25貴族令嬢は、王様のお手紙を届けます またルイ14世のところへ行きます
第二十五章 貴族令嬢は、王様のお手紙を届けます
パリから戻ったどろちゃんの机の上には、開けてはいけない手紙が一通ありました。
自分宛てではありません。宛名は英国国王、差出人はフランス国王ルイ十四世です。封蝋もそのままでした。
どろちゃんは椅子へ座って、その手紙をしばらく見ました。
「……重たい」
お父様が向かい側から言いました。
「紙がか」
「中身が」
「開けていないのだろう」
「だいたい知ってるもん」
パリを発つ前、ルイ十四世から呼ばれました。
話は三つありました。ペニシリンのこと、グリニッジを経度零度にする案、そしてメートルとキログラムを中心にした共通単位のことです。
その三つについて、英国国王へ正式に話を持っていきたい。
手紙だけでは細かいところまで伝わらないので、提案した本人から説明してほしい。
そう言われました。
「つまり、お前がフランス王の使いをするのか」
「英国伯爵なんだけどね、私」
「そこを余計に複雑にするな」
「私が複雑にしたんじゃないよ」
「かなりの部分、お前だと思うが」
どろちゃんは返事をしませんでした。
英国の伯爵になったのは、英国王が決めたことです。
フランスの科学院会員になったのも、フランス側が決めました。
けれど、飛行機で両方へ出入りして、薬と電気と単位の話を持ち込んだのは自分でした。
「ロンドンへ行ってくる」
「すぐか」
「手紙を古くする理由がないでしょう」
「今度は手紙を追い越す心配もないな」
「私が持っていくからね」
お父様は少し黙ってから、机の上の封書を見ました。
「戦争中の二人の王の間を、お前が飛ぶのだな」
「戦争のお手伝いじゃないよ」
「分かっている」
「お薬の話もするし」
「それも分かっている」
「そろそろ、あんなに並んで撃ち合うの、やめてほしいんだけど」
お父様は、すぐには答えませんでした。
「それを二人の王に言うのか」
「いきなりそれだけ言っても、たぶん聞いてくれない」
「それも分かっているのだな」
「うん」
分かっているから、余計に嫌でした。
◇ ◇ ◇
翌朝、フランソワさんがまた秤に乗りました。
「49キロちょっと」
「増えておりません」
「減ってもないね」
「お嬢様」
「はい」
「毎回これを確認なさるのでございますか」
「飛行機が変わるまでは」
タドポール君の後席は、衣類込み50キログラムまでです。
前にエルレンフェルトからロンドンへ飛んだときは、途中で上昇気流をうまく拾えなくても動力だけで確実に届くだけの余裕を取り、増槽を積みました。重量にも余裕を残したかったので、あのときはどろちゃん一人でした。
今回は事情が違います。
タドポール君は、A-11の主翼を付けた長距離モーターグライダーです。本来はよく滑るソアラーで、エンジンを止めれば普通のグライダーとして飛べます。前回の飛行で経路も分かり、航空写真や風の記録も増えました。今日の条件なら、離陸後に高度を取ってから上昇気流をつなぎ、計画上はロンドンまでグライダーとして到達できそうでした。
もちろん、それは保証ではありません。風が変わったり上昇気流を拾えなかったりすればエンジンを使います。ですから「航続距離が何キロだからロンドンへ届く」という機体ではありません。燃料は必要ですが、燃料だけで到達距離が決まるわけでもありません。
前回は安全側に倒して増槽を必要としたため一人乗りでしたが、今回は増槽を外せます。そのぶん重量の余裕が戻り、フランソワさんを後席へ乗せても必要な荷物を積めます。
フランソワさん本人には手荷物を持たせず、二人分の着替え、教授服、英国宮廷へ出るための服、書類、少量の医薬品を左右の流線形バッグへ重量をそろえて入れました。
ルイ十四世の親書だけは、油紙で包み、革の書類入れのさらに内側へ収めて、どろちゃんが自分で持ちます。
「落としたら戦争が増えそう」
