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ドロティアとフランソワは空を飛びます どろちゃんの飛行日誌 飛行機から始まった貴族令嬢の社会改変  作者: アントノフ


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208/210

番外編 貴族令嬢は、飛燕ちゃんと高い空へ遊びに行きます。

久しぶりの番外編新作です。川崎航空機の飛燕編です。

番外編 貴族令嬢は、飛燕ちゃんと高い空へ遊びに行きます


 エルレンフェルト旧飛行場の草地に、今日は少し変な2機が縦に並んでいました。


 前は飛燕ちゃん。

 後ろはタドポール君。


 その間に、長い曳航索が伸びています。


「ほんとに、これで引くんですね」


 飛燕ちゃんの横で、フランソワさんが後ろを見ました。


「うん。10000mまで」


「10000mですか」


「そこからは別々に飛ぶよ」


 フランソワさんはもう、1人で飛行機を離陸させ、航法をして、着陸まで戻ってこられます。

 単独飛行を始めてから、まだそれほど長い時間はたっていません。自分のモーターグライダーでは、エルレンフェルトから南へ飛び、上昇気流を探し、エンジンを止めたまま高度を稼ぐところまで覚えています。


 飛燕ちゃんは、それよりずっと速い飛行機です。

 単座なので、横にどろちゃんが座って教えることもできません。


 そのため今日いきなり乗ることにはしませんでした。


 数日前から、まず地上滑走で機体の癖を確かめました。次は短い離陸と場周飛行、それから着陸です。

 慣れてくると速度を変えた旋回や、高い速度からの減速も行い、エンジンとプロペラの扱いまで順番に覚えていきました。


 どろちゃんが地上とタドポール君から無線で見ながら、フランソワさんは少しずつ飛燕ちゃんの動きを覚えました。


 今日は、その次です。


 ただし、昨日の夕方まで飛行場にいた飛燕ちゃんは、そのまま今日を迎えてはいません。


          ◇ ◇ ◇


 前日の夕方。


「明日は、タドポール君を10000mまで引きたいの」


 どろちゃんが頭の中でそう言うと、天国の技師さんは少し考えました。


「曳航ですね。そのあと飛燕も上がりますか」


「うん。切り離したら、フランソワさんも上昇気流を使って、行けるところまで」


「では、1晩こちらへ戻しましょう」


「1晩?」


「Jumoを載せるなら、現物を見ながら合わせたいところがあります。曳航金具も、後ろの構造を見て入れます。翼端も作っておきましょう」


 エルレンフェルトでできるのは、日常点検、給油、油や冷却水の確認、外から触れる部品の交換といった軽い整備までです。

 Jumo 213EBを分解し、エンジン架や補機、給気、冷却系まで作り替える設備も部品もありません。


「じゃあ、お願いします」


 日が落ちる前、飛燕ちゃんは旧飛行場のエプロンから消えました。


 空になった場所だけが残ります。


 天国のアントノフ工場へ戻った飛燕ちゃんの周りには、技師さんたちが集まりました。


 今まで載っていたDB系高高度エンジンを降ろします。

 次に持ってきたのは、ドイツ側の残骸置き場から選んだJumo 213EBです。


 エンジンだけ持ってきて載せれば終わり、という交換にはなりません。


 まずエンジン架と防火壁との距離を見て、プロペラ軸の高さを合わせます。

 そこが決まると、過給機と吸気の位置を決め、スターターや発電機などの補機、燃料噴射系、油配管、冷却水の入口と出口を順に収めていきました。

 操縦席から来るスロットルとプロペラ制御の取り回しも変えます。最後に排気管と機首外板が無理なく閉じるところまで、実物を前に調整しました。


「ここはTa 152のを持ってこよう」


 別の技師さんが、ドイツ側の置き場へ行きました。


 壊れたTa 152 Hには、同じJumo 213E系を機体へ載せるための部品が残っています。

 補機架や制御装置、発電機、スターター、冷却水の継手、配管金具、センサー類を調べると、そのまま使えるものと、加工すれば使えるものがありました。


 環状ラジエーターとTa 152の機首外皮は持ってきません。


 飛燕ちゃんのラジエーターは、胴体下面です。


「こっちの継手は使えるね」


「これは長さが合わない。作ろう」


「補機架はそのままでは当たる」


「少し位置を変えれば入るよ」


 使える部品は使い、合わないものは新しく作ります。


 機関砲も給弾装置も弾薬箱もないため、飛燕の機首内には配管を通す自由があります。

 その空間を使って、Jumoの補機と配管を、飛燕の細い機首へ収めました。


 下面ラジエーターへ向かう冷却水配管も現物で取り回します。

 給気冷却器と過給機まわりも、カウリングを閉めた状態で干渉しないところまで確認します。


 同時に、後部胴体へ曳航金具を入れました。

 尾輪だけへ力を掛けず、複数のフレームと縦通材へ荷重を分けます。


 主翼の先には、片側50cm長い交換用翼端を取り付けます。


 最後は試験台ではなく、飛燕ちゃんを固定した状態で地上運転です。


 Jumo 213EBを始動すると、油圧と油温、冷却水温、燃圧を確認します。

 過給機の作動、給気温度、発電状態、振動も見ながら、神様燃料に合わせた噴射量と点火時期を見直しました。

 最後に、明日の用途へ合わせて過給の使用範囲を決めます。


「10000mまでは曳航。そのあとは上昇継続ですね」


「そう」


「では、高速を取りに行く設定より、高高度で長く上がれる方へ寄せておきます」


 夜のうちに作業と地上運転を終えました。


          ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 旧飛行場のエプロンへ行くと、飛燕ちゃんが戻っていました。


