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41帰りの飛行機では、みんなよくしゃべります

第41章 帰りの飛行機では、みんなよくしゃべります


 最初の帰国便は、まだ朝の霧が川の低いところへ残っているうちに出ました。


 ミツバチちゃんの後部扉が閉まります。


 書類箱。


 旅行鞄。


 神様の梱包材へ戻した皿とカップとカトラリー。


 それから、帰国する人たち。


 来たときより、少しだけ荷物が増えています。


 どろちゃんは左の操縦席へ座りました。


 右にはフランソワさんです。


「今日も、こっち?」


「はい」


「後ろに座っててもいいよ」


「こちらにおります」


「どうして?」


 フランソワさんは、後ろを一度だけ見ました。


「途中で、前へ来てみたいとおっしゃる方が出ないようにでございます」


「ああ」


 どろちゃんにも分かりました。


 前回までに、何人かいました。


 飛んでから、


 ――操縦席を見たい。


 ――前の窓から景色を見たい。


 ――少しだけならよいだろう。


 そういう人です。


「ワガママさん対策だね」


「そのような言い方はいたしません」


「でも、そうでしょう?」


「右席は使用中でございます」


「便利」


「はい」


 操縦席と客室兼貨物室の間の扉を閉めます。


 後ろから見ると、これで会話は聞こえないように思えます。


 実際、エンジンが回れば、客室ではかなり大きな音になります。


 ただし、どろちゃんのヘッドセットには、後部の音が入ります。


 客室側の呼び出しや異常を聞き逃さないための音です。


 フランソワさんのヘッドセットにも入っています。


 どろちゃんは、それをわざわざ後ろへ説明していませんでした。


「聞こえるね」


「はい」


「全部」


「はい」


「言わない方がいい?」


「その方がよろしいかと存じます」


「分かった」


 どろちゃんは前を向きました。


 燃料。


 計器。


 操縦系統。


 エンジンまわり。


 扉。


 荷物固定。


 確認していきます。


 右側。


 左側。


 人が離れています。


 始動。


 片方のプロペラがゆっくり回り始めます。


 音が揃っていきます。


 もう片方も回ります。


 振動を確かめます。


 温度と圧力を見ます。


 急ぎません。


 外交官を運ぶときも、王様を運ぶときも、始動手順は変わりません。


「行くよ」


「はい」


 ミツバチちゃんは草地を転がり始めました。


     ◇ ◇ ◇


 最初の便は、フランス側です。


 ルイ十四世も乗っています。


 トルシー侯もいます。


 最低限のお付きもいます。


 それに、帰りの箱。


 六色水玉船へ乗ったときもそうでしたが、王様は乗り物へ乗ると窓の外をよく見ます。


「前へ行けば、もっとよく見えるのだろう」


 後ろから聞こえました。


「陛下。操縦席は二席とも使用中でございます」


 トルシー侯です。


「右には誰がいる」


「フランソワ殿です」


「余と替わればよい」


 どろちゃんは前を向いたまま、口を閉じました。


 フランソワさんも前を見ています。


「陛下」


 トルシー侯の声が続きます。


「離陸前でございます」


「飛んでからでよい」


「そういう意味ではございません」


「分かっている」


 どろちゃんは小声で言いました。


「やっぱり来た」


「はい」


「右にいてもらってよかった」


「はい」


 滑走路の端で向きを変えます。


 風向。


 吹き流し。


 前方。


 計器。


 どろちゃんは出力を上げました。


 二つのエンジン音が大きくなります。


 機体が走ります。


 草の線が速くなります。


 操縦桿が軽くなります。


 前輪への重さが抜けます。


 少し持ち上げます。


 浮きました。


 脚はそのままです。


 ミツバチちゃんは、冬のエルレンフェルトから離れていきました。


 丘。


 会議場。


 ホテル。


 格納庫。


 川。


 だんだん小さくなります。


「見えるか」


「見えます、陛下」


「会議場は、上から見ると小さいな」


「地上では大きゅうございましたが」


「その横の白い線が滑走路か」


「そうでしょう」


「国そのものが小さい」


 少し間がありました。


「だが、空から見ても境は分からぬな」


「国境に線が引いてあるわけではございませんので」


「地図にはある」