「すでに戦争中でございます」
「じゃあ、もっと増えそう」
「落とさないでくださいませ」
「はい」
タドポール君が滑走を始めました。
エルレンフェルトの地面が後ろへ流れ、やがて森と畑が小さくなります。
西へ向かいます。今回はパリではなく、その先の海を越えてロンドンまでです。
どろちゃんは、以前なら神様がもっと遠くまで飛べる機体をくれなかった理由を、最近になって少し分かるようになっていました。
飛行機は船のようにその場へ止まれません。位置が分からなくなっても飛んでいるあいだは進み続け、間違った方向へ進めば、そのぶんだけ現在位置の見当も悪くなります。燃料が残っていることと、無事に帰れることは同じではありません。
今は以前より地図も航空写真も増え、時計があり、風を記録する人もいます。途中で照合する川や町も分かるようになりました。それでようやく、遠くへ飛ぶこと自体ではなく、遠くへ飛んで帰ってくる準備が整い始めています。
これは、小鳥ちゃんで宇宙へ行ったこととは別でした。あの弾道飛行はほとんど真上へ上がって戻る飛び方で、何百キロも横へ進みながら現在位置を追い続けるクロスカントリーではありません。
今日は横へ進み、途中には海まであります。
◇ ◇ ◇
海岸が見えてきたところで、どろちゃんはもう一度時計を確認しました。方位と風、海峡を渡る予定時間、向こう側で最初に拾う海岸線、その先で照合する地上目標まで、順番に見直します。
『このくらいなら大丈夫そうだね』
頭の中で技師さんが言いました。
「うん」
『でも、大丈夫そうだから確認しなくていい、にはならないからね』
「分かってる」
海岸線を越えると、下は海だけになりました。
フランソワさんは後席から外を見ましたが、何も言いません。
しばらくすると、前方にまた陸が出ました。
どろちゃんは少しだけ息を吐きました。
位置は予定から大きくずれていません。
海岸線を拾い、そこからロンドンへ向かいます。
テムズが見えてくれば、もうずいぶん楽です。
「見えた」
後ろから声がしました。
「川でございますか」
「うん。たぶん合ってる。というか、合ってないと困る」
「お嬢様」
「大丈夫。合ってるよ」
前に来たときより、ロンドンは近く感じました。
距離が短くなったわけではありません。
知っている場所になっただけです。
◇ ◇ ◇
着陸地点には、すでに人が待っていました。
英国伯爵ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトが、フランス王から英国王への親書を持って飛来する。
先に知らせてあります。
タドポール君が止まり、フランソワさんが後席から降りました。
飛行帽を外します。
迎えに出ていた若い近衛の一人が、そこで一度だけ視線を止めました。
隣にいた年上の士官が、小さく咳をしました。
若い近衛はすぐ正面を向きました。
フランソワさんは何も言いません。
どろちゃんは親書が入った革袋の留め金を確認していて、やっぱり気づきませんでした。
「伯爵閣下」
「はい」
「国王陛下への書状をお持ちとうかがっております」
「ルイ十四世陛下からです」
その一言で、周囲の空気が少し変わりました。
今日は教授として来たのでも、珍しい飛行機の娘として来たのでもありません。王から王への書状を運んできました。
「まず、書状の到着を宮廷へお知らせいたします」
「お願いします。私は勝手に持って入らない方がいいでしょう?」
「ぜひ、そのようにお願いいたします」
「分かりました」
前にヴェルサイユの庭へ勝手に行った件は、ロンドンにまで伝わっていました。
◇ ◇ ◇
国王との面会は、その日のうちに決まりました。
どろちゃんにとって、英国王は初対面ではありません。
この世界では、国王はまだ生きています。
落馬のあと、傷が悪化しかけたとき、どろちゃんたちが持っていた抗生物質を使いました。
