194 貴族令嬢は、五年分のジャガイモを掘ります。 ヨーロッパのジャガイモ飢饉対策編です。19世紀にアイルランドで大量の餓死者を出す事件ですね。
第194章 貴族令嬢は、五年分のジャガイモを掘ります
エルレンフェルトへ戻ってから、どろちゃんは新滑走路の周りに広がる畑へ出ました。遠くから見れば普通の農地ですが、畝の端には小さな札が何百枚も立っています。番号、親に使った品種、種を採った年、植えた日、収穫した日。掘り上げた区画には木箱が並び、箱の横にも同じ番号が付けられていました。
「今年の分、かなり掘れました」
帳面を持って待っていたのは、どろちゃん直属の使用人の一人です。もともとは真珠養殖を担当していた人で、親貝と子の性質を追うために遺伝と交配を習いました。真珠の色や照り、成長の速さを記録していた人たちが、今ではジャガイモの親子関係まで追っています。
「この列は、どの組み合わせ?」
「南米から来た赤皮の系統と、去年残した七十三番です。七十三番は収量が良かったのですが、フランスでは病気に弱かったので、今年は親としてだけ使いました」
「丸い芋が多かったやつだよね」
「はい。形は良かったので、その性質だけ残せないかと思いまして」
どろちゃんは札を一枚めくり、隣の畝の番号と照らし合わせました。こうしてジャガイモの品種改良を始めてから、もう五年になります。
最初の三年ほどは、育種材料をできるだけ広く集めることから始めました。ヨーロッパ各地の品種に加え、海を越えて持ち込まれたものや南米で栽培されているものも揃え、グアノ肥料を普通に使う地域で長く作られてきた系統もかなり集まりました。
集まった芋は、皮の色も形もばらばらでした。早く収穫できるものもあれば、かなり待たないと太らないものもあります。大きな芋を少数つける株、小さな芋をたくさんつける株、茎が倒れにくい株、花をよく付ける株。同じ名で売られていても、持ってきた土地が違うだけで性質が少し違うものまでありました。
「最初の年は、名前を付けるだけでも大変でしたね」
「同じ名前で中身が違うのが一番困ったよね」
「逆に、名前は違うのに、育ててみるとほとんど同じように見えるものもありました」
「だから名前だけで親を決めないようにしたの」
最初の三年ほどは、集めたものを比べながらかなり広く交配しました。
品種を集めた最初のころは、届いた芋をそのまま畑へ持ち込まないようにもしていました。出所ごとに分けて様子を見て、腐敗や目立つ異常があれば、その箱はさらに別にします。
前世なら、もっと細かな検査をしてから持ち込めた。どろちゃんの頭には、そんな方法がいくつも浮かびます。けれど、ここで使える器具と知識には限りがあります。今できる範囲で箱を分け、畑まで一緒に病気を持ち込まないようにするしかありません。
「集めるだけでも研究なんですね」
「うん。何をどこから持ってきたか分からなくなったら、あとで良い性質を見つけても戻れないから」
真珠養殖の記録で鍛えられた使用人たちは、袋と札と帳面を丁寧に照合しました。親貝の番号を一つ取り違えただけで何年分もの比較が無駄になることを知っているからです。ジャガイモでも同じように記録を守り、芋で同じ株を増やす作業と並行して、花へ別の株の花粉を付け、できた実から真正種子を採りました。小さな種から育てた子は、同じ両親から生まれても全部同じにはなりません。そのばらつきを一株ずつ見て、次に残すものを選びました。
収穫した芋も、最初から大箱へ一緒には入れません。一株ごとに木箱を分け、番号札と対応させます。手間は増えますが、どの親からどんな子が出たのかが切れなくなるので、次の交配を決めるときに役立ちます。
「こっちの兄弟、ずいぶん違いますね」
別の使用人が二つの箱を並べました。一方には大きな芋が三つ、もう一方には小さな芋が十個近く入っています。
「同じ実から取った種ですよね」
