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31貴族令嬢は今度こそ祝宴へでます。イギリスに土地をもらえました。インドの人と話せたよ。

かなり資料を調べて作りました。1700年頃の王宮の祝宴で対象者が女性の伯爵だったときの衣装や料理について。

第31章 貴族令嬢は今度こそ祝宴へ出ます


 ロンドンから、また手紙が来ました。


 今度は病人の知らせではありません。

 王室からの急使でもありません。

 学会の招待でもありません。


 前に延期した祝宴を、あらためて開くという知らせでした。


「まだ覚えてたんだ」


 どろちゃんが言うと、お父様は手紙から顔を上げました。


「忘れてよいものでもないだろう」


「式典は終わってるよ」


「だから祝宴だけだ」


「王様は、もう大丈夫なの?」


「王室医師が、長時間にならなければ出席してよいと認めているそうだ」


「じゃあ行く」


「返事を書く前に日付を見なさい」


「見た。飛べる日」


「天気まで手紙に書いてあるのか」


「書いてないけど、季節的にはたぶん大丈夫」


「たぶんで王室へ返事をするな」


「はい」


 前のときは、式典そのものには出ました。


 ウィリアム三世は病後で、まだ片腕を吊っていました。

 その状態で長い祝宴まで続けるのは、王様本人にも、周囲の人にもよくありません。


 ロバート・フックが先に王室の担当者へ話を通し、祝宴だけが延期されました。


 けれど祝宴というものは、王様と招待客だけでできているわけではありません。


 料理人だけでもありません。肉や魚を仕入れる商人、パン職人、酒を運ぶ人、砂糖菓子を作る職人がいて、銀器を磨き、食卓を組み、給仕をする者もいます。楽師もいれば、客を運ぶ馬車を動かす者も、夜まで何十本もの蝋燭を見て回る者もいます。


 一度延期すれば、その仕事が全部後ろへ動きます。


「様式美だね」


「その言葉も返書には書くな」


「書かないよ」


「それから今回は、前回より身分が一つ増えていることも忘れないように」


 どろちゃんは少し考えました。


「教授?」


「それは前からだ」


「王立協会?」


「それも違う」


「伯爵」


「ようやく思い出したか」


「普段使わないから」


「英国へ行けば使う」


 そうでした。


 どろちゃんはエルレンフェルトでは、今までどおり子爵家の娘です。

 けれど英国では、本人の権利で伯爵位を持っています。


 誰かと結婚した結果でもありません。

 夫の爵位を一緒に名乗っているのでもありません。


 十六歳の女の子本人が伯爵です。


「服、変わる?」


「変わるだろうな」


 お父様は、たいへん他人事のように言いました。


「お父様、分からないでしょう」


「分からん」


「私も分からない」


「英国側が分かっている」


「丸投げだ」


「こういうときの宮廷だ」


 かなり正しい考え方でした。



     ◇ ◇ ◇



 ロンドンへ行く機体は、ミツバチちゃんではありません。


 タドポール君です。


 今回は人を何人も運ぶ仕事ではありません。


 乗るのは、前席のどろちゃんと後席のフランソワさんだけで、今回は二人で十分です。


 出発前、フランソワさんはまた秤へ乗りました。


「四十九キロちょっと」


「変わっておりません」


「よし」


「毎回、ほっとなさいますね」


「五十キロまでだからね」


 タドポール君の後席は、飛行中に着る服や靴まで含めて五十キログラムまでです。


 今回もフランソワさん本人には手荷物を持たせません。


 持って行くのは、どろちゃんの礼装とフランソワさんの外出着、それに下着、洗面道具、書類、少量の薬、小さな裁縫道具です。重量が偏らないよう、左右の外部バッグへ分けます。


