35貴族令嬢は、公国の法律を決めて、水玉船を走らせます 公国のインフラ整備ですね。ライン川の輸送手段を確立させます。
第35章 貴族令嬢は、公国の法律を決めて、水玉船を走らせます
お父様がウィーンから戻ったとき、肩書きが一つ増えていました。
「お帰り、お父様」
「ああ」
「公爵になった?」
「なった」
「ほんとに?」
「そのためにウィーンまで行ったのだろう」
「そうだった」
どろちゃんは少しだけ考えました。
「じゃあ、今は公爵領?」
「それも、少し違う」
「また増えるの?」
「増えるというより、整理される」
お父様は、持ち帰った書類とは別の束を机へ置きました。
ウィーンからの文書。
フランス側との確認書。
イングランドから届いたもの。
ネーデルラント側との文書。
それぞれ封蝋も書式も違います。
どろちゃんは一枚ずつ見ました。
「いっぱいある」
「国というものは、誰か一人が今日から国だと言えば、それだけで済むものでもない」
「神様なら?」
「神様は外交文書を書かんだろう」
「建物は送ってくるのに」
「それは私にも分からん」
お父様は笑ってから、もう一度書類へ目を落としました。
お父様が公爵になっただけなら、エルレンフェルトは、公爵が治める帝国内の領地のままです。
けれど、それとは別に話が進んでいました。
帝国との古い関係を整理すること。
フランス軍も帝国軍も、勝手に通過しないこと。
エルレンフェルト側も、他国へ攻め込むための土地として自分の国を使わないこと。
商人、学者、医師、旅人の往来まで止めないこと。
そして、エルレンフェルトを、どこか別の国の単なる所領ではなく、一つの政治体として扱うこと。
戦争をしている国々が、珍しく同じ方向を向いた結果でした。
フランスに取られたくない。
皇帝に強く抱え込ませたくない。
イングランドにも持っていかれたくない。
ネーデルラントにとっても、ライン上流に軍事的な通路が増えるより、中立に近い小さな国がある方がよい。
理由は、それぞれ少しずつ違います。
それでも、結果だけは同じでした。
「これが全部そろったら?」
どろちゃんが尋ねました。
「エルレンフェルト公国として、外へ名乗る」
「公国」
「ああ」
「国になるの?」
「今までより、はっきりとな」
どろちゃんは窓の外を見ました。
見えるものは変わりません。
畑。
町。
道。
遠くの工場の煙。
飛行場の方には、白い機体も見えます。
「国境、昨日と同じところだよ」
「それでよい」
「広がらないの?」
「広げる理由がない」
「うん」
そこは、お父様らしい答えでした。
◇ ◇ ◇
国になるなら、外へ名乗るだけでは足りません。
中でどうするのかも決めなければなりません。
それで、領主館の大きな部屋に人が集まりました。
お父様。
お母様。
どろちゃん。
執事。
商工会長。
古くから町に住む者の代表。
農家の代表。
教会の代表。
ほかにも、書記をする者が何人かいます。
どろちゃんは椅子へ座って、人数を見ました。
「国を作る会議?」
「もう国にはなりつつある」
お父様が答えました。
「では、国の中をどうするか決める会議だ」
「憲法?」
「その言葉は、ずいぶん大きいな」
「じゃあ、基本国法」
「そちらなら、まだ分かる」
書記が紙の上へ書きました。
エルレンフェルト基本国法。
どろちゃんは、その文字を見ました。
「ほんとに書いた」
「書かなければ始まりません、お嬢様」
執事が静かに答えました。
「執事さん、こういうの得意?」
「古い権利書を探すことでしたら、旦那様より得意かもしれません」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように申し上げました」
お母様が笑いました。
いつもの領主館の会話のまま、国の法律を作ることになりました。
◇ ◇ ◇
最初に決まったのは、簡単なことでした。
国の名前。
領域。
元首。
国の名前は、エルレンフェルト公国。
領域は、今までの境界をそのまま引き継ぎます。
戦争で取った土地はありません。
これからも、戦争で土地を増やすことを国の目的にはしません。
お父様が言いました。
