33コウノトリちゃんでバーゼルへ ヤコブ ベルヌーイ先生に会います フランソワさんも初操縦桿です
第33章 コウノトリちゃんでバーゼルへ
ライデン大学へ持って行くFRP製のウイングレットが一組増えたころ、エルレンフェルトの工場では、もう一つの仕事が終わりに近づいていました。
大きな飛行機ではありません。
主翼も、胴体も、脚も、工場で作ったものです。
操縦系統も、燃料系統も、座席も、風防も、こちらで作りました。
ただし、全部ではありません。
神様から届いた箱には、エタノールで動くようにしたエンジンと、主要な計器、必要な電子部品、それに図面が入っていました。
そこから先を、工場の人たちが作りました。
神様から完成機をいただいたミツバチちゃんとは違います。
こちらは、難しいところだけ助けてもらえば、同じものを工場でもう一度作れます。
OKA-38系の、小さな連絡機です。
どろちゃんは、ずいぶん前から名前を決めていました。
「コウノトリちゃん」
工場長も、もうその名前で呼んでいます。
「では、コウノトリちゃんの胴体を先に運びます」
「うん。翼は別で」
工場で全部を組み上げて飛ばすのではありません。
機体は、もう一度運搬できるところまで分けられました。
胴体。
左右の主翼。
尾翼の一部。
そのほか、運搬中に傷めやすいもの。
それぞれを台車へ載せます。
馬に無理をさせないよう、何台かに分けました。
行き先は子爵家です。
家の飛行場には格納庫があります。
ミツバチちゃんを入れる大きな格納庫とは別に、小さな機体を収める建物もありました。
コウノトリちゃんの最後の組立は、そこで行います。
◇ ◇ ◇
翼を付けます。
支柱を付けます。
操縦系統をつなぎます。
燃料系統をつなぎます。
そして、つないだから終わりにはしません。
一度動かします。
戻します。
もう一度動かします。
左右で同じか確かめます。
ロックが所定の位置まで入っているか確かめます。
どろちゃんの頭の中では、何人もの技師さんが同じところを見ていました。
――そこ、もう一度。
「うん」
――今度は右。
「はい」
――いいね。
フランソワさんは少し離れたところで見ていました。
「翼は、毎回外すのでございますか」
「外さないよ」
どろちゃんは主翼の付け根を指しました。
「後ろへ畳めるの」
「格納庫へ入れるときだけでございますか」
「うん。でも、飛んですぐには畳まない」
飛行後は、まず翼を広げたまま点検します。
前縁。
後縁。
翼根。
支柱。
ヒンジ。
ロック。
操縦系統。
前縁のスラットと、後縁の隙間を使うフラップも見なければなりません。
異常がないことを確かめてから、翼を後ろへ畳みます。
「畳んじゃうと見にくいところがあるから」
「なるほど」
三つの座席も付きました。
どろちゃんが前。
フランソワさんがその近く。
もう一人を乗せられます。
医師一人。
薬の箱。
手紙。
小さな部品。
そういうものを、短い草地へ運ぶための飛行機でした。
長距離機ではありません。
速さも、だいたい時速百二十キロメートルほどです。
けれど、降りる場所をあまり選びません。
この世界では、それだけでも十分に役に立ちます。
◇ ◇ ◇
最初の日は、飛びませんでした。
エンジンを始動します。
止めます。
また始動します。
計器を見ます。
少し動かします。
まっすぐ走ります。
戻ります。
別の速度でも走ります。
曲がります。
止まります。
尾輪式の飛行機は、地上で気を抜くとすぐに人を困らせます。
どろちゃんは何度か短い地上走行を繰り返しました。
次に、機体を固定して、少し長くエンジンを回します。
温度。
振動。
燃料。
回転。
漏れ。
異音。
全部を見ます。
その日は、それで終わりました。
翌日。
もう一度点検します。
もう一度地上を走ります。
それから、どろちゃんは飛ぶことにしました。
特別な短距離離陸試験をするつもりはありません。
記録を作るつもりもありません。
普通に離陸するだけです。
「行きます」