歴史は、その時点ですでに少し曲がっています。
謁見室で、どろちゃんは親書を渡しました。
「フランス王からか」
「はい、陛下」
「戦争を終える手紙なら、なおよかったのだがな」
「私もそう思います」
国王が一瞬、どろちゃんを見ました。
「お前は、それを本人にも言ったのか」
「そこまでは言ってません」
「そこまでは、か」
「お薬のお話はしました」
封書は、しかるべき手順で開かれました。
内容を読み進める間、どろちゃんは黙っています。
やがて国王が顔を上げました。
「三つあるな」
「はい」
「薬。子午線。そして度量衡」
「はい」
「どうしてこの三つが一通の手紙に入っている」
「私がパリで一度に話したからだと思います」
「そうであろうな」
少し離れたところにいた役人が、笑いそうになって止めました。
◇ ◇ ◇
最初は薬の話になりました。
「フランス王は、この薬を軍にも使いたいということか」
「はい。でも、そこは私から少しお願いがあります」
「何だ」
「フランス軍だけとか、英国軍だけとかにしたくありません」
部屋が少し静かになりました。
「戦争中だぞ」
「知っています」
「敵兵を治すのか」
「捕虜になった人なら、治してほしいです」
「戦場へ戻るかもしれぬ」
「それは……」
どろちゃんは少し止まりました。
「私、お薬を作ったの、もう一回並ばせて撃たせるためじゃないです」
誰もすぐ返事をしませんでした。
どろちゃんも、自分が少し強く言ったことには気づきました。
「でも、今すぐ戦争がなくならないことも分かっています」
「それで?」
「致命傷じゃなかった人が、何日もたってから傷が膿んで死ぬのは減らせます。貴族でも、士官でも、兵士でも同じです」
「フランス側も、貴族の負傷者を見せたのか」
「はい。普通の兵士も見ました」
「薬は効いたか」
「効いた人はいます。でも、薬だけではだめです。弾を取らないといけない人もいるし、膿を出さないといけない人もいます。死んだ組織も処置しないといけません。だから、薬だけ渡して終わりにはしたくありません」
「何を望む」
「軍医同士で記録を交換してほしいです」
「敵同士で?」
「全部じゃなくていいです。傷の場所、熱、膿の状態、使った量、何日でどうなったか。薬が効かなかった例も。捕虜になった負傷者の治療も、途中でやめないでほしいです」
国王は黙って聞いていました。
「それは軍事情報にならぬのか」
「部隊の場所とか人数は書かなくていいです。患者の名前も、必要なければ番号でいいです」
「フランス王も了承したのか」
「少なくとも、話を始めることには」
「なるほど」
どろちゃんは、もう一つ言いました。
「それと、戦闘が終わったあと、負傷者を拾う人を撃たない時間を作れたらと思っています」
今度は、国王だけでなく周囲の軍人もどろちゃんを見ました。
「それは薬の話から離れているな」
「ちょっとだけ」
「かなりだ」
「でも、拾えなかったら薬も使えません」
国王は、しばらく何も言いませんでした。
「フランス王にも言うつもりか」
「次に会ったら」
「では、余だけに言っているわけではないのだな」
「はい」
「それなら聞いておこう」
それは同意ではありませんでした。
でも、追い出されもしませんでした。
◇ ◇ ◇
二つ目は、本初子午線です。
ここから、どろちゃんは少しだけ頭を切り替えました。
バイカル湖の近くにいたころ、学校の図書館で読んだ物語に、たいへん感じのよい英国紳士が出てきました。
礼儀正しく、相手に選ばせているように見えるのに、最後にはなぜか自分が一番ほしいものを取っている人でした。
子供だったどろちゃんは、「英国の紳士って、腹黒い」と思ったものです。
もちろん、英国人がみんなそういうわけではありません。
でも今日は、少しだけ真似をします。
「陛下。フランスは、グリニッジを世界の経度零度にしてもよいと言っています」
部屋の中で何人かが顔を上げました。
「パリではなく?」
