38会議は踊ります いよいよ継承戦争終結に向けて4カ国会議始まりです
第38章 会議は踊ります
国際会議場の丘の下には、いつの間にかホテルまでできていました。
いつの間にか、というのは、どろちゃんの感覚です。
実際には、神様から届いた大量の資材と設備を、エルレンフェルトの職人たちとライデン大学から来た人たちが、図面を見ながら組み立てています。
けれど、少し前まで何もなかった丘の下に、二十一世紀の初めごろのホテルに見える建物が立ってしまえば、やはり、いつの間にか、でした。
スィートが四室。
ファーストが十室。
ビジネスが二十室。
丘の上の会議場とは、斜面をまっすぐ上り下りする小さな斜行エレベーターで結ばれています。
「ケーブルカーだね」
――だいたいね。
「でも、エレベーターって書いてある」
――止まる階が二つしかないけどね。
朝食は、それぞれの部屋へ運びます。
昼食は、会議場で全員同じものを食べます。
夕食はホテルへ戻ってから、好きなものを頼めます。
国王でも、外交官でも、書記でも、昼だけは同じです。
「それでいいよね」
どろちゃんは言いました。
お父様も、それでよいと言いました。
◇ ◇ ◇
建物ができても、会議をする人がいなければ意味がありません。
そこで、各国へ手紙を送りました。
最初から国王や君主を集めるつもりはありません。
まずは実務を扱える人。
安全に来られるか。
武装した随員をどこまで認めるか。
文書を誰が受け取り、誰が保管するか。
どの名前を使うか。
何を話し合いの対象にするか。
その前段階を決める人たちです。
スペインには送りませんでした。
いま争っているものの一つが、そのスペイン王位そのものだからです。
どちらを「スペイン」として招くかを決めた瞬間、会議を始める前に片方へ答えを出したことになります。
「呼ばない方が難しくないね」
どろちゃんは言いました。
「少なくとも、最初はな」
お父様が答えました。
代表者を迎えに行くのは、ミツバチちゃんです。
白い双発機の客室兼貨物室には、壁際に座席があります。
もともとは飾り気のない実用品でした。
しかし、今回は国際会議です。
どろちゃんは座席へ、かわいい布のカバーを掛けました。
――そこは必要なの?
「必要」
――外交上?
「かわいいから」
――分かった。
中央の床には、書類箱、旅行鞄、着替え、小さな荷物をまとめて固定できます。
重い貨物を運ぶ仕事ではないので、増槽も付けました。
人を運ぶなら、貨物重量を燃料へ回せます。
フランス。
イングランド。
ネーデルラント。
帝国側の代表団。
そして、トリノ。
どろちゃんは順番に飛びました。
使節だけではありません。
書記。
必要な随員。
会議で使う書類。
それに、夜の食事や舞踏にも参加する同行の女性たち。
各国とも、男の実務者だけを箱へ詰めて運んでくるつもりではありませんでした。
妻と一緒に来る人もいます。
姉妹や親族を伴う人もいます。
外交団の中で社交を担当する家の女性もいます。
もちろん、全員が会議室へ入るわけではありません。
昼の会議では別行動でも、夕食や宴会、ホテルでの交流には顔を出します。
ミツバチちゃんは、そういう人たちまで一緒に運びました。
迎えに来た飛行機を初めて見る人は、たいてい外でしばらく立ち止まりました。
そして中へ入ると、今度は座席のカバーを見ました。
「外と中が、ずいぶん違うな」
ある使節が言いました。
「中の方がかわいいでしょう」
「否定はしません」
サヴォイア側を迎えるためトリノへ行った便でも、増槽は役に立ちました。
帰りは人が増えます。
それでも、積んでいるのは人と書類と旅行荷物が中心です。
途中の燃料をぎりぎりまで計算する必要はありませんでした。
外交官を運ぶのに、燃料切れぎりぎりの飛行をする理由はありません。
◇ ◇ ◇
フランスへ迎えに行ったときだけ、予定が崩れました。
トルシー侯と実務側の人たち、それに夜の交流へ出る同行者を乗せる予定でした。
ところが、その後ろから別の人が来ました。
「余も行く」
ルイ十四世でした。
しかも、一人ではありません。
王様ですから、最低限のお付きまでいます。
どろちゃんは、王様の後ろを見ました。
もう一度、客室の方を見ました。
「会議に?」
「見に行く」
「お迎えはトルシーさんたちなんだけど」
「乗れるだろう」
「乗れるけど」
乗れました。
ただし、フランス側へ割り当てていた同行者分の座席を、ルイ十四世とお付きが使うことになりました。
ミツバチちゃんそのものは困りません。
あとで困ったのは、ホテルと夜の宴会でした。
フランス代表団用に考えていたスィートへ、フランス王本人が入りました。
トルシー侯はファーストへ移りました。
「申し訳ないね」
「陛下にお返しください」
「私が言っても戻らないと思う」
「私もそう思います」
トルシー侯は、たいへん実務的でした。
◇ ◇ ◇
会議は、お父様が議長になりました。
