188 貴族令嬢は、吉宗さんにエルレンフェルトを案内します
第188章 貴族令嬢は、吉宗さんにエルレンフェルトを案内します
翌朝。
吉宗さんと理子さんがホテル棟のレストランへ来たころには、ライン川の上もすっかり明るくなっていました。
「昨夜とは、ずいぶん違って見えるな」
吉宗さんが窓の外を見ています。
昨夜は灯りだけが動いていた水玉船も、朝になると白い船体まではっきり見えました。川の向こうには建物が並び、その間を人や荷物が動いています。
「昨日は暗くなってから着きましたものね」
理子さんも窓の方を見ました。
そこへ、どろちゃんとフランソワさんが来ます。
「おはようございます。よく眠れました?」
「よく眠れました。あれだけ長く空を飛んだのに、着いたら夜でしたからね」
「西へずっと飛んで、夕方を追いかけましたから」
「あれは不思議でした」
理子さんが笑いました。
「今日は、明るいうちにこちらを見られるのですね」
「はい。今日はちゃんとエルレンフェルトをご案内します」
朝食を終えると、一行はホテル棟を出ました。
ライン川沿いの低い場所から丘の上へ、斜行エレベーターが伸びています。昨夜は暗くて分かりにくかった丘の斜面も、朝になると上に建つ会議棟までよく見えました。
「これで上がるのですね」
「はい。ホテルから会議棟へ行く人が毎日使っています」
職員や会議参加者も同じ車両に乗ります。途中から乗ってきた人が軽く会釈し、空いた場所へ詰めました。
扉が開くと、目の前に大きなガラス張りの建物があります。
「これが最初の会議棟です」
「ずいぶん新しく見えますね」
「建ったのはこちらが先ですよ」
入口を入ったところには、大きな写真パネルが並んでいました。
最初のエルレンフェルト会議。各国の代表が同じ机を囲んでいる写真。調印のときの写真。建物の前に並んだ人たちの写真もあります。
吉宗さんが、そのうちの1枚の前で足を止めました。
「これだけの国が、ここへ集まったのですね」
「ここで何度も話を重ねるうちに、会議が終わったあとも常に連絡できる仕組みが必要になりました」
フランソワさんが次の写真を示しました。
「このころから、会議が終わったあとも担当者が残るようになっています」
写真を見ている横を、書類を抱えた職員が何人も通っていきます。
廊下の扉には会議名を書いた札が掛かり、閉じた扉の向こうから話し声が聞こえました。別の部屋では、十人ほどが机を囲んでいます。
「昔の会議を残してある建物ではないのですね」
理子さんが小声で言いました。
「はい。今日も何組か使っています。大人数の会議は向こうの国際連盟本部ですが、こちらの方が使いやすい会議もあります」
どろちゃんは、空いている会議室を1つだけ案内しました。
大きな窓のある部屋です。机と椅子はすでに次の会議用に並べられ、壁際には資料を置く台があります。
大使候補は、写真よりこちらを長く見ていました。
「常駐することになれば、こういう部屋を使うこともありますか」
「ありますよ。少人数の打ち合わせなら、こちらを使うことが多いです」
「なるほど」
返事をしながら、机の配置や出入口を見ています。
見学を終えると、ガラス張りの渡り廊下へ出ました。
向こう側にあるのは、さっきの建物とはまるで違う大きな建物です。長い正面、規則正しく並ぶ窓、重い石造りに見える壁。丘の上に広がる姿だけを見ると、こちらの方が何十年も古く見えます。
「こちらの方が、ずっと古い建物に見えますね」
理子さんが言いました。
「後から建てた方です」
「そうか。建った順は逆なのですね」
吉宗さんが笑いました。
「形は、かなり昔風ですから」
国際連盟本部へ入ると、玄関の大きさから違いました。
大会議場へ向かう廊下、常設事務局の部屋、各国代表が使う部屋。人の出入りも旧会議棟より多く、廊下を荷車で文書箱が運ばれていきます。
「王宮のようにも見えますが、住居ではないのですね」
「住んでいません。ここは各国が話をして、その記録を残すための場所です」