「はい」
「フランスが、それを?」
「はい」
「代わりに度量衡を取る」
「そうです」
英国側の役人が口を挟みました。
「それでは、フランスの方が得ではありませんか。世界中がフランスのメートルを使うことになる」
どろちゃんは、その言葉を待っていました。
「でも、物差しはロンドンにも同じものを置けます」
「同じもの?」
「はい。パリに一つしかない、では困ります。ロンドンにも、ライデンにも、エルレンフェルトにも、同じ標準を持てるようにします」
「ではフランスの独占ではない」
「管理の中心にはなりたがっています。でも、単位そのものはどこでも再現できるようにします」
「グリニッジは?」
「零度は一つです」
どろちゃんは地図を広げました。
「ここを零度にしたら、パリも、ローマも、インドも、アメリカも、全部『グリニッジから東へ何度、西へ何度』で場所を表すようになります」
国王の視線が地図へ落ちました。
「世界の位置を、ロンドンから測る、と」
「はい」
「フランス自身も?」
「はい。パリもグリニッジから何度東、になります」
役人たちの顔が、少し変わりました。
どろちゃんは続けます。
「それだけじゃないです」
「まだあるのか」
「遠くの船が経度を正確に知るには、正確な時計が必要になります」
フラムスティードの名も出しました。グリニッジで続ける天文観測と星の位置、時刻、経度を、一つの基準へまとめていく話です。
「将来、船がもっと遠くへ行って、もっと正確な時計を持つようになったら、グリニッジの時刻を持って海へ出るようにできます」
「グリニッジの時刻?」
「はい。もっと先には、町と町を線でつないで、遠くへ一瞬で合図を送れるようになります」
「電気か」
「はい」
パリの科学院で見せた三極管の話も、すでに一部は届いています。
「そうなったら、時計も遠くから合わせられます。鉄道みたいに、たくさんの乗り物を時刻表で動かすようになったら、町ごとに時刻が違うと困ります」
「鉄道?」
「まだ先です」
「また、お前の『まだ先』か」
「はい」
どろちゃんは少しだけ笑いました。
「でも、そのとき、世界中がグリニッジを基準に時刻を決めるようになったら」
国王が続きを言いました。
「世界の時計が、ロンドンを基準に動く」
「そうできます」
部屋が静かになりました。
さっきまでは、フランスが世界の物差しを取るという話でした。今は、英国が世界の地図と時計の中心を取るという話になっています。
「フランス王は、そこまで考えているのか」
国王が聞きました。
どろちゃんは少しだけ考えました。
「私がパリで、単位の方が大事ですよって説明しました」
部屋の空気が止まりました。
「何?」
「世界中の人が毎日使うから、単位の方が変えにくいですって」
「……それをフランス王へ言ったのか」
「はい」
「そして今、余にはグリニッジの方が大きいと説明している」
「大きいというより、こちらにはこちらの大きさがあります」
「同じ交換について?」
「はい」
国王はしばらくどろちゃんを見ました。
「お前は、どちらが得だと思っている」
「両方です」
「答えになっていない」
「だから交換できるんです」
後ろに立っていたフランソワさんが、ほんの少しだけ目を伏せました。
パリでも全部聞いていました。
今も全部聞いています。
「フランスは、世界中の長さと重さの基準を主導できる。英国は、世界中の場所と時刻の基準を取れる。どっちの国でも、自分たちの方がいいものを取ったって説明できます」
「なるほど」
国王の口元が少し動きました。
「誰に教わった」
「学校の図書館です」
「何を読んでいたのだ」
「物語です」
「英国のか」
「英国紳士が出てきました」
「……そうか」
それ以上は聞かれませんでした。
◇ ◇ ◇
本初子午線については、すぐに決まりません。
当然です。
国王一人が、
今日から零度はここ。
と言って終わる話ではありません。