大きな開会式はありませんでした。
各国の代表が席につきます。
紙があります。
インクがあります。
書記がいます。
お父様は全員を見ました。
「では、始めましょうか」
それで始まりました。
最初の議題は、会議そのものを続けるための決まりでした。
代表者の安全な往来。
武器を持ち込まない範囲。
護衛がどこまで付いてよいか。
国境を越えるときの扱い。
文書の写し。
署名。
呼称。
席順。
ひとつずつなら、それほど難しく見えません。
ところが、一つを決めようとすると、その後ろから別の問題が出てきます。
「この表記では、こちらがその王位を承認したように読めます」
「承認していないと書けばよいのでは」
「その文章を入れること自体が、争いの存在を正式に認めることになります」
「では、何も書かない?」
「何も書かなければ、誰の資格で署名するのです」
スペイン代表は一人もいません。
それでも、スペインという名前だけで会議は止まりました。
どろちゃんは途中で、お父様の方を見ました。
お父様は、ちゃんと聞いています。
怒ってもいません。
急がせてもいません。
ただ、少しずつ紙が増えていました。
「国際会議って、こんななの?」
休憩に入ってから、どろちゃんは小声で聞きました。
「こういうものだ」
「まだ何も決まってないよ」
「始めることは決まった」
「昨日もう決まってたでしょう」
「では、一つ減らして考えよう」
お父様はお茶を飲みました。
◇ ◇ ◇
昼食は全員同じ料理でした。
国王だけ別の皿は出ません。
ルイ十四世も、それについては何も言いませんでした。
食後、王様は窓の外を見ました。
飛行場が見えます。
格納庫も見えます。
「昨日乗った大きいのは、あれか」
「ミツバチちゃん」
「ほかにもあるな」
嫌な予感がしました。
どろちゃんは、順番に説明しました。
タドポール君。
小鳥ちゃん。
コウノトリちゃん。
ミツバチちゃん。
「小さい白いのに乗りたい」
王様が指したのは、小鳥ちゃんでした。
「だめ」
「なぜだ」
「一人乗りだから」
「余が乗ればよい」
「誰が操縦するの」
ルイ十四世は小鳥ちゃんを見ました。
どろちゃんも見ました。
「……では、あれは?」
「タドポール君?」
「あれは二人乗りだろう」
「後ろは五十キロまで」
「余を量る気か」
「量らなくても無理だと思う」
トルシー侯が、少し遠くを見ました。
「では、昨日の大きいの」
「ミツバチちゃんは乗ったでしょう」
「もっと小さいのがある」
「コウノトリちゃん?」
コウノトリちゃんは三人乗りです。
ちょうど三人いました。
どろちゃん。
ルイ十四世。
トルシー侯。
「昼休み、ちょっと延ばす?」
どろちゃんが聞きました。
トルシー侯が答える前に、ルイ十四世が立ちました。
◇ ◇ ◇
コウノトリちゃんは、冬の滑走路を走りました。
浮きます。
どろちゃんは、いつもの近距離飛行より高く上げました。
「まだ上がるのか」
「見たいんでしょう?」
「見たい」
さらに上がります。
ライン川が一本の線へ近づいていきます。
ケールが見えました。
その向こうに、ストラスブールがあります。
冬の町は、屋根の色と通りの線がよく見えました。
川沿いの建物。
橋。
城壁。
そこから少し南へ目をやると、平地の中に、周囲の畑とは明らかに違う形がありました。
まっすぐな線。
角。
土を掘り返したところ。
まだ全部はつながっていません。
「陛下。あれ、ヌフ=ブリザックでしょう」
「余に説明するのか」
「空から見ると分かりやすいから」
どろちゃんは少し機首を南へ向けました。
新しい方は、ライン川の西側です。
平地の中に、最初から町ごと要塞として作っている途中でした。
「古いブライザハを返したから、こっちに新しいのを作ってるんでしょう」
「返した、という言い方をするな」
「でも返したよね」
トルシー侯が何も言いません。
条約で決まったことなので、否定もできません。
どろちゃんは川の向こうを指しました。
「あっちが古いブライザハ」
ライン川の東側。
こちらは新しく平地へ線を引いた町ではありません。
昔からある町と砦が、高いところから川と渡河点を見ています。
「古い方は、川を渡るところをずっと押さえてきた砦。新しい方は、それを返したあと、フランス側に代わりを作ってる」
「知っている」
「うん。陛下が作らせてるからね」
「なら、なぜ説明する」
「こうして二つ一緒に見ると、名前の意味まで分かるでしょう。新しいブライザハと、古いブライザハ」
ルイ十四世は窓の下を見ました。
新しい要塞は、まだ工事中です。
古い要塞は、川の向こうにあります。
地上では別々に見える二つの場所が、空からだと一つの事情として見えました。
トルシー侯は、下を見ました。
地図なら線です。
ここからは、全部が一度に見えます。
川。
町。
道。
砦。
距離。
高低差。
どこからどこまで見えるのか。
どの道がつながっているのか。