「ここは、書いておきたい」
農家の代表がうなずきました。
「戦があるたびに、領地が増えたり減ったりするのは、畑を持つ者には困る話でございます」
「こちらから取りに行かなければ、少なくとも一つは理由を減らせる」
「はい」
古くからの住民の代表は、もっと単純でした。
「昔から、この辺りまでがうちです」
机の上の古い地図を指します。
「私の祖父も、その祖父も、そう申しておりました。なら、それでよろしいかと」
「何百年も変わらなかったものね」
どろちゃんが言いました。
「お嬢様が生まれるより、ずっと前からでございます」
「それは分かってるよ」
「念のため」
老人は笑いました。
次は、軍隊です。
外国の軍隊は、公国の同意なしに領内へ入れない。
通過もできない。
徴発もできない。
宿舎を勝手に取ることもできない。
公国自身も、他国を攻めるために国境を越えて軍を出すことを、原則としない。
「ここは今までの約束を、国の内側の法律にもするのね」
「そうだ」
お父様が答えます。
「外との約束だけでは、次の代になったときに解釈を変える者が出るかもしれん」
「お父様の次?」
「お前たちの代、その次、そのまた次だ」
「ずっと先だね」
「だから書く」
商工会長が手を挙げました。
「軍隊の通過を禁じるのは賛成でございます。ただ、商人まで止められるのは困ります」
「そこは分けよう」
どろちゃんがすぐ答えました。
「人が来ることと、兵隊が来ることは別。商売の荷物は税関で見る。普通の人は、協定を結んだ国なら行き来しやすくする」
「税も、突然変わらないようにしていただければ」
「それも書くか」
お父様が書記を見ました。
恒久的な税。
新しい負担。
大きな公役。
そうしたものは、領主だけで突然決めず、代表を集めた評議で確認することになりました。
どろちゃんは首を傾げました。
「お父様、今までも勝手に増やしてなかったよね」
「だから、書いても困らん」
「なるほど」
農家の代表からは、別の話が出ました。
「水のことも、お願いしたいのでございます」
「水?」
「お嬢様が、低い土地の排水を進めておられますでしょう」
「ああ」
「水を抜けば、こちらの畑が乾くこともあります。逆に、水を止めれば、別のところへ溜まります」
「それはそうだね」
「公の工事で田畑の水を変えるときは、先に調べて、土地の者へ知らせるようにしていただきたいのです」
どろちゃんはすぐにうなずきました。
「それ、必要」
ライン川沿いの低地は、好きなところを掘ればよい土地ではありません。
一か所の排水路が、別の場所の水位を変えます。
堤防も同じです。
「測る。知らせる。壊れたら直す。必要なら補償も考える」
「お願いいたします」
教会の代表は、それまで静かに聞いていました。
そこで口を開きました。
「もう一つ、よろしいでしょうか」
「はい」
「この国の者だけを守る法律には、していただきたくありません」
どろちゃんは顔を上げました。
「旅人?」
「旅人も。貧しい者も。病人も。戦で家を失った者も」
部屋が少し静かになりました。
「すべてを抱えることはできません。しかし、国境の外から来たというだけで、人として扱わない国にはしていただきたくない」
お父様がゆっくりうなずきました。
「それも、我が家が昔からしてきたことだ」
「はい。ですから、書いていただきたいのです」
どろちゃんも紙を見ました。
「書こう」
教会の代表が頭を下げました。
◇ ◇ ◇
その日のうちには終わりませんでした。
古い権利書を出します。
昔の裁判記録を見ます。
村の慣習を書き出します。
税の取り方も見直します。
執事が古い箱を次々持ってきました。
「まだあるの?」
「ございます」
「何年前?」
「こちらは百八十七年前でございます」
「それ、読める?」
「読めます」
「すごい」
「仕事でございますので」
お父様が横から言いました。
「私も読めるぞ」
「知ってるよ」
「念のためだ」
今度はお父様が老人の言葉を真似しました。
お母様は、何度か話が止まるたびにお茶を入れさせました。
そして、誰も言わなかったことを一つ言いました。
「国になったら、家と国を分けた方がよいでしょうね」
