190 貴族令嬢は、吉宗さんをフランスへ送り出します。 エルレンフェルトで晩餐会もします。
第190章 貴族令嬢は、吉宗さんをフランスへ送り出します
旧会議棟での昼食が終わると、夕方までは自由時間になりました。翌日からはフランス側の日程が続くため、エルレンフェルトで自由に動ける時間をここにまとめて取ってあります。
日本側にはナーロッパ語を話せる人が何人か同行していました。買い物や町歩きなら通訳を1人お願いすれば足ります。ホテルの周囲を歩く人もいれば、ニュータウンをもう一度見に行く人もいて、その中には水玉船に乗ってストラスブールまで足を延ばした人たちもいました。
ストラスブール方面の水玉船は本数が多く、昼食のあとから出かけても夕食までに戻れます。夕方、ホテル棟へ戻ってきた家臣の1人は、同じく出かけていた仲間を見つけるなり、船の話を始めました。
「帆がなかったでしょう。あれで上りも下りも同じように走るんですから、便利なものですな」
「しかも、待っていると次が来る。船というより、道を走る乗合のようでした」
そばで聞いていた別の家臣も話へ入りました。
「淀川にあれだけ本数を出せたら、京と大坂の往来がずいぶん変わりますな。今は京が都へ戻っていますし、荷も人も増えるでしょう」
「風を待たずに上れるのが大きいです。荷だけでなく、役所の者を動かすにも使えそうです」
遊びに行ってきたはずなのに、戻るころには淀川海運の話になっていました。
奥様方の方も、ストラスブールで見た店や衣類、菓子の話をしています。夕食会の支度が始まると、それぞれ部屋へ戻り、今度は洋装へ着替えました。紀州側はVOGとの付き合いが長く、洋装に慣れた人もいます。髪もドレスに合わせて整えられ、夕方のホテル棟には、昼間とはかなり違う姿の日本側一行が集まりました。
どろちゃんたちも着替えています。今夜は吉宗さんと日本側一行を正式に迎える歓迎夕食会なので、どろちゃんも格式のあるドレスに着替えました。フランソワさんも夕食会用の装いになり、お父様とお母様も会場へ入りました。
会場には、今夜のためにフランス側から来ているトルシー侯と、いつもの秘書さんもいました。
「吉宗様、ご紹介いたします。こちらがトルシー侯です。フランス国王陛下のご意向を受けて、国政の実務を取りまとめておられます。明日からのフランス国内のご案内も、こちらで手配してくださいます」
どろちゃんが紹介すると、トルシー侯が吉宗さんへ挨拶しました。
「明日からは、フランス側でお預かりいたします。ご覧になりたいものがございましたら、予定の途中でもお申し付けください」
「よろしくお願いいたします。こちらも、見たいものが増えるかもしれません」
吉宗さん自身も簡単なナーロッパ語なら使えます。語彙や文法の量は、現代の高校生が学校で外国語を学んだ程度に近く、日常のやり取りなら自分で話せました。細かな制度や外交の話では日本側の通訳が入り、その方が誤解も減ります。
トルシー侯を今夜から呼んだのには、もう1つ理由がありました。ヴェルサイユで行う歓迎会の式次第を決める前に、日本側一行が洋式の食事や舞踏にどの程度慣れているか、実際に見てもらうためです。
エルレンフェルト側は、自分たちらしい夕食会を用意しました。ヴェルサイユが本気で歓迎会を開けば、建物も装飾も人数も楽団も、こちらとは比較にならないほど派手になります。今夜の日本側一行の様子をトルシー侯に見てもらえば、その観察をヴェルサイユの式次第へそのまま反映できます。
夕食はフルコースです。料理の組み立てや給仕はフランス寄りで、食材と味付けはライン川沿いらしく、少しドイツ側へ寄せてあります。
最初に出たのは、燻製の鱒と薄く切ったハムを使った小さな前菜でした。続いて澄んだスープ、白ワインとバターで仕上げた川魚が出ます。肉料理では仔牛と鹿肉を使い、発酵させたキャベツやシュペッツレが添えられました。ソースはフランス料理の作り方ですが、皿の上にはエルレンフェルトの日常に近いものがかなり残っています。
「昼とは、ずいぶん違いますな」
昼に旧会議棟の共通ランチを食べた家臣が、同じ卓の人へ小声で言いました。
「昼は仕事の飯で、夜はこちらですか。使い分けが分かりやすい」
「毎日これでは、仕事にならんでしょう」
隣の家臣がそう返すと、その奥様が笑いました。
「あなたは毎日でも食べるでしょう」
