43男爵家の話は、ライン川の上です フランソワさんのおはなし
第43章 男爵家の話は、ライン川の上です
公国になったからといって、町が急に広くなったわけではありません。
国境も、昨日までと同じところです。
畑も。
道も。
川も。
領主館も。
けれど、人の位置は少しずつ変えなければならなくなりました。
◇ ◇ ◇
お父様が、また領主館の大きな部屋へ人を集めました。
以前、エルレンフェルト基本国法を作ったときに集まった人たちです。
執事。
商工会長。
古くから町に住む者の代表。
農家の代表。
教会の代表。
書記をしていた者たちもいます。
どろちゃんは、前にも見た顔を順番に見ました。
「また法律?」
「今日は違う」
お父様が答えました。
「では税?」
「違う」
「水?」
「違う」
「戦争?」
「もっと違う」
「じゃあ何?」
お父様は、机の上に置かれた文書を一枚取りました。
「皆に、騎士位を受けてもらう」
部屋が静かになりました。
「……私どもが、でございますか」
最初に声を出したのは農家の代表でした。
「ああ」
「なぜでございましょう」
「基本国法を作ったからだ」
「私は、水の話をしただけでございます」
「だからだ」
お父様はすぐに答えました。
「あの場で水の話をする者が必要だった」
農家の代表は黙りました。
商工会長も少し困った顔をしています。
「私も、税と商売の話をしただけですが」
「それも必要だった」
教会の代表が尋ねました。
「これは、子へも継がれるものでございましょうか」
「継がれない」
お父様はそこをはっきり言いました。
「一代限りだ。本人だけの騎士位にする」
どろちゃんは横から聞きました。
「子どもは騎士にならない?」
「ならない」
「孫も?」
「ならない」
「じゃあ、国を作るときに手伝った人に出すんだ」
「そうだ」
書記の一人が、少し驚いた顔をしました。
「私どもも、でございますか」
「いたな」
「書いていただけでございます」
「書かなければ、今の基本国法は残っていない」
「ですが」
「受け取ってくれ」
執事が小さく息をつきました。
「旦那様」
「何だ」
「書庫を探したことで騎士になりますと、少々落ち着きません」
「お前は書庫を探しただけではないだろう」
「昔の権利書を見つけました」
「それも国を作る仕事だ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
どろちゃんは執事を見ました。
「騎士になった」
「まだでございます、お嬢様」
「もうすぐなる」
「そのようでございます」
◇ ◇ ◇
そこで終わりではありませんでした。
お父様は、もう一枚の文書を取りました。
「フランソワ」
「はい、旦那様」
フランソワさんが一歩前へ出ました。
いつもどろちゃんの近くにいる人です。
それでも今日は、どろちゃんの後ろではなく、お父様の前に立ちました。
「お前の家は、男爵家にする」
フランソワさんが止まりました。
「……私の家を、でございますか」
「ああ」
「騎士位ではなく?」
「世襲の男爵だ」
今度は、部屋の空気がもう一度変わりました。
どろちゃんも少し驚きました。
「世襲?」
「そうだ」
「ずっと?」
「家が続く限りはな」
フランソワさんは、お父様を見ました。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「お前の家が、いつからうちに仕えている」
「分かりません」
「私も分からん」
執事が横から静かに付け加えました。
「記録が残る最初期には、すでにお名前がございます」
「その前は?」
どろちゃんが尋ねました。
「帳簿そのものが残っておりません」
「じゃあ、最初からいるように見える」
「そういうことになります」
お父様が言いました。
「昔から男爵だったことにするつもりはない」
「はい」
「男爵家になるのは、今日からだ」
フランソワさんは一礼しました。
「承知いたしました」
「それと、継承順位も書く」
お父様は文書を指しました。
「お前の子孫。そこが絶えた場合は、妹。その子孫」
フランソワさんが顔を上げました。
「妹まで、でございますか」
「そこまで書いておく」
「遠い親類は?」
「入れない」
どろちゃんが先に聞きました。
「なんで?」
「爵位ができると、今まで家のことに口を出さなかった遠い親類まで、自分に権利があると言い出すことがある」
「面倒」
「だから最初に書く」
「なるほど」
フランソワさんは少し考えてから言いました。
「妹は、驚くと思います」
「まだ知らせていないのか」
「もちろんでございます」
「今日帰ってから話すことになるな」