グリニッジの観測だけでなく、パリ天文台、海図、天文表、既存の経度、航海者、時計まで、いろいろな人と仕事が関係します。
それで、王立協会とグリニッジ側にも話を回すことになりました。
どろちゃんは、その方が安心でした。
一人で世界の零度を決める方がおかしいのです。
「磁針の北は使わないのだな」
話を聞いた一人が尋ねました。
「使いません。地理の北は地球の自転軸で決めます」
「磁針は北を向くが」
「だいたいです。それに、場所によってずれるし、ずっと同じでもありません」
「動く?」
「はい。だから地図の経緯度と、磁針が指す方向は分けて記録します」
「航海では面倒だな」
「混ぜる方が、あとでもっと面倒です」
これについては、どろちゃんは譲る気がありませんでした。
◇ ◇ ◇
三つ目は、単位です。
ここで、王立協会の人たちまで話へ入ってきました。
メートル、キログラム、秒、十進の接頭語をそろえれば、同じ長さと同じ質量を使って、同じ実験を行い、同じ図面を読めるようになります。
どろちゃんが欲しいのは、フランスの尺へ英国を従わせることではありません。
どこで作っても同じ部品が作れることです。
「1メートルの標準は、英国にも置きます」
「フランスのものを複製するのか」
「最初は。でも、あとで地球を測って、自然に結びつけます。同じものを何本も作って比べます」
「一つを王が持つのではない?」
「なくしたら困るでしょう」
「盗まれても困る」
「だから何か所にも必要です」
このあたりは、英国側にも理解されやすかったようです。
問題は、その先です。長さと質量だけでは、技術は書けません。力、圧力、仕事、電力、電流、電圧、抵抗まで、一つにつながった体系が必要です。
どろちゃんの頭の中の技師さんたちは、全部、現代の単位で考えます。
ここを別の体系へしてしまうと、毎回換算が必要になります。
毎回換算するのは嫌です。ものすごく嫌で、とりわけ力の単位は変えたくありません。
キログラム重に逃げるのは、もっと嫌でした。
「1キログラムの物体に働く重力を、力の一単位にしてはいけないのか」
誰かが言いました。
「だめです」
どろちゃんは即答しました。
「そんなにか」
「そんなにです」
「なぜ」
「重力の大きさが場所で変わるからです」
緯度や高度、地球の形、自転の影響まで考えて精密に測れば、同じ質量でも重さは同じではありません。
「キログラムは質量にします。力と混ぜません」
「では、力はどうする」
「それで、会いたい人がいます」
どろちゃんは言いました。
「ニュートン先生に」
◇ ◇ ◇
ニュートンは、王立造幣局の仕事をしていました。貨幣の重量や品位、その標準を扱っている人のところへ、世界共通の単位の話を持っていくことになります。
考えてみると、妙にちょうどよい相手です。
もちろん、どろちゃんにとっては、それだけではありません。
会いたかった人です。
そして今日は、お願いがあります。
紹介を通して面会が決まりました。
どろちゃんは紙を持っていきました。そこには、1メートル、1キログラム、1秒を基準にして、その三つから力の単位を組み立てる考え方を書いてあります。式そのものは単純です。
1キログラムの質量へ、1メートル毎秒毎秒の加速度を与える力。
「重力を定義に使わないのだね」
ニュートンが紙を見ながら言いました。
「はい」
「1キログラムの『重さ』ではなく」
「はい。場所で変わるので」
「その方がよい」
どろちゃんは少し安心しました。
「地球上で重さが一定ではないことまで、最初から単位へ入れる必要はない」
「はい。だから質量と力を分けたいです」
「合理的だ」
そこまでは、よかったのです。問題は次でした。
「それで」
どろちゃんは紙の端を指しました。
「この力の単位なんですけど」
「まだ名がないのか」
「あります」
「何という」
「ニュートン」
少し沈黙があって、ニュートンがどろちゃんを見ました。