フランソワさんは地上に残りました。
工場の人たちも、少し離れたところから見ています。
どろちゃんは機首を風へ向けました。
出力を上げます。
コウノトリちゃんが走り出しました。
思ったより早く、操縦桿が軽くなります。
前輪はありません。
尾が上がります。
速度が乗ります。
そして、百メートルになる前に、車輪が地面から離れました。
「上がった」
――上がったね。
「普通にやっただけだけど」
――だからいいんだよ。
低いところで急なことはしません。
まっすぐ上がります。
高度を取り、ゆっくり旋回します。
操縦の重さ。
舵の効き。
エンジンの様子。
振動。
計器。
一つずつ見ます。
大きな問題はありませんでした。
着陸も、記録を作るような降り方はしません。
広いところへ、普通に降りました。
地上へ戻ってからが、もう一つの試験です。
翼はまだ畳みません。
どろちゃんと工場の人たちは、機体を囲みました。
翼の前縁。
後縁。
フラップの隙間。
スラット。
支柱。
翼根。
ヒンジ。
ロック。
操縦索。
脚。
エンジンの取付部。
漏れ。
緩み。
擦れ。
飛ばす前にはなかったものがないかを探します。
何も見つからないことも、立派な結果です。
点検が終わってから、ようやく翼を後ろへ畳みました。
小さな格納庫へ、コウノトリちゃんがすんなり入りました。
「これは便利」
――飛ばす方でも便利だよ。
「うん」
◇ ◇ ◇
数日後。
今度は、フランソワさんが操縦席に座っていました。
「今日は触っていいよ」
フランソワさんが、どろちゃんを見ました。
「本当に、でございますか」
「今日は二人だけだから」
コウノトリちゃんには三つの席があります。
けれど、フランソワさんが操縦するのは、どろちゃんと二人だけで乗っているときに限ることにしました。
三人目を乗せて、まだ訓練中の人に操縦させる必要はありません。
まず、地上です。
操縦装置。
計器。
エンジンの始動と停止。
ブレーキ。
方向の変え方。
尾輪式なので、地上走行はむしろ丁寧にやりました。
そのあと、どろちゃんが離陸します。
十分に高度を取ります。
姿勢を安定させます。
「じゃあ、持って」
「はい」
フランソワさんが操縦桿を握りました。
「強く動かさなくていいよ」
「はい」
「前を見て。計器だけ見ないでね」
「はい」
機首がほんの少し下がりました。
「あ、下がりました」
「戻しすぎないで。そのくらい」
「……このくらいでございますか」
「うん」
しばらくすると、コウノトリちゃんはほぼ同じ高さを保って飛ぶようになりました。
浅い旋回。
まっすぐ。
少し上昇。
少し降下。
着陸は、まだどろちゃんです。
離陸も、当分はどろちゃんがやります。
けれど、水平飛行をしばらく任せられるだけでも意味があります。
遠くへ行けば、どろちゃんも食事をします。
ミツバチちゃんでも、安定した水平飛行なら短い間フランソワさんへ任せられるようにしておけば、操縦席でパンを食べるくらいはできます。
コウノトリちゃんは、巡航で時速百二十キロメートルほどです。
向かい風が強ければ、地面の上を進む速さが八十キロメートル毎時くらいまで落ちることもあります。
三百二十キロメートルも飛べば、お腹もすきます。
ただし、それはこの飛行機にはかなり長い旅です。
パリまで行く飛行機ではありません。
地図を広げると、使いやすい範囲はもっと近くにありました。
ストラスブール。
バーゼル。
ナンシー。
チューリヒ。
ジュネーヴ。
フランクフルト。
ヴォルムス。
そのあたりです。
遠くへ速く運ぶのではなく、近くの町や短い草地へ、必要な人と物を運ぶ。
コウノトリちゃんは、そういう飛行機でした。
◇ ◇ ◇
そのコウノトリちゃんに、さっそく行き先ができました。
ロンドンから手紙が来ました。
ろばーとっちからです。
どろちゃんは封を開けて、最初から最後まで読みました。
「バーゼル」
フランソワさんが顔を上げました。
「どなたからでございますか」