「地図にはございます」


 どろちゃんは、少し笑いました。


 その会話は、前でもよく分かります。


 高度を上げます。


 雲の下。


 視界は十分です。


 ライン川を目印の一つにします。


 この機体に、未来の航空図や衛星航法はありません。


 大きな川。


 町。


 街道。


 森。


 地形。


 時計。


 磁針。


 知っている目印を一つずつつないでいきます。


 後ろでは、もう別の話になっていました。


「持ち帰った食器を、ヴェルサイユで使うのですか」


 誰かが聞きました。


「余の分は使う」


 ルイ十四世です。


「銀器ではございません」


「分かっている」


「皿も宮廷のものとは違います」


「それも分かっている」


「では、なぜ」


「あの部屋で使ったものだからだ」


 今度は、少し間がありました。


 トルシー侯が言いました。


「記念品でございますか」


「そう呼ぶのか」


「ほかに適当な言葉がございません」


「ならば、それでよい」


「陛下が会議の記念品をお持ち帰りになるとは思いませんでした」


「お前も持っているだろう」


「頂きましたので」


「では同じだ」


「同じではございません」


「なぜだ」


「陛下でございますので」


「便利な説明だな」


 どろちゃんは、前でまた笑いそうになりました。


 フランソワさんが、ほんの少しだけこちらを見ました。


「聞こえてるね」


「はい」


 川から離れて西へ向かうころ、地面の模様が変わります。


 冬の畑。


 村。


 森。


 細い道。


 ところどころ白く見える霜。


 川を渡る橋。


 上から見ると、軍隊の陣地も町の市場も、同じくらい小さく見えます。


「昨日まで、あのような道を馬車で何日も進むつもりでいたのだな」


 客室から声がしました。


「飛んでしまうと、距離の感覚が変わります」


「国境もだ」


「はい」


「しかし、飛行機を持っているのは、あの娘だけだ」


「現状では」


「現状では、か」


 トルシー侯の声が少し低くなりました。


「陛下。むしろ、あの飛行機を誰に向けて使うかが重要かと」


「余に向けたこともある」


「警告でございました」


「知っている」


「今回は、我々を会議へ運びました」


「それも知っている」


「ですので、次回も迎えに来てもらう方がよろしいかと」


「余は行く」


「存じております」


「止めるな」


「今回は最初から座席に入れていただきます」


「それでよい」


「前回、陛下のお付きの分だけ、夜の女性が減りましたので」


「まだ言うか」


「舞踏会で実際に不足いたしました」


「ストラスブールから来ただろう」


「結果としては」


「問題なかった」


「陛下にとっては」


 後ろで、誰かが小さく笑いました。


「誰だ」


 静かになりました。


 どろちゃんは操縦桿をほんの少し押さえました。


 空気の揺れです。


 小さく機首が上下します。


 出力はそのまま。


 姿勢を戻します。


「揺れます」


 フランソワさんが言いました。


「このくらいなら大丈夫」


 その直後。


「今のは何だ」


 後ろで王様が言いました。


「気流でしょう」


「落ちたのではないか」


「落ちてはおりません」


「伯爵娘は何も言わぬな」


 聞こえています。


 でも、どろちゃんは飛行中です。


 必要がなければ客室の会話へ入らないことにしました。


 やがて地面の建物が増えます。


 道も太くなります。


 遠くに大きな都市のまとまりが見えてきました。


 どろちゃんは降下へ入ります。


 出力を少し落とします。


 高度。


 速度。


 風。


 予定している草地。


 前に使ったグルネルの平地です。


 上空から一度見ます。


 人が入っていない。


 馬車もない。


 障害物も増えていない。


 吹き流しが見えます。


「着くのか」


 後ろから王様の声。


「おそらく間もなくでございます」


「前を見なくても分かるのか」


「高度が下がっておりますので」


「なるほど」


 どろちゃんは大きく回りません。


 町の上を避けます。


 進入。


 草地。


 速度。


 少しずつ地面が近づきます。


 接地。


 軽く跳ねます。


 また接地。


 転がります。


 速度が落ちました。


「着いた」


「はい」


 フランソワさんが答えました。


 後ろでは、


「やはり馬車より早い」


「比較する距離ではございません、陛下」


