37紙一枚を取りに飛びます 前回の商人は忘れ物をしていました
第37章 紙一枚を取りに飛びます
クリスマスが終わって三日ほどたった朝。
ケールは、ひどく冷え込んでいました。
前の晩から空はよく晴れ、風も弱く、夜のあいだに地面の熱がどんどん逃げました。
朝になっても、日の当たらないところは白いままです。
石畳。
屋根。
荷車の縁。
店の前へ出した木箱。
みんな霜をかぶっていました。
ハイデルベルクから水玉船で戻ってきた商人夫婦も、朝から店にいました。
年明け前に済ませなければならない仕事が残っています。
帳面。
受取証。
商品の見本。
ケール側の役所へ出す書類。
夫が革の鞄を机へ置きました。
「これで全部だ」
「昨日もそう言っていたでしょう」
妻が言いました。
「昨日は数を見ただけだ。今日は順に並べる」
「では、順に並べて」
夫は鞄を開きました。
紙を出します。
一枚。
二枚。
三枚。
紐でまとめたもの。
封のあるもの。
役所から受け取ったもの。
こちらから提出するもの。
机の上へ順番に置いていきます。
途中で、手が止まりました。
「……ない」
「何が?」
「一枚」
「だから、何が?」
夫はもう一度、最初から数えました。
妻も横から見ます。
鞄の底も見ました。
内側の折り返しも見ました。
別の帳面の間。
封筒の中。
見本帳の下。
ありません。
妻の声が少し低くなりました。
「どの一枚?」
夫は答えるまでに少しかかりました。
「店の利用許可を継続する書類だ」
「……今日出すもの?」
「今日だ」
「いつまで?」
「夕刻まで」
妻は何も言いませんでした。
その沈黙の方が怖い。
夫はもう一度鞄をひっくり返しました。
「鞄は持ってきた」
「見れば分かるわ」
「書類も入れたはずだ」
「入っていないから探しているのよ」
「ハイデルベルクで最後に確認した」
「どこで?」
「書斎」
「机の上?」
「……机の上」
妻は目を閉じました。
「一枚だけ?」
「一枚だけだと思う」
「一番大事な一枚だけ?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るの」
ケールの役所は、提出期限を一日延ばしてくれるようなところではありません。
事情を話せば、事情は聞いてくれるでしょう。
しかし、期限は期限です。
夕刻までに必要な原本がなければ、現在の店の利用許可はそこで切れます。
もう一度申請することはできます。
でも、その間は店を使えません。
商品を入れている。
約束した取引がある。
人も雇っている。
一枚の紙なのに、一枚の紙では済みません。
夫が小さく言いました。
「……何とか」
「何を?」
「いや」
「お金を包むとか考えていないでしょうね」
「考えていない」
「今、一瞬考えたでしょう」
「一瞬だけだ」
「ここでそれをやったら、店の利用許可どころではなくなるでしょう」
「分かっている」
分かっているので、何もできません。
◇ ◇ ◇
そのとき、店の扉が開きました。
冷たい空気が一度に入ってきます。
「おはようございます」
女性が一人、入ってきました。
夫婦は顔を上げました。
「あら」
妻が先に気づきました。
三日前。
ハイデルベルクからケールまで、水玉船で一緒だった女性です。
エルレンフェルトの国民。
フランソワさんと同じ学校、同じ組だった人です。
船の中では八時間も暇だったので、ずいぶん話をしました。
店の話もしました。
布地を扱っていること。
ケールにも場所を借りていること。
また来ること。
その話を覚えていたので、女性は町へ来たついでに店を見に来たのでした。
「昨日、前を通ったら閉まっていたので」
「今日は開けました。でも……」
妻が机を見ました。
女性も見ました。
紙が散らばっています。
「何かありました?」
「書類が一枚、ハイデルベルクです」
妻は説明しました。
夫より早かった。