「何?」
「ニュートンです」
「私の名か」
「はい」
「なぜ」
聞かれると思っていました。
「運動する物体と力の関係を、とてもきれいに整理されたからです」
「それだけなら、名を付ける必要はあるまい」
「でも、短い名前がある方が工房で便利です」
「別の名でもよい」
「できればニュートンがいいです」
「なぜ、そこまで」
どろちゃんは困りました。
本当の理由の一つは、未来でそうなっているからです。
頭の中の技師さんたちは、主桁に何キロニュートン、ボルトに何ニュートン、トルクは何ニュートンメートル、と考えています。今さら別の単位にしたくありませんが、その理由をそのまま説明することはできません。
「私が、もうその名前で考える癖がついてるからです」
結局、そう言いました。
「いつから」
「ずっと前から」
「君は16歳だろう」
「前からです」
ニュートンはしばらく黙りました。
どろちゃんも黙りました。
「記号は?」
「Nです」
「私の頭文字だな」
「はい」
「1ニュートンが、私の体重によって変わるわけではない?」
「絶対に変わりません」
「私が太っても?」
「変わりません」
ニュートンの口元が、ほんの少しだけ動きました。
「ならば、まだましか」
「使っていいですか」
「私の許可が必要なのか」
「本人がいるのに勝手に使うの、ちょっと嫌なので」
「私は、その名を単位にすることを勧めてはいない」
「はい」
「だが、その定義が場所や人物に依存せず、誰が測っても同じになるように作るのなら」
どろちゃんは待ちました。
「私が止める理由もない」
「じゃあ、いいですか」
「……好きにしなさい」
「ありがとうございます」
どろちゃんは、すぐ紙へ「1 N」と書きました。
ニュートンがそれを見ました。
「本当に書くのだな」
「忘れないうちに」
「忘れるような話か?」
「今日はいっぱい話してるので」
これで、本人公認になりました。
少なくとも、どろちゃんの中では。
◇ ◇ ◇
帰る前、フックにも会いました。
「今度は何をしてきたんだい」
「お手紙を届けました」
「それだけ?」
「お薬の話をして、グリニッジを世界の零度にしようって言って、単位のお話をして」
「十分多いよ」
「あと、ニュートン先生に会いました」
フックの眉が少し動きました。
「何を話した」
「力の単位に名前を使っていいですかって」
「……何の名前を?」
「ニュートン」
フックはしばらく黙りました。
「本人に?」
「うん」
「それで?」
「好きにしなさいって」
「そうか」
「たぶん許可」
「たぶんね」
どろちゃんは、そこで思い出しました。
「あと、フランスでは単位の方が大事だって説明して、英国ではグリニッジの方が大事だって説明しました」
フックが今度こそ笑いました。
「君、それを両方で言ったのか」
「うん」
「両方とも本気で?」
「うん」
「なるほど」
フックは少し考えました。
「案外、外交に向いているのかもしれないな」
「そうかな」
「ただし、庭を枯らさなければね」
「もうしません」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、たぶんにしない方がいい」
フランソワさんが少し離れたところで、静かにうなずきました。
◇ ◇ ◇
ロンドンから持ち帰るものは、行きより増えました。
英国側からの返書に、王立協会で検討するための覚書、グリニッジ側へ回す照会、医療記録交換についての質問、標準尺と標準質量を英国でも検証するための要望が加わりました。
そして、もう一枚の紙があります。
そこには、
1 N = 1 kg・m/s²
と書いてあります。
どろちゃんは、それを他の書類とは別にしまいました。
「それ、そんなに大事でございますか」
フランソワさんが聞きました。
「大事」
「国王陛下のお返事よりも?」
「種類が違うよ」
「そうでございますか」
