191 貴族令嬢は、レスボス島へ休暇に行きます。
第191章 貴族令嬢は、レスボス島へ休暇に行きます
吉宗さんたちを乗せた臨時列車が、エルレンフェルトのホームから見えなくなりました。
今朝までなら、どろちゃんの仕事はここで次の予定へ続きます。
今日は違います。
「行こうか」
「はい、お嬢様」
どろちゃんとフランソワさんは駅を出ました。
これから休暇です。
行き先も決まっています。
レスボス島のエレソス。
以前、どろちゃんが買った、二人で泊まるくらいの小さな家です。
ガラタの家のように鉄道Officeも商館も入っていません。仕事をするための家として買ったものでもありません。
どろちゃん自身が、
「こっちは仕事しない家だから」
と言って選んだ別荘です。
◇ ◇ ◇
大きな格納庫では、チェブラーシカが待っていました。
休暇だからといって、点検を減らすことはしません。
どろちゃんとフランソワさんは、脚、タイヤ、操縦面、フラップ、吸入口、外板を見て回り、操縦席へ入って計器と各系統も確認しました。
目的地の滑走路が短いことは分かっています。
天候と経路だけでなく、離陸時の重量、レスボス島へ着くころの燃料残量、その重量で使える着陸距離まで出発前に確認してあります。
今回は燃料を普段より多めに積みました。
レスボス島へ着いてから、すぐに燃料を探し回らなくても動ける余裕を持たせます。
その分だけ重くなるので、積荷の位置も見ます。
食料品。
寝具。
着替えや身の回りの物。
そして、いつもの人力荷車。
「これも持っていこう」
「向こうで荷物を運ぶには便利ですね」
後部ランプから人力荷車を入れ、動かないよう固定しました。
もう一つ、大きな荷物があります。
タドポール君です。
翼を広げたままではチェブラーシカの貨物室へ入りません。
もともとタドポール君は、左右の主翼を外して運べるように作られています。どろちゃんは主翼の結合部と操縦系統を確認しながら、運搬用の状態まで分解しました。
左右の主翼。
胴体。
外した部分と固定具。
結合部やケーブルを傷めないよう保護し、どれがどこへ戻るのか分かる状態でまとめます。
ジェットエンジンの中まで分解するような作業ではなく、最初から想定されている運搬のための分解です。
貨物室では胴体と主翼が飛行中に動かないよう、それぞれ別に固定しました。
「これで大丈夫」
フランソワさんも固定を一つずつ確認します。
「はい。人力荷車も動きません」
最後に後部ランプを閉じます。
乗るのは、どろちゃんとフランソワさんの二人だけです。
◇ ◇ ◇
後部ランプを閉じ、ロックを確認します。
どろちゃんとフランソワさんは操縦席へ入りました。出発前に出してある重量と重心位置を、もう一度手元の紙で確認します。燃料は多めですが、タドポール君、人力荷車、食料、寝具の位置まで含めて許容範囲に収まっています。
左エンジン。
右エンジン。
順に始動します。
回転が落ち着くまで待ち、油圧、温度、発電、警報表示を見ます。
「操縦系統」
どろちゃんが操縦輪とペダルを動かしました。
「自由。左右とも正しい方向です」
「フラップ」
「離陸位置」
「トリム」
「離陸位置」
「スポイラー」
「格納」
「脚」
「下げ、ロック」
「ブレーキ」
「作動確認」
「飛行計器」
「確認」
「警報表示」
「なし」
地上走行を始めます。
空荷のときより、動き始めの重さがはっきり分かります。それでも左右のエンジンはそろっていて、ブレーキも操向も問題ありません。
滑走路手前で一度止まりました。
吹き流し。
滑走路。
進入側の空。
人と車両。
どろちゃんが目で確かめ、フランソワさんも反対側まで見ます。
「風」
「ほぼ正面。問題ありません」
「前方」
「人、車両、障害物なし」
滑走路へ入ります。
中心線へ機首を合わせました。
どろちゃんはブレーキを保持したまま、左右のスロットルを前へ出します。
二つのD-36が大きな音を立て、回転が上がります。
左右の回転。
温度。
油圧。
推力。
異常がないことを確認してから、ブレーキを離しました。
チェブラーシカが動き出します。
速度計の針が上がります。
「速度計、動いています」
フランソワさんが読みます。
機体が速くなるにつれて、方向舵の効きがはっきりしてきます。どろちゃんは中心を保ち、余計な修正を入れません。
今日の重量に合わせて出してある離陸速度へ近づきます。
「前脚」
どろちゃんが操縦輪を少し引きます。
前脚が軽くなり、続いて主脚が滑走路を離れました。
「上昇」
「確認」
「脚、上げます」
脚が格納されます。
