」
「白紙より皆が考える」
「確かに」
窓の下に、水が増えてきます。
川。
運河。
堤防。
町。
「帰ったら、王冠より先に堤防の予算だ」
「神の褒美を後回しにするのか」
「洪水は王冠を見て止まらない」
「正しい」
どろちゃんが小さく言いました。
「この国らしいね」
「はい」
着陸します。
人が降ります。
王冠の箱は、二人で持ちました。
食器の箱は、もっと人数を使いました。
「やっぱりお皿大事」
「割れますので」
◇ ◇ ◇
三便目。
イングランド。
朝から、少し騒ぎになっていました。
理由は飛行機ではありません。
アン女王です。
昨日まで使っていた衣装は、もう着られません。
どろちゃんの服です。
王室の仕立てではありません。
女王の紋章もありません。
旅行用。
動きやすい方。
でも、今のアン女王にはよく合っています。
女官が朝にもう一度調整しました。
「苦しくない?」
「昨日より、ずっと楽です」
「服じゃなくて身体の話?」
「両方です」
「そっか」
階段も、自分で上がれます。
ミツバチちゃんの後部から乗るときも、人に身体を預ける必要がありません。
どろちゃんは、むしろ止めました。
「急がないで」
「急いでいません」
「昨日まで歩くの大変だったでしょう」
「だから、歩けるうちに歩いてみたいのです」
「分かるけど」
「あなたは、飛べるようになった日に飛ばなかったのですか」
「……飛んだ」
「では同じです」
「負けた」
荷物も増えています。
船の模型。
空になったエリクサーの瓶。
神様の手紙。
食器。
それから、着られなくなったアン女王自身の衣装。
「これも持って帰るの?」
「当然です」
「大きいよ」
「昨日までの私ですから」
アン女王が言いました。
どろちゃんは、それ以上何も言いませんでした。
飛びます。
海峡へ向かいます。
天気は悪くありません。
雲の下。
冬の海。
客室では、昨日までとは違う声があります。
「陛下、本当にお身体は」
「痛くありません」
「足は」
「何度目です?」
「三度目です」
「では、三度目も痛くありません」
「お疲れは」
「ありません」
「脈を」
「機内でまで?」
「帰着までが診察です」
「あなたもドロテーヤ伯爵に似てきましたね」
「光栄なのか分かりません」
王室医師です。
どろちゃんは前で少し笑いました。
「仲間増えた」
「お嬢様」
「なに?」
「操縦を」
「してる」
海へ出ます。
アン女王は窓から船を見ていました。
「模型の、最後の船」
女官が言いました。
「はい」
「あれほど大きな船を、本当に作るのでしょうか」
「作るのでしょう」
「何を積むのでしょう」
「ドロテーヤ伯爵は、世界中のもの、と言っていました」
「陛下なら、何を積ませます?」
少し間。
「売れるものを」
「陛下」
「冗談です」
「半分は本気でございましょう」
「半分より少し多いかもしれません」
笑い声が聞こえました。
昨日までより、声そのものに力があります。
陸が見えてきました。
どろちゃんは進入の準備をします。
以前使った着陸場所。
地上に人が待っています。
「多いね」
「女王陛下がお戻りになるのでございますから」
「でも、みんな誰が降りるか分からないよ」
「……そうでございますね」
着陸。
止まります。
後部扉が開きました。
◇ ◇ ◇
最初に降りたのは、付きの人です。
次。
荷物ではありません。
アン女王が自分で降りました。
どろちゃんの服で。
地上の人たちが、動きを止めました。
誰なのか分からない。
若い女性です。
でも、女王の代表団から降りてきました。
しかも、女官たちはその女性を中心に動いています。
王室医師もそばにいます。
ざわめきが広がりました。
少し離れたところにいた男性が、こちらを見ました。
ジョージ王配です。
最初は、彼も動きませんでした。
何かを確認するように見ています。
アン女王も立ち止まりました。
二人の間に、少し距離があります。
「……アン」
ジョージ王配の声は、大きくありませんでした。
でも、周囲のざわめきが止まりました。
「はい」
アン女王が答えました。
ジョージ王配は、すぐには近づきません。
「待ってくれ。いや、誰かを止めているのではない。私が……少し待ってほしい」
自分で何を言っているのか、整理できていないようでした。
「アン、もう少し、こちらを向いてくれないか。顔を見たい。正面から」
アン女王が向きました。
ジョージ王配は、長く見ました。
