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28貴族令嬢は、お薬を東に運びます。神聖ローマ帝国皇帝のいるウィーンに飛びます。

第28章 貴族令嬢は、お薬を東へ運びます


 パリから帰ってきて、何日もたたないうちに、今度は東から手紙が来ました。


 お薬が欲しい。


 短く言えば、そういう内容でした。


 もちろん、実際の手紙はそんなに簡単ではありません。

 誰が求めているのか。

 どこへ送るのか。

 誰が受け取るのか。

 代金はどうするのか。

 そのあと誰へ配るのか。


 神聖ローマ帝国の中では、それが一つにまとまりません。


 どろちゃんは食堂の机に広げられた紙を見ました。


「いっぱいある」


「あるな」


 お父様が答えました。


 お父様は、またウィーンへ行く準備をしています。


 前に行ったときは、戦争中のエルレンフェルトへ帝国側の軍を勝手に入れないための交渉でした。

 今回は少し違います。


 帝国側から、お薬を求める話が増えていました。


 ペニシリン系だけではありません。

 研究所では、ストレプトマイシンとゲンタマイシンも作れるようになっていました。


 まだ量は限られています。

 作れるからといって、どこへでも好きなだけ送れるわけではありません。


「医療従事者用は、こっち。一般の患者さん用は、こっち」


 どろちゃんは二つの箱を指しました。


「貴族用は?」


「そんな箱はないよ。病気になったら一緒です」


 お父様が、少しだけ顔を上げました。


「それを、そのままウィーンで言って通ればよいが」


「何それ」


「行けば分かる」


 嫌な予感がしました。


          ◇


 お父様は先に陸路で出発しました。


 タドポール君の後席には、お父様を乗せられません。

 フランソアと荷物を載せれば、それでいっぱいです。


 どろちゃんは数日遅れて出発しました。


 薬箱の固定を確認します。

 ストレプトマイシン。

 ゲンタマイシン。

 ほかにも、すでにエルレンフェルトで作っている薬が少量ずつ入っています。


 衝撃を嫌うものは内側へ。

 温度を大きく変えたくないものは別の容器へ。

 箱には中身と数量を書きました。


 医療従事者用。

 一般治療用。


 どろちゃんには、この二つの表示が大事でした。


『荷物は大丈夫そうだね』


 頭の中で技師さんが言いました。


「うん」


『帰りは?』


「帰り?」


『東へ行くだけなら、誰でも計画できるよ』


「あ」


 どろちゃんは地図へ戻りました。


 風と天気を見て、日没までの時間を数えます。帰路に使えそうな飛行場や草地も確認し、最後に燃料をもう一度計算しました。


 神様の燃料缶もあります。

 でも、飛んでいる途中で勝手に満タンになる便利な缶ではありません。

 使い切ったあと、機体から降ろし、燃料系統から切り離して地上へ置き、一晩休ませなければ戻りません。


 だから、あるものをあるだけ使って飛ぶしかありません。


「帰りも大丈夫」


『それなら行こうか』


「はい」


 フランソアが後席へ乗りました。


 今回も、服を含めて重量を確認してあります。


 タドポール君は滑走を始めました。


 地面が離れます。


 どろちゃんは機首を東へ向けました。


          ◇


 ウィーンには、お父様の小さなタウンハウスがあります。


 大使館でもありません。

 大きな宮殿でもありません。


 エルレンフェルト家の者がウィーンで長く用事をするときに使う、町の小さな家です。


 お父様は何度もここへ来ています。

 だから使用人も最低限いて、書類を置く部屋も、客を通せる部屋も、馬車を使うための手配もできました。


 どろちゃんの部屋もあります。


 ただし、タドポール君は家の前へ置けません。


 町の外で降りて、そこからタウンハウスへ入りました。


「お父様、いる?」


「まだお戻りになっていません」


「やっぱり」


 お父様は仕事中でした。


 薬の受け渡しは、その日のうちに始まりました。


 箱が一つずつ開かれます。