「うん。これが変わると技師さんたちが怒る」
「アントノフの技師さんたちでございますね」
「うん。たぶん全員」
「それでしたら、変えない方がよろしいかと存じます」
「そう思う」
家では何度か、どろちゃんが誰もいないところへ返事をしてしまい、事情を説明したことがあります。フランソワさんにとって、頭の中にいる技師さんたちは、見えも聞こえもしないけれど、もう知らない人たちではありませんでした。
◇ ◇ ◇
離陸前に、どろちゃんは地図を開きました。
まだ、そこに世界共通の本初子午線はありません。国ごとに考え方が違い、単位もばらばらで、敵味方の軍医が患者の記録を交換する仕組みもありません。
それでも、フランス王が書いた手紙を英国王が読みました。グリニッジの話は天文学者へ、単位の話は王立協会へ、薬の話は軍医へ回っていきます。
どろちゃんが次に来なくても、話は少しだけ進みます。
「帰ろうか」
「はい、お嬢様」
タドポール君が走り始めました。
ロンドンが後ろへ下がります。
その町を基準に、いつか世界中の場所が東と西で書かれるかもしれません。
その町の時刻を、遠い海の船が持って歩くかもしれません。
そしてパリで管理された物差しを、同じ船を作る職人が使うかもしれません。
どちらの国が得をしたのか。
どろちゃんには、まだ決められませんでした。
決めなくてもよいと思いました。
同じ地図を使い、同じ長さを測り、傷ついた人を敵だからという理由だけで放っておかなくなるなら、その方が今は大事でした。
第二十五章の小さな説明
■ この世界の英国王
史実のウィリアム三世は、1702年三月に落馬事故のあと死亡しました。
本作では、それ以前にどろちゃんたちが作っていたペニシリン系抗生物質が感染症治療に使われたことで生存しており、史実とは異なる時間線に入っています。
したがって本章では、ルイ十四世からの親書を受け取る英国王として、引き続きウィリアム三世が登場します。
■ ペニシリンを渡せば、戦争が人道的になるわけではありません
どろちゃんが気にしているのは、銃創そのものを生き延びた兵士や士官が、数日から数週間後に創感染や敗血症で死亡することです。
抗生物質によって、その一部は救命できる可能性があります。
しかし、治療した兵士が再び戦場へ戻されるなら、軍事的には兵力回復にもなります。
どろちゃんは、その矛盾を理解しています。
本章では、薬を敵味方のどちらかだけの戦力増強手段にしないため、
負傷捕虜にも治療を続けること。
部隊位置などの軍事情報を除いた治療記録を交換すること。
戦闘後の負傷者回収を妨げない時間を設けられないか検討すること。
を提案し始めています。
後世の国際人道法や赤十字をそのまま1702年へ持ち込んだ設定ではなく、「死なせなくてよい負傷者まで死なせない」というところから、少しずつ制度を作ろうとしている段階です。
■ 戦列歩兵と創傷感染
この時代の戦場では、歩兵が隊列を組み、比較的近距離で一斉射撃を行う戦術が一般的でした。
当時の滑腔式マスケットは、後世のライフルほど遠距離で精密に狙える武器ではありません。
そのため、個人が遠くから一人を狙うよりも、集団で隊列を維持して火力を集中することに軍事的な意味がありました。
どろちゃんは、その当時なりの合理性を理解していても、兵士が並んで撃ち合う光景そのものには強い違和感を持っています。
■ 本初子午線を英国へ売り込む理由
パリでは、どろちゃんはルイ十四世へ、
経度零度は将来変更される可能性があるが、世界中の商業、工業、医学、教育へ入り込んだ単位系は変更しにくい。
と説明しました。
ロンドンでは逆に、
グリニッジを零度にすれば、世界中の場所がグリニッジから東西何度という形で表される。
さらに経度測定と時計が結びつけば、グリニッジ時刻そのものが航海の基準となり、後には通信や鉄道の標準時へ発展し得る。
と説明しています。