「はい」
お父様は、さらに続けました。
「爵位は世襲する。だが、公爵家への奉公は世襲させない」
フランソワさんが、少しだけ目を細めました。
「妹の子が、別の仕事を選んでもよろしいのでしょうか」
「構わん」
「医師でも?」
「構わん」
「商人でも?」
「構わん」
「大学へ行っても?」
「もちろんだ」
どろちゃんが言いました。
「じゃあ、男爵家だけど自由なんだ」
「爵位と仕事は別だ」
「いいね」
お父様は、どろちゃんを見ました。
「お前が決めることではない」
「でも、いいと思う」
「なら、それでよい」
◇ ◇ ◇
数日後。
どろちゃんとフランソワさんは、ライン川のずっと下流にいました。
ライデン大学から頼まれた仕事です。
大学には、ライン川河口部の地図があります。
川。
分流。
堤防。
村。
道。
水路。
それでも、地上で作った地図では分かりにくいところがあります。
川がどこで広がっているのか。
浅瀬らしい色の違い。
水の流れがぶつかっているところ。
堤防の外側に水が溜まりやすそうな低地。
新しく掘った水路。
地図では一本に見えるのに、実際には幅の広い湿地を挟んでいる場所。
ライデン大学からは、
飛んで見て分かる注意事項を、地図へ書き込んでほしい。
と頼まれました。
それで、タドポール君です。
前席にどろちゃん。
後席にフランソワさん。
フランソワさんの膝の上には、大きく折った地図板があります。
鉛筆は一本ではありません。
赤。
青。
黒。
文字を書くための細いもの。
線を引くためのもの。
落とさないよう、どれも短い紐で板につながっています。
「右下、青で囲って」
どろちゃんが言いました。
「どちらでございますか」
「川が二つに見えるところ」
「こちら?」
「もう少し下」
「これですか」
「そう、それ」
フランソワさんが青い鉛筆で丸をつけます。
「水路ではなく、低いところへ水が広がっているように見える」
「注記は?」
「増水時確認、でいいかな」
「大学の方がお読みになるのでしたら、もう少し具体的にいたします」
「何て書く?」
「通常水路と氾濫時水面の区別、現地確認必要」
「それがいい」
フランソワさんが書きました。
タドポール君は、ゆっくり旋回します。
速く飛ぶ必要はありません。
地図と地面を見比べる仕事です。
「次、左」
「はい」
「堤防が地図より曲がってる」
「確認しました」
「黒で実線。その横に、現況」
「はい」
少しして。
どろちゃんが言いました。
「男爵さん」
後ろから返事がありません。
「男爵さん?」
「どなたのことでございましょう」
「フランソワさん」
「普段どおりお呼びくださいませ」
「でも男爵になった」
「なりました」
「昨日まで侍女だったのに」
「今日も侍女でございます」
「男爵なのに?」
「男爵ですから、お嬢様のお世話をしてはいけないという決まりはございません」
「じゃあ、後ろで地図書いてる男爵」
「それは合っております」
どろちゃんは笑いました。
少し風があります。
タドポール君がわずかに揺れました。
「地図、大丈夫?」
「大丈夫です」
「酔ってない?」
「大丈夫です」
「じゃあ次、赤。浅そうなところ」
「色が違うところですね」
「うん。そこは断定しないで。浅瀬らしい、だけ」
「承知しました」
赤い印が一つ増えました。
◇ ◇ ◇
「ねえ、フランソワさん」
「はい」
「なんで私の侍女になったの?」
少し間がありました。
「今さらでございますか」
「男爵になったから、気になった」
「男爵位とは関係ございません」
「知ってる」
後席で紙の音がしました。
「お嬢様がお生まれになった日、私は三歳になったところだったそうです」
「同じ誕生日だからね」
「十二月一日です」
「今も同じ」
「当然でございます」
「そこは変わらないね」
「変わりましたら困ります」
どろちゃんは前を見たまま言いました。
「私が生まれたとき、フランソワさんはもうしゃべれた?」
「しゃべっていたそうです」
「三歳だもんね」
「はい」
「それで決めた?」
「両親から聞いた話では、そのようでございます」
フランソワさんは地図に短い線を引いてから続けました。
「昔からうちの家の者が、領主家のお子様のお世話をすることはございました」
「料理したり、馬を見たり、帳簿つけたりもしてたんでしょう?」
「はい。代によって違ったそうです」
「ずっと侍女の家じゃないんだ」
「違います」
「でも、私が生まれたときに、三歳の女の子がちょうどいた」
「しかも、同じ誕生日でございました」
「それで、フランソワさん」
「はい」
「妹さんは?」
「まだ生まれておりません」
「十九日あとだもんね」