 数量が確認されます。

 書類と照合されます。


 そこまではよかったのです。


「こちらは、医師や治療にあたる人を優先してください。こっちは市民の患者さん用です」


 どろちゃんが箱の表示を見せました。


 受け取りを担当していた役人は、二つを見比べてから頷きました。


「表示も含めて受領します。ただ、ここで直接どなたかへお渡しすることはできません。いったん保管し、配分は別に決めます」


「病院へ行くんじゃないの?」


「まずは保管所です」


 どろちゃんは首を傾げました。


「もう病人はいるでしょう?」


 役人はすぐには答えず、それから帝国内の事情を説明し始めました。


 帝国の各地から依頼が来ています。

 宮廷にも必要です。

 高位の者が病気になった場合の備えも必要です。

 どの領邦へどれだけ出すかは、ウィーンだけでは決められません。

 勝手に別の領邦へ配ることもできません。


 だから、まず保管する。


 どろちゃんは、箱に書いた文字を見ました。


 医療従事者用。


 一般治療用。


 文字はそのままです。


 でも、意味は少し消えていました。


 説明を聞き終えても、どろちゃんは箱から目を離しませんでした。


「じゃあ、お医者さんに先に渡るとは限らないんだ」


「必要が生じた際には、しかるべき判断がなされます」


 いないわけがありません。


 戦争中です。

 人も動いています。

 商人も兵士も荷物も、東から西へ、西から東へ行き来しています。


 病気も一緒に動きます。


 どろちゃんは、もう一度箱を見ました。


 持ってきました。


 確かに、ウィーンまでは持ってきました。


 でも、自分が届けたかったところへ届いた感じがしません。


          ◇


 夕方、お父様が戻ってきました。


「どうだった」


「渡した」


「そうか」


「金庫みたいなところに入った」


「そうなるだろうな」


「知ってたの?」


「ある程度は」


「じゃあ言ってよ」


「言えば、お前は持ってこなかったのか?」


 どろちゃんは黙りました。


 持ってきます。


 ないよりは、ある方がいい。


 少なくともウィーンにはある。

 必要になったとき、何もないところから始めるよりはいい。


 でも、納得したわけではありません。


「帝国って、ほんとに一つじゃないね」


「一つの帝国ではある。だが、ウィーンが命令を書けば、どの領邦でも同じように動く国ではない」


「じゃあ、お薬をここへ置いても、その先が別々なんだ」


「そういうことだ。誰の権限で、誰の領地へ、何をどれだけ出すのか。それだけでも話が要る」


「……分かりにくい」


「だから私はここへ来ている」


 お父様は疲れた顔で言いました。


 どろちゃんは、それ以上聞きませんでした。


「明日も仕事?」


「ああ。お前まで付き合わせる用事ではない。町でも見てきなさい」


「いいの?」


「せっかくウィーンまで来て、薬庫だけ見て帰るつもりか」


「それは嫌」


「なら決まりだ」


 どろちゃんは少し考えて、お父様を見ました。


「お父様は見に行かないの?」


「仕事だ」


「かわいそう」


「誰のせいで仕事が増えたと思っている」


「フランス?」


「……お前もだ」


 どろちゃんは聞かなかったことにしました。


          ◇


 翌朝、どろちゃんはフランソアと町へ出ました。


 ウィーンは、パリともロンドンとも違いました。


 道には馬車も荷車も走り、商人の横を兵士や聖職者が通っていきます。耳を澄ませば、いくつもの言葉が聞こえました。東から来た人も、南から来た人もいます。


 ウィーンは、西の端ではありません。

 東の端でもありません。


 人と物が、いくつもの方向から集まる場所でした。


「大きい」


 どろちゃんが見上げました。


 シュテファン大聖堂です。


 高い塔が町の中から突き出しています。


「登れるかな」


「お嬢様、あれは階段ですよ。かなりありそうですけど」


「今日は飛行機じゃないから、上から見たい」


「……では、行きましょう」


