32貴族令嬢は帰りにライデンによります ライデン大学の独自グライダー開発のお話
第32章 貴族令嬢は帰りにライデンへ寄ります
土地を見終わると、馬車はタドポール君の待つ草地へ戻りました。
そのままエルレンフェルトへ帰るつもりはありません。
「次はライデンね」
フランソワさんは、驚きませんでした。
「大学へお寄りになる予定でございましたね」
「うん。ロンドンで増えた紙を置いていく。それと、今日は海の上を少し長く滑空してみたいの」
フックが、どろちゃんを見ました。
「帰路の途中で実験ですか」
「実験というほど大げさじゃないよ。海の上でエンジンを止めたとき、タドポール君がどんなふうに高度を使うか、ちゃんと感じてみたいの。陸の上みたいに地形で上昇気流を探せないでしょう」
「海峡を渡るだけなら、前にもしています」
「前は渡ることが目的だったもの。今日は、飛ぶことそのものを見たいの」
頭の中から声がしました。
――完全な無音ではないよ。風の音はする。
「分かってる。エンジンの音がない、っていう意味」
――それならいい。
フランソワさんが聞きました。
「海の上で、わざわざエンジンをお止めになるのでございますか」
「余裕のあるところだけね。高度も取るし、再始動できる範囲でやる。海の上で何かを証明したいわけじゃないよ」
「それでしたら、わたくしは止めません」
「よかった」
「ただし、無理をなさらないことが条件でございます」
「それ、技師さんたちと同じ」
――いい条件だね。
「三対一になった」
フックが言いました。
「私は数に入っていないのですか」
「ろばーとっちは地上係」
「そうしておきましょう」
フックが聞きました。
「どの紙です」
「研究所の話。病原菌を扱う建物の案。それから昨日の人たちと話したこと。ラダックの高地の話も」
「爵位の文書は置いていかないでください」
「それは持って帰るよ」
「安心しました」
どろちゃんがライデンへ寄ることは、もう特別な出来事ではありません。
最初に十五歳で飛んで行ったころは、大学側も着陸場所から宿まで全部を準備しました。
いまは違います。
大学にはどろちゃんの研究室があり、彼女がいない日にも人が入り、記録を取り、実験を続けています。
エルレンフェルトでまとめた結果を持って行き、ライデンで集まった資料を読みます。
工房では、すでに完成したソアラーの飛行記録や改良箇所も確認します。
必要なら数日残ります。
その往復を、もう何度もしています。
今日も、帰り道の途中に大学があるから寄るだけでした。
飛行前の点検が終わります。
フランソワさんは後席へ戻りました。
「今度はライデンまで後ろ向きです」
「エルレンフェルトまでずっと後ろ向きでございます」
「そうだった」
『また言ってる』
「タドポール君まで」
フックが機体から少し離れました。
「次の手紙より先に着くでしょうね」
「たぶん」
「では、ライデンからこちらへ返事を出すときは、あなた自身より遅いことを前提にします」
「それがいいです」
「普通は逆なのですが」
「飛行機があるからね」
どろちゃんは風を見ました。
海を越えてネーデルラントへ向かうには、悪くない風です。
「行ってきます」
「今度は『帰ります』ではないのですね」
「まだライデンがあるから」
タドポール君が草地を走り、ロンドンの地面を離れました。
◇ ◇ ◇
海へ出る前に、どろちゃんは十分な高度を取りました。
海岸線の向こうは、陸の色が急に切れています。
町も畑もなくなり、下は水だけです。
「止めるよ」
後席へ声を送ります。
「はい」
ジェットを絞り、停止させます。
さっきまで機体の後ろにあった音が消えました。
残ったのは、風防の外を流れる空気の音と、機体のどこかが小さく鳴る音だけです。
静かでした。
地上から聞けば、もっと静かでしょう。
タドポール君は、海の上をそのまま滑っていきます。
『気持ちいいね』
「うん」
どろちゃんは速度を一定に保ちました。
高度計の針は、ゆっくり下がります。
陸の上なら、畑の色、森、斜面、町の屋根、煙の流れから、次に使えそうな上昇気流を探します。
海には、その目印がほとんどありません。
水面の色。
風でできた筋。
雲の影。
遠くの船。
けれど、それらは山の斜面のように、そこへ行けば上がれると教えてくれるものではありません。
――海面温度の違いもあるし、雲の下で流れが変わることもある。でも、今日は拾える上昇を前提にしない。
「うん。滑空だけを見る」
――その方が記録になる。
どろちゃんは時計を見ました。
一定の速度で、どれだけ高度が減るか。
風向き。
雲量。
水面の状態。
数字を書きながら、身体でも覚えます。
タドポール君は、エンジンを止めても飛行機でした。
何かに引かれて落ちているのではありません。
翼が空気を受け、少しずつ高度を距離へ換えながら進んでいます。
「海の上って、ほんとに地形がないね」
――当たり前だけど、飛ぶと実感するでしょう。
「うん。陸の上だと、無意識に地面を読んでる」
――それが分かっただけでも意味があるよ。
しばらくして、どろちゃんは再始動しました。
海の上で、限界まで滑空を続ける必要はありません。