「だが早い」


「はい」


 最後まで、よくしゃべっていました。


     ◇ ◇ ◇


 二便目。


 今度は、ネーデルラント側でした。


 朝とは風が変わっています。


 どろちゃんは離陸前に、もう一度吹き流しを見ました。


 帰国する代表団は、後ろで食器の箱を確認しています。


「割れていないだろうな」


「まだ飛んでもいません」


「帰って開けて割れていたら、妻に何と言えばよい」


「会議の成果より先に皿を見せるのですか」


「会議の成果は役所へ持っていく。皿は家へ持っていく」


「合理的ではあります」


「カップもある」


「知っています」


 どろちゃんは、ヘッドセットの中で全部聞いていました。


「お皿、人気だね」


「はい」


 フランソワさんは、今度も右席です。


「後ろの人、前に来そう?」


「どなたか一人は」


「予想なんだ」


「これまでの経験でございます」


 始動。


 暖機。


 確認。


 滑走。


 浮きます。


 ライン川の低地が、今度は長く見えました。


 ネーデルラントへ向かう便では、川と低地を使って位置を取りやすい区間があります。


 ただし、ずっと一本の川だけを追うわけではありません。


 分岐。


 町。


 別の川。


 道。


 時計。


 地図。


 それを照らし合わせます。


 高度が上がると、後ろから声がしました。


「昨日まで、あの川を船で移動していたのだな」


「一部だけだ。公爵家の水玉船は、もっと南だ」


「しかし、考え方は同じだろう」


「何が」


「川を道として使う」


「それは昔からだ」


「違う。定時に船を出す。運賃を決める。住民と外の者で料金を分ける。荷物も運ぶ」


「それも珍しくはない」


「暖房がある」


「そこか」


「冬の船で、パンと茶が出る」


「そこも重要だ」


「サモワールがあった」


「欲しいのか」


「少し」


「皿だけでは足りないのか」


 また笑い声です。


 少しして、別の人が窓の外を見ながら言いました。


「畑の形がよく分かる」


「水路もだ」


「あそこ、湿っているな」


「色が違う」


「地上では分からない」


「堤防を作る場所を見るには、これは便利だ」


「伯爵令嬢が低地の写真を撮っている理由が分かる」


「写真だけでは足りないだろう」


「測量は必要だ」


「しかし最初に全体を見るにはよい」


「我々が一番欲しい使い方かもしれない」


 どろちゃんは、少しだけ耳をそちらへ向けました。


 飛行機の武器の話ではありません。


 水の話です。


「上から見れば、切れた堤防もすぐ分かる」


「洪水のあとならな」


「道路が水没した場所も」


「町を作る場所も」


「いや、そこは地盤を見なければ危ない」


「当然だ」


「エルレンフェルトの会議場も低地には建てなかった」


「丘だったな」


「低いところは農地と水に使う。建物は上へ」


「合理的だ」


 そのまま、話は会議から土木へ移りました。


「一か月後に戻ったら、ライデンの者にも聞こう」


「大学の者があそこにいるのは便利だな」


「便利どころではない。自国へ戻らず、向こうで実験できる」


「エルレンフェルトは大学を買ったのか」


「違う。ライデン大学の一部だ」


「では学位はライデン」


「そう聞いた」


「小国のくせに妙なものを持っている」


「小国だからでは」


「どういう意味だ」


「自分で全部持てない。だから外から呼ぶ」


「なるほど」


「軍隊も増やさない」


「代わりに飛行機がある」


「それを軍隊と数えるか?」


「一機で我々全員を運んでいる」


「砲兵一個隊より役に立ったな、今回は」


 どろちゃんは前を見ながら、小さく言いました。


「それ、技師さん喜びそう」


「聞かせない方がよろしいかと」


「なんで?」


「調子に乗られるかもしれません」


「技師さんたち?」


「お嬢様が」


「私?」


 フランソワさんは答えませんでした。


 北へ進むにつれて、地面の水が増えて見えます。


 川。


 運河。


 低い土地。


 町。


 港へ向かう道。


 曇った冬空の下でも、人が水を制御しながら暮らしている形が見えました。


「下を見ろ」


 客室で誰かが言いました。


「水ばかりだ」


「我々の国だ」


「帰ってきた感じがする」


「飛行機から国を見ると、妙なものだな」


「何が」


「城より先に、水路が見える」


「それでよい」


「国の骨だ」


 少し黙ったあと、


