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20貴族令嬢は王様に会います。 とつぜんイギリス国王(当時はGBではない)に呼ばれます

第二十章 貴族令嬢は王様に会います


 机の上へ、英国王室の印が付いた手紙が置かれました。


「ロンドン?」


 どろちゃんは、封を開ける前にお父様を見ました。


「王室からだ」


「召喚状?」


「召喚状ではない。招請状だ。こちらの領地に英国王の裁判権はない」


「では、行かなくてもいい?」


「文面を読んでから考えなさい」


 行かないつもりで聞いたわけではありません。


 手紙は急いで運ばれていました。

 ロンドンからドーバーまで馬で運び、海峡だけは郵便船で渡り、カレーからまた陸路を東へ。


 それでも、飛行機よりはずっと時間がかかります。


 ウィリアム三世が落馬しました。

 鎖骨を折りました。

 身体の何か所かにも傷があります。


 そのあと熱が上がり、咳が増え、傷の一部が腫れました。


 王室医師は、ロバート・フックが預かっていた薬を使いました。


 どろちゃんが一年前、英国の緊急用として置いてきた抗生物質です。


 薬を作った側の人間として、可能ならロンドンへ来てほしい。


 手紙には、そう書かれていました。


 どろちゃんは最後まで読みました。


「行きます」


「そうだろうな」


     ◇ ◇ ◇


 すぐには飛びませんでした。


 前回のロンドン行きで使った増槽を、もう一度タドポール君へ取り付けます。


 固定

 配管

 弁

 漏れ

 重心


 順番に確認します。


 薬箱も前回より大きくなりました。


 抗生物質

 保存用の包み

 計量器具

 培養に使う材料

 顕微鏡標本を作るための小物


 王様だけの分ではありません。

 ロンドン側に残す分もあります。


「二日ください」


 どろちゃんは、王室への返書にそう書きました。


 飛べば速いからといって、準備まで速くしてよいわけではありません。


 その日の夕方、天候を見ました。

 翌朝も見ました。


 タドポール君を一度外へ出し、増槽を入れた状態で燃料系統を確認します。


 水筒は操縦席から手の届くところへ固定しました。

 ビスケットは蓋のある小さな缶に入れます。


 飛んでいる途中で、袋を破って粉だらけにするつもりはありません。


 準備をしているあいだに、二通目の手紙が届きました。


 最初の手紙より薄い封筒です。


 熱は下がり始めた。

 呼吸は前日より楽になった。

 食事を少量取れた。

 夜も眠れている。


 それでも、予定どおり来てほしい。


「よかった」


 どろちゃんは、その手紙だけは一度読んで机へ置きました。


 最初の手紙は三度読んでいます。


 出発する日の朝には、もう一通届きました。


「ろばーとっち」


 今度はフックからです。


 最初の数行は、子爵令嬢へ送る手紙でした。


 突然の招請で長い旅をすることへの気遣い

 昨年の訪問への礼

 季節と航路への注意


 そこから先は、別の手紙のようになります。


 薬を最初に使った時刻

 次の投与までの間隔

 王室医師が数えた脈

 同じ時計で測った呼吸数

 同じ温度計で比較した発熱の変化

 咳の回数

 痰の量と色

 飲んだ水の量

 食べた物

 睡眠

 受け答え

 傷の腫れ

 傷から出た液の量


 どこまでが医師の観察で、どこからがフック自身の判断なのかも分けてあります。


 最後の数行になると、また子爵令嬢へ送る手紙へ戻りました。


 旅の安全を願うこと

 到着地で自分が待っていること

 無理に速度を上げないこと


「元気になってる」


 どろちゃんは、フックの字を見ながら言いました。


 一年前の手紙より、文字が揃っています。


 お父様も読みました。


「この人は、医者なのか」


「違うけど、測る人」


「それは分かる」


 手紙は、薬箱とは別の鞄へ入れました。


 すぐ出せるところです。


     ◇ ◇ ◇


 ロンドンまでの飛行は、前回と同じ道ではありませんでした。


 同じ町を通っても、風が違います。

 同じ海峡でも、雲の位置が違います。


 ただし、今回は途中で見物をしません。


 ロンドン側には到着予定の時間を知らせてあります。

 丘は、その時間だけ人と馬を遠ざけていました。


 白い布

 吹き流し

 警備兵

