193 貴族令嬢はタドポール君を組み立てます。タドポール君での久しぶりの飛行です。
第193章 貴族令嬢はタドポール君を組み立てます
朝になりました。
昨夜はピレウスの酒場の放送を聞いて、そのまま海辺の小さな家で眠りました。窓の外はもう明るく、昨日より少し早い時間から鳥の声が聞こえています。
どろちゃんとフランソワさんは顔を洗い、着替えを済ませました。
今日はタドポール君を組み立てて飛びます。
どろちゃんは長い髪を後ろへまとめました。主翼の結合部や操縦系統を扱うので、作業中に髪が前へ落ちてこないようしっかりくくります。
「これで大丈夫」
「はい。今日は風も穏やかですね」
朝食を済ませてから、2人は滑走路の方へ歩きました。
チェブラーシカは昨日のまま駐機しています。その貨物室には、運搬用に左右の主翼を外したタドポール君が残っています。
後部ランプを開けます。
まず、固定してあった胴体と左右の主翼、それから外した固定具を順に確認しました。昨日の飛行後も固定位置にずれはなく、部品に傷も見当たりませんでした。
長い主翼は人力荷車と支えを使って運び、結合部に余計な荷重を掛けないよう高さと位置を合わせました。
どろちゃんは組み立て作業手順を開きました。
「左主翼から」
「はい」
胴体側と主翼側の結合部を確認してから位置を合わせ、固定します。固定具が正しい位置まで入ったことを見て、抜け止めを確認しました。
作業手順の左主翼の欄へ印を付けます。
次は右主翼です。
同じように支えを使って高さと向きを合わせ、結合部を傷めないようゆっくり入れます。固定が終わると、こちらも手順表へ印を付けました。
運搬のために外してあった操縦系統の接続を戻します。外した箇所の固定、抜け止め、接続を1つずつ確認し、終えるたびに作業手順の該当欄へ印を付けました。
今回は運搬用の分解だけなので、組み立て作業そのものは早く進みますが、各工程の確認は手順どおりに続けました。
組み立てが終わると、どろちゃんが前席へ入り、操縦桿とペダルを順に動かしました。
「補助翼」
フランソワさんが外から左右を見ます。
「左右とも正しい方向です」
「昇降舵」
「正常です」
「方向舵」
「正常です」
動く範囲と引っ掛かりも確認しました。
次は燃料系統です。燃料量、配管、漏れがないこと、供給が正常であることを確認します。
作業手順の最後まで印が入りました。
「できたね」
「はい。飛べます」
2人はいったん別荘へ戻りました。
持ってきたのは、紅茶を入れた保温ポットとビスケットの小箱です。それだけをタドポール君へ載せ、飛行中に動かないところへ固定しました。
朝より日が高くなっています。
草地も暖まり、海から陸へ向かう風がはっきりしてきました。
「海風になったね」
「吹き流しも海側から入っています」
昨日、チェブラーシカは海岸側から進入し、上り勾配の草地を内陸側へ走って着陸しました。そのため、チェブラーシカもタドポール君も滑走路の高い側にいます。
チェブラーシカの大きな車輪が通ったところは草が寝て、地面も少し踏み固められていました。
どろちゃんとフランソワさんは、その跡をもう1度歩いて見ました。深いわだちや大きな石はなく、そのまま使えそうです。
海へ向かえば、滑走路はわずかな下り勾配です。しかも海風が正面から入ります。
「ここを使おう」
「はい」
タドポール君を海側へ向けました。
どろちゃんが前席へ入ります。
フランソワさんは、久しぶりにタドポール君の後ろ向き後席へ入り、ベルトを締めました。
どろちゃんは操縦系統、燃料、計器、周囲を順に見て、紅茶の保温ポットとビスケットの固定まで飛行前の確認を終えました。
「タドポール君、行こうか」
『うん』
小さなジェットエンジンを始動します。
回転が安定してから出力を上げました。
ブレーキを離すと、タドポール君はチェブラーシカが踏み固めた草地を海へ向かって走り始めます。
進むほど地面は少しずつ下がります。
正面からは海風が入っています。
ジェットの推力で加速し、下り勾配も速度を増す方へ働きます。A-11仕様の長い主翼にはすぐに十分な風が入りました。
『もういいよ』
「早いね」
どろちゃんが操縦桿を少し引くと、主輪の音があっさり消えました。
タドポール君は、草地をかなり残したまま離陸しました。