「うん。同じ両親でも、こうなる」
「真珠のときも、良い親同士から生まれた子の照りには、かなりばらつきがありました」
「だから、外れに見えても数字を残してから捨てるの」
食用品種として残すには収量が足りなくても、病気には強い株があります。形は悪くても、育つのが早い株もあります。一つの項目だけなら親として十分使えることがあるので、何が悪く、何が良かったのかを残しておかないと、次の交配へつなげられません。
「五年前に、お嬢様が『外れも記録して』と言った意味が、今なら分かります」
「私も最初から全部分かってたわけじゃないよ。数が増えると、自分でも帳面がないと追えなくなるから」
日常の畑仕事は、周辺の農家へ頼んでいます。水やり、土寄せ、草取り、収穫の手伝いまで研究係だけで抱えたら、交配と記録の方が止まってしまいます。農家の人たちも、初めのころは同じ畑へ少しずつ違うジャガイモを何十、何百と植える意味が分からなかったそうですが、今では収穫前に札を確かめ、箱を混ぜないところまで慣れていました。
「今年の二百十一番、フランスはどうでした?」
「残っています。去年より収量も上がりました。イングランドでは少し小粒ですが、株そのものは大丈夫です」
「じゃあ候補のまま。二百三十六番は?」
「フランスで落ちました。今年、周りに病気が広がった途端に葉が崩れています」
「去年は良かったよね」
「去年だけ見ていたら、残していました」
「品種候補からは外そう。ただ、大きさは良かったから、親として少し残してみる」
「分かりました」
交配する親を決め、花粉を付け、採れた種を混ぜないように分け、育った株から残すものを選ぶところは、どろちゃん直属の使用人たちが担当します。各地の試験結果を照合するときには、五年間共同研究を続けているライデン大学の研究者も入ります。
二年前から、選抜の方向はかなりはっきりしました。繰り返し現れるジャガイモの疫病に耐え、それでいて農家が実際に作りたくなる程度の収量を持つものを残します。ただし、一種類へ全部を揃えることはしません。少なくとも数種類、できれば性質の違うものを並行して残し、一つが別の病気に弱かったときでも全部が一緒に倒れないようにします。
ここで困るのが、エルレンフェルトそのものです。
「ここの畑だと、みんな優等生に見えるんですよね」
研究係の使用人が、濃い緑の葉を持ち上げました。
「そうなんだよ。病気が出ないから」
エルレンフェルトでは作物が強くなり、病気の症状もほとんど現れません。交配して種を採り、小さな株を育て、新しい系統を増やしていくには非常に都合がよい場所です。その一方で、本当に病気へ耐えられるかを判定する場所としては、都合が良すぎました。
そのため、同じ番号の系統をフランスとイングランドでも育てています。フランスでは、どろちゃんの領地のうち滑走路に使っていない農地を試験区にしました。イングランド側でも、確保している飛び地のうち、駅や滑走路に使わない土地へ畑を取っています。
「エルレンフェルトでは何ともないのに、フランスへ持っていくと急に差が出ます」
「イングランドでも同じ?」
「はい。ただ、フランスで弱くてイングランドでは持つ系統もあります。その逆もあります」
「それなら三か所やってる意味があるね」
帳面には、同じ番号について三か所の記録が横に並んでいます。病気の出る土地では、弱いものは実際に弱り、葉が枯れ、ひどいものは芋まで傷みます。エルレンフェルトでは見えなかった差が、外へ出すとはっきりしました。
「お嬢様、こっちの比較も見てください」
畝の間から別の研究係が呼びました。株元の土の表面に薄いシートが敷いてあり、隣の畝には何もありません。
「今年も泥はねの差、出た?」
「差は小さいですが、雨のあとには分かります。敷いた方は下葉へ泥が付きにくいです」