 フランソアは少し笑って、先に入口を探しました。


 結局、どろちゃんは上りました。


 空を飛ぶことには慣れているのに、階段で上ると疲れます。


「飛行機の方が楽」


「それは、比べる方がおかしいです」


 フランソアも少し息を整えながら答えました。


 上から見る町は、タドポール君から見る町と違いました。


 飛行機なら、すぐ通り過ぎます。

 ここでは屋根の形も、道の曲がり方も、人が動く方向もゆっくり見えます。


 降りてから、グラーベンの方へ歩きました。


 そこで、どろちゃんは足を止めました。


「これ、何?」


 大きな柱があります。


 説明を聞きました。


 ペスト。


 ほんの二十数年前に、この町を襲った大きな流行の記憶でした。


「……ペスト」


「ご存じなんですか?」


「うん」


 知っています。


 未来の教科書でも知っています。

 病原体も知っています。

 ノミとネズミの関係も知っています。


 でも、ここでは教科書ではありません。


 この柱を作らせた人たちの中には、家族を失った人がいます。

 友人を失った人がいます。

 店ごと人がいなくなったところもあったはずです。


 町を歩いている中年以上の人なら、そのときのことを覚えている人も珍しくありません。


「まだ近いんだね」


「何がです?」


「ペスト。ここにいる人の中には、覚えてる人がまだたくさんいる」


 フランソアは柱を見上げました。


 どろちゃんも、もう一度見ました。


 それから歩きました。


 教会へ入りました。

 店を見ました。

 市場も見ました。


 ある店では、フランソアの顔を見た店員が、しばらく商品を渡すのを忘れました。


 フランソアは気づいていました。


 どろちゃんは別の商品を見ていて、気づきませんでした。


 ウィーン見物は、普通に楽しかったのです。


 途中までは。


          ◇


「エルレンフェルト伯爵でいらっしゃいますか」


 呼び止められました。


 どろちゃんは振り返りました。


 身なりのよい男が立っています。


「そうですけど」


「お願いがございます」


「お父様なら、今日はお仕事です」


「いえ。お嬢様に」


「私?」


「はい」


 少し嫌な予感がしました。


 でも、接収の話でも戦争の話でもありませんでした。


 病人です。


 ウィーンの近郊に、大きな屋敷を持つ商人がいます。

 非常に裕福です。

 ハプスブルク家とも長く縁があります。

 南や東との取引も多く、商人や荷物が絶えず出入りします。


 その家の主人が病気になりました。


 息子もです。


「お医者さんは?」


「すでに診ております」


「じゃあ、どうして私?」


 男は少し迷いました。


「お薬をお持ちだと聞きました」


 どろちゃんは止まりました。


「どこで?」


「昨日、エルレンフェルトからお薬が運び込まれたことは、すでに」


「早いね」


 商人の情報網でした。


 薬がウィーンへ来た。

 それを運んできた娘が町を歩いている。


 そこまで、もう調べられています。


「どんな病気?」


「高い熱がございます。それから……腫れが」


 どろちゃんの顔から、少しだけ観光客の気分が消えました。


「行きます」


 返事は早くなりました。


          ◇


 屋敷は大きなものでした。


 庭があります。

 馬車があります。

 使用人も多くいます。


 でも、家の中は静かでした。


 病気の家の静けさです。


 主人の部屋へ入りました。


 熱があります。

 全身状態も悪い。

 痛みを伴う大きな腫脹があります。


 どろちゃんは必要なことだけ確認しました。


「これ、いつから?」


 返事が来ます。


「その前に、南か東から来た人と会いました?」


 何人もいます。


「荷物は?」


 たくさん来ています。


 この家で正確な感染経路を一つに決めることはできません。


 どろちゃんは息子も診ました。


 似ています。


 こちらも熱が高い。


「……たぶん、ペストです」


 部屋の中は静かなままでした。


 誰も驚きません。