「休戦になったら、まず堤防の予算を戻したい」


「軍が取るぞ」


「だから会議で止めるのだろう」


「一か月でそこまで決まるか」


「決めるのは休戦だ。予算は帰ってから奪い合う」


「結局、戦いではないか」


「砲弾が飛ばないだけましだ」


 後ろで笑いました。


 どろちゃんも笑いました。


 この人たちは、もう休戦後の金の使い道を話しています。


     ◇ ◇ ◇


 三便目は、イングランド側でした。


 この便は水の上を通る時間があります。


 どろちゃんは、天気をかなり気にしました。


 雲。


 風。


 視程。


 海の上へ出る前に、戻れる条件かを考えます。


 無理なら行きません。


 外交官の予定より、天気の方が強いです。


「今日は飛べる?」


 フランソワさんが聞きました。


「行けると思う。でも雲が下がったら戻る」


「承知いたしました」


「後ろにも言っておこう」


 どろちゃんは客室へ、


「途中で天気が悪くなったら、戻ることがあります」


と伝えました。


 返事は、


「承知しました」


でした。


 扉を閉めます。


 数分後。


「予定通り着かないこともあるのか」


 後ろで誰かが言いました。


「飛行機なのだから、当然だろう」


「馬車なら雨でも行く」


「海へ落ちる馬車はない」


「それもそうだ」


 どろちゃんは前で笑いました。


 始動。


 滑走。


 離陸。


 川と町が後ろへ流れます。


 しばらくは陸地です。


 その間、客室は静かでした。


 と思ったら、誰かが言いました。


「持ち帰った報告書、最初に何を説明する?」


「休戦案」


「当然だ」


「その次は?」


「エルレンフェルトが領土を求めていないこと」


「信じるか?」


「父親の方は信じられる」


「娘は?」


「もっと分からない」


「何が」


「欲しいものが土地ではない」


「工場か」


「知識だろう」


「それなら、なお危険では」


「領土を取る者は地図を変える。知識を取る者は、その国そのものを変える」


「大げさだ」


「そうか?」


 少し間がありました。


「飛行場ができた」


「船も」


「薬も」


「電信も」


「大学まで来た」


「……大げさではないかもしれない」


 どろちゃんは、前で眉を上げました。


「私、そんなに取ってる?」


「お嬢様」


「なに?」


「今は操縦を」


「してるよ」


「はい」


 後ろでは、別の声がしました。


「しかし、本人は爵位を増やして喜んでいるようには見えなかった」


「イングランド伯爵位も持っている」


「それなのに、昨日は自分でヴァイオリンを弾いていた」


「それと爵位は関係ないだろう」


「王の前で『毎日は弾かない』と言える娘だ」


「そこは少し関係があるかもしれない」


「父親も似ている」


「父親は言葉が少ない」


「娘は多い」


「どちらも肝心なところは同じだ」


「何だ」


「押しても動かない」


「だから、あの家が中立地になるのか」


「かもしれない」


 景色が変わります。


 大きな川。


 河口。


 その向こうに海。


 冬の海は、陸地の畑よりずっと単純な色です。


 空と水の境が曖昧なところがあります。


 どろちゃんは、雲の高さと水平線を見ました。


 計器も見ます。


 針路。


 時間。


 風で流される分。


 目で見える陸上の目印が減るので、いつもより確認が増えます。


 後ろでは、


「海だ」


「本当に、この上を飛ぶのか」


「来るときも飛んだだろう」


「来るときは、あの娘が平気な顔をしていたから考えなかった」


「今も平気だろう」


「見えない」


「扉を閉めたからな」


「前へ――」


「やめておけ」


「まだ何も言っていない」


「前へ行きたい顔をしている」


「顔で分かるのか」


「分かる」


 フランソワさんが、ほんの少し口元を動かしました。


「また一人」


「はい」


「席、埋めて正解」


「はい」


 海峡の途中。


 少し雲の切れ目がありました。


 水面へ細い光が落ちています。


「きれいだな」


 後ろから、女性の声がしました。


 同行していた家の女性です。


「何が見えます?」


「雲の間から、海だけ明るい」


「こちらからも見えます」


「船がいる」


「どこだ」


「あそこ。小さい黒い点」


「本当だ」


「飛行機から見ると、船は遅いのね」


「船から見れば、この飛行機が速すぎる」