雨滴が土を叩いて泥を葉や茎へ跳ね上げるのを減らすためのシートです。効果は圃場衛生の範囲ですが、株元や下葉が汚れにくくなり、地味に差が積み上がります。
「高い機械もいらないし、特別な薬もいらないから、農家さんが真似しやすいんですよね」
「敷く手間はあるけど、できる人は多いね。比較は続けよう」
研究係は頷き、シートを敷いた畝と敷いていない畝の記録を同じ頁へまとめました。品種改良の大きな話をしていても、実際の畑ではこういう小さな差の積み重ねが残ります。
◇ ◇ ◇
午後、研究室へ戻ると、翻訳途中の古い農業文献が机に積まれていました。
「お嬢様、また『カール』です。葉が巻く、株が弱る、次の年はもっと収量が落ちる、とあります」
「また出たかあ」
どろちゃんは紙を受け取りました。
前世で古いジャガイモ関係の論文を読んだときも、この言葉には何度も引っかかりました。古い文献では、後の時代ならPVX、PVY、PLRVなどへ分けて考える複数の症状が、「カール」という大きな一つの箱へ入っています。
カール=こいつら、なーんだ。
そこまで分かっていても、その名前を口へ出すわけにはいきません。
「同じ『カール』でも、症状を分けて記録しよう。葉が巻くもの、まだらになるもの、株全体が弱るもの。原因まで同じとは限らないから」
「一つの病気としてまとめないのですね」
「うん。畑で出た違いを先に残そう」
研究係の使用人は、古い文献の横へ新しい記録欄を作り始めました。
もう一つ、どろちゃんの頭から離れない問題があります。
前世ならELISAやPCRで病原体を調べ、茎頂培養でウイルスを除いた株を作る方法もありました。ここでは、そんな検査も培養もできません。症状の見える株を外し、系統ごとの変化を追うことはできても、古いクローン系統を完全に診断してきれいにするところまでは届きません。
真珠養殖から移ってきた研究係が、別の帳面を開きました。
「同じ種芋を何代も使った区画ほど、だんだん弱る例がありますね。見た目のよい株だけ選んでも、次の年にまた悪くなることがあります」
「あるね」
「でしたら、交配した種から作り直した系統を増やす方がよさそうですね」
「そのために五年前から種を採ってる。欲しい性質は親から持ってきて、そこから選び直すの」
「病気の出るフランスとイングランドで残ったものを、こちらで増やす」
「うん。それを何回か繰り返して、最後に種芋として配れる量まで持っていく」
使用人たちは、目の前の畑と帳面からそこまでたどり着いています。どろちゃんが前世の技術を説明しなくても、古い種芋をそのまま何代もつなぐ危うさは、五年間の比較から見えるようになっていました。
「これって、農家にはゲロゲロ案件ですよね」
帳面を抱えていた研究係の使用人が、フランソワさんを見ました。
「そうでしょうね。何年も増やしてきた種芋を、もう使わないでください、と言われるわけですから」
「家によっては、ずっと前から使っているものですよ」
「だから、新しい種芋が足りないうちに廃棄を始めてはいけません。捨てる話より先に、次に植えるものを十分に増やす必要があります」
どろちゃんも同じ意見でした。一種類だけを大量に配ることもしません。今回の病気に強くても、次の病気で全部一緒に倒れたら同じことになるので、土地や収穫時期の違いも考えながら複数の系統を残します。
「研究の筋道は、もう見えましたね」
フランソワさんが五年分の帳面を見回しました。
「でも、ここから先は研究者だけで決められない」
「はい。古い種芋を広い地域で廃棄し、新しいものへ置き換えるには、農家への説明も、増殖用の畑も、輸送も必要です。国境を越えて時期まで合わせるなら、なおさらです」
「じゃあ、国王とか元首に説明しよう」
「そのための資料を作りましょう」
どろちゃんは一番上の帳面を引き寄せました。五年間続けてきたジャガイモの研究が、ようやく畑の外へ出ることになりました。