「食べるだけなら」
少し離れた席では水玉船の話が続き、吉宗さんもそこへ加わりました。
「今日、ストラスブールまで行ってきたそうですね」
尋ねられた家臣は姿勢を少し正して答えました。
「はい。水玉船を使いました。帆がないのに上りでも速さが変わりにくく、何より便が多いのが便利でございました」
「淀川のことを考えていたのではないか」
「途中から、皆その話になりました」
吉宗さんはその返事を聞いて笑いました。
「遊びに出ても、それか」
「便利なものを見ると、どうしても」
トルシー侯は会話へ無理に割り込まず、ときどき秘書さんと短く言葉を交わしていました。誰が吉宗さんへ先に話しかけ、誰が返答を待ち、夫婦や家臣同士がどういう距離で話すのかも見ています。ヴェルサイユでは席順から入場順、誰を誰に紹介するかまで決める必要があります。書面だけで日本側の身分関係を読むより、今夜の方がずっと早いようでした。
料理はチーズと果物へ進み、最後にはクグロフを含む焼き菓子が並びました。ライン沿いの白ワイン、赤ワイン、ビールも出ています。食事の最初は少し硬かった会場も、皿が進むにつれて話し声が増えていきました。
◇ ◇ ◇
食後、どろちゃんはアコースティックピアノの前へ座りました。
今夜はショパンとシューマンを中心にしています。曲の来歴を説明することはせず、まずピアノだけを聞いてもらいます。柔らかい曲から始め、少し明るい曲を挟みながら何曲か続けると、食事のあとの話し声が少しずつ小さくなりました。
ピアノを終えると、どろちゃんはヴァイオリンへ持ち替えます。こちらはチャイコフスキーを中心に数曲選び、そのあと以前から何度も演奏している曲へ移りました。
バッハの《チャッコーナ》。続いて、パガニーニの《24の奇想曲》第24番です。以前の演奏を知っているエルレンフェルト側の人たちは、曲が始まると手元を見る人もいます。日本側では初めて聞く人が多く、速いところへ入ると、家臣の1人が隣の人へ何か言いかけて、そのまま口を閉じました。
「弓が、あんなに動くものなのですね」
曲が終わると、奥様方の1人も手元を見ながら続けました。
「手の方も、途中から目で追えなくなりました」
「私もです」
どろちゃんは少し休むと、もう一度アコースティックピアノへ戻りました。今度はヨハン・シュトラウスのワルツを数曲です。
最初の曲が始まると、フランス側の人たちは自然に舞踏の準備へ入りました。ところが、トルシー侯の秘書さんが日本側へ椅子を増やすよう係へ声をかける前に、紀州側の夫婦が立ち上がります。続いて別の家臣夫妻もフロアへ出ました。
「踊られるのですね」
秘書さんが少し驚くと、フランソワさんが答えました。
「VOGとの付き合いがありますから、紀州の方はかなり慣れています」
ワルツが進むと、日本側からも慣れた人が次々に輪へ入り、武家の奥様方もドレスの裾を扱いながら相手と組みました。ナーロッパ側と日本側が途中で組み替わることもあり、舞踏より歓談を好む人たちはワインを飲みながらその様子を見ています。
「日本からのお客様は、舞踏を控えめにした方がよいかと思っておりました」
秘書さんがトルシー侯へ小声で伝えると、トルシー侯は踊っている人たちを見ながら答えました。
「その心配は要らないようだね。ヴェルサイユの方にも伝えておこう」
トルシー侯はそれだけ答えると、また会場を見ました。奥様方がどの程度長く踊るか、吉宗さんが誰と話しているときに通訳を使うか、酒が入ったあとも席順の感覚が崩れないかまで、一晩でかなり分かったようです。
ワルツが数曲続いたあと、どろちゃんはもう一度ヴァイオリンを取りました。最後はシューマンの《トロイメライ》です。さっきまでフロアにいた人たちも席へ戻り、ヴァイオリンの旋律を聞きました。ピアノで弾くことの多い曲ですが、どろちゃんは今夜の最後をヴァイオリンで締めます。
最後の音が消えると、一拍ほど静かな時間があり、それから拍手が広がりました。
演奏のあとは、そのまま歓談が続きました。ワインやビールを手にした人たちが卓を移り、昼間に見た町や水玉船、翌日から見に行きたいものについて話します。ナーロッパ語のできる日本人があちこちで通訳に入り、吉宗さん自身も短いやり取りなら直接答えていました。
「明日からフランスでしょう。どこを一番見たいのです?」
