40泥より、暖かい部屋がいいのです。 どろの中で命を終えたいものはいないかな
第40章 泥より、暖かい部屋がいいのです
翌朝。
会議場の窓の外には、薄い雲がかかっていました。
丘の上は風があります。
けれど、会議室の中には関係ありません。
暖かい。
暑くもありません。
寒くもありません。
どろちゃんは椅子へ座る前に、壁の温度表示を見ました。
「昨日と同じ」
フランソワさんが、後ろから小さく言いました。
「同じでございますね」
「外、寒いのに」
「外は外でございます」
「便利だねえ」
どろちゃんは座りました。
昨日までなら、そのまま会議が始まります。
今日も、お父様が議長席です。
トルシー侯。
イングランド側。
ネーデルラント側。
帝国側。
サヴォイア側。
みんな揃っています。
そして、みんな元気です。
鼻をすすっている人もいません。
咳もありません。
熱を出して寝ている人もいません。
夜遅くまで踊っていた人まで、普通に朝食を食べて会議室へ来ています。
本人たちは、それぞれ別の理由を考えていました。
部屋が暖かいから。
食事がよいから。
水がきれいだから。
寝具が乾いているから。
旅の疲れが少ないから。
どろちゃんも、まずはそのあたりを考えています。
世界の方は、別の理由で律儀に働いていました。
◇ ◇ ◇
「では、始めましょうか」
お父様が言いました。
会議が始まりました。
最初は、昨日までの続きです。
安全な往来。
武装した随員をどこまで認めるか。
代表者が国境を越えるとき、誰が責任を持つか。
会議中に相手国の代表へ危害を加えないこと。
文書の写し。
署名。
仮の呼称。
今日は昨日より少しだけ速く進みました。
昨夜、みんなが踊りながら、だいたい相手の考えを聞いているからです。
誰も、
――昨夜、伯爵令嬢と踊りながら聞きました。
とは言いません。
でも、
「軍隊の通行と、民間の移動は別に扱うべきでしょう」
ネーデルラント側が言います。
「同意します」
イングランド側が続きます。
「会議への参加は、いずれかの王位請求を認めたことにはしない。この文言は必要です」
帝国側も言いました。
「それなら、サヴォイアとしても異存はありません」
少しずつまとまります。
どろちゃんは、お父様の横顔を見ました。
お父様は特に驚いていません。
昨日より進んでいることにも、何も言いません。
ただ、必要なところで話を止め、書記へ確認し、次の文章へ進めています。
昼前には、一枚の文書ができました。
完全な条約ではありません。
会議を続けるための暫定的な決まりです。
「できた」
どろちゃんが、小声で言いました。
「できましたね」
フランソワさんが答えます。
「一枚だけだけど」
「昨日よりは、多ございます」
「昨日は?」
「紙が増えました」
「そうだった」
◇ ◇ ◇
昼食のあと。
お父様は、いつものようにすぐ次の議題へ進みませんでした。
お茶を一口飲みました。
それから全員を見ます。
「一つ、皆様へお尋ねしてもよろしいでしょうか」
何人かが顔を上げました。
「もちろん」
トルシー侯が答えました。
「今年、これからどれほど戦争へ費用をお使いになりますか」
会議室が少し静かになりました。
どろちゃんも、お父様を見ました。
それ、聞くんだ。
「金額を申し上げることはできません」
イングランド側が先に言いました。
「ええ。数字を伺う必要はありません」
お父様は、あっさり返しました。
「では、その金で何をお買いになりますか」
「何を?」
「馬。飼料。火薬。砲弾。荷車。兵士の給金。冬営地。橋。包囲の資材。そういうものです」
「戦争ですからな」
「もちろんです」
お父様は否定しません。
「では、別のものへ使うことはできますか」
帝国側の代表が聞き返しました。
「別のものとは?」
「道路でも、橋でも、港でも、工房でも、倉庫でも」
お父様は、そこで一度、会議室を見回しました。
「このような建物でも」
みんなが、少しだけ室内を見ました。
誰も、そのことを口には出しません。
でも、壁の中を空気が静かに流れています。
外套はいりません。
窓の外は冬です。
中は適温です。
ルイ十四世は、この会議には正式な代表として座っているわけではありません。
けれど、その日は後ろの方で聞いていました。
「この空気を動かす仕組みか」
「はい」
「エアーコンディショナー、と言ったな」
どろちゃんが顔を上げました。
「うん」
「これを国中へ付けろという話か」
「無理だよ」
どろちゃんが先に答えてしまいました。
お父様が少しだけこちらを見ました。
「あ」
「続けてよい」
「ごめん」
お父様はまた全員へ向き直ります。
「国中へ同じものを、という話ではありません」
「では?」