「ろばーとっち。ベルヌーイ先生が、私と話したいって」
フックとベルヌーイ先生の間では、すでに手紙が何度か行き来していました。
突然知らない数学者のところへ押しかけるわけではありません。
向こうも、どろちゃんが来ることを知っています。
「バーゼルでしたら、お近いですね」
「うん。ここからなら、ストラスブールから行くより二十キロくらい近いよ」
エルレンフェルトは、ストラスブールからライン川を渡ってケールへ出て、そこから南へ下ったところにあります。
ストラスブールから家までは、およそ二十キロメートル。
ですからバーゼルへ向かうなら、そのぶんだけ最初から南にいます。
この世界の地図では、エルレンフェルトからバーゼルまで百キロメートルもありません。
船なら、ライン川を上って一日ほど。
コウノトリちゃんなら、ずっと短い時間で着きます。
「これで行こう」
「かしこまりました」
どろちゃんは教授服を用意しました。
フランソワさんは、いつもの侍女服です。
大学へ数学の話をしに行くので、どろちゃんは大学の教授として行きます。
ただし、鞄には数学の紙だけを入れたわけではありませんでした。
薬剤医師になってから、短い旅行でも最低限の診察道具を持つことが増えています。
顕微鏡。
採血器具。
検体容器。
薬。
そして、最近、神様が薬剤医師のお祝いとしてくださった新しい検査装置。
PCRです。
「これ、持っていくの?」
――持っていけば?
「近いしね」
何かあっても、持ち帰ればいいだけです。
◇ ◇ ◇
バーゼルが見えてきました。
コウノトリちゃんは、町の上へいきなり降りません。
どろちゃんは大学の位置を確かめ、広場の上を一度通りました。
人。
馬。
荷車。
建物。
旗。
屋根。
この時代なので、上空に電線はありません。
それでも、飛行機にとって町の広場は何もない場所ではありません。
「もう一回見るね」
「はい」
もう一周します。
地上でも、大学側の人たちがこちらに気づいていました。
広場の空いている側へ人が寄らないよう、何人かが動き始めます。
どろちゃんは風を見ました。
「いける」
進入します。
コウノトリちゃんは、広場へ降りました。
長い滑走は必要ありません。
速度を落とし、そのままゆっくり走って止まります。
エンジンを止めると、それまでプロペラの音に押されていた町の音が戻ってきました。
人の声。
馬の蹄。
遠くの鐘。
そして、かなりの数の見物人です。
「先に囲おう」
「はい、お嬢様」
二人は機体から杭と縄を出しました。
コウノトリちゃんの周囲へ、手を伸ばしても届かないだけの距離を取って杭を立てます。
縄を張ります。
札も出しました。
この世界の共通文字で書いてあります。
英国伯爵
ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト所有
立入禁止
機体のいかなる部分にも触れないこと
大学から来た警備員にも、どろちゃんは念を押しました。
「縄の中には、誰も入れないでください」
「承知いたしました」
「見るだけでも、中には入れないで」
「はい」
「飛行機のどこにも、触らせないでください」
「承知いたしました」
翼だけではありません。
支柱でもありません。
尾翼でもありません。
車輪でもありません。
どこにも触らせません。
飛行機は、触った本人が「何もしていない」と思っていても、操縦する側から見れば話が違うことがあります。
警備員が配置についたところで、どろちゃんとフランソワさんは大学の建物へ向かいました。
◇ ◇ ◇
玄関まで迎えに来た人の中に、ベルヌーイ先生本人がいました。
「エルレンフェルト伯爵」
「ベルヌーイ先生」
挨拶をしたところで、先生が小さく咳をしました。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
どろちゃんの目が、数学者を見る目から薬剤医師の目へ少し変わりました。
「先生、その咳、いつからですか」
「さて。しばらく前からですが」