紙の上では別々の情報が、一枚の景色になっていました。
どろちゃんはストラスブールの上を大きく回りました。
「町の真上へは行かないよ」
「なぜだ」
「落ちたら困るから」
それは国王が乗っているからではありません。
下に町があるからです。
コウノトリちゃんは、川の上と郊外を使ってゆっくり旋回し、エルレンフェルトへ戻りました。
離陸してから、およそ四十分でした。
「短いな」
「会議中だからね」
「午後もあるのか」
「あるよ」
トルシー侯だけが、すぐに会議場の方を見ました。
◇ ◇ ◇
午後の会議は、ちゃんと再開しました。
ただし、昼休みは予定より長くなっていました。
今度は、午前中に決められなかった文書の扱いを話します。
ひとつ進みます。
ひとつ戻ります。
別の案が出ます。
休憩します。
また始めます。
夕方になりました。
「本日は、このあたりにいたしましょう」
お父様が言いました。
決まったことは、少しだけです。
決まらなかったことは、たくさんあります。
ただし、明日も会議をすることは決まりました。
◇ ◇ ◇
ホテルには宴会場があります。
宴会にも使えます。
食事を片づければ、舞踏にも使えます。
エルレンフェルトには、国際会議のために呼び出せる大きな楽団などありません。
神様も、それは分かっていたようです。
天井と壁には音響設備があります。
オーディオ。
PA。
そして、音楽のデータ。
ただし、収められている曲は十八世紀まででした。
未来の音楽を何でも流すようにはなっていません。
古い舞曲。
宮廷音楽。
器楽曲。
地方ごとの音楽。
選べば、そのまま広い宴会場へ流れます。
「楽団、いらないね」
どろちゃんは少し申し訳ないような気持ちになりました。
でも、公国には、そもそも呼べる楽団がありません。
ところが、食事が終わって舞踏の支度になると、一つ足りないものがありました。
女性です。
イングランドやネーデルラント、サヴォイアの使節には、ミツバチちゃんで一緒に来た女性たちがいます。
フランソワさんもいます。
エルレンフェルト側から宴会へ出られる女性もいます。
それでも、まだ男性の方が多いのです。
原因の一つは、たいへん分かりやすいところにいました。
ルイ十四世です。
本来ならフランス側の同行者を乗せるはずだった座席を、王様とお付きが使ってしまいました。
「足りないね」
どろちゃんが宴会場を見回しました。
「何がでございますか」
「踊る人」
「男性は十分におられます」
「そっちは余ってる」
そこで、川の向こうへ声を掛けました。
ストラスブールです。
市長の娘。
市の有力者の家の娘や妻。
商人の家で、こういう席へ出ることに慣れている女性。
もちろん、人数合わせだけのために連れて来るのではありません。
近くで開かれている国際会議の夕食会と舞踏へ、ストラスブールの市側から社交の客として招きました。
川を渡れば近いので、飛行機を出すほどでもありません。
夕方には何人かがホテルへ着きました。
市長の娘は、宴会場へ入って最初にルイ十四世を見つけました。
少しだけ足が止まりました。
「聞いていませんでした」
どろちゃんが言いました。
「私も、来るって聞いてなかったよ」
それで説明になったのかどうかは分かりません。
音楽が流れ始めると、誰かが踊り始めました。
一組。
二組。
昼間、文書の一語で止まっていた人たちが、夜になると普通に同じ床で踊っています。
フランスから来た人も、イングランドから来た人も、ネーデルラントから来た人もいます。
その間へ、ストラスブールの女性たちも混じりました。
「会議より進んでない?」
どろちゃんはお父様に聞きました。
「何がだ」
「人間関係」
「それを議事録へ書くのは難しいな」
宴会場の隅には、神様から支給された現代のピアノがありました。
その横には、ヴァイオリンもあります。
どろちゃんは、しばらく見ないふりをしていました。
音楽は、もう流れています。
踊っている人もいます。
自分が何かする必要はありません。
ありませんが。
「……ちょっとだけ」
どろちゃんはピアノの蓋を開けました。
鍵盤を一つ押します。
懐かしい音でした。
「お嬢様、お弾きになるのですか」
フランソワさんが、少し離れたところから聞きました。
「うん。せっかくあるし」
「舞踏の途中でございますけれど」
「だから、踊れるのにする」
そこは、ちゃんと考えました。
未来の流行歌はだめ。
知らない時代の歌もだめ。
こういうときは、古いもの。
クラシック。
どろちゃんの頭の中に、いくつか曲が並びました。
ショパンの《ワルツ 変ニ長調 作品六十四の一――小犬のワルツ》。
シューマンの《子供の情景》から《トロイメライ》。
メンデルスゾーンの《無言歌集》から《春の歌》。
ブラームスの《ワルツ 作品三十九》の十五番。
リストの《愛の夢》第三番。
「……うん。クラシック」
――全部、ずいぶん後じゃない?