 昨日と同じ川崎の細い機体です。


 機首の中には昨夜積み替えたJumo 213EBが収まり、後部胴体には曳航金具が追加されています。

 翼端も今日だけ左右それぞれ50cm長くなっていました。


「おかえり」


『ただいま』


 どろちゃんは機首を撫でました。


 エルレンフェルトの整備士さんたちは、天国で組み上がった完成状態のまま日常点検に入ります。

 外から確認できる締結部、漏れ、油量、冷却水量、操作、計器を点検し、燃料を入れ、今日の飛行準備を進めます。


 飛燕ちゃんが、自分よりずっと長い翼を持つタドポール君を引き上げます。


          ◇ ◇ ◇


 飛燕ちゃんは、川崎航空機が作ったキ61-II改の機体を基礎にしています。


 細い胴体と液冷エンジン用の機首、主翼と尾翼、それに広く開いた主脚まで、機体の骨格と姿は川崎の飛燕そのものです。


 今日は翼端がいつもと少し違いました。


「片側50cmですね」


「うん。両方で1m」


 元の翼端部を外し、今日だけ使う長い翼端部へ交換しています。

 単純に板を継ぎ足したものではなく、内部の取り付け部まで作った交換部品です。


 今日は最高速度より、曳航中の低速域と高高度側の余裕を優先します。


 タドポール君を引いて低い速度で上昇し、高度が上がって空気が薄くなってからも、できるだけ翼に余裕を残します。

 翼幅が増えれば、その代わり高速側では不利になります。


「帰ってきたら外すよ」


「すぐにですか」


「飛燕ちゃん、速い方が楽しいから」


 フランソワさんが少し笑いました。


「今日だけ長い翼ですね」


「今日だけ」


 もう1つ、後ろも変わっています。


 最初に案が出たとき、整備士さんの1人が尾輪の近くを見ました。


「ここへ付けると、尻尾を引っ張りますね」


「もげたら困る」


「困ります」


 そこで、尾輪の取り付け部へ曳航索を結ぶ案は、その場で消えました。


 後部胴体の複数のフレームへ荷重を分ける補強材を入れ、胴体下面に専用の曳航金具を作りました。

 索を引く力が1点へ集中しないよう、左右の縦通材にも荷重を逃がします。


 操縦席から切り離せます。

 タドポール君側からも切り離せます。


 曳航中の荷重は金具と機体構造が受けます。

 切り離したあとの索だけは、小さな電動ドラムで巻き取れます。


「これなら、10000mで紐を落とさなくていいね」


「下に人がおりますから」


「うん。10km上から落としたくない」


          ◇ ◇ ◇


 機首の点検蓋が開いていました。


 中に収まっているのは、昨夜、天国で積み替えたJumo 213EBです。


 Jumo 213はユンカースの液冷倒立V型12気筒で、排気量は約35Lです。ボア150mm、ストローク165mmで、直接燃料噴射を使います。

 高高度用のE系には2段3速の過給機と給気冷却器が組み合わされています。


 Jumo 213E系の代表的な資料では、離昇出力は1750PS級、MW50使用時には2000PSを超える値が示されています。

 EBは戦争末期にさらに高出力化を狙った開発型なので、どろちゃんたちは紙の最大値をそのまま今日の使用出力にはしません。


 使う燃料はアルコール系神様燃料です。史実のB4やC3用の設定は、そのまま持ち込みません。


 昨夜は天国の工場で実際の1基を回し、噴射量と点火時期、過給機の制御を調整しました。

 その間も給気温度、冷却水温、油温、油圧、振動を見続け、今日の飛行で使える範囲を決めてあります。


 今日の目的は、10000mまでの曳航と、その後の高高度上昇です。

 最高速度の測定は行わず、高度を稼ぐ飛び方へ合わせます。


 飛燕ちゃんの機首は、Ta 152の環状ラジエーターの形にはなっていません。

 ラジエーターは飛燕本来の胴体下面です。


 昨夜、壊れたTa 152 Hから持ってきたのは、Jumo側で使える補機や継手、制御部品などです。

 冷却は飛燕本来の胴体下面ラジエーターを使います。


 Jumoの冷却水を飛燕下面のラジエーターへ送るため、配管の取り回しは天国で現物を見ながら作りました。

 武装がない機首は、その作業に都合がよく、砲身や給弾装置を避けて狭い場所へ無理に管を通す必要もありません。


 エルレンフェルトで行うのは、その完成した系統の日常点検です。


 整備士さんは油量と冷却水量を確認し、漏れがないかを見ます。

 外から点検できるホースとクランプ、操作リンク、計器も順番に確認しました。


「ここまでは大丈夫です」


「中まで開ける必要が出たら?」


「また1晩、お願いしてください」


「そうする」


 本格的なJumoの整備や再調整が必要になれば、飛燕ちゃんはもう1度天国へ戻ります。


          ◇ ◇ ◇