前席のどろちゃんの正面には、エーゲ海北部の青い海が広がっています。後ろ向きに座るフランソワさんの正面では、草地とチェブラーシカが遠ざかっていきました。
どろちゃんは速度を残したまま海側へ少し出てから、緩やかに旋回します。
海から入った風が島の斜面へ当たり、上へ持ち上げられています。
「上がってるね」
『こっちがいいよ』
長い翼を大きく傾けず、上昇している空気を外さないように回ります。
1周するころには、海岸線から約4km内陸へ入った現在のエレソスの集落まで見えるようになりました。
海賊の襲撃を避けて生活の中心を海辺から移した集落です。海岸側には、どろちゃんの小さな別荘と、まだ家の少ない土地が残っています。
さらに高度が上がると、地上を歩いているだけでは分かりにくい丸い窪地が、島のあちこちに見えてきました。
「火口、たくさんあるね」
「上からですと形が分かりやすいですね」
丸く落ち込んだ地形、縁だけが残ったような丘、崩れた火口壁から続く谷が見えます。
レスボス島が火山地形の島であることが、空から見るとはっきり分かりました。
そのまま東へ進むと、島の中へ深く入り込んだ2つの湾が見えてきます。
「小さな黒海が2つあるみたい」
手前がカロニ湾です。
細い入口の奥で大きく広がり、奥の低いところには畑がまとまって見えます。浅い湾には鰯が入り、貝も取れます。
その向こうに見えるのがゲラ湾です。
こちらも海とのつながりは細く、外海に近いところには小さな島が2つあります。最も狭いところでは300mを切ります。水の交換が限られるところでは汽水の性格が強くなり、栄養もたまりやすく、貝や甲殻類がよく取れます。
どちらの湾もとても浅いため、外のエーゲ海とは水の色が違いました。
「日ノ岬の北側みたいな色だね」
「紀州へ行ったときに見た海ですね」
「うん。こっちは浅くて、プランクトンの色が出てる」
どろちゃんは湾の外側へ目を移しました。
「エーゲ海の方は、日ノ岬の南側みたいな青だね」
湾の中は緑がかった青で、外海はもっと深い青です。
同じ島の西側へ目を戻すと、今度は陸の色まで違います。西部は荒れた火山地形が広がり、緑が極端に少ない場所が続いていました。
大昔の火砕流で埋まった森林は、その一部が珪化木や化石になって地中に残っています。
「海も地面も、島の中でずいぶん違うね」
「西側とこちらでは、同じ島とは思えないくらいですね」
2つの湾を越えると、下に大きな町が見えてきました。
ミティリーニです。
家が密集し、道が集まり、港には船があります。レスボス島の中心になる町ですが、位置だけを見ると島の東端に寄っています。
「中心の町なのに、ずいぶん端だよね」
「大陸側がすぐ近くですからね」
ミティリーニからそのまま東へ進むと、狭い海峡の向こうに大陸が見えています。
「向こうはもうアジア側だよ」
タドポール君は海峡を越え、アナトリア側へ入りました。
海岸を越えた先には、山地の間を東西へ延びる低い土地があります。イズミールのあたりにも見られる断層性の窪地に似た地形です。
その低地に沿って、真東へ約20km進みました。
「ここがベルガマ」
町の少し北側には、ペルガモンの遺跡があります。
どろちゃんたちがサモトラケで始めた発掘では、土を崩さずに掘る方法、出土位置を記録する方法、破片を整理して接合する方法、壊れやすいものを保存しながら復元する方法がかなり発達しました。
その経験を持つフランソワ温泉の研究者とライデン大学の学生たちは、サモトラケの調査を進めたあと、いまはペルガモンとミロス島へ分かれて調査を続けています。
「先生たち、今日も掘ってるかな」
「天気が良いですから、作業していそうですね」
ペルガモンでは神殿や大祭壇など、建築物そのものが重要です。
発掘した神殿、壁、柱、階段、大祭壇を構成する石や彫刻は、オスマン帝国側に残します。
独立した像や美術品が出た場合は、規則で認められた範囲だけ研究者側へ移すことがあります。行き先はフランソワ温泉の研究施設や国際連盟本部です。
「パリとベルリンにはあげないよ」
「はい。そのために最初から扱いを決めましたね」
建築遺構は、その場所で保存して調べる方針です。
ベルガマまで来る間、タドポール君は滑空を続けていました。
