30貴族令嬢は、お薬を玄関まで届けます。An-28の初長距離飛行です。4人搭乗で貨物も運びます。
第三十章 貴族令嬢は、お薬を玄関まで届けます
ミツバチちゃんが初めて飛んだのは、地上を走る練習をした翌日ではありませんでした。
「今日は?」
――もう一度、地上で。
「昨日もやったよ」
――昨日できたことが、今日もできるか見よう。
「はい」
どろちゃんは素直にうなずいて、操縦席へ上がりました。
地上を走る練習も好きです。大きな機体が自分の操作どおりに曲がり、狙ったところで止まるのは、それだけでも面白いのです。それに、昨日できたことが今日も同じようにできるか確かめる必要も分かっています。
飛ばない練習も、飛ぶための練習でした。
左右のエンジンを始動し、計器を見ます。
ゆっくり動かし、曲がり、止まります。
滑走路へ入り、中心を外さないように走り、決めたところで出力を戻します。
その日の午後も飛びませんでした。
次の日も、最初は飛びません。
燃料を入れます。
飛行場の十五キロリットルの共通燃料タンクから、ポンプと濾過器を通してミツバチちゃんへ給油しました。
燃料だけではありません。脚とタイヤ、プロペラ、操縦面を見て、油の漏れや配線の異常がないかを確かめます。扉の閉まり方や貨物室も確認しました。
どろちゃん一人では見切れないところは、整備を手伝う人たちと一緒に見ます。
技師さんたちは、頭の中から教えてくれます。
――右主脚の内側も見てもらおうか。
「はい」
――昨日触ったところだからね。
「緩んだ?」
――緩んでいないことを確かめるんだよ。
「そういうことね」
確認して、記録します。
それが終わって、ようやく技師さんが言いました。
――今日は、飛んでみようか。
どろちゃんは一瞬だけ黙ってから、うれしそうに技師さんへ聞き返しました。
「ほんと?」
――ほんと。
「じゃあ、飛ぼう」
――その前に今日の速度を決めようか。
「はい」
◇ ◇ ◇
最初の飛行には、お父様もフランソワさんも乗りませんでした。
荷物も積みません。
操縦するどろちゃんだけです。
「私も乗らなくてよろしいのですか」
フランソワさんが尋ねました。
「最初は軽くして、変なところがないか見るの」
「では、私は下でお待ちしています」
「うん。あんまり近くに来ないでね。プロペラ、大きいから」
「承知しております」
飛行場の端では、吹き流しがほぼ滑走路に沿って伸びています。
塔の気象観測装置も同じ風を示していました。
どろちゃんは座席を合わせてベルトを締め、燃料、操縦系統、フラップ、トリム、計器、扉を順に確認しました。
それから、今日の離陸重量と草地の状態に合わせて、離陸に使う速度をもう一度読み上げます。
「V1、百二十。前脚上げ、百二十。V2、百四十五」
――声に出しておくといいね。
「V1は、ここまでなら止めるか飛ぶかを選べる境目」
――そう。正確には、そこで重大な故障に気づいても、安全に離陸を中止するか、そのまま離陸を続けるか、どちらもできるように計算しておく速度だよ。
「今日は草の滑走路だから、V1と前脚を上げ始める速度を同じ百二十にする」
――うん。
「V2は、安全離陸速度。地面を離れたあと、片方のエンジンがだめでも必要な上昇を続けられるようにする速度」
――その理解でいいよ。
数字は飛行機に一つだけ決まっているものではありません。重さや滑走路の条件が変われば、使う値も変わります。
そして、どろちゃんが離陸中に読むのは地面に対する速さではありません。速度計が示す指示対気速度です。向かい風があっても追い風があっても、翼が受けている空気に対する速さを見ます。
――急がなくていいよ。
「分かってる」
――最初は、飛ぶことより、戻ってくることまでが一回だからね。
「それも分かってる」
左右のエンジンが回り始めました。
ミツバチちゃんは、タドポール君とはまるで違う音を出します。
細いジェットの音でもありません。
風だけで飛ぶグライダーの静けさでもありません。
二つの大きなプロペラが、ずっと空気を後ろへ押しています。
どろちゃんは滑走路へ入りました。
「行きます」
――どうぞ。
出力を上げると、昨日までと同じように白い機体が加速しました。ただし今日は、決めたところで出力を戻しません。
舵へ当たる風が強くなり、草の流れも速くなります。どろちゃんは速度計から目を離しすぎないようにしながら、前も見ました。
「百。百十。V1、百二十。前脚上げ」
操縦桿を急に引きません。決めた姿勢へゆっくり持っていきます。
「百三十。離陸」
主脚が草を離れました。
「百四十。V2、百四十五」
――よし。そのまま上昇。
「はい」
どろちゃんは速度を保ちながら、地面が離れていくのを確認しました。
「あ」
――飛んだね。
「飛んだ」
それだけ言って、どろちゃんは前を見ました。
喜ぶのはあとです。
高度を取りすぎず、飛行場の周囲を一周します。左右のエンジンの状態を比べ、温度と圧力を見て、変な振動がないか、操縦したときの反応がおかしくないかを確かめました。
飛行場はすぐ下です。
何かあれば戻ります。
最初から遠くへ行く必要はありません。
