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22貴族令嬢は戦争をしません スペイン継承戦争に巻き込まれるけど、逆に独立国?になっていきます。

第22章 貴族令嬢は戦争をしません


 宇宙まで行って帰ってきても、ヨーロッパは静かにはなってくれませんでした。


 今度は戦争です。


 イングランドとフランスが戦争を始めたという知らせが届いた日の午後、どろちゃんは食堂の大きな机に地図を広げていました。


 このあたりの地図では、ライン川は南西から北東へ向かって斜めに流れています。地図の左上、川のすぐ西側にある大きな町がストラスブールでした。アルザス地方の中心都市で、かつては帝国側の都市でしたが、この時代にはすでにフランス王の支配下にあります。


 エルレンフェルトは、そのストラスブールより南にありました。


 ただし、ストラスブールから真南へ線を引けば、そのままフランス領になるわけではありません。ライン川そのものが斜めに流れているため、エルレンフェルトの町と領地は川の東側にあります。こちらはフランスではなく、神聖ローマ帝国側のドイツ語圏でした。


 町の周囲には畑が広がり、その外側には牧草地と森があります。低いところには水気の多い土地もあって、ハンノキが生える場所も少なくありません。領地の名であるエルレンフェルトも、そうした土地の景色によく似合いました。


 エルレンフェルト家は、この土地を何百年も治めてきました。


 帝国ができるより前から、この場所に家と領地がありました。王が替わり、皇帝が替わるたびに、古くからの権利を確認してもらいながら続いてきたのです。


 領境も、ほとんど動いていません。


 農地や森を持ち主から買って少し広げたことはありましたが、戦争に勝って隣の領地を奪ったことはありませんでした。


 どろちゃんは、地図の西側を指でなぞりました。


「イングランドと戦争してるんでしょう?」


「ああ」


 お父様が答えました。


「じゃあ、こっち来ないでよ」


「フランス王にそう言って済むなら、誰も苦労しない」


「二面作戦は失敗の元だよ」


「それもフランス王に言ってきなさい」


「いやです」


 どろちゃんは即答しました。


 お父様は地図から目を離しませんでした。


「だから私はウィーンへ行く」


「私も?」


「お前は残れ」


「留守番?」


「領地の準備をしておきなさい」


 どろちゃんは少し考えました。


「戦争の?」


「戦争をしないための準備だ」


 その言い方なら、どろちゃんにもよく分かりました。


 お父様がウィーンへ持っていくものは、武器ではありませんでした。


 家に残っていた古い羊皮紙や証書を、書記たちが一枚ずつ確認しました。領境を記した古地図、歴代の王や皇帝がエルレンフェルト家の権利を認めた文書、帝国への負担を果たした記録が並びます。それに現在の人口、農地、工房、税収、街道や橋の状況をまとめた新しい資料も加えました。


 お父様が欲しいのは、新しい土地ではありません。


 昔からあるエルレンフェルトの地位を、これからも誰にも勝手に変えられないよう、帝国の中でもう一度はっきりさせることでした。


 そして今は戦争中です。


 軍隊が通れば、領地は簡単に壊れます。


 兵士が悪人だからではありません。何千人もの人間と馬が一度に移動すれば、それだけで食料、水、干し草、薪、荷車が必要になります。正規に代金を払う軍隊であっても負担は大きく、補給が崩れれば徴発が始まります。


 だから、軍隊そのものに来てもらわないのが一番でした。



 お父様が出発すると、どろちゃんは留守を預かる人たちを集めました。


 最初に確認したのは食料でした。


 次に薬、水、井戸、水路、橋、街道、倉庫を確認します。街道が壊れたときに使う木材や石材も分散して置きました。火事になった場合の水桶やポンプも点検しました。


 そのあとで、ようやく武器の話になりました。


「大砲を並べる?」


 工房の人が聞きました。


「並べない」


 どろちゃんは答えました。


「見えるところに大砲を置いたら、向こうも大砲を並べるでしょう」


 それより、別のものを使うことにしました。


 ロケットです。


 ただし、一本だけ飛ばすものではありません。


 アントノフの技師さんたちが知っている、ずっと後の時代のソ連には、カチューシャと呼ばれた有名な多連装ロケット砲がありました。一本一本のロケットを大砲のように精密に当てるのではなく、簡単な無誘導ロケットを多数まとめて短時間に発射し、広い範囲へ一度に降らせる方式です。


 砲身一本から一発ずつ撃つ大砲とは考え方が違います。


 発射装置そのものは比較的簡単で、同じ場所から何本ものロケットを続けて飛ばせます。その代わり、一発だけを遠くの小さな標的へ正確に当てることには向きません。


 けれど、戦列を組んだ歩兵のように、人が広い範囲へ並んでいる相手には嫌な兵器です。


 どろちゃんは、それをそのまま殺傷用には使いませんでした。


 最初に用意した弾頭には、人へ飛ばす破片を入れません。


 大きな閃光と、とんでもなく大きな音だけを出す警告用でした。祭りで使う五段雷を何倍にも大きくしたようなものですが、花火を見るためのものではありません。人の近くへ落ちれば耳を傷めることもあり、馬が驚いて暴れることもあります。


 安全な玩具ではありません。


 それでも、最初から鉄片を降らせるよりはずっとましです。


「ようやく、多連装ロケットらしい使い方になりましたね」


 頭の中で技師さんの一人が言いました。


「でも、最初は光るだけだよ」


「音も相当なものですが」


「破片は入れない」


「警告のうちは、ですね」


「うん」


 どろちゃんは、破片を飛ばす弾頭も作れること自体は隠さないことにしました。


 隠したままでは抑止にならないからです。


 撃たないことと、撃てないと思われることは違います。



 印刷所は、それから大忙しになりました。


 領境へ掲示するだけでは足りません。


 フランス軍が来る前に、兵士一人ひとりへ知らせることにしたのです。


 タドポール君なら、軍隊の上から紙を撒けます。


 どろちゃんは文章を何度も直しました。


 怒って書くと、必要以上に怖い文章になります。


 弱く書くと、読んでもらっても意味がありません。


 最後には、かなり事務的な文章になりました。


 作中では、当時の表記の揺れをそのまま再現すると読みにくいため、以下のドイツ語は現代の正書法に近い形で記します。



 ――エルレンフェルト領からフランス軍への第一警告文――


 An die Offiziere und Soldaten der französischen Armee.


 Das Gebiet Erlenfeld nimmt an diesem Krieg nicht teil.


 Überschreiten Sie die Grenze Erlenfelds nicht mit bewaffneten Truppen.