「今日の夕刻までに役所へ出さないと、ここの利用許可が切れるの」
「今日ですか」
「今日」
「ハイデルベルクに?」
「たぶん家の書斎」
女性はしばらく黙りました。
ケールからハイデルベルクへ馬車で行って、今日中に戻ることはできません。
水玉船でも間に合いません。
朝の便に乗っても、ハイデルベルクへ着くだけで一日が終わります。
「エルレンフェルトへ行きませんか」
女性が言いました。
夫婦が同時に顔を上げました。
「エルレンフェルトへ?」
「はい。船が一時間くらいごとにあります」
「でも、書類はハイデルベルクです」
「分かっています」
女性は少し迷いました。
「フランソワに話してみます」
「フランソワさんに?」
妻が聞き返しました。
「私からドロテーヤ様へお願いするのは……無理です」
当然でした。
水玉船では普通に話していました。
けれど、実際にお願いするとなれば話は別です。
ドロテーヤ様。
エルレンフェルト公国の元首である公爵の娘。
公爵令嬢。
イングランドでは伯爵位まで持っています。
大学教授でもあり、薬剤医師でもあります。
その人に、
ハイデルベルクまで飛行機で行って、忘れた書類を一枚取ってきてください。
そんなお願いを、店へ遊びに来た町の女性が直接言うものではありません。
「フランソワなら、お側にいます。私からフランソワへ話します。そこから先は、フランソワが判断してくれると思います」
夫は紙を集め始めました。
「行きます」
妻も上着を取りました。
「あなたも?」
「私の店でもあるでしょう」
「そうだった」
「今それを確認するの?」
女性も外套を着直しました。
「では、次の船へ行きましょう」
◇ ◇ ◇
三人はケールの船着場へ急ぎました。
白い水玉船が、ちょうど出たあとでした。
次があります。
それが定期船です。
「前なら、次がいつ来るか分からなかったのに」
妻が言いました。
「一時間くらいです」
女性が答えました。
「今日は、その一時間も長いわね」
「そうですね」
夫は何も言いません。
時計ばかり見ています。
次の水玉船が来ました。
三人で乗ります。
女性は公国民料金。
夫婦は一般料金。
こんな日でも料金は同じです。
船室は暖かかった。
サモワールもあります。
でも、夫は紅茶を飲む気になれませんでした。
妻は飲みました。
「飲めるときに飲んでおきなさい」
「よく飲めるな」
「あなたが飲まないから、私まで飲まない理由はないでしょう」
女性も一杯取りました。
「フランソワに会えると思うと、私もちょっと緊張してきました」
「同級生でしょう?」
「同級生です。でも、今はお屋敷に仕えていますから」
「昔と違う?」
「たぶん、本人はあまり変わっていないと思います」
「ドロテーヤ様の忘れ物を先に見つける人」
妻が言いました。
夫が視線をそらしました。
三日前、水玉船の中で、その話を聞いて笑ったばかりです。
今は笑えません。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ着くと、女性が先に動きました。
夫婦がそのまま公爵家へ押しかけるわけにはいきません。
まず、知っている人へ伝えます。
屋敷で取り次ぎを頼みました。
しばらくして、フランソワさんが出てきました。
「久しぶり」
女性の声が少しだけ昔へ戻りました。
フランソワさんも驚きました。
「まあ。どうしたの?」
「お願いがあるの」
「私に?」
女性は夫婦の方を見ました。
「正確には、あなたからドロテーヤ様へ」
フランソワさんの表情が少し変わりました。
「まず、聞くね」
それから夫婦へ向き直ります。
「どうぞ。こちらへ」
玄関先で立ったまま話すことではありません。
小さな応接室へ通されました。
そこで、最初から説明しました。
ハイデルベルク。
書斎。
紙一枚。
今日の夕刻。
店の利用許可。
原本でなければならないこと。
フランソワさんは途中で口を挟みませんでした。