「戦費として使わなかった金が、消えるわけではないということです」
トルシー侯が少し姿勢を変えました。
「つまり、国の中へ戻せる」
「そうです」
「しかし、戦争にも国家の利益があります」
帝国側が言いました。
「もちろんです」
また、お父様は否定しません。
「戦争を続ける方が利益になるのでしたら、続ければよろしいでしょう」
誰もすぐには答えませんでした。
どろちゃんは、お父様を見ました。
言い方が、少し怖い。
「ただし」
お父様は続けます。
「もう一冬、兵と馬と火薬へ金を使い、泥の中で結果を待つ方を皆様がお望みなら、ですが」
今度は、何人かの顔が変わりました。
泥。
言葉にすると短いです。
でも、従軍経験がある人には、それだけで十分でした。
雨。
雪。
濡れた外套。
乾かない靴。
馬糞。
煙。
壊れた荷車。
ぬかるみ。
腹を壊す兵士。
熱を出す随員。
死んだ馬。
死んだ人。
そして、弾は爵位を見ません。
「余は泥の中へは行かぬ」
ルイ十四世が言いました。
トルシー侯が、静かに答えます。
「陛下がお行きにならなくとも、行く者はおります」
「そうだな」
どろちゃんが言いました。
「行く人も、たぶん泥は嫌だと思うよ」
「お嬢様」
フランソワさんが、小さく呼びました。
「なに?」
「そのままでよろしいかと」
「うん」
お父様は、そこへ何も付け加えませんでした。
◇ ◇ ◇
「休戦をしたところで、その間に相手が強くなる可能性があります」
サヴォイア側が言いました。
「皆様も強くなればよろしいのでは?」
お父様が答えます。
「軍備を増す、と?」
「それも選択肢でしょう」
「ほかには?」
「道。港。農地。工房。教育。船。倉庫」
ネーデルラント側が笑いました。
「堤防も入れていただきたい」
「もちろん」
「運河も」
「それも」
イングランド側が言います。
「造船所も必要でしょう」
「必要なら」
「結局、何でもよいのですな」
「戦争以外に金を使う先は、いくらでもあります」
お父様は、普通に言いました。
「少なくとも、来年また戦うことになったとしても、今年より豊かな国で戦う方がよいでしょう」
その言い方なら、軍人も反論しにくい。
どろちゃんは、ちょっと感心しました。
「お父様、うまい」
「聞こえているぞ」
「小声だったのに」
「近いからな」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
休戦の話は、急に「道徳」ではなく「計算」になりました。
誰が正しいか。
どちらの王位が正統か。
どの土地を誰が取るか。
そこは、まだまとまりません。
でも、
一定期間、戦闘を止める。
その間に各国が条件を持ち帰る。
軍隊の移動を止める範囲を決める。
会議へ来る使節を攻撃しない。
次回は、実際に決定できる立場の者が来る。
そこまでは、だんだん一つの形になってきました。
永久の和平ではありません。
降伏でもありません。
王位を認める文書でもありません。
領土を放棄する文書でもありません。
ただ、いったん撃つのを止める。
「一か月では、いかがでしょう」
お父様が言いました。
「一か月」
トルシー侯が繰り返します。
「その間に、各国で今日の内容を検討する。次は、決定権を持つ方々にお越しいただく」
「一か月後に、再びここで」
「はい」
「そのとき、合意できれば?」
「調印まで」
会議室が静かになりました。
どろちゃんは、みんなの顔を見ました。
誰も立ち上がりません。
誰も怒りません。
誰も、
そんなものは無理だ、
とは言いません。
むしろ、紙を見ています。
「それなら」
イングランド側が言いました。
「持ち帰って検討できます」
「ネーデルラントも」
「帝国側も、この形式ならば」
「サヴォイアも異存はありません」
トルシー侯が最後に言いました。
「フランスとしても、陛下へ報告できます」
ルイ十四世が後ろから言いました。
「余はここにいる」
「正式な文書として、改めてでございます」
「そうか」
「そうでございます」
どろちゃんは笑いそうになりました。
◇ ◇ ◇
休戦の話がだいたいまとまった日の夕食。
別の話が始まりました。
「伯爵閣下」
「なに?」
「この皿について伺っても?」
どろちゃんは、自分の前の皿を見ました。
白い。
薄い。
形が揃っています。
ナイフもフォークも、全部同じです。
「皿?」
「ええ。これは、どこで購入できますか」
「買えないよ」
相手が少し残念そうな顔になりました。
「エルレンフェルトだけで作っているものですか」
「違うよ。神様からの頂き物」
「では、このフォークも?」
「それも」
「ナイフも?」
「うん」
「杯も?」
「それも神様」
話を聞いていた別の代表まで、自分のカトラリーを見ました。
「なるほど」
