表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
23/117

23貴族令嬢は、病気が来る前に動きます

第二十三章 貴族令嬢は、病気が来る前に動きます


 戦争が遠ざかっても、地図は片づきませんでした。


 どろちゃんの書斎には、少し前までフランス軍の位置を書き込んでいた大きな地図があります。


 その上へ、今度は別の紙が何枚も重ねられていました。


 ウィーンから来た手紙。


 ライデン大学から回ってきた商人の報告。


 南東へ旅をした医師の記録。


 ヴェネツィアを経由してきた手紙。


 オスマン帝国側から届いた、読み手の少ない文字で書かれた短い報告。


 書いた人も違います。


 言葉も違います。


 日付も、場所も、病人の数え方も違いました。


 けれど、どろちゃんには全部読めます。


「……これ、嫌だな」


 食堂へ持ってきた紙を、朝から三度読みました。


 お父様は向かい側で領地の帳簿を見ています。


「今度はどこの軍隊だ」


「軍隊じゃないの。そこが嫌なのよ」


 どろちゃんは一枚を抜きました。


「ここでは、高い熱が出た人が何人も死んでる。こっちは脇や脚の付け根が腫れた人がいるって書いてあるでしょう。でも別の町から来た手紙には、咳がひどくなって家族が続けて死んだってある。全部が同じ病気なのかは分からないし、この人たちが見たものだけでペストだって決めるのも早いんだけど……」


「その名前を知っているのか」


「知ってるよ。ロシアにいたもの」


 もちろん、ロシアに住んでいれば全員がペストの専門家になるわけではありません。


 どろちゃんも医師ではありませんでした。


 けれど、ロシアや東ヨーロッパの歴史を習えば、ペストは中世の黒死病だけで終わる病気としては出てきません。


 戦争。


 港。


 商人。


 軍隊。


 避難する人。


 食料を運ぶ荷車。


 鼠。


 蚤。


 冬を越すために人と物が集まる町。


 病気が移動する道も一緒に習いました。


 どろちゃんは地図の南東を指しました。


「バルカンのこの辺から、北へ動いてくる大きな流行があったの。何年だったかまで全部覚えていたわけじゃないんだけど、大北方戦争のころだったと思う。ポーランドとか、バルト海の方まで広がって……」


 そこで言葉が止まりました。


 自分で言った年代が、急に近すぎました。


 昔の歴史ではありません。


 いまです。


 少し離れたところで朝食の片づけをしていたお母様も、手を止めました。


「その病気が、ここまで来るということ?」


「分からない。来るって言えるほどの情報はないわ。でも、来ないって思って何もしないのも怖いの」


 お父様は地図を自分の方へ引きました。


「フランス軍なら、どこを歩いているか写真に撮れたな」


「病気は撮れないものね」


「では、どうする」


 どろちゃんは、もう一枚の紙を取りました。


「まずライデンへ行きたい。あそこなら南や東から入る手紙がもっとあるし、お医者様もいる。私が読めるからって、私一人で病名を決めたらだめでしょう。それから、うちの薬をどれだけ作れるのか、ちゃんと数え直したいの」