フランス側の役人に尋ねられた家臣は、少し考えてから答えました。
「町も見たいですが、水の使い方を見たいですな。運河や川の船も。今日、船を見たばかりなので余計に気になります」
「私は市場を見たいですね。どこから何が入ってくるのかを見れば、その町の大きさが分かります」
別の家臣が続けると、奥様方からは違う希望が出ました。
「私は布のお店をもう少し見たいです。今日のストラスブールでも、もっと見たかったです」
「それなら、パリではもっと時間が要るでしょうね」
通訳をしていた日本人も笑います。こうして話が続くうちに、夜もかなり更けていました。
普通の夜会なら、ここからさらに遅くまで続くところです。今夜は料理の途中から酒も入り、翌朝からフランス側の日程が始まります。日付が変わるころには、歓迎夕食会を終えることになりました。
吉宗さんたちはホテル棟の自室へ戻り、家臣や奥様方もそれぞれの部屋へ向かいます。会場の片付けが始まるころ、残ったのはどろちゃんとフランソワさん、トルシー侯と秘書さん、それに翌日の手配を確認する数人だけになりました。
◇ ◇ ◇
「明日は10時ですね」
どろちゃんが確認すると、トルシー侯の秘書さんが予定表を開きました。
「はい。臨時列車はエルレンフェルトからパリ東駅まで直通で手配してあります。朝食はこちらのホテルで済ませ、そのあと駅へ移動します」
「私はここでお見送りします。フランスの中はお願いいたします」
「承りました」
どろちゃんは今夜の席や舞踏の様子を思い出しながら、最後に身分関係を確認しました。
「身分の順番とか、分かりにくくなかったですか?」
トルシー侯は少し笑って答えました。
「今夜でだいたい分かりました。吉宗公ご夫妻を中心に、どなたを先にご案内すべきか、どの方々を同じ席に置くと自然かも見当がついております。ヴェルサイユではこちらで整えます」
「よかったです」
どろちゃんは本当に安心しました。フランス国王の希望を聞き、それを役所や外交の実務へ落として国を動かしている人です。夕食会で数時間見ただけでも、誰が誰へ一歩引き、誰が家臣の中で意見をまとめ、夫婦がどの位置にいるのかをかなり読み取っていました。
「舞踏の方も、予定を変えずに済みそうです」
秘書さんも予定表を見ながら続けました。
「むしろ、少し増やしてもよいくらいでしょう」
「ヴェルサイユなら、こちらよりずっと派手になりますよね」
「もちろんです」
トルシー侯が即答したので、どろちゃんも笑いました。 翌日の集合時刻、荷物の扱い、通訳の配置、パリ東駅で迎える人まで確認すると、その日の引き継ぎは終わりました。
◇ ◇ ◇
翌朝、10時発の臨時列車は、すでにエルレンフェルトのホームへ入線していました。客車の荷物室には日本側一行の荷物が積まれ、フランス側の係員が名簿と数を確認しています。
吉宗さんたちはホテルで朝食を済ませてから駅へ来ました。トルシー侯と秘書さんも同じホテルで朝食を取り、そのまま一緒にホームへ出ています。
日本側にはナーロッパ語を話せる通訳がいるため、ここからはフランス側だけで行動できます。吉宗さん自身も買い物や移動、普通の会話ならかなり自分でこなし、込み入った話だけ通訳へ任せる形です。どろちゃんはエルレンフェルトのホームで見送ります。
列車の扉が開き、家臣や奥様方が順番に乗り始めます。昨日ストラスブールまで水玉船で出かけた家臣が、ホームの端から川の方を見ていました。
「帰るまでに、もう一度あの船に乗りたいですな」
「今度は遊びではなく、淀川へ持って帰るつもりで見るのでしょう」
「もう、そのつもりです」
隣にいた家臣が笑う横で、トルシー侯は乗車口の前で吉宗さんを待っていました。ここでは、覚えてきた紀州の言葉を使います。
「つれもていこら」
吉宗さんは一瞬目を丸くし、それから笑って応じました。
「そこまで覚えられましたか。では、参りましょう」
2人が客車へ乗り、秘書さんも続きます。最後の確認を終えた係員が扉を閉めました。
どろちゃんはホームに残り、窓際へ来た吉宗さんたちへ手を振りました。
「ほんなら、さえなら」
窓の向こうで、吉宗さんが笑って手を上げました。
10時。臨時列車はゆっくりホームを離れ、パリ東駅へ向かって走り始めます。昨日まではどろちゃんがエルレンフェルトをご案内しました。今日からは、フランスの番です。