「私は、その顔を知っている」
誰も口を挟みません。
「知っているという言い方では足りないな。毎日見ていた。あなたと結婚した頃だ。朝も、夜も、機嫌がよい時も、怒っている時も。あなたがまだ、今ほどたくさんのものを背負っていなかった頃の顔だ」
アン女王の目が少し潤みました。
「ジョージ」
「だが、声は今のあなたなんだ。話し方も。私を見る目も……いや、目は昔から同じだったのかもしれない。私は、どう理解したらいいのだろう」
「私にも、まだ分かりません」
「歩いてきたな」
「ええ」
「支えてもらわずに」
「ええ」
「痛くないのか」
「ありません」
ジョージ王配はそこで、ようやく一歩近づきました。
「本当に?」
「本当です」
「膝も?」
「痛くありません」
「足も?」
「大丈夫です」
「夜になると、あれほど腫れていたのに」
「今は腫れていません」
「階段の前で、何でもないような顔をして立ち止まることも?」
「たぶん、もうしません」
ジョージ王配は、そこで一度、顔を伏せました。
すぐには上げませんでした。
「私は、ずっと見ていた」
声が少し低くなりました。
「あなたが痛いと言わない時ほど、痛いこともあった。人がいるときは普通に座って、部屋へ戻ったら足を上げて休んでいたことも知っている。何度も子を失って、そのたびに身体が戻らないうちから、人に会わなければならなかったことも。私は隣にいたのに、何もできないことの方が多かった」
アン女王は何も言いません。
「だから、いつか……いや。こんなことを、帰ってきた日に言うものではないな」
「言ってください」
「私は、あなたを先に失うのだと思うことがあった。それを考えたくないから、考えないようにしていた。医師の話を聞いて、顔を見て、今日は少し良い、今日は悪い、それだけを数えていた。何年あるかなんて、聞きたくなかった」
ジョージ王配は顔を上げました。
「それなのに、あなたは帰ってきて、二十年前の姿でそこに立っている。私は喜んでいる。もちろん喜んでいる。だが、喜ぶだけでは追いつかない。昨日までのあなたが消えたようで怖くもある。けれど話せば、あなたはあなたのままだ。……私はいま、ひどく混乱している」
アン女王が、少しだけ笑いました。
「私もです」
「そうか」
「神様から手紙がありました」
「手紙?」
「私は、苦しい思いをしながら、あと十一年生きるはずだったそうです」
ジョージ王配の表情が変わりました。
「十一年?」
「ええ」
「誰が、そんなことを」
「神様が」
「それで?」
「『それは私の望むところではありません』と」
ジョージ王配は、すぐには返事をしませんでした。
「……そうか」
それだけ言って。
また黙りました。
今度は長いです。
「十一年か」
「はい」
「十一年という数字を、私は今日まで知らなかった。知らなくてよかったのかもしれない。知っていたら、私は毎年、あと十年、あと九年と数えたかもしれない。あなたが少し咳をするたびに、数字を減らしたかもしれない。それは、たぶん耐えられなかった」
アン女王の目から、涙が一つ落ちました。
「でも、もう数えなくていいのだな」
「分かりません」
「分からない?」
「神様は、新しく何年あるとは書いてくれませんでした」
「そうか」
ジョージ王配は、少し笑いました。
「では、数えようがない」
「ええ」
「それでいい。いや、私は今、とても都合のよいことを言っているな。昨日までなら医師に何年あるか聞きたかったかもしれない。それなのに今は、分からない方がいいと思っている」
「私もです」
「アン」
「はい」
「近くへ来てくれないか」
アン女王が歩きました。
今度は誰も止めません。
ジョージ王配は、両手を伸ばしかけて。
また一瞬止まりました。
「抱いてもよいのだろうか。変なことを聞いているのは分かっている。妻なのだから、そんなことを聞く必要はない。だが、あなたはあまりにも昔の姿で……」
「私はあなたの妻です」
「そうだったな」
アン女王の方から、残りの距離を詰めました。
ジョージ王配が抱きしめます。
強くはありません。
確かめるようでした。
「……アン」
「はい」
「帰ってきてくれて、よかった」
「帰ってきました」
「本当に、よかった」
今度は、ジョージ王配の声が途中で切れました。
どろちゃんは、少し横を向きました。
フランソワさんも、何も言いません。
王室の人たちも。
しばらく、誰も動きませんでした。
