24貴族令嬢は、パリにお薬を持って行きます。 ルイ14世にも合うよ
第二十四章 貴族令嬢は、パリへお薬を持っていきます
ライデンから帰って三日目。
どろちゃんは、また手紙を書いていました。
今度の宛先はロンドンではありません。
パリです。
正確には、フランス国王陛下。
前にヴェルサイユへ行ったときとは違います。
勝手に飛んでいきません。
庭も枯らしません。
青い薔薇を植え直したあと、もう一度フランスへ来ても、その場で拘束されることはないと分かりました。
けれど、それと、戦争中の国の首都へ英国伯爵が飛行機で入ることとは別です。
今回は、最初から許可を取ります。
どろちゃんは一枚目を書き終えました。
東方から、熱、腫れ、咳、急な死亡を伝える報告が増えていること。
それが全部同じ病気かどうかは、まだ分からないこと。
軍隊は戦場へ行ったまま動かないものではなく、兵士も士官も交代し、負傷者は後方へ送られ、伝令も補給の人も絶えず行き来していること。
だから、流行地とフランスの間に人の移動があれば、終戦まで待たなくても病気は運ばれ得ること。
そして、エルレンフェルトで作っている抗生物質の一部が、戦傷後の化膿には使える可能性があること。
そこまで書いて、どろちゃんは少し考えました。
「ペストのお薬だと思われると困るな」
別の紙を横へ置きました。
今持っているペニシリン系の抗生物質は、東方で広がっている病気に効くと確認した薬ではありません。
しかし、銃創、刀傷、切断後の創などで、最初の負傷そのものを生き延びたあと、化膿と発熱で悪化している患者には役立つ可能性があります。
薬だけではなく、洗浄、排膿、壊死した組織の処置、清潔な器具、患者ごとの記録が必要です。
フランスの軍医、外科医、王室医師と相談したい。
さらに、フランス側へ届いている東欧の疾病報告も見たい。
最後に、もう一つ付け加えました。
パリの王立科学アカデミーで、電気と物質について研究報告をしたいこと。
「これ、別の手紙にした方がよかったかな」
お父様が向かい側から読みました。
「病気の相談に行くのか、科学院へ講義に行くのか、どちらなのだ」
「両方です」
「一度にする必要は」
「パリまで何度も行くよりいいでしょう」
「お前は飛行機で行くからな」
「荷物は馬車なんだけどね」
そこが問題でした。
どろちゃん一人なら、タドポール君でパリまで難しい距離ではありません。
しかし、科学院へ持っていきたいものを全部積むと話が変わります。
蓄電池。
高電圧用の装置。
ガラス製の放電管。
三極管。
トランス。
ダイナミックマイク。
スピーカー。
電気分解用の器具。
金属試料。
大きな周期表。
予備部品。
工具。
薬品。
全部を機体へ載せる理由がありません。
「重たいものはストラスブールから送る」
「先にか」
「うん。向こうで受け取ってもらえるように、手紙に箱の数も書いておく。私の方が先に着いたら困るから、発送して、到着したって返事が来てから飛ぶ」
お父様が、少し安心した顔をしました。
「ようやく郵便と飛行機の使い分けを覚えたらしいな」
「前から知ってるよ」
「前回、手紙を追い越さないようにライデンで四日待った娘が言うのか」
「今回はもっと上手にします」
◇ ◇ ◇
パリでは、手紙一通が、思ったより多くの人を困らせました。
最初に困ったのは、王室の役人です。
「来たい、ということですな」
「そう書いてあります」
「英国伯爵が」
「ライデン大学教授でもあります」
「王立協会会員でもある」
「エルレンフェルト子爵の娘でもある」
「どれを先に考えればよいのです」
誰もすぐには答えませんでした。
戦争中です。
英国の伯爵を、飛行機ごとパリへ入れる。
普通なら、かなり嫌な話です。
ところが、普通の英国伯爵ではありません。
前にヴェルサイユまで飛んできた娘です。
しかも、そのときは庭園の一部を枯らしました。
「その件を理由に拒否するのが、一番分かりやすいのでは」
「その後、自分で直しに来ています」
「青い薔薇まで持ってきました」
「陛下もお会いになっています」
「では、安全ということですか」
「安全とは誰も言っていません」
別の役人が、机の上の手紙を指しました。
「今回は、武器の話ではありません。病気と薬です」
「飛行機には何を積む」
「着替えと薬を少量。大きな器具はストラスブールから箱で送るそうです。箱の内容も一覧があります」
一覧を見ました。
電池。
変圧器。
真空管。
送話器。
受話器。
電気分解器具。
元素表。
「余計に分からなくなりました」
軍人は軍人で別のところを見ていました。
「東方の病気が軍を通じて入る可能性、とあります」
「軍隊を動かすなという話なら受け入れられません」
「そうは書いていない。戻ってくる兵、交代する士官、負傷者、補給の者を見た方がよい、と言っている」
「病人を止めるのか」
「止めるだけではなく、早く見つけるのでしょう。英国王に使った薬を持ってくるともあります」
王室医師のところにも手紙の写しが回りました。
こちらの反応は少し違いました。
「来てもらえるなら、患者を見せたい」
「すぐですか」
「すぐです。廃兵院だけではありません。戦場から戻った者の中に、傷そのものは閉じかけているのに熱が続く者がいます」
「貴族にも?」
医師は返事をしませんでした。
返事をしないことが、返事になりました。
さらに、王立科学アカデミーにも写しが行きました。
ジャン=ポール・ビニョンは、最後まで読みました。
フォントネルは箱の一覧を二度読みました。
「病気の話で来るのですよね」
「そう書いてあります」
「なぜ、三極管とやらが来るのでしょう」