 技師さんたちは最初に、川崎のエンジンを探しました。


 元の三式戦1型ならハ40。

 キ61-II改ならハ140。


 どちらも川崎航空機の液冷倒立V型12気筒です。

 ハ40はDaimler-Benz DB 601系を日本で生産したエンジンで、ハ140はそこからさらに出力を上げようとした系統です。


 天国の残骸置き場でも、最初に探しました。


 使える完成品のハ40は見つかりませんでした。

 ハ140は、飛行用として選べる完成品が1基もありませんでした。


 部品や未完成品、工場で壊れたものなら残っています。


 けれど寸法を測り、軸を回し、歯車や軸受、補機まで確認していくと、精度の出た1基として組み上げて、そのまま安心して飛ばせるものがありません。


「ちゃんとしたハ140があったら、それを使った?」


 どろちゃんが前に聞いたことがあります。


「使ったよ。機体と同じ川崎だし、載るように作ってあるんだから」


 天国の技師さんは即答しました。


「でも、なかった」


「うん。使えるのがなかった」


 そこでドイツ側を探しました。


 普段ならDB 601からDB 603の系統はよく使います。

 資料も多く、残っているエンジンもあり、液冷機へ載せるときに扱いやすいからです。


 今回はJumoでした。


 ドイツ側の残骸置き場には、Jumo 213の完成エンジンと補機がたくさんあります。

 その中から、高高度用のEB型を選びました。


 Jumo 213EBを飛燕の細い機首へ収め、冷却には胴体下面のラジエーターを使います。

 4翅定速プロペラを組み合わせ、燃料系は神様燃料へ合わせました。そうして今の飛燕ちゃんになっています。


          ◇ ◇ ◇


 もう1つ、川崎の話があります。


 ハ140が必要な数だけ、安定した品質で届いていたら、この機体の仲間たちの歴史はかなり違ったはずです。


 キ61-II改の機体は作られました。

 ところがハ140が足りません。


 さらに1945年1月、明石のエンジン工場がB-29の爆撃を受けました。

 完成した機体側が残り、載せる液冷エンジンが来ない状態になります。


 そこで川崎は、三菱のハ112-IIを載せました。


 空冷複列14気筒。

 約1500馬力級。


 細い液冷機用の胴体へ、直径の大きな星型エンジンを載せます。


 それが五式戦闘機、キ100になりました。


「ハ140がちゃんとあったら、キ100にならなかったんだよね」


 どろちゃんが飛燕ちゃんを見ながら言いました。


 頭の中で、天国の技師さんが答えました。


「少なくとも、あの数の首なし機体を急いで空冷へ換える理由はずっと小さくなりますね」


「でもキ100、いい飛行機になった」


「そうですね。困ったところから、別の良い機体ができました」


 今日ここにいる飛燕ちゃんは、その分かれ道の少し手前にいた機体です。


 工場で機首を待ったまま、飛ぶ前に壊れました。

 五式戦へ作り替えられるところまで進みませんでした。


 天国へ行ってから、ようやくエンジンをもらいました。


 しかもJumo 213EBです。


「ずいぶん遠いところから来たね」


 どろちゃんが機首を軽く撫でました。


『今日はタドポール君を引くんだよね』


「うん。10000mまでお願い」


『分かった。フランソワさんと飛ぶ』


 飛燕ちゃんの声は、どろちゃんにだけ聞こえます。

 フランソワさんは、その横で点検表を見ていました。


「今日はよろしくね」


 どろちゃんがもう1度機首を撫でました。


          ◇ ◇ ◇


 タドポール君にも、いつもと違うものを積んであります。


 タドポール君には酸素ボトルとレギュレーター、それに酸素マスクを積みました。


 流量だけを増やす簡単な装置ではなく、高高度ではマスク側へ少し圧をかけて呼吸を助けられるものです。

 機内そのものを与圧する設備はありません。


 それから毛布。


「僕、毛布はいらないよ」


「私がいるの」


『寒いところまで行くの?』


「行けたらね」


 タドポール君はA-13系の胴体に、A-11系の長い主翼を付けたモーターグライダーです。

 小さなジェットもありますが、今日は10000mまで飛燕ちゃんに引いてもらいます。


 今日は曳航で10000mまで高度をもらい、タドポール君自身の燃料を温存します。


 曳航索をつなぎます。


 飛燕側とタドポール君側の両方で切り離し機構を確認します。

 曳航索の巻取りドラム、無線、高度計、昇降計、酸素装置も、離陸前に順番に確認しました。


 どろちゃんはタドポール君へ乗りました。

 毛布は畳んで横へ置いてあります。


 少し前では、フランソワさんが飛燕ちゃんの操縦席へ入りました。