◇ ◇ ◇
少しして。
ジョージ王配が、ようやくアン女王から少し離れました。
そして、今度は服を見ました。
「ところで」
「何です?」
「その服は、どうしたのだ」
アン女王も下を見ました。
「借りました」
「誰から?」
アン女王が、どろちゃんを見ました。
ジョージ王配も見ます。
「私です」
「ドロテーヤ伯爵の?」
「はい」
「なぜ妻が、あなたの服を着ているのだ」
「昨日までの服が、全部大きくなったからです」
「全部?」
「全部です」
ジョージ王配は、アン女王を上から下まで見ました。
「……そうだろうな」
「そこで納得するのですね」
アン女王が言いました。
「目の前で二十年若返った妻を見せられたあとでは、服が合わない程度は理解できる」
「程度、と言いました?」
「比較の問題だ」
どろちゃんが言いました。
「女王様を、合わない服で帰せないでしょう」
「それで貸してくれたのか」
「イングランドでは上司なので」
ジョージ王配が、一瞬黙りました。
「上司」
「はい」
「妻をそのように呼ぶ者を初めて見た」
「伯爵だから」
アン女王が笑いました。
「私は昨日から、そういう扱いを受けています」
「悪くないようだ」
「ええ」
少しだけ、いつもの空気が戻りました。
どろちゃんは、そこで安心しました。
◇ ◇ ◇
船の模型。
神様の手紙。
空のエリクサー瓶。
食器。
昨日までの女王の衣装。
全部が降ろされました。
最後に、どろちゃんはアン女王へ言いました。
「服、急いで返さなくていいからね」
「返します」
「新しいの作るまで使っていいよ」
「では、少しだけお借りします」
「うん」
「伯爵」
「はい」
「手紙を訳しに来てくれて、ありがとう」
どろちゃんは、少しだけ姿勢を正しました。
「黙って帰さなくてよかったです」
「ええ」
「次に会うとき、もっと歩けるようになってるかも」
「走っているかもしれません」
「それはまだやめて」
「医師にも言われました」
「じゃあ聞いて」
「努力します」
女王様は、笑っていました。
どろちゃんはミツバチちゃんへ戻りました。
◇ ◇ ◇
四便目。
サヴォイア。
これが最後です。
長い便なので、いつものように燃料と重量を確認します。
今回は荷物の形が変です。
未来のローマ。
金の十字架。
食器十人分。
書類。
旅行鞄。
「模型、絶対動かさないでね」
「固定しております」
「十字架も」
「固定しております」
「お皿」
「最も厳重に固定しております」
「またお皿が一番」
「皆様から確認がございましたので」
サヴォイア公が後ろから言いました。
「模型も同じくらい大切だ」
「聞こえた」
「聞こえるのか」
「あ」
どろちゃんは前を向きました。
「今のなし」
「何がなしなのだ」
「出発します」
フランソワさんが、隣で小さく息を吐きました。
離陸。
南へ。
山へ近づきます。
客室では、ローマの模型の話が続いていました。
「金になっていた建物は、一覧にしておけ」
「すでに書記が写しております」
「位置も」
「はい」
「未来の道は?」
「どこまで記録してよいのでしょう」
「全部だ」
「真似するのですか」
「そのまま真似はせぬ」
「ではなぜ」
「三百年後に人がどこへ道を通したかは、地形の答えでもある」
「なるほど」
「だが、金の建物を壊して道を通すな」
「そこは神の意図でしょうか」
「少なくとも、壊してよいという意味には見えぬ」
少し間があります。
「十字架は?」
「礼拝堂へ置く」
「未来のローマの横ではなく?」
「模型の横へ十字架を置いたら、妙な意味に取る者が出る」
「すでに十分、妙な意味がございます」
「だから増やすな」
どろちゃんは前で笑いました。
「みんな、ご褒美もらって仕事増えてるね」
「神様からのものでございますので」
「ご褒美って休めるものじゃないんだ」
「お嬢様の場合も、そうでございますね」
「飛行機?」
「工場も」
「薬も」
「はい」
「……ほんとだ」
山を越えます。
冬の雪。
深い谷。
道。
町。
やがて、トリノへ続く平地が見えます。
着陸。
最後の代表団が降りました。
未来のローマは、四人がかりで運ばれます。
金の十字架。
書類。
そして食器。
「それ、割らないでください」
サヴォイア側の女性が、模型ではなく食器の箱へ言いました。
どろちゃんは聞こえました。
「今度のお皿、やっぱり人気だね」
「そのようでございます」
フランソワさんが答えました。