 Nehmen Sie von den Bewohnern weder Getreide noch Vieh, Pferde, Wagen, Brennholz oder andere Vorräte mit Gewalt. Verletzen Sie weder Einwohner noch Reisende.


 Wenn bewaffnete Truppen nach dieser Warnung die Grenze überschreiten und in Schlachtordnung vorrücken, wird Erlenfeld Warnraketen einsetzen.


 Diese Raketen erzeugen sehr helles Licht und einen außerordentlich starken Knall. Die zuerst verwendeten Gefechtsköpfe sind nicht dazu bestimmt, Splitter gegen Menschen zu schleudern.


 Dasselbe Abschusssystem kann jedoch auch andere Gefechtsköpfe verwenden.


 Wenn der Vormarsch fortgesetzt oder Artillerie gegen Erlenfeld in Stellung gebracht wird, wird Erlenfeld die zum Schutz seines Gebietes erforderlichen Maßnahmen treffen.


 Erlenfeld verlangt kein französisches Land und wird französisches Gebiet nicht angreifen, solange französische Truppen Erlenfeld weder angreifen noch als Durchmarschgebiet benutzen.


 Kehren Sie um.


 ――日本語訳――


 フランス軍の将校および兵士へ。


 エルレンフェルト領は、この戦争に参加していません。


 武装した部隊でエルレンフェルトの領境を越えないでください。


 住民から穀物、家畜、馬、荷車、薪その他の物資を力ずくで取り上げないでください。住民および旅人に危害を加えないでください。


 この警告の後も武装部隊が領境を越え、戦列を組んで前進する場合、エルレンフェルトは警告ロケットを使用します。


 このロケットは非常に強い光と、きわめて大きな音を生じます。最初に使用する弾頭は、人に破片を飛ばすことを目的としたものではありません。


 ただし、同じ発射装置から別の弾頭を使用することもできます。


 前進を続ける場合、またはエルレンフェルトへ向けて砲兵を配置する場合、エルレンフェルトは領地を守るために必要な措置を取ります。


 エルレンフェルトはフランスの土地を要求しません。フランス軍がエルレンフェルトを攻撃せず、また第三国へ向かう通過地として使用しない限り、エルレンフェルトからフランス領を攻撃することもありません。


 引き返してください。



「これならいいかな」


 どろちゃんが読み終えると、技師さんは少し間を置きました。


「かなり親切です」


「そう?」


「攻撃する前に、ここまで説明する軍隊は多くありません」


「軍隊じゃないよ」


「そこが一番ややこしいところです」


 大量のビラが刷られました。


 朝、どろちゃんはそれをタドポール君へ積み込みました。


「行ってくるね」


 フランス軍はすでに領境へ近づいていました。


 どろちゃんは低空へは降りません。地上の小銃や砲から簡単に狙われない高度を保ちながら、軍の進路、宿営地、街道沿いの村の上へ広く紙を撒きました。


 白い紙が空から何千枚も落ちていきます。


 兵士が拾いました。


 騎兵も拾いました。


 村の人も拾いました。


 将校だけに伝えるのではありません。


 兵士まで内容を知っていれば、あとで指揮官が「そんな警告はなかった」と言うことも難しくなります。


 それでもフランス軍は進みました。


 領境近くで、歩兵が戦列を作り始めました。


 当時の歩兵は、滑腔銃を持った兵を横に長く並べ、まとまった一斉射撃を行います。密集した横隊は火力を集中するには合理的ですが、その広い列全体へロケットが降るとなれば話が違います。


 タドポール君から見れば、人間が地上へ長い帯を作っているように見えました。


「来ちゃった」


 どろちゃんは双眼鏡を下ろしました。


「ビラは届いています」


「うん」


「どうします?」


「書いたとおりにする」


 地上の発射所へ合図が送られました。


 しばらくして、何本ものロケットが一斉に空へ上がりました。


 一発ではありません。


 一か所へ集中して落とすのでもありません。


 フランス軍の戦列の手前から奥まで、広い帯を覆うように次々と落ちました。


 最初の一発が光りました。


 直後に腹へ響く音が来ました。


 さらに後ろで二発目が光り、三発目、四発目と続きました。


 強烈な閃光と爆音が、歩兵の列の前から後ろまで走っていきます。


 馬が立ち上がりました。


 兵士が伏せました。


 隊列が崩れました。


 けれど、今回は鉄片が飛びません。


 しばらくすると、音が止みました。


 どろちゃんは上空から写真を撮りました。


「これで帰ってくれるかな」


 帰りませんでした。



 フランス軍は砲兵を前へ出しました。


 大砲だけではありません。


 臼砲がありました。


 臼砲は、砲弾を高い弾道で飛ばして、壁や土塁の向こうへ落とすための火砲です。エルレンフェルトが塀や森の後ろに発射装置を隠しても、位置を知られれば安全とは限りません。


「これは嫌だね」


 どろちゃんは言いました。


 十八世紀の軍隊だからといって、なめてはいけません。


 相手も戦争の専門家です。


 しかもフランスには、長い戦争と攻城戦の経験があります。


 どろちゃんはタドポール君で何度も上空を回りました。


 臼砲を据えるために土を掘った場所を撮りました。砲車や荷車が集まる場所も撮りました。砲弾が置かれている場所、発射に使う火薬をまとめている場所も確認しました。


 写真には時刻を書きます。


 前日の写真と並べれば、何が増え、どこが掘られ、どの道を荷車が通ったかが分かります。


 夕方には、臼砲陣地が砲撃準備へ入っていることが明らかになりました。


「警告、無視したね」


 どろちゃんの声が低くなりました。


 撃たれてから反撃する必要はありません。


 砲撃する意思と準備が十分に確認できたなら、砲兵陣地を先に無力化します。


 ただし、フランス軍全体へロケットを降らせることはしませんでした。


 狙うのは臼砲陣地だけです。


 大型のロケットは、たくさんありません。


 アフラ君以来、ロケット用の材料にはピーナッツ由来のものを使っています。宇宙へ行くためだけでも大量に必要でした。フランス軍と戦争するために無限に作れるものではありません。


「大きいの、何発ある?」


「十分ではありません」


「十発?」


「ありません」


「五発?」


「それも楽観的です」


「じゃあ、一発で終わらせよう」


 大型ロケットの一発には、大きな炸薬系弾頭が取り付けられました。


 どろちゃんが指定したのは、臼砲そのものだけではありません。


 その近くに置かれた、発射火薬の集積場所です。


 ロケットが落ちました。


 一度、大きな爆発が起きました。


 そのあと、少し遅れて別の爆発が続きました。


 集められていた火薬へ火が回ったのです。


 黒い煙が上がり、臼砲陣地の一角が見えなくなりました。


 どろちゃんは、すぐに上空へ戻りました。


 攻撃前の写真があります。


 攻撃直前の写真もあります。


 そして、攻撃後の写真を撮りました。


 臼砲陣地がどこにあり、発射火薬がどこに集められ、そこがどう変わったかを、同じ方向から記録しました。


「お父様に見せる?」


「当然でしょう」


「怒られないかな」


「ヴェルサイユへ行かなければ、たぶん」


 まだ、その時点では行く予定はありませんでした。



 その日のうちに、第二のビラを撒きました。


 今度は、最初の警告が実際に履行されたことを確認させるための文書です。



 ――エルレンフェルト領からフランス軍への第二通知――


 An die Befehlshaber, Offiziere und Soldaten der französischen Armee.