最後まで聞いてから、確認しました。
「書類の場所は、分かっているのでございますね」
夫が答えました。
「書斎の机の上に置いたと思います」
「思います、でございますか」
「……はい」
「ご自宅には、今も人がおりますか」
「使用人がおります」
「奥様は、書斎の場所と書類を見分けられますか」
「分かります」
妻が答えました。
フランソワさんは少し考えました。
「では、私からお嬢様へお話ししてみます。ただ、飛行機を出されるかどうかは、お嬢様がお決めになります」
「もちろんです」
夫婦は同時に答えました。
その声が揃ったので、同級生が少し笑いました。
◇ ◇ ◇
そのころ、どろちゃんは家にいました。
机ではありません。
食堂の端です。
家用のサモワールから、自分で湯を取っていました。
お茶そのものは、侍女が入れればきちんとしたものが出ます。
茶葉の量。
湯の温度。
蒸らす時間。
全部、しっかりしています。
ただし、どろちゃんが飲みたいのは、それへ黒スグリのジャムを入れたものです。
そこまで侍女へ頼むと、なぜか少し違います。
ですから、ジャムは自分で入れます。
今日は多めです。
小さな匙で一杯。
もう一杯。
濃い紅茶へ溶かします。
「これでいい」
皿には、もう一つ変わったものがありました。
パン生地で挽肉を包み、油で揚げたものです。
ピロシキ。
これも厨房へ細かく頼んで作ってもらったものではありません。
朝からどろちゃんが自分で生地を触り、肉を包み、油へ入れました。
形は全部同じではありません。
一つは少し長い。
一つは丸い。
一つは閉じ方が甘く、揚げている途中で危なかったので先に食べました。
今、皿に残っているのは成功した方です。
「お嬢様」
フランソワさんが入ってきました。
「なに?」
どろちゃんは、ピロシキを持ったまま振り返りました。
「少し、お話がございます」
「食べながらでいい?」
「急ぎのお話です」
どろちゃんはピロシキを皿へ戻しました。
「じゃあ聞く」
フランソワさんは説明しました。
同級生が来たこと。
その人がケールで知り合った商人夫婦を連れてきたこと。
ハイデルベルクの家に、重要な書類を一枚残したらしいこと。
今日の夕刻までにケールの役所へ提出できなければ、店の利用許可が切れること。
馬車では間に合わない。
水玉船でも間に合わない。
どろちゃんは紅茶を一口飲みました。
「一枚?」
「一枚でございます」
「鞄は?」
「鞄は、きちんとお持ちになったそうです」
「書類だけ?」
「その一枚だけ、入っていなかったようでございます」
どろちゃんは少し黙りました。
「水玉船で、私の忘れ物の話、笑った人?」
フランソワさんも少し黙りました。
「……笑っておられました」
「だからだよ」
「たぶん、それは関係ございません」
「あるかもしれないよ」
「お嬢様も、お忘れ物をなさらない方がよろしいかと思います」
「私は今、忘れてない」
「今は、でございますね」
どろちゃんは黒スグリのジャムが沈んだ紅茶をもう一口飲みました。
それから、少し別のことを思い出しました。
「商人さんって、前にも助けたね」
「ウィーンでございますか」
「うん。三人いた」
ウィーンでは、別の大商人の家へ行きました。
主人。
息子。
妻。
病気の種類も経過も同じではありませんでしたが、三人とも診ました。
最初は薬を届けるだけのつもりだったのに、結局、家の中の衛生まで見て、大掃除になりました。
「商人さんのおうち、行くと仕事増えるね」
「今回は、紙一枚でございます」
「ほんとに一枚ならね」
フランソワさんが少し笑いました。
「お会いになりますか」
「うん」
◇ ◇ ◇
商人夫婦は、どろちゃんが部屋へ入ってくると立ち上がりました。
同級生も立ちます。
水玉船の中で名前を口にしていたときとは、まるで違います。
目の前にいるのは十六歳の少女です。
