42貴族令嬢は、船を待つ場所を作ります
第42章 貴族令嬢は、船を待つ場所を作ります
会議が終わって、各国の人たちを送り届けて。
少しだけ静かになったエルレンフェルトで、今度は港に変化がありました。
「……増えてる」
どろちゃんは、川沿いの船着き場で立ち止まりました。
昨日までなかったものがあります。
大きな円筒形のタンク。
一本ではありません。
燃料用。
もう一つは、潤滑油用です。
どちらも、神様から届いたものらしく、最初から配管と弁と計器が付いていました。
水玉船を横付けして、ホースをつなげば、そのまま補給できます。
「飛行場じゃなくて、今度は港なんだ」
フランソワさんも札を見ました。
「こちらは、ディーゼル機関専用とございます」
「うん。航空機の燃料とは別」
どろちゃんは燃料側の札を読みました。
軽油。
硫黄分除去済み。
ディーゼル機関専用。
別の細かな注意書きには、もっと妙なことが書いてあります。
「……窒素酸化物、ほとんど出ない?」
フランソワさんが首を傾げました。
「窒素酸化物、でございますか」
「うん。NOとかNO₂とか」
「えぬ、おー?」
「そこはいいよ」
どろちゃんは、もう一度読みました。
燃料は、普通の炭化水素系のディーゼル燃料です。
燃えれば二酸化炭素と水は出ます。
でも、硫黄はあらかじめほとんど除かれています。
未燃焼の炭化水素も、すすも、ほとんど出ません。
さらに、普通なら燃焼温度や空気中の窒素の反応で出てくる一酸化窒素や二酸化窒素まで、ほとんど出ないように燃えるらしいのです。
「硫黄を抜くのは分かる」
頭の中で技師さんが答えました。
――そこまでは燃料の精製で説明できるね。
「すすが出ないのも、燃え方がよければ分かる」
――うん。
「でもNOとNO₂までほとんど出ないの、燃料だけでは無理じゃない?」
――そうだね。
「神様、燃焼の仕方まで何かしてる?」
――たぶん。
「また、よく分からないところだけ神様だ」
返事はありません。
◇ ◇ ◇
最初に給油したのは、白地に一色の水玉が入った公共船でした。
船尾の外側にあるディーゼル機関。
長い推進軸。
その近くへ給油ホースをつなぎます。
船員さんが流量計を見ました。
「今までの缶より、ずっと楽ですね」
「こぼさないしね」
「樽を運ばなくてよいのが、一番ありがたいです」
「そこなんだ」
「そこです」
今までは、燃料を別の場所から運びました。
馬車。
樽。
缶。
天気が悪くても。
冬でも。
朝の便に間に合わせるなら、朝より前に用意します。
水玉船そのものが少ししか燃料を使わなくても、毎日走れば補給は毎日です。
「これなら、帰ってきたらそのまま入れられるね」
「はい」
「バーゼル便も?」
「はい」
「ハイデルベルク便も?」
「戻ってきてから、すぐに補給できます」
「ストラスブール=ケール便は、もっと余裕あるね」
「ございます」
隣のタンクは潤滑油です。
こちらも、同じ港で補給できます。
エンジンごとに油を別々の倉庫へ探しに行く必要がありません。
「油も楽になった」
「はい」
「港だけで、だいたい終わる」
「整備そのものは別ですが、補給はここで済みます」
どろちゃんは満足しました。
「こういうのが大事なんだよね」
◇ ◇ ◇
実際に神様の軽油を入れて、水玉船を動かしてみました。
始動。
船尾でディーゼルが回ります。
音は、ちゃんとディーゼルです。
でも。
「煙、少ないですね」
船員さんが言いました。
「少ないというか、ほとんど見えない」
どろちゃんは排気口を見ました。
黒くありません。
始動直後でも、すすがほとんど出ません。
負荷をかけても、排気口の周りが黒くなりません。
水玉船が川へ出ます。
少し追い風です。
以前なら、風向きによっては排気の匂いが客室側へ回ってくることもありました。
「臭くない」
「はい」
「服にもつかないね」
「船員としては、そこも助かります」
どろちゃんは、また船員さんを見ました。
「やっぱりそこなんだ」