 Vor dem Überschreiten der Grenze wurden Sie schriftlich gewarnt.


 Als Ihre Truppen dennoch in Schlachtordnung vorrückten, wurden Warnraketen eingesetzt. Diese waren absichtlich nicht mit Splitterwirkung gegen Ihre Soldaten versehen.


 Danach wurde Artillerie, einschließlich Mörsern, gegen Erlenfeld vorbereitet.


 Deshalb wurde die betreffende Artilleriestellung angegriffen.


 Der Angriff war kein Fehlschuss und keine zufällige Explosion.


 Erlenfeld kann Ihre Stellungen aus der Luft beobachten und Veränderungen fotografisch festhalten.


 Stellen Sie die Vorbereitungen zum Angriff ein und ziehen Sie sich von der Grenze zurück.


 Wenn Sie erneut versuchen, Erlenfeld anzugreifen, kann dieselbe Art von Raketen mit anderen Gefechtsköpfen eingesetzt werden.


 Erlenfeld will keinen Krieg mit Frankreich.


 Zwingen Sie Erlenfeld nicht dazu.


 ――日本語訳――


 フランス軍の指揮官、将校および兵士へ。


 領境を越える前に、文書による警告を行いました。


 それでも貴軍が戦列を組んで前進したため、警告ロケットを使用しました。その弾頭には、兵士に対して破片を飛ばすものを意図的に使用していません。


 その後、臼砲を含む砲兵がエルレンフェルトへの攻撃準備に入りました。


 そのため、該当する砲兵陣地を攻撃しました。


 今回の攻撃は、撃ち損じでも偶然の爆発でもありません。


 エルレンフェルトは、貴軍の陣地を上空から観察し、その変化を写真として記録できます。


 攻撃準備を中止し、領境から離れてください。


 再びエルレンフェルトへの攻撃を試みる場合、同じ種類のロケットに別の弾頭を取り付けて使用することができます。


 エルレンフェルトはフランスとの戦争を望みません。


 エルレンフェルトに戦争をさせないでください。



「ヴェルサイユの話は書かないの?」


 どろちゃんが聞きました。


「書くのですか?」


「これを十発以上、ヴェルサイユに落とせるって」


 頭の中が少し静かになりました。


「お嬢さん」


「なに?」


「ありませんよ」


「知ってる」


「十発どころか、三発でも怪しいでしょう」


「それも知ってる」


「では、なぜ書くのです」


「向こうは知らないから」


 結局、第二通知の正式な本文には入れませんでした。


 その代わり、現場指揮官へ届ける短い追伸には、もっと嫌なことを書きました。


 もう一度エルレンフェルトへの砲撃を準備するなら、次の攻撃目標をライン川周辺だけに限定するとは約束しない。


 そして、ヴェルサイユまで到達できることも隠しませんでした。


 十発以上という数字も書きました。


「怒られるよね」


「誰にです?」


「お父様」


「間違いなく」


 それでも、どろちゃんは書きました。



 フランス軍は動きを止めました。


 一日たちました。


 大きな攻撃準備は見えません。


 どろちゃんも少し落ち着きました。


 少しだけでした。


 翌朝、タドポール君の横で、どろちゃんは腕を組んでいました。


「腹が立つ」


「昨日から知っています」


 技師さんが言いました。


「ヴェルサイユ行ってくる」


 頭の中が静かになりました。


「爆弾は持っていかないよ」


 誰も返事をしません。


「人にも何もしない」


 まだ返事がありません。


「庭だけ」


「何をするつもりです?」


「除草剤を撒く」


「……お嬢さん」


 どろちゃんが神様からもらっていたものの中に、グリホサート系の非選択性除草剤がありました。


 グリホサートは、植物の緑色の部分から吸収されて体内を移動し、植物が必要とする芳香族アミノ酸の合成につながるシキミ酸経路を阻害する除草剤です。撒いた瞬間に草が焼ける薬ではありません。効いてくるまでには時間がかかり、数日してから葉が黄ばみ、やがて枯れていきます。