一周して、進入します。
――風はさっきとほとんど変わっていないよ。
「見えてる」
――うん。いいね。
草の滑走路が前へ伸びます。
どろちゃんは速度を落とし、姿勢を整えました。
車輪が草へ触れました。
一度だけ軽く跳ねました。
「あ」
――そのまま。
もう一度接地します。
今度は落ち着きました。
速度を落として、滑走路の途中で曲がらず、端まで行ってから向きを変えます。
停止。
エンジンを止めると、急に静かになりました。
どろちゃんはしばらく操縦席に座ったままでした。
「飛んだ」
――飛んだね。
「ちゃんと戻った」
――それが大事。
外ではフランソワさんが待っています。
でも、どろちゃんがすぐ降りてこないので、少し首を傾げています。
やがて扉が開きました。
「お嬢様」
「飛んだよ」
「見ておりました」
「一回、ぴょんってなった」
「それも見ておりました」
「そこは見なくていいのに」
フランソワさんが笑いました。
◇ ◇ ◇
その日から、何度か同じことを繰り返しました。最初は離陸して近くを飛び、そのまま戻ります。次には少し遠くまで行き、燃料が減った状態や、少し荷物を積んだ状態、風が変わった状態でも飛びました。
条件が変わっても、どろちゃんが慌てず扱えることを確かめます。
飛行のあとには必ず点検します。
飛べたことより、変なものが増えていないことを見る時間の方が長い日もありました。
その飛行訓練に時間をかけているあいだに、フランスから書類が届きました。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、お父様が食堂へ大きな封書を持ってきました。
「お前宛てだ」
「どこから?」
「フランス王宮だ」
どろちゃんは封蝋を見ました。
「またルイ十四世?」
「国王陛下、と呼びなさい」
「今は家の中でしょう」
「書類を読むときくらいはな」
封を開くと、最初に出てきたのは感謝の言葉でした。
パリの廃兵院で傷病兵を診たこと、フランスの貴族たちを治療したこと、これまで使えなかった薬によって人の命を助けたことが、たいへん丁寧な文章で書かれています。
「ありがとう、って書いてある」
「そうだな」
次の紙を開きました。
今度は文章の雰囲気が違います。
「……薬剤医師?」
どろちゃんはもう一度読みました。
「お父様、これ、新しい資格だよ」
「そのようだ」
フランス王国には、もともと医師も薬剤師もいます。
けれど、どろちゃんはどちらにもきれいに収まりません。
薬を調合して渡すだけではなく、患者を診察して病状を判断し、薬を選び、量を決め、治療を続け、その経過まで見ます。
だからルイ十四世は、新しい資格を作ってしまいました。
薬剤医師。
名前には薬剤とありますが、薬局だけで働く資格ではありません。正式に患者を診察し、医師として治療できる資格です。
「王様って、資格まで作れるの?」
「フランスで王がそう定めたのなら、少なくともフランスではそうなるのだろう」
「何でもできるね」
「何でも、ではない」
「でも私、試験受けてないよ」
「廃兵院で、ずいぶん実地試験をしたようなものではないか」
「試験官、患者さんだったの?」
「結果を見たのは王だろうな」
どろちゃんは資格状を持ち上げました。
厚い紙には王の名があり、大きな印があります。冗談の紙ではありません。
「私、お医者さんになったの?」
「前から患者は診ていたが、今度は資格まで付いたな」
「薬剤医師」
「気に入らないか」
「ううん。分かりやすい」
もう一枚、短い手紙がありました。
こちらには、これまでの治療への感謝とともに、今後も必要が生じたときには、その知識と薬をフランスの人々のために役立ててほしい、と書かれていました。
どろちゃんは途中で、お父様を見ました。
「これ、ありがとうだけじゃないね」
「そうだな」
「また病人がいたら来てください、ってこと?」
「たいへん丁寧に書いてある」
「働いてください、でもあるよね」
「たいへん丁寧にな」
どろちゃんは資格状をもう一度見ました。
嫌ではありません。
病気の人を診ることも、薬が効いて元気になるのを見ることも好きです。
ただ、王様から正式な資格まで送られてくると、少し話が大きくなります。
「これ、しまっておく?」
「原本はな。写しを作らせる」
「持って歩くの?」
「お前は外国でも突然患者を診るからな」
「私が病人を呼んでるわけじゃないよ」
「分かっている。だから持たせる」
お父様は執事を呼びました。
王印のある原本は家で保管し、正式な写しを何通か作ることになりました。
どろちゃんの診察鞄にも、一通入ります。
飛行機の訓練をしているあいだに、仕事が一つ増えました。
ただし、その日の午後も、どろちゃんは普通にミツバチちゃんへ乗りました。
薬剤医師になっても、離陸速度は変わりません。
◇ ◇ ◇
そして数日後。
朝食の席で、お父様が言いました。
「ウィーンへ行く」
「また?」
「まただ」
「お仕事?」
「仕事だ」
どろちゃんはパンを持ったまま少し考えました。
「私も行く」
「今回は、そのつもりで話している」
「そうなの?」
「お前が行きたがることくらい分かる」