「買えないのは残念ですな」
「そうだね」
そこで、一人が少し考えました。
「では」
「うん?」
「我々が、この会議中に使用したものを、帰国の際に頂くことはできますか」
周りが少し静かになりました。
どろちゃんも、一度その人を見ました。
質問した側は、たぶん断られると思っています。
神様からの品です。
それを各国へ配る。
普通なら簡単には決めません。
「いいよ」
「……はい?」
「最終日なら」
「よろしいのですか」
「いいよ」
「本当に?」
「途中で持って帰られたら、ご飯食べるお皿なくなるでしょう」
「問題は、そこですか」
「そこ大事だよ」
別の代表が聞きました。
「一式、という意味で?」
「使ってた分ならいいんじゃない?」
「皿と、カップと、ナイフ、フォーク」
「うん」
「本当に?」
「何回聞くの?」
「もう少し難しい話になると思っていましたので」
「使った食器でしょう?」
どろちゃんは、自分のフォークを見ました。
「記念になるなら持って帰ればいいよ」
その瞬間。
後ろにいたホテル担当の女性が、静かに言いました。
「お嬢様」
「なに?」
「箱がございます」
「箱?」
「神様から食器が届いた際の梱包材を、保管しております」
どろちゃんが振り向きました。
「取ってあったの?」
「はい」
「なんで?」
「こうなると思いましたので」
少し間がありました。
「えらい」
「ありがとうございます」
神様から届いた箱。
中の仕切り。
皿を一枚ずつ離す材料。
カップが動かないようにする詰め物。
ナイフやフォークをまとめておく袋。
全部、残してありました。
捨てればごみです。
残しておけば、帰国用の梱包になります。
「じゃあ、洗って乾かして、最後の日に入れよう」
「承知いたしました」
代表の一人が、自分の皿を見ました。
「これは、私が使ったものになりますか」
「たぶん」
「たぶん?」
「同じだから分からないよ」
「印を付けておけば」
「刻まないで」
「では、底へ小さく」
「だめ」
どろちゃんは笑いました。
「ちゃんと同じの持って帰れるんだから、それでいいでしょう?」
「確かに」
その夜から、みんな食器を少し丁寧に扱うようになりました。
◇ ◇ ◇
最終日。
会議場の机の上には、完成した文書がありました。
署名ではありません。
一か月後の本会議へ持ち帰るための確認文書です。
休戦の基本条件。
各国が検討する事項。
次回会議の予定。
出席者の格。
武装随員の扱い。
そして、調印まで行う場合の準備。
お父様が、最後に確認しました。
「では、一か月後。各国の決定権を持つ方、その次席、必要なお付き、そして夜の社交へ出る女性を含む代表団でよろしいでしょうか」
「異存ありません」
「フランスも」
「ネーデルラントも」
「イングランドも」
「帝国側も」
「サヴォイアも」
ルイ十四世が言いました。
「次は最初から余の席を用意しておけ」
「分かった」
どろちゃんが答えました。
トルシー侯が横を見ました。
「お嬢様」
「なに?」
「スィートのことでございます」
「ああ」
「今度は、最初からでございます」
「はい」
ホテル側の人が、少し離れたところでうなずきました。
◇ ◇ ◇
食事が終わると、食器は集められました。
洗います。
乾かします。
一式ずつ分けます。
神様から届いた箱へ戻します。
皿。
小皿。
カップ。
ナイフ。
フォーク。
スプーン。
国ごと、代表ごとに名前を書いた札を付けました。
「本当に土産になったね」
どろちゃんが言いました。
「たいへん喜んでおられます」
フランソワさんが答えます。
「そんなに珍しい?」
「同じ品質のものが、同じ形で何十組も揃っておりますので」
「そっちか」
「使いやすいこともございます」
「確かに」
どろちゃんは一本のフォークを持ち上げました。
「普通に使えるもんね」
「その『普通』が、たいへん難しいのでございます」
「なるほど」
◇ ◇ ◇
翌朝から、帰国が始まりました。
ミツバチちゃんです。
来たときと同じように、どろちゃんが飛ばします。
ただし、帰す順番は適当ではありません。
「最初に来た人から」
どろちゃんが予定表を見ました。
「なぜです?」
トルシー侯が聞きました。
「滞在日数を同じくらいにしたいから」
「国の格ではなく?」
「関係ないよ」
「距離でもなく?」
「遠いところは飛ぶ時間を考えるけど、ホテルにいた日数は揃えたい」
「なぜそこまで」
「最初に来た人だけ、ずっと長く泊まってたら不公平でしょう?」
「なるほど」
「あと、次の人も部屋使うし」
「そちらもありますか」
「あるよ」
最初に到着した代表団を、先に送ります。
次に来た代表団を、その次に。
最後に到着したところは、最後に。
完全に同じにはできません。