「戦争が終わったばかりだぞ」


「エルレンフェルトの周りではね。東の方は終わってないよ。それに、戦争してるから心配なの。兵隊さんがたくさん移動したら、病気も一緒に遠くまで動くでしょう」


 お父様はしばらく地図を見ていました。


 娘がヴェルサイユへ除草剤を撒きに行くと言い出したときとは、顔が違います。


「ロンドンへも行くつもりか」


「ライデンで話してから。ろば……フック先生にも相談したいし、王立協会ならもっと遠くから記録を集められるでしょう」


「今、何と言いかけた」


「何も」


 お母様が笑いました。


「では、何も聞かなかったことにしましょう。それより、いつ出るつもりなの?」


「明後日くらい。明日は工場へ行く」


「明後日なら、今日から荷物を決めなさい。前の日の夜になって、あれも必要だった、これも必要だったと言われても困ります」


「今回は薬を大量には持っていかないよ。調べに行くんだから」


「あなたの場合、その『調べに行く』がロンドンまで伸びますから言っているのです」


 それは、たいへん正しい指摘でした。



     ◇ ◇ ◇



 翌日、どろちゃんは薬品工場にいました。


 抗生物質を作る建物は、最初のころよりずっと整っています。


 培養。


 分離。


 精製。


 濃度の確認。


 乾燥。


 包装。


 保存。


 一つずつ担当する人が決まり、記録も残るようになりました。


 どろちゃんが工場長の机へ持ってきたのは、新しい薬の作り方ではありません。


 紙と鉛筆でした。


「いま、どれだけ作れます?」


「どの薬を、どの期間で、でしょうか」


「あ、そうなるよね」


 聞き方が雑でした。


 どろちゃんは椅子へ座り直しました。


「抗生物質。いまある設備と人のままで、普段の仕事を全部止めない場合。ひと月に何人分くらい用意できるのか知りたいの。瓶の数じゃなくて、標準的な治療を一人終える量で数えたい」


 工場長はすぐには答えませんでした。


 倉庫係が呼ばれました。


 製造記録が来ました。


 失敗した仕込みも含めます。


 原料が揃わなかった日。


 培養が思ったように進まなかった日。


 精製後の量が少なかった仕込み。


 検査ではねられたもの。


 全部入れます。


 うまくいった日の最大量だけを、生産能力とは呼びません。


「思ったより少ない」


 どろちゃんは計算した紙を見ました。


「領地で普通に使う分なら足りています」


 工場長が言いました。


「はい。でも、大きな町で一度に何百人、何千人って病気になったら、全然足りないわ」


 頭の中の技師さんたちも、数字を見ていました。


 ――培養槽を増やすだけじゃ追いつかないね。後ろも詰まる。


 いつもの穏やかな声です。


 ――精製するところと、乾燥、それから瓶へ詰める人も増やさないと、途中に溜まると思うよ。


「ですよね。大きい容器を増やしたらいっぱい作れる、では終わらないものね」


 工場長には、どろちゃんが誰と話しているのか分かりません。


 もう慣れています。


「増産するのでしたら、原料の在庫も見直します」


「お願いします。でも、まだ全部を薬にしないで。今ある薬が、その病気に効くかどうかも分からないから」


 そこは大切でした。


 抗生物質だから細菌なら何でも治る、という薬ではありません。


 ペストらしい患者から試料を得られたなら、まず培養する。


 今ある薬を加えたものと、加えないものを比べる。


 効くのか。


 どのくらいで増殖が抑えられるのか。


 患者に使ったときの記録とも合わせる。


 ロンドンで始めた方法を、そのまま使えます。


「それと、もし本当に大きな流行になったら……」


 どろちゃんは計算用紙の端へ、新しい項目を書き始めました。


 医師。


 外科医。


 病人の世話をする人。


 薬を扱う人。


 培養や検査をする人。


 薬を作る人。


 工場長が紙をのぞき込みました。


「医療に関わる者を、先にするということですか」


「うん。でも、お医者様だけじゃないよ。薬が足りなくなったときに、誰へ先に使うかって話なら、治療する人と、治療を続けるために必要な人を先にしないといけないでしょう」


 どろちゃんは工場長の名を書きました。


 その下へ、自分の名も書きます。


 工場長が少し意外そうな顔をしました。


「お嬢様も、ですか」


「あなたも私も最優先よ」


 そこは迷いませんでした。


「私が病気になって寝ていたら、製造条件を変える相談もできないし、ライデンやロンドンへ飛んで行くこともできないでしょう。あなたが倒れたら、ここの製造が止まらなくても、かなり遅くなる。二人とも元気なら、そのあと何百人分、何千人分って薬を作る仕事ができるんだから」


「伯爵だから、ではないのですね」


「それで先にしたら順番がおかしくなるよ。私は製造する側だから。あなたも同じ」


 さらに名前と役割を書き足します。


 培養を管理できる人。


 精製工程を任せられる人。


 検査をできる人。


 設備を修理できる人。


「一人しかできない仕事がある人は、特に気をつけないと。できれば今のうちに二人、三人できるようにしておいた方がいいね。薬を優先して守らないといけない人が少ない方が、本当はいいもの」