けれど、それだけではありません。
公国元首の娘。
公爵令嬢。
イングランド伯爵。
その本人へ、自分の忘れ物を取りに飛行機を出してほしいと頼むことになります。
夫の顔が、朝よりさらに硬くなりました。
「座っていいよ」
どろちゃんが言いました。
誰も座りません。
「……じゃあ、そのままでもいいけど」
フランソワさんが、夫婦へ小さくうなずきました。
夫が話しました。
朝から三度目くらいの説明です。
今度は一番緊張しました。
どろちゃんは最後まで聞きました。
「書類は、家の書斎?」
「はい」
「奥さんは分かる?」
「はい。机も、書類の形も分かります」
妻が答えました。
「旦那さんは?」
「もちろん分かります」
「でも、旦那さんはケールに戻った方がいいね」
夫が顔を上げました。
「私が、でございますか」
「役所へ出す人がいなくなったら困るでしょう。それに、お店もあるし」
「それは……はい」
「奥さん、飛行機乗れる?」
妻は答えるまで一拍かかりました。
「乗ったことは、ございません」
「普通はないよ」
「ですが、乗ります」
「じゃあ決まり」
どろちゃんはフランソワさんを見ました。
「フランソワさんも行く?」
「はい。奥様お一人より、その方がよろしいかと」
「三人だね」
コウノトリちゃんは三座です。
ちょうどいっぱいです。
同級生は少しほっとした顔をしました。
夫は、まだほっとできません。
「本当に、お願いしてよろしいのでしょうか」
どろちゃんは首を傾げました。
「飛べば間に合うんでしょう?」
「はい」
「じゃあ行くよ」
「しかし、お礼をどうすれば」
「帰ってからでいいよ。今それ話してたら遅くなる」
フランソワさんが静かに付け足しました。
「まず、書類を間に合わせましょう」
◇ ◇ ◇
外へ出ると、朝の冷たさがまだ残っていました。
晴れています。
冬の青い空です。
遠くまで見えます。
飛ぶには悪くありません。
ただし、コウノトリちゃんは格納庫の中です。
翼を畳んでいます。
飛行機は、急いでいる人が来たからといって、すぐ空へ出るものではありません。
格納庫から出します。
翼を伸ばします。
ロックを確認します。
支柱。
操縦系統。
燃料。
油。
脚。
タイヤ。
風防。
機体の外側。
雪や霜が付いていないか。
動くところへ氷が残っていないか。
どろちゃんと工場の人が順番に見ます。
エンジンを始動します。
冷え切った朝です。
暖機にも時間が要ります。
「急いでいるけど、ここは急がないよ」
どろちゃんが言いました。
商人の妻は、厚い外套のままうなずきました。
フランソワさんは、その横で搭乗前のものを確認しています。
三人分の防寒。
座席。
拘束具。
必要な荷物。
そして、書類を入れて帰るための硬い書類挟み。
「これへ入れましょう」
「一枚だけだから?」
「一枚だけだから、でございます」
今度こそ飛んでいかないようにします。
翼を伸ばし、暖機し、点検を終えるまで、およそ三十分。
そこで、ようやく出発です。
◇ ◇ ◇
どろちゃんが前。
フランソワさん。
商人の妻。
コウノトリちゃんは冬の飛行場を走りました。
浮きます。
高度を取ります。
商人の妻は、最初のしばらく何も言いませんでした。
両手が少し固い。
窓の外を見る余裕もありません。
「大丈夫?」
どろちゃんが聞きました。
「はい」
返事だけは早い。
フランソワさんが少し振り返りました。
「揺れは大丈夫でございますか」
「馬車より、ずっと」
そこまで言ってから、妻は窓の外を見ました。
畑。
道。
森。
川。
全部が下にあります。
「……速いですね」
「コウノトリちゃんは、そんなに速い飛行機じゃないよ」
「私には十分です」
それはそうでした。
三日前まで、ハイデルベルクからケールへ馬車で三日近くかけています。
そのあと水玉船で八時間。
今日は、空です。
◇ ◇ ◇
ハイデルベルクへ近づくと、妻が前方を見ながら場所を説明しました。