今日知りたいのは、帰れなくなる境目ではなく、余裕のある飛行の中で何が見えるかでした。
◇ ◇ ◇
北海側の低地が近づくと、地面の形が変わります。
大きな山はありません。
水路が増え、川が枝分かれし、牧草地が水の間へ細く残ります。
山も大きな丘もありません。
その代わり、今日は雲の影がよく見えました。
雲が一つ通ると、その下の畑だけ色が暗くなります。
少し前まで日を受けていた地面が冷え、上へ動いていた空気が弱くなる。
影の外では、まだ日を受けている草地や乾いた道、建物の多い場所の方が少し暖かく残ります。
「平らでも、空気は平らじゃないんだ」
――そういうこと。
「山がないから単純、ではないね」
――むしろ地形の助けが少ないぶん、日射と雲の影が見えやすいこともある。
どろちゃんは、雲の縁と地上の影を交互に見ました。
同じ牧草地でも、日向と日陰で空気の動きが同じとは限りません。
大きな積雲の下なら、上昇している場所の手がかりになることがあります。
けれど雲が厚く広がって地面を長く陰らせれば、その下で新しく生まれる上昇気流は弱くなります。
今日は、山の斜面ではなく、雲が地面へ作る時間差を見ています。
どろちゃんは地図の余白へ、雲の位置と影の流れも書き込みました。
初めて来たときには、その水路の多さに地図を合わせるだけでも苦労しました。
今では、迷いやすい場所まで覚えています。
「前は、ここでどの水路か分からなくなった」
後席からフランソワさんの声が返りました。
「いまは分かるのでございますか」
「分かる。あの曲がり方をするのがこっちで、その先に町が見えるでしょう」
「わたくしには、水がたくさんあるようにしか見えません」
「最初は私もそうだったよ」
町の南東に、見慣れた牧草地が見えてきました。
白い目印があります。
吹き流しも出ています。
大学へ事前に知らせてありますが、大勢が見物に集まることはありません。
タドポール君が来ること自体は、もうライデン大学の日常から完全に外れた事件ではなくなっていました。
もちろん、空から教授が来る大学は、ほかにほとんどありません。
着陸すると、大学の工房から二人が荷車を引いてきました。
「お帰りなさい、教授」
「ただいま」
どろちゃんは普通に答えました。
初訪問の歓迎式典はありません。
馬車も、特別な客用の宿も要りません。
ところが、今日はどろちゃんよりフランソワさんの方に人が集まりました。
「あ、フランソワさんも来ている」
工房から出てきた学生の一人が気づきました。
もう一人も、タドポール君の後席から降りたフランソワさんを見て笑います。
「今回は一緒だったのですね。海を越えて、ずっと後ろ向きでしたか」
「はい。今回も機体に対しては、ずっと後ろ向きでございました」
「酔いませんでした?」
「もう慣れました」
どろちゃんは横から言いました。
「私より強いかも」
「お嬢様が操縦しておられる間に酔われたら困ります」
「それもそうだ」
学生たちは、どろちゃんが来ることにはもう慣れています。
空から教授が降りてくること自体は相変わらず普通ではありませんが、何度も見れば人は慣れます。
けれどフランソワさんは、どろちゃんほど頻繁に大学へ来るわけではありません。
「前に教えていただいた、領地のお菓子の名前を覚えました」
一人の学生が言いました。
「本当でございますか」
「たぶん」
「教授と同じことをおっしゃいますね」
「それは困る」
「どういう意味?」
どろちゃんが聞くと、学生は一瞬だけ姿勢を直しました。
「よい意味です、教授」
「いま考えたでしょう」
「少しだけ」
フランソワさんが笑いました。
大学へ行けば、どろちゃんには自分の部屋があります。
その前に、どろちゃんは工房の横へ寄りました。
屋根のある機体置き場に、細長い翼が見えています。
ライデンの研究者たちが作ったソアラーです。
最初のプライマリーグライダーとは、もう形が違います。
翼は長くなり、胴体も滑らかになりました。
けれど、タドポール君のような細長い翼を、そのまま木で真似した機体ではありません。
使える木材。
接着剤。
金属継手。
索材。
外皮。
それぞれの強さと、加工のばらつきを見ながら、翼幅は無理をしないところで止めています。
それだけではありません。
主翼の桁は、軽さより先に十分な強さを取りました。
降着装置も、着陸のたびに扱いを神経質にするような細いものにはしていません。
操縦席の前には、機首の形を保ち、乗る人を守るための骨格があります。
そこへ、水滴型の風防が付きました。
これはライデンで急に作ったものではありません。
まだエルレンフェルトの工場ができて間もないころ、ライデン大学から図面が届き、どろちゃんの工房へ注文された風防です。
透明な材料を型へ沿わせて成形し、冷やし、外周を整えたあと、最後に磨いたのは、町で「風防磨きのおばさん」と呼ばれるようになった女工さんでした。
窓枠の線を透かして見て、ほんの少し像が揺れるところまで見つけて磨き直した、あの風防です。
大学へ送られた最初期の製品の一つが、いまはライデンのソアラーの顔になっていました。
「ちゃんと付いたんだ」
どろちゃんは風防の縁を見ました。
「ええ。視界もよいです。工房から付いてきた検査記録も残しています」