これはどちらか一方が嘘なのではありません。
度量衡は生活と産業へ深く入り込み、本初子午線は地理座標と時刻体系の中心になります。
本作では、英仏双方が「自国の方が重要な標準を得た」と国内で説明できることが、交換案を成立させる政治的な利点になっています。
■ グリニッジと時刻
グリニッジ王立天文台は1675年に設立され、初代王室天文官ジョン・フラムスティードが観測を行っていました。
本章の時点では、後世の世界標準時も、現在知られる国際的な本初子午線もまだ成立していません。
本作では、フラムスティードが使っている観測子午面を早い時期に国際的な経度零度として固定し、そこから航海用の時刻基準へ発展させる案を出しています。
なお、地理上の北は地球の自転軸を基準とし、磁針が指す磁北とは分離します。
磁気偏角は場所によって異なり、時間とともにも変化するため、地理座標そのものの基準にはしません。
■ ニュートンと「N」
アイザック・ニュートンはこの時期、すでに『プリンキピア』を著し、運動と力を数学的に扱う中心人物でした。
また1699年から王立造幣局長を務めており、貨幣の重量や品位、標準を扱う立場にもいました。
史実で力のSI単位「newton」が正式に使われるようになるのは、もちろんはるか後のことです。
本作では、どろちゃんが未来の技術知識と頭の中のアントノフ技師たちの単位系を壊さないため、
1 N = 1 kg・m/s²
という現代と同じ定義を持ち込み、本人が生きているうちに名前を使ってよいか尋ねています。
ニュートン本人が「私の名を使うべきだ」と主張した史実はありません。
この場面は完全な架空設定です。
■ kgfを避ける理由
どろちゃんは、キログラムを質量の単位として固定し、力の単位には使いません。
重力加速度は地球上でも緯度や高度などによって変化します。
後世のkgfは標準重力加速度を使って固定値として定義されますが、最初から質量kgと力Nを明確に分けておけば、kgが質量なのか重量なのか、どこの重力を基準にしたのか、という混乱を避けられます。
航空機、構造物、機械の設計を未来知識と同じ単位体系で続けるためにも、どろちゃんたちには重要な選択です。
■ タドポール君の「航続距離」
タドポール君は、A-11系の長い主翼を付けた長距離モーターグライダーです。
普通の動力機のように「搭載燃料がこれだけなので航続距離は何キロメートル」と一つの数字だけで決めることはできません。上昇気流を利用してソアリングできれば、エンジンを止めたまま長い距離を進めるためです。反対に、沈下する空気や向かい風が続き、動力を長時間使えば燃料消費は増えます。
前回のエルレンフェルト―ロンドン飛行では、初めての長距離経路でもあり、上昇気流を十分に利用できなくても動力だけで安全余裕を確保できるよう増槽を積み、単座で飛びました。
今回は経路資料と風の記録が増え、飛行日の条件から、計画上は離陸後に上昇気流をつないでロンドンまでグライダーとして到達できる見込みを立てました。そのため増槽を外し、戻ってきた重量余裕を使ってフランソワさんを後席に乗せています。
それでも「必ず無動力で着く」と決めているわけではありません。上昇気流が得られない区間や海峡横断など、必要になればエンジンを使います。モーターグライダーなので、動力機のような固定的な航続距離だけで行動半径を決めることはできません。
■ フランソワさん
今回もタドポール君の後席に搭乗しています。
飛行服込み50キログラムという後席制限があるため、本人の手荷物は持たず、二人分の荷物は左右の外部バッグへ分けています。
また、フランソワさんがかなり目立つ美人であるという設定を忘れないため、登場する章では原則一度だけ、周囲の誰かが一瞬反応する場面を入れることにしています。
毎回同じ反応にせず、本人は慣れていて、どろちゃんは気づかないことが多い、という扱いです。