 馬車


 前回と同じように天幕もあります。


「見えた」


『前に来たところ』


「そう」


 どろちゃんは一度だけ上空から草地を確認しました。


 人はいません。

 馬車は端へ寄せてあります。

 風も大きく変わっていません。


 進入


 主輪が草へ触れます。

 少し走ります。


 停止


 天幕の近くに、一人、前よりずっとまっすぐ立っている人がいました。


「ろばーとっち」


 もちろん、外では言いません。


 ロバート・フックです。


 去年は椅子から立つだけでもつらそうでした。

 今日は自分で丘を歩いています。


 顔にも色があります。


 どろちゃんは操縦席を降りると、挨拶より先にそこを見ました。


「お元気そうで安心しました」


「去年よりは、ずいぶん」


 フックはタドポール君の方を一度見ましたが、今日は模型の話を始めませんでした。


「陛下も、手紙を書いた時よりよくなっています」


「歩けますか」


「歩いています。仕事もしています。医師たちが止める方に苦労しています」


 それを聞いて、どろちゃんはやっと笑いました。


 荷物を降ろします。

 薬箱だけは馬車へ。


 タドポール君は前回と同じように、警備付きの天幕へ入りました。


     *


 王宮へ行く前に、どろちゃんは着替えました。


 黄色い旅の服ではありません。

 宮廷へ出るためのドレスでもありません。


 黒い教授の服です。


 鏡を見ると、服だけは大学の先生に見えます。


 顔は十六歳でした。


 フックが迎えに来ます。


 今日は英国側で、フックがどろちゃんの付き添いです。

 法的な後見人ではありません。


 けれど、王室の廊下を十六歳の外国人教授が一人で歩くより、ロバート・フックが隣にいる方が、説明することが少なくて済みます。


 王に会う前に、まず医師たちと話しました。


 部屋には三人の医師と、一人の外科医がいます。

 机の上には記録が広げられていました。


 落馬直後の状態

 鎖骨の位置

 腫れ

 擦り傷

 裂けた皮膚

 その後の発熱

 咳

 痰


 大きな胸の損傷を疑う所見はありません。

 血を吐いたこともありません。

 呼吸の左右差も、いまは目立ちません。


 傷の一部は化膿しました。


 薬を使ったあと、熱は下がり、呼吸も落ち着き、傷の赤みも減っています。


 どろちゃんはフックの手紙と医師の記録を並べました。


「ここは同じですね」


 投与時刻を指します。


 次に、温度計の記録。

 その次に呼吸。


 質問は細かくなりました。


 最初に熱が下がったのは何時間後か。

 咳が減ったのはその前か後か。

 痰の色が変わった日はいつか。

 傷の膿が減ったのはいつか。


 医師たちは答えられないところを、答えたことにはしませんでした。


 そこは、どろちゃんが一番安心したところでした。


「では、会っていただきます」


 王室医師の一人が記録を閉じました。


「長くはしません」


「はい」


     ◇ ◇ ◇


 王様は寝台にはいませんでした。


 小さな執務室です。


 机には書類があります。

 片腕だけ、布で吊っています。


 どろちゃんが入ったとき、ウィリアム三世は椅子から立とうとしました。


 近くにいた人が止めました。


 王様は、そのまま座りました。


「あなたが、ドロテーヤ教授ですか」


「はい、陛下」


 声ははっきりしています。

 顔色も悪くありません。


 どろちゃんは医師から聞いたことを、目で確かめました。


 王様の方は、教授服の中の顔を少し長く見ています。


「昨年、十五歳だったと聞きました」


「もう十五歳じゃありません。十六歳です」


 一年分は大事です。


 王様は少し笑いました。

 笑うと肩へ響いたのか、すぐに顔を戻します。


「その薬には、ずいぶん助けられたようです」


 吊った腕をわずかに動かして、続けました。


「こちらには効いていないようですが」


「骨折には効きません」


 どろちゃんは、そこで自分の薬の効能を増やしませんでした。


 王様の机には、すでに仕事の書類が積まれています。

 医師が言ったとおりです。


「薬は、あなたが作ったものですか」


「私一人ではありません。研究所と工場の人たちが作っています。私は作り方と検査を見ています」


 王様は少しだけうなずきました。


「では、その人たちにも礼を伝えてください」