「十二月二十日でございます」
「お腹の中」
「はい」
どろちゃんは少し考えました。
「その時は、女の子か男の子か分からない」
「分かりません」
「じゃあ、待てないね」
「なぜ待つ必要がございますか」
「妹さんの方が、私と同じ歳だから」
「そのときは妹とも分かっておりません」
「そうだった」
「男の子かもしれませんでした」
「男の子だったら侍女じゃないもんね」
「少なくとも、同じ役目にはいたしません」
「じゃあ、完全に先着だったんだ」
「先着という言い方は、少々違うと思います」
「でも先にしゃべってた」
「それは否定いたしません」
どろちゃんは笑いました。
「妹さん、十九日遅かっただけなのに」
「生まれる前から競争しておりません」
「そうだけど」
◇ ◇ ◇
下に、大きな水面が見えます。
川というより、もう海へほどけていく途中のようです。
水路が一つではありません。
島のように見える土地。
細い堤防。
その内側の低い土地。
まっすぐではない流れ。
人の手で整えたところと、水が勝手に選んだところが、入り混じっています。
「ここ、青いっぱい使うね」
「すでに減っております」
「予備ある?」
「ございます」
「さすが」
「お嬢様が途中で足りないと言われると思いましたので」
「信用されてない」
「信用しております」
「じゃあなんで予備?」
「必要になると信用しておりました」
「そっちか」
後ろから鉛筆を持ち替える音がしました。
「次、堤防の切れ目みたいに見えるところ」
「確認します」
タドポール君を少し傾けます。
フランソワさんが窓の外を見ました。
「切れてはおりません」
「道が上を通ってる?」
「そのように見えます」
「じゃあ、橋か水門かもしれない。断定しないで」
「現地確認、といたします」
「うん」
また一つ、地図に文字が増えました。
◇ ◇ ◇
「フランソワさんの家って、ずっと直系じゃないんでしょう?」
「そのようです」
「どうやって続いたの?」
「分かるところと、分からないところがございます」
「例えば?」
「娘が家を継いだ代がございます」
「うん」
「姉の子が入ったらしい代もございます」
「らしい?」
「記録が十分ではございません」
「昔だもんね」
「さらに古いところでは、家名と仕事だけが帳簿に残っております」
「誰の子か分からない?」
「はい」
「それでも家は続いてる」
「続いております」
「直系だけじゃないから続いたんだね」
「そうかもしれません」
「男の子がいなかったら終わり、にしてたら、とっくに終わってるかもしれない」
「それはあり得ます」
どろちゃんは少し前を見ました。
「だから、お父様、遠い親戚を継承に入れなかったのかな」
「そこは旦那様にお聞きくださいませ」
「でも、フランソワさんの次、その子ども。その次に妹さんと妹さんの子ども」
「はい」
「分かりやすい」
「争いにならないよう、最初から書いておくとのことでございました」
「妹さん、男爵になるかもしれないんだ」
「私に子がなければ」
「びっくりした?」
「まだ本人にその可能性があることを話したばかりでございます」
「何て言った?」
後ろで、少しだけ間がありました。
「『姉さんが結婚すればいいでしょう』と」
どろちゃんは吹き出しました。
「妹さん、強い」
「十七歳でございますので」
「私も十七歳」
「存じております」
「十二月一日に十七歳になった」
「私は同じ日に二十歳になりました」
「三歳差、ずっと変わらないね」
「そこも変わりません」
◇ ◇ ◇
ライデン大学から渡された地図には、だいぶ色が増えていました。
赤。
青。
黒。
地上から見ると一本の堤防でも、上から見ると、その両側の高さの違いが分かります。
村と村を結ぶ道が、少し高いところだけを選んで曲がっているのも見えます。
「そこ、黒で点線」
「こちら?」
「うん。道っぽいけど、地図にない」
「細いですね」
「農道かもしれない」
「では、用途不明の道状線、と」
「大学の人、現地へ行くかな」
「行くのではございませんか」
「全部?」
「全部は無理かもしれません」
「じゃあ、優先順位つけよう」
「赤丸を二重にいたしますか」
「いいね。水に関係して、放っておくと困りそうなところ」
「こちらと、先ほどの低地ですね」
「あと、堤防の内側なのに水が残ってるところ」
「三か所」
「うん」
フランソワさんが二重丸をつけました。
「男爵さん、地図うまいね」
「またその呼び方でございますか」
「だって本当に男爵だし」
「お嬢様も、本当に公爵令嬢で、英国では伯爵でございます」
「私は操縦してるから忙しいの」
「私も地図を書いております」
「じゃあお互い忙しい」