お父様の横には書類がありました。ウィーンのタウンハウスへ持っていく物、向こうで受け取る物、面会する相手が順に書かれています。
今回は書類だけではありません。お父様がタウンハウスで使いたかった小さな調度品や、机のまわりへ置いておきたい小物もいくつか運ぶことになっていました。馬車で長い道を揺らして運ぶほどではないけれど、飛行機に余裕があるなら持っていきたい物です。
それとは別に、どろちゃんの前には、以前診た商人の家へ直接届ける薬の箱がありました。
商人本人と息子は、急性の感染症から回復へ向かっていました。
妻の治療はもっと長く続きます。
一種類を飲んで少し元気になれば終わり、という病気ではありません。
神様からは、治療を続けるための薬が組み合わせて届いています。
どろちゃんは箱を開け、表示と数量を確認しました。
「今度は、倉庫へ置かないよ」
お父様が書類から目を上げました。
「誰も置けとは言っていない」
「前は置いた」
「前は帝国へ持っていく薬だったからだ」
「でも、使う人まで行かなかった」
「ああ」
「だから今度は、家まで持っていく」
「好きにしなさい。相手も待っている」
どろちゃんは少し満足しました。
前の旅では、薬の箱も書類もウィーンまでは届きました。けれど、それだけでは患者へ届いたことにはなりませんでした。
今回は違います。
最初から、誰へ渡すのか分かっています。
◇ ◇ ◇
ウィーン近郊には、もう一つ都合のよい場所がありました。商人の屋敷から遠くない草地です。
前にタドポール君で飛んだとき、町の外を上から何度も見ました。
商人の屋敷から遠くなく、長く続く草地があります。
周囲に大きな建物が密集しておらず、進入の邪魔になる木も少ない場所です。
その土地は、すでに商人を通して買ってありました。
ただの牧草地ではあります。
領地の飛行場のように、排水から転圧まで大工事をした場所ではありません。
それでも、石を拾い、大きな穴や轍を直し、草を短くし、両端が分かるように目印を置いてもらいました。
どろちゃんは地図へ指を置きます。
「ここへ降りる」
お父様も見ました。
「屋敷のすぐ近くだな」
「うん。前みたいに町の外へ降りて、そこから馬車で薬を運ばなくていい」
「商人にとっては、自分の庭先へ空から荷物が来るようなものだ」
「庭じゃないよ。ちゃんと買った土地」
「そういう意味ではない」
「分かってる」
フランソワさんは、その横で荷物の一覧を書いています。
「お嬢様。お薬の箱はこちらで全部でしょうか」
「うん。診察の道具は別。薬剤医師の資格状の写しも診察鞄に入れた」
「では、今度は王様のお墨付きのお医者様ですね」
「前も診てたけどね」
「今度は紙もございます」
「紙が増えた」
フランソワさんは少し笑いました。
「お父様のお荷物はこちらですね」
「それから、タウンハウスへ交代で入る人が一人」
今までウィーンにいた使用人の一人を休ませるため、領地から交代の者を連れていきます。
ただし、今いる人がミツバチちゃんの帰り便へすぐ乗るわけではありません。鍵や帳簿の場所、出入りする商人、日々の買い物、薪や馬車の手配、お父様の仕事で使う書類の扱いまで、引き継ぐことがいくつもあります。数日は新旧二人で仕事をしてから、元の使用人が領地へ戻る予定です。
飛行機なら交代要員を何日も馬車へ乗せずに送り込めますが、交代そのものは、人を置いてその場で入れ替えれば終わる仕事ではありません。
「四人だね」
どろちゃんが指を折りました。
「私、お父様、フランソワさん、それから交代の人」
「荷物も忘れるな」
「分かってる」
ミツバチちゃんは、こういう仕事のための飛行機です。人だけでも薬だけでもなく、人と薬、仕事の書類、着替え、それにタウンハウスで使う小さな調度品まで、まとめて同じ場所へ運べます。
◇ ◇ ◇
最後に燃料を考えました。
領地からウィーンまでは、直線なら六百数十キロほどです。
ミツバチちゃんで飛ぶこと自体は難しい距離ではありません。
けれど、問題は帰りです。
一回の給油だけで往復して、ほとんど空になって帰ってくるような運航はしたくありません。
「向こうで燃料が要るね」
――あるよ。
技師さんが、たいへん普通のことのように言いました。
「あるの?」
――うん。
「どこに?」
――買った草地。
「なんで?」
――神様の燃料缶が置いてある。
「何リットル?」
――二千。
どろちゃんは黙りました。
「二キロリットル?」
――そう。
「五十リットルの缶じゃなくて?」
――あれはタドポール君には便利だったね。
「先に言ってよ」
――今、燃料の話をしたから。
「聞かなかったら?」
――出発前の計画で話すつもりだったよ。
技師さんたちは、どうしてこういう大事なものを驚かせる順番で教えるのでしょう。
でも、二千リットルあれば帰路の燃料には困りません。
ミツバチちゃんの機内燃料は、およそ千五百リットル級です。
向こうへ着いたときに残っている分がありますから、二千リットルの缶が一つあれば、帰りに必要な量を十分補えます。
「じゃあ、五十リットル缶をいっぱい積まなくていいんだ」
――あれを三十本積むつもりだったの?