「伝えます」


 その先まで話を広げることはありませんでした。


 怪我人です。


 王様が歩けても、仕事ができても、鎖骨がつながったわけではありません。


 数分で面会は終わりました。


 どろちゃんは一礼して、フックと一緒に部屋を出ました。


 扉が閉まってから、少しだけ息を吐きました。


「本当に元気」


「だから、仕事をさせすぎないようにする方が大変なのです」


 フックは王室医師の方を見ました。


 医師は何も言いませんでした。


 否定もしませんでした。


     ◇ ◇ ◇


 本当の長い話は、別の部屋で始まりました。


 薬箱を開けます。


 王様用

 フック用


 包みを分けてあります。


 どろちゃんは王様の分について、残りの日数と投与間隔を確認しました。

 熱が下がったからといって、その場で全部やめるつもりはありません。


 フックの分は別です。


「先生のは、前と同じではありません」


 フックが包みを見ました。


「今は前ほど悪くありませんから」


「悪くなってから飲む?」


「抗生物質は、何でも予防のために飲む薬ではありません。これは必要になった時の分。こっちは栄養の方です」


 フックは説明書を先に取りました。


 去年と同じです。


 机の反対側には、フックが持ってきた紙があります。


「こちらも見てください」


 紙を一枚ずつ広げました。


 王様の傷から出た膿

 咳で出た濃い痰


 それぞれを顕微鏡で見たスケッチです。


 痰の方はいろいろなものが混じっています。

 細胞

 粘液

 小さな粒

 形の違うもの


 傷の膿は、もう少し見やすく描かれていました。


 小さな丸

 丸

 丸


 いくつかが固まって、房のようになっています。


 どろちゃんは紙を近くへ寄せました。


「この房みたいになっているもの、何度見ても同じ?」


 フックは、王の傷から作った標本については何度か見直したこと、痰の方は混じるものが多すぎて同じようには扱えないことを話しました。


「ですから、傷の方をもう一度見てほしかった」


 顕微鏡を出します。


 そのとき、部屋の端にいた薬剤師の助手が紙を受け取ろうとして、片手をかばいました。


 指先に布が巻いてあります。


 フックが見ました。


「その指は?」


「爪を切ったときに少し深く入りまして」


 布を外すと、爪の脇が赤く腫れています。


 大きな怪我ではありません。

 けれど、触れば痛そうです。


 少し膿もあります。


 どろちゃんとフックが、ほとんど同じところを見ました。


 助手の人は、それにも気づきました。


「……これも見ますか」


「少しだけ、いただいてよいですか」


 フックが聞きました。


 助手は自分の指を見てから、うなずきました。


 採るときは、やっぱり痛そうでした。


「ごめんなさい」


 どろちゃんが言うと、助手は笑いませんでした。


 痛いものは痛いのです。


 標本を作ります。


 フックは慣れた手で薄く広げ、必要な処理をして、顕微鏡へ置きました。


 どろちゃんが先に見ます。


「あった」


 交代します。


 フックはしばらく何も言わず、紙へ描き始めました。


 小さな丸が集まっています。


 王様の傷で見たものと、よく似ています。


「同じように見えます」


 医師の一人が言いました。


 どろちゃんは二枚を並べました。


「似ています。でも、見た目だけで同じものとは決めません」


「では?」


「育てて比べます」


 フックは、もう席を立っていました。


     *


 培養の話は、今日初めて出たものではありません。


 どろちゃんとフックは、一年前から手紙で何度もやり取りしています。


 見えた小さな生き物を、その場で見ただけで終わらせない。

 条件を揃えて増やす。

 別の場所から取ったものと比べる。


 そのための恒温槽も、すでにロンドンへ送ってありました。


 電気は使いません。


 水槽

 火

 温度計

 液体の膨張を使う調節部

 てこ

 空気を絞る小さな弁


 一定の温度を保つためだけに、部品がたくさんあります。


「面倒な機械」


 どろちゃんは、前に自分でそう呼びました。


 フックは気に入っています。


 王様の傷から取ったもの

 指先から取ったもの

 痰から取ったもの


 それぞれを、同じ条件の培地へ移します。


 さらに同じ試料を二つに分けました。