 工場長はそこで別の紙を取りました。


「では、代わりのできない工程から洗い出しましょう。誰が休んでも続けられるか、という見方で確認できます」


「それがいい。私も、私しか分からない仕事を減らす」


 自分を最優先に置くことと、自分だけしかできない仕事を残すことは、同じではありません。


 むしろ逆でした。


 どろちゃんが病気になっても工場が動く。


 工場長が休んでも次の人が判断できる。


 そこまで作っておけば、限られた薬をもっと多くの患者へ回せます。



     ◇ ◇ ◇



 二日後。


 タドポール君は北西へ向かいました。


 ライデンまでの道は、もう初めてではありません。


 前に五百キロメートル先の友人を訪ねたときは、川と町と城壁を一つずつ確かめました。


 いまも確認します。


 ただし、以前ほど一つ一つに緊張しなくなりました。


 空の道にも、慣れるということがあります。


 ライデンへ着くころには、大学側にも連絡が届いていました。


 教授が来る。


 研究の相談がある。


 医学関係者にも集まってほしい。


 そして、できれば南東ヨーロッパから届いた最近の手紙や報告を集めておいてほしい。


 大学へ着くと、前に見た先生だけではありませんでした。


 医師。


 薬を扱う人。


 商人との連絡を持つ先生。


 東方の言葉を研究している人。


 地図を扱う人。


 机の上には紙が山になっています。


 どろちゃんは少し嬉しくなりました。


「いっぱいある」


「喜ぶところですか」


 医学の先生が言いました。


「読めるものがいっぱいあるのは嬉しいです。書いてあることは、あまり嬉しくないかもしれません」


 最初の一時間は、病気の話より地名の確認に使いました。


 同じ町に、言語によって別の名前があります。


 古い名前で書く人もいます。


 綴りが違うものもあります。


 どろちゃんには文章そのものは読めます。


 けれど、地名が地図のどこなのかは、別の問題です。


「これ、同じ町ですね」


「どうして分かるのです?」


「文章の中に川の名前と、次に寄った町が書いてあるから。たぶんこっち。でも、地図に印を付ける前に、商人の記録と合わせた方がいいと思う」


 断定しません。


 別の紙には、熱病としか書いてありません。


 別の紙には、腫れ物。


 別の紙には、家族の中で続けて死人が出たとあります。


「これだけでは、全部をペストとして数えられません」


「では、危険はない?」


「そうじゃないの。分からないものを、分かったことにしないだけです」


 どろちゃんは地図の南東から北へ、指を動かしました。


「もし、この中に本当にペストが混じっているなら、人と荷物が動く道を見た方がいいと思う。いま戦争もあるでしょう。兵隊さんだけじゃなくて、食料を運ぶ人、馬、荷車、それから逃げる人も動く。港から船にも乗るし」


 大学の先生が別の地図を持ってきました。


 交易路。


 河川。


 主要都市。


 軍が動いている地域。


 紙の上で重ねると、病気の報告が突然別の意味を持ち始めます。


「北へ来ると思いますか」


 医師が尋ねました。


 どろちゃんは、しばらく答えませんでした。


「昔のことなら、来たって知っています。でも、今ここにいる私が、『だから今年この町へ来ます』って言うのは違うでしょう。昔と同じ道を通るとも限らないし、途中で止まるかもしれない」


 自分の頭の中にある未来と、机の上にある現在を混ぜないようにします。


「ただ、来るかもしれないって分かった時点で準備できることはあると思うの。薬をいきなり配るんじゃなくて、記録の様式を揃えるとか、病人が出たらどこから試料を取るか決めておくとか、熱を測るとか、使った薬の量を書くとか」