「おばちゃんに見せたいな」
頭の中で技師さんが笑いました。
――写真が撮れたらね。
どろちゃんは返事をしようとして、途中で口を閉じました。
また声に出すところでした。
「今日も飛んだ?」
どろちゃんが聞くと、工房の先生が帳面を持ってきました。
「午前に一度。昨日は二度です。風が弱かったので、滑空の測定には昨日より今日の方が使えます」
「十八くらい?」
「ええ。最もよいところで、ほぼその辺りです。十七を下回る飛行もありますが、条件を揃えた記録では十八前後まで来ています」
どろちゃんは帳面を受け取りました。
高度。
距離。
飛行時間。
風。
搭乗者。
離陸時の重量。
数字は一つだけではありません。
「翼をもう少し伸ばしたい人、まだいる?」
「います」
先生は笑いました。
「ですが、いまの桁で伸ばす案は通していません。滑空比を一つか二つ増やすために、毎回翼の根元を心配する機体にはしたくありませんから」
「その方がいいです」
「発航の方は?」
どろちゃんが聞くと、先生は工房の裏手を指しました。
「こちらです。直接、電動機で巻く案はやめました」
「やっぱり足りなかった?」
「計算すると、足りませんでした。大きくしても、いま作れるものでは発航の短い時間に必要な出力が出ません」
どろちゃんは少しうれしそうな顔をしました。
「ちゃんと計算したんだ」
「教授が、先に計算しろとおっしゃったので」
「言ったね」
工房の裏には、斜面へ沿って二本の鉄の線が延びていました。
ただの角材ではありません。
上を車輪が転がる頭部、その下の細い腹部、枕木へ載る広い底部を持つ、実際の鉄道用レールと同じ基本断面です。
木の枕木へ載せ、犬釘で押さえてあります。
二本の間隔は、一四三五ミリメートル。
どろちゃんが、これから試す鉄道の標準軌として選んだ寸法です。
「ずいぶん本気で作ったね」
「教授の図面どおりです」
レールの上には、低く頑丈な台車がありました。
左右の車輪は一つの車軸へ固定されています。
車輪の外側にはフランジがあり、踏面には鉄道車輪と同じようにテーパーが付けられていました。
台車の上には、石と鉄の重りを載せる場所があります。
必要な牽引力に合わせて、重りを足したり減らしたりできました。
学生が何人か付いてきました。
「これで飛行機を引くのですか」
一人が聞きました。
「直接、この台車を飛行機につなぐわけじゃないよ」
どろちゃんは斜面の下にある巻胴を指しました。
「台車が下る力を索で巻胴へ渡して、そっちから発航索を引くの。電動機は飛ばすときに頑張らせない」
「では、電動機は何をするのですか」
「飛ばす前に、台車を上へ戻すの」
学生は台車と斜面を見比べました。
「ゆっくりでよいのですか」
「うん。そこが大事」
別の学生が言いました。
「位置エネルギーを蓄えるのですね」
その横で、まだよく分からない顔をしている学生がいました。
どろちゃんはそちらも見ました。
「位置エネルギーって言われても、まだぴんと来ない?」
「少しだけ……」
「じゃあ、投石機を思い出して」
「トレビシェットですか」
「そう。大きな重りを上へ持ち上げてから落とすやつ」
何人かがうなずきました。
「重りを地面へ置いておいても、石は飛ばないでしょう。でも、人や馬が時間をかけて重りを持ち上げておけば、あとで一気に使える」
どろちゃんは地面へ棒で斜面と重りを描きました。
「持ち上げるときにした仕事が、なくなったわけじゃないの。高いところに置いてある間、使わずに残ってる。これを位置エネルギーって呼びます」
さっきの学生が、台車を見ました。
「この台車は、投石機の重りだけを使うのですね」
「そう。石を飛ばす腕はいらないから、取っちゃう」
学生たちが笑いました。
「でも、真下へ落とさないのですね」
「その方が扱いやすいから。斜面なら動きが見えるし、重りも載せ替えられる。途中で止める方法も作りやすいでしょう」
頭の中から声がしました。
――それから、索が切れたときのこと。
「そう。それが大事」
どろちゃんは、また声に出してから気づきました。
学生の一人が笑います。
「技師さんですか」
「うん。今のは声に出た」
斜面のレールは、いちばん下で終わっていませんでした。
そのまま平らなところへ長く延びています。
「発航中に索が切れたり、外れたりすると、台車の荷重が急になくなることがあります。そうすると、予定より速く下まで来る」
「だから平らなところを残すのですか」
「まず、ここで速度を落とす。でも鉄の車輪はよく転がるから、それだけでは止まらないことがある」
さらに先には、木枠で囲われた区間がありました。
中には砂がたっぷり入っています。
レールの頭まで、途中から砂へ埋もれていました。
「最後は、ここへ入れる」
「砂ですか」
「うん。ライデンにはたくさんあるでしょう」
台車が異常な速度で進んできたときは、砂を押しのけながら走らなければなりません。
そこで一気に抵抗が増えます。
「普段はここまで来ないように止める。ここは失敗したときの場所」
「車止めへぶつけるよりよさそうです」
「数トンの台車を、最後に木の棒一本で止めようとは思わないでね」
「はい」
どろちゃんは今度は車輪の方へしゃがみました。