「家は、あちらです。川から少し離れています」
「公園は?」
「家の近くに、広いところがあります。夏は人が多いのですが」
今日は違います。
寒い。
雪があります。
朝の強い冷え込みが残っています。
こんな日に、公園で長く遊んでいる人はいません。
どろちゃんはすぐには降りませんでした。
一度、上から見ます。
人。
荷車。
柵。
木。
雪の上の大きな障害物。
端に木はあります。
でも、中央は広い。
人影はありません。
もう一度、向きを整えます。
「ここならいける」
コウノトリちゃんが降ります。
雪の上へ車輪が触れました。
少し走ります。
止まります。
商人の妻は、止まってから大きく息を吐きました。
「着きました……」
「着いたよ」
どろちゃんは機体を、帰りに出やすい向きへ変えました。
「私、ここで待ってる」
「お嬢様は行かれないのでございますか」
フランソワさんが確認しました。
「飛行機を一人にしない方がいいでしょう。二人で取ってきて」
「かしこまりました」
妻が拘束具を外しました。
「すぐ戻ります」
「走って転ばないでね。雪あるから」
「はい」
フランソワさんと妻が、公園から家へ向かいました。
◇ ◇ ◇
家には使用人がいました。
突然、主人の妻が戻ってきたので驚きます。
しかも一緒にいるのは、見慣れない女性。
「書斎へ行きます」
「奥様、どうなさったので」
「書類です。一枚」
説明はあとです。
二人は書斎へ入りました。
机。
そこです。
夫が言っていた机。
しかし。
「ない」
妻の顔から血の気が引きました。
机の上には、ほかの紙があります。
けれど、必要な一枚がありません。
「ここに置いたって」
机の下を見ます。
椅子の下。
引き出し。
机と壁の隙間。
ありません。
「鞄へ入れたのでは?」
「入っていませんでした」
「では、別の部屋でしょうか」
「いいえ。ここで最後に見たの」
フランソワさんが部屋を見回しました。
窓があります。
窓とは反対側。
部屋の隅。
家具の脚の向こうに、白いものが見えました。
「奥様」
「何?」
「あちらでは」
二人で近づきます。
一枚の紙が、壁際へ斜めに落ちていました。
妻が拾いました。
見ます。
署名。
印。
文面。
「これです」
力が抜けた声でした。
「これです。これ一枚です」
「机から飛んだのでしょうか」
「たぶん……」
窓の反対側まで飛んでいます。
扉を開けたときか。
火を入れたときか。
窓を少し開けたときか。
いつだったのかは分かりません。
ただ、一枚だけ机の上へ置かれ、一枚だけ鞄へ入らず、一枚だけ部屋の隅へ飛びました。
「入れます」
フランソワさんが硬い書類挟みを開きました。
紙を入れます。
閉じます。
「入りました」
「はい」
「今度は、飛びません」
妻が思わず笑いました。
「夫にも同じことを言ってください」
「お嬢様が言われると思います」
◇ ◇ ◇
二人が公園へ戻ると、どろちゃんはもう待っていました。
エンジンを止めて長く冷やすほどの時間ではありません。
機体の周りも見ています。
「ありました!」
妻が書類挟みを上げました。
「ほんとに一枚?」
「本当に一枚でした」
「どこにあった?」
「机の上ではなくて、窓と反対側の部屋の隅です」
どろちゃんは少し考えました。
「飛んだね」
「飛びました」
「書類が先に飛んだんだ」
「お嬢様」
フランソワさんが少し笑いました。
「今度は、こちらが飛ぶ番でございます」
「そうだった」
三人は乗りました。
すでに機首は、出る方向へ向いています。
確認します。
周囲。
人はいません。
風。
雪面。
操舵。
出力。
「行くよ」
コウノトリちゃんが走り始めました。
冷たい空気の中で、機体は軽く浮きました。
その日の地上走行は、五十メートルほど。
特別な記録を狙ったわけではありません。
ただ、雪の公園から普通に離陸したら、そのくらいで車輪が離れました。
