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ドロティアとフランソワは空を飛びます どろちゃんの飛行日誌 飛行機から始まった貴族令嬢の社会改変  作者: アントノフ


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192 貴族令嬢は、レスボス島でピレウスの酒場を聞きます



第192章 貴族令嬢は、レスボス島でピレウスの酒場を聞きます



 8時ごろになりました。


 どろちゃんは昼間に用意しておいた1MHzの受信機へ、丘まで延ばしたロングワイヤーアンテナをつなぎました。


 電源を入れます。


 すぐに、はっきりした声が出るわけではありません。


 雑音。


 その中に、ときどき何かが浮かびます。


「いるね」


「いますね」


 1MHzは中波です。


 昼間は、上空の電離層にできるD層で電波が吸収されやすく、遠くまで届く空間波は弱くなります。日が沈むとD層による吸収が小さくなり、夜間の空間波が遠距離まで届くようになります。


 だから、どろちゃんは明るいうちにロングワイヤーアンテナを張っておき、夜になるのを待っていました。


 時間が進むにつれて、オランダから来る信号が少しずつ強くなります。


 声が浮かび、沈み、また戻ります。


 電離層を通る経路の変化もあり、強さは一定ではありません。夜間伝搬らしいフェージングが残っています。


 それでも言葉が聞き取れる時間が増えてきました。


「こちらはネーザーランド放送です」


 オランダから来た声です。


 以前はライデン大学が実験放送を行っていました。


 今は日常の放送を運営する主体がネーザーランド放送協会へ移っています。


 ただし、番組の作り方には、まだ大学で始まった実験の匂いがかなり残っています。


 紙の片面へ酸化鉄を塗った磁気テープへ音を残し、あとで放送する。


 録音機と電源箱をスタジオの外へ運び、その場所の声や音楽を持ち帰る。


 必要なら、放送局以外の場所へ線を引いて生の音も送る。


 放送が、スタジオの中だけのものではなくなり始めています。



          ◇ ◇ ◇



 そのころ、玄関を叩く音がしました。


 フランソワさんが戸を開けます。


 来たのは、管理人のエレナさんと、妹のアナスタシアさんでした。


「こんばんは」


「こんばんは。入って」


 どろちゃんは二人を中へ招きました。


「お野菜、ありがとう。今日のサラダにしたよ」


「食べられました?」


「うん。浜で拾った貝でボンゴレも作った」


 エレナさんが少し笑いました。


「到着した日に、もう浜で食べ物を探したんですね」


「休暇だから」


 ラジオから声が聞こえています。


 アナスタシアさんが受信機を見ました。


「今日は聞こえるんですね」


「8時くらいから良くなってきたよ。外の丘までアンテナを張ったの」


 四人でラジオの近くへ座りました。



          ◇ ◇ ◇



 ニュースの前に、いつもの番組が始まりました。


「続いては、『港の酒場を訪ねて』の時間です。今日はピレウス港の酒場からお送りします」


 どろちゃんがエレナさんを見ます。


 エレナさんもアナスタシアさんを見ました。


「……近いね」


「近いですね」


 フランソワさんも笑いました。


 ロッテルダムの酒場を聞いたときには、海の向こうの遠い港でした。


 今日は同じエーゲ海側です。


 放送員の説明が続きます。


「今日の録音は4日前、ピレウス港で行いました」


「4日前?」


 どろちゃんが少し身を乗り出しました。


 さらに説明があります。


 イスタンブールとウィーンを結ぶ鉄道から分岐した路線が、テサロニケ、アテネ、ピレウスまでつながりました。


 そのため、録音した紙テープを列車へ載せれば、ピレウスから放送協会まで3日で運べます。


 録音した翌日に港を出て船で何週間も運ぶ番組ではありません。


 4日前の酒場の音が、もう今夜の放送になっています。


「音はいったん北へ行って、それから電波でこっちへ戻ってきたんだね」


 どろちゃんが言いました。


「ずいぶん遠回りですね」


 アナスタシアさんも笑います。


 距離だけならピレウスは近くても、放送はオランダから飛んできます。



          ◇ ◇ ◇



 録音は、港の音から始まりました。


 荷役の声。


 船のきしむ音。


 荷車が通る音。


 そのあと扉が開き、酒場のざわめきへ変わります。


 今日、最初に紹介された酒はウゾでした。


「ギリシャの各地で飲まれている、アニスの香りを持つ酒です」


 放送員が説明します。


 ピレウスだけの珍しい酒として紹介しているのではありません。