「それと、この線路は発航だけに使わないよ」
「ほかにも使うのですか」
「せっかく本物の形で作ったんだもの」
車輪の踏面を指します。
「ここ、少し傾いてるでしょう」
「はい」
「左右の車輪は同じ軸に固定されてる。まっすぐ走っている台車が少し横へずれたとき、左右で転がる円の大きさが変わるの」
学生たちが車輪をのぞき込みました。
「フランジだけで線路に沿わせるんじゃないんですか」
「そこを実験しよう。フランジがいつもレールへ擦ってるなら、せっかく鉄の車輪にしたのに抵抗が増えるでしょう」
踏面の傾きを変えた輪軸。
フランジ形状の違う輪軸。
車輪径。
軸受。
枕木の間隔。
犬釘の緩み。
レールの継目。
測れるものはいくらでもあります。
「グライダーを飛ばすために作ったのに、鉄道の実験まで始まるのですね」
「大学って、そういうところでしょう」
先生が笑いました。
「教授がそういうところにしている気もします」
「それでもいいです」
どろちゃんは立ち上がりました。
発航装置として必要だった二本のレールは、同時に、ライデン大学最初の実物大鉄道試験線になっていました。
どろちゃんは翼端まで歩きました。
ライデンの主翼は、先へ行くほど細くなっています。
けれど、極端なテーパーではありません。
翼端を思い切って細くすれば、平面形だけなら誘導抵抗を減らす方向へ持っていけます。
その代わり、木で作る翼では先端へ行くほど桁の高さも取りにくくなり、強度と工作精度が苦しくなります。
この翼は、そこを無理していませんでした。
「だったら、ここに小さい翼を付けてみない?」
「小さい翼?」
どろちゃんは手で、翼端から上へ立ち上がる形を作りました。
「ウイングレット。翼端渦を少し弱くするためのもの。主翼そのものを細く作り直さなくても、ここだけ交換して比べられるでしょう」
先生は翼端を見ました。
「同じ機体のまま、ここだけですか」
「うん。効かなかったら外せばいいし、形を変えてまた飛べばいい」
頭の中から声がしました。
――これは比較しやすいね。
――ただし、最初から正解の形を教えない方がいい。
「分かってる」
先生が聞きました。
「何種類くらい試せばよいでしょう」
「とりあえず四つ。大きさと立て方を少しずつ変えてみよう。全部、取り付け位置と重さを記録して」
――それでいい。角度も面積も一度に大きく変えすぎないようにね。
「技師さんが、一度に条件を変えすぎるなって」
「それは実験として当然です」
「ですよね」
ライデンの人たちは、その日のうちに紙の上で四種類を描き始めました。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは、翌朝すぐには帰りませんでした。
ウイングレットの比較が始まったからです。
工房で作ったものは、どれも木の細い骨組みに布を張った小さな翼でした。
主翼そのものを作り直す必要はなく、翼端の取付部だけで交換できます。
一つ目を付ける。
飛ぶ。
外す。
二つ目を付ける。
また飛ぶ。
同じ搭乗者で、できるだけ近い重量にそろえ、風と気温を記録しました。
ウイングレットなしの飛行も間へ挟みます。
どろちゃんは数字を見ました。
「全部よくなるわけじゃないね」
「ええ。これはむしろ悪くなっています」
先生が一枚の記録を指しました。
「抵抗を増やしただけみたい」
――そういう失敗が大事なんだよ。
別の形では、最大滑空比が少し良くなりました。
しかし低速での扱いが変わり、操縦者は旋回の入り方が違うと言います。
三つ目では、その変化が小さくなりました。
四つ目まで飛ばすころには、研究者たちは帳面を何冊も開き、翼端形状の絵と数字を横へ並べていました。
飛行試験だけではありません。
四種類の翼端模型は風洞にも入りました。
飛行中に感じた差と、条件をそろえた模型試験で出る差を重ねていきます。
「これ、何となく同じ方向へ動いていませんか」
一人が言いました。
「高さだけではないですね。立て方を変えたときの方が、変化が大きい」
「でも大きくしすぎると、重さと表面の抵抗が戻ってくる」
「付け根のところも急に折らない方がよさそうです」
どろちゃんは口を挟みませんでした。
頭の中では、技師さんたちが全部聞いています。
――気づいたね。
――うん。もう次は自分たちで作れる。
やがて先生が、新しい紙を一枚出しました。
「五つ目を作ります」
「どんなの?」
「いままで四つで良かったところだけを寄せます。ただし大きくしすぎません。今の翼端で支えられる重さにします」
どろちゃんは笑いました。
「それがいいです」
五つ目は、どろちゃんが図面を描きませんでした。
ライデンの人たちが、四種類の失敗と成功から自分たちで形を決めました。
頭の中から声がしました。
――いいね。もう、こっちから正解の形を渡す必要はない。
「うん」
返事が、また口から出ました。
「何がです?」
「こっちの話です」
どろちゃんは、できあがりかけた五つ目の木製ウイングレットを見ました。
四種類の失敗と成功を比べて、ライデンの人たちが自分で決めた形です。
技師さんたちは、その寸法を覚えていました。
けれど、もう答えを先に渡すためではありません。