『こちらフランソワ。無線、聞こえますか』


「よく聞こえるよ」


『曳航金具、確認しました』


「こっちも大丈夫」


『エンジンを始動します』


「はい」


 4翅プロペラが回り始めました。


 低い音。

 少しずつ回転がそろいます。


 油圧と油温、冷却水温、燃圧、回転数を確認し、過給機の作動も見ます。

 地上の整備士さんは、離陸直前まで計器から目を離しません。


『異常ありません』


「じゃあ行こう」


『はい』


          ◇ ◇ ◇


 飛燕ちゃんが先に動き始めました。


 曳航索が草の上を滑ります。


 まだ張りません。


 さらに前へ。


 索がまっすぐになります。


 その瞬間、タドポール君が前へ引かれました。


「来たね」


『うん』


 車輪が回り始めます。


 飛燕ちゃんは、いつもの高速離陸のようには加速しません。

 後ろにタドポール君がいます。


 フランソワさんは速度をゆっくり上げ、曳航索が横へ振れないよう、草地の中心をまっすぐ進みました。


 タドポール君の長い翼に揚力がつきます。


 少し先に、タドポール君の車輪が地面から離れました。


「浮いた」


 まだ上へは行きません。


 低いところで姿勢を保ち、前の飛燕ちゃんが離陸するのを待ちます。


 飛燕ちゃんの尾が軽くなりました。

 主脚が草から離れます。


『離陸しました』


「見えてるよ」


 2機が1本の索でつながったまま、エルレンフェルトの旧飛行場を離れました。


          ◇ ◇ ◇


 最初の旋回は大きくしました。


 曳航中に飛燕ちゃんだけ急に曲がれば、後ろのタドポール君は円の外側へ振られます。

 タドポール君が上へ行きすぎても、飛燕ちゃんの尾を引き上げます。


「今の高さでいいよ」


『分かりました』


 どろちゃんは飛燕ちゃんの少し下へ位置を合わせました。


 曳航索が大きくたるまず、張りすぎもしないところです。


 1000m。


 2000m。


 地上の町が小さくなります。


 フランソワさんはまっすぐ上がり続けませんでした。


『右前、昇降計が少し上です』


「こっちも」


 少し右へ。


 上昇率が増えました。


「そこ、使おう」


『はい』


 飛燕ちゃんが浅く旋回します。

 タドポール君も同じ空気の中へ入りました。


 以前、レスボス島やカナリア諸島でやった飛び方と似ています。


 地形と雲、風の流れを見ながら、昇降計の動きも確かめます。

 上へ動いている空気を見つけたら、その中に機体を置きます。


 今日は前に飛燕ちゃんがいます。


 2機は曳航索でつながっています。


 細かく何度も旋回するより、上昇する空気の広い側を選び、大きな円で使います。


 3000m。


 4000m。


 5000m。


 どろちゃんは酸素マスクを着けました。


「酸素、始めるよ」


『こちらも始めました』


 フランソワさんの声が少しこもります。


 飛燕ちゃんのエンジン音は変わりません。


 水温、油温、油圧はいずれも正常です。


 過給機が高度に合わせて働きます。


『エンジン、問題ありません』


「曳航は?」


『まっすぐ引けています』


「こっちも楽だよ」


 今日だけ長くした翼端も効いていました。


 タドポール君に合わせた低速域で、飛燕ちゃんは無理な迎角を取らずに上昇を続けています。


 6000m。


 7000m。


 空の青が濃くなります。


 雲が下へ入ってきました。


 8000m。


 9000m。


 8000、9000mでは、使う気流も低い高度の熱上昇から変わってきます。

 山地を越えた風が上空で波を作り、広い上昇帯と下降帯を並べています。


 昇降計が上を示す場所へ少し寄せる。


 外れれば戻す。


 フランソワさんも、前にモーターグライダーで覚えたのと同じように、数字だけでなく空の場所を覚えながら飛んでいました。


『こちら、少し左の方が上がります』


「私もそう見える」


『左へ寄せます』


「はい」


 10000m。


 高度計が、その数字へ届きました。


「10000。ここで切ろう」


『分かりました』


「3、2、1」


 どろちゃんがタドポール君側の切り離しを操作しました。


 カチン。


 曳航索が外れます。


 一瞬だけ、前へ引かれていた力が消えました。


 タドポール君はそのまま自分の翼で飛びます。


 前の飛燕ちゃんは、急に後ろの抵抗がなくなりました。


『切り離し確認しました』


「こっちも」


 フランソワさんはすぐに急上昇しません。

 まず速度を整えます。


 タドポール君との間隔を広げます。


 それから電動ドラムを動かしました。


 飛燕ちゃんの後ろへ残った曳航索が、少しずつ巻き取られていきます。