「電気について報告したいとも書いてあります」
「電気?」
そこで、別の会員が顔を上げました。
「ライデン大学の紀要に出ていた言葉です。電池、磁針の偏り、金属線を通じて起こる現象を、同じまとまりとして扱っていました」
「読んだのですか」
「読みました」
「私はまだです」
この時代、「電気」と言えば全員に同じ概念が通じるわけではありません。ライデンの論文や紀要を読んだ人だけが、どろちゃんたちの新しい語彙を先に知っています。
「周期表というのは?」
「それは私も知りません」
「では、見れば分かりますね」
科学院側の結論だけは早く出ました。
来るなら、ぜひ寄ってもらいたい。
問題は、その前でした。
国王が手紙を読みます。
ルイ十四世は、途中で一度だけ顔を上げました。
「今回は、庭ではないのだな」
「そのように書かれております」
「着陸場所まで尋ねている」
「前回よりは、かなり慎重になられたようで」
「そうでなければ困る」
王はもう一度手紙へ目を戻しました。
英国王を治療した薬。
傷病兵。
東方の流行。
科学院。
それから、箱の数。
「グルネルの平地を使わせればよい。廃兵院にも近い」
「パリへの飛行を許可なさいますか」
「手紙を書いてきた者に、返事くらいはする」
それで決まりました。
◇ ◇ ◇
返事がエルレンフェルトへ届いたころ、ストラスブールへ送った木箱はもう出発していました。
どろちゃんは工場の倉庫で、タドポール君の輸送用バッグを確認します。
後席は外しません。
今回は、そこへフランソワさんが乗ります。
「フランソワさん、こっち」
「はい、お嬢様」
飛行するときの服と靴を着たまま、秤へ乗ってもらいます。
タドポール君の後席は、衣類込みで五十キログラムまで。
針が止まりました。
「四十九キロちょっと。ぎりぎりだけど大丈夫」
「手荷物を持ちましたら、だめでございますね」
「うん。だから持たなくていいよ。全部こっちへ入れる」
左右のパイロンには、流線形の輸送用バッグを一つずつ取り付けました。
二人分の着替え。
教授服。
王宮へ出るためのドレス。
洗面用品。
書類。
少量の薬。
診察用の器具。
培養用の小物。
フランソワさん自身には、身につけた物以外の荷物を持たせません。
左右の重さも合わせます。
「右が少し重い」
どろちゃんは包みを一つ、反対側へ移しました。
頭の中から声がしました。
――今の差でも飛べないわけではないけれど、最初から揃えられるなら揃えておいた方がいいね。
「そうします」
――今回は後席に人が乗るから、足元も空けておこう。
「うん」
離陸重量。
重心。
左右差。
今回はどれも余裕があります。
重たい蓄電池、トランス、スピーカー、大型の実験器具は、すでにストラスブールからパリへ発送しました。
飛行機があるからといって、重い荷物まで全部空を飛ばす必要はありません。
◇ ◇ ◇
出発の日。
タドポール君は西へ向かいました。
前席にはどろちゃん。後席にはフランソワさん。
ライン川沿いから離れ、パリ盆地へ入ります。
東から近づくと、地形が少しずつ変わります。
広い台地。
その縁の斜面。
また平らなところ。
川。
町。
街道。
ケスタ状の斜面は、空から見ると良い目印になります。
「地図より分かりやすいところもあるね」
もちろん、地図を見ないという意味ではありません。
位置を確かめるものが一つ増えるだけです。
パリが近づくと、セーヌと街の広がりが見えてきました。
指定されたグルネル側の平地には、人がいます。
前回のヴェルサイユのように、勝手に適当な場所へ降りる必要はありません。
一度上空を回ります。
布で風向きを示してあります。
草地に人が入っていないことも確認しました。
進入。
接地。
減速。
停止。
タドポール君が静かになると、遠巻きにしていた人々が近づきました。
先に後席から降りたフランソワさんが、飛行帽を外しました。
迎えに来ていた若い役人の一人が、ほんの一瞬だけ言葉を止めました。
すぐ隣の年長の役人に肘で軽くつつかれ、何事もなかったような顔へ戻ります。
どろちゃんは気づきませんでした。
フランソワさんは気づきましたが、こちらも何事もなかったように、どろちゃんの側へ回りました。
その中に王室から来た役人がいます。
どろちゃんは飛行帽を外しました。
「ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト伯爵です。本日は、着陸場所をご用意いただきありがとうございました」
家ではお嬢様です。
ここでは英国伯爵です。
相手も、そのつもりで礼をしました。
「伯爵閣下、陛下より、まずオテル・デ・ザンヴァリッドをご覧いただくよう伺っております。科学院からも、器具が到着したとの連絡がございます」
「全部?」
「木箱は昨日、確認されました。壊れ物があるとのことでしたので、科学院の者の立ち会いなしには開けておりません」
「よかった」
どろちゃんは、そこで一番安心しました。
高価なものより、作り直すのが面倒なガラス管があります。
◇ ◇ ◇
オテル・デ・ザンヴァリッドは、遠くからでも分かる大きな建物でした。
どろちゃんは、建物そのものを見に来たわけではありません。
中にいる人を見に来ました。
脚のない人。
腕のない人。
杖を使う人。
片目を失った人。
古い傷で歩き方の変わった人。
戦争の絵では、戦列が並び、旗が立ち、騎兵が走ります。
その絵のあとに残る人たちが、ここにいます。
軍医と外科医が、まず治療中の患者を何人か見せました。
切断面がきれいに乾いている人。
まだ腫れている人。
膿が出ている人。
熱のある人。