「家と国?」
どろちゃんが聞き返します。
「お父様は公爵。あなたはイングランドでは伯爵でしょう」
「うん」
「今までの書類や車には、その印を並べているものがあります。でも、エルレンフェルト公国の物まで、それでよいのかしら」
「……よくない」
どろちゃんは、すぐ答えました。
「お父様の公爵マークと、私のイングランド伯爵マークが並んでるの、もうやめたい」
「私も同感だ」
お父様も答えました。
「家の印は家のもの。お前のイングランドの爵位は、お前個人のものだ」
「国の印がいる」
「そういうことだ」
そこで、新しく公国の旗と紋章を定めることになりました。
昔からの家の意匠をまったく捨てるわけではありません。
けれど、公爵家の家紋そのものでもありません。
まして、どろちゃんがイングランドで持っている伯爵の印でもありません。
国として使う旗。
国として使う紋章。
役所。
公文書。
国境。
公用車。
そして、公用船。
そこに付けるためのものです。
「船?」
商工会長が聞きました。
「まだ船はありませんな」
「作るよ」
「……もう決まっているのですか」
「今決めた」
お父様が目を閉じました。
「その言い方をするときは、たいてい何か始まるな」
「大丈夫。今回は川」
「空より安心だと思ってよいのか?」
「たぶん」
「たぶんか」
◇ ◇ ◇
国の話が一段落すると、どろちゃんはライン川へ戻りました。
前から気になっていたのです。
エルレンフェルトには、昔から使われている船着場があります。
荷船が来ます。
人も来ます。
上流から来た物が下流へ行きます。
下流から来た物が、ここで荷車へ移ります。
けれど、どろちゃんは、川全体を知りません。
地図には線があります。
船頭さんは流れを知っています。
でも、マンハイムあたりの大きな蛇行も、その先の長いラインも、ワール川へ分かれてから西の複雑な水路も、一枚の地図では実感できません。
「じゃあ、上から見よう」
――また飛ぶの?
「うん」
タドポール君の後席を外しました。
以前、領地の航空写真を撮ったときと同じです。
写真機を積みます。
『また写真係?』
「お願い」
『今度はどこまで?』
「川の先」
『どのくらい先?』
「海まで」
『長いね』
「何日かに分けるよ」
『それならいいよ』
タドポール君は、また写真機を背負いました。
◇ ◇ ◇
晴れた日を選びました。
川を追います。
エルレンフェルトから北へ。
ストラスブールの向こう。
さらに北へ。
大きく曲がるところ。
中州があるところ。
流れが二つに見えるところ。
岸が低く、水が広がるところ。
町が川へ寄り添うところ。
橋。
船着場。
曳船路。
そして、マンハイムのあたりでは、どろちゃんは何度も写真を撮りました。
「曲がりすぎ」
――川だからね。
「でも、これ、地図で見るよりひどいよ」
――上から見ると分かるね。
さらに下ります。
ケルンの方へ。
その先へ。
ネーデルラントへ入る頃には、川は一つの線ではなくなっていきました。
どの流れがどこへ行くのか。
どこで分かれるのか。
どこでまたつながるのか。
ワール川から西では、写真を並べても、一度では分からないところがあります。
「これ、河口って言っていいのかな」
――河口部、だね。
「川がいっぱい」
――水もいっぱい。
「それは見れば分かる」
タドポール君は黙りました。
何日かかけて、必要な写真をそろえました。
海までたどり着いたとき、どろちゃんは、写真機の残りを確認してから一枚だけ遠くを撮りました。
「海だね」
『海だね』
「ここまで船で来るの、大変そう」
『ぼくならすぐだよ』
「船は飛べないから」
『そうだった』
◇ ◇ ◇
写真を現像して、並べます。
国際会議場の一室では足りません。
長い机を何本もつなぎました。
川が、紙の上に続いていきます。
エルレンフェルト。
ストラスブール。
その先。
蛇行。
中州。
分流。
港。
そして河口部。
どろちゃんは鉛筆を持ちました。
「たぶん、ここ」
写真の上に透明な紙を置きます。
「この流れを使って、ここで寄って、ここは避ける」
――空から見ただけで決めるの?