東へ進む間は追い風に乗って対地速度が上がっていましたが、滑空を続けてきたぶん高度は下がっています。
「そろそろ上がるところを探そう」
『少し余裕を作ろうか』
どろちゃんはジェットエンジンを再始動し、必要な高度を少し取り戻しました。
そのあと機首を風上へ向けます。向かい風なら地面に対して進む速さが小さくなるので、同じ地域を探しやすくなります。
暖められた畑、乾いた裸地、岩の多い斜面と、地面ごとの暖まり方を見ながら進んでいると、少し先に積雲ができ始めている場所がありました。
「さすがアナトリアだね。あそこ、上がってそう」
ジェットエンジンを止めます。
雲へ近づくと、タドポール君の翼がふわりと持ち上げられました。
『来たよ』
「うん」
どろちゃんは上昇流の中心を探し、機体を緩やかに旋回させました。
雲の中へ入らないよう位置を見ながら、きれいな円を描きます。
1周、もう1周と回るたびに、高度計の数字が少しずつ増えていきます。
エンジンは停止したままです。
長いA-11仕様の主翼が、アナトリアの暖められた地面から上がる空気を使って高度を稼ぎました。
4000m近くまで上がったところで、どろちゃんは旋回をほどきます。
西を見ると、海の向こうにレスボス島が見えました。その中でも高く見える、レスボス島のオリンポス山を目標にします。
「これなら一気に行けるね」
『届くよ』
タドポール君は機首を西へ向けました。
ジェットエンジンは止まったままです。
4000m近い高度を少しずつ距離へ換えながら、長い翼で海へ向かって滑っていきます。
対気速度は160km/hほどです。
西へ向かう今は少し向かい風なので、対地速度はそれより低くなっています。それでも機体は安定し、進路もほとんど動きません。
「お茶にしましょうか」
「うん」
後席のフランソワさんが、固定してあった紅茶の保温ポットから2つのカップへ紅茶を注ぎました。
どろちゃんはビスケットの小箱を開け、2枚ずつに分けます。
「2枚ね」
「ありがとうございます」
エンジンを止めた機内には翼の周りを流れる風の音だけが続き、2人はその音を聞きながら紅茶を飲み、ビスケットを食べました。
前方では、レスボス島のオリンポス山が少しずつ大きくなっています。
レスボス島の東端まで戻ると、どろちゃんはそのまま時計回りに島を回りました。
南側の海岸線を見ながら、西のエレソスへ向かいます。
アナトリアで稼いだ高度はもう十分です。帰りはエンジンを使わず、タドポール君の滑空性能を使って、高度を少しずつ距離へ換えていきました。
島の東側から南側の海岸を回り、火山地形の西側へ進むにつれて、朝に見た場所が今度は少しずつ低い高度から近づいてきます。
やがてエレソスの海岸と草地、そのそばにいるチェブラーシカが見えてきました。
「戻ってきたね」
「はい」
海風はまだ続いていました。
朝の離陸では向かい風になった風ですが、海側から内陸へ着陸する帰りは追い風になります。
その代わり、滑走路は内陸へ向かって上り勾配です。
どろちゃんは対気速度を保ち、余分な高度を残さないよう進入しました。
主輪が草地へ触れます。
追い風のため対地速度は少し高めです。
それでも上り坂へ入ると、速度はすぐに落ち始めました。
朝に使ったチェブラーシカの車輪跡を今度は反対向きに上っていきます。
ブレーキを加えると、タドポール君はさらに速度を落とし、チェブラーシカの近くで止まりました。
「ちょうどいいところまで戻れたね」
『お昼だね』
「タドポール君も分かってる」
飛行後の確認を済ませ、タドポール君を滑走路の外へ寄せます。
2人はチェブラーシカの後部ランプを開け、積んであった昼食を出しました。
折り畳みのテーブルと椅子を2脚出しました。今日はほかの機体が来る予定もありません。
2人は草の滑走路の上へテーブルと椅子を置きました。
「滑走路ランチだね」
「本当に滑走路の上ですね」
すぐ横にはチェブラーシカと、朝に組み立てて島とアナトリアを飛んできたタドポール君が並び、少し先には青いエーゲ海があります。
朝は主翼を外したまま貨物室に入っていたタドポール君で、昼には4000m近くまで上がり、大陸まで行って帰ってきました。
どろちゃんとフランソワさんは、草の滑走路の真ん中で昼食を始めました。