 どろちゃんは、その詳しい作用を知っているから選んだわけではありません。


「これ、草枯れるやつでしょう」


 くらいの認識でした。


「小麦畑には撒かないよ」


「当然です」


「葡萄畑にも撒かない」


「当然です」


「ヴェルサイユの庭だけ」


「それも当然ではありません」


 でも、どろちゃんは行きました。



 ヴェルサイユ宮殿は壊しませんでした。


 人のいる場所にも撒きません。


 タドポール君から庭園を見下ろし、人が離れたところを選びました。


 芝地や草本の植えられている区画へ、ほんの一部だけ撒きました。


 飛行機はそのまま去りました。


 爆発は起きません。


 建物も壊れません。


 庭師たちは、最初は何をされたのか分かりませんでした。


 ただ、空からまた手紙が落ちました。


 手紙には、エルレンフェルトへ軍を入れないこと、フランス軍が領地を第三国への通過路として使わないことを求める文章がありました。


 最後に、どろちゃんは余計な二行を書きました。


 小麦畑には撒いていません。


 葡萄畑にも、今のところ撒いていません。


 帰り道で、技師さんが言いました。


「『今のところ』はいらなかったと思います」


「もう書いちゃった」


「脅迫文としては、非常によくできています」


「脅迫したかったわけじゃないよ」


「では、なぜ書いたのです」


「腹が立ってたから」


 それ以上、説明のしようがありませんでした。


 どろちゃんの頭の中には、未来のヴェルサイユもあります。


 いつかここは、王様が暮らす王宮ではなくなります。


 博物館になって、大勢の人が見学に来ます。


 だから腹を立てている間は、


 どうせ、いつか博物館になるところだし。


 という気持ちが少しありました。


 けれど、今はまだ一七〇二年です。


 博物館になるのは、ずっと先のことでした。


 今の庭には、毎日植物を世話している人がいます。


 その人たちの仕事まで増やしたことには、帰り道になってから気づきました。



 数日後。


 ヴェルサイユの庭の一部が、ゆっくりと黄ばり始めました。


 最初は乾燥か病気かと思われました。


 ところが被害の形が妙でした。


 空から何かが撒かれた場所に沿って、芝や草本が弱っています。


 そして、先日の手紙があります。


 報告は、ルイ十四世のところまで上がりました。


「娘が来たのか」


 王は、机の上の紙を見ながら尋ねました。


 軍務を預かるミシェル・シャミヤールが答えました。


「はい、陛下。エルレンフェルトの令嬢が乗る、あの白い飛行機です」


 シャミヤールは一七〇一年から軍務を担当していました。財政にも深く関わる立場で、戦争に兵士だけでなく金が必要なことを嫌というほど知っています。


 その隣には、外交を預かるトルシー侯ジャン=バティスト・コルベールがいました。


 ルイ十四世は手紙をもう一度読みました。


「小麦には撒いていない」


「そのように書いてあります」


「葡萄にも、今のところは撒いていない」


「はい」


 王は顔を上げました。


「『今のところ』とは、ずいぶんな言葉だな」


 トルシー侯は慎重に答えました。


「能力を示しながら、まだ越えていない線も示しているのでしょう」


「庭を枯らしておいて、線を越えていないと言うのか」


「宮殿そのものには攻撃しておりません。人にも攻撃していません」


 シャミヤールが続けました。


「ライン方面では、先に警告文が撒かれています。現地部隊が前進したあと、破片を使わないロケットが戦列全体へ撃ち込まれました。その後、こちらが臼砲を準備したところ、火薬集積所を含む砲兵陣地が攻撃されています」


「損害は」


 数字が読み上げられました。


 王は黙って聞きました。


「こちらの砲兵陣地を、空から見つけたのだな」


「写真という方法で記録しているようです。昨日と今日の状態を比較できるとの報告です」


「厄介だな」


 ルイ十四世は短く言いました。


 その言葉には、驚きより計算がありました。


 フランスはすでに大きな戦争を始めています。


 イングランドだけを相手にしているわけではありません。オランダも、ハプスブルク側もいます。スペイン王位をめぐる戦争は、フランドルからライン川、イタリアまで広がっています。