低いまま無理に機首を上げず、まず速度を増します。滑走路の端を越え、上昇率が安定しました。
「脚、格納確認」
「確認」
「フラップ、一段戻し」
「戻します」
さらに加速します。
「フラップ、格納」
「格納します」
翼が巡航側の形へ戻りました。
「左右、格納確認」
「確認」
「エンジン、上昇出力へ」
「戻します」
轟音の質が少し変わります。
「左右正常。温度、油圧も正常です」
離陸後の確認を終えるころには、エルレンフェルトの町と滑走路が後ろへ小さくなっていました。
今朝、吉宗さんたちを送り出したばかりです。
今度は自分たちが出かけます。
目的地は最初からレスボス島です。
経路も燃料も決めてあります。
巡航に入ると、どろちゃんは出発時刻、燃料消費、現在位置を順に確認しました。フランソワさんも地図へ時刻を書き込みます。
予定した経路から大きく外れる必要はありません。
天候も安定しています。
飛行はそのまま順調に続きました。
やがてエーゲ海が広がり、レスボス島が見えてきました。
◇ ◇ ◇
問題になるのは、最後です。
エレソス側に用意してある滑走路は、チェブラーシカが使えるぎりぎりに近い長さです。
以前にも使っています。
使えることは分かっています。
それでも、今日の着陸重量は以前と同じではありません。
どろちゃんは残っている燃料量から着陸時の重量を出し、出発前に計算した数字と照らしました。タドポール君、人力荷車、食料、寝具はまだ全部後ろにあります。
「重量、予定の範囲です」
「うん」
すぐには降りません。
一度滑走路の横を通り、地面を見ます。
大きな石。
水のたまった場所。
人や家畜。
滑走路の両端。
着陸をやめたときに抜ける方向。
吹き流しも見えます。
「風は?」
「ほぼ正面。少し左です」
「使える長さは?」
「全部使えます」
どろちゃんは上空でもう一度大きく回りました。
着陸前の確認に入ります。
「脚」
「下げます」
脚が降ります。
「下げ、ロック確認」
「フラップ」
「着陸位置へ」
フラップが大きく展開します。
チェブラーシカは、ここから急に静かにはなりません。
翼の上に載った二つのエンジンの排気を、展開したフラップの上へ流して低速の揚力を稼ぐため、進入中もかなりの出力を残します。
速度を落としているのに、海岸へ響く音は大きくなりました。
「速度」
「安定しています」
「脚」
「下げ、ロック」
「フラップ」
「着陸位置」
「警報」
「なし」
「滑走路」
「クリア」
短い最終進入です。
どろちゃんは滑走路の手前側に決めておいた接地点を見続けます。
高すぎれば余ります。
低すぎれば手前へ落ちます。
速度を落としすぎてもいけません。
エンジン出力を細かく動かし、降下率を合わせます。
滑走路端を越えました。
わずかに機首を起こします。
主脚が接地しました。
「接地」
前脚も下ろします。
どろちゃんはすぐ減速操作へ移りました。
スポイラー。
リバース。
ホイールブレーキ。
使えるものを順に使います。
二つのエンジン音が変わり、機体がはっきり前へ引かれるように減速しました。
滑走路の終端が近づきます。
「速度、落ちています」
リバースを戻します。
最後はブレーキで速度を殺します。
歩くほどの速さになり、完全に止まりました。
滑走路の端は近いままです。
たっぷり余った着陸ではありません。
それでも、上空で確認した使える範囲の中に機体全部が収まっています。
どろちゃんはブレーキを保持したまま、計器を見ました。
左右のエンジン。
油圧。
警報。
異常なし。
「やっぱり、チェブラーシカは偉いね」
「今日も計算どおりでしたね」
どろちゃんは少し笑いました。
滑走路を外して駐機できるところまでゆっくり動かし、そこでエンジンを止めます。
回転が落ちきってから外へ出ました。
脚とタイヤ。
外板。
吸入口。
それから、短い着陸で大きな力を受けた主脚まわりも見ます。
地面には車輪の跡が残っていますが、深く沈んだところはありません。
「大丈夫」
確認を終えてから、後部ランプを開けました。
◇ ◇ ◇
最初に人力荷車を降ろします。
その荷車へ、別荘で使う食料品、寝具、着替えなどを載せました。
「これがあると楽だね」
「持ってきてよかったですね」
どろちゃんとフランソワさんの二人で、押したり引いたりしながら海辺の道を進みます。
大きなチェブラーシカは滑走路の方へ残り、二人の前には小さな別荘があります。
着いたのは昼を少し過ぎたころでした。
家を開け、持ってきた荷物を中へ入れます。
寝具を置き、食料を台所へ運び、今日使う物だけを出しました。
それが終わると、どろちゃんは海の方を見ました。