「祝宴の服、こんなに重いの?」


 どろちゃんは包みを持ち上げました。


「布が多うございますから」


「飛行服なら一着で済むのに」


「宮廷へ飛行服で行かれますか」


「だめ?」


「わたくしが止めます」


「技師さんも止める?」


 頭の中から返事がありました。


 ――飛行服で王様の前へ行くことについて、設計局としては管轄外です。


「逃げた」


 ――ただし長い裾を操縦席へ持ち込むのは反対。


「そこは仕事するんだ」


 ――安全だからね。


 どろちゃんは礼装を外部バッグへ戻しました。


 ロンドンまでの道は、もう初めてではありません。


 川を拾い、町と大きな森を順に照合し、海岸線へ出たら海峡を渡り、向こう側の岬からテムズへつなぐ。前回の航空写真も、風の記録も、区間ごとの所要時間も残っています。


 それでも確認項目は減りません。


 ――雲底。


「十分」


 ――海峡上の視程。


「今のところ良い」


 ――風。


「西寄り。帰りは確認し直す」


 ――燃料。


「計画量、予備あり」


 ――後席。


「固定よし」


 フランソワさんが後ろ向きの座席でベルトを締めました。


「ロンドンまで、また後ろ向きでございますね」


「帰りは前向きになるよ」


「機体に対しては後ろ向きのままでございます」


「あ、そうだった」


『フランソワさんは頭がいいね』


 タドポール君が言いました。


「タドポール君が褒めてる」


「ありがとうございます、とお伝えください」


『どういたしまして』


「どういたしまして、だって」


「会話が一往復増えました」


「そのうち直接聞こえるようにならないかな」


 ――それは神様へ聞いて。


「技師さんが逃げた」


 ――飛ぶ方は逃げないよ。


 その声だけ少し柔らかくなりました。


 ――風、もう一度見ようか。


「うん」


 どろちゃんは風向き布の向きだけでなく、草の先がどちらへ伏せているか、雲の底がどの高さで流れているかまで見直しました。


「行ける?」


 少し間がありました。


 ――行ける。


 ――でも、帰れる条件まで残して飛ぼうね。


「うん」


『出発する?』


「行こう、タドポール君」


『今度は祝宴だね』


「食べるのは私たちだけどね」


『僕は燃料でいいよ』



     ◇ ◇ ◇



 海峡を越えたあとは、前より楽でした。


 知らない土地を探すのではありません。

 知っている地形を、もう一度順番に見つけていきます。


 海岸線から川へ入り、道路と大きな町を一つずつ照合していきます。


 テムズを拾うと、ロンドンまでの残りが急に短く感じられました。


 前から使っているロンドン近郊の草地には、もう大きな風向き布が出ています。


 着陸予定の時間だけ、人と馬を遠ざけています。

 馬車も待っています。


 タドポール君は一度上空を通過しました。


 地面の凹凸、人や荷車の位置、放されている動物がいないこと、そして地表近くの風まで確かめます。問題ありません。


 大きく回り、草地へ入ります。


 主輪が触れました。

 少し走って止まります。


「着いた」


『着いたね』


 どろちゃんが風防を開ける前に、外から杖の先が見えました。


「ろばーとっち」


 もちろん、まだ外では言いません。


 ロバート・フックです。


 以前よりずっと元気になりました。

 けれど長く歩く日は、まだ杖を持っています。


 フックは機体の前まで来ると、まずどろちゃんではなく、タドポール君を見ました。


「前回と同じ機体ですね」


「同じです」


「後ろにも人がいる」


「フランソワさんです」


 フランソワさんが後席から降りました。


 フックは一礼しました。


「ロバート・フックです。今回は私が案内します」


「フランソワでございます。お嬢様のお世話をしております」


 フックは、どろちゃんを見ました。


「お嬢様?」


「家ではそうなの」


「英国では伯爵でしょう」


「フランソワさんは昔からお嬢様って呼ぶから」


「なるほど」


「ろばーとっちは?」


 フックが止まりました。


「今、何と」


「何も」


「何か言いました」


「気のせい」


「前から思っていましたが、あなたは都合の悪いときだけ十六歳になりますね」


「普段も十六歳です」


 フランソワさんは、二人の会話を聞きながら荷物の数を確認しています。


 フックが言いました。


「まず宿へ行きます。そのあと少しロンドンを見て、夕方からケンジントンです。今日は前回より予定を詰めすぎないよう、王室側にも言ってあります」


「前と同じ宿じゃないの?」


「違います。値段が上がったという話ではなく、今回はあなたの身分が違うので、泊まる場所そのものが変わりました」


「伯爵になったせい?」


「そのせいです。ようやく話が早くなりました」


 どろちゃんは、少し嫌な予感がしました。



     ◇ ◇ ◇



 前にロンドンへ来たとき、どろちゃんは外国の子爵令嬢で、ライデン大学と関係を持つ学術的な賓客でした。


 しかも一人で飛んできました。


 王立協会側が手配したのは、グレシャム・カレッジへ出やすいシティの上等な宿でした。


 普通の旅籠より静かで、外国人の学者や裕福な商人を泊めることに慣れた家です。


 寝台のある客間に小さな居間が付き、頼めば洗面用の湯や水を運んでもらえる程度の設備でした。


 若い女性が一人で泊まるので、英国側の女性使用人も一人付けられました。


 十分に上等でした。


 けれど今回は、馬車がその方向へ行きません。


「通り過ぎた」


「はい」


「ろばーとっち、道まちがえた?」


「私はロンドンの道を測った人間です」


「そうだった」


「その言い方は、忘れていたという意味ですね」


「ちょっとだけ」


 馬車はケンジントンへ向かいました。


 市街の密度が少しずつ下がります。


 やがて王宮の赤い煉瓦が見えました。


「宮殿?」


「宮殿です」


「私、ここに泊まるの?」


「王室からの招待客で、英国の伯爵です」


「前は教授だったよ」


「今も教授です」


「教授として来たときも、十分いい部屋だったよ。伯爵になっただけで、そんなに違うものなの?」


「ここでは違うようです。学者として迎えることと、王室が伯爵本人を正式な客として泊めることは、同じ扱いにはならないのでしょう」


 門を通ると、馬車は表向きの大きな入口ではなく、宿泊する客や使用人が出入りする側へ回りました。


 王室の宿泊係が待っています。


「伯爵閣下のお部屋を用意しております」


 どろちゃんは後ろを見ました。


 誰もいません。


「私?」


 係の人は、ほんの少しだけ困りました。


「はい。閣下」


「まだ慣れなくて」


「存じております」


「有名?」


「少し」


 フックが横で笑いました。


「空から来る伯爵は、そう多くありません」



 案内されたのは、王の私室でも、客を迎える大広間でもありません。


 宮廷客へ割り当てる滞在用の部屋です。


 それでも前回の宿とは、部屋の数から違いました。


 最初は小さな前室で、外から来た人はいきなり寝台の横まで入らず、ここで待ちます。その奥に居間があり、壁には織物、暖炉の前には肘掛けのある椅子とない椅子が混ざって置かれ、窓際には小さな書き物机までありました。


 さらに奥が寝室です。


 寝台には天蓋が付き、厚いカーテンが四方へ下がっています。

 眠るときには閉じれば、部屋全体を暖めなくても寝台の中だけは少し暖かくできます。


 その横に、小さなクローゼット――といっても服だけを入れる箱ではなく、私的な小部屋があります。


 着替えをしたり、手紙を書いたり、人に聞かせたくない話をしたりするための私的な小部屋です。


 そして反対側には、フランソワさんのための小さな部屋がありました。


「別室なんだ」


「お嬢様の寝台の足元へ寝るつもりはございません」


「そうじゃなくて、前の宿よりちゃんとしてる」


「伯爵閣下のお付きの者ですから、わたくしの部屋も用意されたのでしょう」


 荷物を扱う使用人のための場所まであります。


 どろちゃんは居間へ戻り、椅子へ座りました。


「爵位って、部屋の数になるんだ」


 フックが言いました。


「宮廷では、かなりのものが部屋の数になります」


「研究者の偉さも?」


「それはなりません」


「残念」


「その代わり、研究室の机の数にはなります」


「そっちの方がいいね」


「私もです」


 フランソワさんが咳払いしました。


「お二人とも、夕方には研究室ではなく祝宴へ行っていただきます」


「はい」


「はい」


 二人とも返事をしました。



     ◇ ◇ ◇



 祝宴の前に、もう一つ仕事がありました。


 着替えです。


 前回の叙爵式は急でした。

 持ってきた大陸側の礼装を、英国宮廷で失礼にならないよう整えて出ました。


 今回は時間があります。


 王室から、宮廷の服装に詳しい女性が二人来ました。

 仕立屋も一人います。


 大きな箱を開けると、畳んだ絹や麻布が次々に出てきました。どろちゃんには、箱の中身の半分くらいが布で、残り半分も布に見えました。


「飛行機一機分くらいない?」


「ございません」


 フランソワさんが即答しました。


 最初は薄いリネンのシフトを着て、その上からストッキングを穿き、膝の少し上で紐を結びます。次に身体の形を整えるステイズを合わせました。


「きついの嫌だよ」


 どろちゃんが言うと、英国側の女性が笑いました。


「息ができなくなるほど締める必要はございません」


「飛行機に乗るから、呼吸できない服は困るの」


「今夜は飛びません」


「明日は飛ぶよ」


「でしたら、なおさら無理に締めません」


 フランソワさんが背中側を確かめました。


「これなら、お食事もできます」


「そこ大事」


「一番大事ではございません」


 ステイズの上から下穿きのペティコートを重ね、さらに正面から見える上等なペティコートを着けます。


 色は、どろちゃんが普段よく着る黄色から離れすぎないように、淡い金色に近い黄です。


 表面には小さな植物文様が織り込まれ、光が当たるたび銀糸と金属糸が細く反射します。


「ぴかぴかする」


「蝋燭の部屋では、このくらいの方がよろしいのです」


 次に着るのがマントゥアです。前の開いた長い上衣で、肩から落ちる絹を腰でまとめ、後ろの布を持ち上げて大きな襞を作ります。正面には逆三角形の固いストマッカーを当てました。