「はい」
◇ ◇ ◇
帰り道。
地図板は、後席の横へ固定しました。
鉛筆も全部戻しました。
どろちゃんは、前を見ながら言いました。
「男爵になって、何か変わった?」
「今のところは、文書が一枚増えました」
「それだけ?」
「家族で話すことも増えました」
「妹さん?」
「はい」
「お父さんとお母さんも?」
「はい」
「住むところは?」
「すぐには変わりません」
「仕事は?」
「今のところ変わりません」
「じゃあ、明日も私のお世話?」
「もちろんでございます」
「飛ぶときも?」
「必要なら後席へ乗ります」
「男爵なのに?」
「お嬢様」
「なに?」
「その話は、本日何度目でございましょう」
「覚えてない」
「私は覚えております」
「何回?」
「申し上げません」
「なんで?」
「また増えるからでございます」
どろちゃんは笑いました。
しばらく、タドポール君の音だけが続きました。
下にはライン川。
その先には海。
後席には、ライデン大学へ返すための地図。
そして、今日もどろちゃんの後ろに座っているフランソワさん。
ただし、昨日までと少しだけ違います。
公国で最初に作られた世襲男爵家の、初代です。
「フランソワさん」
「はい」
「次の地図も頼まれるかな」
「今回の出来次第ではないでしょうか」
「じゃあ、きれいに書けてる?」
「かなり書き込みましたので、きれいとは言いにくいです」
「役に立つ?」
「それなら、たぶん」
「じゃあいいね」
「はい」
タドポール君は、ライン川を離れて南へ向きを変えました。
◇ ◇ ◇
第43章の小さな説明
【公国成立時の一代騎士】
エルレンフェルト基本国法を作る会議に参加した人々には、公国成立への功績として一代限りの騎士位が与えられます。
これは世襲爵位ではありません。
本人の子や孫が自動的に騎士になることもありません。
商工、農業、水利、教会、古い権利、記録など、それぞれ異なる立場から公国最初の基本法づくりに加わったこと自体を評価するものです。
【フランソワさんの家】
フランソワさんの家は、記録が残る最初期からエルレンフェルト家に仕えています。
ただし、一職種だけを代々世襲してきた家ではありません。
料理、馬、子どもの世話、帳簿、倉庫など、代ごとにさまざまな仕事をしてきました。
また、長い間ずっと父から長男へ直系で続いてきたわけでもありません。
娘が継いだ代、姉妹や別枝の子が家へ入ったと考えられる代もあり、古い部分では血縁関係そのものが分からないところもあります。
それでも、記録が残る限り「その時代にもこの家の者が領主家に仕えている」ことは確認できます。
【世襲男爵家】
公国成立後、現在のフランソワさんを初代として、その家を世襲男爵家とします。
昔から男爵だったことにするのではなく、爵位の始まりは今回の叙爵からです。
継承は、まずフランソワさん本人の子孫。
その系統が続かない場合は妹。
さらに妹の子孫へ続きます。
遠い親類が爵位継承へ介入しないよう、最初から継承順位を明文化します。
爵位は世襲しますが、公爵家への奉公は世襲義務にはしません。
次の世代が医師、商人、研究者など別の道へ進んでも構いません。
【フランソワさんと妹の誕生日】
どろちゃんの誕生日は十二月一日です。
フランソワさんも偶然同じ十二月一日生まれで、どろちゃんより三歳年上です。
物語開始時には、どろちゃん十五歳、フランソワさん十八歳。
現在は二年が経過しているため、どろちゃん十七歳、フランソワさん二十歳です。
フランソワさんの妹は、どろちゃんと同じ年に生まれた十二月二十日生まれで、現在十七歳です。
どろちゃんが生まれた十二月一日の時点では、三歳になったフランソワさんはすでに歩き、しゃべることができました。
一方、妹はまだ生まれておらず、当時は男女も分かりません。
そのため、領主家の娘であるどろちゃんの身の回りを支える子として、先にフランソワさんが選ばれました。
妹が女の子として生まれたのは、その十九日後です。
【ライン川河口部の地図確認飛行】
ライデン大学は、地上測量で作られたライン川河口部の地図へ、上空から確認できる情報を加えようとします。
どろちゃんがタドポール君を操縦し、後席のフランソワさんが地図へ注意事項を書き込みます。
上空からは、水路の広がり、低湿地、堤防の形、地図にない道状線、浅瀬らしい水色の変化などを広い範囲で比較できます。
ただし、見ただけで用途や水深を断定せず、「現地確認必要」「浅瀬らしい」「用途不明」など、観察と推定を分けて記録します。
航空観察は現地測量の代わりではなく、現地で優先的に確認すべき場所を絞るための資料として使われます。