どろちゃんは、一人ずつ同じことを聞きました。
いつ負傷したか。
いつ切断したか。
何を使って洗ったか。
包帯をいつ替えたか。
熱はいつからか。
食事は取れているか。
便や尿はどうか。
「薬を使えば、みんな治りますか」
若い外科医が聞きました。
「それは無理です」
どろちゃんは患者の前で、曖昧にしませんでした。
「もう身体の中まで大きく壊れている人とか、出血で弱りすぎている人とか、薬で戻せないものはあります。でも、傷そのものを生き延びたあと、そこに小さい生き物が増えて悪くなっているなら、助けられる人は増えると思います」
「小さい生き物」
「ロンドンで見たのと同じ方法で、ここでも見たいです。顕微鏡と培養の道具は持ってきています」
ペニシリン系の抗生物質を取り出します。
薬だけ先に配りません。
傷を見ます。
洗います。
必要なら開きます。
膿を出します。
死んだ組織を除きます。
器具を処理します。
そして、薬を使った時刻と量を書きます。
どろちゃんは軍医たちに紙を渡しました。
「同じ患者さんを、違う人が見ても分かるようにしてください。昨日どうだったかが分からないと、今日よくなったのか悪くなったのかも分からないでしょう」
軍医の一人が頷きました。
「これは、薬より手間が増えますな」
「最初は増えます。でも、あとで同じことを何度も聞かなくて済みます」
その日の午後までに、何人かへ治療を始めました。
そこで王室医師から声をかけられました。
「伯爵閣下。もう一人、診ていただきたい方がおります」
「ここにいる人?」
「いいえ。身分のある方ですので、別の場所におります」
どろちゃんは少し嫌な予感がしました。
「私だけで診るのはだめですよ。今まで診ていた先生も一緒にお願いします」
「もちろんです」
◇ ◇ ◇
患者は若い男性でした。
名前を聞いて、どろちゃんは少し考えました。
ラ・ボーム。
タラール元帥の長男。
頭の中の歴史のどこかに、その名前があります。
でも、すぐには出てきません。
そんな名前は、ヨーロッパ史にはいくらでもあります。
「いつ負傷しました?」
王室医師が答えます。
戦場で受けた傷。
大きな血管は切れていません。
その場では死ななかった。
後方へ運ばれた。
傷を処置した。
パリまで戻れた。
ところが数日前から熱が上がりました。
創の周囲が赤い。
膿があります。
本人は起きています。
会話もできます。
でも、顔色はよくありません。
どろちゃんは、そこでようやく頭の中の記憶がつながりました。
「……この人」
声には出しません。
歴史では、傷を負ったあと、長くは生きなかった人です。
ただし、どろちゃんは死因を知りません。
傷そのものが致命的だったのか。
感染したのか。
別の合併症だったのか。
後世の短い記録だけでは分かりません。
いま目の前にいる患者については、いま見えるものを使うしかありません。
「傷をもう一度見せてもらえますか」
外科医と一緒に包帯を外しました。
臭い。
膿。
腫れ。
周囲の熱。
壊死した部分。
「ここ、もう少しきれいにした方がいいと思う。でも私が切るんじゃなくて、先生がお願いします。私はこの時代の外科の手技を全部知ってるわけじゃないから」
外科医は驚いた顔をしました。
「薬を作った方が、手術をなさらないのですか」
「しません。私より上手な人がいるでしょう」
薬を知っていることと、外科医であることは別です。
どろちゃんは、採取した膿を小さな容器へ取りました。
「これは科学院へ持っていかないからね」
誰に言ったのか分からない一言に、王室医師が少し笑いました。
その日の治療は、外科医が傷を処置し、どろちゃんが持ってきた薬を使うところまででした。
「今夜すぐ元気になるわけではありません。熱、脈、傷の様子を記録してください。悪くなったら、夜でも知らせてください」
ラ・ボーム本人が、弱い声で聞きました。
「私は助かりますか」
どろちゃんは少し黙りました。
「分かりません。でも、いま話ができて、傷も見られて、使える薬があります。だから、できることはあります」
未来を知っているから助かる、とは言いませんでした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
熱はまだありました。
でも、急に悪化はしていません。
二日目。
傷の周囲の赤みが少し減りました。
食事も少し取れました。
三日目。
王室医師が、どろちゃんより先に笑いました。
「昨日より明らかに良い」
「じゃあ、まだ続けましょう。途中でやめないで」
そこでどろちゃんは、廃兵院の患者記録も見ました。
同じように熱が下がっている人。
変わらない人。
悪化した人。
全部あります。
「効いた人だけ集めたらだめですよ」
「分かっております」
「治らなかった人の方が、次に大事なこともあるから」
フランスの医師たちは、薬の名前より、どろちゃんのこの言い方を覚えました。
◇ ◇ ◇
四日目。
今度はルーヴルです。
王立科学アカデミー。
ストラスブールから送った木箱は、もう開けられていました。
もちろん、どろちゃんの立ち会いで。
「これは重いですね」
「電池です」
「こちらは?」
「トランス。こっちも重いので、飛行機には載せませんでした」
「これは送話器ですか」
「マイクです。こっちはスピーカー」
「違う物なのですか」
「だいたい反対向きに働く物です。あとでやります」
教授服に着替えたどろちゃんは、いつものように装置を一つずつ確認しました。
科学院の会員たちは、講演が始まる前から集まっています。
フォントネルもいます。
ビニョンもいます。
天文学者。
数学者。