 エレナさんもアナスタシアさんも当然知っています。


「ウゾなら、こっちにもあるよね」


「あります」


 グラスへ注いだ酒へ水を加えると白く濁ることまで、放送員は言葉で説明しました。


 ラジオでは色が見えません。


 その代わり、酒場の客が横から口を出します。


『説明はそのくらいでいいから、飲ませてくれ』


『もう飲んでいるでしょう』


『説明を聞いていたら、もう一杯ほしくなった』


 店の中で笑い声が起きました。


 どろちゃんたちも笑います。


 番組では最後に、紹介した酒を注文できる通信販売先も案内することになっています。


 ピレウスまで行かなくても、放送を聞いて気に入れば注文できます。


「ここなら店でも買えそうだけどね」


「この島ですからね」


 エレナさんが答えました。


 それでも、遠い土地で聞いている人には便利な仕組みです。



          ◇ ◇ ◇



 しばらくすると、酒場で誰かが歌い始めました。


「あ、始まった」


 どろちゃんが言います。


 『港の酒場を訪ねて』では、酔った客が途中から歌い始めるのが、もう名物のようになっています。


 放送員も止めません。


 むしろマイクを近づけます。


 今日歌い始めた男の歌は、少し違いました。


 旋律を長く引き、同じ形を繰り返しながら、歌うたびに言葉が少し変わります。


 一人が歌う。


 周りが短く返す。


 机を叩く音が加わります。


 北アフリカへさらわれていた人たちのあいだで広がった、ブルース調の歌でした。


 この世界では、こうした歌は白人音楽として知られるようになっています。


 生まれ方が違うからです。


 ヨーロッパから北アフリカへさらわれ、そこで長く暮らし、戻ってきた人たちが持ち帰った歌です。


 元から知っていた旋律へ、向こうで覚えた拍子や掛け合いが混ざり、帰還した港から別の港へ広がっています。


 どろちゃんは、さっきまでより静かになりました。


 未来で知っているブルースとは、成立した人々の歴史が違います。


 それでも、音の動きにはよく似たところがあります。


 しかも歌の途中には、ナーロッパ語ではない短い言葉が混じります。


 酒場の客の中には意味を知らず、音として一緒に歌っている人もいます。


 どろちゃんには意味が分かりました。


 その言葉が何を言っているのかまで分かるので、余計に歌から離れられません。



          ◇ ◇ ◇



 隣で、小さな声が重なりました。


 アナスタシアさんです。


 ラジオの向こうの男が歌う旋律へ、そのまま合わせています。


 次にどこで言葉を入れるのかも知っています。


「知ってるの?」


 どろちゃんが小さく聞きました。


「向こうで、よく聞きました」


 アナスタシアさんは、そのまま歌います。


 もともとの歌詞は、明るいものではありません。


 故郷へ帰れない。


 家族の声をもう聞けない。


 知らない土地で死んでも、どこで死んだのか故郷へ伝わらない。


 名前さえ帰らないかもしれない。


 そんな歌です。


 ところが、ピレウスの酒場の男はかなり酔っています。


 同じ節で歌っていたのに、途中から勝手に言葉を変えました。


『でも俺は帰ってきた』


 周囲から声が返ります。


『いまここで歌ってる』


 さらに続けます。


『店には可愛い姉ちゃんもいる』


 酒場で笑い声が起きました。


『酒もうまい』


 もっと大きな笑い声です。


 アナスタシアさんも歌いながら笑ってしまいました。


「そこ、違います」


「即興だね」


「かなり酔っていますね」


 悲しい歌を、正式に明るい歌へ作り直したわけではありません。


 今夜の酒場で、酔っぱらいが目の前にあるものを勝手に歌詞へ入れています。


 ただ、


『でも俺は帰ってきた』


 そこだけは、酒場にいる帰還者たちにとって本当のことでした。



          ◇ ◇ ◇



『ちょっと貸しな』


 別の声が入りました。


 隣にいたおばさんが、男からマイクを取ったようです。


『何だよ、俺の歌だぞ』


『元の歌を忘れてるだろ』


 また笑い声がします。


 今度はおばさんが歌い始めました。


 同じ旋律です。


 でも歌詞が戻りました。


 帰れない。


 故郷の人は、自分がどこにいるか知らない。


 死んでも知らせる人がいない。


 海の向こうへ名前だけを送ることもできない。


 さっきまでの酒場の笑いが、少しだけ小さくなりました。


 アナスタシアさんも、今度は笑わずに合わせています。


「……これです」


 エレナさんが妹を見ました。


「知っている歌詞?」


「うん。この歌詞」


 アナスタシアさんが北アフリカで聞いていたのは、こちらでした。