 そこへ、ライン川の東側にある小さな領地まで、新しい敵として加える意味があるのか。


 しかも、その小領地にはヴェルサイユまで飛んで来られる飛行機があります。


 王は庭の被害報告へ目を戻しました。


「こちらへ来られることを示すためだけなら、紙を撒けばよかった」


「おそらく、相当に腹を立てていたのでしょう」


 トルシー侯が言いました。


 シャミヤールがわずかに眉を上げました。


「外交報告に、そのような理由を書きますか」


「ほかに合理的な理由がありますか」


 王が小さく笑いました。


「十六歳だったな」


「はい」


「ならば、腹も立てるだろう」


 しかし、笑って終わる話ではありません。


 ルイ十四世は立ち上がり、窓の外を見ました。


「あの領地は、フランスの土地を要求しているのか」


「いいえ。警告文には明確に、フランス領を要求しないとあります」


「皇帝の土地を取ったか」


「それもありません。南で突破された伯爵領についても、エルレンフェルトは領有を求めていないようです」


「では、何を求めている」


「軍隊を入れるな、と」


 トルシー侯が答えました。


「それだけか」


「現在のところは」


 王は少し考えました。


「ならば、その程度の要求のために、こちらから新しい戦争を一つ増やす必要はない」


 シャミヤールがうなずきました。


「現場の指揮官には、エルレンフェルト正面で独自に攻撃を拡大しないよう命じます」


「撤退とは書くな」


「もちろんです」


「作戦上の転進でよい」


 王の面子もあります。


 十六歳の令嬢に脅されてフランス軍が逃げた、という話にするわけにはいきません。


 トルシー侯が尋ねました。


「不可侵の条件を探りますか」


「探れ。ただし、こちらから屈したようには見せるな」


「承知しました」


「もう一つ」


 王は庭を指しました。


「これをどうする」


 シャミヤールは少し困りました。


「庭師に直させるほかないかと」


「そうではない」


 王は手紙を持ち上げました。


「本人に直させろ」


 今度はトルシー侯が笑いました。


「それは、よい条件かもしれません」


「青い飛行機でも白い飛行機でも何でもいい。来て、本人に直させればよい」


「白い飛行機です、陛下」


「どちらでもよい」


 このころには、王宮でもタドポール君の存在はすっかり有名になっていました。



 一方、どろちゃんはヴェルサイユから戻った翌日も、偵察飛行を続けていました。


 フランス軍が大きく動かなくなったからといって、見なくてよいわけではありません。


 少し南まで飛んだところで、異常に気づきました。


「……あれ?」


 いつもの景色と違います。


 南にある伯爵領でした。


 お姉様の嫁ぎ先ではありません。


 もっと近い場所にある、以前どろちゃんへ、


 飛行機をよこせ。


 第二夫人にしてやる。


 と要求し、断られると騎兵まで出してきた、あの伯爵の領地です。


 あのときは、どろちゃんがオオホウセンカを落として騎兵の進撃を止めました。


 今回は、その伯爵領から何の連絡も来ていません。


 助けを求める使者も来ていませんでした。


 理由は上空から見れば分かりました。


 完全に抜かれていたのです。


 館の周囲に、いつもの兵がいません。


 街道には大量の人と馬が通った跡があります。地面には荷車や砲車の轍が残り、その先にはフランス軍の長い行軍縦隊が見えました。


 先頭には騎兵がいます。


 その後ろに歩兵が続き、砲を引く馬と砲車、食料や弾薬を積んだ荷車が連なっています。将校や身分の高い者を乗せた馬車もありました。


 その中に、伯爵がいました。


「連れていかれてる」


 身代金を取るつもりなのでしょう。


 この時代、身分の高い捕虜は金になります。殺してしまうより、生かして交渉材料にした方が価値があります。


「助けますか?」


 技師さんが尋ねました。


 どろちゃんはしばらく下を見ました。


「助けない」


 答えは早いものでした。


「よろしいので?」


「助けようとしたら、いっぱい死ぬよ」


 伯爵一人を取り返すために、長い行軍縦隊へロケットを撃ち込めば、護衛の兵士だけでは済みません。


 馬車の御者も、荷車を引いている人も、従者もいます。


 伯爵本人まで巻き込まれるかもしれません。


「身代金なら、生かしておくでしょう」


「そう考えるのが妥当です」


「じゃあ追うだけ」


 どろちゃんは何度か旋回し、写真を撮りました。


 軍の現在位置。


 進行方向。


 騎兵、歩兵、砲車、荷車、馬車の並び。


 伯爵がいると思われる馬車。


 時間も記録しました。


 その日のうちに大きく動く様子はありませんでした。



「お父様に知らせないと」


 どろちゃんはエルレンフェルトへ戻ると、すぐに写真を机へ並べました。


 お父様とは、ウィーンへ出発する前に定期連絡の約束をしています。


 何日ごとに飛ぶか。


 おおよそ何時ごろに来るか。


 ウィーン郊外のどこへ連絡筒を落とすか。


 すべて決めてありました。


 着陸する必要はありません。


 約束した場所で、お父様の従者が待っていればよいのです。


 連絡筒の中には、文章だけを入れるのではありませんでした。


 戦列兵がエルレンフェルトへ来たときの写真があります。


 警告ロケットを撃つ前の写真があります。


 臼砲陣地を作っている途中の写真があります。


 発射火薬を集めた場所の写真もあります。


 攻撃後の写真もあります。


 さらに、南の伯爵領が突破されたあとの写真と、現在のフランス軍の写真があります。


 どろちゃんは、それを撮影順に並べました。


 写真の裏には撮影時刻と場所を書きます。


 別紙には、出来事を時間順に記しました。


 何時にフランス軍を確認したのか。


 何時に最初のビラを撒いたのか。


 何時に戦列形成を確認したのか。


 何時に警告ロケットを発射したのか。


 何時に臼砲陣地の構築を確認したのか。


 何時に発射火薬の集積を確認したのか。


 何時に砲兵陣地を攻撃したのか。


 何時に攻撃後の写真を撮ったのか。


 いつ南の伯爵領が突破されていることを確認したのか。


 そして、現在フランス軍がどこにいるのか。


 時間軸は、かなり正確でした。


 地上からの使者なら、一日か二日遅れて届く情報です。


 タドポール君なら、今日見たものを今日の写真としてウィーンへ持っていけます。


 最後に、お父様への手紙を書きました。


 エルレンフェルト正面のフランス軍は、現在大きな攻撃準備をしていないこと。


 南の伯爵領は突破され、伯爵が身代金目的と思われる形で連行されていること。


 救出攻撃はしていないこと。


 フランス軍の現在位置は添付写真のとおりであること。


 そこまで書いて、どろちゃんの筆が止まりました。


「ヴェルサイユも書くの?」


「書かない選択肢があると思っているのですか」


「ないよね」


「ありません」


 どろちゃんは小さく息を吐きました。


 ヴェルサイユへ飛行したこと。


 宮殿そのもの、人、小麦畑、葡萄畑には攻撃していないこと。


 庭園の一部へグリホサート系除草剤を撒いたこと。


 フランス王へ手紙を置いたこと。


 全部書きました。


「怒られるよね」


「当然です」


「やっぱり?」


「当然です」


 写真と時系列表と手紙を筒へ詰めました。



 翌朝、タドポール君はウィーンへ向かいました。


 約束した草地へ近づくと、下に人がいました。


 お父様の従者です。


 どろちゃんは一度旋回しました。


 相手もこちらを見ています。


 連絡筒を落としました。


 長い布を付けた筒が草地へ落ち、従者が走って拾います。


 どろちゃんはもう一度上空を回り、確かに拾われたことを確認すると、翼を振って帰りました。



 ウィーンで、お父様は筒を開きました。


 最初に手紙を読みました。


 次に時系列表を見ました。


 それから写真を一枚ずつ並べました。


 帝国側の役人も集まりました。


 そこにあるのは、噂話ではありません。


 昨日、あるいは一昨日の軍隊が、どこにいて何をしていたかが、そのまま写っています。


 臼砲陣地がまだない写真。


 土を掘り始めた写真。


 臼砲が据えられ、発射火薬が集められた写真。


 攻撃後、そこから煙が上がっている写真。


 さらに、南の伯爵領を抜けたフランス軍の写真があります。


 お父様は、最後まで黙って見ました。


「この南の領地は、もう一伯爵家だけの問題ではありません」


 帝国側の役人が言いました。


「軍事上の通路になっています」


「そのようですな」


「伯爵が帰還した場合は」


「身代金を払えば、本人は帰ってくるでしょう」


「領地も返しますか」


 お父様は少し考えました。


「それは皇帝陛下がお決めになることです。ただし、同じ状態へ戻せば、次の軍も同じ道を使います」


 結局、南の伯爵領は、当分の間、皇帝の直接管理下に置かれることになりました。


 すぐに別の家へ渡すこともしません。


 軍事上の要所になってしまった以上、街道、橋、宿駅、守備の配置を帝国側で確認する必要があります。


 エルレンフェルトへ編入する案を口にする者もいました。


 お父様は断りました。


「我が家は、あの土地を求めておりません」


「隣接地です。管理もしやすいでしょう」


「便利かどうかは、領土を取る理由にはなりません」


 エルレンフェルトは、また境界を変えませんでした。


 買った土地を除けば、何百年もそうしてきたのです。



 お父様の交渉も進みました。


 エルレンフェルトは帝国の中にあります。


 しかし、この戦争で勝手に軍隊の通過路にされないこと、自分の領地を自分で守る権利があること、古くからの領主権が引き続き認められることを、できるだけ明確な文書にしておく必要があります。