天候もあります。
飛行距離も違います。
でも、なるべく揃えました。
帰りのミツバチちゃんには、来たときより少し荷物が増えています。
書類。
旅行鞄。
着替え。
会議の写し。
そして、
神様の箱へ戻した食器とカトラリー。
「来たときより荷物が多いね」
どろちゃんが言いました。
「皆様、かなり大切そうに持っておられます」
「皿なのに」
「皿だからでございます」
「そういうもの?」
「そういうものでございます」
◇ ◇ ◇
イングランド。
ネーデルラント。
帝国側。
サヴォイア。
フランス。
順番に送りました。
もちろん、実際の順番は到着時刻と飛行条件を合わせて調整しています。
どろちゃんは、何度も往復しました。
最後の便を送り届けて、エルレンフェルトへ戻ります。
白いミツバチちゃんが草地へ降りました。
固定脚が地面へ触れます。
少し跳ねます。
転がります。
止まりました。
エンジンを止めると、急に静かになりました。
どろちゃんは操縦席で、しばらく前を見ました。
「終わった」
隣のフランソワさんが言いました。
「一回目が、でございます」
「……次あるんだよね」
「一か月後でございます」
「分かってる」
後部扉から降ります。
滑走路の向こうに、会議場の丘が見えました。
ホテルも見えます。
昨日まで、そこに各国の人がいました。
今日は静かです。
どろちゃんは歩きながら、お父様のところへ行きました。
「終わったね」
「一回目がな」
「やっぱりそう言う」
「次が本番だ」
「王様たち?」
「王、君主、あるいは最終決定をできる者。その次席。必要なお付き。そして社交のための女性も来る」
「また私が迎えに行くの?」
「ほかに誰がミツバチちゃんを飛ばす」
「そうだった」
どろちゃんは少し考えました。
「また座席カバーいるね」
お父様が、しばらく黙りました。
「そこなのか」
「大事でしょう?」
「お前にとってはな」
「かわいい方がいいよ」
「分かった」
一か月後。
今度は、もっと偉い人たちが来ます。
会議をします。
最後の条件を詰めます。
まとまれば、その場で調印します。
まだ戦争は終わっていません。
でも、少なくとも一か月。
撃つのを止める方向へ、みんなが動き始めました。
泥の中へ戻るより。
暖かい部屋で。
清潔な食事を食べて。
病気の心配をせず。
同じ机で話す方がいい。
それを、一度知ってしまいました。
◇ ◇ ◇
第40章の小さな説明
【今回まとまったもの】
この章で決まるのは、最終的な和平条約ではありません。
まず一定期間の休戦を設け、その間に各国が条件を持ち帰って検討し、一か月後に決定権を持つ人物を集めて本会議と調印を行う、という手順です。
王位問題、領土問題、各国の主張そのものは残っています。
お父様は「戦争は悪いからやめなさい」と説得するのではなく、戦費を馬、火薬、砲弾、冬営地へ使うのか、それとも道路、港、農地、工房、船、倉庫、快適な建物などへ使うのか、という貴族的にも理解しやすい損得の形へ話を変えています。
【エアーコンディショナーとホテル】
会議場とホテルには、神様から届いた設備を使った空調があります。
外が冬でも室温が安定し、寝具は乾き、食事と水も清潔です。
さらに、この世界固有の「高いところはえらい」という生命の階級の影響によって、エルレンフェルトの住民には病人がおらず、ミツバチちゃんで飛んできた会議参加者も滞在中は誰一人体調を崩しません。
参加者自身は、その仕組みを知りません。
ただ、数日間まったく病気にならず、暖かく清潔な生活を経験したことは、泥と病気と寒さのある戦場へ戻ることへの感覚を変えています。
【食器とカトラリー】
会議場とホテルで使っている食器やカトラリーも、神様からの頂き物です。
販売品ではありません。
ところが、参加者から「自分たちが使ったものを帰国時に譲ってもらえないか」と頼まれ、どろちゃんは最終日ならよいとあっさり認めます。
神様から届いた際の箱、仕切り、緩衝材などはホテル側が捨てずに保管していました。
「こうなると思った」ためです。
最終日に食器を洗浄、乾燥し、一式ずつ元の梱包材へ戻して各代表団へ渡します。
戦利品ではなく、休戦会議で実際に使った食器が記念品として各国へ持ち帰られることになります。
【帰国便と次回会議】
代表団はミツバチちゃんで順番に帰国します。
帰国順は国の格ではなく、できるだけ各代表団の滞在日数が同程度になるよう、到着順と飛行条件を合わせて調整しています。
一か月後の次回会議には、今回の実務者だけではなく、王・君主または最終決定権を持つ人物、その次席、必要なお付き、夜の社交に参加する女性たちが来る予定です。
そこで最後の条件を調整し、合意できればその場で調印します。