吉宗さんは、しばらく廊下の先を見ました。
「この大きさが、すべて話し合いとその仕事のためなのですか」
「事務の人もたくさんいます。会議が終わったあとに決まったことを動かす方が、ずっと仕事が多いですから」
次に入った部屋には、ガラスのケースが並んでいました。
中にあるのは条約の原本です。
「これは原本なのですか」
「原本です。署名したものをここへ保管している条約もあります」
吉宗さんが顔を近づけます。
国ごとに文字も署名の形も違いました。大きな紙もあれば、何枚も綴じられたものもあります。
「日本のものは?」
大使候補が尋ねました。
「ほとんどありません」
どろちゃんが答えました。
「今の日本は、こちらの国々と条約を結ぶ機会が少ないですから。国際連盟へ入れば、ここに日本が関わる文書も増えていくと思います」
大使候補は、ケースの中をもう一度見ました。
「私どもの名前が残ることもあるのですな」
「仕事をすれば、残ることもあるでしょうね」
少し離れたところで吉宗さんが笑いました。
「急に顔つきが変わったな」
「実物を見せられますと、紙一枚でも軽くは見えませぬ」
その返事に、理子さんも笑いました。
◇ ◇ ◇
条約原本の部屋を出ると、今度は通信施設へ向かいました。
扉を開ける前から、乾いた音が聞こえています。
中では電鍵を打つ音と、受信側のサウンダーが刻む音が重なっていました。机の上には、受け取った電文と、これから送る電文が分けて置かれています。
「ここから各国へ送るのですか」
大使候補が尋ねました。
「はい。常駐している代表の方が、本国へ問い合わせたり、返事を受けたりします」
「これなら、使者を船で往復させる必要がありませんね」
「普通の連絡なら、ずっと早いです」
通信担当者が、ちょうど届いた紙を確認して別の机へ回しました。別の人は宛先を読み、送信する順番を決めています。
吉宗さんは、電鍵を打つ手元をしばらく見ていました。
「国が遠くても、これなら話が止まりませんね」
「そうですね。返事を待つ時間が短くなるだけでも、できることが増えます」
「日本が入れば、こちらと日本の間にもこれを置くのか」
「順番に整えます。日本側で受ける場所も必要になりますから」
大使候補が、机に積まれた電文を見ました。
「暗号文は扱わないのですか」
「扱いません。秘密にする文書は封をして、人が運びます」
「通信が速くても、何でも載せるものではない、と」
「はい」
その答えには、文官らしくすぐに頷きました。
通信室を出るころには、大使候補の手元の紙に小さな書き込みが増えていました。
◇ ◇ ◇
国際連盟本部の玄関を出ると、執事さんが待っていました。
「お待ちしておりました」
手には鍵束と何枚かの図面があります。
「次は家ですね」
どろちゃんが言うと、大使候補夫妻が顔を見合わせました。
「もう見せていただけるのですか」
「候補はいくつか空けてあります。実際に見て決めた方がいいでしょう」
一行は斜行エレベーターで下へ戻り、今度はピーチライナーへ乗りました。
昨日の夜は、用もないのに乗ってみた人がいました。今日はちゃんと行き先があります。
車内には買い物かごを持った人、書類鞄を持った職員、空港へ向かうらしい旅行者がいます。
「私どもも、皆さんと同じ車両に乗るのですね」
吉宗さんが言いました。
「いつもこのままです」
「その方が、町の様子がよく分かります」
新滑走路西駅で降りると、駅前には店がまとまっていました。
食料品、布、靴、日用品、文具。大きな荷物を扱う店もあります。
大使候補の奥さんは、まず食料品の売り場を見ました。
「ここまで来れば、毎日の物はそろいそうですね」
「駅の近くに住む人が増えましたから」
大使候補と郎党4人は、別のところを見ています。
「これは同じ品でも店で値が違うのですか」
「違います」
「支払いは現金だけですか」
「この辺りの普通のお店は現金です」
帳面を扱うことの多い1人が、表示された値段をしばらく見比べました。