 どろちゃんの方が、少し驚きました。


「知ってた?」


 家の古い使用人が答えました。


「そのように考えております」


「怖くないの?」


 今度は返事が遅れました。


「怖うございます」


「じゃあ、なんでみんな静かなの?」


「騒いでも、よくなる病ではございませんので」


 その言葉で、どろちゃんは分かりました。


 知らないのではありません。


 知っています。


 中年以上の人ほど、ペストを知っています。


 だから諦めています。


「お薬、使います」


 部屋の空気が少し変わりました。


「その薬が、あるのでございますか」


「あります」


 言ってから、どろちゃんは止まりました。


「……家に」


「家?」


「お父様のタウンハウス」


 フランソアが小さく息をつきました。


「取りに戻りましょう」


「うん」


「その前に、もうお一人」


「いるの?」


 商人の妻でした。


 ただし、こちらは急に悪くなったのではありません。


 長いあいだ療養しています。


 痩せています。

 咳があります。

 熱が続くことがあります。

 寝汗もあります。


 そして最近は、ときどき血が出ます。


「血を吐くって聞いたけど」


「はい」


「咳のあと?」


「はい」


 どろちゃんは、少し長く診ました。


 夫と息子とは違います。


「これは、たぶん別の病気です」


「別?」


「結核だと思います」


 妻は静かに聞いていました。


 こちらも、病名が分かったからといって驚く様子はありません。


 長く悪くなってきた病気です。


 家族も使用人も、少しずつ諦める時間がありました。


「この人にも、お薬を使います」


 今度こそ、部屋の中がはっきり動きました。


「奥様にも?」


「うん。ただし、こっちは長いよ」


 どろちゃんは念を押しました。


「何日か飲んで元気になったから終わり、じゃないです。ずっと治療が必要です」


 まだ薬を取りに戻ってもいないのに、もう長期戦の話になりました。


          ◇


 タウンハウスへ戻りました。


「ストレプトマイシンとゲンタマイシン、私の予備どこだっけ」


 どろちゃんは自分の部屋へ入りました。


 そこで止まりました。


 机の上に箱があります。


 朝にはありませんでした。


「……なにこれ」


 フランソアも机をのぞき込みました。


「私も知りません。朝にはありませんでしたよね」


「なかった」


 使用人も知りません。


 でも、どろちゃんには、だいたい分かりました。


「神様だ」


 箱を開けます。


 中には錠剤が入っています。


 説明もあります。


 どろちゃんには読めました。


 レボフロキサシン。


 説明紙には、見覚えのある構造式もありました。


 キノロン骨格。

 フッ素。

 見れば、未来の記憶が戻ります。


「これ、抗生物質じゃない」


 フランソアが首を傾げました。


「お薬じゃないんですか?」


「お薬です。抗菌薬」


「同じじゃないんです?」


「少し違う。ストレプトマイシンとかゲンタマイシンとは、作り方も仲間も違うの」


 細かい分類を今ここで説明している場合ではありません。


 どろちゃんは箱の中身を確認しました。


 量。

 表示。

 保存方法。


 そして、少し黙りました。


「なんで、今これなんだろう」


 返事はありません。


 神様は説明書を入れることはあっても、意図まで丁寧に手紙へ書いてくれるとは限りません。


 でも、目の前には三人の患者がいます。


「持っていこう」


「はい」


 ストレプトマイシンとゲンタマイシンを取りに戻ったはずでした。


 どろちゃんは、レボフロキサシンを持って屋敷へ戻りました。


          ◇


 商人と息子には、まず急性の感染症として治療を始めました。


 妻にも使います。


 ただし、妻だけは話が違います。


「奥様は、これだけ飲めば全部終わり、とは思わないでください。少し元気になっても途中でやめないで。あとで別のお薬も組み合わせます」