 フランス側とも話が始まりました。


 フランス軍はエルレンフェルトへ入らない。


 エルレンフェルトを第三国へ向かう軍隊の通過路として使わない。


 エルレンフェルト側も、フランス領へ軍事攻撃を行わない。


 互いの商人、学者、医師など、軍事行動に関係しない人の往来まで止めない。


 戦争そのものは続きます。


 フランスとハプスブルク側が戦うことまで、エルレンフェルトには止められません。


 でも、どろちゃんの町を戦場にしないことはできます。


 どろちゃんとしては、それで十分でした。


「イングランドと戦争するなら、そっちでやって」


 最初から言っていたことは、結局ほとんど変わりません。



 お父様が帰ってきた日、どろちゃんは玄関まで迎えに出ました。


「お帰りなさい、お父様」


「ただいま」


 お父様は旅装を解く前に、娘の顔をじっと見ました。


「フランス軍の写真は役に立った」


「ほんと?」


「あれほど新しい情報を、時刻まで付けて持ってこられればな」


 どろちゃんの顔が明るくなりました。


「じゃあ、怒ってない?」


「何についてだ」


 明るくなった顔が止まりました。


「……ヴェルサイユ」


「怒っている」


「やっぱり」


「なぜ、私がウィーンで交渉している最中に、勝手にフランス王の宮殿まで飛んだ」


「宮殿には何もしてないよ」


「庭を枯らした」


「少しだけ」


「小麦畑と葡萄畑のことまで書いた」


「撒いてないよ」


「書くなと言っている」


 お父様は、本当に怒っていました。


 どろちゃんは小さくなりました。


「でも、フランス軍、来なくなったよ」


「結果がよければ、何をしてもよいわけではない」


「はい」


「庭はどうする」


「直す」


「誰が」


「私が」


「よろしい」


 そこまで決まってしまいました。



 しばらくして、戦線が遠ざかりました。


 フランスとの話もまとまりました。


 エルレンフェルトには、フランス軍も帝国側の軍も勝手には入らないことになりました。


 法的にはまだ帝国の中です。


 けれど、ロンドンへ行けます。


 ライデンへ行けます。


 ウィーンへ行けます。


 そして、パリへも行けます。


 どろちゃんは地図を見ながら思いました。


「なんか、国みたいになった」


「もともと領地です」


「でも、前より独立国っぽい」


 誰も否定しませんでした。



 約束したとおり、どろちゃんはヴェルサイユへ戻りました。


 今度は除草剤を持っていません。


 代わりに植物を持っています。


 庭園へ入ると、自分が撒いた場所はすぐに分かりました。


 芝の一部が傷み、草本も何株か枯れています。


 庭師たちは、枯れた部分をすでに切り分け、植え替えの準備をしていました。


 どろちゃんは、急に申し訳なくなりました。


 王様に腹が立って撒いたのに、実際に土を掘って直すのは王様ではありません。


「ごめんなさい」


 どろちゃんは庭師に言いました。


 これは外交上の謝罪ではありません。


 自分が仕事を増やしてしまった人への、普通の謝罪でした。


「もう撒かないでください」


「はい」


 庭師の返事も普通でした。


 傷んだ芝を剥がし、土を整えました。


 生き残っている株は残します。


 枯れたものは植え替えます。


 エルレンフェルトからも苗を持ってきました。


 その中に、神様からもらったものが何本かありました。


 一つは、青いバラでした。


 青紫ではありません。


 誰が見ても青い、と言いたくなる色です。


 もう一つは、やわらかなクリーム色の近代園芸種でした。花の形も整いすぎていて、この時代の庭師が見ると妙に完成されています。


 庭師が青い花を長いこと見ていました。


「これは、バラなのですか」


「うん」


「この色のものを、どこで手に入れられたのですか」


「神様にもらったの」


 説明になっていません。


 けれど、どろちゃんにできる説明はそれしかありません。


「増やしてもよろしいのでしょうか」


「いいよ」


「本当に?」


「枯らしちゃった分より増やして」


 数本の青いバラと、クリーム色のバラがヴェルサイユの土へ植えられました。


 やがて、それらは庭園の珍しい植物として扱われるようになるのでしょう。


 どろちゃんは少し離れて眺めました。


 未来の記憶では、ヴェルサイユはいつか博物館になります。


 でも、それはずっと先です。


 今はまだ王様がいます。


 庭師がいます。


 毎朝ここへ来て、花や木を世話する人がいます。


 未来に博物館になるからといって、今いる人の仕事を増やしてよいわけではありませんでした。


「もう撒かないよ」


 どろちゃんは、今度は誰に言うともなく言いました。


 そのころ、宮殿の窓から庭を眺めていたルイ十四世にも、青いバラが植えられたという報告が届きました。


「青いバラだと?」


「はい、陛下。令嬢が持参したものです」


「本物か」


「庭師はバラだと申しております」


 王は少し考えました。


「庭を枯らした代わりに、存在しない色のバラを置いていったのか」


「そのようです」


「最後まで妙な娘だな」


 王はそう言いましたが、撤去しろとは命じませんでした。



 フランスとハプスブルクの戦争は、その後も続きます。


 エルレンフェルトが戦争そのものを終わらせたわけではありません。


 ただ、自分たちの町を戦場から外しました。


 南の旧伯爵領は、しばらく皇帝の管理下に置かれます。


 エルレンフェルトは、その土地を取りませんでした。


 昔からの境界線は、またそのままです。


 どろちゃんはロンドンへ行けます。


 ライデンへ行けます。


 パリへも行けます。


 ウィーンにも行けます。


 周囲の大きな国々が戦争をしていても、そのどちらにも飲み込まれず、必要な相手とは話をする。


 それはまだ、近代の意味で完全な独立国ではありません。


 けれど、エルレンフェルトは少しずつ、


 誰かの国の片隅にある小さな領地ではなく、


 エルレンフェルトという一つの国のようになり始めていました。




小さな説明



■ スペイン継承戦争


 この章で始まっている大きな戦争は、のちに「スペイン継承戦争」と呼ばれる戦争です。


 スペイン王カルロス二世が子を残さず一七〇〇年に亡くなり、スペイン王国と広大な海外領土を誰が継ぐのかが大問題になりました。フランス王ルイ十四世の孫フィリップがスペイン王フェリペ五世になると、フランスとスペインが一体化して非常に強大な勢力になることを警戒した諸国が対抗します。


 ハプスブルク家、イングランド、ネーデルラント連邦共和国などがフランス側と戦い、戦場はネーデルラント、ライン川流域、イタリア、スペインなど広い範囲へ広がりました。


 一七〇二年には、まだイングランド王国とスコットランド王国は別の国です。両国が合同してグレートブリテン王国になるのは一七〇七年なので、この章では「イギリス」ではなく、基本的に「イングランド」としています。



■ ストラスブールとライン川


 ストラスブールは現在のフランス北東部、アルザス地方の中心都市です。


 長いあいだドイツ語圏・神聖ローマ帝国の世界に属していましたが、一六八一年にルイ十四世のフランスが占領し、一六九七年のレイスウェイク条約のころにはフランス領として定着していました。


 この物語のエルレンフェルトは実在しない小領地です。


 位置はストラスブールより南ですが、ライン川はこの付近で南西から北東へ斜めに流れています。そのため、地図でストラスブールからほぼ南に下がった場所でも、川を越えた東岸なら神聖ローマ帝国側になります。


 エルレンフェルトはその東岸、ドイツ語を話す人々の暮らす側にあります。


 町の周囲には畑や牧草地が広がり、その外側には森があります。低湿地にはハンノキ類も育ち、「Erleハンノキ+Feld(野・原)」を思わせるエルレンフェルトという架空地名にもよく合う土地です。