 薬を入れないもの

 抗生物質を一定量混ぜたもの


 札を付けます。


 採取した場所

 時刻

 培地

 薬の有無


 フックは最後に自分で全部読み直しました。


「明日?」


 医師が聞きました。


「まだ早いと思います」


 どろちゃんは恒温槽を見ました。


「中一日置いて、もう一度集まりましょう」


 その日の会合は、そこで終わりました。


     ◇ ◇ ◇


 翌日は、培養を待つ日になりました。


 何もしない日にはなりませんでした。


 昼前、フックが迎えに来ました。


「培養は、今日はまだ触りません」


 それなら何をするのかと、どろちゃんが薬箱を置いたまま待っていると、フックはグレシャム・カレッジへ行くと言いました。


「王立協会の会合があります。あなたにも来てもらいます」


 どろちゃんは、少し嫌な予感がしました。


 講演ではありませんでした。


 グレシャム・カレッジには、前に会った人が何人もいます。

 ニュートンもいました。


 どろちゃんの名前が正式に読み上げられます。


 飛行機

 光学

 薬品

 顕微鏡

 培養


 王の治療に使われた薬のことも、すでに知られています。


 問題は、研究内容ではありませんでした。


 外国人です。

 女性です。

 十六歳です。


 三つとも、普通の会員候補にはありません。


 王室と協会の側で、そこを先に片づけてありました。

 女性であることと、英国で生まれていないことだけを理由に排除しないための特例が作られます。


 フックが推薦しました。

 それだけではありません。

 何人かが名前を連ねています。


 どろちゃんは、自分の席へ座って待ちました。


 投票は、本人が話している間にはしません。


 しばらくして呼び戻されました。


「選ばれました」


 フックが言いました。


「今日?」


「今日です」


 どろちゃんは、もっと長くかかると思っていました。


 署名をします。


 ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト


 これで、ロンドンへ来たときの肩書きに、王立協会会員が一つ増えました。


 その日の午後、どろちゃんは恒温槽を見に行きました。


 まだ開けません。


     ◇ ◇ ◇


 中一日


 同じ部屋へ、同じ人たちが集まりました。


 恒温槽から培地を出します。


 最初に、王様の傷から取ったもの。


 薬を入れていない方には、小さな集落がいくつも育っています。

 白っぽいものの中に、黄色味のあるものが目立ちます。


 抗生物質を混ぜた方は、同じようには育っていません。


 次に、指先。


 こちらも似ています。


 薬を入れない方には、黄色味のある集落。

 薬を入れた方では、ずっと少ない。


「同じ色です」


 誰かが言いました。


 フックは、色だけでは決めませんでした。


 それぞれの集落から少し取ります。

 新しい標本を作ります。


 顕微鏡の中には、また丸いものが集まっていました。


 葡萄の房のようです。


 王様の傷

 指先の傷


 別の人

 別の場所


 それでも、よく似たものがいます。


「黄色い、葡萄の房みたいな球ですね」


 どろちゃんは、二枚のスケッチを並べました。


 頭の中では、別の名前を知っています。


 黄色ブドウ球菌


 けれど、その名前を知っていることと、この場の観察から同じものだと言えることは別です。


「これだけで、全部同じ種類だとはまだ言いません。もっと別の傷でも見たいです」


「しかし、薬を入れた方では増えていない」


 王室医師が培地を持ち上げました。


「はい。それは、かなり大事です」


 どろちゃんは、薬なしと薬ありを隣へ置きました。


「傷そのものを治しているのは、この薬ではありません」


 何人かが顔を上げます。


「人の体には、傷を閉じて、自分で治していく力があります。熱が出たときも、身体は何もしないわけではありません」


 そこで一度、黄色い集落の方を見ました。


「でも、その間にこちらが速く増えすぎると、体の方が追いつかなくなります」


 薬を入れた培地を指します。


「全部を一度に消せなくても、増える速さを十分に抑えられれば、体が自分で治す時間を作れます」


 医師たちは、培地と王の記録を見比べました。


 薬を使う前

 使ったあと