「ちょっと考えた」
――場所を取るよ。
「分かってる。だから困ってたの」
問題は、聞いたらなくなりました。
◇ ◇ ◇
出発の朝。
塔の気象観測室で、どろちゃんは風と気圧を見ました。
空も見ます。
西から東へ長く飛ぶので、領地の上だけ晴れていても足りません。
前日に届いた街道沿いの天候の知らせも見ました。
タドポール君で何度も通った地形と、地図の上の川や町も確認します。
今日の経路は、高い山を無理に越えるものではありません。
ライン川の東から内陸へ入り、いくつかの町と川を目印にして東へ進みます。
最後はドナウの流れが大きな助けになります。
「行ける」
――そうだね。
「帰りの燃料もある」
――ある。
「今度はちゃんと最初から分かってる」
――よかったね。
格納庫からミツバチちゃんを出しました。
サマスヴァール君がゆっくり牽引します。
改めて横から見ると、ミツバチちゃんは旅客機というより、ずんぐりした働く飛行機でした。胴体の高いところへ長い主翼が載り、その左右に一基ずつ大きなターボプロップエンジンがあります。脚は引き込まず、太い車輪を草の上へそのまま見せています。後ろには二枚の垂直尾翼が立ち、白一色の機体には飾りらしい飾りがありません。
乗るところも前にはありません。
機体後部の大きな二枚扉を開けると、そのまま客室兼貨物室へ入れます。中は宮廷の馬車のような内装ではなく、明るい色の金属板と内張りに囲まれた実用品です。左右に窓が並び、壁際には簡素な座席があります。中央の床は広く空けられ、箱や荷物を固定できるようになっていました。天井にも換気や照明のための細かな器具が並んでいます。
「お父様、こっちから」
「操縦席にもここから行くのか」
「うん。前まで歩くの」
薬箱と診察道具を先に入れました。お父様の書類箱、着替え、小さな調度品や小物も続けます。薬箱は軽いからといってそのまま置かず、床の固定金具へ帯で留めました。壊れやすい物は重い荷物の下へ入れません。
お父様と交代の使用人には、客室の座席へ座ってもらいます。
「離陸するときと降りるときは、立たないでね」
「分かっている」
「お父様も」
「私にだけ二度言うな」
「前に馬車で立って書類取ろうとしてたでしょう」
「あれは馬車だ」
「飛行機ではしないでね」
「しない」
交代の使用人は、少し固い顔でベルトを締めました。
最後に、どろちゃんとフランソワさんが後部扉から乗り込みます。
どろちゃんは固定した荷物をもう一度見ながら客室を前へ進み、そのまま左の操縦席へ入りました。フランソワさんは右の席です。
「こちらへ座ってよろしいのですか」
「うん。ただし、操縦はしないでね」
「いたしません」
右席にも操縦輪とペダルがあります。フランソワさんは長いスカートの裾が足元のペダルへかからないよう横へ整えてから座りました。またがって乗るものではないので、スカートでも困りません。
どろちゃんが四点式のベルトを示します。
「腰だけじゃなくて、肩も」
「こうでしょうか」
「そう。左右を留めて」
腰を押さえる帯に加え、肩からも二本の帯が掛かりました。フランソワさんは少し身体を動かしてみます。
「思ったより、しっかり留められますね」
「飛行機だからね」
どろちゃんも左席で四点式ベルトを締めます。
フランソワさんにはヘッドセットも渡しました。耳を覆う部分を当て、口元へ小さなマイクを寄せます。
『聞こえますか、お嬢様』
「聞こえるよ」
『なんだか、すぐ横にいらっしゃるのに遠くからお話ししているようです』
「エンジンかけたら、これが便利だから」
後ろの客室には、お父様と交代の使用人が座っています。前にはどろちゃんとフランソワさん。四人は同じ機内にいますが、今回は二人ずつ、はっきり別の場所に座ることになりました。
◇ ◇ ◇
二つのエンジンを始動すると、プロペラの音が客室まで響き始めました。
どろちゃんは前方と計器板を交互に見ます。右席のフランソワさんも、触らないように手を膝へ置いたまま、目の前いっぱいに並ぶ丸い計器を見ていました。左右それぞれの席の前に飛行計器があり、そのあいだにはエンジンの状態を見る計器が集まっています。中央下には二基のエンジンを扱うレバーが並び、頭上にもスイッチや回路器がびっしり並んでいました。
『タドポール君より、ずいぶんたくさんありますね』
「二つエンジンあるし、人も荷物も運ぶからね」
地上の人が十分に離れたことを確かめてから、車輪止めを外してもらいます。
今回は右席にフランソワさんがいて、後ろの客室にはお父様と交代の使用人が座り、貨物も積んでいます。朝の重量計算では、初飛行の日より少し高い離陸速度になりました。
「今日のV1、百二十五。前脚上げ、百二十五。V2、百五十」
――合ってるよ。
「声に出す」
――それがいいね。
フランソワさんがヘッドセット越しに尋ねました。
『その数字を、飛びながら読むのですか』
「うん。大事なところで、今どこまで速くなったか自分で確認するの」
ミツバチちゃんを滑走路へ合わせます。
「行きます」
出力を上げました。
どろちゃんは前を見て、速度計へ視線を落とし、中央のエンジン計器を見て、また前へ戻します。
「百。百十。百二十。V1、百二十五。前脚上げ」
ここから先は、重大な異常がなければ離陸を続けます。
前脚が草地から軽く離れます。
「百三十。離陸」
主脚も離れました。
「百四十……V2、百五十」
――よし。そのまま上昇。