「熱は?」
「時々」
「体重は減りました?」
ベルヌーイ先生が、少し考えました。
「数学の話をするためにお呼びしたのですが」
「それはします」
「その前に?」
「診せてください」
フランソワさんは、もう鞄を開ける準備をしていました。
大学の客用の小さな応接室を借ります。
ベルヌーイ先生は寝込んでいるわけではありません。
自分で歩いています。
今日もこのあと講義があります。
ただ、時々咳が出ます。
どろちゃんは話を聞きました。
いつから。
どのくらい。
夜はどうか。
食欲。
熱。
疲れ方。
体重。
痰。
それから診察します。
胸の音も聞きます。
体温を測ります。
脈を取ります。
痰も少しもらいました。
「顕微鏡を使います」
「ここで?」
「はい」
処理した検体を顕微鏡で見ます。
ベルヌーイ先生も、当然のように横から見たがりました。
「見ます?」
「ぜひ」
「でも、見えた形だけで病名は決めませんよ」
「なぜです」
「似たものがあるからです。見た目だけで名前を決めると間違えます」
先生が接眼部をのぞきました。
どろちゃんは、見えているものについて説明しました。
それから、もう一つの小さな装置を机へ出しました。
「こちらで確かめます」
「何をする機械ですか」
「説明がちょっと大変です」
「時間ならあります」
「先生、このあと講義でしょう」
「少しくらいなら」
どろちゃんは困りました。
ベルヌーイ先生にPCRを説明するには、PCRだけ説明しても足りません。
体の中に、形を作り、働きを伝えるための情報を持つ物質があること。
そこには順序があります。
その順序の一部を目印にして、調べたいものだけを見つけます。
両側を決める短い目印を使い、温度を変えながら複製を繰り返します。
「一回で、だいたい二つ」
ベルヌーイ先生が言いました。
「次は四つ」
「はい」
「八つ、十六、三十二」
「そこは速いですね」
「数学ですから」
「でも、その前の生き物のところが大変なんです」
ベルヌーイ先生は笑いました。
「そこをもう一度お願いします」
説明している間にも、神様のPCRは仕事を進めていました。
この装置は速いです。
そして、判定も正確です。
ほどなく結果が出ました。
どろちゃんは表示を見ました。
もう一度確認します。
「先生」
「はい」
「結核です」
ベルヌーイ先生は、しばらく黙りました。
「確定ですか」
「はい」
「ずいぶん早い」
「神様の機械なので」
どろちゃんは薬を出しました。
一種類だけではありません。
結核は、少し飲んで咳が止まったら終わり、という病気ではありません。
「いくつか一緒に使います。途中で勝手にやめないでください」
「どのくらい?」
「長くかかります」
「講義は?」
「体調を見ながらです」
「研究は?」
「体調を見ながら」
「会議は?」
「それもです」
先生が少し困った顔をしました。
「全部同じ答えですね」
「病気は先生の予定表を見てくれませんから」
薬だけではありません。
睡眠。
食事。
体重。
熱。
咳。
痰。
無理をした翌日に悪くならないか。
記録をつけてもらいます。
そして、どろちゃんはもう一つ頼みました。
「髪も少しください」
「髪?」
「それと、血ももう少し」
「結核の検査は終わったのでは?」
「終わりました。でも、別のものも見ておきたいんです」
結核が見つかったからといって、体調の悪さを全部そこへ押し込める必要はありません。
毛髪と血液は分けて保存します。
半分は、あとで水銀とヒ素を調べます。
残りは保存です。
結果が出るまでは、何も決めません。
怪しいから調べる。
それだけです。
フランソワさんが、容器へ丁寧に札を付けました。
◇ ◇ ◇
診察が終わると、ようやく数学の時間になりました。
「では、本来の用事を」
ベルヌーイ先生が紙を出しました。
「はい」
どろちゃんも椅子へ座り直します。
話は、確率へ入りました。
同じ条件で何度も繰り返すこと。
起こる、起こらない。
その回数。
割合。