次に何を変えるかは、ライデン自身が決められるようになっていました。
◇ ◇ ◇
頑丈な主桁と実用的な降着装置、操縦席前方の骨格、それに既出の水滴型風防を備えたこのソアラーの、初期の滑空比は十八前後です。
細長さや軽さを競うための機体ではありません。
そして、木で作ったから十八なのでもありません。
最初の機体は、タドポール君などを見て「ソアラーはこういう形をしている」という外見上の特徴をかなり上手に写した機体でした。
ただし、未来の機体の構造まで木で写したわけではありません。
外から見える形を参考にしながら、中身はライデンの工房がよく扱える木材で、桁、リブ、胴体骨格、接合部を一から組み直しています。
知らない材料で外形だけを似せても、安全な機体にはなりません。
重さの分布が変われば重心が動き、同じ太さに見える部材でも曲がり方や壊れ方は変わります。接合部の作り方まで分からなければ、形が同じでも別の機械です。
だからライデンの人たちは、構造については無理に未来を真似せず、自分たちが強さを確かめられる木で作りました。
けれど、見た目を似せることと、空気の流れまで同じにすることは別です。
翼型、表面の滑らかさ、翼端の処理、主翼と胴体のつながり、細かな角度や曲面までは、まだ測って最適化していませんでした。
見た目はもう十分に流麗でした。
けれど、見た目が流麗なことと、滑空比が二十を越えることは別でした。
「十九までは行かない?」
「何度か条件のよい飛行では近い値が出ます。しかし、二十とは言えません」
先生は記録を閉じました。
「何を直せば二十へ近づくのか、その順番がまだ分からないのです」
どろちゃんは、そこで少し考えました。
「じゃあ、飛ばす前に空気を流してみようか」
「翼へ、ですか」
「模型へ。風洞を作ろう」
先生は、すぐには返事をしませんでした。
「風を作る建物ですか」
「うん。こっちには電気があるでしょう。うちの工場のモーターも使える」
頭の中から声がしました。
――小さい低速風洞なら、十分できるね。
――最初から大きな実機用はいらない。模型の比較ができればいい。
――送風機は測定部の後ろに置こう。風を押し込むより、吸って流した方が測定部をきれいにしやすい。
「技師さんたちも、できるって」
「では作りましょう」
返事が早いところは、もうライデン大学でした。
◇ ◇ ◇
風洞は石造りの大きな建物にはしませんでした。
木で長い箱を作り、入口では広く空気を集めます。
そのままでは流れが乱れるので、細かな仕切りと何枚かの網を通し、向きをそろえます。
そこから断面をゆっくり絞り、模型を置く測定部へ流します。
測定部の後ろでは、また少しずつ広げます。
いちばん下流に、どろちゃんの工場で作った電動機と送風機を置きました。
「これなら、飛行機を毎回飛ばさなくても比べられる」
「雨の日でもできます」
「夜でもできます」
「それは夜まで研究する理由にはしないでね」
学生が笑いました。
「教授がそれをおっしゃいますか」
「私は言っていいの」
「なぜです」
「教授だから」
「便利ですね」
フランソワさんが少し離れたところから聞いていました。
「お嬢様、便利な言葉をまた増やされましたね」
「聞こえてた?」
「はい」
最初に入れたのは、主翼全体ではなく翼端付近の模型でした。
ウイングレットなし。
一号。
二号。
三号。
四号。
同じ風速で、同じ取り付け角にして比べます。
飛行試験だけでは、風も気温も毎回少しずつ違います。
風洞なら、条件をそろえて形だけを変えられます。
もちろん、小さな模型で得た数字が、そのまま実機の数字になるわけではありません。
――そこは忘れないでね。模型は模型だよ。
「はい」
先生が答えました。
「ですが、どちらへ変わるかを見るには使えます」
――その通り。
ライデンの研究者たちは、飛行記録と風洞の記録を横へ並べました。
飛行で良かったものが、風洞でも同じ方向へ動く。
飛行では差が小さかった二つが、風洞では翼端の流れ方に違いを見せる。
「これなら、五つ目を作る前に試せます」
「うん。今度は『なんとなく』を少し減らせるね」
見た目を真似して作った最初のソアラーから、測って形を決めるソアラーへ。
ライデンの研究は、そこで一段変わりました。
◇ ◇ ◇
いま手に入る材料で何度も飛ばし、同じ性能を出せる機体です。
そして今度は、機体全部を作り直さず、翼端だけを交換し、さらに風洞で条件をそろえて性能を詰めるところまで来ました。
ライデンの人たちは、もう「飛ぶものを作れるか」を試している段階ではありません。
どう作れば、よく飛ぶ機体を繰り返し作れるか。
そこを調べています。
帳面を見終わったころ、さっきの学生たちがまだ近くにいました。
一人がフランソワさんへ言いました。
「午後、講義が終わったあとに中庭でお茶を飲むのですが、よければご一緒しませんか。前に話していた学生も来ます」
フランソワさんは、すぐには返事をしませんでした。
どろちゃんを見ます。
「行ってきていいよ」
「よろしいのでございますか」
「大学の中でしょう?」
「はい」
学生が答えました。
「では、夕方までには戻ります」
「そんなに遠くへ行かないでしょう」