 商人は寝台の上から、ゆっくり頷きました。


「長くかかるのですね」


「うん。こっちは急いで終わらせない方がいいです」


 どろちゃんは、そこを何度も言いました。


 結核は、少し熱が下がっただけで勝ったことにはなりません。


 夫と息子の方も、薬だけ渡して終わりにはしませんでした。


 水分。

 食事。

 尿。

 熱。

 呼吸。

 意識。


 見るものはいくつもあります。


 そして家の中も見ました。


 最初に目についたのは、毛皮でした。


「これ、いっぱいあるね」


 高価な毛皮です。


 敷物にもなっています。

 椅子にもあります。

 寝具の近くにもあります。


 商人の家なので、珍しくありません。


 どろちゃんには、別のものが気になりました。


「ノミ、いるかもしれない」


 使用人たちが毛皮を見ました。


「全部捨てるのでございますか」


「捨てなくていいよ。高いんでしょう?」


「はい」


「じゃあ、人がいるところから一回どけて」


 毛皮だけではありません。


 寝具。

 厚い布。

 藁や詰め物。

 食料庫。

 穀物の袋。

 壁際。

 地下の物置。

 馬を扱う場所。


 どろちゃんは順番に見ました。


「ネズミ、いる?」


 使用人の顔で分かりました。


「いるね」


「おります」


「いきなり全部殺さないで」


 これは大事です。


 ネズミだけ先にいなくなると、そこについていたノミが別の血を探します。


「先にノミの方を減らす。それからネズミの出入りを止める」


「出入りを?」


「穴を塞ぐ。食べ物を出しっぱなしにしない。袋を床へそのまま置かない。掃除する」


 話がどんどん大きくなりました。


 洗える寝具は洗います。

 熱を使えるものには熱を使います。

 汚れた場所は洗浄します。

 必要なところには消毒液も使います。


 妻が咳をしていた部屋は、特に換気します。

 寝具を共用しません。

 咳や痰を扱った布も、そのまま積み上げません。


「お嬢様」


 フランソアが、運び出されていく寝具を見ながら言いました。


「なに?」


「最初は、お薬を届けに来たんですよね?」


「そうだった」


 どろちゃんも周りを見ました。


「でも、ここでまた病気になったら困る」


「ここまで見つけたら、放っては帰れませんね」


 商人の屋敷は、その日から大掃除になりました。


          ◇


 翌朝。


 息子の熱は、まだあります。


 でも、昨日より少し違います。


 商人本人も、悪化する一方ではなくなりました。


 どろちゃんは喜びすぎません。


「まだです」


 家族にも言いました。


「まだ治ったって言わないでください」


 もう一日。


 さらに一日。


 親子は、はっきり危険な方向から外れ始めました。


 食べられる量が増えます。

 話せる時間が長くなります。

 熱も下がってきます。


 使用人たちの顔が変わりました。


 中年以上の者ほど、その変化を信じにくそうに見ています。


 この病気を知っているからです。


「本当に、助かるのでございますか」


「たぶん」


 どろちゃんは、そこで断言しませんでした。


「でも、最初に見たときよりずっといいです」


 妻の方は、もっとゆっくりでした。


 咳はまだあります。


 血が出ることも、すぐにはなくなりません。


 それでも、熱の出方が少し変わり、食べられるものが増えました。


「奥様は長いです」


 どろちゃんはまた言いました。


「私が帰っても、治療を続けてください」


 商人は、まだ寝台の上から聞いていました。


「薬は、どうやって」


「送ります」


「ウィーンへ?」


 どろちゃんは少し黙りました。


 昨日、持ってきた薬がどこへ入ったのかを思い出しました。


「……別のやり方、考えます」


 商人は、その言葉を覚えました。


 どろちゃんは、まだ知りません。


 この家の荷物が、どこまで行くのか。

 この商人の手紙が、どれだけ遠くまで届くのか。

 どの町に倉庫があり、どこに代理人がいて、どの川を船が下り、どの峠を荷車が越えるのか。