「毎日乗りますので」
「そっか」
環境に良い。
港がすすで汚れない。
排気に硫黄酸化物も窒素酸化物もほとんどない。
それも大事です。
でも、毎日機関の横へいる人にとっては、
服が臭くならない。
船尾が黒くならない。
掃除が減る。
そちらの方が、先に分かります。
◇ ◇ ◇
「でも、神様から出るからって、適当に使っちゃだめだよ」
どろちゃんは流量計を指しました。
「記録、残してね」
「料金のためですか」
「それもあるけど、船ごとの燃費が分からなくなる」
「燃費」
「一日にどれだけ使うか。上りと下りで違うか。乗客が多いとどうなるか。風があるとどうなるか」
「全部記録するのですか」
「最初は」
「最初は?」
「あとで、どこまで記録すればいいか決めるために、最初は細かく」
「なるほど」
船員さんは少し考えてから、帳面を持ってきました。
船名。
日付。
給油量。
出発地。
到着地。
乗客数。
大きな荷物があれば、その数。
川の流れ。
風。
「こんな感じ?」
「十分です」
「あと、何か変なことあったら書いて」
「変なこと」
「エンジンの音がいつもと違うとか、油が減ったとか」
「それは整備記録へ」
「じゃあそっちで」
どろちゃんはすぐ分けました。
「燃料記録と、整備記録は別」
「はい」
◇ ◇ ◇
港にできたのは、燃料設備だけではありません。
「こっちも完成したよ」
ライデン大学の学生が、少し嬉しそうに言いました。
川岸から少し離れたところに、小さな建物があります。
豪華ではありません。
大きくもありません。
石と煉瓦。
木の梁。
周囲の町並みから、ひどく浮かない屋根。
中華の大きな都市にあるような、巨大で装飾の多い旅客ターミナルではありません。
エルレンフェルトの港に必要な分だけです。
「小さいね」
どろちゃんが言いました。
学生が一瞬だけ不安そうな顔をしました。
「小さすぎますか」
「違う。ちょうどいい」
「一度に待つ人数を数えました」
「うん」
「定期船が二便重なる場合も考えました」
「うん」
「それ以上に増えた場合は、こちらへ増築できます」
「増築できるの?」
「はい。この壁側へ延ばせます」
どろちゃんの顔が明るくなりました。
「それ、いい」
学生も少し安心しました。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
中へ入ります。
外は冬です。
中は暖かい。
「あったかい」
「暖房を入れました」
「待合所だもんね」
「はい」
壁沿いにはベンチがあります。
荷物を置いても通路が狭くならないよう、少し間を空けています。
入口には、泥を落とすところ。
濡れた外套を掛ける場所。
窓からは船着き場が見えます。
壁には、船の時刻を書いた板。
運休や遅れがあれば、別の札を掛けられます。
「ちゃんと待合所だ」
どろちゃんが言いました。
「待合所ですので」
「そうだけど」
学生は少し笑いました。
「図面のときは、ただの四角でございました」
「建つと違うでしょう?」
「はい」
「人が座ると、もっと違うよ」
「それを見てみたいです」
「すぐ見ることになるよ」
◇ ◇ ◇
部屋の隅には、サモワールがあります。
神様製ではありません。
今まで水玉船でも使っている、熱いお湯を用意するためのものです。
「またサモワール」
「お嫌いですか」
「好きだよ」
どろちゃんは近づきました。
「船にもある。待ってるところにもある」
「冬は、その方がよろしいかと」
「正しい」
その横。
小さな売店があります。
大げさな店ではありません。
窓口。
棚。
調理したものを置くところ。
そして、小さな看板。
最初は模様に見えました。
丸い焼き物の絵。
湯気の出るカップの絵。
その横に、キリル文字があります。
「……これ、私が頼んだやつだ」
フランソワさんが見ました。
「神様の文字でございますね」
「うん」
看板には、
Буфет(ブフェート。売店。)
Пирожки(ピロシキー。ピロシキ。)
Чай(チャーイ。紅茶。)
