第195章 貴族令嬢は、五人に一人を数えます。 史実でアイルランドの飢饉でなくなった方の割合です。
第195章 貴族令嬢は、五人に一人を数えます
国王や元首へ説明すると決めた以上、研究成果だけを並べても足りません。なぜ古い種芋を広い地域で入れ替えるほどのことをするのか、その理由から分かってもらう必要があります。
研究室の大きな机には、五年分の交配表と収量表、フランスとイングランドの病害記録、同じ系統を違う土地で育てた比較、古い種芋系統と真正種子から作り直した系統の記録が積み上がりました。
「最初の一枚、どれにします?」
「病気で枯れた畑の写真は?」
「それだけだと、病気に強い品種を少し配れば終わりだと思われませんか」
「いきなり古い種芋を廃棄する話から始めますか」
「説明を聞く前に嫌な顔をされると思います」
研究係の使用人たちが相談している横で、フランソワさんは白紙へ一つだけ書きました。
「広い範囲で不作になった場合に、何が起きるかから説明してはいかがでしょう。ジャガイモだけの問題では済まなくなります」
「それがいいと思う」
どろちゃんは答えましたが、そのまま少し手が止まりました。
広い範囲でジャガイモが採れなくなる。
その言葉だけで、頭の中には前世で調べたアイルランドの大飢饉が戻ってきます。
ロシアで中学生だったころ、学校の自由研究で調べたものでした。ジャガイモを普通に食べて育ったので、作物の病気一つが、どうしてあれほど大きな人口減少へつながったのかが気になりました。
一八四一年のアイルランド人口は、およそ八百十七万人。一八五一年には、およそ六百五十五万人。
十年間の人口減少は百六十万人を超えます。
もちろん、その差をそのまま死者数にはできません。大量の移民がいるからです。
ところが、島を出た人を全部、生きて移住を終えた人として扱うと、今度は別の死亡が落ちます。移民船の航海中に亡くなった人、到着後の検疫施設で亡くなった人、新しい土地へ着いて間もなく、飢えと衰弱が大きく影響して亡くなった人がいます。
病名の扱いも難しかった。
餓死なら分かりやすい。
でも、栄養状態が崩れたあとに発熱性の病気や下痢、赤痢などで亡くなれば、記録にはその病名が残ります。その人たちを全部飢饉の死者へ足せば過大になりますし、全部外せば栄養不足が感染症死亡を増やした部分を落とします。
そこで当時のどろちゃんは、平年の死亡と比べ、飢饉期に増えた部分だけを見るようにしました。
島内の餓死と栄養失調。
平年より増えた感染症死亡。
移民船での死亡。
検疫や到着直後の死亡。
同じ人を二重に入れないように区分し、記録で追えない人を推測だけで足すこともしませんでした。
そうして一八四一年の人口を分母にすると、どろちゃんの計算では二割を少し超え、三割には届きませんでした。五人に一人以上という値です。これは中学生だったどろちゃんが、「飢饉が原因になった死亡を、島外まで含めて広く拾ったらどうなるか」と自分で基準を決めて出した広い因果推計です。公式の死者数として人に示す数字ではなく、ましてこの世界では、その飢饉自体がまだ起きていません。
どろちゃんは頭の中だけで、その先まで思い返しました。
あの大きさの被害には、ジャガイモ疫病とともに、単一作物への依存、貧困、土地制度、救済政策、宗教的な考え、大量移民が重なっていました。
地主が土地の外、ブリテン側で暮らしている例も多く、小作農が食料を失っても土地制度そのものがすぐ農民を守る形には変わりませんでした。
救済行政に関わったチャールズ・トレヴェリアンは、後に飢饉を神の摂理と結び付け、一時の悪から恒久的な善が生まれるという方向の説明を残します。
前世で読んだとき、どろちゃんは腹を立てました。
どろちゃんは、原因を一人の人物へ帰さず、制度、土地、市場、救済、宗教を一緒に見る必要があると自由研究に書きました。
プロテスタント側の一部で、食べ物や救済と改宗が結び付けられたとして強く反発された例もありました。救済に尽力した宗教者まで同じ扱いにはできません。それでも、飢えている人へ食べ物と信仰を一緒に差し出せば、その選択を本当に自由と呼べるのか、当時のどろちゃんには疑問でした。
さらに覚えているのが、オスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト一世です。