「だから、船頭さんを呼ぶ」
その日の午後、港から何人か来てもらいました。
若い船頭さん。
中年の船頭さん。
何十年もラインを上り下りしてきた老人。
皆、部屋へ入って最初に黙りました。
「……これは」
「上から撮ったライン川です」
どろちゃんが言いました。
「全部でございますか」
「海まで」
「海まで……」
老人が机の端から端まで歩きました。
「こんなふうになっているのですか」
今度は、どろちゃんが驚きました。
「知らなかったの?」
「知っておりますよ、お嬢様」
「でも?」
「自分が通るところは」
老人は写真を指しました。
「この曲がりを抜ければ、次に何がある。水位がこのくらいなら、こちらへ寄る。雨のあとなら、こちらは避ける。そういうことは知っております」
「うん」
「しかし、全部を上から一度に見たことはございません」
「ああ」
別の船頭さんが写真へ顔を近づけました。
「この中州、こちらとつながっていたのか」
「そう見えるね」
「水の上では、向こう側が見えませんので」
若い船頭さんが別の場所を指しました。
「ここは、二本の川だと思っておりました」
「上流で分かれて、下で戻ってる」
「なるほど……」
どろちゃんは笑いました。
「私が船頭さんに教えてもらうつもりだったのに」
「こちらも教わっておりますな」
「じゃあ、お互い得だね」
「そのようでございます」
◇ ◇ ◇
そこからが本当の航路選びでした。
どろちゃんが、空から見て通れそうな線を引きます。
船頭さんが消します。
「ここ、だめ?」
「幅はありますが、浅いのでございます」
「写真では分からない」
「こちらは?」
「流れが速い」
「じゃあ、こっち」
「水が多いときはよいですが、少ないときは危ないですな」
どろちゃんが別の線を引きます。
「これは?」
老人が少し考えました。
「そこは、使えます」
「やった」
「ただし、この岸へ寄りすぎてはいけません」
「なんで?」
「下から巻きます」
「見えない」
「そういうものです」
「船、難しい」
「空も難しいのでございましょう?」
「うん」
「同じですな」
何日かかけて、空の写真と、水の上の経験が一枚の航路図になっていきました。
それでも、河口まで毎日のように船を出す気にはなりませんでした。
「遠すぎる」
「遠うございます」
「川、曲がりすぎ」
「曲がっております」
「途中で船も替えた方がいい場所あるよね」
「昔から、そうしております」
どろちゃんは鉛筆を置きました。
「じゃあ、海までの線は調査用」
「それがよろしいでしょう」
「普段はもっと近いところ」
「どちらまででございますか」
「バーゼルと、ストラスブール」
船頭さんたちが顔を見合わせました。
「上と下、両方でございますか」
「うん」
◇ ◇ ◇
問題は船でした。
今ある船を使えばよい。
それでもよいのですが、どろちゃんには別の目的もありました。
「エンジン作りたい」
――飛行機用?
「いきなり飛行機に積むのは怖すぎる」
――それはそうだね。
「まず川」
エルレンフェルトの工場では、エンジンを作るための工作機械も、測定器も、少しずつそろっています。
けれど、自分たちで作ったエンジンが何百時間も壊れず回るかどうかは、作って試さなければ分かりません。
飛行機なら、止まれば落ちます。
船なら、止まっても浮いていればよい。
「船で壊そう」
――言い方。
「壊れるところを先に見つけよう」
――それならいいね。
さらに、もう一つ試したいものがありました。
溶接です。
大型の鉛蓄電池があります。
大電流を取り出せます。
直流アークを作れます。
けれど、溶接機があることと、きれいに溶接できることは別です。
熟練工が必要でした。
「だから、船を作りながら育てる」
――飛行機よりずっと安全だね。
「重くなっても浮くし」
――限度はあるよ。
「分かってる」
◇ ◇ ◇
最初の図面を見た船頭さんは、首を傾げました。
「これは、舟でございますか」
「舟です」
「ずいぶん四角いところが多いようですが」
「中はちゃんと船です」
全長は、およそ八メートル。
幅は、およそ二メートル。
長さと幅の比は四くらい。
高速艇のような細長さではありません。
けれど、荷船ほど幅広くもありません。
浅いところへ入りやすい、低床の河川艇です。
船体の骨は、軽合金にはしませんでした。
四角鋼管。
こちらの方が重いです。
でも、溶接しやすい。
丈夫です。
試験もしやすい。
「最初から軽くしすぎない」
――飛行機じゃないからね。
「まず壊れない方」
外板も薄い鋼板です。