「念のためでございます」
どろちゃんは少し考えてから、学生の方を見ました。
「フランソワさんは私の付き添いで来てるけど、ずっと私の後ろに立ってなくてもいいから。大学の中で話したり、お茶を飲んだりするくらいなら大丈夫です」
「ありがとうございます、教授」
「でも、私もその辺にいるからね」
学生が笑いました。
「監視ですか」
「うん。みんなの方を」
「私たちですか」
「そう」
今度は学生たちが顔を見合わせました。
フランソワさんも、少し首を傾げています。
「わたくしではないのでございますか」
「フランソワさんを監視してどうするの」
「先ほど、何かあったら困ると」
「困るのは、学生さんがフランソワさんに無理なことを頼んだりしたとき」
一人の学生が慌てました。
「そんなことはしません」
「分かってるよ。だから普通にお茶を飲んでいいの」
どろちゃんは少し考えました。
「でも、フランソワさんは私の付き添いで来てるでしょう。教授の学生に頼まれたら、断りにくいこともあるかもしれない。荷物を持ってくださいとか、これを取ってきてくださいとか、気づかないうちに仕事を増やすのはだめ」
「教授」
「なに?」
「そこまで考えてお茶を飲んだことはありませんでした」
「今日から考えて」
フランソワさんが小さく笑いました。
「わたくしは、嫌なことは嫌と申し上げられます」
「知ってる。でも、言わせなくていいことまで言わせない方がいいでしょう」
「それは、そうでございますね」
「だから、監視するなら学生さん側」
学生が手を上げました。
「では、私たちは監視付きでお茶を飲むのですね」
「研究室からずっと見張ったりはしないよ。普通にしてれば何も起きないもの」
「かなり緩い監視ですね」
「大学のお茶だからね」
「基準が分かりません」
みんなが笑いました。
どろちゃんも笑いました。
フランソワさんは領主家に仕える人です。
学生たちとは立場も暮らしも違います。
だからといって、大学へ来るたびに使用人として壁際へ立たせておく必要もありません。
どろちゃんが研究者と話しているあいだ、フランソワさんにもフランソワさんの時間があってよい。
ただし、その親しさを理由に、学生たちがフランソワさんへ用事を押しつけるのは別の話でした。
「何か困ったら、すぐ研究室に来てね」
「はい、お嬢様」
「学生さんたちも、困らせないでね」
「はい、教授」
「よろしい」
◇ ◇ ◇
研究室の扉には、まだどろちゃんの名前が付いていました。
「まだある」
フランソワさんが言いました。
「なくなっていたら困ります」
「しばらく来てないと、別の人に取られそうで」
「定期的にいらしております」
「そうだけど」
扉を開けると、部屋は空ではありませんでした。
机の上には、どろちゃんが前回置いていった紙の続きがあります。
棚には番号を付けた培養記録があり、別の箱には測定結果と失敗した試料の記録があります。
壁際には、さきほど見たソアラーの翼型、桁、操縦系統の図面がまとめられ、飛行ごとの滑空記録には新しい書き込みが増えていました。
どろちゃんがいなくても、研究室は動いていました。
それが、この部屋を作った理由です。
「ロンドンの分、ここへ置くね」
どろちゃんは鞄を開きました。
フックと話した研究施設の条件。
井戸や住宅から距離を取ること。
入口と作業区域を分けること。
持ち込んだ物と出した物を記録すること。
加熱、薬品、廃棄物処理。
それから別の紙を出します。
ラダック。
標高。
峠。
冬。
荷物。
病人。
雪を頂いた山と、木の少ない乾いた斜面。
水のある場所だけに続く緑。
「これは病原菌の研究とは別ですね」
研究室にいた先生が言いました。
「別です。でも忘れないうちに置いておきたいの」
「飛行機ですか」
「たぶん」
頭の中から声がしました。
――たぶんじゃないよ。
「まだ機種を決めてないでしょう」
――そこは決めてない。
「じゃあ、たぶんでいいの」
先生は、どろちゃんが誰と話しているのかを聞きませんでした。
ライデンでは、それにも慣れてきています。
ロンドンから持ってきた記録を渡し、急ぐものと後で読めるものを分ける仕事も進めました。
途中でどろちゃんが窓の外を見ると、中庭ではフランソワさんが学生たちと同じ卓を囲んでいました。
何を話しているのかまでは聞こえません。
少なくとも困っている顔ではありません。
どろちゃんは一度だけ確認して、また机の紙へ戻りました。
見ているのは、フランソワさんの行動ではありません。
学生たちが、親しさに甘えて何か仕事を頼んだり、断りにくいことを押しつけたりしていないか。
そこだけです。
何も起きていないなら、ずっと見張る必要もありません。
フランソワさんが研究室へ戻ってきたころには、工房の机にはウイングレットの図面が増えていました。
「お嬢様、明日はお帰りになりますか」
「たぶん、もう一日」
「増えましたね」
「翼の先が増えたから」
「そういう理由で日程は増えるのでございますね」
「大学だからね」
フランソワさんは納得したような、していないような顔をしました。
◇ ◇ ◇
比較試験と五つ目の形の確認を終えてから、どろちゃんとフランソワさんはエルレンフェルトへ戻りました。