「もう物価まで見ているのか」
吉宗さんが声をかけます。
「毎月いくら使うか、先に分かる方がよろしいかと」
「さすがに仕事が早いな」
「役目でございますので」
奥さんの方は布地を見ています。
「こちらの冬は、紀州よりずっと寒いのでしょう?」
「はい。冬物はここで買えますよ」
「それは助かります」
同じ店を見ても、見るところがまるで違います。
◇ ◇ ◇
執事さんが案内した最初の家は、駅から歩いて行ける距離にありました。
門を入ると庭があります。母屋のほかに、小さな別棟も建っています。
「こちらが候補の1つです」
玄関を入ると、大使候補は飾りより扉を見ました。
「この部屋は?」
「客間としてお使いいただけます」
「玄関から直接通せますか」
「はい。こちらの廊下から入れます」
「来客中に仕事場を通らなくて済みますな」
次の部屋では、郎党の1人が扉を開けて中を見ました。
「書類を置く部屋は、鍵を掛けられますか」
「こちらでしたら、扉にも鍵がございます」
「机を4つ置いても通れますな」
別の1人が部屋の幅を見ます。
「帳簿類はこちらへまとめられそうです」
「皆、住まいを見ながら、もう仕事のことを考えているのだな」
吉宗さんが言いました。
「住む場所でもありますが、仕事をする場所にもなりますから」
大使候補が答えます。
母屋には大きな寝室が1つ、小さな食堂と大きな食堂、居間、厨房、主となる執務室があります。そのほかにも小さな部屋がいくつかあり、書類仕事や来客対応に使えそうでした。
別棟は4つに区切って使える造りで、今は郎党4人がそれぞれ生活できます。
「将来、ご家族を呼ばれる方がいれば、部屋の使い方はそのとき合わせましょう」
執事さんが説明しました。
大使候補は庭から母屋を見直しました。
「これは、私どもには少々大きすぎませぬか」
吉宗さんがすぐに返しました。
「今は日本の使節が住み、仕事をする家を選んでいる。必要な広さなら、このくらいあってよいだろう」
「それは承知しておりますが」
「仕事に要る広さなら、遠慮することはないでしょう。皆が働きやすい家を選ぶ方が大切です」
大使候補は少し考えてから、どろちゃんの方を見ました。
「国際連盟本部へは、先ほどの駅から毎日通えますか」
「はい。朝も動いています」
「雪の日も?」
「線路を止めるほどなら別ですが、普通の雪なら動かします」
今度は奥さんが厨房を見に行きました。
「水はここから?」
「蛇口をひねれば出ます。お湯も使えます」
「お風呂も?」
「ありますよ」
戻ってきたときには、奥さんの方がかなり気に入った顔をしています。
「私は、ここでよいと思います」
大使候補は郎党4人を見ました。
「仕事場は?」
「使えます」
「書類の保管もできます」
「駅も近うございます」
「では、決めましょう」
執事さんが図面を開き、母屋、別棟、庭をまとめて使う契約を確認しました。その場で、追加するものも決めていきます。
「この小部屋は執務室に直してください」
「承知いたしました」
「電話線もお願いします」
「本部へ直接つなげられるよう手配します」
門の近くには、小さな警備員室を追加することになりました。
大使候補自身から、厩や武器庫の希望は出ませんでした。
「馬は置かなくてもよいのか」
吉宗さんが尋ねます。
「毎日、本部へ参るのなら、先ほどの乗り物の方が早うございます」
「なるほど。おぬしらしい選び方だな」
「馬の世話をする者まで増やす方が大変でございます」
契約の確認が終わると、一行はもう一度ピーチライナーへ乗りました。
新滑走路南のニュータウンも見て回ります。こちらにも住宅が並び、空港で働く人や家族が暮らしていました。駅の周りでは、まだ新しい店の工事も続いています。
大使候補は車窓から、さっき決めた家のある方向を見ました。
「本当に、ここへ住むことになるのですな」
「日本が国際連盟へ入ったら、ここから始まります」
どろちゃんが答えました。家が決まれば、次は仕事です。