「はい」
草地が下へ離れ、飛行場が小さくなります。
上昇が落ち着いたところで、どろちゃんは左右のエンジンの計器をもう一度比べました。温度も圧力も大きな差はなく、機体にも妙な振動はありません。
『飛びましたね』
すぐ右から、フランソワさんの声が聞こえました。
「うん」
今度は後ろから、お父様の声もしました。
「見れば分かる」
どろちゃんは笑いました。
「どう?」
「タドポール君より部屋だな」
「飛行機の感想になってない」
「後ろは立って歩けそうだ」
「今は立たないで」
「分かっている」
右席のフランソワさんが小さく笑いました。
ミツバチちゃんは東へ進みます。
◇ ◇ ◇
タドポール君で飛ぶとき、どろちゃんは、翼の下を流れる地形や上昇気流、風を強く感じます。小さなジェットを止めれば、グライダーの静けさも戻ってきます。
ミツバチちゃんは違いました。
二つのエンジンが、ずっと働いています。
荷物を運ぶための音です。
右を見ればフランソワさんが四点式ベルトに身体を預けて座り、そのさらに後ろの客室にはお父様と交代の使用人がいます。床には薬や書類、着替え、それにお父様が使う小さな調度品まで固定されています。
空を飛ぶことそのものより、向こうへ何を持っていくかの方が大きくなりました。
お父様は客室の窓から外を見ています。
「速いな」
「タドポール君の方が速く飛ぶこともあるよ」
「そういう意味ではない」
「何が?」
「朝、家を出て、今日のうちにウィーンで仕事ができる」
「ああ」
どろちゃんも分かりました。
速さは、最高速度だけではありません。
人の一日をどれだけ変えるかでもあります。
馬車なら、交代の使用人は何日も道の上です。
お父様の仕事も、出発したその日には始まりません。
薬箱も同じです。
今日は、朝まで領地にあった薬が、昼には患者のいる家へ届きます。
◇ ◇ ◇
二時間ほどたつと、見慣れた大きな町が近づいてきました。
ウィーンです。
でも、町の上へそのまま向かいません。
どろちゃんは少し手前で進路を変えました。
目印にしていた森と街道、小さな川を順に見つけ、その先に商人の屋敷を確認しました。屋敷の近くには、細長く刈られた草地が見えます。
「あった」
――見えてるね。
草地の端には、長い布が立っています。
風向きを見るために置いてもらったものです。
人もいます。
ただし、滑走するところからは十分離れています。
商人の家の馬車も待っていました。
「ほんとに近い」
お父様が窓から見ました。
「だから買ったの」
どろちゃんは一度上空を通り、草地の状態を見ました。
人が入り込んでいない。
荷車もいない。
大きな動物もいません。
風向きを確認します。
そのまま旋回し、進入しました。
――急がなくていいよ。
「はい」
領地の滑走路ほど平らではありません。
草も少し違います。
だから、いつもの場所と同じつもりで降りません。
接地。
草の上を走ります。
少し揺れます。
「領地よりでこぼこ」
――分かっていれば対応できる程度だね。
速度を落とします。
十分遅くなってから、草地の端へ寄せました。
停止。
エンジンを止めます。
静かになった途端、遠くで待っていた人たちの声が聞こえました。
「着いた」
「本当に着きましたね」
右席のフランソワさんが答えました。
どろちゃんは四点式ベルトを外して立ち上がります。フランソワさんも裾を整えて右席から立ちました。
二人で操縦席から客室へ戻ると、お父様と交代の使用人が待っています。
「前にも来たよ」
「今回は四人と荷物を一緒に持ってきただろう」
「そうだった」
そこが違いました。
どろちゃんは客室を最後尾まで歩き、後部の二枚扉を開けました。
◇ ◇ ◇
大きな後部開口の向こうには、商人の家の者たちが待っていました。
最初に近づいてきたのは、以前どろちゃんを町で呼び止めた男です。
「お嬢様」
「こんにちは」
男は飛行機を見上げ、それからもう一度どろちゃんを見ました。
「本当に、こちらへ降りられたのですね」
「このために草地を買ったんでしょう?」
「それは、そうなのでございますが」
「じゃあ使わないともったいないよ」
その後ろに馬車があります。
ミツバチちゃんの後部開口へ馬車を近づけ、薬箱と診察道具を順に渡しました。重い箱を細い扉や座席の間へ通す必要はありません。客室中央の床から、そのまま後ろへ出せます。
お父様の書類箱、小さな調度品、交代の使用人の荷物は別にまとめました。それらはあとでタウンハウスへ向かいます。
どろちゃんは草地の端を見ました。
「あれ?」
見覚えのない大きな容器があります。
樽ではありません。
金属製で、どう見てもこの時代のものではありません。
「……二キロリットル」
――言ったでしょう。
「ほんとにある」
――神様の燃料缶。
五十リットル缶をそのまま巨大にしたような扱いなのか、神様の方では別の分類なのか、どろちゃんには分かりません。
少なくとも、中にはいつもの共通燃料があります。
どろちゃんは近くまで行き、表示を確かめました。
「帰れる」
――だから来たんだよ。
「来る前にも帰れるって分かってたよ」
――それならよかった。
今日はすぐ給油しません。
機体を点検し、必要な量を計算してからです。
でも、帰るための燃料が目の前にあるというだけで、ずいぶん安心できます。
◇ ◇ ◇
商人の屋敷までは、馬車でほんの少しでした。