けれど、ライデンの実験は止まりませんでした。
どろちゃんがいない日にも、重錘台車は電動機で斜面の上へ戻されました。
重りを決め、索を点検し、発航する。
飛んだあとは、高度、距離、時間、風、搭乗者、重量を書きます。
索が切れたときの試験も、無人の台車で行いました。
台車は斜面を下り、平坦部へ出ます。
鉄の車輪は思ったより長く転がりました。
そして砂区間へ入ると、音が変わりました。
ざあっ、と砂を押しながら進み、短い距離で止まりました。
学生たちは停止位置へ杭を打ちました。
重りを変える。
砂の深さを変える。
台車の重量を変える。
発航設備の安全試験だったはずが、こちらにも帳面が一冊増えました。
輪軸の試験も始まりました。
踏面の傾きを少し変えた車輪を作り、同じ台車へ付けます。
わずかに横へずらして走らせ、どちらへ動くかを見ます。
フランジへ付いた擦れ跡も記録しました。
枕木と犬釘の方にも番号が付きました。
グライダーのために敷いた一四三五ミリメートルの二本のレールは、いつの間にか、それ自体が研究対象になっていました。
◇ ◇ ◇
風洞の方でも、五つ目のウイングレットだけを調べて終わりにはなりませんでした。
主翼と胴体のつながり。
風防の後ろ。
操縦舵面の隙間。
翼端の丸め方。
表面の小さな段差。
取り付け角のわずかな違い。
小さな模型なら、一つずつ変えられます。
良くなったものを、すぐ全部実機へ入れることもしませんでした。
一つ変える。
飛ぶ。
戻す。
別のところを変える。
また飛ぶ。
風洞で良かったものが実機でも良いとは限りません。
実機で差が出ても、風が違っただけかもしれません。
だから、同じ変更を何度も確かめました。
最初に十八前後だった数字は、少しずつ上がりました。
二十を越えました。
そこから先は、また長くなりました。
二十一。
二十二。
ある改良は風洞では良かったのに、実機ではほとんど差が出ませんでした。
別の改良は、最大滑空比は良くなっても低速で扱いにくくなり、採用されませんでした。
翼端だけで十も増えたわけではありません。
ウイングレットをきっかけにして、風洞で機体の空気の流れを一つずつ調べ、翼端、接合部、表面、隙間、角度を直していった結果です。
主桁は、無理に細くしませんでした。
翼幅も、安全を削って伸ばしませんでした。
木で作った構造を捨てたわけでもありません。
分からなかった空気の方を、少しずつ分かるようにしていきました。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ライデンから新しい記録が届きました。
どろちゃんはエルレンフェルトの研究室で帳面を開きました。
条件の悪い飛行もあります。
横風のある日もあります。
測定に使わなかった飛行も、消さずに全部残っていました。
その中に、条件をそろえて繰り返した一群があります。
どろちゃんは数字を追いました。
「二十七・六……二十七・九……」
頭の中が急ににぎやかになりました。
――次。
「うん」
紙をめくります。
――その飛行。
「二十八・〇」
声に出ました。
部屋にいたフランソワさんが振り向きます。
「何が二十八なのでございますか」
どろちゃんは、もう一度記録を見ました。
風洞で選んだ翼端。
実機で詰めた取り付け。
主翼と胴体のつながり。
表面の仕上げ。
舵面の隙間。
何度も繰り返した飛行試験。
「滑空比」
「よくなったのでございますか」
「うん。十八だったの」
「では、ずいぶん」
「うん」
どろちゃんは、少しだけ黙りました。
最初は、未来のソアラーを見て、こういう形だろうと作った機体でした。
構造はライデンの木工技術で安全に作りました。
けれど、空気の流れまでは、まだ自分たちで測っていませんでした。
今は違います。
風洞を作りました。
失敗した翼端も残しました。
飛行記録を捨てませんでした。
発航装置まで、自分たちの研究設備にしました。
そして、測った結果から、自分たちで機体を変えました。
どろちゃんは帳面の最後へ、もう一度目を落としました。
最大滑空比、二十八。
こうして、ライデン大学のソアラー一号機は、未来の形を参考にして作ったグライダーから、ライデン自身が測り、考え、育てたソアラーになったのでした。
【第32章の小さな説明】
■ 海上滑空と低地の雲
どろちゃんがライデンへ寄る理由は、大学での研究・資料交換だけではありません。
ロンドンからネーデルラントへ向かう経路なら、海上をまとまった時間飛び、その後に起伏の少ない低地へ入れます。
そこで本章では、十分な高度と再始動余裕を持った状態で一度エンジンを止め、海上で機械音のない滑空を行います。
完全な無音ではなく風切り音は残りますが、地形性上昇風や陸上の熱対流をあてにせず、一定速度で高度を距離へ換える感覚を確認する場面にします。
さらにネーデルラントの平坦地では、山や斜面ではなく、日射、雲の影、地表の種類、水路などが局地的な空気の動きへどう影響するかを観察します。
雲は上昇気流の目印になる一方、広い影が長く地面を覆えば地表加熱を弱め、新しい熱対流を抑えることもあります。
■ 帰路のライデン大学