機械を扱う人。
化学を扱う人。
医師。
どの分野の講演なのか、まだ誰にも分かりません。
どろちゃん自身にも、一つには決められません。
「最初に確認します。ライデンの電池についての論文か紀要を読んだ方は?」
手がいくつか上がりました。
半分もありません。
「じゃあ、読んでいない方がいる前提で、最初からやります」
電池を机へ置きました。
「ライデンでは、摩擦で火花が出ること、電池をつないだときに離れたところで変化が起きること、磁針が動くことなどを、同じ種類の現象としてまとめて扱っています。私たちは、それを『電気』と呼んでいます」
「新しい物質ですか」
「物質の名前にはしません。今は、現象を一つずつ別の不思議として扱わないための名前だと思ってください」
次に電気分解の器具を動かします。
気体が出ます。
別の器具では金属が析出します。
「金属の線の中と、この液体の中では、同じ物が同じように移動しているわけではありません。金属の中では、とても小さい粒子が関係しています。私はそれを電子と呼びます」
「電子が電気そのもの?」
「そう言い切るとあとで困ります。電子は電気を帯びた粒子です」
次は放電管です。
空気を十分に抜いたガラス管。
電極。
高い電位差。
光る部分。
磁石を近づけると位置が動きます。
電気的な作用を加えても動きます。
「ここを飛んでいる粒子は、一方の電気的な性質を持っています。反対側の性質もあります」
「どちらが正で、どちらが負なのです」
どろちゃんは少し止まりました。
「ああ。そこ、先に決めないといけないですね」
紙へ、+と-を書きます。
「自然が『こちらを負と呼べ』と決めたわけではありません。計算と記録のための約束です。私が知っている書き方では、電子の側を負、その反対側を正とします。最初から逆に決めても、全部を一貫して逆に書けば現象そのものは変わりません」
電子 -
反対側 +
「だから、電子が何か不足しているとか、悪いとか、そういう意味ではありません。反対の電荷を区別する符号です」
「見えるのですか」
「一個ずつは見えません。でも、飛んでいるものが同じ性質を持ち、電気や磁石で進み方を変えられることは確かめられます」
何人かが前へ出て、磁石を動かし、装置を疑い、もう一度同じ結果を出しました。
そのあと、三極管を出しました。
「今度は、この電子の流れを途中で加減します」
陰極。
陽極。
その間に網状の電極。
グリッド。
小さな電圧変化で、陽極側の電流が変わります。
電流計の針だけでも分かります。
でも、それでは面白くありません。
「では、音にします」
ダイナミックマイクを机の端へ置きました。
トランス。
三極管の増幅器。
出力側のトランス。
そして、部屋の反対側に置いたスピーカー。
最初は増幅器を通さず、ほとんど聞こえません。
次に、増幅器を入れます。
どろちゃんがマイクへ少し近づきました。
「聞こえますか」
部屋の反対側から、どろちゃんの声が出ました。
何人かが同時に振り返りました。
どろちゃんは笑いました。
「こっちの声が、あっちで大きくなりました。でも、マイクが大きな音の力を作ったわけじゃありません。小さい電気の変化で、電池から出る大きい方の電力を三極管が加減しています」
フォントネルがスピーカーの近くへ行きました。
「この二つは、同じ原理なのですか」
「かなり近いです。マイクは振動板とコイルを動かして電気にします。スピーカーは電気をコイルへ流して振動板を動かします。完全に同じ部品ではないけど、考え方は反対向きです」
「線を長くすれば?」
「遠くへ声を送れます。長くなると損失が増えるので、その途中をどうするかはまた考えないといけません」
誰かが、ロンドン、と言いました。
別の人が、ライデン、と言いました。
「いきなり海を越える前に、まずパリの中で試してください」
笑いが起きました。
◇ ◇ ◇
翌日。
どろちゃんは、もう一枚大きな紙を広げました。
昨日とは違います。
数字が並んでいます。
一。
二。
三。
四。
ずっと続きます。
その横へ、元素の記号と名前。
「これは、元素を並べた周期表です。性質が同じような順序で繰り返して出てくるので、周期表と呼びます」
「昨日は電子を見ました。今日は、その電子を持っている物質の方です」
最初に、どろちゃんは線を引きました。
「ここから先は、昨日みたいに全部をこの部屋で証明できる話ではありません」
黒板を三つに分けます。
今日ここで実験できること。
そこから考えられること。
私が知っているが、この場では確認できないこと。
「混ぜると困るから、分けます」
最初に原子。
その中に電子。
そして正の電荷を持つ部分。
「正の電荷は、原子の中に均等に広がっているのではなく、とても小さい中心に集まっています。そこに陽子があります」
「それは、今日見せられますか」
「今日は無理です」
すぐ答えました。
「電子みたいに、この装置で飛ばして曲げて、だからこうだ、とまでは見せられません。中性子も同じです」
「中性子?」
「電気を持たない、陽子とだいたい同じくらい重い粒子です。重い原子の核には、陽子だけではなく、これも入っています。でも、今日の講演では存在を証明していません」
科学院の人たちは、そこで少し静かになりました。
知らないことを大量に話す人はいます。
知っていると言いながら、自分の証明できない部分に線を引く人は、あまりいません。
どろちゃんは周期表へ戻りました。
「元素は、重さの順ではなく、この番号の順で並べます」
原子番号。
水素は一。
ヘリウムは二。
リチウムは三。
続けていきます。