「次に来るときも、これでしょう?」


「そうなるだろう」


「それなら、また窓側がいいわ」


「会議より楽しみにしていませんか」


「会議はあなたたちがするでしょう。私は夜の方」


「舞踏会ですか」


「それも。食事も」


「皿をもらったからですか」


「あなたもカップを大事に箱へ入れていたでしょう」


「私は記録のためです」


「便利な言葉ね」


 客室で笑い声がしました。


 どろちゃんは、前で少し嬉しくなりました。


 政治の話だけではありません。


 飛行機に乗って、景色を見て、帰ったあと誰に何を話すか。


 それも旅です。


 やがて向こう側の陸地が見えます。


「見えた」


 どろちゃんが言いました。


「陸でございますか」


「うん」


 フランソワさんも前を見ました。


 客室でも、少し遅れて気づきます。


「陸だ」


「思ったより早い」


「これなら一か月後に来るのを嫌がる理由が減る」


「王が飛行機を嫌がらなければな」


「誰が説明する」


「お前だ」


「なぜ私だ」


「窓から海がきれいだったと言えばよい」


「それで王が来るのか」


「少なくとも、泥の話だけするよりは」


 前で、どろちゃんは思いました。


 お父様の話が、ここでも効いています。


     ◇ ◇ ◇


 四便目。


 トリノへ向かうサヴォイア側です。


 これが一番長い便でした。


 増槽も使います。


 燃料の扱い。


 重量。


 重心。


 どろちゃんは、出発前から何度も確認しました。


 人。


 荷物。


 食器の箱。


 書類。


 燃料。


 全部を積めるからといって、雑に積んではいけません。


 重いものは位置を考えます。


 固定します。


「増槽、確認」


「はい」


「荷物、動かない?」


「固定済みでございます」


「後ろの食器も?」


「最も丁寧に固定されております」


「そこまで?」


「皆様が見ておられましたので」


「割ったら怒られるね」


「おそらく」


 客室の扉を閉めました。


 その向こうでは、もう会話が始まっています。


「この箱だけは落とすなと言っただろう」


「落としていません」


「さっき少し傾いた」


「飛行機へ積むためです」


「皿の心配より、文書の心配をしてください」


「文書は紙だ。割れない」


「濡れます」


「それは困る」


「どちらも大切に扱います」


「最初からそう言え」


 どろちゃんは笑いました。


「どこも一緒」


「はい」


 離陸します。


 この便は最初から高めへ上がります。


 長い距離を飛びます。


 天気を見ながら、山へ近づく前に余裕を取ります。


 ミツバチちゃんは、下の町を一つずつ置いていきます。


 道が細くなります。


 平地が減ります。


 地面に起伏が増えてきます。


「山が見えてきた」


 後ろで声がしました。


「まだ遠い」


「それでも大きい」


「上から見れば低く見えると思っていた」


「逆だ」


「谷の深さが分かる」


「道が一本しかないところも」


「軍を通すには嫌な場所だな」


「また戦争の話か」


「地形を見ると考える」


「私は、あの村がどうやって冬を越すのか考えた」


「そちらも難しい」


「薪だろう」


「運ぶ道がいる」


「だから道だ」


「結局、お父上の話へ戻るな」


「戦費を道へ回せ、か」


「全部とは言っていなかった」


「それがうまい」


「全部やめろと言われたら反対する」


「半分なら?」


「交渉する」


「三分の一なら?」


「数字を出すな。帰ってから困る」


 後ろで笑いました。


 山が近づきます。


 どろちゃんは、空をよく見ました。


 山の風は平地と同じではありません。


 雲の付き方。


 風下。


 谷。


 逃げる方向。


 無理をしません。


「今日は大丈夫そう」


「山を越えますか」


「通れるところを使うよ。高いところへ無理に上がらない」


「はい」


 高度を保ちます。


 山の斜面が横へ近づいて見える区間では、客室が静かになりました。


「……これは、近いな」


「窓から見るからだ」


「落ちたら、あそこへ行くのか」


「そういうことを言うな」


「でも、きれい」


 また女性の声です。


「雪が残ってる」


「上の方だけだ」


「谷は緑が少ない」


「冬だからな」


「夏なら違うのかしら」


「一か月後でも、まだ冬だ」


「では次も白いわね」


「次も来る気なのですか」


「あなたたちだけ行かせると、また変なものを持って帰るでしょう」


