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26貴族令嬢は、お風呂で未来の人を心配します。

お風呂回です。他の小説も読ませてもらいましたが女性主人公ではお風呂回必須のようなので入れてみました。女性しか登場しません。

第二十六章 貴族令嬢は、お風呂で未来の人を心配します



 ロンドンから帰ってきた日の夜。


 家族と夕食を済ませたどろちゃんは、ようやくお風呂に入っていました。


 英国王から預かった返書は、封をされたまま書斎に置いてあります。宛先はフランス国王です。今度はそれを持って、またパリへ行くことになります。


 でも、それはお風呂から上がってからでも考えられます。


 どろちゃんは、久しぶりに少し長くお湯につかっていました。


 熱すぎないお湯に肩までつかって、何もしません。


 机もありません。


 紙もありません。


 薬の培養記録も、工房から持ってきた図面もありません。


 誰かに返事をしなくてもいい時間です。


 そして、こういうときは技師さんたちも出てきません。


 どろちゃんには、たぶん理由が分かっています。


 技師さんたちは、どろちゃんの目を借りているだけではありません。


 もっと奥でつながっていて、どろちゃんが見ているものは向こうにも見えているようです。


 だから、お風呂に入っているときには気を利かせてくれているのだ、とどろちゃんは思っていました。


 どろちゃん自身は、お風呂なら別に見られて困るとも思っていません。


「そこまで気を利かせなくてもいいのに」


 とは、ときどき思います。


 でも、トイレは嫌です。


 お風呂のあいだ静かなことについては、技師さんたちは少し気を利かせすぎなのかもしれない、と思っていました。


 代わりに、今日までに自分が何をしてきたのかを、ぼんやり思い返しました。


 前のパリでは、電気や電子、原子、元素の周期表、それにメートルやキログラムの話までしました。


 今日までいたロンドンでは、グリニッジのことを話し、単位の話を進め、ニュートン先生本人に力の単位へ名前を使わせてもらう許可まで取りました。


 1 N = 1 kg・m/s²。


 そこまで決めて、紙にも書いて、持って帰ってきています。


 そして、全部やってしまってから、お風呂の中でようやく別のことに気づきました。


「……未来の人たちの仕事、どうなるんだろう」


 天井を見ます。


 ニュートン先生はいます。


 しかも、本人に聞いてから名前を使いました。


 パスカルさんも、もう亡くなっていますが、ちゃんとこの時代の人です。


 でも、その先です。


 アンペールさんは、まだいません。


 ボルタさんもいません。


 オームさんもいません。


 ファラデーさんもいません。


 フレミングさんも、もちろんいません。


「困るなあ」


 未来で普通に使っていた名前が、ここではまだ人の名前ですらありません。


 いや、人の名前にはなるのかもしれません。


 でも、その人がまだ生まれていないのです。


 フレミングの左手の法則も右手の法則も、イルクーツクの学校で何度も使いました。


 ところが、この世界で今から電磁気を教えるなら、


「フレミングさんって誰?」


 になります。


 しかも、このあたりの言葉はどこかドイツ語に似ています。


 磁界や電流、力、運動を表す言葉が違えば、未来の英語で覚えた頭文字の並びをそのまま持ってきても、きれいには合いません。


「左手と右手だけでいいかな」


 手をお湯の上へ出しかけて、やめました。


 お風呂でまで確認することではありません。


 数式の中では、磁束密度や電流、力のような物理量を、B、I、Fといった文字で表します。


 こういう物理量の記号を同じにしておけば、使う言葉が違っても式は同じにできます。


 メートルのm、キログラムのkg、秒のs、力のニュートンのNといった単位記号も同じです。数値のあとに付ける記号まで未来とそろえておけば、計算や図面を読み替えずに済みます。