■ 神聖ローマ帝国と小さな領地


 神聖ローマ帝国は、現在のドイツのように一つの中央政府が全国を直接統治する国家ではありませんでした。


 大きな公国や侯国、司教領、自由都市、小さな領主領など、多数の政治単位が複雑に組み合わさっていました。領主によっては、自分の領内で税を取り、裁判を行い、かなり広い自治権を持っていました。


 エルレンフェルトは架空の領地ですが、「帝国が成立する以前から同じ場所に領主家と土地の権利があり、後世の王や皇帝がその古い権利を繰り返し確認してきた」という設定です。


 したがって、皇帝から新しく土地を与えられて成立した家ではありません。


 現代的な完全独立国ではありませんが、日常の統治についてはかなり自立しており、何百年も境界がほとんど変わっていません。領地が広がった部分も、原則として購入によるものです。



■ 軍隊が通るだけでも大事件


 近世の軍隊は、兵士だけが歩いてくるわけではありません。


 多数の馬、砲、砲車、弾薬、荷車、食料、薪、干し草、天幕などが一緒に移動します。数千人、数万人規模になれば、必要な食料と飼料だけでも大変な量になります。


 現代の軍隊のように、必要なものをすべて後方から安定して運ぶことは困難でした。そのため進軍先の土地から物資を調達することが多く、軍紀が保たれていても地域社会には大きな負担になります。


 補給が崩れれば、正規の購入、徴発、略奪の境目も曖昧になります。


 小さな領地にとっては、大軍を正面から撃破することよりも、「そもそも軍隊の通過路として選ばれない」ことが非常に重要な防衛になります。



■ カチューシャ式多連装ロケット


 「カチューシャ」は、二十世紀のソ連で有名になった多連装ロケット兵器の通称です。


 この章に登場する装置が、史実のカチューシャそのものという意味ではありません。アントノフ技師さんたちが知っている「多数の無誘導ロケットを短時間にまとめて発射し、広い範囲を覆う」という考え方だけを借りています。


 大砲は、丈夫で重い砲身を使って一発ずつ弾を撃ちます。一方、多連装ロケットでは、ロケット自身が後方へ燃焼ガスを噴射して飛ぶため、大砲と同じような長く重い砲身は必要ありません。そのため一つの発射装置に多数の発射レールを並べ、短時間に連続して発射することができます。


 その代わり、一発だけを遠くの小さな目標へ精密に当てる用途には向きません。


 どろちゃんたちは、未来の兵器を寸法まで複製したのではなく、一七〇二年の工房と材料で作れる架空の多連装ロケット装置を作っています。


 最初に使う弾頭には殺傷用の破片を入れず、大きな閃光と爆音を出す警告用としています。ただし同じ発射装置から、別の弾頭も使用できること自体はフランス軍に知らせています。



■ 戦列歩兵


 この時代の歩兵は、滑腔式の前装銃を主に使用していました。


 滑腔銃は、銃身内に弾丸へ回転を与えるライフリングを持たず、現代の小銃のような精密射撃には向きません。そのため多数の兵士を横に長く並べ、一斉射撃によって命中する弾の数を確保する戦い方が発達しました。


 兵士がばらばらに散ってしまうと、射撃の統制も指揮も難しくなります。戦列を保つこと自体が重要な軍事技術でした。


 ところが上空から見ると、これは非常に大きく、規則正しく、人間が密集した標的になります。


 十八世紀の戦術として合理的だった戦列が、二十世紀型の「広い範囲へ短時間に大量のロケットを降らせる」という考え方には極端に弱い、という時代差が生じています。



■ 臼砲


 臼砲は、短く太い砲身から砲弾を大きな角度で撃ち上げる火砲です。


 通常の大砲より高い弾道を使い、城壁や土塁の内側へ砲弾を落とせるため、攻城戦では重要な兵器でした。


 ただし、この時代の大型火砲は、撃った直後に簡単に別の場所へ走って逃げられる兵器ではありません。


 砲そのものだけでなく、砲弾、発射用火薬、牽引用の馬、荷車、砲兵、陣地を作る人員などが必要です。


 地上からは土塁や森の陰へ隠せても、上空から繰り返し観察されると、土を掘った跡、荷車の出入り、火薬や砲弾の集積などが見えてしまいます。


 タドポール君が加わることで、十八世紀の攻城砲兵には本来存在しなかった「上から継続して見られる」という弱点が生まれています。



■ 写真と正確な時間をそろえる意味


 写真が一枚あるだけなら、「そこに何かがあった」ということしか分かりません。


 しかし同じ場所を繰り返し撮影し、それぞれに正確な時刻を記録すれば、何時間の間に土を掘ったのか、砲が増えたのか、荷車が移動したのかまで追えるようになります。


 攻撃前、攻撃直前、攻撃後の写真を同じ場所について持っていれば、何を攻撃したのかも後から確認できます。


 現代なら航空偵察や衛星写真で普通に使われる考え方ですが、一七〇二年には、空から地上を継続して撮影する手段そのものがありません。


 タドポール君の速度だけでなく、「昨日と今日の状態を写真で比較できる」ことが、当時としては異常な情報能力になっています。



■ ビラを兵士まで読めるようにする理由


 警告文を敵軍の指揮官だけへ渡した場合、その内容を一般兵に知らせるかどうかは指揮官が決められます。


 ところがタドポール君から大量に撒けば、将校だけでなく兵士、従軍者、周辺の村人まで読むことができます。


 そのため、あとから指揮官が「警告など受けていない」と主張することが難しくなります。


 また兵士自身も、「最初は破片のない警告弾であり、それでも前進すれば次の段階がある」と知ることになります。


 ナーロッパ世界では広い範囲で言葉が通じる設定なので、現実のヨーロッパほど多数の言語版を作る必要がありません。


 章中には、読者向けにドイツ語の警告文と日本語訳を全文掲載しています。ドイツ語は一七〇二年当時の綴りの揺れを厳密に再現せず、読みやすい現代ドイツ語に近い表記としています。



■ グリホサート系除草剤


 グリホサートは商品名ではなく、有効成分の一般名です。


 現実の歴史では二十世紀後半に除草剤として広く使われるようになった物質なので、一七〇二年にはもちろん存在しません。この物語では、神様から与えられた現代物資の一つです。