「変なもの?」


「皿」


「あなたも欲しがっていたではありませんか」


「だから次は自分で選ぶの」


「選べるとは限りません」


「伯爵閣下に聞けばいいでしょう」


「たぶん『いいよ』と言う」


「そうでしょう?」


 どろちゃんは、前で顔をしかめました。


「私、そんなに何でもいいよって言ってる?」


「食器については」


「ほかは?」


「飛行機の操縦席は、だめとおっしゃいます」


「それはだめ」


「秘密も」


「だめ」


「では、十分でございます」


 山を越えた先で、景色がまた開けました。


 遠くの平地。


 町。


 川。


 道。


 トリノへ続く地域です。


 客室でも、それが分かったようでした。


「帰ってきた」


「まだ着いていない」


「見慣れた地形になった」


「この高さから見慣れているのか」


「いや」


「では何だ」


「山の向こうへ出ると、空の色まで違う気がする」


「気のせいだろう」


「それでもよい」


 少しして、代表本人らしい声がしました。


「次の会議には、誰を連れていくか考えなければならない」


「殿下ご本人が行くなら、次席も必要です」


「書記も」


「女性も」


「今度は最初から席がある」


「フランス王が勝手に使わなければ」


「今度は最初から本人用だ」


「なら大丈夫だ」


「本当に?」


「……予備は欲しいな」


「なぜ」


「王というものは、予定外の人を一人増やす」


「サヴォイアの話ですか、フランスの話ですか」


「一般論だ」


「便利な一般論ですな」


 どろちゃんは笑いました。


「王様って、そう思われてるんだ」


「お嬢様」


「なに?」


「聞こえております」


「知ってるよ」


「いえ。お声が少し大きゅうございました」


「あ」


 後ろが一瞬静かになりました。


 どろちゃんも静かになりました。


 しばらくして、


「今、前から何か聞こえなかったか」


「エンジンだろう」


「そうか」


「そうだ」


 フランソワさんは前を向いたまま、何も言いません。


 どろちゃんも、何も言いません。


 危ないところでした。


     ◇ ◇ ◇


 最後の帰国便から戻った翌朝。


 会議場とホテルは、ひどく静かでした。


 昨日までいた人たちがいません。


 廊下。


 食堂。


 宴会場。


 会議室。


 どこも広く見えます。


「変な感じ」


 どろちゃんはホテルの食堂へ入りました。


「数日前までは、あんなに人がいたのに」


「一か月後には、また増えます」


「今度はもっと偉い人」


「はい」


「ワガママさんも増えるかな」


「お嬢様」


「一般論」


 昨日聞いた言葉を使いました。


 フランソワさんは、少しだけ困った顔をしました。


 食器棚を見ます。


 代表たちへ渡した分だけ、昨日は空いていました。


 皿。


 カップ。


 ソーサー。


 深皿。


 小皿。


 カトラリー。


 きちんと使ったものを洗って戻していた間は、元の数を保っていました。


 今回は、最終日にそのまま箱へ詰めて持っていきました。


 だから棚から見ると、不足です。


「どうなった?」


 どろちゃんは扉を開きました。


「あ」


 ありました。


 白い皿。


 白いカップ。


 同じ形。


 同じ大きさ。


 同じ枚数。


 昨日持っていったものと、まったく同じ新品です。


「やっぱり補充された」


「そのようでございます」


「持っていった皿が戻ってきたんじゃないね」


「新品でございます」


 底を見ます。


 同じ印。


 NARUMI。


 別のものには、NORITAKE。


 もともと会議場へ届いた、量産の高級ボーンチャイナです。


 白い。


 薄い。


 同じ型のものを重ねても、きちんと揃います。


「これで次も足りるね」


「はい」


「神様、ちゃんと数えてる」


「食器棚が数えているのでございましょう」


「それも変だけど」


 そこで終わるはずでした。


「お嬢様」


 ホテルの担当の女性が、食堂の奥を指しました。


「なに?」


「別の荷物が届いております」


「別?」


「昨夜にはございませんでした」


 行ってみました。


 箱があります。


 一つではありません。


「……また食器?」


「そのようでございます」


 どろちゃんは札を見ました。


 開けます。


「わ」


 今度は、白だけではありません。