「この番号は、その原子核にある陽子の数です。普通の電気を帯びていない原子なら、電子の数も同じです」
縦に見ると、似た性質の元素が並びます。
横へ進むと、性質が変わり、また似たところへ戻ります。
「この表に、まだ皆さんが知らないものもあります」
「空欄ではないのですか」
「私は名前を知っています。でも、ここで全部見つけたことにするのは違うでしょう」
「では、なぜ番号だけ書くのです」
「そこに何かがあるかもしれないって分かった方が、探しやすいから」
どろちゃんは少し困った顔をしました。
「ただ、私が番号を書いたから存在する、では科学にならないので、見つけたらちゃんと調べてください」
化学者たちが、もう表から離れません。
昨日の三極管より、こちらの方が困る人もいます。
「原子量とは一致しないところが出るのでは」
「出ます。だから重さで順番を決めません。元素を決めるのは番号の方です」
「どう測るのです」
「今の装置では、全部を直接測る方法をまだ用意できていません」
また、できないと言いました。
「じゃあ、仮説?」
「皆さんにとっては、そう扱ってください。私の方では答えを知っていますけど、皆さんが確かめられないなら、同じ意味にはならないから」
ビニョンが、しばらく周期表を見ていました。
フォントネルは、昨日から紙を何枚使ったか分かりません。
「もう一つ、昨日から気になっていたことがあります」
今度は別の会員が、器具の寸法表を指しました。
「この m と kg は?」
「私たちの共通単位です。長さをメートル、質量をキログラムと呼んでいます」
標準尺を取り出しました。
「一メートル。百分の一がセンチメートル、千分の一がミリメートル。千メートルがキロメートル。質量も同じように十進でそろえます」
「なぜ?」
「計算が楽だから。それと、パリ、ライデン、ロンドン、エルレンフェルトで同じ図面から同じ物を作れるようにしたいからです」
どろちゃんは、ストラスブールから届いた木箱の明細を示しました。
「今回も、こっちの単位とフランスの単位を両方書きました。毎回これをするのは面倒です。研究と工業では、同じ物差しと同じ秤を使った方がいい」
「フランスの単位へ統一するのでは?」
「今ある地方単位のどれかを世界へ押しつけたら、ほかの国が嫌がるでしょう。だから、自然に結びついた共通単位にしたいんです。長さなら地球の子午線を基準にする方法があります」
天文学者たちの顔が変わりました。
「北極から赤道までの子午線の四分の一を測って、その一千万分の一を一メートルとする。ただし、測り終わるまで何年も単位が使えないのは困るので、まず標準尺をそろえて、あとから皆さんで確かめたいです」
「値は知っているのですか」
「知ってます。でも、皆さんでも測りましょう」
「またそれですか」
「またそれです」
◇ ◇ ◇
講演が終わっても、人が帰りませんでした。
電気の話をしている人。
周期表を写している人。
マイクをもう一度試している人。
スピーカーの振動板を見ている人。
放電管の前で議論している人。
どろちゃんは、自分の木箱を片づけようとしていました。
「それは、まだ置いておいていただけますか」
科学院の人に止められました。
「どれ?」
「できれば全部です」
「全部は困るよ。予備がないものもあるし」
結局、複製できるものはパリ側で作ることになりました。
作れないものは、エルレンフェルトから部品を送ります。
ここでも、どろちゃん一人しか使えない装置にしてはいけません。
その日の夕方、別の部屋では、もっと面倒な話が始まっていました。
「会員として迎えるべきでしょう」
「どの会員です」
「外国人です」
「英国伯爵でもある」
「それなら名誉会員の方が身分には合うのでは」
「昨日と今日の講演を聞いて、その結論ですか」
「身分上の問題を言っているのです」
「研究者として扱わなければ、こちらが笑われます」
「しかし十六歳でしょう」
「若手の席には年齢の規定があります」
「若手として入れる話ではありません」
「女性です」
そこで少し長く止まりました。
それは、前例で簡単に処理できる話ではありません。
「外国人会員に女性を入れてはならない、と明記されているのですか」
「明記されていないから、入れられるという話でもないでしょう」
「では、研究内容を無視する理由になりますか」
「そういう話をしているのでは」
「結局そういう話になっています」
侃々諤々になりました。
フォントネルは途中まで聞いていましたが、最後には別の紙を広げました。
「ニュートン先生は外国人会員です」
「それは承知しています」
「ライデン大学の教授で、王立協会会員で、独立した研究所と工場を持ち、今日ここで二日間研究報告をした人物を、名誉だけの席へ置くのは説明が難しいでしょう」
「伯爵ですぞ」
「伯爵であることと、研究者であることは同時に成立します」
誰かがため息をつきました。
「では、国王へ出すのですか」
「アカデミーとして推薦するなら、最後は陛下です」
◇ ◇ ◇
どろちゃん本人は、その議論を知りませんでした。
翌朝も廃兵院へ行っています。
ラ・ボームの熱は下がっていました。
完全に治ったわけではありません。
まだ傷があります。
まだ弱っています。
でも、数日前より食べられます。
会話も長くできるようになりました。
「もう死なない?」
本人が聞きました。
「それは誰にも言えません」
どろちゃんは椅子へ座りました。
「でも、前よりはいいです。薬は決めたところまで続けて、傷も毎日見てもらってください。元気になったからって、急に馬に乗ったりしないで」
「軍人に、それを言いますか」