妻が後ろから小さく声を出しました。
「もう?」
「もうだよ」
コウノトリちゃんは高度を取り、西へ向かいました。
やがてライン川へ出ます。
そこから川を見ながら南へ。
ケールへ向かいます。
道に迷いにくい。
大きな川が、そのまま目印です。
紙一枚も、今度は硬い書類挟みの中です。
◇ ◇ ◇
朝、エルレンフェルトで翼を伸ばし始めてから。
暖機。
点検。
ハイデルベルクへの飛行。
雪の公園への着陸。
家まで往復して書類を拾う時間。
再離陸。
ライン川を南下。
ケールまで。
全部合わせて、およそ二時間半でした。
ケールの公園も、寒さのせいで人影がありません。
ここは、出発前に夫と約束しておいた場所です。
どろちゃんは上から確認しました。
そして降ります。
車輪が雪の上へ着きます。
速度を落とします。
止まります。
ちょうどそのころ、公園の端から男が一人、走ってきました。
夫です。
水玉船でエルレンフェルトから戻り、店へ寄り、それから公園へ来たところでした。
「今、着いた?」
どろちゃんが聞きました。
「はい。私も、今です」
妻が降りました。
手には書類挟み。
「ありました」
「どこに?」
「机の上にはなかったわ」
夫の顔が固まりました。
「では、どこに」
「窓と反対の隅」
「……なぜ」
「飛んだのよ」
妻は書類を出しました。
「これでしょう」
夫が受け取ります。
見る。
もう一度見る。
「これです」
「鞄に入れて」
どろちゃんが言いました。
「はい」
「ちゃんと」
「はい」
夫は革の鞄へ入れました。
閉じました。
留め具を掛けました。
フランソワさんが確認しました。
「入りました、お嬢様」
「よし」
夫は何とも言えない顔になりました。
「私、三日前に……」
「笑ったよね」
「はい」
「だからだよ」
「お嬢様」
フランソワさんがまた言いました。
「やはり、それは関係ないと思います」
「でもタイミングいいよ」
妻が横から言いました。
「私は、少し関係ある気がしてきました」
「君まで言うのか」
◇ ◇ ◇
「では、役所へ参ります」
夫が鞄を抱えました。
「私も行く」
どろちゃんが言いました。
夫婦が止まりました。
「そこまでしていただくわけには」
「ここまで飛んできて、最後に何かあったら困るでしょう」
「ですが」
「何もなければ、見てるだけ」
フランソワさんが、コウノトリちゃんを見ました。
「では、私はこちらに残ります」
「うん。お願い」
いくら寒くて人影がないとはいえ、外国の公園へ飛行機を置いたまま、全員で役所へ行くわけにはいきません。
フランソワさんは外套を着たまま、機体の見張りをすることになりました。
「お嬢様、あまり長くはおられませんように」
「うん。暗くなる前に帰る」
夫婦とどろちゃんの三人が役所へ向かいます。
フランソワさんは、雪の公園に残りました。
寒いので、やはりほかに人はいません。
◇ ◇ ◇
役所では、普通の手続きが始まりました。
夫が窓口へ行きます。
「店の利用許可の継続書類です」
役人が受け取ります。
順番に見ます。
必要な紙。
署名。
印。
日付。
添付する書類。
最後に、朝までなかった一枚を見ます。
どろちゃんは少し離れたところで待っていました。
伯爵位の話もしません。
公爵家の名前も出しません。
役人へ何か言うこともありません。
紙がそろっているなら、それでよいはずです。
少しして、役人が書類をまとめました。
「受領しました」
夫は一瞬、聞き返しそうな顔をしました。
「これで?」
「はい。手続きは完了です」
「利用許可は」
「継続されます」
それだけでした。
賄賂はいりません。
特別な口利きもいりません。
公爵令嬢もいりません。
期限内に、必要な一枚が来ました。
だから、普通に終わりました。
夫は深く息を吐きました。
妻も肩の力を抜きました。
「よかった」
どろちゃんが言いました。
「はい」