最初の援助申し出は一万ポンド。
ヴィクトリア女王側の寄付は二千ポンド。
それより大きな金額は王室の体面上まずいという話になり、最終的なオスマン側の現金寄付は千ポンドになりました。
最初の申し出の十分の一。
実際に出た金額だけ比べれば、ヴィクトリア女王の半分です。
どろちゃんには、飢えている人より女王の体面や王室の格を上へ置いたように見え、その判断を強く嫌っていました。
オスマン側が食料を積んだ船まで送ったという有名な話もあります。ただし、その部分は現金寄付ほど史料が固くありません。自由研究でも、確認できる事実と、よく語られている話を同じ扱いにはしませんでした。
ジャガイモから始めたのに、最後には人間の制度ばかり調べていた。
そこまで思い返したところで、研究係の声がどろちゃんを机へ戻しました。
「お嬢様、最初の図は、フランスとイングランドを合わせた収量低下の例でよろしいですか」
「うん。それと、ジャガイモが減ったらほかの食べ物へ何が起きるかも入れよう」
「小麦の需要が増えますね」
「家畜の餌も変わる。都市へ運ぶ食料も増えるし、値段も上がる」
「一つの作物だけの話ではない、と」
「そう。そこから始めよう」
この世界では、この二十年ほどで労働条件や賃金、食料の流通、鉄道、港、衛生がかなり変わりました。どろちゃんの記憶にあるアイルランドとは、社会条件そのものが大きく違っています。
けれど、疫病そのものがヨーロッパの広い範囲へ広がり、ジャガイモの収量が大きく落ちれば、食料不足や値上がりは避けられません。
「今なら、鉄道で足りないところへ運ぶこともできます」
使用人の一人が言いました。
「できる。でも、運ぶ食べ物そのものが広い範囲で減ったら、鉄道だけじゃ増やせない」
「だから、病気が来る前にジャガイモ側を強くしておく」
「うん」
耐病性を持つ新しい系統を複数用意し、収量や収穫時期、保存性の違うものを地域に合わせて配ります。同時に、古い種芋から病気を引きずる系統は、十分な代替品が用意できたところから切り替えます。
「配る量の計算も要りますね」
「最初から全部は無理だから、増殖用の畑を先に作る。そこで増やして、次の年にまた増やして、地域ごとに順番を決めよう」
「古いものと新しいものが混ざる期間も出ます」
「そこは札と記録をきちんと付ける。新しい名前だけ付いて、中身は昔の芋だったら意味がないから」
研究室の机に、今度は物流と配布計画の紙が増え始めました。品種を作るところまでは研究ですが、農家の畑へ届くところから先は行政の仕事になります。
「ここから先は、国全体の判断が要りますね」
フランソワさんが言うと、どろちゃんは一枚の紙に、フランス、イングランド、ネーデルラント、イタリア王国の四か国を書き並べました。
ライデン大学を別に呼んで説明する必要はありません。五年間ずっと共同研究に入っているので、今回はむしろ説明する側です。ネーデルラントからは大学の研究者たちと、国として決定できるネーデルラント側の元首が来ます。イングランドからはアン女王、フランスからはルイ十四世、イタリア王国からはサヴォさんです。
「国王陛下たちへ、最初から『全部捨てます』と言うのはやめましょう」
研究係の使用人が言いました。
「分かってるよ。五年間何をしてきたか、フランスとイングランドで何が分かったか、そのあとに種芋更新の話」
「カールの細かな症状分けは?」
「技術説明の方にしよう。首脳会議では、古い種芋を長くつないだ系統で弱り方が積み重なることがある、というところまででいい」
「それなら、畑の比較写真で説明できます」
「うん。それが一番分かりやすい」
結論を曖昧にはしません。新しい種芋を十分に増やし、地域ごとに複数品種を準備してから、古い系譜を置き換えます。植えるものがないのに古い種芋だけ先に捨てる、という順番だけは絶対に避けます。
「会議の名前、どうします?」
どろちゃんは資料の表紙をしばらく見てから、少し大きな字で書きました。
「エルレンフェルト・ポテト会議」
「重要首脳会議にしては、ずいぶん覚えやすいですね」
「何の会議か間違えないでしょ」
扱う内容は、国中の種芋を入れ替えるほど重い話です。短く覚えやすい名前なら、農業関係者にもすぐ通じます。