 そこで別の問題が出ました。


「それを、どこでするのです?」


 医学の先生が聞きました。


 どろちゃんは大学の工房を思い出しました。


 前にタドポール君を囲んで全員が別々のところへ触りそうになった場所です。


「工房はだめです」


「まだ何も言っていません」


「でも工房に置こうとしたでしょう」


 先生は笑いました。


「少しだけ考えました」


「飛行機の部品と病人から取ったものを同じところへ置きたくないです。それに学生さんがいっぱい来る場所でしょう」


 話し合った結果、大学の建物の一角に二つ続いた小さな部屋が用意されることになりました。


 一方は記録と器具。


 もう一方は試料を扱う部屋。


 机。


 水。


 加熱できる場所。


 洗える容器。


 顕微鏡。


 恒温槽。


 薬品。


 使った器具を処理する場所。


 誰が入ったか分かるよう、鍵も付けます。


「私の研究室?」


「大学所属の研究者なのですから、研究する場所が大学にあってもよいでしょう」


 どろちゃんは扉を見ました。


 教授になってからも、エルレンフェルトの自分の部屋で書類を広げている時間の方が長かったのです。


「名前、付けてもいい?」


「部屋にですか」


「扉に」


「教授の名を表示するのは普通です」


「ほんと?」


 その日の午後。


 小さな札が付きました。


 Dorothea von Erlenfeld


 どろちゃんは廊下を一度通り過ぎてから、戻ってもう一度見ました。


 自分の名前です。


「大学に私の部屋ができた」


 十五歳で来たときには、友人の家へ泊まっていました。


 十六歳で来ると、研究室ができました。


 少しだけ大学の人になった気がしました。



     ◇ ◇ ◇



 研究室が決まった日の夕方、どろちゃんは手紙を書きました。


 宛先はロンドン。


 ロバート・フック。


 今回は、ライデン大学から送ります。


 内容は長くありません。


 バルカン方面から届いている疾病報告について、ライデンで検討を始めたこと。


 現時点では、すべてをペストと断定していないこと。


 東ヨーロッパから北へ感染症が拡大する可能性を考え、エルレンフェルトで抗生物質の生産能力を確認していること。


 ライデンに常設の研究室を確保したこと。


 ロンドンでも同じ形式の記録と試験を継続したいこと。


 そして、


 四日後、天候が許せばロンドンへ向かう予定であること。


 どろちゃんは最後の日付を見ました。


「手紙の方が先に着くよね」


「あなたが明日飛ばなければ」


 友人が横から言いました。


「飛ばないよ。あと三日はここにいるもの」


「二日目に全部終わったら?」


「三日いる」


「本当に?」


「……たぶん」


「それでは手紙が負けるかもしれないわ」


 友人は、どろちゃんが初めてライデンへ来たころから何も変わっていません。


「分かった。四日目まで飛ばない」


「約束ね」


 手紙は、その日の便で大学から送り出されました。


 馬。


 郵便馬車。


 船。


 また馬。


 タドポール君よりずっと遅い乗り物をいくつもつないで、海峡の向こうへ向かいます。


 今回は、それでよいのです。


 どろちゃん自身が、そのあとを追い越さない限り。



     ◇ ◇ ◇



 四日後。


 タドポール君はライデンを離れました。


 海を越えます。


 英国側の丘へ近づくと、前に来たときより人が少なくなっていました。


 見物のために集まるものではないと、ようやく分かってきたようです。


 着陸。


 停止。


 機体を降りたどろちゃんの前に、見覚えのある背の高い老人がいました。


 去年より歩き方がしっかりしています。


「ろばーとっち」


 もちろん、口には出しません。


「フック先生。お久しぶりです」


「四日後と書いてありましたから、四日目から待つつもりでした」


「今日が四日目です」


「ですから、ここにいます」


「手紙、ちゃんと先に着いたでしょう」


「二日前に」


 どろちゃんは満足しました。


 飛行機が郵便に勝たなかったことを喜ぶ日もあります。


 馬車へ乗ると、フックはさっそく封筒を出しました。


 どろちゃんが送ったものです。


 余白に書き込みがあります。


「もう読んだの?」


「二日前に届いた手紙を、今日まで読まずに置いておくと思いましたか」


「思わない」


 フックは、バルカン方面という文字を指しました。


「こちらでも似た報告を探させました。港へ来た船からの話があります。ただし、病名は揃っていません」


「ライデンも同じ。だから、名前を先に揃えない方がいいと思うの。熱がある、腫れた、咳がある、何人死んだ、家族内で続いた、そういう見たことを書いてもらって、そのあとで比べたい」