 B、I、Fのような記号なら、どの言葉を使っても変わりません。


「……たぶん、それで怒られない」


 誰に、とは言いませんでした。


 技師さんたちはいません。


 でも、未来と単位や記号をわざわざ変えたら、たぶん後で怒られます。


 そこから、恒星のことを思い出しました。


 恒星のスペクトル分類は、O、B、A、F、G、K、Mです。


 星の光をスペクトルで分け、表面温度の高い方から並べた分類で、未来の天文学ではこの順番が普通に使われています。


「これも変」


 最初から知っている人が分類するなら、こんな順番にはしません。


 でも、未来ではこれです。


 順番にも歴史があります。


 途中で分類され、整理され、消えた記号があり、その結果として残った並びです。


 今ここで最初から、


 O、B、A、F、G、K、M。


 と並べたら、


「どうして?」


 と聞かれます。


「そういうものだから」


 では、たぶん納得してくれません。


 でも、変えると未来の本と合わなくなります。


「困るなあ」


 もう一度言いました。


 さらに、電子殻の呼び名もあります。


 K、L、M、N、O、P、Qは、原子核のまわりにある電子の殻を内側から順に呼ぶときの名前です。主量子数なら1、2、3、4、5、6、7に当たります。


「これもだ」


 最初から電子殻を知っているなら、どう考えても一番内側からA、B、Cと付ける方が自然です。


 もっといえば、主量子数で1、2、3と呼べば済みます。


 それなのに未来ではK殻から始まります。


「Kって、何でKからなのって聞かれるよね」


 聞かれます。


 絶対に聞かれます。


 どろちゃん自身、学校で最初に習ったときに思いました。


 そのときは、そういう歴史だから、と教えてもらえました。


 でも今は、その歴史がまだありません。


「……歴史まで先に作るの?」


 さすがに変でした。


 お湯の表面が少し揺れました。


 どろちゃんは膝を抱えるようにして、もう少し深く沈みました。


 そこまで考えて、もっと大きな問題へ行きました。


 名前ではなく、人です。


「メンデレーエフさん」


 この前のパリで、もう周期表を出してしまいました。


 しかも、原子量順ではなく、原子番号順です。


 未来の完成した形に近いものを、1700年代の初めへ持ってきてしまいました。


 メンデレーエフさんが生まれるよりずっと前です。


 モーズリーさんも、まだずっと先です。


「……もう、なくしちゃったかな」


 少し嫌な気持ちになりました。


 イルクーツクにいたころ、どろちゃんは飛び級していました。


 年上の子に混じって授業を受け、図書館では授業より先の本も読みました。


 科学そのものも好きでしたが、科学者の話も好きでした。


 どうしてその人がその考えへ行ったのか、何を間違えたのか、誰と争ったのか、何が最初には理解されなかったのか。そういう話を読むのが好きでした。


 だから、未来の名前は単なるラベルではありません。


 その人の人生と一緒に覚えています。


「アボガドロさんも」


 どろちゃんは、少し顔をしかめました。


 アボガドロさんは好きでした。


 ろばーとっちを好きなのと少し似ています。


 何となく、推したくなる人でした。


 気体について、どろちゃんは答えを知っています。


 同じ温度と同じ圧力で、同じ体積の気体にある粒子の数。


 どこまで言えば、その先をアボガドロさんが言うことになるのか。


 どこまで言ったら、アボガドロさんの仕事を自分が先にやったことになるのか。


「でも、まだ生まれてないし」


 そもそも生まれてくるでしょうか。


 歴史は、もう変わっています。


 生きるはずだった人が生きています。


 死ぬはずではなかった人が死ぬ可能性だってあります。


 戦争の動きも変わりました。


 人の移動も変わります。


 誰かの両親が出会う日が1日ずれただけでも、その子は未来にいないかもしれません。


 そう考えると、急に怖くなりました。


「……そこまで考えたら、何もできない」


 お湯を手ですくって、また落としました。


 それでも、アボガドロさんが生まれてきたとして。


 そのとき、気体分子についてもう分かっていたら。


 あの人は何をするのでしょう。


 何もしないのでしょうか。


「そんなことないよね」


 どろちゃんは、小さく言いました。


 アボガドロさんがすごかったのは、教科書に名前が残る法則を1個持っていたからではありません。


 その問題を考えられる人だったからです。


 なら、答えが先にあったら、その次を考えるかもしれません。


 史実では道具がなくてできなかった研究も、測れなかった量も、まだ知られていなかった構造も、こちらでは先にあります。


「もっと先に行ってくれたらいいんだ」


 少し楽になりました。


 でも、すぐに別の顔が浮かびます。


「ランゲルハンスさんは……」


 これは少し困ります。


 膵臓にある島状の細胞集団も、皮膚にある樹状細胞も、どろちゃんは両方知っています。


 機能まで、未来ではかなり先まで分かっています。


 もし最初から教科書に載っていたら、若いランゲルハンスさんは、それを発見できません。


 研究者として評価される最初の仕事までなくなるかもしれません。


 病気になって研究環境から離れたあと、診療へ戻ってしまうことも知っています。


 海の生き物を調べる人にもなります。


 でも、研究室も研究費もなければ、好きなだけ研究できるわけではありません。