『索、収納しました』


「じゃあ、ここから遊ぼう」


『はい』


          ◇ ◇ ◇


 タドポール君のジェットは止まったままです。


 どろちゃんは昇降計を見ました。


 切り離した直後は、まだ少し上を指しています。


「ここ、まだ使えるね」


『こちらも上がっています』


 2機は十分に距離を取り、10000m付近に残っていた上向きの空気を使いました。


 飛燕ちゃんには動力があります。

 タドポール君は翼だけです。


 2機は同じ場所に居続けず、上昇が弱くなれば別の場所を探します。

 どろちゃんは昇降計を見ながら横へずらし、フランソワさんも少し離れたところを探りました。


 11000mを越えたところで、さっきまで使っていた上昇域が終わりました。


「ここまでだね」


『こちらも昇降計、ほぼ零です』


 ヨーロッパの上空で、地面から続いてきた上昇流を使えるのはこのあたりまででした。

 ここから先は、タドポール君も自分の動力を使います。


「ジェット、始めるよ」


『うん』


 どろちゃんは小さなジェットを始動しました。


 後ろから低い音が戻り、回転が安定します。

 計器を確認してから、少しずつ推力を上げました。


 さきほどまで空気に持ち上げてもらっていたタドポール君が、今度は自分の力で上昇を始めます。


 フランソワさんの飛燕ちゃんも、Jumo 213EBの出力を保ったまま上昇を続けました。


 12000m。


 Jumo 213EBは高いところでも回転を保っています。

 エンジン音に乱れはなく、過給も正常に働いています。冷却水温、油温、油圧、プロペラ回転にも異常はありません。


『飛燕、異常ありません』


「こっちも正常」


 タドポール君のジェットも安定しています。


 この先は上昇気流を探しません。


 飛燕ちゃんはJumo 213EB。

 タドポール君は小さなジェット。


 2機とも、それぞれの動力で薄くなっていく空気の中を上がっていきます。


 13000m。


 以前の飛燕ちゃんは、高高度飛行の試験もしています。

 今日は以前の記録との競争をせず、機体の状態を見ながら上がります。


 エンジンはJumo 213EBへ変わり、翼端も今日だけ左右50cmずつ長くしてあります。

 過給の使い方も、曳航後に高高度まで上がる今日の飛び方へ合わせています。


 フランソワさんは大きな舵を使いません。

 速度を保ち、姿勢を崩さず、緩い修正だけで上昇を続けます。


 飛燕ちゃんの挙動は落ち着いていました。


 14000m。


 タドポール君の風防の内側が、かなり冷たくなっています。


「寒い」


『毛布、あるよ』


「出す」


 どろちゃんは操縦を乱さないように片手ずつ使い、横へ置いていた毛布を膝へ掛けました。

 肩まで包むと操縦桿の邪魔になります。


 毛布は膝から腿、腰のあたりまでです。


「これ、持ってきて正解だった」


『僕は寒くないよ』


「私は寒いの」


 14500m。


 フランソワさんの声が入ります。


『こちら飛燕。水温、油温、油圧、正常です。振動もありません』


「上昇率は?」


『まだ余裕があります』


「こっちも上がってる」


 15000m。


「15000」


『確認しました』


 ここから上は、空気の薄さがさらに目立ちます。


 空は濃い青です。

 地平線は遠く、地面の細かなものはもう見えません。


 酸素マスクから酸素が送られます。

 低い外気圧の中で陽圧の酸素を吸う呼吸は、地上よりずっと疲れます。


 マスクが顔へ強く当たり、息を吐くにも少し意識が要ります。

 そして寒い。


 機内を丸ごと暖めるエンジンもありません。


 15500m。


『飛燕、まだ余裕があります』


「タドポール君も平気?」


『まだ上がれるよ』


 15700m。


 飛燕ちゃんのJumo 213EBは、音も温度も安定しています。

 タドポール君のジェットも推力を保ったままです。


 15800m。


「15800」


『確認しました』


 11000mより上では、上昇気流に助けてもらっていません。

 タドポール君はジェット、飛燕ちゃんはJumo 213EBで、それぞれ動力上昇を続けてここまで来ました。


 機体側には、まだ余裕があります。


 どろちゃんは飛燕ちゃんを探しました。


 少し離れたところを、細い機体が飛んでいます。

 4翅プロペラが回り、今日だけ少し長い主翼が青い空の中を進んでいました。


『飛燕、各部正常です。まだ上昇できます』


「タドポール君は?」


『まだいけるよ』


「私が無理」


 少し間がありました。


 無線の向こうで、フランソワさんが笑った気配がしました。


『戻りますか』