「言いますよ。傷が開いたら、また最初からでしょう」
横で王室医師が笑っています。
この患者が史実ではどうなったか。
どろちゃんは、もう思い出していました。
負傷後、数日。
それだけです。
いま、この人はその数日を越えようとしています。
でも、どろちゃんは日を数えませんでした。
患者を歴史の答え合わせに使うつもりはありません。
◇ ◇ ◇
その午後、どろちゃんはヴェルサイユへ呼ばれました。
今回は庭の話ではありません。
ルイ十四世は、科学院から届いた報告を机に置いていました。
「薬を持ってきたはずではなかったのか」
「薬のお話もしました」
「電子を飛ばし、声を線で飛ばし、元素を番号で並べ、そのうえフランスの物差しまで変えたいそうだな」
「フランスだけじゃないです」
「それは、もっと大きな話ではないか」
どろちゃんは少し考えてから答えました。
「陛下。国境は戦争で動きます。でも、一度みんなが同じ単位を使い始めたら、工房でも市場でも学校でも、毎日それを使います」
王は黙って聞いています。
「世界共通の標準をフランス科学院が管理すればいいと思います。フランスの足の長さを押しつけるんじゃなくて、自然を基準にした単位を、フランスが整えて配るんです」
「世界中が、フランスで管理した物差しを使う?」
「はい」
そこでルイ十四世の興味が、科学から政治へ少し動きました。
「英国は受け入れると思うか」
「全部フランスにしようとしたら、たぶん嫌がります。だから一つ渡します」
「何を」
「経度の零度です。グリニッジ」
「パリではなく?」
「はい」
王は明らかに気に入らない顔をしました。
「なぜ、そこを英国へ渡す」
どろちゃんは机の上の地図を見ました。
「陛下。子午線の零度は、決まりごとなんです」
「物差しも決まりごとであろう」
「そうです。でも、使う人の数が全然違います」
地図の上を指でなぞります。
「経度の零度を直接使うのは、今なら天文学者、地図を作る人、遠くまで航海する船乗りくらいです。普通の人は、自分の家が東経何度か知らなくても暮らせます」
「それはそうだな」
「それに、ずっと未来に、とても力の強い国が出てきたら、『今日からこちらを零度にする』と変えることも、できなくはありません。地図や記録を直すので大変ですけど、零度そのものは自然がそこに置いたものではありません」
「では、グリニッジも永遠ではない」
「はい。約束ですから」
王の表情が少し和らぎました。
「でも、単位は違います」
どろちゃんは科学院から持ってきた一メートルの標準尺を机へ置きました。
「これをパリの学者だけが使うなら、大したことはありません。でも、フランスの工房が使って、ライデンが使って、ロンドンが使って、船を作る人が使って、お薬を量る人が使って、商人が使って、学校で子供が習うようになったら、変える方がものすごく大変になります」
「なぜだ」
「物差しも秤も作り直します。図面も直します。工場の道具も直します。帳簿も直します。薬の作り方も直します。本も全部その単位で書かれるようになります」
どろちゃんは標準尺を指しました。
「子午線の零度を知らない人でも、一メートルの布は買います。一キログラムの小麦も買います。家を建てる人も、鉄を作る人も、お医者さんも、お菓子を作る人も使います。世界中の、ほとんど全部の人が毎日使うものになります」
「子午線よりも、ずっと広いか」
「はい。しかも、使う人が増えるほど変えにくくなります」
「それをフランス科学院が定め、維持する」
「はい。ただし『フランス人の身体を基準にした単位』にはしません。地球とか自然に結びつけます。外国の人にも、自分たちの単位だと思って使ってもらうためです」
ルイ十四世は、しばらく標準尺を見ました。
「未来の権力者が子午線を動かすことはあっても、世界中の職人と商人が使う物差しは、王一人では動かせなくなる、と」
「たぶん。使う人が多くなればなるほど」
「なるほど」
今度の「なるほど」は、さっきまでとは少し違いました。
「それでも英国には利益があるのだな」
「あります。世界中の海図にグリニッジが書かれます。英国はそれを自慢できます」
「フランスは」
「世界中の工房と市場と学校で使う単位を管理します」
「……そちらの方が、使用人は多そうだな」
「ものすごく多いと思います」
「ならば交換と言ってよいか」
「英国にも、そう思ってもらえれば」
そこで、どろちゃんはようやくグリニッジの話へ戻りました。
「零度は、地球のどこに置いても自然法則は変わりません。必要なのは、皆が同じ線を使うことです。英国にはグリニッジ王立天文台があって、フラムスティード先生が観測しています」
「フランスにはパリ天文台がある」
「だから交換です。英国はグリニッジを世界の経度零度にする。フランスはメートルとキログラムを世界共通の度量衡として主導する。お互い一つずつ取ります」
「グリニッジのどの線だ」
「そこは天文学者同士で決めてもらいます。今のフラムスティード先生の観測子午面を基準にして、将来、器械を取り替えても零度そのものを勝手に動かさないようにします」
王は地図を見ました。
「ほかに、今のうちに決めるものはあるのか」
「ずっと先の話でもいいですか」
「言ってみよ」
「鉄のレールを長く敷いて、その上を車輪で走る交通が広がり始めたら、線路の幅は、各国が何百キロも作る前に一緒に決めてください」
「幅まで?」
「今ここで何メートルにするかは決めなくていいです。車両の安定とか、曲線とか、橋とかを試してからでいい。でも、国ごとに違う幅で作り終わってから気づくと、とても困ります」
「病人を診に来て、未来の道の幅まで心配するのか」