頭の中で誰かが何か言った気がしました。
でも、ちょうど別の人の笑い声と重なりました。
「ワルツがいいよね」
どろちゃんは椅子を少し引きました。
最初に弾いたのは、ショパンの《小犬のワルツ》でした。
右手が軽く走り始めます。
現代のピアノは、どろちゃんがこの時代に見てきた鍵盤楽器より、音の輪郭がはっきりしています。
低い音も、思ったより遠くまで届きました。
最初のうち、踊っていた人たちは、そのまま踊ろうとしました。
ワルツです。
三拍子です。
だから、間違ってはいません。
けれど、いつも舞踏で使う曲とは、何かが違いました。
一組が足を止めました。
別の一組は、少しだけ続けてから止まりました。
どろちゃんは鍵盤を見ているので、気づきません。
最後まで弾きました。
拍手が来ました。
「……あれ?」
顔を上げます。
「みんな踊ってない」
「お嬢様の演奏を聴いておられましたので」
「ワルツなのに」
「ワルツではございました」
フランソワさんは、それ以上は言いませんでした。
「じゃあ、もう一曲。静かなの」
そこでやめればよかったのです。
どろちゃんは、シューマンの《トロイメライ》を弾き始めました。
今度は、最初から誰も踊りませんでした。
話していた人も、声を小さくします。
広い宴会場で、ピアノだけが鳴りました。
どろちゃんは途中から、舞踏会で弾いていることを忘れました。
弾き終えると、少し間がありました。
それから、さっきより大きな拍手が来ました。
「すばらしい」
近くにいた使節の一人が言いました。
「この曲は、どなたの作品ですか」
「シューマン」
どろちゃんは答えました。
「ロベルト・シューマン。《トロイメライ》」
「聞いたことがありません」
「……そう?」
そこで、どろちゃんの指が止まりました。
ショパン。
シューマン。
メンデルスゾーン。
ブラームス。
リスト。
さっき頭の中へ並べた名前を、今度は別の意味で見直します。
まずい。
これは、かなりまずい。
「どちらの方です?」
使節が続けて聞きました。
「えっと」
どろちゃんは鍵盤を見ました。
「曲しか知らないの」
「お会いになったことは?」
「ないよ」
それは本当です。
「では、楽譜を?」
「どこかで覚えたの。細かいことは忘れた」
かなり雑な説明でした。
相手は少し不思議そうにしました。
「先ほどのワルツも、同じように?」
「うん。ショパンの《小犬のワルツ》って覚えてる」
「ショパン」
「そういう名前」
「どこの国の人物です?」
「そこまで覚えてない」
今度は、きっぱり答えました。
フランソワさんが横からどろちゃんを見ました。
「お嬢様」
「なに?」
「もう一曲、お弾きになりますか」
「ピアノは、もう弾かない」
「承知いたしました」
助け舟なのか、これ以上しゃべらせないためなのかは分かりません。
どろちゃんはピアノの蓋を閉じました。
そこで終われば、まだよかったのです。
横に、ヴァイオリンがあります。
どろちゃんはそれを見ました。
見ないふりをしようとして、やめました。
「……もういい」
「お嬢様?」
「どうせ、みんな踊らないんでしょう」
少し、やけになりました。
ヴァイオリンを取りました。
顎へ当てます。
弓を確かめます。
音を合わせます。
宴会場の人たちは、また何か始まると気づきました。
「今度は、最初から聴く曲にする」
弾き始めたのは、ニコロ・パガニーニの《二十四の奇想曲 作品一》第三番、ホ短調でした。
ゆっくりした入り方でした。
音が重なります。
オクターヴのトリルが続きます。
さっきまでのピアノより、ずっと細い一本の音なのに、宴会場の空気がそちらへ集まりました。
そして、急に速くなりました。
プレスト。
どろちゃんの左手が走ります。
弓も止まりません。
もう誰も踊ろうとはしませんでした。
話していた人も黙りました。
ストラスブールから来た市長の娘も、途中で持っていた杯をテーブルへ置きました。
フランソワさんは、どろちゃんを見ています。
たぶん、止める時機を失いました。
速い部分が終わると、また最初のようなゆっくりした音へ戻ります。
最後の音が消えました。
しばらく、誰も動きませんでした。
それから拍手が来ました。
ピアノの二曲より大きな拍手でした。
どろちゃんは、そこで少しだけ後悔しました。
「これは?」
さっきの使節が、やっぱり聞きました。
「パガニーニ」
「また、知らない名です」
「そうでしょうね」
言ってから、どろちゃんは口を閉じました。
「どちらの――」
「細かいことは聞かないで」