 刺繍した布を胸元へ当て、それをマントゥアの左右で挟みます。


 ストマッカーは最初から一体に縫い付けられているわけではなく、細いピンを何本も使って位置を決めます。


「これ、飛行機より怖くない?」


「動かなければ刺さりません」


「飛行機もそういう部品あるよ」


 ――ありません。


 頭の中から技師さんが即答しました。


「否定された」


「何がでしょう」


「何でもない」


 袖は肘の少し下までで、その先から白いレースが何段かのぞきます。後ろには長い裾が残りました。


 後世の宮廷衣装のように、左右へ何人分も広がる巨大な腰籠はまだありません。


 けれど布の量は十分に多く、方向転換をすると一拍遅れて裾が付いてきます。


「これ、普通には走れないね。火事とか、何かあって急いで外へ出るときはどうするの?」


「そのときは礼儀より先に裾を持ってください。必要なら外してもかまいません。今夜は走らずに済むよう願っております」


「うん。それなら合理的」


 頭には、白いレースを細い骨組みとリボンで高く立ち上げるフォンタンジュを載せます。


 何段も積み上げるほど極端にはしません。


 十六歳で、しかも外国から来たばかりの新任伯爵なので、髪飾りは宮廷で許される範囲の中では少し控えめにまとめました。


「これ、空気抵抗大きそう」


 ――大きいね。


「技師さんもそう言ってる」


「宮廷で飛ばないでくださいませ」


 フランソワさんが言いました。


 耳には小さな真珠、首には細い真珠を一連だけ使います。大きな宝石をいくつも付ける必要はなく、手には薄い手袋と折り畳みの扇を持たせました。


 最後に、どろちゃんは鏡を見ました。


「誰」


「お嬢様です」


「黄色い服の私より、三歳くらい増えてない?」


「服だけで年齢は増えません」


 英国側の女性が、最後に確認しました。


「伯爵冠は使いません」


「小さい王冠みたいなの?」


「はい。今夜は戴冠式ではございません」


「毛皮のついた赤い服も?」


「議会や戴冠の儀礼ではありませんので」


「よかった」


「残念ではなく?」


「重そう」


 フランソワさんが、深くうなずきました。



 フランソワさんの服は、もっと控えめです。


 フランソワさんは青みのある灰色の上衣に白いリネン、小さなレースを合わせ、足元はよく磨いた黒い靴です。金属糸も大きな宝石も使いません。


「私と一緒に座らないの?」


「わたくしは伯爵ではございません」


「一緒にご飯食べればいいのに」


「宮廷には宮廷の席がございます」


「フランソワさんのご飯は?」


「使用人側にも用意されます」


「同じ料理?」


「同じものもあれば、違うものもあるでしょう」


「後で何食べたか教えて」


「お嬢様も、まずご自分の席で召し上がってくださいませ」


「はーい」


「今のお返事は、伯爵らしくありません」


「はい」


「それなら結構です」



     ◇ ◇ ◇



 ケンジントン宮殿は、夜になると昼とは別の建物になりました。


 窓の外は暗いのに、中には蝋燭がいくつもあります。


 壁際と卓上の燭台から出た光が、鏡、銀器、金色の額縁へ次々に反射し、火そのものより反射した光の方が多いように見えます。


 昼には少し派手に見えたどろちゃんの金属糸も、ここでは意味がありました。


 歩くたび、細い銀色の線が明るくなったり消えたりします。


 周囲の女性たちも、絹や刺繍、真珠、宝石、レースを重ねています。ただ高価なだけではありません。


 暗い宮廷の中で、自分が誰なのかを遠くから見せる服でした。


「なるほど」


 どろちゃんが小さく言いました。


「何がです?」


 フックが横にいます。


 今日はいつもの黒っぽい服より、ずっと正式です。


「服が光る理由」


「いま理解したのですか」


「昼に見たら、やりすぎに見えた」


「夜の宮廷は昼の研究室ではありません」


「ろばーとっちも少し光ってる」


「その呼び方をやめなさい」


「聞こえた?」


「聞こえる距離で言いました」


「じゃあ、ロバート先生」


「それなら結構」


 フックは少し安心しました。



 祝宴の前には、人が集まる時間があります。


 集まっているのは外交官や軍人、議員、宮廷の人々だけではなく、学者、商人、さらに遠い外国から来た客までさまざまです。


 前回より、どろちゃんを見る人が多くいました。


 飛行機で来たからではありません。


 それもあります。


 けれど今回は、英国の伯爵として名簿に載っています。


「伯爵になると、見られるね」


「前から見られていました」


「飛行機の方をね」


「今日は服も見られています」


「それはちょっと嫌」


「宮廷です」


「便利な言葉だね、それ」



 少し離れたところで、人の動きが変わりました。


 誰かが大声で知らせたわけではありません。

 けれど、話していた人が半歩下がり、開いていた場所が自然に広がります。


 ウィリアム三世が来ました。


 前に会ったときのように腕を吊ってはいません。

 歩き方にも、病人らしい弱さはほとんど残っていませんでした。


 どろちゃんは、さっきまでフックと話していたときより、きちんと姿勢を直しました。


「陛下」


「ドロテーヤ伯爵」


 名前のあとに付くものが変わっています。


 王は、どろちゃんをしばらく見ました。


「前に会ったとき、私はあなたの薬に助けられた、と言ったな」


「はい」


「だが、礼を十分に言っていなかった」


 どろちゃんは少しだけ首を傾けました。


「研究所と工場の人たちにも、と言ってくださいました」


「それは覚えている。あの者たちにも礼を言う。医師たちにも、フックにもだ」


 王はそこで言葉を切りました。


「だが、あなたへの礼は、それとは別だ」


 どろちゃんは黙りました。


「私が馬から落ちたとき、あなたは英国にいなかった。呼びに出した手紙が海峡を渡っている間にも、熱は上がった」


「はい」


「それでも、薬はすでにここにあった。使い方を書いた紙もあった。医師たちは、あなたが到着するまで待たずに治療を始めることができた」


 その話なら、どろちゃんにも分かります。


 自分が速く飛べることより、先に置いておいた物の方が役に立ったのです。