「まだ幅は決めてません」
「決める前の約束を決めたいのだろう」
「はい」
それから、王室、科学院、パリ天文台へ話が回りました。
戦争中の英国と、いきなり正式条約を結べるか。
まず王立協会との科学協定にするか。
どろちゃん一人では決められません。
それでよいのです。
世界共通の規格を、一人で決めてしまったら世界共通にはなりません。
◇ ◇ ◇
パリ滞在の最後の日。
王宮から書状が届きました。
どろちゃんは、また何か診療の相談だと思いました。
違いました。
王立科学アカデミー。
外国人会員。
推薦。
国王による任命。
何度か読みました。
「……増えた」
荷物をまとめていたフランソワさんが、少し離れたところから尋ねました。
「何がでございますか、お嬢様」
「肩書き」
「またでございますか」
「またみたい」
家へ帰れば、お嬢様です。
ロンドンへ行けば英国伯爵で、教授で、王立協会会員です。
そして、パリでは王立科学アカデミーの外国人会員まで増えました。
どろちゃんは書状を畳みました。
「お父様に見せたら、何て言うかな」
「まず、無事にお帰りになったことをお喜びになると思います」
「そのあと?」
「肩書きを増やしに行ったのではない、とおっしゃるのではございませんか」
「私も、そのつもりじゃなかったんだけど」
本当に、薬を持ってきただけのはずでした。
帰りのタドポール君には、来たときと同じ輸送用バッグがあります。
教授服。
ドレス。
書類。
使わなかった薬。
新しく増えた書状。
後席も、そのままです。
重たい実験装置は、また陸路で送り返します。
飛行機は軽いまま。
どろちゃんは東へ帰ります。
パリに残ったのは、薬だけではありませんでした。
患者記録。
培養の方法。
三極管の回路図。
マイクとスピーカーの寸法。
原子番号順の周期表。
そして、
次にどろちゃんが来なくても、続きを調べられる人たちです。
第二十四章の小さな説明
■ オテル・デ・ザンヴァリッド
オテル・デ・ザンヴァリッドは、ルイ十四世が一六七〇年に設置を命じた、傷病兵、障害を負った兵士、老兵などのための大規模な施設です。
建設地は当時のパリ市街中心部ではなく、セーヌ河畔のグルネル平原でした。
本章の時代にはすでに多数の兵士を受け入れており、どろちゃんが戦傷後の感染症を実際に見る場所として適しています。
本作では、近くの開けた草地をタドポール君の発着場所として使っています。
これは物語上の設定ですが、当時のグルネル周辺が後世の密集したパリ市街とは大きく違っていたことを利用しています。
■ タドポール君の荷物
本章でも後席は取り外していません。
左右のパイロンへ流線形の輸送用バッグを取り付け、着替え、書類、少量の医薬品など、比較的軽いものを運びます。
左右の重量差は出発前に調整します。
一方、蓄電池、トランス、スピーカー、大型の実験器具などを飛行機で運ぶ必要はありません。
重い研究器具はストラスブールからパリへ先に発送しました。
飛行機がある世界でも、重量物輸送まで何でも飛行機にする必要はない、という運用です。
■ ラ・ボーム
本章で治療を受けるラ・ボームは、タラール元帥の長男をモデルにしています。
史実では一七〇四年のヘーヒシュテット、英語圏でいうブレンハイムの戦いで負傷しました。
同時代人サン=シモンは、ラ・ボームがその負傷後「数日しか生きなかった」と記しています。
ただし、残された記録だけから、死因が創感染だったと断定することはできません。
本作では、エルレンフェルトをめぐる軍事行動によって戦役の日程と部隊の動きが史実から変化しているため、これに相当する負傷を約二年早め、さらに後送されてパリへ到着した設定にしています。
負傷そのものでは即死せず、会話できる状態で数日生存したという史実上の余地を使い、本作では創感染が悪化したところへペニシリン系抗生物質と外科処置が間に合ったことにしました。
■ ペニシリン系抗生物質は、傷そのものを治しません
本章で使っているペニシリン系抗生物質は、銃弾で切れた血管をつなぐ薬でも、失われた脚を戻す薬でもありません。
大出血、重要臓器の破壊、重い頭部外傷などには役立ちません。
一方、最初の外傷を生き延びたあと、創部で感受性のある細菌が増殖し、化膿や全身感染へ進んでいる場合には、歴史を大きく変える可能性があります。
そのため本章では、薬だけを使わず、
洗浄。
排膿。
壊死組織の処置。
清潔な器具。
包帯。
患者記録。
を一緒に扱っています。
また、この薬が東欧で警戒しているペストに有効であるとは、まだ扱っていません。
■ パリ盆地と飛行
パリ盆地は広い堆積盆地で、東部にはケスタ状の地形が発達します。
エルレンフェルト方面から西へ飛ぶどろちゃんにとって、台地、斜面、河川、街道などは有用な地上目標になります。
ただし、ケスタだから着陸するのではありません。
パリ近郊では、グルネル側の開けた平坦地を着陸場所として利用しています。
■ 一六九九年の王立科学アカデミー
フランスの科学アカデミーは一六六六年に成立しました。
一六九九年、ルイ十四世は新しい規則を与え、王立科学アカデミーを国王の保護下に置きました。
本章の時代にはルーヴルを本拠とし、会員候補はアカデミー側から提示され、国王が任命する仕組みです。
制度には職業研究者である年金会員、若手、名誉会員、外国人会員などの区分がありました。
アイザック・ニュートンは一六九九年に最初の外国人会員となっています。
どろちゃんは英国伯爵という高い身分を持つため、名誉会員として扱う案が出ても不思議ではありません。