今度は先に止めました。
「曲しか知らないの。これも、どこかで覚えた。それでいいでしょう」
使節は、しばらくどろちゃんを見ました。
それから笑いました。
「伯爵閣下がそうおっしゃるなら」
「うん。そう言う」
フランソワさんが、そっとヴァイオリンを受け取りました。
「今度こそ、お休みになりますか」
「演奏はね」
「それがよろしいかと存じます」
どろちゃんは少しだけ頬をふくらませました。
「今日は、もう神様の機械に入ってる曲にしよう」
十八世紀までの音楽データへ戻しました。
今度こそ、本当に安全でした。
◇ ◇ ◇
二日目も、会議は始まりました。
お父様が議長席につきます。
トルシー侯もいます。
イングランド側も、ネーデルラント側も、帝国側も、サヴォイア側も席につきました。
一人だけいません。
「陛下は?」
誰かがトルシー侯へ聞きました。
「川へ行かれました」
会議は続きました。
◇ ◇ ◇
ルイ十四世が乗ったのは、公爵家の私用艇でした。
白い船体。
大きな水玉。
公用艇は、一隻ごとに一色です。
公爵家の船だけは、六色全部を使っています。
「派手だな」
「うちの船だから」
どろちゃんは答えました。
「余の船より目立つのではないか」
「王様の船、今日はないよ」
今日は、エルレンフェルトの船です。
航路は特別に作りませんでした。
普段のストラスブール・ケール線と同じです。
川の流れも、水深も、着ける場所も、いつも使っている航路の方が安全です。
冬なので、外に立ち続ける必要もありません。
船室には暖房があります。
窓からライン川を見ながら進みます。
途中で公共の水玉船とすれ違いました。
「あれも同じ形だな」
「定期船」
「誰でも乗れるのか」
「乗れるよ」
王様は窓から、しばらく見ていました。
昨日は空から見た川です。
今日は水面から見ています。
◇ ◇ ◇
ストラスブールで、ルイ十四世は船を降りました。
自分の国です。
降りてはいけない理由はありません。
ただし、事前連絡はしていません。
市長はいません。
儀仗もいません。
道も空いていません。
船着場で働く人たちは、最初、公爵家の六色水玉船を見ました。
次に、どろちゃんを見ました。
それから、後ろから降りてきた人を見ました。
「……あれ?」
気づく人から気づきました。
けれど、市役所へ走って知らせに行く人より、王様の方が先に歩き始めました。
「こっち好きなんだよ」
どろちゃんは言いました。
「何がだ」
「いろんな人がいるから」
ストラスブールには、ナーロッパのあちこちから人が来ています。
川を使う人。
商人。
職人。
荷を扱う人。
遠くから来た旅人。
そして、ナーロッパの外から来た人もいました。
アフリカから来た人。
アジアから来た人。
フランスが交易や支配を広げている地域を通って来た人もいます。
みんながナーロッパの共通語を上手に話せるわけではありません。
商売に使う数字と品名だけ覚えた人もいます。
日常会話までは何とかなるのに、自分の品物の話になると、急に言葉が足りなくなる人もいます。
ルイ十四世は、濃い藍色の布を何枚も重ねた露店の前で止まりました。
濃い青。
少し紫に寄った青。
同じ布でも、光の向きで色が変わります。
王様が一枚を持ち上げました。
「これは、どこで染めた」
店の男は王様を見ました。
それから布を見ました。
「青。家。遠い。海、三日。青、六……六回。水、乾く。また青」
「六回、染めるのか」
「六。……いや、七も。布、よい。安く、ない」
そこまでは分かりました。
王様は布の端を裏返しました。
「何を使って、この色を出す」
男は何か答えようとしました。
「草。葉。水……大きい壺。あとは……」
手が動きます。
言葉が出ません。
「私、聞こうか」
どろちゃんが言いました。
「分かるのか」
「分かるよ」
男の方を向きました。
今度は、その人の言葉で話します。
最初の一言で、男の顔が変わりました。
「お前、その言葉をどこで覚えた」
「えっと、説明すると長いから。さっきの青、何で染めてるの?」
「それより、お前は――」
「あとで。王様が待ってる」
「王様?」
男がルイ十四世を見ました。
まだ、誰なのか分かっていません。
「この布のことを聞きたいんだって」
「ああ、それなら最初からそう言え」
そこからは速くなりました。
どろちゃんは途中で一度だけ聞き返しました。
男は布の端をつまみ、染める順序を指で数え、乾かす時間のことまで話しました。
最後に、値札を指で叩きました。
「なんと?」
ルイ十四世が聞きました。