 縁に金色があります。


 細い金彩。


 花。


 小さな花が連なったもの。


 余白を大きく取って、花を一部だけ置いたもの。


 カップにも同じ柄があります。


 ソーサー。


 ディナープレート。


 深皿。


 デザート皿。


 大皿。


 揃っています。


「きれい」


 フランソワさんも、少し近づきました。


「前のものとは違いますね」


「うん。上のやつ」


 底を見ます。


「同じだ」


「同じ?」


「メーカー」


 NARUMI。


 NORITAKE。


 ただし、前に大量に届いた白い実用品より、明らかに格式を上げたシリーズです。


 一点物の美術品ではありません。


 同じものを必要数揃えられます。


 でも、晩餐の卓へ置いたときに、白い皿とは印象が違います。


 金彩。


 花柄。


 薄さ。


 透け方。


 仕上げ。


 神様は、次に来る人たちを分かっているようでした。


「王様用?」


「次回会議用、と札がございます」


「やっぱり」


 別の箱も開けます。


 カップ。


 金の縁。


 細い取っ手。


 花の帯。


 さらに別の箱には、同じメーカーの、もっと上のグレードの白い器もありました。


 金彩ほど派手ではありません。


 でも、形が少し繊細です。


 盛り付けた料理が映えるよう、余白の取り方まで違います。


「神様、前の食器を補充したうえで、追加したんだ」


「はい」


「交換じゃない」


「どちらもございます」


 それだけではありませんでした。


「まだ箱あるよ」


「こちらは、カトラリーとございます」


 開けます。


 どろちゃんは一本取り出して、少し目を細めました。


「同じ形だ」


 前の会議で使っていたものと、輪郭は同じです。


 ナイフ。


 フォーク。


 スプーン。


 山崎金属工業の、あの使いやすいシリーズでした。


 違うのは色です。


 磨かれた銀色のステンレスではありません。


 表面が金色です。


「金?」


「金色でございますね」


「金無垢じゃないよ。これ、金メッキ」


 同じシリーズの金メッキ仕様でした。


 形を変えて豪華にしたのではありません。


 手に持ったときの使いやすさは、前のものと同じです。


 ただ、正式な晩餐の卓へ置けば、金彩の器とよく合います。


「こういう揃え方するんだ」


「統一されておりますね」


「うん。神様、そこは細かい」


 さらに箱があります。


「今度はグラス」


 前に届いたのは、保谷と佐々木の、形の揃った実用的なグラスでした。


 今度も底の印は同じメーカーです。


 ただし、持ち上げた瞬間に違いました。


「重い」


「厚いのでございますか」


「そこだけじゃない」


 透明感があります。


 光を受けると、細かい面がきらきら返します。


 カットが深く、規則正しく入っています。


 水用。


 酒用。


 細い脚のもの。


 背の低いもの。


 どれも、前の実用品より一段上のクリスタルガラス製でした。


「きれい」


 フランソワさんも、窓から入る光へ一つかざしました。


「光が細かく分かれます」


「カットがちゃんとしてるからね」


「こちらも晩餐用でございましょうか」


「たぶん。金色のお皿と、金色のカトラリーと、これ」


 どろちゃんは並べてみました。


「……王様のご飯っぽくなった」


「王様だけではございません」


「分かってる。正式晩餐用」


「はい」


「昼は前の白いのでいいね」


「実務の昼食には、その方が使いやすいかと」


「夜は?」


「正式な晩餐であれば、こちらでしょうか」


「金色と花と、金色のカトラリーと、きらきらのグラス」


「はい」


「分かりやすい」


 どろちゃんは、一枚持ち上げました。


「でも料理は同じ人だけ別にはしないよ」


「もちろんでございます」


「偉い人だけ、おいしいものはだめ」


「器を替えるだけでございます」


「それならいい」


 箱の底に、紙がありました。


 短い文字です。


 次回会議用。


 晩餐用。


 必要数を用意しました。


 どろちゃんは紙を読みました。


 もう一度読みました。


「……神様」


 返事はありません。


「一か月後に王様たち来るって、最初から知ってたでしょう」


 返事はありません。


 ホテル担当の女性が言いました。


「梱包材も、今回の分までございます」


「そこまで?」


「はい」


「また持って帰ると思ってる?」


「可能性はあるかと」