前回は町から呼ばれて、知らない道を連れてこられました。
今回は、自分の飛行機で屋敷の近くまで来ました。
玄関へ着くと、商人本人が出迎えようとしていました。
「出てこなくていいよ」
どろちゃんが先に言いました。
「もう歩けます」
「歩けるのと、無理して玄関に立つのは別」
「これは手厳しい」
声には力があります。
前に寝台で話していたときとは違いました。
息子もいます。
顔色はかなり戻っています。
「熱は?」
「ございません」
「食べられる?」
「はい」
「腫れていたところは?」
返事を聞き、どろちゃんはあとで実際に確認することにしました。
妻の方は、まだ時間がかかります。
咳は前より減っています。
食事も取れるようになりました。
それでも、どろちゃんは元気になった顔だけを見て終わりにはしません。
「お薬、持ってきたよ」
箱を見せます。
「今度は、途中の倉庫に置かずに」
商人が少し笑いました。
「本当に、我が家まで届きましたな」
「うん。玄関まで」
「空から」
「草地からは馬車だけどね」
そこは正確にしておきました。
◇ ◇ ◇
診察は三人だけでは終わりませんでした。
前回、同じ家の中で生活していた使用人たちもいます。病人の世話をした人、寝具や食事を運んだ人、部屋へ頻繁に出入りした人から順に話を聞きました。
全員を患者扱いするのではありません。熱が出ていないか、痛い腫れができていないか、咳が長く続いていないか、痰に血が混じっていないか、食事が取れているか、目立って痩せていないかを確認し、気になる人だけ、もう少し詳しく診ます。
幸い、新しく高い熱を出して寝込んでいる人はいませんでした。
どろちゃんは少しだけ肩の力を抜きました。
「よかった」
でも、そこで終わりません。
「前に言ったこと、どうなった?」
商人の家の者たちは、準備していたように案内してくれました。
毛皮は、人の寝る場所へ無造作に積まれていません。
穀物袋も床へ直接置かず、台の上へ上げています。
壁際や物置の穴は塞ぎました。
寝具も洗えるものから洗っています。
妻が長くいた部屋は換気を続け、咳や痰を扱った布も分けています。
「ネズミは?」
「以前より見なくなりました」
「先にノミの方、やった?」
「お嬢様がおっしゃった順に」
「それならいい」
ネズミを先に一気に殺して、そこについていたノミを人へ移動させたくありません。
前回、どろちゃんが一番しつこく言ったところです。
家の人たちは覚えていました。
「私が帰ったあとも続けたんだね」
「命に関わると聞きましたので」
「うん。続けて」
今度は命令ではありません。
理由を知っている人たちへ、続けてほしいと頼みました。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎるころ、お父様はタウンハウスへ向かうことになりました。交代で入る使用人も一緒です。今いる使用人との引き継ぎは今日から始まりますが、終わるまでには数日かかります。
「帰りは?」
どろちゃんが尋ねました。
「私は数日残る。交代する者もこちらに残るし、今いる者も引き継ぎが済むまでは戻さない」
「じゃあ、帰りは二人だね」
「フランソワさんと帰れ」
「分かった」
「飛行機を空にして帰るのが惜しいなら、こちらの書類を少し持って帰ってもらう」
「少し?」
「お前の言う少しと、私の言う少しは違うかもしれない」
「重さ測るからね」
「それでいい」
お父様は、商人とも少し話しました。
前回どろちゃんがようやく気づき始めた、この家のもう一つの力についてです。各地の倉庫と代理人を結び、船と荷車を使い、街道を越えて荷物を動かす仕組み。それが商人の持つ道でした。
「お薬も運べます」
商人が言いました。
どろちゃんはすぐには頷きませんでした。
「運ぶだけなら、できると思う」
「それでは足りませんか」
「誰に渡したか分からないと、前と同じになる」
商人は黙って聞きました。
「箱が町へ着いた、倉庫へ着いた、それだけじゃなくて、どこのお医者さんが何箱受け取ったとか、誰が管理してるとか、あとで分かるようにしたい」
「帳簿を付けるのですな」
「うん。お薬の帳簿」
商人は、そこで少し笑いました。
「それなら、我々の得意な仕事でございます」
どろちゃんは初めて、少しだけ意味が分かりました。
この人が持っているのは、お金だけではありません。
遠くへ荷物を運ぶ仕組みがあります。
荷物が今どこにあり、誰へ渡り、代金がどう動いたかを記録する仕組みもあります。
薬を商売の商品と同じにする必要はありません。
でも、荷物をなくさず、人から人へ渡して記録する技術は使えます。
「じゃあ、今度いっしょに考えて」
「喜んで」
前回、お父様が言った「そのうち分かる」の一つが、やっと少し分かりました。
◇ ◇ ◇
夕方になる前に、どろちゃんとフランソワさんは草地へ戻りました。
今日は帰りません。
商人の妻の状態をもう一度翌朝に見たいからです。
それに、お父様も今日から仕事を始めたばかりです。
急いで日帰りする理由はありません。
草地では、ミツバチちゃんが静かに待っていました。
どろちゃんは機体を一周し、脚とタイヤ、それに機体下面まで見ました。
「知らない草地へ降りたあとだから、いつもよりちゃんと見る」
「何かございましたか」
フランソワさんが尋ねます。
「今のところ、ない」
「それならよかったです」
「でも、ないことを確かめるのが点検だから」