「急に必要になる人がいるかもしれないと思って、置いていっただけです」


「その『だけ』を、誰もしていなければ、ここには何もなかった」


 王は静かに言いました。


「だから礼を言う。薬を作った者へも、使った者へも言う。だが、必要になる前に残していったあなたにも、私は礼を言わなければならない」


 どろちゃんは、今度はきちんと頭を下げました。


「ありがとうございます。工場のみんなにも伝えます」


 そこで顔を上げましたが、すぐには次の言葉が出ませんでした。


 前にこの王宮へ来たときは、王様の身体を見て、医師たちと話して、培養をして、王立協会へ行って、そのあと突然また王宮へ呼び戻されました。


 そして伯爵になりました。


 式が終われば、今度は祝宴をどうするかという話になり、翌朝には飛んで帰っています。


 考えてみれば、ちゃんと礼を言う時間がありませんでした。


「陛下。私からも、お礼を申し上げないといけません」


 王が少し眉を上げました。


「何についてだ」


「前にいただいた伯爵位です。それから、外国から来た私を英国で研究者として扱ってくださったこと。今日も、延期になった祝宴をもう一度用意してくださいました」


「祝宴は、あなた一人のためではない」


「はい。でも、私が来なければ始まらない祝宴でしょう?」


 王は否定しませんでした。


「それに、前のときは急に伯爵になって、そのあと帰ることばかり考えていました。お礼を言ったつもりになっていたかもしれません」


「つもり、か」


「はい。だから、改めて。ありがとうございます、陛下」


 今度は、言われたから返した礼ではありません。


 どろちゃんは、もう一度きちんと頭を下げました。


 王は少しだけ間を置いてから答えました。


「受け取っておこう」


 それから、口元をわずかに緩めます。


「これで、互いに礼を言い忘れたままではなくなったな」


「はい」


「私があなたへ礼を言ったのに、最初に『ありがとうございます』と返したのは、やはり少し妙だったが」


「そこは忘れてください」


「覚えておこう」


「王様」


 フックが横で咳払いをしました。


「陛下、でございます」


「はい。陛下」


 王は少し笑いました。


 今度は肩へ響かなかったようです。


 フックが横から言いました。


「陛下、前回の祝宴を延期したことについても、私から――」


「知っている。私を理由に止めたのだろう」


「はい」


「正しかった」


 フックが一瞬だけ黙りました。


「それは、ありがとうございます」


「今日は医師が止めていない。だから食べる」


 どろちゃんは王室医師のいる方を見ました。


 一人が、こちらを見て小さくうなずいています。


「じゃあ今日は、ちゃんと祝宴ですね」


「そのために、もう一度あなたを呼んだ」


「飛行機で来たので、馬車よりは簡単です」


「それを簡単と言う者は、まだ英国にはあなたしかいない」


 王はそう言って、次の客の方へ向かいました。


 どろちゃんは、その背中を少し見送りました。


「王様、ちゃんと元気になったね」


 小さな声でした。


 フックには聞こえました。


「ですから、今度は働きすぎを止める仕事が残っています」


「ろばーとっちの仕事?」


「王室医師たちの仕事です。私は手伝います」


「仕事増えてるよ」


「あなたにだけは言われたくありません」



     ◇ ◇ ◇



 食事の部屋へ入ると、どろちゃんは最初に皿の数を見ました。


「多い」


 フックが言いました。


「まだ第一の食卓です」


「第一?」


「一皿食べて、下げて、次の一皿ではありません」


「見れば分かる」


 白い布を掛けた長い卓の上に、最初から料理が並んでいます。


 中央の大きな銀器には、澄んだ肉と鶏のスープへ細いヴァーミセリを入れ、柔らかく煮た若鶏を据え、その周囲へ薄切りのレモンを並べた料理が置かれています。


 反対側には、アーモンドを細かくすり、鶏と卵黄を使って白く濃く仕上げたスープ。


「スープが二種類ある」


「選べるようにです」


「両方は?」


「食べても止めません」


 その周囲には焼いた若鶏、鳩を詰めたパイ、仔牛の煮込み、香辛料を利かせたラグー、魚料理、小さなパティまで並び、肉料理だけでも一種類ではありません。


 同じ大きさの皿が左右へ対応するよう置かれ、卓全体が一つの図形になっています。


「料理を食べる前に配置図が欲しい」


「あとで厨房へ頼みましょうか」


「あるの?」


「王室料理人なら、食卓の配置を決めているでしょう」


「ほしい」


「研究資料にする気ですね」


「食文化資料」


「便利な言葉です」


 給仕は、一人の前へ料理を全部持ってくるわけではありません。


 近くの皿から、自分や隣の人へ取り分けます。

 遠い皿は給仕に頼みます。


 王の席だけは扱いが違います。


 どろちゃんの席は、王のすぐ横ではありません。


 伯爵だからといって、十六歳の新参外国人を王の隣へ置く必要もありません。


 外国からの客や、東インド会社と関係する要人に近いところでした。


 これは偶然ではなさそうです。


 どろちゃんが、資料室にあった文献を、どの言葉で書かれていても読めたという話は、もう王室へ伝わっています。



 最初に話しかけてきたのは、スーラトから来た商人でした。


 白い薄手のジャーマの上へ、淡い花模様があります。

 腰には長いパトカを巻き、端を前へ垂らしています。

 頭には布を幾重にも巻いたターバン。


 ヨーロッパの服へ着替えてはいません。


 英国側も、無理に着替えさせてはいません。


 彼は英語で挨拶しました。


「空を飛んで来られた伯爵とは、あなたですか」


「はい。たぶん、その伯爵です」


「たぶん?」


「同じことをする伯爵がほかにいなければ」


 商人は笑いました。


「私は、まだ聞いたことがありません」


「では私です」


「スーラトをご存じですか。地図の上で名前を見た、という程度ではなく」


「行ったことはありません。でも記録なら読んでいます。海から大きな船が入る港で、ムガル帝国の西側の交易に重要で、英国の会社も商館を置いている。ペルシア湾や紅海へ向かう商いともつながっていますよね」