◇ ◇ ◇
最後の便を終えて、エルレンフェルトへ戻りました。
ホテルは静かです。
昨日までいた人たちが、もういません。
会議室には地図。
机には書記が残した控え。
食堂へ行きます。
棚を開けました。
「あ」
空いています。
金彩の皿。
花の皿。
カップ。
ソーサー。
持ち帰られた分だけ、ありません。
「まだ補充されてない」
「はい」
「明日の朝かな」
「これまでは、そのようなこともございました」
「じゃあ待つ」
◇ ◇ ◇
翌朝。
どろちゃんは、もう一度食器棚を開けました。
空いたままでした。
「来てない」
「来ておりません」
「箱も?」
「ございません」
「じゃあ、今回のは補充なし?」
「そのようでございます」
どろちゃんは、空いた棚を見ました。
「前の白いお皿は補充されたのに」
「はい」
「金色と花のは、もうない」
「持ち帰られた分につきましては」
「……あれ、すごく貴重になるね」
「おそらく」
「売ってほしいって言われるかな」
「すでに言われるかもしれません」
「でも、ない」
「ございません」
「作れる?」
「同じものは、難しいかと」
薄さ。
白さ。
金彩。
花の細かさ。
同じ形を何十枚も揃える精度。
いまの工房で、見た目だけ似せることはできても、同じものにはなりません。
「じゃあ、持って帰った人、大事にするね」
「そう願います」
「割ったら終わりだもんね」
「はい」
どろちゃんは棚を閉めました。
四人には、神様からそれぞれ違う褒美が届きました。
帝国には、参加賞の金属板。
そして会議に参加した人たちは、帝国側も含めて、同じ晩餐の器を持って帰りました。
金像も。
王冠も。
未来の都市も。
未来の船も。
エリクサーも。
もう、エルレンフェルトにはありません。
残っているのは。
世界地図に引かれた線。
まだ撃たれていないケール。
そして。
「次、皇帝陛下来るかな」
「参加賞をお渡しすれば、お考えになるのではございませんか」
「板、効くかな」
「かなり効くかと存じます」
フランソワさんは、真面目な顔で言いました。
◇ ◇ ◇
第46章の小さな説明
【四人へのご褒美】
今回の神様の贈り物は、フランス、イングランド、ネーデルラント、サヴォイアという国そのものへの国家援助ではありません。
会議の場で、戦争を続けるかやめるかについて最終判断をした四人それぞれへの個人的な褒賞です。
そのため中身は統一されておらず、それぞれの人物が強く関心を持つものに合わせられています。
これは文字どおり、戦争を止める判断をしたことへの「ご褒美」です。
同時に、全権者本人が神様から個人的な褒賞を受け取ったことには、ここで決めて調印した内容を後になって簡単に裏切らせない意味もあります。いったん約束しておきながら、数年後に情勢が変わると再び攻め込む、といった行動をすれば、「神様から褒賞まで受けておいて約束を破った」という非常に重い評価を本人が背負うことになります。
神様が魔法で履行を強制するわけではありませんが、褒賞そのものが、調印した当人へ長く残る重しにもなっています。
【ルイ十四世】
約三十センチの、金と宝石で作られたルイ十四世本人の全身像と、一八〇〇年、一九〇〇年、二〇〇〇年のパリを示す写真状の画像が届きます。
一八〇〇年は現実の写真術成立以前ですが、本作では神様が未来の景観そのものを記録した画像なので、通常の写真史には従いません。
前章でどろちゃんが「領土より文化の方が長く残ることがある」「何百年後にもパリが芸術の都と呼ばれるかもしれない」と話した直後なので、ルイ十四世には強い意味を持つ贈り物になります。
【サヴォイア】
宝石を入れた金の十字架と、二〇〇〇年のローマの精密模型です。
模型のうち、一七〇三年の時点ですでに存在し、二〇〇〇年にも残っている建築だけが金で表現されています。
未来の都市をそのまま模倣せよという設計図ではなく、何が長く残ったのかを考えさせるものとして扱っています。
【未来についてのどろちゃんの答え方】
未来の写真や模型を見ても、どろちゃんは周囲に対して「自分は未来の個々の建物や出来事を知っている」とは示しません。
写真や模型そのものから読み取れることは説明しますが、それ以上を尋ねられた場合は、「名前は書いていない」「未来の都市の全部を知っているわけではない」として話を広げません。
特に、本文中でどろちゃんが知っていると設定されていない未来の固有名詞や政治史について、会話相手に知識があると悟られる言い方は避けています。