夫が振り返りました。
「本当に、ありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいか」
「うん。でも」
どろちゃんは窓の外を見ました。
日が低い。
公園では、フランソワさんがコウノトリちゃんを見張って待っています。
「帰る」
夫はまだ何か言おうとしました。
妻が袖を引きました。
「お礼は、今度にしましょう」
「しかし」
「飛行機は暗くなってから帰るものではないのでしょう?」
どろちゃんが答えました。
「そう。今日は特に」
「では、今はお見送りします」
◇ ◇ ◇
公園へ戻りました。
コウノトリちゃんは、さっきと同じ場所にありました。
その横に、フランソワさんもいます。
「お帰りなさいませ」
「終わったよ」
「無事に?」
「普通に終わった」
フランソワさんは、それを聞いてほっとしたようにうなずきました。
飛行機にも、見たところ変わった様子はありません。
ケールからエルレンフェルトまでは、ほんの短い距離です。
水玉船でも近い。
馬車でも、ハイデルベルクほど遠くありません。
けれど、空を飛んで帰るなら、短くても同じです。
離陸します。
そして、着陸します。
エンジンを確認します。
周囲を見ます。
風を見ます。
薄暗くなり始める前に、どろちゃんはコウノトリちゃんを走らせました。
雪の公園から離れます。
夫婦が下で見ています。
妻が手を振りました。
夫も遅れて手を上げました。
コウノトリちゃんは、ライン川の東側へ向きを変えました。
エルレンフェルトまでは、わずかな飛行です。
それでも、飛んだ以上は最後まで仕事です。
飛行場へ戻ります。
進入します。
降ります。
車輪が地面へ触れます。
止まります。
「終わった」
どろちゃんが言いました。
「はい、お嬢様」
フランソワさんも息をつきました。
格納庫へ戻す前に、いつもの点検をします。
翼。
支柱。
脚。
操縦系統。
機関。
雪の公園へ二度降りました。
何か付いていないか。
傷んでいないか。
それを見てから、翼を畳みます。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、家用のサモワールにはまだ湯がありました。
どろちゃんは朝と同じように紅茶を取りました。
フランソワさんが、今度はきちんと茶を入れてくれています。
そこへ、どろちゃんが自分で黒スグリのジャムを入れました。
「今日、飛んだのは飛行機だけじゃなかったね」
「書類も先に飛んでいたそうでございますね」
「うん」
朝に作ったピロシキは、もうありません。
どろちゃんが出発前に食べた分と、残ったものを厨房の人たちが食べたからです。
「もう一個作ればよかった」
「明日になさってはいかがですか」
「そうする」
どろちゃんは紅茶を飲みました。
フランソワさんが、少し間を置いて言いました。
「お嬢様」
「なに?」
「忘れ物をした方を、あまり笑わない方がよろしいかもしれません」
「私、今日笑ってないよ」
「今日は、でございますね」
「……うん」
紙一枚。
それを忘れただけで、朝から何人もの人が動きました。
商人夫婦。
同級生。
フランソワさん。
船の人たち。
飛行場の人たち。
そして、コウノトリちゃん。
三日かかる馬車。
八時間の水玉船。
それでも間に合わない一枚を、飛行機はその日のうちに取りに行きました。
大きな荷物ではありません。
偉い人でもありません。
薬でもありません。
ただの紙です。
でも、その紙がなければ、一つの店が止まるところでした。
空を飛ぶものの仕事は、大きなものばかりではありません。
どろちゃんは黒スグリのジャムをもう少しだけ足しました。
「入れすぎではございませんか」
「今日は飛んだからいいの」
「そういう決まりでございますか」
「今、決めた」
サモワールの横で、甘い紅茶から湯気が上がっていました。