 商人は少し目を細めました。


「本で読まれたのですね。けれど本は、町の匂いまでは書きません。雨の前の空気も、港が混んだ日の声も、船が予定より遅れたときの商人の顔も書かない」


「そこは行かないと分からないですね。でも最後だけは、だいたい想像できます。荷物が予定日に届かない人は、どこの国でも機嫌が悪いでしょう」


 商人はまた笑いました。


 そこで彼は、隣にいた男へペルシア語で何か言いました。


 この少女は、本でスーラトを知っているらしい。

 けれど、本当にどこまで知っているのだろう。


 その程度の話でした。


 どろちゃんは同じペルシア語で答えました。


「本当に、本でしか知りませんよ」


 二人とも止まりました。


 通訳が、一番遅れて止まりました。


「……いまのは、私たちのペルシア語でしたね。書物の単語をいくつか覚えたという話し方ではありません。どこで学ばれたのです?」


「読めますし、普通に話せます。ただ、どこで覚えたのかと聞かれると困るんです。ライデンで本はたくさん読みましたけど、それだけでこうなったわけではありません」


「それほど話せるなら師がいるはずです。東方から来た学者か、宮廷の書記でしょうか。名前を伏せておられる?」


「秘密にしているというより、私にも説明できないんです。先生の名前を挙げられれば、私もその方が楽なんですけど」


 商人は、冗談を言われているのかどうか確かめるように、どろちゃんの顔をしばらく見ました。


「では、もう少し意地の悪い試し方をしてもよろしいですか。ペルシア語ではなく、町や軍営で使う言葉ならどうでしょう」


「どうぞ。私も、自分がどこまで分かるのか知りたいです」


 今度は、北インドの町や軍営、商人のあいだで広く通じる言葉へ変えました。


 宮廷文書のペルシア語とは違います。


 ヒンドゥスターニーです。


「こちらはどうです。宮廷の書類より、旅人や兵士、商人の間で使う言葉です」


「これも分かります。そこが私自身いちばん困っているところで、習った記憶がないのに、聞けば意味が分かって、話そうとすると口が動くんです」


「ご本人にも理由が分からないのですか。それなら、学問で得たものではない」


「はい。だから自分の研究成果だとは言いません。何年も言語を勉強して身につけた、という話ではないんです」


「では、神から与えられたものだと考える方が簡単かもしれませんね」


 どろちゃんは少し考えました。


「私の名前も、そういう意味です」


「なるほど」


「納得したんですか」


「納得したことにしておく方が、今夜は話が早そうです」


「それ、いい考えです」



 その話を聞いていた南インドからの客が、椅子を少し近づけました。


 彼は東インド会社のフォート・セント・ジョージと取引する商家の人でした。


 細かな織りの白い衣服に薄い布を肩から掛け、宝石を多く使わない代わりに、布そのものの質と織りの細かさが目立ちます。


「北の言葉が分かるというだけでも十分に妙ですが、南の言葉まで同じように分かるのですか」


 男は英語でそう尋ねました。


「たぶん、としか言えません。まだ話してもらっていない言葉を、先に『話せます』と言うのも変でしょう」


 男は横にいた従者と、タミル語で短く話しました。


 どうせこれは分からない。


 そんな意味でした。


 どろちゃんは、すぐ同じ言葉で返しました。


「分かりますよ」


 男の顔から、笑いだけが消えました。


「いまの発音は、どこで覚えたのです。単語を知っているだけでは、そうはなりません」


「覚えた記憶がないんです。私の名前をもう一度言えば、何か分かります?」


「お願いします。それから、文字も読めると言うなら、古い詩でも同じなのか確かめたい」


 どろちゃんが自分の名をタミル語で言うと、男は音の一つ一つを確かめるように首を少し傾けました。


「外国人の癖がほとんどない。少なくとも私にはそう聞こえます。文字も読めるのですか?」


「見せてもらえば分かると思います。ここまで来ると、私も『たぶん』しか言えませんけど」


「また、たぶんですか」


「失敗したら、そのときはちゃんと『読めませんでした』って言います」


「これは面白い」


 男は近くの英国人へ言いました。


「会社は、この方を通訳として雇うべきではありませんか。これだけ話せれば、何人分の通訳が要らなくなるか分かりません」


 どろちゃんは首を振りました。


「飛行機を飛ばす仕事があるし、教授の仕事もあります。それに薬剤医師でもあるので、通訳まで本職にしたら、たぶん家へ帰れなくなります」


「そこへ伯爵まで加わるのですね。一人に仕事を集めすぎではありませんか」


「私もそう思います。伯爵は今日だけ使ってる感じですけど」


 フックが横から入りました。


「本人が増やしている仕事もかなりあります」


「ろば――ロバート先生、それは言わない約束」


「していません」


「そうだった」



     ◇ ◇ ◇



 第一の食卓が半分ほど進むと、中央の大きな皿がいくつか下げられました。


 空いたところへ、別の料理が入ります。


「交換するんだ」


「リムーヴですね」


 フックが言いました。


「料理なのに機械みたいな名前」


「あなたがそう聞いているだけです」


 次には、焼いた鴨や香草を詰めた鳥、小さなジビエ、濃いソースを使った肉料理、焼き色のついたパイが、空いた位置へまとめて入ってきました。


 甘い料理も、完全に最後まで待つわけではありません。


 果物を使ったタルトや、少し甘い焼き物が、塩味の料理の近くにあります。


「甘いのと肉が同じ卓にいる」


「喧嘩はしません」


「私の皿では離す」


「それでよいでしょう」


 どろちゃんは鳩のパイを少し取り、次に若鶏を食べました。


 ステイズは、食事ができないほど締めていません。


 それでも普段の服よりは身体が固定されます。


「フランソワさんの判断、正しかった」


「何がです?」


「締めすぎなかったこと」


「だから申し上げたでしょう」


 声が後ろからしました。


 フランソワさんが、次の部屋へ移る準備で少しだけ近くへ来ていました。


「もう食べた?」


「いただきました」


「何?」


「あとでお話しします」


「一個だけ」


「鶏とスープでございます」


「同じだ」


「お嬢様、いまはお席へ」


「はい」


 フランソワさんは戻っていきました。


 南インドの商人が、その様子を見ていました。


「あなたの侍女は、あなたを怖がっていませんね」


「昔から一緒だから」


「伯爵になっても?」


「伯爵になったからって、急に別の人にはならないでしょう」


「宮廷では、そうならない人の方が珍しいかもしれません」


「英国も大変ですね」


「インドも同じです」


「じゃあ人間が大変なんだ」


「たぶん」


 二人で少し笑いました。



     ◇ ◇ ◇



 そこへ、山の話をする客が加わりました。


 ロンドンへ直接ラダックから来たわけではありません。


 カシミール方面の商いにつながる一行に加わり、長い陸路と海路を経て英国まで来た人です。


 名をツェワン・ドルジェといいます。


 着ているものも、ほかの南アジアの客とは違います。


 身体を包む長いチュバは厚い布でできていて、腰を幅広い帯で締めています。


 ロンドンの夜には、むしろこちらの方が暖かそうです。


 彼は英語をほとんど話しません。


 通訳を介していました。


 けれど、どろちゃんがいくつもの言葉を話すと聞き、自分の言葉で何か言いました。


 ツェワン・ドルジェが使ったのはラダック語で、チベット語と近い系統の言葉でした。


「これも分かる?」


「分かります」


 どろちゃんも同じ言葉で返しました。


 ツェワン・ドルジェは、しばらく何も言いませんでした。


 それから、ゆっくり尋ねました。


 「あなたは、山の向こうから来たのですか」


 「違います。私はもっと西の、ライン川の近くです。あなたの故郷へは行ったことがありません」


 「それなのに私の言葉を話す。では、空を飛ぶという話も本当ですか」


 「それは本当です。今日も、この宮殿までの途中までは飛行機で来ました。鳥みたいに羽ばたくものではなく、翼と機械で飛びます」


 ツェワン・ドルジェは通訳の方を見ましたが、通訳は肩をすくめました。今のところ、嘘ではないとしか言えないようです。


 「それなら、私の土地にも来られるでしょうか」


 「場所を聞かないと、すぐには答えられません。山だ、ということだけは知っていますけど」


 「山です。大きな谷の底でも、ここよりずっと空へ近い。初めて来た人は息が苦しいと言いますが、私はロンドンへ来て、空気が重くて暖かいと思いました」


 「住んでいるところで、それくらい高いんですね」


 「私の村から谷の向こうを見ると、遠い山は夏でも上の方が白いままです。雪の下には灰色や茶色の斜面が続き、森のように木が続くところはほとんどありません」


 彼は卓の上で指を動かしました。中央の銀器を谷底の川に見立て、その脇へ山の傾斜を作るように手を立てます。


 「水のあるところだけ畑が緑になります。家は平らなところへ全部置けないので、斜面の少し緩い場所や、谷へ張り出した土地へまとまって建つ。下から見ると、白っぽい家が山の肌へ段々に付いているように見えます。道はその家の間を曲がりながら上がる」