しかし本作では、身分だけで置かれる名誉席ではなく、研究者として外国人会員へ推薦されます。
女性で十六歳という点は、もちろん史実にはない大きな変更です。
■ 電子の実演と、その先
史実で電子が粒子として確立されるのは一八九七年、J・J・トムソンの陰極線研究によってです。
どろちゃんは、それに相当する低圧放電管、電場・磁場による偏向を約二百年前に持ち込みます。
三極管、マイク、スピーカーまで組み合わせることで、
電子がある。
電子が動く。
その流れを制御できる。
小さな電気信号で大きな電力を加減できる。
その結果を音として聞ける。
ところまでを一つの講演にしています。
一方、原子核、陽子、中性子については、同じ講演室で実証したことにはしていません。
どろちゃん自身が、
実験で確認したこと。
そこから考えられること。
自分は知っているが、この場では確認できないこと。
を分けて説明しています。
史実では原子核模型は二十世紀初頭、中性子の実験的発見は一九三二年まで待つことになります。
■ メンデレーエフより先ですが、並べ方も違います
史実でメンデレーエフが周期表を発表したのは一八六九年です。
当時は主として原子量と化学的性質を使って元素を並べました。
現在の周期表は原子番号順です。
この違いが実験的にはっきりする重要な研究が、ヘンリー・モーズリーによる一九一三年のX線スペクトル研究でした。
本作のどろちゃんは、最初から原子番号を「原子核中の陽子数」として表を作ります。
そのため、原子量の大小だけでは順序が逆転して見える元素についても迷いません。
ただし、どろちゃんが番号を知っていることと、十八世紀初頭の研究者がその番号を実験で測定できることは別です。
そこで、まだ確認できない部分は仮説として扱い、未知元素は実際に探してもらうことにしています。
答えを知っていても、確認まで省略しない。
この物語では、その区別を大切にしています。
■ この時代の「電気」という言葉
本作では、どろちゃんがライデン大学で、摩擦による火花、電池、磁針の偏り、金属線を通じて起こる現象などを、一つの研究分野としてまとめ始めています。
したがって、パリの科学院でも、ライデンの論文や紀要を読んだ人には「電気」が通じますが、全員の共通語ではありません。
現代では当たり前の電圧、電流、電極などの語彙も、この世界では研究と一緒に作られていきます。
■ 電子の「負」は符号の約束です
電子と陽子の電荷は互いに反対です。
どちらを正、どちらを負と呼ぶかは、自然が名前を付けたのではなく、人間の符号規約です。
史実では、電子発見より前の十八世紀半ばにベンジャミン・フランクリンが正・負の呼称を用い、その既存規約の中で、後に電子が負側へ置かれました。
本作はそれ以前なので、どろちゃん自身が「電子側を負、その反対側を正」と約束してから使います。
■ フランソワさんも飛んでいます
今回は後席を外さず、フランソワさんが同行します。
後席の搭乗者制限は衣類込み五十キログラム。飛行用の服と靴まで含めるとぎりぎりなので、本人には手荷物を持たせません。
二人分の衣類、書類、少量の薬は左右のパイロンバッグへ分け、重い実験装置はストラスブールから別送しています。
■ メートル法は約九十年早くなります
史実ではフランス革命期、一七九一年に、万人に共通する長さの単位を子午線に基づいて定める計画が進み、のちのメートル法につながりました。
本作では、どろちゃんがまず研究と工業の共通規格としてメートル、キログラム、十進接頭語を持ち込みます。
いきなりフランス国内の市場単位を廃止するのではなく、エルレンフェルト、ライデン、ロンドン、パリで同じ図面と実験記録を共有するための標準から始めます。
■ 子午線より、度量衡の方が日常へ深く入ります
本章でどろちゃんがルイ十四世へ説明している「子午線の零度より、普及した単位系の方が変えにくい」という話は、自然法則の違いではなく、社会的な変更コストの話です。
経度の零度は、地図、航海、天文学などには非常に重要ですが、日常生活で直接その数値を使わない人も多くいます。
一方、長さ、質量、体積などの単位は、商取引、建築、薬、工業、学校教育、科学記録などへ広く入り込みます。
一度、各国の工具、図面、秤、帳簿、教科書などが同じ単位を前提に作られるようになると、後から別の単位へ変更する費用は非常に大きくなります。
そのため本作のルイ十四世は、グリニッジを英国側の象徴的な利益として認める代わりに、フランス科学院が世界共通度量衡の中心になる方が、長期的には大きな利益になると考え始めます。
■ グリニッジとの交換案
グリニッジ王立天文台は一六七五年に設立され、フラムスティードが恒星位置と経度の研究を行っていました。
ただし、現在よく知られるエアリー子午環によるグリニッジ本初子午線は一八五一年のものです。一七〇二年には存在しません。
本作の案では、当時のフラムスティードの観測子午面を基準に固定し、英国側はグリニッジを世界の経度零度とする。その代わり、フランス側は世界共通の度量衡を主導・管理する、という交換交渉を始めます。
史実でグリニッジが国際本初子午線に選ばれるのは一八八四年です。この英仏交換協定は完全な架空設定です。
■ 鉄道の軌間は、まだ数字を決めません
どろちゃんは将来、鉄道網が国境を越えてつながることを知っています。
しかし、この時点で一四三五ミリメートルなど特定の軌間を押しつけることはしません。
実際の車両、曲線、安定性、橋梁、輸送量などを検討したうえで、各国が長大な鉄道網を作る前に共通規格を決める、という原則だけを先に提案します。