「浜へ行こう」
「行きましょう」
休暇なので、急いで次の仕事を始める人はいません。
◇ ◇ ◇
浜辺へ出ると、二人は波打ち際を歩きました。
今日は貝殻を拾うためではありません。
砂の中にいる、生きた二枚貝を探します。
アサリに似た、小さな海の貝です。
「いた」
どろちゃんが砂から一つ取り出しました。
殻を開けて乾いたものではなく、中にちゃんと生き物がいます。
少し離れたところでフランソワさんも見つけました。
「こちらにもいます」
「ライン川のと全然違うね」
「海ですからね」
形も殻の色も違います。
どろちゃんは拾うたびに見比べました。
ライン川の岸で見る淡水の貝と、海の砂の中で暮らす貝。
どちらも二枚の殻を持っていますが、同じものではありません。
二人は夕食に使う分だけ集めました。
別荘へ戻ると、海水を入れた容器へ貝を入れます。
「砂、吐いてね」
すぐ料理すると、食べたときに砂を噛みます。
しばらく置いておくと、貝は水の中で砂を吐き始めました。
◇ ◇ ◇
貝に砂を吐かせている間にも、まだ外は明るいままです。
どろちゃんは持ってきた別の荷物を出しました。
1MHzのラジオです。
エルレンフェルトでネーザーランド放送を聞いている受信機と同じ系統のものです。
ただし、レスボス島からオランダの放送を聞くなら、家の中の短い線だけでは心細い。
「今のうちに張ろう」
二人は長いアンテナ線を持って外へ出ました。
別荘の近くから丘の方へ線を延ばし、近くの丘にある木まで使って、ロングワイヤーアンテナを張ります。
夜になってから暗い斜面を歩いて張るより、明るいうちに済ませた方が安全です。
家へ戻って受信機まで線を引き込み、接続できるところまで準備しておきました。
「これで夜に聞けるかな」
「時間が遅くなれば、かなり違うと思います」
「8時くらいから試そう」
アンテナはそのままにして、夕食の準備へ戻ります。
◇ ◇ ◇
庭には、管理人さんが育ててくれていた野菜があります。
留守の別荘の庭を荒らさず、二人が来たときに食べられるようにしてくれていました。
「これ、使っていいよね」
「そのために育ててくださっていると思います」
食べごろのものを少しずつ採ります。
庭で採った野菜は洗って、サラダにしました。
浜で拾った貝も、十分に砂を吐いています。
殻を洗い、火にかけます。
口が開き始めると、貝の香りが台所へ広がりました。
「食べられるね」
「はい。良い匂いです」
貝の煮汁も使います。
茹でたスパゲッティと合わせて、ボンゴレにしました。
どろちゃんたちにとって、貝料理そのものは珍しくありません。
エルレンフェルトでは真珠養殖をしています。
真珠を取り出す季節になると、町には一度にたくさんの貝が出ます。
その時期には、貝のスープを売る屋台が町のあちこちに出て、食堂にも貝料理が増えます。
真珠だけ取って貝を捨てる町にはなりませんでした。
でも、今日の貝は真珠養殖の貝ではありません。
レスボス島の浜で、自分たちが砂から拾ってきた小さな海の貝です。
「真珠の貝より、スパゲッティにちょうどいいね」
「小さいので、麺と一緒に食べやすいですね」
庭の野菜のサラダも並べます。
買ってきた食料だけで作った夕食ではなくなりました。
海から一皿。
庭から一皿。
二人で食べました。
◇ ◇ ◇
夕食の片付けが終わると、お風呂です。
いつものように、どろちゃんとフランソワさんは二人で入りました。
浜辺を歩いたので、砂と潮をきれいに洗い流します。
湯につかって落ち着くと、どろちゃんはフランソワさんの顔を見ました。
「やっぱり変わらないね」
「お嬢様も変わりません」
暦の上では年月が進んでいます。
それでも二人の身体には、歳を取った痕跡がほとんど増えません。
しみがない。
皺もない。
今日も浜と庭を歩いたのに、虫刺されの跡も見当たりません。
ニキビもありません。
どろちゃんは自分の腕も見ました。
「何もない」
「本当に、何も残りませんね」
肌の新陳代謝が止まっているわけではありません。
身体を洗えば普通に汚れも落ちます。
それでも外見に年月が積み重ならない。
空を飛び続け、高いところへ長い時間いた影響が積み上がっているらしいことは、もう二人とも知っています。
だから、ときどきこうして確認します。
「今回も同じ」
「はい」
それ以上は考えず、今日は休暇の夜です。
お風呂から上がったころには、外はずいぶん暗くなっていました。
昼間に丘まで延ばしたロングワイヤーアンテナは、窓の外の暗闇へ消えています。
そろそろ、1MHzが遠くまで届きやすくなる時間です。