「この人は、ちょっと本当に困るかも」


 アボガドロさんより深刻な気がしました。


 優秀な人なら、別のことを発見する。


 それはたぶん本当です。


 でも、優秀な人が研究者でいられるとは限りません。


 研究を続けるには、場所も道具も標本も本もお金もいります。


 そして、その人に研究を続けさせようと思う人もいります。


 どろちゃんは、そこでライデンを思い出しました。


 自分がいなくても動く研究室があり、同じ方法で記録する人がいて、別の町でも同じ条件で実験する人がいます。


 ライデンだけではありません。ロンドンとエルレンフェルトがあり、パリにも記録の方法や培養の手順を残してきました。


「そうか」


 どろちゃんは、少し姿勢を変えました。


 未来の人の発見を取っておくことより、発見を1個先にされても研究を続けられる場所を作る方が大事かもしれません。


 ランゲルハンスさんが膵島を見つけなくても。


 顕微鏡をのぞいて、


「ここに、まだ誰も気づいていないものがある」


 と言える場所があればいい。


 アボガドロさんが気体の法則を言わなくても、その次の問題を考えられればいい。


 メンデレーエフさんが周期表を作らなくても、周期性の理由を調べてもらえばいい。


 モーズリーさんが原子番号順を発見しなくても、その番号が何を意味しているのか、もっと早く測ってもらえばいい。


 ファラデーさんが電磁誘導を最初に見つけなくても、その先に何かあるかもしれません。


「私が全部やるわけじゃないもんね」


 むしろ、全部やってはいけません。


 どろちゃんが未来から覚えていることには限りがあります。


 学校で習ったこと、本で読んだこと、仕事や生活で使ったこと、頭の中に残っているもの、それに技師さんたちが知っているもの。


 それだけです。


 未来の科学全部を持っているわけではありません。


 だったら、早くそこまで追いついてもらった方がいい。


 追いついたあとからは、本当に知らない世界です。


「その先、見たいな」


 今度は、少し楽しい気持ちになりました。


 アボガドロさんが、自分の知らない発見をする。


 ランゲルハンスさんが、教科書にない細胞を見つける。


 ファラデーさんが、どろちゃんの知らない装置を作る。


 それなら、未来の功績を奪ったことにはならないような気がします。


 少なくとも、どろちゃんにはそう思えました。


「じゃあ、これからも必要なものは隠さなくていいか」


 人が死ぬのを防げる知識や事故を減らせる知識、研究を進めるための測定法まで、「未来の誰かのため」と言って隠すのは違います。


 まだ生まれていない人より、今、傷が膿んで熱を出している人の方が先です。


 そこは迷わなくていい。


 未来の人には、その先をお願いします。


「アボガドロさん、ごめんね」


 少し考えました。


「でも、生まれてきたら、その先やってください」


 誰も返事をしません。


 当然です。


 まだ生まれていません。


 どろちゃんは天井を見ました。


 ずいぶん長く入っていた気がします。


「……暑い」


 ようやく気づきました。


 考え事をしているうちに、少しのぼせています。


 どろちゃんは湯船から出ました。



     ◇ ◇ ◇



 部屋へ戻ると、フランソワさんが待っていました。


「お嬢様、今日はずいぶん長うございましたね」


「考え事してた」


「お風呂で、でございますか」


「うん」


 フランソワさんは、どろちゃんの髪へ櫛を入れました。


 濡れた髪を少しずつ分けて、丁寧に整えていきます。


「ロンドンのお疲れでございます?」


「それもあるけど」


「ほかにも?」


「まだ生まれてない人たちのこと」


 櫛が一瞬だけ止まりました。


 でも、すぐにまた動きます。


「また、でございますか」


「また」


「今度は、どなたでございます?」


「いっぱい。アボガドロさんとか、メンデレーエフさんとか、ランゲルハンスさんとか」


「存じ上げない方ばかりでございます」


「まだ生まれてないからね」


「それでは、わたくしが存じ上げないのも仕方ございませんね」


「うん」


 フランソワさんは、どろちゃんの髪をまとめました。


 次に、湯上がりの服を整えます。


 襟元や袖、留め具まで順に確かめて、乱れているところを直していきます。


「お嬢様」


「なに?」


「その方々のことは、もうよろしいのでございますか」


 どろちゃんは少し考えました。


「うん。たぶん」


「たぶん、でございますか」


「生まれてきたら、別のことを見つけてもらう」


 フランソワさんは、どろちゃんの襟をまっすぐに直しました。


「では、お嬢様は先に進まれるのでございますね」


「うん」


 フランソワさんは、それ以上は聞きませんでした。


 鏡の中で、髪を整えられ、服を着せてもらった16歳のどろちゃんがこちらを見ています。


 パリで周期表を出して、ロンドンでニュートン先生から名前を借りる許可まで取ってきた人には、あまり見えません。


 ただ、遠出から帰って夕食を済ませ、少し長くお風呂に入って、これから休もうとしている女の子です。


 フランソワさんが、最後に襟元をもう一度整えました。


 書斎には、英国王からフランス王への手紙が待っています。


 それを届けに、どろちゃんはまたパリへ行きます。


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