「王立協会から質問状を出せます」


「どこまで?」


「返事をする人がいるところまで」


 たいへん王立協会らしい答えでした。


 ロンドンへ着くまでの馬車の中で、話は続きました。


 医師への質問。


 港への質問。


 軍医への質問。


 どの町で、いつ。


 患者は何人。


 死者は何人。


 どこから来た人か。


 腫れはあるか。


 咳はあるか。


 同じ家から続けて出たか。


 鼠の異常な死が先にあったか。


 その土地を離れた人は、どちらへ向かったか。


「多すぎますか」


 どろちゃんが聞くと、フックは紙を見ました。


「多いです。しかし、少なくして後から聞き直す方が難しい」


「じゃあ、答えられないところは空欄でいいって書いてね。知らないのに埋められる方が困るから」


「それは大きく書きましょう」


 ロンドンへ入るころには、手紙一通だった相談が、質問票の下書きになっていました。



     ◇ ◇ ◇



 グレシャム・カレッジでは、前に培養をした部屋がまだ使われていました。


 恒温槽もあります。


 顕微鏡もあります。


 記録も残っています。


 しかし、どろちゃんは入口で中を見て、少し考えました。


「ここ、ずっと借りられます?」


「何のために?」


「私の研究室にしたいの」


 フックは、どろちゃんを見ました。


「ライデンにも作ったと手紙にありましたね」


「うん。エルレンフェルトだけに全部送っていたら、手紙が往復するだけで何日もかかるでしょう。ライデンで見つけたものはライデンで調べて、ロンドンで集めたものはここで調べる。その結果を同じ書き方で交換したいの」


「あなたは三か所に研究室を持つつもりですか」


「私が三人になるわけじゃないよ。私がいないと動かない部屋なら、研究室にする意味がないもの」


 フックは、その答えを気に入ったようでした。


「それなら、あなたの部屋ではなく、あなたが始めた研究の部屋ですね」


「でも札には私の名前も少し欲しい」


「そこは譲らないのですか」


「ライデンには付いたもの」


 フックは笑いました。


 結局、グレシャム・カレッジにも場所が確保されました。


 ロンドン側の医師と王立協会の人が使える部屋。


 試料。


 培養。


 顕微鏡標本。


 薬への反応。


 患者記録。


 それぞれを同じ番号で結びます。


 ライデンと同じです。


 完全に同じ器具を置く必要はありません。


 同じ方法で比べられることの方が大切でした。



     *



 その日の長い打ち合わせの最後に、どろちゃんはエルレンフェルトで作った優先順位の紙を机の中央へ置きました。


「薬が足りなくなった場合は、こうしたいの」


 フックと医師たちが紙を寄せて見ます。


「最初に医療をする人。それから病人の世話をする人、標本を扱う人、薬を作る人。エルレンフェルトでは、工場長と私もここへ入れました」


 フックがどろちゃんの名前を見つけました。


「ご自身を?」


「入れますよ。私が倒れたら困るもの」


 どろちゃんは、むしろ不思議そうに答えました。


「飛行機で薬や記録を運ぶ人もいなくなるし、製造の変更を三か所へ伝える人も一人減ります。だから、必要になったときは私も先です。ただし伯爵だからじゃありません。仕事で決めます」


 フックはもう一度紙を見ました。


「では、ロンドンでは誰をそこへ加えるかを決める必要がありますね」


「そう。それを相談したかったの」


 王室医師。


 病院で患者を診る医師。


 外科医。


 薬剤師。


 培養と顕微鏡観察を担当する人。


 器具の洗浄と消毒を担当する人。


 記録をまとめる人。


 代わりのきかない人から順に名前を挙げていきます。


 フック自身のところで、どろちゃんが鉛筆を止めました。


「先生も入ります」


「私は医師ではありませんが」


「知ってます。でも、この研究室を動かして、王立協会から各地へ問い合わせを出して、返ってきた記録をまとめられる人でしょう。倒れてもらったら困ります」


「私以外にもできます」


「それなら、その人にも全部覚えてもらいましょう。先生しかできないままにしておく方が危ないもの」


 フックは少し考え、それから別の名前を書き足しました。


 どろちゃんもその紙をのぞき込みます。


「そういうふうに増やしていけばいいの。最優先の人を増やしたいんじゃなくて、最優先にしないと困る人を減らしたいのよ」


 薬の配分を決める話は、いつの間にか人を育てる話にもなっていました。


 薬を優先するだけでも足りません。


 清潔な水。


 洗浄。


 消毒。


 患者を分ける場所。


 衣服や寝具の扱い。


 鼠と蚤への対策。


 病人の世話をする人が、同じ服のまま次の患者へ行かないこと。


 肺の症状が強い患者には、さらに距離を取ること。


 そして、死者が増えても、医療をする側を使い潰さないこと。


「人数が足りなくなったら、休ませないってなりそうでしょう」


 どろちゃんが言いました。


 医師たちは否定しませんでした。


「それをやったら、あとでもっと足りなくなるよ。寝ないで働いて、食べないで働いて、それで病気になったら一人減るだけじゃないもの。その人が診るはずだった患者さん全部に影響するでしょう」