 本人が超絶お金持ちだということは、見れば分かります。


 でも、その金よりも大きいものを持っていることまでは、まだ分かっていませんでした。


 道です。


 商人の道です。


          ◇


 お父様のタウンハウスへ戻ると、お父様も戻っていました。


「町は見たか」


「見た。大きかった。教会も見たし、ペストの柱も見た」


「それならよかった」


「それから三人治してきた」


 お父様の手が止まりました。


「待て。町を見に行ったのではなかったのか」


「途中で呼ばれたの」


「……誰に」


 どろちゃんは、そこからまとめて説明しました。


 大商人。

 息子。

 妻。


 ペスト。

 結核。

 神様から届いたレボフロキサシン。


 お父様は途中から椅子へ座りました。


 話を最後まで聞くと、お父様はしばらく黙りました。


「お前は、なぜ町見物だけで帰ってこられない」


「私が呼んだんじゃないよ。それに、お薬も神様が置いたんだよ」


「分かっている。責めてはいない」


「じゃあ、よかった」


「安心するところが違う」


 お父様は額を押さえました。


「その商人の名は覚えているな」


「うん。すごくお金持ちだった」


「金だけではない。あの家がどこと商売をして、どこに人を置いているかも覚えておきなさい」


「そんなに大事?」


「そのうち分かる」


 また、それでした。


 そのうち分かることが増えています。


          ◇


 お父様の仕事は、まだ終わっていませんでした。


 どろちゃんだけ先に帰ります。


 出発の朝、もう一度薬の話をしました。


「私が持ってきた箱、やっぱり病院には行かないの?」


「少なくとも、すぐにはな」


「医療従事者用って書いたのに。中身が残ってても、使われなかったら意味ないよ」


 お父様は馬車へ積ませる書類から目を上げました。


「だから、お前は次のやり方を考えているのだろう」


「考えていいの?」


「止めたところでやめるのか?」


「やめない」


「なら、私に許可を聞くな」


「はい」


 お父様は、またウィーンに残りました。


 どろちゃんとフランソアはタドポール君へ向かいました。


          ◇


 帰りは、来た道をそのまま戻りませんでした。


 天気がよかったのです。


 冬の空は短い。

 山の天気は変わりやすい。


 だから、何でも好きなところへ寄れるわけではありません。


 それでも、風と雲と残り時間を見れば、少し南寄りに回る余裕がありました。


「ザルツブルク、見て帰ろうか」


『観光飛行かい?』


 技師さんが笑いました。


「偵察も兼ねます」


『便利な言葉だね』


「ほんとに地形見ますよ」


『それならいい』


 タドポール君は西へ向かいました。


 やがて山が近づきます。


 白いものが増えました。


 最初は谷の奥だけです。


 次に斜面。


 その次には、山の上が広く白くなりました。


「雪」


 どろちゃんの声が少し明るくなりました。


「すごいですね。山が真っ白です」


 後ろからフランソアの声がしました。


「うん」


 これだけの雪を一度に見るのは久しぶりでした。


 イルクーツクにいたころは、雪は珍しいものではありませんでした。


 寒い。

 滑る。

 道が悪くなる。

 靴も濡れる。


 生活していたころは、面倒なものでもありました。


 でも、久しぶりに空から見ると違います。


 山の稜線が白い。

 谷の奥も白い。

 日の当たるところだけ少し色が変わります。


 どろちゃんは、少しうれしくなりました。


『見とれるのはいいけど、雲には入らないでね』


「はい」


 技師さんの声で前を見ました。


 山の空では、景色がきれいだから安全とは限りません。


 風上と風下で空気の動きは変わります。

 山を越えた空気が下へ叩きつけられる場所もあります。

 雲の中へ入れば、氷も怖い。


 どろちゃんは無理に峰へ近づきませんでした。


 必要な高度を取り、雲を避け、逃げる方向を残します。


 高ければ高いほど偉いわけでもありません。