と書いてあります。
文字だけでは読めない人もいます。
だから、絵があります。
ピロシキの横に「Пирожки(ピロシキー。ピロシキ。)」。
紅茶のカップの横に「Чай(チャーイ。紅茶。)」。
売店そのものには「Буфет(ブフェート。売店。)」。
遠くから見ると、装飾に見えるくらい小さな看板です。
「知らない人は、絵を見る」
「読める人は、文字も読める」
「そう」
「お嬢様は、もちろんお読みに」
「読めるよ」
「便利でございますね」
「でも、この世界だと神様の文字扱いなんだよね」
「はい」
「ピロシキ屋さんの看板なのに」
どろちゃんは少し笑いました。
◇ ◇ ◇
売っているものは、たくさんありません。
ピロシキ。
それから、ジャム入り紅茶。
「本当に、それだけ?」
「はい」
「分かりやすい」
学生が言いました。
「売店を大きくしすぎると、人が並んで通路を塞ぐと思いました」
「なるほど」
「ですので、最初は品目を少なくしました」
「正解かも」
「使ってみて、必要なら増やします」
「うん」
どろちゃんは、売店の位置を見ました。
入口。
ベンチ。
船着き場へ出る扉。
「……でも、ここちょっと近いかな」
「何がでしょう」
「売店に人が並ぶと、入口から入ってきた人とぶつかるかも」
学生が床を見ました。
「確かに」
「次に作るときは、もう少し奥にする?」
「はい」
「ここは?」
「棚の向きを変えれば、列を壁側へ寄せられます」
「じゃあ、それでやってみよう」
「はい」
習作です。
失敗しないための模型ではありません。
実際に建てて。
人が使って。
悪いところを見つけて。
次へ直すための建物です。
◇ ◇ ◇
最初のお客さんが来ました。
船の出発まで、まだ二十分あります。
以前なら、川岸で待つ時間です。
冬の風。
湿った空気。
立ったまま。
それが今日は違います。
扉を開けます。
「暖かい」
最初の人が言いました。
次の人も入ってきます。
荷物を置きます。
ベンチへ座ります。
濡れた外套を掛けます。
サモワールから湯気が出ています。
売店の前で、一人が看板を見ました。
「これは何だ」
「ピロシキだそうです」
「絵と同じだな」
「そっちの文字は?」
「神様の文字だそうです」
「神様、ピロシキ食べるのか」
どろちゃんは少し離れたところで聞いていました。
「食べるかも」
思わず言いました。
「お嬢様」
「なに?」
「分かりませんので」
「そうだった」
売店の女性が、温めたピロシキを渡します。
隣では、紅茶へジャムを入れます。
「甘い?」
「甘うございます」
「じゃあ一つ」
別の人も注文しました。
暖かい部屋。
ピロシキ。
ジャム入り紅茶。
ベンチ。
窓の向こうには、冬の川。
しばらくすると、一人が窓の外を見て言いました。
「来た」
みんなが少し動きます。
川の向こうから、水玉船が見えてきました。
一色の大きな丸。
それだけで、どの船か分かります。
「まだ慌てなくていいよ」
売店の女性が言いました。
「ちゃんと着いてからで大丈夫です」
以前なら、船が見えた瞬間に外へ出て待っていた人たちが、今日はベンチに座ったままです。
船が着きます。
係留します。
乗る準備ができてから、扉が開きます。
みんなが外へ出ました。
冷たい風が入ってきます。
でも、すぐ扉は閉まりました。
◇ ◇ ◇
水玉船が戻ってきます。
乗客を降ろします。
荷物を降ろします。
船員が燃料側へ回します。
そのまま給油。
潤滑油も確認。
次の便までの時間で、必要なところを見ます。
「ずいぶん余裕ができたね」
どろちゃんが言いました。
「はい」
「前は、燃料の手配まで仕事だった」
「今も補給は仕事ですが、運ぶ仕事がなくなりました」
「大きいね」
「大きいです」
待合所では、次の便の人がもう座っています。
売店から、またピロシキの匂いがします。
ジャム入り紅茶を持っている人もいます。
「交通機関っぽくなった」
「以前から定期船でございましたが」
「うん。でも、もっと」