「戻ろう。寒い」


『分かりました』


 どろちゃんは、機体ではなく自分の身体を理由に上昇を終えました。


 Jumo 213EBも冷却系も正常で、飛燕ちゃんの操縦にも異常はありません。

 タドポール君のジェットも安定したままでした。


 先に音を上げたのは、毛布にくるまったどろちゃんでした。


          ◇ ◇ ◇


「ジェット、絞るよ」


『うん』


 どろちゃんが推力を落とすと、タドポール君の上昇が止まりました。

 少し機首を下げ、今度は持っている高度を使って帰ります。


『こちらも下降へ入ります』


 フランソワさんもJumo 213EBの出力を落とし、飛燕ちゃんを緩い下降へ入れました。


 急降下はしません。


 高いところで速度を増やしすぎれば、真対気速度の方が大きくなります。

 どろちゃんは高度を少しずつ速度へ換えながら、タドポール君の限界から十分に余裕を取って降りました。


 15000m。


 14000m。


 13000m。


 高度が下がると、空気が少しずつ濃くなります。


 酸素マスクはまだ使います。


 12000m。


 11000m。


 10000m。


「やっと10000」


『先ほど、ここで切り離しましたね』


「ずいぶん低く感じる」


『私も少しそう思います』


 9000m。


 8000m。


 ここまで下がったところで、どろちゃんはタドポール君のジェットを止めました。

 あとは滑空でエルレンフェルトへ戻れます。


 毛布はまだ掛けたままです。


「もう少しこのまま」


『どうぞ』


「フランソワさんは寒くない?」


『寒いですが、こちらは機首の熱があります』


「ずるい」


『飛燕ですので』


 それは飛燕のせいなのか、Jumoのせいなのか、どろちゃんには少し分かりませんでした。


          ◇ ◇ ◇


 エルレンフェルト旧飛行場が見えてきました。


 最初にタドポール君が降ります。


「先に行くね」


『はい。上で待ちます』


 どろちゃんは高度を使って速度を調整しました。


 ジェットは止めたままです。


 今日は10000mまで飛燕ちゃんに引いてもらい、11000m付近までは残っていた上昇流を使いました。

 そこから15800mまでは自分のジェットで上がっています。帰りは、その高度を使います。


 草地へ向きを合わせます。


 少し高い。


 スポイラー。


 沈み方を調整。


 地面が近づきます。


 フレア。


 車輪が草へ触れました。


「ただいま」


『おかえり』


 タドポール君が速度を落とします。


 停止。


 どろちゃんは毛布をどけ、酸素マスクを外しました。


「地上、暖かい」


『ずっと地上にいた人は、たぶんそう思ってないよ』


「上と比べたら暖かいの」


 空を見ると、飛燕ちゃんが進入へ入っていました。


 速度を落とします。


 脚が下ります。


 フラップ。


 細い機首がまっすぐ滑走路へ向きます。


 主脚が草へ触れました。


 少し遅れて尾輪。


 そのまままっすぐ走り、速度を落とします。


 止まりました。


 風防が開きます。


 フランソワさんが酸素マスクを外しました。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「15800」


「はい」


「まだ上がれたね」


「飛燕は、まだ上がる感じでした」


「私が寒かった」


「毛布をお持ちになって正解でした」


          ◇ ◇ ◇


 飛んだあとは点検です。


 高く上がったから終わりにはしません。


 整備士さんたちが、地上で開けられる点検蓋を開きました。


 漏れやにじみがないかを見て、外から確認できるホース、クランプ、配線を点検します。

 冷却水と油も確認しましたが、異常は見つかりませんでした。


 プロペラと、外から確認できる減速機まわりも見ます。

 過給機や給気冷却器を分解して調べる作業までは、ここではしません。

 そこまで必要なら、飛燕ちゃんはまた天国へ戻ります。


 曳航金具の周囲も確認します。


 曳航金具の荷重を受けた後部胴体のフレームと縦通材、取り付けボルト、金具を確認します。

 変形や緩みは見つかりませんでした。


 曳航索の巻取りドラムも正常です。


「尻尾、もげなかった」


 どろちゃんが言うと、整備士さんが振り返りました。


「もげる取り付け方はしていません」


「うん。知ってる」


 最後に主翼です。


 今日だけ付けた翼端を外します。


 左右50cmずつ。


 ボルトを抜き、延長翼端を支え、いつもの翼端部へ戻します。


「もう外すんですね」


 フランソワさんが聞きました。