 安全に帰れる範囲で高く飛びます。


          ◇


 ザルツブルクが見えてきました。


 町を流れる川があります。


 その上に、城塞が見えます。


「あれ、分かりやすい」


 ホーエンザルツブルク城です。


 町を見下ろす位置に大きく乗っています。


 その下には大聖堂があります。


 どろちゃんは少し旋回しました。


『長居はしないよ』


「うん。見るだけ」


 もう少し南へ目を向けます。


 塩です。


 このあたりでは、昔から山の中の岩塩が大きな富を生んできました。


「岩塩坑、あの辺だよね」


 山の中の坑道そのものは、空から見ても分かりません。


 見えるのは町です。

 道です。

 川です。

 荷物が集まる場所です。


「穴より、運ぶ方が見えるね」


『鉱山は穴だけじゃないからね』


「うん」


 掘る。

 運ぶ。

 精製する。

 売る。


 塩も、結局は物流でした。


 どろちゃんは、少しだけウィーンの商人を思い出しました。


          ◇


 さらに西へ。


 山が近くなります。


 タドポール君は、無理に山を横切るのではなく、谷と風を見ながら進みました。


 イン川が見えてきます。


 その谷の中に、インスブルックがあります。


 周囲が山です。


「これは、地上だと山ばっかり見えるね」


「上から見ても、山ばっかりですね」


 フランソアが答えました。


「ほんとだ」


 どろちゃんは笑いました。


 町は山に囲まれています。


 でも、川と谷が道を作っています。


 人も物も、その細長い空間を通って移動します。


 上から見ると、それがよく分かりました。


 どろちゃんは地図へ書き込みました。


 町。

 川。

 谷。

 山。

 使えそうな平地。


 観光だけではありません。


 次に来るときの情報になります。


 もっと高度を取る場所では、フランソアにも声をかけました。


「寒くない?」


「まだ平気です」


「息は?」


「それも大丈夫。変だったら、すぐ言います」


「うん」


 無理はしません。


 どろちゃんは、山の上へ競争しに来たわけではありません。


 雪を見るために帰れなくなったら、お父様に何を言われるか分かりません。


『そこを基準にするのかい?』


「安全側です」


『まあ、間違ってはいないね』


          ◇


 山が少しずつ遠ざかりました。


 白い範囲も減っていきます。


 どろちゃんは、少し残念でした。


「もう終わりか」


「雪ですか?」


「うん」


「また来られますよ。今度は降りてもいいですし」


「それもいいね」


 タドポール君はさらに西へ進みました。


 やがて大きな川が見えてきます。


 ライン川です。


 バーゼルの上空を越えます。


 ここまで来れば、どろちゃんにはだいぶ馴染みのある空です。


「帰ってきた感じする」


『まだ家じゃないよ』


「分かってる」


 ライン川を目印にしながら北へ。


 そこからエルレンフェルトへ向きを変えます。


 夕方になる前に、見慣れた畑と森が見えました。


 タドポール君は高度を落としました。


 着陸。


 滑走。


 停止。


 どろちゃんは、しばらく座ったまま外を見ました。


「帰った」


 フランソアが後ろで笑いました。


「お帰りなさい、お嬢様」


「フランソアも帰ってるよ」


「あ、そうでした」


          ◇


 荷物を降ろしました。


 ウィーンへ持っていったストレプトマイシンとゲンタマイシンは、もうありません。


 ウィーンに置いてきました。


 でも、医療従事者と市民へ届けたつもりには、どろちゃんはなれませんでした。


 箱は届いた。


 薬も届いた。


 けれど、使う人のところまでは届いていない。


 その代わり。


 持っていく予定のなかったレボフロキサシンを神様から受け取り、予定になかった三人へ使ってきました。


「なんか変」


 どろちゃんは、残った薬の箱を見ました。


『何が?』


「ストレプトマイシンとゲンタマイシンを東へ運びに行ったはずなのに」