「技師さんのようなことをおっしゃいますね」
「ずっと聞いてるからね」
燃料も確認します。
持参した給油用のポンプと濾過器を、二キロリットルの神様の燃料缶へつなげます。
今日は帰らないので、必要な量を急いで入れる必要もありません。
どろちゃんは翌日の天候と、帰路に必要な燃料を見てから給油量を決めることにしました。
「五十リットル缶を十五本持ってこなくてよかった」
「十五本もお考えだったのですか」
「二日あれば七百五十リットルずつ作れるでしょう」
フランソワさんが少し考えました。
「空でも、かなり場所を取りますね」
「そうなの。そこが嫌だった」
「こちらが届いていて、よろしゅうございました」
「ほんとに」
二キロリットルの燃料缶が、草地の端で夕日に光っています。
タドポール君用の五十リットル缶は、あの小さな飛行機にはちょうどよかったのです。
でも、飛行機が大きくなれば、地上の燃料も大きくなります。
◇ ◇ ◇
翌朝。
商人と息子は、前日と変わらず安定していました。
妻も急に悪くなってはいません。
どろちゃんは薬の飲み方をもう一度確認しました。
「調子がよくなったからって、勝手にやめないでください」
「承知しております」
「一種類だけ残ったから、それだけ続ける、もだめ」
「はい」
「飲んだ日、熱、咳、食べた量、気になること、書いておいて」
紙と帳面なら、この家にはたくさんあります。
商人はすぐに人を呼びました。
「お嬢様」
「なに?」
「昨日のお薬の帳簿と同じですな」
どろちゃんは少し考えました。
「ほんとだ」
患者の記録も、薬の記録も、途中が見えなくなると困ります。
空を飛ぶ飛行機も同じでした。
出発したから終わりではありません。
どこへ着いたのか。
何を渡したのか。
誰が受け取ったのか。
帰る燃料があるのか。
全部つながって、ようやく一回の仕事になります。
◇ ◇ ◇
草地へ戻ると、風は穏やかでした。
どろちゃんは必要な燃料を入れました。
二キロリットル缶の残量も記録します。
使った分がどうなるのか、神様の大きな燃料缶が五十リットル缶と同じように一晩で戻るのか、それとも別の仕組みなのかは、まだ分かりません。
だから、分からないものを勝手に「戻ること」にして計画は立てません。
今日は、今ここにある燃料で帰ります。
帰りは、客室に乗客がいません。
お父様はウィーンに残りました。交代の使用人もタウンハウスへ入り、もともといた使用人も引き継ぎが終わるまではこちらに残ります。
代わりに、商人からお父様へ渡された書類の一部と、領地へ持ち帰る小さな荷物を客室中央へ積みました。重さを確かめ、床へ固定します。
「帰ろうか」
「はい、お嬢様」
二人は後部から乗り込みました。
どろちゃんは客室を前まで歩いて左席へ、フランソワさんはまた右席へ座ります。スカートの裾を足元から避け、四点式ベルトを締めました。
「もう慣れました」
「操縦輪には触らないでね」
「そこも慣れました」
二人の前で、ミツバチちゃんの二つのエンジンが回り始めます。
商人の屋敷の人たちは、草地の端から見ています。
どろちゃんは一度だけそちらへ手を振りました。
それから滑走路代わりの草地へ機体を合わせます。
加速。
草が流れます。
機体が軽くなります。
地面が離れました。
屋敷が小さくなります。
ウィーンの町が遠ざかります。
どろちゃんは前を見ました。
「今度は、ちゃんと届いたね」
右席のフランソワさんが答えました。
「はい。お薬も、お父様も、交代の者も」
「お父様は荷物みたいに数えたら怒るよ」
「では、お薬と人を」
「それならいい」
前回は、薬を町まで運びました。
今回は、薬を人のところまで運びました。
飛行機が大きくなったことで、運べる量が増えただけではありません。
どこまで運ぶのかも、変わり始めていました。
◇ ◇ ◇
第三十章の小さな説明
【ミツバチちゃんの最初の飛行】
本章では、第二十九章で地上訓練を終えたAn-28「ミツバチちゃん」が、いきなり長距離輸送へ出るのではなく、まず単独・軽荷重で飛行場周辺を飛び、着陸後の点検を繰り返します。
その後、少しずつ条件を変え、機体と操縦に問題がないことを確かめてから、ウィーン便へ進んでいます。
【V1、前脚上げ速度、V2】
本章では、離陸のたびに、どろちゃんが速度計を見ながら対気速度を声に出して読み上げます。
V1は離陸決心速度です。重大な故障をその速度で認知した場合に、離陸を中止して安全に止まることも、離陸を続けることもできるように計算される境目です。
An-28の飛行規程では、草地などの未舗装滑走路から離陸する場合、V1を前脚を上げ始める速度と同じに取る扱いがあります。本章でもそれに合わせています。
V2は安全離陸速度です。離陸後、片方のエンジンが使えなくなった場合でも、必要な上昇性能を確保するための基準になる速度です。
本文の百二十、百二十五、百四十五、百五十キロ毎時という数字は、その日の重量や条件に合わせて技師さんたちが計算した本作内の値です。An-28の全運航で固定された数字という意味ではありません。
また、離陸中にどろちゃんが読むのは地面に対する速度ではなく、速度計の指示対気速度です。どろちゃんには副操縦士がいないため、通常なら別の乗員が行う速度のコールも、自分で声に出して確認しています。
【ルイ十四世から届いた「薬剤医師」資格】