 フックが紙へ書き加えました。


 交代。


 休息。


 食事。


 水。


「薬の会議だったはずですが」


「薬だけあっても、お医者様が倒れたら瓶が棚に並んでるだけになるもの」


 どろちゃんは椅子の背へもたれました。


 ライデンで三日。


 飛行してロンドン。


 着いた日から長い会議。


 自分も、休息の項目へ入った方がよさそうです。


 フックが時計を見ました。


「今日はここまでにしましょう」


「まだ工場へ送る手紙があるんだけど」


「明日でも間に合うでしょう。疲れたまま数字を書いて、あとで全部確かめ直す方が時間がかかります」


 どろちゃんは少し考えました。


「それは困るね。じゃあ、明日の朝にする」


 廊下へ出ても、頭の中ではまだ順番を組み替えています。


 エルレンフェルト。


 ライデン。


 ロンドン。


 三つの町に、同じ記録用紙があります。


 同じ方法で培養するための器具があります。


 同じ薬を試す準備があります。


 そして、そこにいる人たちは、どろちゃんから次の答えが届くまで待つのではありません。


 自分たちで患者を見ます。


 自分たちで記録します。


 自分たちで比べます。


 分からなければ、手紙を書きます。


 別の町で分かったことがあれば、また返事が来ます。


 病気がどこまで来るのかは、まだ誰にも分かりませんでした。


 バルカンで起きていることの全部が、同じ病気なのかさえ分かりません。


 けれど、


 病気が国境を越えてから相談を始める必要は、もうありませんでした。


 その道より先に、


 手紙が走り始めていました。



第二十三章の小さな説明



■ これは「黒死病」より、ずっと後のペストです


 ペストというと、まず十四世紀の「黒死病」を思い浮かべるかもしれません。


 ヨーロッパの人口を大きく減らし、その後の社会や宗教観、文化、死の表現にも長い影を残した大流行です。


 ヒエロニムス・ボスの絵を思い浮かべる人もいるかもしれません。


 けれど、どろちゃんが警戒しているのは、それより三百年以上あとの流行です。


 さらに、アイザック・ニュートンが疫病を避けてケンブリッジを離れ、ウールズソープへ戻った一六六五年の流行よりも後です。


 本章の時代は一七〇〇年代の初め。


 一七〇二年ごろから一七一三年にかけて、東ヨーロッパからバルト海沿岸まで広がる、別の大規模なペスト流行が実際に起きました。


 これは中世の黒死病でもありません。


 一六六五年のロンドン大疫病でもありません。


 ペストは「昔、一度だけヨーロッパを襲った病気」ではなく、地域を変え、規模を変えながら、近世になっても何度も戻ってきていました。



■ 十八世紀初頭の東ヨーロッパのペスト


 一七〇二年ごろから一七一三年にかけて、東ヨーロッパからバルト海沿岸に至る広い地域で、大規模なペスト流行が起きました。


 後世の歴史資料と病原体研究を合わせると、この流行は一七〇〇年前後にオスマン帝国側からバルカン半島、トランシルヴァニア方面を経てヨーロッパへ入り、北方へ広がったと考えられています。


 しかも、この時期のヨーロッパでは大北方戦争とスペイン継承戦争が同時に進んでいました。


 大量の兵士が移動します。


 食料を運ぶ荷車も動きます。


 馬、商人、避難民、軍に付随する人々も動きます。


 戦争そのものがペストを作るわけではありませんが、人と物が長距離を大量に移動することで、感染症が普段より遠くまで運ばれる条件ができます。


 実際、この流行はのちにバルト海沿岸へ達し、軍隊や船舶の移動とも結びつきながら北欧まで広がります。


 したがって、ロシアで育ったどろちゃんが「バルカン方面の報告」と「大きな戦争が始まっていること」を一緒に見て嫌な予感を持つのは、未来の年表を一字一句暗記しているからではありません。