 「木は本当に少ない?」


 「川や水路のそばにはあります。村で育てる木もある。しかし少し離れれば、地面と石と山ばかりです。冬は、その色の上へ雪が来る」


 「その景色、見てみたいな。雪の山の下が茶色くて、水のあるところだけ緑なんですね」


 「そうです。遠くから帰ってくると、その緑が村の場所を教えます」


 「冬は道が閉じますか」


 「閉じる道が多い。だから夏のあいだに、馬やヤクや羊で塩、茶、布を運びます。病人が出ても、遠くへ運べないことがある」


 「薬は軽いものが多いけど、それでも峠を越える時間は同じです。飛行機で運べれば早い」


 「あなたの飛ぶ機械は、あの山で飛べますか」


 どろちゃんは、そこで初めてすぐに返事をしませんでした。


 現代の記憶では、ラダックは人が暮らす大きな谷そのものが三千メートル級にあり、さらに高い集落もあります。峠となれば五千メートル級です。


 頭の中で、技師さんたちが一斉に数字を並べ始めました。


 ――三千五百メートルの地面から離陸する話になったね。


 ――「高くまで飛べる」と「高い場所から離陸できる」は別だよ。そこを混ぜると危ない。


 「うん」


 「誰と話しているのです」


 「飛行機を作る技師さんたちです。私にだけ聞こえます」


 ツェワン・ドルジェは一度だけ眉を上げましたが、それ以上は驚きませんでした。今夜はすでに、空を飛ぶ伯爵が自分の言葉を話しています。驚く順番が少し壊れています。


 ――いまのタドポール君で、地図も気象記録もない谷へ入るとは言わないでね。


 「言わないよ」


 ――高地用の機体がいるね。翼面積だけで何とかしようとすると、人と荷物を積む輸送機として苦しくなる。


 ――エンジンも空気が薄いぶん出力が落ちるし、プロペラも同じ大きさなら効きが悪くなる。正面から行くなら、もっと大きなエンジンを載せる手がある。


 「正面から?」


 ――正面から。後世にAn-32でやったような考え方だよ。元の輸送機へ、見た目が変わるくらい大きなターボプロップを載せる。空気が薄いなら、まず出力の余裕を持っていく。


 「技師さん、それ設計なの?」


 ――設計だよ。もちろん翼も脚も冷却もプロペラも、全部そのままでは済まないけどね。


 ――谷なら滑走路の長さだけじゃない。周囲の斜面、谷風、上昇経路、旋回できる幅まで見る。着陸復行できない場所へ最初から入らない。


 ――人間の方も忘れない。低地から連れて行った医師を、着いた日に走らせるような予定はだめ。


 どろちゃんは少し笑いました。


 「どうしました」


 「あなたの村へ薬を運べるか聞かれただけなのに、頭の中では、もう高地用輸送機の設計会議になっています」


 「それなら、作ればよいのではありませんか。あなたは空を飛んでここへ来たのでしょう。私から見れば、いまさらです」


 「簡単に言いますね。それを言われると弱いなあ」


 「その技師たちは、来られると言っていますか」


 どろちゃんは少し待ちました。


 ――機体を選んで、現地を測量して、季節ごとの風を見て、離着陸できる場所と逃げ道を確認する。そこまでやれば考えられる。


 「『行ける』とはまだ言っていません。機体を選んで、土地を測って、天気を調べて、人の身体も高い場所へ慣らして、そのうえで初めて考えられる、だそうです」


 「条件が多い」


 「空には道がないので。山の道だって、何も考えずに峠へ入ったりしないでしょう?」


 「しません。雪が来る時期も、川が増える時期も、荷物を載せた動物が通れる場所も見ます」


 「それなら同じです。飛行機は速いけど、考えることまで減るわけじゃない」


 「では、いつか来てください。谷の向こうに白い山が並ぶところを、空から見ればどう見えるのか、私も知りたい」


 「約束はまだできません。でも見てみたいです。木のない斜面に村が段々に付いていて、その上に雪の山があるんでしょう?」


 「そうです。水のあるところだけ緑で、その外は石の色です」


 「それ、飛ぶ側にも大事な目印ですね」


 「もう飛ぶ話になっています」


 「技師さんたちのせいです」


 ――どろちゃんもだよ。


 「聞こえないことにする」


 ツェワン・ドルジェは意味が分からないまま笑いました。


 そのあと二人は、川沿いの畑、乾いた高原、雪で閉じる峠、荷を運ぶ動物、夏の短さ、塩と茶と羊毛、それに病人を遠くへ運べない冬のことまで話しました。


 どろちゃんにとってラダックは、現代の地図で知っていた場所でした。けれど目の前の人が話すと、雪をかぶった峰、その下へ広がる木のない褐色の斜面、水のあるところだけ緑になる谷、そこへ段々に付く家々まで見えるような気がします。


 地図が、少しだけ地面になりました。


     ◇ ◇ ◇



 食事の最後には、部屋の雰囲気まで変わりました。


 肉や魚の大皿が下がります。


 代わりに、甘いものが増えていきます。


 透明なゼリー、アーモンドを使った白い菓子、砂糖をまとわせた果実、柑橘の皮の砂糖煮、小さなタルト、薄い焼き菓子、マジパンが、肉料理の消えた卓を埋めていきます。


 そして、食べるためなのか飾るためなのか、すぐには分からない砂糖細工。


「これ、食べていいの?」


 どろちゃんが小さな塔のような砂糖細工を見ました。


「たぶん」


 フックが言いました。


「たぶん?」


「私も砂糖工芸の専門家ではありません」


「ろばーとっちにも分からないものあるんだ」


「当然です」


「安心した」


「なぜあなたが安心するのです」


「何でも知ってる人が隣にいると、ちょっと困るから」


「あなたが言いますか」


「私は知らないこといっぱいあるよ」


「それは知っています」


「ひどい」


「褒めています」


「どこが」


「知らないことを、知らないと言えるところです」


 どろちゃんは少し考えました。


「それなら、褒められたことにしておく」



     ◇ ◇ ◇



 甘い宴が終わりに近づいたころ、王室側の人が短い文書を持ってきました。


 前回のような長い式典ではありません。


 祝宴を止めるほどでもありません。


 ウィリアム三世が、席を立たずに言いました。


「ロバート・フック」


 フックが顔を上げます。


 どろちゃんも横を見ました。


「あなたには、ずいぶん働かせた」


「陛下からだけではございません」


 フックは、どろちゃんを一度見ました。


「最近は、こちらからも仕事が増えました」


「私?」


「ほかに誰がいます」


 王が少し笑いました。


「ならば、その仕事を続ける場所も必要だろう」


 読み上げられたのは、フックへの男爵位でした。


 どろちゃんは目を丸くしました。


 フック本人も、少しだけ驚いた顔をしています。


 読み上げられた功績には、ロンドン大火後の測量と都市再建、王立協会での仕事、実験、時計と測定、長年の観察が並び、この時間線ではさらに王室医療と感染症研究への協力まで加わっています。