 ところどころに入るナーロッパ語以外の言葉も同じです。


 どろちゃんは意味が分かります。


 だから説明を求めませんでした。


 ラジオの音をそのまま聞きます。


 絶望的な歌詞です。


 それでも今、この歌を歌っている人たちはピレウスの酒場にいて、酒を飲み、隣の人からマイクを奪われ、笑われています。


 アナスタシアさんもレスボス島の別荘で、同じ歌を歌っています。


 歌詞のとおりには終わらなかった人たちが、元の歌詞を覚えたまま歌っています。


 どろちゃんは最後まで黙って聞きました。



          ◇ ◇ ◇



 歌が終わると、酒場のざわめきが戻りました。


 放送員が今日紹介したウゾについて、通信販売の注文先を読み上げます。


 店名。


 注文を送る先。


 代金の払い方。


 遠くの町にいても、番組で聞いた酒を取り寄せられます。


 そして最後です。


「『港の酒場を訪ねて』、今日はピレウス港の酒場からお送りしました」


 少し間がありました。


「次回は、メッシーナ港の酒場からお送りします」


 短い音楽が入り、番組は終わりました。


「次はシチリアだね」


「今度は何を飲んでいるのでしょうね」


 フランソワさんが言いました。


 エレナさんとアナスタシアさんも笑っています。



          ◇ ◇ ◇



 続いてニュースです。


 放送員の声が変わりました。


「日本からヨーロッパへ到着し、国際連盟への加入を検討しているショーグン一行についてお伝えします」


 どろちゃんが顔を上げました。


 今朝まで一緒にいた人たちです。


「ショーグン一行は、本日エルレンフェルトを鉄道で出発し、パリへ入りました。今夜はヴェルサイユ宮殿で開かれる晩餐会へ出席する予定です」


「もうニュースになってる」


 どろちゃんが言いました。


 現地から届いた説明が続きます。


 日本から来た男性の多くは、サムライと呼ばれる人たちです。


 サムライは全員が事実上の武官で、腰には刀を帯びています。


 ヨーロッパ人から見ると、身体はたいへん小柄です。


 成人男性でも、ヨーロッパの女性ほどの背丈に見える人が多くいます。


 髪形も独特です。


 さらに衣服も違います。


「男性も、こちらから見るとキュロットとスカートを合わせたような、非常に幅の広い衣服を着ています」


 袴のことです。


 ラジオの向こうでは、見慣れない衣服をヨーロッパ側の言葉で説明しています。


 どろちゃんには、今朝ホームで見送った姿そのものです。


「詳しくは、このあとのニュース解説でお伝えします。ショーグンとはどのような地位なのか。サムライはなぜ刀を帯びているのか。髪形と衣服にはどのような意味があるのか。日本が国際連盟への加入を検討している背景と合わせて説明します」


 ニュースは次の項目へ移りました。


 朝、エルレンフェルトで、


「ほんなら、さえなら」


 と送り出した人たちが、その日の夜にはオランダのラジオで紹介されています。


 レスボス島まで来て聞くと、少し変な感じがしました。



          ◇ ◇ ◇



 しばらくして、エレナさんとアナスタシアさんが帰る時間になりました。


 どろちゃんは、そこで思い出しました。


「あ、渡すものがあった」


 荷物の中から、二人へ渡すつもりでエルレンフェルトから持ってきたお土産を出します。


「これ、エレナさんとアナスタシアさんに」


「私たちに?」


「うん。届けるつもりで持ってきたの」


 二人へ手渡しました。


「ありがとう。それと、庭のお野菜もおいしかったよ」


「また食べてください」


「うん」


 玄関まで見送ります。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 姉妹は自宅へ帰っていきました。



          ◇ ◇ ◇



 ラジオを切ると、部屋が急に静かになりました。


 さっきまでピレウスの酒場がありました。


 そのあとにはパリとヴェルサイユのニュースがありました。


 今は、レスボス島の小さな家です。


 戸締まりを確認し、二人は寝室へ入りました。


 カーテンを閉めます。


 ぴったり重ならなかったところから、細い月明かりが入っています。


 床を少し照らし、ベッドの端にも届きました。


 どろちゃんとフランソワさんはベッドへ入り、その光をしばらく見ていました。


「今日はいっぱい遊んだね」


「はい。よく遊びました」


「おやすみ、フランソワさん」


「おやすみなさい、お嬢様」


 月明かりは、カーテンの隙間からそのまま入っています。


 二人は静かな海辺の家で眠りました。






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