「うん。今日のお仕事は終わったから」


「高いところでは、かなり楽でした」


「でも速いときは、こっちの方がいい」


 元の翼端が付きました。


 飛燕ちゃんの全幅が、1m戻ります。


 整備士さんが少し離れて機体を見ました。


「やっぱり、この形ですね」


 川崎航空機が作ったキ61-II改の細い機体です。


 載っているエンジンは、天国のドイツ側残骸置き場から来たJumo 213EB。

 エンジン架、補機、給気、配管、冷却系は、天国の技師さんたちが飛燕ちゃんの現物へ合わせて1晩で組み直しました。

 壊れたTa 152 Hから使えるJumo側部品も集めましたが、下面には飛燕のラジエーターが残っています。


 今日だけ長かった翼端も、もう元へ戻っています。


 ハ140を待ったまま飛べなかった機体。

 その仲間の多くは、空冷エンジンを載せてキ100になりました。


 この1機は、飛ぶ前に星になり、ずっと後になって別の道を通りました。


 川崎の飛燕の機体は、今日もその形のまま帰ってきました。


「また引く?」


 どろちゃんが聞きました。


 フランソワさんは少し考えました。


「次は、もう少し暖かいところまでにしましょう」


「それ、高度の話?」


「お嬢様の毛布の話です」


「じゃあ、毛布2枚」


「高度を下げる方ではないのですね」


「せっかく上がれるから」


 フランソワさんが笑いました。


 タドポール君は、少し離れた草地で長い翼を休めています。


 飛燕ちゃんは、いつもの短い翼端へ戻りました。


 今日の記録には、1つだけ新しい数字が増えました。


 曳航切り離し高度、10000m。


 11000m付近から動力上昇へ移り、2機で到達した高度、15800m。


 機体異常、なし。


 帰還理由。


 どろちゃんが寒かったため。


          ◇ ◇ ◇


小さな説明


【今回の時間軸】


 フランソワさんが自分のモーターグライダーで単独飛行できるようになり、上昇気流を探してソアリングする練習まで進んだころの番外編です。


 第109章から第110章で飛燕ちゃんを「どろちゃん専用」としたのは、新生直後の試験運用時点です。

 どろちゃんが初期試験を終えて機体の癖と安全範囲を確認したあと、フランソワさんが機種転換の練習へ進んだ時期に置きます。


 飛燕ちゃんは単座なので、どろちゃんが横席から操縦を直すことはできません。

 そのため本番の曳航前に、地上滑走、場周、離着陸、速度変化、旋回などを段階的に練習しています。



【飛燕ちゃんの1日だけの曳航仕様】


 タドポール君を引くため、後部胴体へ専用曳航金具を追加しています。


 尾輪の取り付け部だけで荷重を受けず、後部胴体の複数フレームと縦通材へ力を分散します。

 操縦席側とタドポール君側の双方から切り離せます。


 切り離し後の索を高空から投棄しないよう、無荷重になった索を回収する小型電動ドラムも追加しています。


 主翼は左右の翼端部を、それぞれ50cm長い交換部品へ変更しました。

 全幅では1m増えます。


 目的は曳航時の低速域と高高度側の余裕です。

 高速性能には不利になるため、帰着後すぐ通常翼端へ戻しています。



【Jumo 213EBと、1晩だけ消えた飛燕ちゃん】


 今回の飛行前日、飛燕ちゃんはいったんエルレンフェルト旧飛行場から消え、天国のアントノフ工場へ戻っています。


 エルレンフェルト側で行えるのは、日常点検、給油、油・冷却水の確認、外から交換できる部品などの軽整備です。

 Jumo 213EBの本格的な分解整備、エンジン架の変更、給気・冷却配管の製作、過給系の調整まで行える設備は置いていません。


 そのため、DB系からJumo 213EBへの換装は天国側で現物合わせを行いました。


 Jumo 213系列は、液冷倒立V型12気筒、排気量約35L、ボア150mm、ストローク165mmの直接噴射式航空エンジンです。


 高高度用Jumo 213E系は2段3速過給機と給気冷却器を備えます。

 代表的なJumo 213E資料値では離昇約1750PS級、MW50使用時には2000PSを超える値が示されます。

 EBは戦争末期にE系をさらに高出力化する方向で開発された型なので、本作では曖昧な最大公称値より、天国で実際に回した個体の温度、圧力、振動を優先します。


 本作で使う燃料はアルコール系神様燃料です。

 史実燃料の設定をそのまま使わず、燃料噴射、点火、過給、給気冷却、冷却系を実機で調整しています。


 換装時には、壊れたTa 152 Hも部品取りとして使いました。

 Ta 152 Hは同じJumo 213E系を搭載したため、エンジン側の補機架、制御装置、発電機、スターター、冷却水継手、配管金具、センサー類など、流用できるものがあります。