 人の中で起きた変化と、ガラスの中で起きた変化が、完全に同じだと言うつもりはありません。


 けれど、無関係とも考えにくくなりました。


「この薬は、どんな小さな生き物にも効きますか」


 別の医師が聞きました。


「いいえ」


 どろちゃんはすぐ答えました。


「効かないものがあります。同じ病気に見えても、原因が違えば役に立たないこともあります」


 そこは、万能薬にしません。


 フックが紙へ何か書いています。


「では、別の薬も探せる?」


「探せます」


 どろちゃんは、少し考えました。


「緑のかびがいっぱい付いたミカンを見たことがありますか」


 医師の一人が、妙な顔をしました。


 王様の薬の話から、急に腐った果物です。


「あります」


「一種類のかびが一面に広がると、その場所では別のものが増えにくいことがあります。ワインも、葡萄の汁のまま置くより、腐り方が変わります」


 どろちゃんは、そこでミカンを薬にしませんでした。


「緑のかびが、この薬だという意味ではありません。ワインが肺の薬だという意味でもありません」


 何人かが笑いました。


「生き物が何かを作る。周りを変える。その結果、別の小さな生き物が増えにくくなることがある。そこを探します」


 フックが書く手を止めました。


「同じ薬を探す?」


「同じものじゃなくていいです。別のものでもいいんです」


 今度はフックが、培地の札を見ました。


 採取場所

 時刻

 薬の有無


「なら、集める記録を揃えた方がよい」


 そこから先は、どろちゃん一人の説明ではなくなりました。


 どの傷から採るか

 採る前に何を塗ったか

 熱があるか

 肺の症状があるか

 薬を使ったか

 培養した温度

 時間


 医師が言い、フックが書き、別の人が順番を入れ替えます。


 どろちゃんも途中で紙を一枚取りました。


 ロンドンだけで全部やる必要はありません。


 エルレンフェルト

 ライデン

 ロンドン


 同じ方法で記録し、結果を送り合えばよい。


 王立協会なら、もっと遠くへも手紙を出せます。


 研究会は、最初に予定した時間をかなり越えました。


 最後にフックが時計を見ました。


「もう終わりにしましょう」


 去年なら、どろちゃんが言う側でした。


 今年はフックが言いました。


     ◇ ◇ ◇


 午後の風は悪くありませんでした。


 どろちゃんは、丘へ戻ればその日のうちに出発できると思いました。


 培養結果も見ました。

 薬も渡しました。

 王様は元気です。


「今日、帰れそう」


 フックは返事をしませんでした。


 代わりに、王室から来た人が一通の書状を持ってきました。


「もう一度、王宮へお越しください」


 どろちゃんは窓の外を見ました。


 吹いている風は、帰るのに使えそうです。


「どのくらいかかります?」


 王室の人は、少し困った顔をしました。


「お着替えのお時間も必要かと」


 教授服ではないようです。


     *


 どろちゃんは、もう一度着替えました。


 今度は黒い教授服を脱ぎます。


 子爵令嬢として王宮へ出るためのドレスです。


 髪も直します。

 飾りも付けます。


「飛行服より時間がかかる」


 誰にも聞こえない声で言いました。


 フックは外で待っています。


 王宮へ入ると、前の面会とは場所が違いました。


 人も増えています。


 王様はまだ片腕を吊っています。


 それでも、式典へ出られる程度には回復しています。


 長い文書が読み上げられました。


 どろちゃんの名前

 父親の名

 エルレンフェルト子爵家のこと

 ライデンとの学術関係

 英国王室へ提供した薬


 そして、新しく設けられたイングランド伯爵位


 どろちゃん本人の権利で持つ爵位です。


 英国人になるために、エルレンフェルト側の身分を捨てる必要はありません。

 英国側では特別の文書で、そのまま資格を認める形にしました。


 爵位名も長く読み上げられました。


 どろちゃんは、一度では全部覚えませんでした。


 領地は付きません。


 英国の土地をもらったわけではありません。


 それでも、爵位は爵位です。


 どろちゃんは正式な作法で受けました。


 さすがに、この場では「どうして?」とは聞きません。


 式が終わったあと、王様が近くから言いました。


「これで、英国へ来る理由が一つ増えました」