「今回の人たち、みんな持って帰ったもんね」


「はい」


「神様も見てた?」


「分かりません」


「でも箱はある」


「ございます」


 どろちゃんは、金彩のカップを見ました。


 一か月後。


 今度は、王や君主。


 次席。


 お付き。


 社交に出る女性たち。


 そして、調印するかもしれない人たちが来ます。


 前回の代表たちは、帰りの飛行機で、もう次に何を持ってくるか、誰を連れてくるか、何を自国で説明するかを話していました。


 どろちゃんには聞こえていないと思いながら。


「みんな、いろいろ考えてたね」


 フランソワさんが、どろちゃんを見ました。


「お聞きになっておられましたので」


「全部ね」


「はい」


「私たち、盗み聞きしたことになる?」


「安全のために客室の音を確認していただけでございます」


「便利な説明」


「事実でございます」


「でも、次から気をつけた方がいいかな」


「何をでございますか」


「私が笑わないこと」


「そこからでございますね」


 どろちゃんは、金色の縁のカップを元の箱へ戻しました。


 次の会議まで、一か月。


 戦場では、ひとまず撃つのを止める準備が進みます。


 各国の宮廷では、持ち帰った文書が読まれます。


 家では、持ち帰った白い皿とカップが箱から出されます。


 そしてエルレンフェルトでは。


 空になった食器棚が、何事もなかったように新品で埋まりました。


 その横には。


 前より少し立派な食器が、もう次の客を待っていました。


     ◇ ◇ ◇


第41章の小さな説明


【帰国便の会話】


 本章では、帰国便のうち四つを長めに描いています。


 客室兼貨物室と操縦席の間の扉は閉じています。乗客側は、エンジン音もあるため、前には自分たちの会話が聞こえていないと思っています。


 しかし、どろちゃんとフランソワさんのヘッドセットには、安全確認のため客室側の音が入ります。


 そのため、代表団が会議の公式発言とは違う調子で、景色、家族への土産、道路、堤防、大学、旅の感想、次回の同行者、各国へ戻ってからの説明などを話しているのが、そのまま聞こえています。


 どろちゃんは会話へ割り込まず、操縦を優先します。



【ミツバチちゃんの操縦】


 ミツバチちゃんは、神様から届いたAn-28系の双発輸送機です。


 どろちゃんが左席で操縦し、フランソワさんが右席へ座ります。


 今回フランソワさんが毎便右席へ入っているのは、飛行中に「操縦席を見たい」と前へ来る乗客を増やさないためでもあります。


 航法は未来のGPSに頼らず、川、町、街道、森、地形、時計、磁針などを使います。


 長距離のトリノ便では増槽を使い、重量と重心、荷物固定、燃料を確認してから出発します。


 天候が悪ければ外交日程より飛行安全を優先します。



【補充された食器】


 会議場へ最初に届いた食器は、NARUMIとNORITAKEの量産高級ボーンチャイナです。


 食器棚には、規定数より不足すると、夜のうちに同じ新品が補充される仕組みがあります。


 前回の会議参加者へ食器一式を持ち帰らせたため、棚はその分だけ不足しました。


 翌朝には、持ち帰られたものと同じ白い新品が規定数まで補充されています。


 持ち帰った使用済みの皿が戻ってくるのではなく、新品が補充されます。



【次回用の正式晩餐セット】


 今回は通常の補充とは別に、新しい箱が届きました。


 NARUMIとNORITAKEの、前回より上位のシリーズです。


 金彩や花柄の入った皿、カップ、ソーサーなどが正式晩餐用として追加され、さらに同じメーカーの上位グレードの白い器も用意されています。


 カトラリーも前回とは別に、山崎金属工業の同じシリーズを使った金メッキ仕様が届きます。形と使いやすさは従来品と同じですが、金彩の器に合わせて正式晩餐向けの外観になっています。


 グラスも、前回使っていた保谷・佐々木と同じメーカーの上位品です。より美しいカットを施したクリスタルガラス製で、水用、酒用、脚付きなど用途別に揃っています。


 前の白い食器、ステンレスカトラリー、通常のグラスと交換するのではありません。


 通常の昼食や実務の食事には従来品を使い、王・君主・次席・同行女性などが集まる次回の正式な晩餐では、金彩・花柄の器、金メッキカトラリー、カットの美しいクリスタルグラスを使えるようになりました。


 料理そのものを身分によって変えるのではなく、場の格式に合わせて器と卓上用品を替える考え方です。


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