 Ta 152から使うのはJumo側の補機や取り付け部品です。

 冷却系は飛燕本来の胴体下面ラジエーターを中心にまとめ、Jumo側との間を新しい配管で結びます。


 Jumo 213EBは、それまでよく使ってきたDB 601~603系と寸法も補機配置も違います。

 エンジン架、防火壁との間隔、プロペラ軸位置、吸気、排気、補機、操縦リンク、冷却水配管を、飛燕ちゃんの実物を前に1つずつ合わせました。


 武装を搭載しないため、機首内では砲身、給弾装置、弾薬箱に場所を取られません。

 空いた空間を補機と配管の取り回しに使えます。


 翌朝、飛燕ちゃんはJumo換装、曳航金具、片側50cmの延長翼端まで完成した状態でエルレンフェルトへ戻りました。


 今回の飛行前設定も天国で済ませています。

 用途は「10000mまで曳航、その後も高高度上昇」。

 試験運転で連続使用を確認した範囲の中から、高高度上昇に向いた設定を選びました。


 地上の整備士さんたちは、その完成状態をばらして再調整せず、飛行前後の日常点検を担当します。


【川崎ハ40、ハ140と天国の残骸置き場】


 飛燕の元のエンジン系統は川崎製です。


 ハ40はDaimler-Benz DB 601系を基礎に日本で生産され、ハ140はその高出力化を狙いました。


 本作の天国の残骸置き場では、飛行用として安心して選べるハ40とハ140の完成品を確保できませんでした。

 とくにハ140は、使える完成エンジンが1基もなく、残っている部品や未完成品にも製造精度や状態の問題があります。


 もし精度の出た良好なハ140が残っていれば、技師さんたちは素直にそれをキ61-II改へ載せています。



【キ100になった飛燕】


 史実では、キ61-II改用ハ140の生産不足が大きな問題になりました。

 1945年1月19日には明石のハ140生産工場がB-29の爆撃を受けます。


 多くの完成済みキ61-II改機体へ液冷エンジンを供給できなくなり、川崎は三菱ハ112-II空冷複列14気筒エンジンを載せる改造を行いました。


 これが五式戦闘機キ100です。


 キ100は結果として優れた機体になりました。

 同時に、必要なハ140が十分な品質と数量で存在していれば、大量の「首なし」キ61-II改を空冷化する必要そのものが生じにくかった、という事情から生まれた機体でもあります。



【15800m】


 今回の記録では、15800mを「到達した高度」として扱います。


 10000mで曳航を終えたあと、11000m付近まではヨーロッパ上空に残っていた上昇流を利用します。

 そこから上は上昇流を使わず、タドポール君はジェット、飛燕ちゃんはJumo 213EBで動力上昇します。


 15800mの時点で、飛燕ちゃんのJumo 213EB、冷却、油圧、プロペラ、操縦系はすべて正常です。

 タドポール君のジェットも安定しており、両機ともさらに上がれる余裕を残しています。


 帰還を決めたのは人間側です。


 両機の操縦席は非与圧です。

 酸素ボトルと高高度用レギュレーター、マスクを使用していますが、低圧環境そのものと低温は残ります。

 とくにエンジンの熱源を持たないタドポール君では、どろちゃんが毛布を使っても寒さが強くなりました。


 そこで機体の限界を探さず、15800mで上昇を打ち切っています。



【今回の記録】


 エルレンフェルト旧飛行場から曳航離陸。


 曳航機 飛燕ちゃん

 操縦 フランソワさん


 被曳航機 タドポール君

 操縦 どろちゃん


 曳航切り離し高度 10000m


 切り離し後、11000m付近までは残存上昇流を利用。以高は両機とも動力上昇。


 今回確認した最高高度 15800m


 15800m時点

 飛燕ちゃん 機体・エンジン各部正常、上昇余力あり

 タドポール君 機体正常

 帰還理由 人間側の低圧・低温負担、とくにどろちゃんの寒さ


 翼端延長部は帰着後に取り外し、通常翼端へ復旧。


 Jumo 213EBの換装・現物合わせ・高高度設定は前夜に天国のアントノフ工場で実施。

 エルレンフェルトでは飛行前後の日常点検と軽整備のみ。


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