 どろちゃんは少し考えました。


「研究で来る理由は、もうあります」


 王様はまた少し笑いました。


 肩へ響かない程度に。


     *


 本来なら、そのあとに祝宴がありました。


 すでに準備も始まっています。


 どろちゃんが知ったのは、式が終わってからです。


「今日?」


 帰る風は、もう少しずつ変わっています。


 そこでフックが、どろちゃんより先に王室の担当者と話しました。


「祝宴は延期してください」


 理由は、どろちゃんではありません。


「陛下は病後です。式典だけでも十分です」


 王室医師も反対しませんでした。


 話は王様のところまで行きました。


 しばらくして、延期が決まりました。


「私を理由にしたのですか」


 王様がフックに聞いたそうです。


 フックは否定しなかったそうです。


 どろちゃんは、その話をあとで聞きました。


 祝宴はなくなりました。


 けれど、飛行もなくなりました。


 式典が終わったころには、もう出発する時間ではありません。


 ドレスを脱ぎ、飛行服へ着替え、丘まで戻り、点検してから海峡を越えるには遅すぎます。


「明日にします」


 どろちゃんは、今度は迷いませんでした。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝


 タドポール君の天幕へ行きます。


 燃料缶は戻っています。

 機体も一晩休みました。


 教授服は鞄の中

 貴族のドレスも荷物です。


 王立協会の文書

 伯爵位の文書

 フックの観察記録の写し

 培養結果の写し


 紙が増えました。


「重くなったの、ほとんど紙ね」


 ――紙でも固定しろ。


「してます」


 水筒を確認します。

 ビスケットもあります。


 フックは見送りに来ました。


 去年より歩くのが速くなっています。


「次の培養結果は送ります」


「こちらからも送ります」


 それだけでは終わりません。


 薬の追加

 培地の作り方

 恒温槽の改良

 各地から集める標本の記録方法


 話すことはいくらでもあります。


 けれど、出発前に全部話す必要はありません。


 手紙があります。


 どろちゃんは操縦席へ入りました。


 フックが少し離れます。


 タドポール君が聞きました。


『帰る?』


「帰ります」


 点検


 操縦系統

 燃料

 増槽

 積荷

 天候


 問題ありません。


 丘を下ります。


 翼が風を受けます。


 主輪が草を離れました。


 ロンドンが少しずつ低くなります。


 去年は、病気で歩くのもつらそうだったロバート・フックを残して帰りました。


 今年は、丘の上に立っているフックが見えます。


 王様も仕事へ戻っています。


 研究材料はロンドンに残りました。


 培養は、これからも続きます。


 海峡へ入る前に、どろちゃんは水筒から一口飲みました。


 ビスケットは、まだ開けませんでした。


     ◇ ◇ ◇


 エルレンフェルトへ着いたのは、その日の午後でした。


 見慣れた丘へ進入します。


 速度

 風

 脚


 着陸


 主輪が草を走ります。


 停止


『着いたよ』


「うん」


 お父様とお母様が待っていました。


 どろちゃんがロンドンへ持って行ったときより、荷物は少し増えています。


 薬は減りました。


 その代わり、王立協会の会員証明と、英国の伯爵位を示す文書が入っています。


 どろちゃん自身は、出発したときと同じ十六歳です。


 空を飛ぶ教授で、子爵令嬢で、今度は伯爵にもなりました。


 ロンドンでは、その呼び方がもう少し短くなり始めます。


 空飛ぶ伯爵



第二十章の小さな説明


【ウィリアム三世の落馬】


 史実のウィリアム三世は一七〇二年二月二十一日に落馬し、鎖骨を骨折しました。その約二週間後に死亡します。後世の医学史研究では、剖検で肺に膿性または泡沫状の液体が多く認められ、肺炎が死亡に大きく関わったと考えられています。

 本作では落馬と鎖骨骨折そのものは起こりますが、肋骨が肺を貫くような大きな胸郭損傷は起こしていません。外傷後に呼吸器感染と傷の化膿が始まった段階で、前年にどろちゃんがフックへ預けた抗生物質が王室医師によって使用され、感染が重症化する前に抑えられます。どろちゃんが到着するころには、王は片腕を吊っているものの歩行と執務ができるまで回復しています。