 自分が知っている東欧史と、いま目の前へ届いている情報の形が似ているからです。



■ 鼠だけ見ていればよいわけではありません


 ペストの原因は細菌の Yersinia pestis、ペスト菌です。


 典型的な腺ペストでは、感染した齧歯類と蚤の関係が重要になります。


 一方、肺ペストになると、人から人への近距離での感染も問題になります。


 ですから本章でどろちゃんたちが集めようとしている情報には、


 熱。


 腫れ。


 咳。


 家族内で続けて発症しているか。


 鼠などの異常な死亡が先に起きていないか。


 患者がどこから来たか。


 その土地から人がどちらへ移動したか。


 といった、少し性格の違う項目が混ざっています。


 ただし、この時代の医師から届く手紙だけで、現代の診断基準どおりに「これは腺ペスト」「これは肺ペスト」と分類できるわけではありません。


 そこで、どろちゃんも「熱病」「腫れ物」「咳」と書かれた報告を、最初から全部ペストとして数えないことにしています。



■ 抗生物質なら何でもよいわけではありません


 現代では、ペストは適切な抗菌薬による治療が可能な感染症です。


 ただし、「抗生物質」という札が付いていれば何でもペスト菌に効くわけではありません。


 本作でも、エルレンフェルトで量産している抗生物質がペストらしい患者へ使えるかどうかを、どろちゃんの未来知識だけで決定しません。


 患者から得た試料を培養し、


 薬を入れないもの。


 薬を一定量加えたもの。


 を同じ条件で比較します。


 これは第二十章で、王様の傷や別の化膿した傷から得た試料について始めた方法の続きです。


 どろちゃんは未来の菌名を知っていても、目の前の試料が本当にその菌であることまで自動的に分かるわけではありません。


 知っている答えと、いま観察して確かめられることを分けています。



■ 「医療従事者優先」の意味


 本章では、抗生物質が不足した場合、医師、外科医、看護をする人、薬剤師、培養や検査をする人、製造担当者などを優先する方針を決めています。


 これは「医療関係者なら健康なうちから全員へ抗生物質を飲ませる」という意味ではありません。


 必要になったときに薬を確保できること、明確な曝露があった人を早く評価できること、発症した場合に治療開始を遅らせないことまでを含む優先です。


 そして、どろちゃん自身と工場長も優先対象です。


 伯爵だからではありません。


 抗生物質を作り、検査し、製造条件を変更し、別の製造担当者へ伝えられる人だからです。


 一人の製造担当者を失うと、その人一人分ではなく、その後に作れる何百人分、何千人分もの薬へ影響します。


 その一方で、どろちゃんたちは「その人しかできない仕事」を減らそうともしています。


 代替できる人を育てれば、最優先で守らなければならない人そのものを減らせるからです。



■ エルレンフェルト、ライデン、ロンドン


 第二十章で始まった、


 エルレンフェルト


 ライデン


 ロンドン


 の三地点で同じ方法を使い、結果を手紙で交換する研究は、本章から常設の研究網へ変わっていきます。


 どろちゃんが三つの研究室を一人で動かすわけではありません。


 むしろ逆です。


 どろちゃんがいなくても、それぞれの場所で試料を調べ、記録し、結果を送り出せるようにすることが目的です。


 飛行機を持つどろちゃんは、その三地点を高速で移動できます。


 しかし、研究そのものまで一人へ集中させてしまえば、どろちゃんが病気になった瞬間に全部止まります。


 そのため本作では、飛行機よりも先に「方法を共有すること」が重要になっています。



■ ロンドンの研究室とグレシャム・カレッジ


 ロバート・フックは、実際にグレシャム・カレッジの幾何学教授でした。


 王立協会も創設期からグレシャム・カレッジと深い関係を持ち、会合、実験、報告、外国との書簡の交換などを行っていました。


 王立協会が独自の建物を購入してクレーン・コートへ移るのは一七一〇年です。


 したがって本章の時期なら、フックと相談しながらグレシャム・カレッジをロンドン側の研究拠点にする方が自然です。


 ただし、「ドロテーヤ教授専用の感染症研究室」が史実に存在したわけではありません。


 もちろん、ありません。


 本作で新しくできたものです。



■ 手紙は飛行機より先に


 どろちゃんはライデンからロンドンへ飛べば、普通の郵便よりずっと早く着きます。


 だからこそ、本章では先に手紙を出し、自分は数日ライデンへ残ります。


 相手が到着日時を知らなければ、どれほど速い飛行機でも、着いたところから人探しが始まります。


 研究者。


 医師。


 部屋。


 資料。


 試料。


 必要なものを先に集めてもらえば、飛行機の速さを本当に活かせます。


 この物語では、飛行機が一番速い通信手段になりつつあります。


 それでも、


 先に出した手紙の方が役に立つことがあります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