試行を増やしたとき、その割合がどうなるか。
どろちゃんは途中まで、ほとんど止まりませんでした。
「ここまでは?」
「分かります」
「では、これなら」
「それも」
ベルヌーイ先生が、どろちゃんを見ました。
「どこで習いました?」
「学校です」
「十五歳で?」
「飛び級だったので」
ロシアにいたころから、どろちゃんは年上の子に混じって授業を受けていました。
後の時代に整理された確率論も、かなり先まで知っています。
ベルヌーイ試行と呼ばれるものも。
さらに後のラプラスにつながるような確率の扱いも。
数学的帰納法も。
ベルヌーイの不等式も。
ただし、知っている結果と、ベルヌーイ先生本人がそこへ至る道筋は同じではありません。
先生が独自の証明へ入ると、どろちゃんは止まりました。
「そこ、待ってください」
「ここですか」
「はい。結果は知ってるけど、その行き方は知らない」
「結果を?」
「……学校で」
「ずいぶん便利な学校ですね」
「遠いところなので」
それ以上は言いませんでした。
話はまた進みます。
しばらくすると、ベルヌーイ先生が別の紙を出しました。
そこには螺旋が描かれていました。
どろちゃんの目が少し変わりました。
「あ、これ好き」
「この曲線を?」
「うん。ツメタガイの殻が、こんな感じなの」
「貝ですか」
「丸くて、つるっとしてて、巻いてるでしょう」
「私は対数螺旋の話をしているのですが」
「形から好きになってもいいでしょう」
ベルヌーイ先生は紙を見ました。
どろちゃんも見ます。
数学の螺旋。
貝殻の巻き方。
大きくなっても、形の感じが変わりにくいもの。
同じ線を、二人は少し違うところから見ていました。
「大きさが変わっても――」
「似た形が続く」
「ご存じなのですね」
「そこは分かります」
「では、こちらは?」
「……ちょっと待って」
今度は、どろちゃんが紙を自分の方へ引きました。
三十分ほどは、あっという間でした。
扉が控えめに叩かれました。
「先生」
大学の人が顔を出します。
「そろそろ講義のお時間です」
「ああ」
「そのあと、会議もございます」
ベルヌーイ先生が時計を見ました。
「もうですか」
どろちゃんも見ました。
「じゃあ、今日はここまでですね」
「まだ途中なのですが」
「私も続きは聞きたいです。でも先生、講義があるでしょう」
「ええ」
「それと、無理しないでくださいね」
「講義は休めませんよ」
「講義は仕方ないです。でも、咳が増えたら会議は途中で帰ってください」
「数学の話をしていたはずなのですが」
「診察もしました」
ベルヌーイ先生が少し笑いました。
「次はいつ来られます?」
「お薬の様子を見るころに」
「数学のためではなく?」
「両方です」
それで、いったん解散になりました。
ベルヌーイ先生は講義へ。
どろちゃんとフランソワさんは、飛行機へ戻ります。
◇ ◇ ◇
大学の広場が見えてくると、少し様子がおかしいことに気づきました。
コウノトリちゃんの周囲に張った縄は、そのままです。
警備員もいます。
ただ、その警備員と、一人の男が揉めていました。
「見るだけだと言っているでしょう」
「中へは入れません」
「触りません」
「それでも入れません」
「私はこの大学の者です」
「どなたでも同じです」
警備員は、きちんと仕事をしていました。
男は飛行機を指しました。
「翼の構造だけでも見たいのです」
「縄の外からご覧ください」
「これでは細部が見えない」
「それでも入れません」
そこへ教授服のどろちゃんが戻ってきました。
警備員が気づきます。
「伯爵閣下」
「どうしました?」
「こちらの方が、機械を近くで見たいと」
男が振り向きました。
「あなたが持ち主ですか」
「はい」
「少し近くで見るだけです。触りません」
「だめです」
どろちゃんはすぐに答えました。
「今日はもう帰ります」
「翼だけでも」
「今日はだめです」
「では次に来られたときに」
「そのとき、見せられる状態なら」
約束まではしません。