塗るだけでは、川の水で錆びます。
そこで、船体を裸の鋼材で組み上げ、溶接を終えたあと、溶融亜鉛めっきをします。
ドブ漬けです。
溶接部も。
四角鋼管の内側も。
水が入りそうなところも。
できるだけ亜鉛を回します。
そのため、浮力室の上面は、最初から開いていました。
◇ ◇ ◇
浮力室は、一つではありません。
船体の周囲に、八つ。
どこか一つが破れても、全部の浮力を失わないように分けました。
しかも、その金属の箱だけには頼りません。
めっきが終わったあと、各区画の中へ、別の袋を入れます。
羽布を、浮力室の形に合わせて縫ったものです。
そこへシリコン処理をします。
見た目は、巨大なビーチボールでした。
「膨らませるよ」
工場の人が空気を入れます。
袋が、金属の浮力室の中でゆっくり広がりました。
隙間へ沿って形が変わります。
いっぱいになったところで、空気口を折ります。
そして、専用のクリップで留めます。
「それだけでございますか」
船頭さんが尋ねました。
「中の袋はそれだけ」
「抜けませんか」
「抜けたら分かるように点検する。外側の金属室もあるから、いきなり沈まない」
その上へ、金属製の平板をかぶせます。
縁にはシリコンパッキン。
周囲には、何個ものパッチン錠。
防湿びんの蓋を、大きくして平らにしたような構造です。
閉じます。
パチン。
パチン。
またパチン。
「開くのですね」
「点検するから」
「なるほど」
帰港したら開けられます。
水が入っていないか。
袋がしぼんでいないか。
錆が出ていないか。
溶接部に異常がないか。
全部、目で見られます。
◇ ◇ ◇
溶接は、思ったより時間がかかりました。
最初に試験片を作ります。
鋼板を合わせます。
アークを飛ばします。
溶かします。
つなぎます。
冷えたら、曲げます。
叩きます。
切って、中を見ます。
「これはだめ」
どろちゃんが言いました。
「見た目は、きれいに見えますが」
「中、足りない」
頭の中の技師さんも同じことを言います。
――溶け込みが浅いね。
「もう一回」
次の人。
また次の人。
誰が、どの条件で、どの試験片を作ったか記録します。
何枚も作るうちに、差が出ました。
速い人。
遅い人。
見た目はきれいでも弱い人。
少し不格好でも、切ってみるとしっかりつながっている人。
「この人、上手」
どろちゃんが記録を見ました。
工場長もうなずきます。
「ええ。条件を変えても、あまり崩れません」
「先生役になってもらおう」
こうして、エルレンフェルトに、溶接を専門に教える人ができました。
船は、その最初の大きな教材になりました。
◇ ◇ ◇
エンジンは、二十キロワット級にしました。
およそ二十七馬力。
自分たちで作る最初の実用ディーゼルとしては、十分です。
軽くすることは、二番目です。
一番は、壊れずに回ること。
川の水を使って冷やします。
泥や草をそのまま吸わないよう、入口には網と沈殿しやすいものを除く部分を設けました。
エンジンそのものは、船室の外です。
船尾。
屋根はあります。
雨は直接かかりません。
けれど、横は開いています。
熱も排気も、船室へこもりません。
油が漏れても、すぐ見えます。
音がおかしければ、すぐ分かります。
問題があれば、ユニットごと外せます。
「東南アジアの船みたい」
――どこ?
「遠いところ」
――また遠いところだ。
「自動車のエンジンを後ろへ載せて、長い軸でスクリュー回す船があるの」
――これは、それより少しきちんとしてるね。
「Smartにした感じ」
――だから、その言葉も分からないって。
「うん」
◇ ◇ ◇
スクリュー軸は、まっすぐ水平にはしませんでした。
船尾から、水の中へ斜めに下ろします。
推進力の全部が前向きにはなりません。
少し損をします。
けれど、高速になると船尾が沈みやすくなります。
斜め軸なら、プロペラの反力に、船尾を少し持ち上げる成分を作れます。
さらに、浅いところでは持ち上げることができます。
左右にも振れます。
舵だけに頼らず、推進ユニットごと向きを変えます。
船頭さんが見ていました。
「これは便利かもしれませんな」
「でしょう?」
「ただ、上りで流れが強いところでは、できるだけ前へ押してほしいところです」
「そういうときは角度を浅くする」
「変えられるのですか」
「変えられる」
「それなら、試してみたいですな」
船頭さんの目が、だんだん船を見る目になってきました。
◇ ◇ ◇
船室は、操舵席だけではありません。
最前部から、最後部近くまで続いています。