 植物に特有の代謝経路であるシキミ酸経路にあるEPSPSという酵素を阻害し、フェニルアラニン、チロシン、トリプトファンなどの芳香族アミノ酸を作る流れを妨げます。


 葉などから吸収されて植物体内を移動する全身移行性の除草剤なので、撒いた瞬間に葉が焼けて枯れる薬ではありません。


 効果が見えてくるまで時間がかかります。


 そのためヴェルサイユでは、「白い飛行機が何かを撒いた日」と「芝や草本が黄ばり始めた日」が少しずれます。この時間差が、何をされたのかすぐには分からない不気味さにもなっています。



■ ヴェルサイユの庭園


 ヴェルサイユの庭園は、単なる王宮の裏庭ではありません。


 ルイ十四世は一六六一年以降、宮殿の拡張と並行して庭園も大規模に整備させました。中心となった造園家がアンドレ・ル・ノートルです。


 長い軸線、左右対称の花壇、森の中に作られた小庭園、水路、噴水、彫像などを組み合わせたフランス式庭園は、巨大な景観そのものが王の権力を示す舞台でもありました。


 そのため、宮殿を壊さず、人も傷つけず、「庭だけを選んで枯らす」という行為でも、ルイ十四世にとっては単なる園芸上の損害では済みません。


 ただし、実際に枯れた植物を抜き、芝を張り直し、土を整えるのは王ではなく庭師たちです。


 どろちゃんがあとになって庭園修復へ参加するのは、政治的な和解だけでなく、自分が仕事を増やしてしまった人たちへの謝罪でもあります。



■ シャミヤールとトルシー


 ミシェル・シャミヤールとジャン=バティスト・コルベール・ド・トルシーは、ともに実在人物です。


 シャミヤールはルイ十四世治世末期に財政と軍務の中枢を担いました。戦争には兵士だけでなく、給与、馬、砲、食料、輸送など莫大な金が必要です。そのため「小さなエルレンフェルトとの戦争をさらに一つ増やす価値があるか」を考える人物として登場させています。


 トルシーはルイ十四世の外交を担った人物で、スペイン継承問題にも深く関わりました。


 章中の三人の会話はもちろん架空です。


 ただし、ルイ十四世が一人で地図を見て思いつきだけで決めるのではなく、軍事・財政・外交を担当する側近から報告を受け、フランス全体の戦争との釣り合いを考えて判断する場面として、この二人を置いています。



■ 貴族の捕虜と身代金


 近世ヨーロッパでは、身分の高い捕虜を生かしたまま拘束し、身代金や捕虜交換の材料にすることがありました。


 高位の人物ほど政治的・金銭的な価値があるため、捕まったからといって必ずその場で殺されるとは限りません。


 もちろん、戦場での安全が保証されているという意味ではありません。


 それでも「身代金を取るために連行している」と判断できる状況であれば、伯爵一人を取り返すために護送中の長い行軍縦隊へロケットを撃ち込むより、まず生存を確認して追跡する方が合理的です。


 どろちゃんが伯爵を助けないのは、以前「第二夫人にする」と言われた恨みで見捨てたからではありません。


 一人を救うための攻撃で、多数の兵士、御者、従者、馬、そして伯爵本人まで死ぬ可能性があるからです。



■ 南の旧伯爵領を皇帝が管理すること


 ここは、物語上の制度処理です。


 旧伯爵領が「皇帝の直接管理」になったからといって、レオポルト一世個人のハプスブルク家領へそのまま併合された、という設定ではありません。


 領主が捕虜となり、統治が機能せず、しかも領地そのものがフランス軍の内陸侵入路になってしまったため、帰属をすぐに決めず、帝国の安全上の理由から皇帝側が暫定的に管理することにしています。


 神聖ローマ帝国では、「皇帝個人の世襲領」と「皇帝が帝国の長として扱う問題」を分けて考える必要があります。


 戦争が落ち着いたあと、新しい領主を置くのか、旧家をどう扱うのか、別の制度にするのかは、あらためて決める余地を残しています。


 エルレンフェルトは、この領地を要求しません。


 軍事能力を使って隣の領地を奪ったように見られることを避ける意味でも、昔からの「境界を動かさない」という性格を守っています。



■ 不可侵と「独立国っぽさ」


 近世の神聖ローマ帝国へ、現代の「国内」と「外国」という感覚をそのまま当てはめると分かりにくいところがあります。


 領邦は帝国の一部でありながら、自前の行政、裁判、徴税、軍事を持ち、場合によっては外国との取り決めにも関わりました。


 この章でエルレンフェルトは、フランスからも皇帝側からも、「勝手に軍を通してよい小さな土地」ではなく、一つの交渉相手として扱われるようになります。


 フランス軍はエルレンフェルトへ侵入しない。

 エルレンフェルトを第三国への軍事通路にしない。

 エルレンフェルトもフランス領を攻撃しない。


 皇帝側とも、領地を戦場や通過地にしないための関係を整理します。


 まだ近代的な意味での完全な主権国家ではありません。


 しかし、ロンドン、ライデン、パリ、ウィーンのどこへも独自に往来でき、外国からも政治主体として扱われ始めています。


 のちに神聖ローマ帝国そのものが消滅したとき、「上にあった帝国がなくなっただけで、エルレンフェルトの行政、境界、対外関係は昨日とほとんど同じ」という形へつながりやすくなっています。



■ 青いバラ


 普通のバラには、青から紫の花色に重要なデルフィニジン系色素を作るための仕組みが十分にありません。


 そのため、長い育種の歴史があっても、自然交配だけで鮮やかな青色のバラを作ることは非常に難しい植物です。


 現代には遺伝子組換え技術を使い、デルフィニジンを蓄積させた青紫系のバラもありますが、それでも空のような完全な青色とは違います。


 この物語で神様からもらった青いバラは、それよりさらに青い架空の園芸種です。


 一七〇二年のヴェルサイユの庭師から見れば、単なる珍しい新品種ではありません。


 それまでの育種経験では説明できない色の花になります。


 クリーム色のバラの方も、色だけではなく花形や性質が近代園芸種らしく整っているため、当時の園芸家ほど「何かがおかしい」と気づく植物です。



■ ヴェルサイユが博物館になるのは、まだ先


 どろちゃんには現代側の記憶があるため、ヴェルサイユ宮殿を「いつか観光客が訪れる博物館」としても知っています。


 しかし、一七〇二年のヴェルサイユは現役の王宮です。


 ヴェルサイユ宮殿にフランス歴史博物館が開かれるのは一八三七年で、一七〇二年からは百年以上も後になります。


 どろちゃんが腹を立てている間に「どうせ、そのうち博物館になるし」と少し軽く考えてしまうのは、未来を知る人間と、その時代を生きている人たちの時間感覚のずれです。


 庭を修理する場面では、未来の博物館ではなく、「今ここで毎日働いている庭師」が見えるようになっています。



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