「海から三日くらい内陸へ入ったところで織った布だって。青は一回で出すんじゃなくて、染めて、乾かして、また染める。これは六回。出来がいいものは七回することもあるって」
「なるほど」
「それから――」
どろちゃんが少しだけ止まりました。
「何だ」
「『ここでは、遠くから来た物だからって、ひどく高く売る人もいる。でも自分は最初からこの値段で売ってる。金持ちに見えるからって値段は変えない。値切るなら隣へ行け』」
王様の後ろにいた人が、どろちゃんを見ました。
「伯爵閣下。最後のところは、少し――」
「でも、言ったよ」
「言葉を整えてお伝えしても」
「そこを変えたら、この人がなんで値札叩いたのか分からなくなるよ」
ルイ十四世は布を持ったまま、男を見ました。
「そのままでよい」
「うん」
「ところで、この者は余が誰か知らぬのか」
「たぶん」
どろちゃんは男へ向き直りました。
「この人ね、フランスの王様」
男は動かなくなりました。
布。
王様。
どろちゃん。
もう一度、王様。
「……本当に?」
「本当」
「なぜ王が、ここで布を触っている」
「船で遊びに来たから」
「王が?」
「うん」
「護衛は」
「いるけど、大行列はいないよ」
男は額へ手を当てました。
「さっきの値切るなは、もう言ったのか」
「言った」
「全部?」
「全部」
「お前……」
「通訳だから」
男はしばらく黙りました。
それから、小さく何か言いました。
「何と言った」
王様が聞きました。
「『王様なら、なおさら金を持ってるだろうから値切る理由はない。でも、さっきより少し怖くなった』って」
王様は一度、布を見ました。
「買おう」
男がすぐに何か言いました。
「今度は?」
「『値段はさっきのままだ』」
「よい」
王様の後ろにいた人が支払いの話を始めました。
男はようやく少し笑いました。
その先にも、見慣れない物がありました。
小さな木箱に、緑がかったカルダモンの莢が入っています。
別の商人が売っていました。
ルイ十四世は、また止まりました。
「これは?」
商人が共通語で答えます。
「食べる。匂い。肉。甘い。飲むも」
「肉にも、甘いものにも使うのか」
「はい。よい。口、あたたかい匂い」
王様は一つ手に取りました。
指で少し押します。
殻が割れました。
香りが出ました。
商人の顔も変わりました。
何か言います。
早くて、共通語ではありませんでした。
「今のは?」
「聞くね」
どろちゃんは、また言葉を替えました。
「ごめん。この人、何した?」
「見ただろう。商品を割った」
「うん」
「匂いを知りたいなら、こっちに割れたものがある。売り物を一つずつ潰されたら困る。偉そうな服を着た人は、どうして自分の物みたいに触るんだ」
「……なるほど」
「何がなるほどだ。お前の連れか」
「連れというか、王様」
「何の」
「フランスの」
商人は目を閉じました。
「今日は、そういう日か」
「たぶん」
「なんと言っている」
ルイ十四世が待っています。
どろちゃんは振り返りました。
「『肉にも甘いお菓子にも使うし、煮出して飲むこともある。でも、いま陛下が潰した一粒は商品だから、買わないなら潰さないでほしい。匂いだけなら、こっちの割れたのを使ってほしい』」
王様は、自分の指の間にある割れた莢を見ました。
「怒っているのか」
どろちゃんは商人を見ました。
商人もどろちゃんを見ました。
「ちょっと怒ってる」
「ちょっと、か」
「あと、王様だと聞いて、今かなり困ってる。でも、言ったことを引っ込めるのも嫌だって」
「それも言ったのか」
「今、言った」
商人が、どろちゃんへ小声で聞きました。
「本当に全部訳しているのか」
「全部」
「王に?」
「うん」
「お前は怖くないのか」
「通訳してるだけだよ」
商人は、しばらくどろちゃんを見ました。
それから笑い出しました。
王様には、その理由が分かりません。
「今度は何だ」
「『お前みたいな通訳は初めて見た』って」
「余もだ」
ルイ十四世は割ってしまった分を含めて、一箱買いました。
すると、今度は王様の方から、次の店を指しました。
「あれは何だ」
「また聞くの?」
「聞く」
「じゃあ行こう」
そこからは、どろちゃんが先に歩くことになりました。
王様が品物を見つけます。
どろちゃんが、その人の言葉で聞きます。
返事を、そのまま持って帰ります。
丁寧なら丁寧なまま。
ぶっきらぼうなら、ぶっきらぼうなまま。
笑っていれば、笑っていることまで分かるように。
腹を立てていれば、腹を立てた理由を消さずに。
そのうち、王様も慣れました。