【郵便船とRMS】


 ロンドンから大陸への急ぎの手紙は、陸上の郵便と英仏海峡を渡るパケット船・郵便船を組み合わせて運びます。

 この時代には、まだ船名の前へRMS(Royal Mail Ship)を付ける呼び方はありません。本作でもRMSとは呼びません。少し残念です。


【フックの観察記録】


 フックは時計と測定器を扱う人物なので、本作では王室医師の診察記録へ、自分の時間計測と顕微鏡観察を加えます。現代の血圧計や酸素飽和度計は出しません。体温も摂氏・華氏の現代的な数値ではなく、同じ温度計を用いた相対的な変化として比較します。


【王の傷、指先の化膿、黄色ブドウ球菌】


 王の落馬外傷の膿と、偶然同席した人物の爪周囲炎の膿を比較します。どちらからも葡萄房状に集まる球菌が見え、培養すると黄色味のある集落が現れます。どろちゃんは未来知識から黄色ブドウ球菌を知っていますが、顕微鏡像と色だけで菌種を確定したことにはしません。

 同じ条件で複数の患者・複数の部位から採取し、培養性状、薬への反応などを積み重ねていく研究の出発点とします。


【抗生物質を入れた培地】


 通常の培地だけでなく、一定量の抗生物質を混ぜた培地にも同じ試料を入れます。薬なしでは菌がよく増え、薬ありでは増殖が大きく抑えられることを、患者の身体から離れた条件でも確認します。

 どろちゃんは、薬そのものが傷を閉じるのではなく、人間が持つ治癒・防御の能力が働く時間を作るために、細菌の増殖を十分に抑えるという考え方を説明します。


【培養用恒温槽】


 培養という考え方は、この章で突然発明されたものではありません。前年からのどろちゃんとフックの往復書簡で、一定条件で微生物を増やし、比較する方法を検討しています。

 どろちゃんはロンドンへ非電気式の恒温槽も送っています。水浴、火力、温度計、液体の熱膨張を利用した調節機構などを組み合わせた機械で、電気式恒温器よりかなり面倒です。具体的な機構は今後の改良余地を残します。


【王立協会会員】


 史実では、ロバート・フックやアイザック・ニュートンの時代に女性がRoyal SocietyのFellowになる制度はありませんでした。女性が正式なFellowとして選ばれるのは二十世紀まで待つことになります。

 本作では、ウィリアム三世の生存と王室医療への貢献をきっかけに、女性・外国人であることを理由にどろちゃんを排除しない特例を一七〇二年に設けます。フックらの推薦と協会側の選挙を経て正式会員とし、王から与えられただけの名誉席ではなく、研究者としての席にします。


【英国の伯爵位】


 ウィリアム三世は史実でも、オランダ出身の側近をイングランドの伯爵へ叙爵しています。本作ではさらに制度を少し変更し、どろちゃんがエルレンフェルト側の身分を捨てたり、通常の帰化手続きを経たりしなくても、本人の権利でイングランド伯爵位を持てるようにします。

 女性なので英語ではCountessになりますが、本文では読みやすさのため「伯爵」と書きます。

 この時点では英国の領地は伴いません。爵位名に用いる具体的な地名も本章では固定しません。将来、薬草や医薬原料の生産、研究施設のために土地を持つ可能性があります。


【空飛ぶ伯爵】


 正式な爵位名ではありません。タドポール君を自分で操縦して大陸とロンドンを往復する伯爵なので、英国側で自然に付く通称です。


【この先の感染症研究】


 本章では、どろちゃんが完成した答えをロンドンへ配るのではなく、エルレンフェルト、ライデン、ロンドンが同じ方法で標本・培養・薬効を比較し、結果を送り合う研究網を作り始めます。

 十七世紀の大流行ほどの規模ではありませんが、十八世紀初頭にも東欧・北欧ではペストの流行が続きます。これは、その流行へ間に合わせるための基盤にもなります。どろちゃん一人が疫病と戦うのではなく、各地の医師、薬剤師、大学、王立協会が同時に動ける世界へ変えていきます。


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