船首側に操船する場所。
その後ろに座席。
机。
写真や地図を広げる場所。
測量器具を置く棚。
荷物を固定するところ。
雨が降っても、中にいられます。
風が強くても、飛沫が上がっても、写真は濡れません。
ただし、船尾の機関部だけは外です。
屋根の下で、ディーゼルが回ります。
「これなら、河口の方へ行っても中は濡れにくいね」
「河口まで行かれるので?」
工場長が聞きました。
「調査ではね。毎日運航する気はないよ」
「安心いたしました」
「なんで?」
「帰ってくるまで工場の者が心配しますので」
「大丈夫だよ」
「それをお嬢様が言われると、少しだけ心配が増えます」
「ひどい」
◇ ◇ ◇
最初に完成した艇は、公用一号艇ではありませんでした。
公爵家の私用艇。
ただし、中身は、これから量産する公用艇とほとんど同じです。
船体。
浮力室。
エンジン。
推進器。
操舵。
船室の基本寸法。
全部、同じ。
違うのは、内装くらいです。
「私用艇だけ特別なエンジンにしたら、試験にならないでしょう」
――そうだね。
「これで先にデータ取る」
外へ出した船体は、真っ白でした。
そこへ、大きな丸を塗ります。
直径、およそ四十センチ。
一つ。
また一つ。
さらに一つ。
ただし、この艇だけは一色ではありません。
六色。
大きな水玉が、白い船体と船室に散りました。
工場長が少し離れて見ました。
「……ずいぶん目立ちます」
「目立たせるの」
「隠す必要はないですものね」
「うん」
戦争中の軍艦ではありません。
公国の船です。
遠くからでも分かる方がよい。
船尾には、新しく定めた公国の国籍旗。
船室には、公国の紋章。
お父様個人の公爵家の印と、どろちゃんのイングランド伯爵の印を並べることは、もうしません。
「国の船になった」
どろちゃんが言いました。
「こちらは私用艇でございますが」
執事が訂正しました。
「でも国籍はエルレンフェルト」
「それは、その通りでございます」
「じゃあ、半分合ってる」
「半分でございます」
◇ ◇ ◇
進水の日。
港には、船頭さんたちも来ていました。
六色の水玉船が、水へ下ります。
「沈まない?」
どろちゃんが聞きました。
「今、それをお嬢様が聞かれるので?」
工場長が困った顔をしました。
「確認」
「浮いております」
「よかった」
ディーゼルを始動します。
音がします。
振動があります。
けれど、今までの蒸気機関とは違います。
ボイラーを温める時間もいりません。
「行くよ」
船頭さんが横に座りました。
「最初は、ゆっくりお願いいたします」
「はい」
スクリューが回りました。
白い船が、水玉を連れて岸を離れます。
最初は低速。
次に少し回転を上げます。
さらに上げます。
「船尾、下がるね」
「少しでございますな」
「軸、下げる」
斜め軸の角度を変えます。
前へ進む力は少し減ります。
その代わり、船尾が持ち上がる方向へ力が出ます。
「お」
どろちゃんが言いました。
「少し軽くなりましたな」
船頭さんも感じました。
「数字取ろう」
「今ですか」
「今」
回転数。
速度。
軸角。
船首の沈み。
船尾の沈み。
燃料。
振動。
全部、記録します。
公爵家の私用船なのに、やっていることは完全に試験艇でした。
◇ ◇ ◇
何度も走りました。
下流。
上流。
荷物を載せた状態。
人数を増やした状態。
少ない状態。
風のある日。
水位の違う日。
故障もしました。
「止まった」
「止まりましたな」
「落ちない」
「船ですので」
「船、いいね」
「そこを評価されますか」
エンジンを外して工場へ持って帰ります。
分解します。
原因を見つけます。
直します。
また載せます。
次は前より長く回ります。
浮力室も開けます。
パッチン錠を外します。
蓋を開けます。
「一番、乾いてる」
「二番も」
「三番、少し水滴」
「袋は?」
「膨らんでおります」
「じゃあ外側」
漏れたところを探します。
溶接記録と照らします。
直します。
また走ります。
船は、川を調べる道具であると同時に、工場を育てる道具にもなりました。
◇ ◇ ◇
そのデータを使って、公用艇を作りました。
形は、ほとんど同じです。
白い船体。
大きな水玉。
ただし、公用艇は単色です。
一号艇は一色。
二号艇は別の一色。
三号艇は、また別。
艇が増えるたび、水玉の色を変えます。
遠くから見ても、どの艇か分かります。
六色全部を使うのは、公爵家の私用艇だけ。
「今日の便、どの水玉?」
そんな聞き方でも通じるようになりました。