「省かず言え」
「最初から省いてないよ」
「そうであったな」
宮廷で整えられた報告とは違う言葉が、次々に届きました。
けれど、どろちゃんは、それを特別なことだとは思っていません。
聞かれたことを聞いて。
言われたことを訳しているだけでした。
◇ ◇ ◇
でも、冬です。
いくら面白くても、ずっと歩く季節ではありません。
四十五分ほどで、どろちゃんたちは船へ戻りました。
暖房の効いた船室は、入った瞬間に分かるほど暖かく感じました。
「お茶いる?」
「もらおう」
湯気が上がりました。
さっきまで見ていた品物の話をしながら、船は同じ航路を戻ります。
ルイ十四世は、途中でもう一度聞きました。
「あの布の者は、本当に余に値切るなと言ったのか」
「言ったよ」
「そうか」
少し笑いました。
◇ ◇ ◇
そのころ、丘の上では会議が続いていました。
王様がいないので困るかと思えば、そうでもありません。
フランスの実務を扱うのはトルシー侯です。
むしろ、午前中は少し進みました。
少しだけです。
昼になると止まりました。
午後、また進みました。
別のところで止まりました。
夕方、ルイ十四世がホテルへ戻るころには、今日の議事録が何枚もできていました。
「何か決まった?」
どろちゃんが聞きました。
お父様が答えました。
「いくつか文言を整理した」
「終わりそう?」
「まだだな」
「明日は?」
「やる」
「それは決まったんだ」
「ああ」
会議は前へ進んでいないわけではありません。
けれど、まっすぐ進んでもいませんでした。
◇ ◇ ◇
不思議なことが一つありました。
冬です。
人が集まっています。
各国から長い旅をしてきた人もいます。
毎日、会議をしています。
夜には宴会場で踊っています。
それなのに、咳をする人がいません。
熱を出す人もいません。
腹を壊して寝込む人もいません。
エルレンフェルトの人に至っては、町を歩いても、港へ行っても、工場へ行っても、病人らしい病人が見当たりません。
「冬なのに、みんな元気だね」
どろちゃんは言いました。
衛生。
水。
食事。
暖房。
薬。
予防。
思い当たるものはいくつもあります。
どれも、ちゃんと役に立っています。
けれど、それだけではありません。
この世界には、昔から妙な階級があります。
地面より高いところへ、自分の力で行くものほど偉い。
ただ浮かされるだけでは、あまり評価されません。
鳥は飛びます。
回遊魚は深い海の底から遠い高さを、自分で泳いで保ちます。
気球や浮き袋のように、浮力だけで持ち上げても、それほど偉くはなりません。
そして、領主が高く飛ぶと、その領地まで少しずつ偉くなります。
どろちゃんは、もう何度飛んだのか、自分でも数えていません。
タドポール君。
小鳥ちゃん。
ミツバチちゃん。
コウノトリちゃん。
とくに小鳥ちゃんでは、空のずっと上まで行きました。
エルレンフェルトは、領主家の娘が高く飛びすぎた国です。
その積み重なりは、住民にも及んでいました。
そして今回の外国使節たちは、みんなミツバチちゃんで空からやって来ています。
本人たちは知りません。
会議中に誰一人体調を崩さない理由を、ホテルの暖房がよいからだと思っている人もいます。
食事がよいからだと思っている人もいます。
どろちゃんも、その方を先に考えています。
世界の階級表は、誰にも見えません。
ただ、たいへん律儀に働いていました。
◇ ◇ ◇
その夜も、宴会場では音楽が流れました。
今度は神様が用意した十八世紀までの曲です。
安全です。
人々は踊りました。
昼間に反対した相手とも踊ります。
夕食のあとで続きを話す人もいます。
廊下で立ち止まって話す人もいます。
明日の会議へ持ち越す話もあります。
お父様は、少し離れたところからその様子を見ていました。
「お父様」
「なんだ」
「会議って、いつ終わるの?」
「終わるまでだ」
「それ、答えになってないよ」
「外交では、よくある答えだ」
どろちゃんは宴会場を見ました。
また一曲始まりました。
また誰かが踊り始めました。
話し合いも、まだ続きます。
戦争も、まだ終わっていません。
けれど、昨日まで敵だった国の人たちが、同じ建物に泊まり、同じ昼食を食べ、同じ床で踊り、翌朝また同じ机へ戻ってきます。
会議は踊ります。
本当に踊っています。
そして、この章で終わる気配だけは、ようやく見えてきました。
◇ ◇ ◇
第38章の小さな説明
【会議場とホテル】