『持っていった薬はウィーンへ置いて、持っていかなかった薬を向こうでもらったね』


「しかも、予定してなかった人に使った」


『最初の予定で残ったのは、東へ飛んだことくらいかな』


「ほんとだ」


 技師さんは笑いました。


 どろちゃんも、神様が何を考えていたのか断定しませんでした。


 ただ一つ、分かったことがあります。


 薬を町まで運べるだけでは足りません。


 倉庫へ運べるだけでも足りません。


 必要としている人のところへ、最後まで届けなければなりません。


 どろちゃんは、前に一度だけ使った小さなパラシュートを思い出しました。


 お母様の実家へ行く前に、着替えを先に落としたときのものです。


「……今度は、お薬でやってみよう」


『着替えより、ずっと面倒だよ。箱が無事でも、中で瓶が割れたら終わりだし、落ちたあと風に引きずられることもある』


「うん。だから、ちゃんと試す」


 どろちゃんは地図を開きました。


 次に行く場所は、もう決まりかけていました。



――小さな説明――


●1702年のウィーン

 この時代の神聖ローマ帝国には、近代国家のように「帝国の首都が一つあり、そこから全国行政を直接動かす」という仕組みはありません。この章のウィーンは、皇帝レオポルト1世とハプスブルク宮廷の主要な所在地として登場しています。どろちゃんや父親がウィーンへ行っても、皇帝本人に会うわけではなく、実際に接するのは宮廷・行政・医療・外交などの実務を担う人々です。


●シュテファン大聖堂とペスト記念柱

 シュテファン大聖堂は1702年よりはるか前からウィーン中心部の大きなランドマークでした。グラーベンの三位一体柱、いわゆるペスト記念柱も、1679年の大流行を背景に作られ、1693年に完成しています。したがって1702年のどろちゃんにとって、これは遠い歴史を記念した古い碑ではなく、まだ生々しい記憶と結びつく新しい記念物です。


●ストレプトマイシン、ゲンタマイシン、レボフロキサシン

 ストレプトマイシンとゲンタマイシンはアミノグリコシド系抗菌薬で、歴史的には微生物由来の「抗生物質」に含めて扱われます。一方、レボフロキサシンはフルオロキノロン系の合成抗菌薬です。この章では、どろちゃんが「抗生物質ではなく抗菌薬」と言い分けています。

 現代の用語では「抗菌薬」を細菌感染症に使う薬の総称として、抗生物質も合成抗菌薬も含める使い方があります。


●ペストと結核の治療

 現代ではレボフロキサシンはペスト治療に用いられる選択肢の一つです。また結核治療でも用いられることがあります。ただし結核は一種類の薬を短期間使って終わる病気ではありません。この章でも、妻については「少し改善したので治療終了」にはせず、長期治療と他剤の組み合わせが必要になる前提で描いています。


●ネズミとノミ

 腺ペストでは、ネズミなどの小型哺乳類とノミの関係が重要です。ネズミだけを先に一斉に殺すと、宿主を失ったノミが人へ移る危険があるため、ノミ対策と住環境の改善を先に行う考え方があります。この章で、どろちゃんが高価な毛皮をすぐ焼かず、まず生活空間から外し、寝具・食料・物置・鼠穴などを順に確認しているのはそのためです。


●ザルツブルクと塩

 ザルツブルク周辺では古くから塩が重要な産業でした。南側のデュルンベルク周辺には非常に古い岩塩採掘の歴史があります。ただし、坑道そのものを飛行機から見分けるのは難しいので、本文では町、道、川、輸送の動きの方を見ています。

 ザルツブルク大聖堂は1628年に現在につながる初期バロックの大聖堂が献堂され、ホーエンザルツブルク城も1702年にはすでに町を見下ろす大きな城塞でした。


●インスブルック

 インスブルックはイン川の谷にあり、アルプスの山々に囲まれています。どろちゃんは町へ降りず、上空から地形と都市の位置関係を見ています。この時代にはすでにマクシミリアン1世時代の黄金の小屋根や宮廷教会などが存在していましたが、高高度を飛ぶタドポール君から細部を見分けることはできないため、本文では大きな地形を中心に描いています。


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