ミツバチちゃんの地上訓練と初期飛行訓練に時間をかけているあいだに、フランス王宮からどろちゃんへ正式な資格状が届きます。
本作では、ルイ十四世が既存の医師・薬剤師とは別に「薬剤医師」という資格区分を新設した設定です。薬剤医師は患者を診察し、病状を判断し、薬剤を用いた治療を行い、その経過を診ることのできる医師資格です。
資格状には、廃兵院での傷病兵治療やフランス貴族の治療への感謝が記されています。同時に、今後も必要なときにはその知識と薬を役立ててほしい、という王からの期待も添えられています。
どろちゃんは今回のウィーン出発時点ですでにこの資格を持っています。原本は領地に保管し、正式な写しを診察鞄へ入れて持参します。ただし、フランス王が与えた資格が他国でも自動的に同じ法的効力を持つ、という意味ではありません。
【後部乗降と機内】
本作のミツバチちゃんでは、操縦席専用の外部乗降ドアは使いません。乗員も乗客も機体後部の大きな開口から入り、操縦するどろちゃんは客室兼貨物室を前方へ歩いて左操縦席へ入ります。
客室は豪華な旅客機の内装ではなく、貨客兼用機らしい実用的な空間です。左右に窓と簡素な座席があり、中央床は貨物を固定して使えるよう広く空けています。後部開口が大きいため、薬箱、書類箱、小さな調度品なども客席の間を通さず積み降ろしできます。
往路では、お父様とタウンハウス交代要員が客室の座席へ座り、フランソワさんは右操縦席へ座ります。ただしフランソワさんは副操縦士として操縦するのではなく、右席に同乗する観察者です。
右席にも操縦輪とペダルがあるため、フランソワさんは長いスカートの裾が足元へかからないよう整えて座ります。椅子へ普通に腰掛ける構造なので、スカートでも搭乗できます。操縦席の二人は腰帯と肩帯を組み合わせた四点式シートベルトを使用します。
【ウィーン便の四人】
往路の搭乗者は、左操縦席のどろちゃん、右操縦席に同乗するフランソワさん、客室のお父様とウィーンのタウンハウスへ交代で入る使用人の四人です。
これに薬、診察道具、お父様の仕事の書類、各人の荷物のほか、お父様がタウンハウスで使いたかった小さな調度品や小物も積みます。
交代要員が着いても、現地にいた使用人がその日の帰り便ですぐ領地へ戻るわけではありません。鍵、帳簿、出入りの商人、日用品や燃料の手配、お父様の仕事に関係する書類などを数日かけて引き継いでから戻ります。
そのため本章の帰路は、お父様と交代要員だけでなく、交代される側の使用人もまだウィーンに残り、どろちゃんとフランソワさんの二人になります。
【機体写真との関係】
An-28は貨客転換を前提にした実用輸送機なので、同じAn-28でも座席や客室設備は用途によって変わります。本章の客室描写は、実機写真で分かる胴体断面、窓、後部開口、実用機らしい内装の雰囲気を参考にしつつ、本作のミツバチちゃんを貨客兼用仕様として整えています。落下傘降下用に改装された個体の座席配置を、そのまま全An-28の標準配置としているわけではありません。
【距離と燃料】
エルレンフェルト領をライン川東岸のストラスブール近郊として考えると、ウィーンまでは直線でおよそ六百数十キロです。
本作のミツバチちゃんは、機内燃料を約一・五キロリットル級として扱い、余裕を見た実用上の運航範囲をおよそ千二百キロ程度として考えています。
片道なら十分届きますが、往復を一回の給油で済ませる前提にはしません。
そこで、商人から購入したウィーン近郊の草地には、神様製の二キロリットル燃料缶が置かれています。帰路はここから必要量を補給します。
領地側の共通燃料設備は十五キロリットルです。
【五十リットル缶との違い】
五十リットルの神様の燃料缶は、もともとタドポール君用です。
タドポール君には便利な大きさでしたが、約一・五キロリットル級の燃料を扱うミツバチちゃんでは、十本、十五本、三十本と数を増やすほど容器そのものが貨物室を占領します。
そのため、ミツバチちゃんの定期的な寄港地では、二キロリットル缶や領地の十五キロリットルタンクのような大容量設備の方が向いています。
【薬を「町」ではなく「人」まで】
第二十八章では、どろちゃんはストレプトマイシンとゲンタマイシンをウィーンまで運びましたが、帝国の制度や配分の問題があり、「町へ届いたこと」と「必要な患者へ届いたこと」は同じではないと気づきました。
本章ではその経験を受け、以前診察した商人一家へ薬を直接届けています。
同時に、商人が持つ倉庫、代理人、荷車、船、帳簿の仕組みを、将来の医薬品流通へ利用できないか考え始めています。
【使用人たちの健康確認】
商人の屋敷では、病気だった三人だけでなく、同居していた使用人や看病に関わった人にも症状がないか確認しています。
ただし、全員を病人として扱っているわけではありません。まず問診を行い、発熱、腫脹、長引く咳などがある人を詳しく見る形です。
また、第二十八章で行ったノミ対策、ネズミの侵入防止、寝具の洗浄、換気などが続いているかも確認しています。
【二キロリットル燃料缶の再充填】
本章では、ウィーンの草地に二キロリットルの神様の燃料缶が存在し、現在入っている燃料を使えることだけを確定事項としています。
五十リットル缶と同じ条件で自動的に再充填されるかどうかは、まだ設定していません。そのため、どろちゃんも「翌日には戻る」ことを前提に運航計画を立てていません。