【ネーデルラント】
贈り物は王冠です。
ただし「受け取った全権本人が王になれ」とは書かれていません。
スペイン王家など既存王家の印を持たない王冠を前に、スペインとの関係から完全に離れ、共和国のまま進むのか、別の国家形態を選ぶのかも含め、自分たちの道を考える象徴として受け取られます。
【神聖ローマ帝国】
神聖ローマ帝国は会議から忘れられているわけではありません。
帝国側から会議へ参加した人々は、全権ではなくても実務に加わり、他の参加者と同じように晩餐を共にしています。そのため、帰国時には今回の記念品でもある上級食器、金メッキのカトラリー、クリスタルグラスの一式を持ち帰ります。参加して努力した人が何も得られない、という扱いではありません。
一方、今回来ないという判断をした皇帝本人には、豪華な個人褒賞はありません。「参加賞。神聖ローマ帝国。全権を持つ皇帝が来ていません。また次回」と刻まれた金属板だけです。
つまり金属板は、会議へ来た非全権の代表を罰するものではなく、最終判断のできる皇帝本人が不在だったことを示すものです。帝国側の本格的な最終判断と、皇帝本人への褒賞があるかどうかは次回以降へ持ち越します。
【神様が使う文字と言語】
神様から届く文字が、いつもロシア語であるわけではありません。
その場にいる全員へ内容を知らせるための表示、贈り物の札、今回の神聖ローマ帝国の金属板のようなものは、誰でも読めるナーロッパの共通語で書かれます。
一方、ロシア語で書かれるのは、内容をそのまま全員へ公開せず、読めるどろちゃんが「誰に、いつ、どこまで教えるか」を判断する必要がある場合です。アン女王のエリクサーに添えられた手紙がこれに当たります。
瓶そのものの「エリクサー。アンへ。」という表示は公開情報なのでナーロッパ語ですが、「あと十一年間、苦しみながら生きる」という本人の寿命に関わる手紙だけはロシア語になっています。
【アン女王のエリクサー】
アン女王には未来の船の模型と、本人専用のエリクサーが届きます。
神様のロシア語の手紙には「あなたは苦しい思いをしながら、まだ十一年間も生きなければいけません。それは私の望むところではありません」とあります。
どろちゃんは多数の代表がいる前では訳さず、一度持ち帰ります。しかし、自分がウィリアム三世から爵位を受けたイングランド伯爵であり、現在の君主はアン女王であることを思い返し、夕食後に女王の部屋を訪れて全文を訳します。
アン本人が最終的に服用を決め、王室医師、女官、側近、どろちゃんたちが見守る前で飲みます。
本作のエリクサーは通常の薬品ではなく、明確な異世界由来の効果を持ちます。
アン女王の病的な血液凝固傾向、免疫系を含む病的変化、後天的な身体損傷などを遺伝子・細胞・組織レベルから修復し、浮腫、慢性疼痛、運動困難も解消します。
さらに身体的な外見年齢は、ジョージ王配と結婚した頃の十八歳前後まで戻ります。
ただし、記憶、人格、政治経験、法的年齢は三十八歳のアン女王のままです。
【アン女王の服】
身体寸法が急に変わったため、それまでの女王用衣装は着られなくなります。
急場では、どろちゃんの旅行用衣装を女官が調整して貸します。
どろちゃんにとってアン女王は、イングランド伯爵として見れば現在の君主なので、「上司を着るもののない状態で帰せない」という扱いです。
【ジョージ王配】
帰国したアン女王を最初に見た宮廷の人々には、若い女性が誰なのかすぐには分かりません。
一方、ジョージ王配は結婚当時のアンの姿を実際に知っているため、外見が大きく変わっていても妻だと認識します。
この場面では、単に若返ったことへの驚きではなく、長年アンの痛み、妊娠と喪失、歩行困難をそばで見続けてきた夫が、「あと十一年」という本来の未来を知らされ、それが取り除かれたかもしれないことを受け止める場面として描いています。
【持ち帰られる食器】
前回の会議に続き、今回も参加者は晩餐に使った食器を持ち帰ります。
今回は金彩・花柄の上級食器、金メッキのカトラリー、上級クリスタルグラスなので、前回の白い実用品以上に人気があります。
神様は最初から人数分の梱包材を用意していましたが、今回は持ち帰られた食器の補充はありません。
したがって、この会議で各国へ持ち帰られた器は、その後同じものが追加供給されない希少品になります。