「ろばーとっち男爵」


 どろちゃんが、とても小さな声で言いました。


「聞こえています」


「小さく言ったのに」


「近いですから」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


「うれしい?」


「研究費が付くなら」


「そこ?」


「あなたは爵位そのものがうれしいのですか」


「私は飛行場が作れそうな土地の方がうれしいかも」


「まだ土地の話は出ていません」


「そうだった」


 ところが、すぐに土地の話が出ました。


 場所はロンドン郊外で、町の建物が密集するところから少し離れた土地です。


 フックは文書を受け取る前に尋ねました。


「研究施設の位置について、希望を申し上げてもよろしいでしょうか」


「言ってみよ」


「人家から少し離してください」


 王がフックを見ました。


「なぜだ」


「今後、病気を起こす微生物そのものを扱います」


 周囲の何人かが、甘い菓子から顔を上げました。


 フックは続けました。


「病人を診る場所と、病原となるものを増やして調べる場所は、同じである必要がありません」


 どろちゃんもうなずきました。


「井戸からも離したいです」


 王がどろちゃんを見ました。


「あなたもか」


「はい。水へ入ったら困ります。研究棟の中で扱うものと、外へ出してよいものを分けます」


「空気は?」


「そこも考えます」


 フックが言いました。


「風下側に住宅を密集させない方がよいでしょう。廃棄物も、そのまま町へ戻さない」


「火で焼くもの、薬品で処理するもの、熱で処理するものを分けます」


「あなた方は、まだ建物もないのに中身を決めているのか」


「建物を作る前に決める方が安いです」


 どろちゃんが答えました。


 王は少し黙りました。


「それは軍の砦にも言ってやれ」


「たぶん、どこの国でも必要ですね」


「今夜はフランスの話はしない」


「はい」


 フックへ与えられる領地は、その条件を満たせるよう、郊外側へ置かれることになりました。



 ところが、書類はもう一つありました。


「ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト」


「はい」


「あなたにも土地を与える」


「研究所ですか?」


「隣だ」


「隣?」


 地図が出てきました。


 地図にはフックへ与えられる土地が描かれ、その境界の向こう側に、幅がおよそ一キロメートル、長さがおよそ三キロメートルの細長い平地が続いていました。ほとんど人が住んでおらず、さらにその隣には緩やかな丘があります。


 どろちゃんは地図を見ました。


 頭の中の技師さんたちも見ました。


 誰も、すぐには何も言いませんでした。


 けれど全員が、同じところを見ています。


 三キロという長さが、地図の上でも妙に目立ちます。しかも平らです。


 ――三キロ。


 ――あるね。


 ――一キロ幅。


 ――あるね。


 ――隣に丘。


 ――あるね。


「静かにして」


 どろちゃんが小さく言いました。


 王が眉を上げました。


「何か問題があるか」


「ありません」


「今、誰に静かにしろと言った」


「技師さんです」


「またか」


「はい」


「何と言っている」


「長い平地だね、って」


 王は地図を見ました。


「長い平地だな」


「ですよね」


 フックが横から地図をのぞき込みました。


「研究所を置くには、長すぎますね」


「研究もできます」


「ほかには?」


「まだ決めてません」


 ――決めてる顔だよ。


「言わないで」


「今度は何と言われました」


 フックが尋ねました。


「秘密」


「だいたい分かります」


「なんで」


「あなたが長い平地を見て、その顔をする用途は多くありません」


「ろばーとっち、頭いい」


「男爵になったばかりの人間への評価として、ずいぶん軽いですね」


「褒めてるよ」



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 どろちゃんは目を覚ますと、最初に天井を見ました。


 いつもの部屋ではありません。


 天蓋の内側です。


「伯爵の部屋だった」


 カーテンの外から、フランソワさんの声がしました。


「お目覚めでございますか」


「うん」


「朝食の用意ができます」


「フランソワさん、昨日何食べた?」


「最初のご質問がそれでございますか」


「約束したでしょう」


「鶏のスープ、焼いた肉、パン、それから小さなタルトをいただきました」


「タルトあったんだ」


「ございました」


「私のところにもあった」


「同じ宮廷の厨房ですから」


「砂糖の塔は?」


「使用人の食卓にはございません」


「やっぱり」


「残念そうに言わないでくださいませ」



 朝食のあと、フックが馬車を用意しました。


「今日は土地を見ます」


「ろばーとっち領?」


「その呼び方を本人の前で使うのですね」


「男爵になったから、ろばーとっち男爵」


「長くなりました」


「じゃあ、ろば男」


「やめなさい」


 フランソワさんが、はっきり止めました。


「はい」


 フックは少し笑っています。


「フランソワさんがいて助かります」


「わたくしも、ときどきそう思います」


「二人ともひどい」



 ロンドンの建物が少なくなります。


 道の両側に畑が増え、家と家の間が広くなりました。


 さらに進むと、フックへ与えられた土地へ入ります。


 小さな集落の周囲には畑と牧草地があり、その外側へ林が続いています。研究所を建てる予定地は、そこからさらに少し離れていました。


「ここなら、住民の井戸から距離を取れます」


 フックが言いました。


「研究棟と住むところも分けよう」


「そのつもりです」


「入口も一つにした方がいいね」


「人の出入りを記録できます」


「培養室へ入る服と外の服も分ける」


「洗う場所も要ります」


「排水は?」


「そのまま川へは出しません」


「熱処理できるものは熱で。薬品が必要なものは薬品で」


「記録も残しましょう」


「誰が、いつ、何を持ち込んだか」


「何を出したか」


「失敗した培養も」


「捨てたものも」


 どろちゃんとフックは、馬車の中で研究所を建て始めました。


 まだ土地しかありません。


 フランソワさんが言いました。


「お二人とも、現地を見る前に建物を完成させないでくださいませ」


「はい」


「はい」


 また二人とも返事をしました。



 そのあと、境界を越えました。


 どろちゃんの土地です。


 人家らしいものは見えず、草の間に低い灌木が点々とあり、その向こうに緩やかな丘が続いています。何より目につくのは、視線を横へ動かしてもなかなか終わらない長い平地でした。