飛行機は見世物ではありません。
男はまだ惜しそうに見ていましたが、持ち主本人にも断られて、ようやく離れていきました。
どろちゃんは警備員へ向き直りました。
「誰も縄の中へ入れてないんですね?」
「はい。一人も」
「飛行機にも?」
「誰も触れていません」
「ありがとうございます」
どろちゃんは、少しほっとしました。
それから、小さな紙袋を出しました。
「これ、お礼です」
「いえ、そのような――」
「受け取ってください。ずっと守ってくれたでしょう」
ポチ袋です。
中には、現代の感覚なら百ドルほどに相当するチップが入っていました。
さらに、どろちゃんはフランソワさんを見ます。
「配る方のお菓子、まだある?」
「はい、お嬢様」
フランソワさんが、別の袋を出しました。
神様が用意してくれた、ちょっとした配布用のお菓子セットです。
特別な宮廷用の高級菓子ではありません。
小袋のチョコレートやビスケット、ウエハースなどがいろいろ入っています。
その中には、ブルボンのお菓子も混じっていました。
「皆さんでどうぞ」
「これは、英国のお菓子でございますか」
警備員が尋ねました。
どろちゃんは袋を見ました。
そこには見慣れた文字で、
BOURBON
とあります。
英国伯爵から、バーゼル大学の警備員へ渡されるブルボンのお菓子です。
「……おいしいですよ」
説明は、それだけにしました。
警備員は、ポチ袋と菓子の袋を持って、もう一度深く頭を下げました。
◇ ◇ ◇
すぐには縄を外しません。
どろちゃんは、まず外側から機体全体を見ました。
人が寄っていないこと。
明らかな傷がないこと。
何かが引っかかっていないこと。
異常がないことを確かめます。
それから杭を抜き、縄を片づけました。
ここから、改めて飛行前点検です。
脚。
タイヤ。
翼。
前縁。
スラット。
後縁。
フラップ。
支柱。
翼根。
ヒンジ。
ロック。
操縦面。
エンジン周り。
燃料。
漏れ。
何も問題はありません。
「大丈夫」
「はい」
二人は乗り込みました。
エンジンを始動します。
広場へ、プロペラの音が広がりました。
見物人がもう少し下がります。
風は南から吹いていました。
帰る方向は北です。
つまり、そのまま北へ走れば追い風になります。
離陸するときは反対です。
「南向いて出るね」
「はい」
どろちゃんはコウノトリちゃんを風上へ向けました。
機首は南です。
出力を上げます。
走り始めます。
向かい風が、すでに翼へ空気を流しています。
二十メートル。
三十メートル。
四十メートルほどで、車輪が広場から離れました。
無理に短くしたわけではありません。
普通に離陸したら、今日はそのくらいで浮きました。
どろちゃんは、そのまましばらく南へ上がります。
地面から十分に離れます。
速度も高度も取ります。
それから、ゆっくり旋回しました。
半周。
機首が北を向きます。
「これで帰る方向」
「はい」
さきほど正面から受けていた風が、今度は後ろから押してくれます。
コウノトリちゃんの空気に対する速さは大きく変わりません。
けれど、地面の上を進む速さは上がりました。
フランソワさんが、横の景色を見ます。
「行きより速いですね」
「追い風だからね」
バーゼルの町が、後ろへ流れていきます。
大学の広場も、すぐに小さくなりました。
そこには、今日ずっと飛行機を守った警備員と、ポチ袋と、ブルボン入りのお菓子セットが残っています。
どろちゃんの鞄には、ベルヌーイ先生の毛髪と血液があります。
結核は、もう確定しました。
薬も始めました。
けれど、持ち帰った検体には、まだ調べることがあります。
数学の紙も入っています。
途中まで話した確率。
対数螺旋。
続きは、次に来たときです。
家までは百キロメートルもありません。
しかも、今日は追い風です。
「早く帰れそう」
「そうでございますね」
どろちゃんは機首を北へ合わせました。
コウノトリちゃんは、来たときより速く、エルレンフェルトへ帰っていきました。