どろちゃんは港を見ました。
船。
待合所。
燃料。
潤滑油。
時刻表。
売店。
ベンチ。
暖房。
サモワール。
どれも、それだけなら小さいものです。
でも、一緒になると違います。
船があるだけではありません。
船を待つ人がいて。
時間が決まっていて。
待つ場所があって。
食べるものがあって。
戻ってきた船へ燃料を入れて。
また出す。
「次、船増やせるかな」
どろちゃんが言いました。
港の人が答えました。
「燃料については、大丈夫です」
「船は?」
「作れます」
「船員は?」
少し間がありました。
「そちらは、増えておりません」
「……人は神様から補充されないね」
「はい」
どろちゃんは、港をもう一度見ました。
「じゃあ、育てよう」
「船員を?」
「うん」
「時間がかかります」
「人だからね」
水玉船が、また川へ出ていきました。
排気はほとんど見えません。
港に黒いすすも残りません。
待合所の窓の中では、次の人がジャム入り紅茶を飲んでいました。
◇ ◇ ◇
第42章の小さな説明
【神様のディーゼル燃料タンクとオイルタンク】
港に、水玉船用のディーゼル燃料タンクと潤滑油タンクが設置されます。
燃料は航空機用の神様共通燃料とは別で、ディーゼル機関専用です。
炭化水素系のディーゼル燃料なので、燃焼すれば二酸化炭素と水は生じますが、硫黄分はあらかじめほぼ除去されています。
また、未燃焼炭化水素やすすがほとんど出ず、通常なら燃焼条件によって発生するNO・NO₂などの窒素酸化物もほとんど出ないように燃えます。
硫黄分除去は燃料精製で説明できますが、窒素酸化物まで極端に少ない点は、どろちゃんや技師さんたちにも通常の燃料だけでは説明しにくく、神様側が燃焼のしかたまで何らかの形で調整しているらしい、と考えています。
港で直接補給できるようになったため、燃料樽や缶を馬車で運ぶ作業が大幅に減り、ストラスブール=ケール、バーゼル、ハイデルベルク方面の定期船運航に余裕が生まれます。
【燃料消費の記録】
神様から燃料が補充されるからといって、自由に使って記録しないわけではありません。
船ごとの給油量、運航区間、乗客や荷物、風や川の状態などを記録し、燃費や運航条件を把握します。
整備記録は別に残します。
水玉船が単に「動く船」ではなく、定期交通機関として運用管理されるようになっています。
【小さな港の待合所】
待合所は、神様から完成品として届いた建物ではありません。
どろちゃんとライデン大学エルレンフェルトキャンパスの学生たちが設計した、公共建築の習作です。
大都市の巨大で豪華な旅客ターミナルではなく、エルレンフェルトの町並みに合わせた小規模な一階建てです。
石、煉瓦、木を使い、必要人数が雨風を避けて待てる広さにしています。
暖房、屋内ベンチ、外套掛け、時刻表、船着き場を見られる窓、サモワール、小さな売店があります。
将来は一方向へ増築できるようにしてあり、実際に使って問題点が見つかれば、次の港や増築時に直す前提です。
【売店と小さなキリル文字の看板】
売店で売るのは、まずピロシキとジャム入り紅茶です。
看板は大きな宣伝板ではなく、絵と小さなキリル文字を組み合わせています。
Буфет(ブフェート。売店。)
Пирожки(ピロシキー。ピロシキ。)
Чай(チャーイ。紅茶。)
文字を読めない人にも分かるよう、ピロシキと紅茶の絵を添えています。
この世界ではキリル文字は「神様の文字」と見なされますが、どろちゃんは神様から与えられた言語能力によって普通に読むことができます。
遠目には模様のようにも見える、小さな表示です。
【港が交通機関になります】
燃料設備、潤滑油、待合所、時刻表、売店、暖房、ベンチ、サモワールがそろったことで、港は単なる船着き場ではなく、定期公共交通の拠点になります。
ただし、燃料や船の問題が軽くなっても、船員まで神様から補充されるわけではありません。
船を増やす次の制約は、人を育てる時間になります。