「止めて」


 どろちゃんは馬車を止めてもらいました。


 馬車を降りると、どろちゃんは少し歩きながら土と草の状態を見て、石の大きさ、雨水が流れそうな低み、地面の傾き、木の位置、周囲の障害物まで順に確かめました。


 まだ測量していません。


 だから飛行場にできるとは決めません。


 決めませんが。


 頭の中から声がしました。


 ――三キロあるね。


「昨日も聞いた」


 ――幅も一キロあるね。


「それも」


 ――丘もあるね。


「あるね」


 ――風を一年見たい。


「うん」


 ――排水も。


「うん」


 ――冬の地面も。


「うん」


 ――それから滑走路。


「まだ言わない」


 フックが尋ねました。


「いま、滑走路と言いませんでしたか」


「言ってない」


「あなたの声で聞こえました」


「技師さんが言ったのを復唱しただけ」


「同じです」


 フックは、平地の端から端を見ました。


「飛行機を降ろすつもりですか」


「できるか調べるところから」


「長さは足りそうに見えます」


「見えるだけではだめ」


「地面が弱ければ?」


「使えない」


「排水が悪ければ?」


「直すか、場所を変える」


「横風が強ければ?」


「向きを変える。でも幅が一キロあるから、少しは選べる」


「もう設計していますね」


「まだ検討」


「研究者は便利な言葉を持っています」


「そうでしょう」



 問題は管理でした。


 どろちゃんは英国へ住みません。


 この三平方キロメートルのためだけに、新しい村を作る必要もありません。


 独立した使用人集団を置けば、それを監督する人まで必要になります。


 そこでフックが言いました。


「こちらの領地の者へ管理を任せればよいでしょう」


「お願いできる?」


「草刈り、境界標、排水、見回り、道の補修。それくらいならできます」


「お金は私の方から出す」


「そうしてください」


「無料で頼んだらだめだね」


「領民は私の所有物ではありません」


「うん」


「働いた分は払います」


「契約にしよう」


「その方がよいでしょう」


 研究所へ荷物を運ぶ道も共用できます。


 必要なら、どろちゃん側の平地まで馬車が入れます。


 どろちゃんは丘の方を見ました。


 緩やかな斜面です。


 タドポール君なら、風を見て使えるかもしれません。


 じょうろちゃんのような軽いグライダーにも向いていそうです。


 平地の方を何に使うかは、まだ決めていません。本当に、まだ測量すらしていないのですから。



『長い平地だね』


 タドポール君は、ロンドン近郊の天幕で待っています。


「うん」


『また飛ぶ場所が増える?』


「たぶんね」


 ――それと。


 技師さんが言いました。


「なに?」


 ――ラダックの話、忘れないで。


「忘れてないよ」


 ――高いところから離陸できる機体。


 ――短いところへ降りられる機体。


 ――薄い空気でも出力が落ちにくいこと。


 ――人も荷物も運べること。


 ――酸素も。


 ――暖房も。


 ――山の風も。


「注文が多い」


 ――山が高いからね。


 どろちゃんは、ロンドン郊外の平地を見ながら、遠いラダックの山を思い浮かべました。


 ここは海に近い低地です。


 向こうは、町そのものが空の薄いところにあります。


 同じ飛行機で全部できるとは限りません。


 飛べることと、そこで働けることは別です。


 それは、最近とてもよく分かるようになっていました。



 フックの研究所の隣に、


 どろちゃんは三平方キロメートルほどの空白をもらいました。


 この時点では、ただの草地です。


 そして祝宴で出会った遠い山の人から、


 今度は「高い地面から飛ぶ」という、新しい宿題をもらいました。


 ただし、どろちゃんへ長くて平らな土地を渡しておいて、何も起こらないと思う方が、少し無理があるのでした。



     ◇ ◇ ◇



【Version 2 の小さな説明】


■ どろちゃんの英国宮廷服


 本章では、一七〇〇年前後の英国で正式服として使われ始めていたマントゥアを採用しています。

 前の開いた上衣、正面のストマッカー、見えるペティコート、後ろへまとめた長い布、肘付近までの袖とレース、という構成です。


 後世の十八世紀宮廷服で目立つ極端に横へ広いパニエを、そのまま一七〇二年へ持ち込んではいません。

 頭には当時流行していたフォンタンジュを比較的控えめな高さで用います。


 絹、金属糸、宝石が多いのは単なる浪費だけではなく、蝋燭、鏡、銀器の多い夜の宮廷で光を反射し、身分の高い人物を遠くから識別しやすくする効果もあります。


 伯爵本人ですが、祝宴なので戴冠式用の伯爵冠や貴族の儀礼用ローブは着ません。



■ 伯爵本人になって宿が変わります


 前回のロンドン訪問では、外国の子爵令嬢・学術賓客として、グレシャム・カレッジへ出やすい上等な宿泊場所を王立協会側が手配した設定にしました。


 今回は英国の伯爵本人で、王室の正式な招待客です。

 そのため本作ではケンジントン宮殿の宮廷客用宿泊区画へ部屋を割り当てます。


 近世宮廷では地位によって割り当てられる部屋の数や位置が大きく違います。本章では、前室、居間、寝室、私的な小部屋、随行するフランソワさんの小部屋を一組にしています。


 現代的な意味での「ホテル」を比較しているわけではなく、誰がどのような身分で、誰の客として滞在するのかによって lodging が変わる描写です。



■ ケンジントンの祝宴


 ウィリアム三世とメアリー二世のケンジントン宮殿では、実際に多数の客を集めた舞踏、賭け事、大規模な supper、sweetmeats の宴が行われていました。


 本章では、ウィリアム三世に仕えた王室料理人パトリック・ラムが後にまとめた『Royal Cookery』(一七一〇年)の料理と食卓構成を主な雰囲気の基準にしています。


 ヴァーミセリ入りのスープ、アーモンドを使った濃いスープ、若鶏、鳩、ラグー、パイ、パティ、ゼリー、タルト、砂糖菓子などを組み合わせています。

 これは「一七〇二年のこの日に実在した献立を完全再現した」という設定ではなく、ウィリアム三世からアン女王に仕えた実在の宮廷料理人の記録から、同時代の宮廷料理として不自然でない範囲を組み立てたものです。


 なお、ケンジントン宮殿のオランジェリーは史実ではアン女王の一七〇四年なので、この章では使いません。



■ 南アジアからの客


 一七〇二年のインド全体を「英国植民地」とは扱いません。


 東インド会社はすでにスーラトを西側の重要拠点とし、マドラスのフォート・セント・ジョージ、ボンベイなどにも活動拠点を持っていますが、ムガル帝国や各地の在地権力が存在する時代です。


 そのため本章の客は「英国が支配するインド植民地の代表」ではなく、会社の交易圏と関係しながら自分の商家・地域・権力者を代表してロンドンへ来ている商人、代理人、随行者として描いています。


 スーラト側のジャーマ、パトカ、ターバンなどは、十七世紀末から一七〇〇年前後のムガル圏の男性衣装を参考にしています。



■ ラダックと高地用航空機


 現在のラダック地方には標高三千メートルを大きく超える居住地があり、五千メートル級の峠も珍しくありません。


 ここで技師さんたちが区別しているのは、「高高度まで上昇できる航空機」と「高地にある飛行場から実用荷重を載せて安全に離着陸できる航空機」です。


 アントノフには実際にAn-2から派生した高高度気象観測機An-6があり、高高度研究に使われ、一九五四年には一万一千二百四十八メートルの高度記録も作りました。


 しかし、高く上がれることだけでラダックの輸送に向くわけではありません。

 高地では空気密度低下によるエンジン・プロペラ・翼の性能、離着陸速度、滑走距離、谷間の風、乗員と旅客の酸素・高地順応などをまとめて考える必要があります。


 本章では新しい機種をまだ決めず、「高地用の機体が必要」という宿題だけを置きます。


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