今回、どろちゃんはロンドンからエルレンフェルトへ直帰せず、ライデン大学へ立ち寄ります。
ライデンは初訪問以来の特別な目的地ではなく、大学所属の研究者として定期的に訪れる研究拠点になっています。
大学にはどろちゃんの常設研究室があり、本人がいない間にも記録、培養、資料整理、工房との試作研究が続きます。
そのため「教授が来たので研究が始まる」のではなく、進行中の研究へ本人が合流し、ロンドンで得た記録を渡して次の仕事を整理する描写にしています。
ロンドンからライデンへ寄ることで長距離帰還を一度に行わずに済み、研究資料の受け渡しと操縦者の休息も兼ねられます。
■ フランソワさんと学生
フランソワさんは、どろちゃんの付き添いとして何度かライデンを訪れているため、大学側にも顔を覚えられています。
どろちゃんほど頻繁には来ないので、今回は学生たちから本人の方が歓迎される場面を入れています。
どろちゃんが気にしているのは、フランソワさん自身の行動ではありません。
教授の付き添いとして来ている人へ、学生が親しさに甘えて荷物運びや用事などを頼み、断りにくい状況を作らないかという学生側の振る舞いです。
大学内で話したり、お茶を飲んだりする交流は普通に認めています。
困らせることが起きていないなら、どろちゃんも研究室からずっと見張ったりはしません。
■ 既出の水滴型風防
ライデン大学のソアラーに付いている水滴型風防は、この章で新しく作ったものではありません。
前の章で、ライデン大学から届いた図面をもとにエルレンフェルトのどろちゃん工房が成形し、「風防磨きのおばさん」が透過像の歪みまで確認しながら磨いた、大学向け最初期製品の一つです。
第32章では、その風防が実際にライデンの機体へ装着されている姿を再登場させています。
■ 重錘台車式の発航ウインチと鉄道実験線
ライデン大学のソアラーを反復して発航させるには、短時間にかなり大きな出力が必要です。
どろちゃん工房で作れる当時の電動機では、発航索を直接十分な速さで巻くには出力が足りません。
そこで電動機は、発航前に時間をかけて重錘台車を斜面上方へ引き上げるために使います。
発航時には、台車が斜面を下るときに放出する位置エネルギーを巻胴へ伝え、グライダーの牽引に使います。
どろちゃんは、位置エネルギーという言葉だけでは理解しにくい学生もいることを前提に、重錘式のトレビシェットを例にします。
人や馬が時間をかけて重錘を持ち上げ、その仕事を後で短時間に取り出すところは同じですが、投石用の腕は必要ありません。
重錘は垂直に落とさず、斜面のレール上を走る台車へ載せます。
重りを増減でき、挙動を目で追いやすく、制動や点検もしやすいためです。
軌道は一四三五ミリメートルの標準軌とし、頭部・腹部・底部を持つ実際の鉄道用レールと同じ基本断面、木製枕木、犬釘を使います。
台車には左右一体の輪軸、フランジ付き車輪、テーパーの付いた踏面を採用します。
斜面下から先にも平坦なレールを延ばし、索切れなどで台車が予定以上に加速した場合の走行余地を確保します。
その先には、レール頭部まで砂を入れた非常停止区間を設け、砂を押しのける抵抗で台車を停止させます。
ライデン周辺では砂を大量に用意しやすいため、この方式を採用できます。
この設備は発航装置であると同時に、輪軸の自己案内性、踏面テーパー、フランジ、レール断面、枕木、犬釘、継目、軸受、走行抵抗などを実物大で調べる、ライデン大学最初の鉄道実験線にもなります。
■ 実験風洞、ウイングレット、滑空比二十八
ライデン大学の初期ソアラーは、未来のソアラーを見て、その流麗な外形や大まかな構成を参考にした機体です。
ただし構造まで未来機を木でコピーしたわけではありません。
桁、リブ、胴体骨格、接合部は、ライデン側が強度を理解でき、加工経験もある木材を使って独自に成立させています。
初期状態の最大滑空比は十八前後です。
これは木製だから十八で頭打ちになったという意味ではなく、翼型、表面精度、翼端処理、主翼と胴体の干渉、舵面の隙間、細かな取り付け角などを、まだ測定によって十分に最適化していなかったためです。
この世界には、後世の「ソアラー」の性能基準や定義はまだありません。
したがって、この機体は初期性能が十八前後であっても、ライデン大学が長距離・長時間滑空を目標に作った最初の機体として「ライデン大学のソアラー一号機」と呼びます。
研究では、まず着脱式ウイングレットを複数作って実機比較を行います。
さらに、大学で利用できる電力とどろちゃん工房製の電動機を使って低速風洞を作り、翼端だけでなく、主翼と胴体の接合、風防後方、舵面の隙間、表面の段差、取り付け角などを一つずつ比較します。
模型の結果をそのまま実機性能へ置き換えず、重錘台車式ウインチで反復発航し、実飛行の記録と照合します。
そのため、滑空比十八から二十八への改善を「ウイングレットだけで十増えた」とは扱いません。
ウイングレットをきっかけに風洞実験と実機試験を反復し、機体全体の空力上の損失を一つずつ減らした累積結果として、ライデンのソアラー一号機は最大滑空比二十八へ到達します。
この滑空比二十八到達を、第32章の最後に置きます。