◇ ◇ ◇
ギルドから、強い反対は出ませんでした。
理由はいくつかあります。
まず、この船は公国の公用交通です。
新しく独立した国が、自分の港と周辺都市を結ぶために運航します。
それに、古い荷船の仕事を全部取るつもりもありません。
大量の穀物。
木材。
石材。
樽。
そういう重い荷物は、今までの船の方が向いています。
水玉船が得意なのは、人。
郵便。
急ぐ小荷物。
研究者。
役人。
少量の薬。
そして、時間を決めた運航です。
何より、航路を決めるときから船頭さんたちが参加していました。
自分たちの経験が、新しい地図に使われています。
空からの写真は、自分たちにも役に立ちました。
「これなら、昔の船も通りやすくなりますな」
老人の船頭さんが、新しい航路図を見て言いました。
「水位の記録も続けるよ」
「それはありがたい」
「じゃあ、ギルドも使って」
「使わせていただきます」
勝ち負けではありませんでした。
空から見えるもの。
水の上から分かるもの。
両方を合わせた方が、川は使いやすくなります。
◇ ◇ ◇
最初に定期運航を始めたのは、ストラスブール方向でした。
エルレンフェルトの港を出ます。
ラインを下ります。
ケールへ寄ります。
そこからストラスブールへ。
そして戻ります。
「一時間に一本」
商工会長が聞き返しました。
「一時間に一本、でございますか」
「日の出から、日の入りまで」
「冬は少なくなりますな」
「暗い中を無理に走らない」
「それなら、よろしいかと」
毎正時、というほど現代の時計に縛らせません。
港の時計と鐘を基準に、だいたい一時間ごと。
水位や流れで遅れることもあります。
でも、次がいつ来るか分からない船ではありません。
待っていれば来ます。
それだけで、今までとは違います。
朝。
最初の単色水玉艇が出ます。
次の艇が準備します。
戻ってきた艇は燃料と機関を確認します。
船室を掃除します。
浮室の点検は、定めた間隔で行います。
次の時間。
また一艇。
白い船体に、大きな水玉。
公国旗。
公国紋章。
港の人たちは、すぐ見慣れました。
◇ ◇ ◇
もう一本の路線は、バーゼルです。
こちらは、同じようにはいきません。
上流です。
流れに逆らいます。
距離もあります。
二十キロワットのディーゼルがあっても、川は急に平らにはなりません。
「一時間に一本は無理」
「それは最初から無理でございます」
船頭さんが即答しました。
「一日一往復?」
「それなら」
朝、エルレンフェルトを出ます。
上流へ。
流れの弱いところを拾います。
船頭さんの経験が、そのまま時間になります。
写真で見た航路。
水位。
風。
流れ。
全部を見ます。
バーゼルへ着きます。
人と荷物を降ろします。
少し休みます。
そして帰りは、流れに乗ります。
「帰り、速い」
「川が手伝っておりますので」
「行きも手伝ってほしい」
「川へ頼んでください」
「聞いてくれるかな」
「たぶん聞きませんな」
どろちゃんは笑いました。
◇ ◇ ◇
こうして、エルレンフェルト公国には、二本の水上路線ができました。
ケール経由ストラスブール線。
日の出から日の入りまで、およそ一時間に一本。
バーゼル線。
一日一往復。
河口までの写真はあります。
航路図もあります。
必要なら調査艇で行けます。
でも、毎日の仕事は、近いところから始めました。
国ができたからといって、突然すべてが大きくなるわけではありません。
国境は昨日と同じ。
畑も同じ。
町も同じ。
川も同じ。
変わったのは、旗ができたこと。
紋章ができたこと。
法律を紙に書いたこと。
外国の軍隊が勝手に通れないことを、もっとはっきりさせたこと。
そして、白い船に大きな水玉を付けて、一時間ごとにストラスブールへ向かうようになったことでした。
夕方。
日の入り前の最後の便が、港を離れます。
単色の大きな水玉が、川の上を小さくなっていきます。
少し離れたところには、六色水玉の公爵艇が止まっています。
「国になったね」
どろちゃんが言いました。
隣にいたお父様は、川を見たまま答えました。
「船を見て言うことか?」
「だって、国旗ついてる」
「法律でも見ればよいだろう」
「あれ、字が多い」
「お前も決めただろう」
「うん」
お父様は少し笑いました。
「まあ、よい」
最後の水玉船が、曲がった川の向こうへ消えました。
明日の朝になれば、また最初の一便が出ます。
エルレンフェルト公国の最初の公共交通は、鉄道でも馬車でもなく、ライン川を走る白い水玉船になったのでした。