国際会議場は、神様が「無駄な星を増やさないため」に送った資材と設備を使い、エルレンフェルト側とライデン大学の協力で組み立てた施設です。低湿地の上ではなく、飛行場に近い安定した丘にあります。
ホテル棟は丘のふもとにあり、スィート四室、ファースト十室、ビジネス二十室。会議場とは斜行エレベーターで結ばれています。
昼食は会議参加者全員が同じ料理を食べます。夕食はホテルで各自が選び、朝食は部屋へ届けます。
【ミツバチちゃんの会議送迎】
実務者を集めるため、An-28系のミツバチちゃんを使います。人員輸送では貨物が軽いため、着脱式の増槽を使って航続余裕を増やしています。
客室兼貨物室の簡素な座席には、会議送迎用にかわいい布カバーを掛けました。中央床には書類箱、旅行鞄、小荷物を固定できます。
使節や書記だけでなく、夕食や舞踏などの交流へ参加する同行女性も各国から運んでいます。ただしフランス便では、本来そのために使う座席の一部をルイ十四世とお付きが使いました。そのため夜の社交では女性が不足し、近隣のストラスブールから市長の娘などを正式な社交客として招いています。
【ヌフ=ブリザックとブライザハ】
コウノトリちゃんから見える「新しい建設中の砦」は、ライン川西側のヌフ=ブリザックです。フランスが一六九七年のレイスウェイク条約で、ライン川東側の古い要塞都市ブライザハを帝国側へ返したため、その代わりとしてヴォーバンの設計で新しい要塞都市を建設しています。
新しい方は平地へ最初から計画された要塞都市で、古いブライザハはライン川東側の高い場所から渡河点を押さえてきた古い要塞都市です。空から見ることで、「古いブライザハを返したので、フランス側へ新しいブライザハを作った」という位置関係が、一度に分かります。
【会議は踊ります】
この会議は、最初から和平条約を一気に決める場ではありません。安全通行、武装随員、文書、呼称、署名、議題など、話し合いを続けるための条件から決めています。
そのため、何も進んでいないように見える日があります。
一方、夜の宴会場では、昼間に対立した使節同士も一緒に踊ります。
「会議は踊る」は、この章では比喩ではなく、本当に踊っています。
【宴会場の音楽】
エルレンフェルトには大規模な宮廷楽団がないため、神様が会議施設へオーディオとPAを用意しています。収録されている音楽データは十八世紀までです。
ところが、どろちゃんは現代のピアノとヴァイオリンを見て懐かしくなり、「クラシックなら古いから大丈夫」と考えました。候補に浮かべたのは、ショパン《小犬のワルツ》、シューマン《トロイメライ》、メンデルスゾーン《春の歌》、ブラームス《ワルツ 作品39》第15番、リスト《愛の夢》第3番。実際にピアノで弾いたのは《小犬のワルツ》と《トロイメライ》です。
そこで作曲家について質問され、どろちゃんは「曲しか知らない」「どこかで覚えた」とごまかします。未来のことを知っている事実は周囲には秘密なので、年代や来歴を打ち明けません。
さらに、質問が続いて少しやけになったどろちゃんは、ヴァイオリンでニコロ・パガニーニ《24の奇想曲 作品1》第3番ホ短調を演奏します。これももちろん、この時代の聴衆が知るはずのない曲です。本文では「パガニーニ」という名だけを答え、その先は「細かいことは聞かないで」と逃げます。
科学、政治、地理では年代や条件を細かく確認するどろちゃんですが、それ以外では、ときどきこういう失敗をします。
【ストラスブールと言葉】
ナーロッパ圏では、ドイツ語風の共通語が広く通じます。現実世界のフランス語、英語、ドイツ語が国境ごとにそのまま使われている設定ではありません。
ただし、アフリカやアジアなどナーロッパ圏外から来た人の中には、共通語が十分でない人もいます。
どろちゃんは神様の力で世界中の話し言葉と文字を理解できます。通訳するときは、宮廷向けに意味を丸めず、怒り、驚き、冗談、困惑まで含めて、本人が言った強さのまま伝えます。
【高いところはえらい】
この世界では、地表から自分の力で高度を得たり、高い位置を自力で保ったりする生命ほど「階級」が高くなる法則があります。単に浮力で持ち上がる気球や浮き袋は、同じようには評価されません。
さらに、領主の階級上昇は領地や住民にも影響します。
どろちゃんは領地から何度も飛び、とくに小鳥ちゃんでは極端な高度まで達しています。そのためエルレンフェルトでは、この時点で病人が一人もいないほど住民の健康状態が上がっています。
今回の外国使節も、ミツバチちゃんで飛んで会議へ来たため、会議期間中に体調を崩す人はいません。




