187 貴族令嬢は、紀州の人たちと夕方を追いかけます。 吉宗さんたちは西回り便でエルレンフェルトにやってきます。
第187章 貴族令嬢は、紀州の人たちと夕方を追いかけます
朝になると、新しい飛行場へ馬車が集まり始めました。
昨日までは滑走路さえなかった場所です。今日は、紀州から遠い国へ向かう人たちの出発場所になっています。
「来ましたね」
フランソワさんが名簿を持って外へ出ました。
先頭の馬車から、吉宗夫妻が降ります。
侍従、小姓、国連加入後の大使候補夫妻、護衛の武士、医師、藩の重役の子女。このあたりは、ムリヤちゃんの2階客席を使います。以前から決めていた、ヨーロッパ方面へ向かう地位のある人たちの枠です。
別の馬車からは、藩の学校の学生たちが降りてきました。希望して参加する商人もいます。幕府側から来た学生たちも一緒です。
こちらは貨物室に設置したMRJシートを使います。24席の範囲に収まるよう、名簿はすでに調整されていました。
「お荷物はこちらです」
「この箱は北京までです」
「こちらはエルレンフェルトまでですね」
積み込み側が札を確認し、行き先ごとに貨物を分けていきます。昨日伝えた寸法に合わせて荷造りし直された箱もありました。
葛籠もありますが、積み重ねやすいものから先に配置されます。
「ずいぶん大きいな」
護衛の武士が、ムリヤちゃんを見上げました。
「昨日、城から見えたときより大きいでしょう」
どろちゃんが笑いました。
「遠くからでは分かりませぬな」
髷を結った人たちが、次々に巨大な機体へ入っていきます。
◇ ◇ ◇
朝のうちに搭乗と荷物の確認を済ませ、昼が近づくころには出発準備が整いました。
「昨日と風が逆ですね」
「はい。今日は東向きに離陸します」
ムリヤちゃんは西側南のエプロンを離れ、滑走路の西端へ向かいました。
昨日は東から西へ着陸しました。今日は西から東へ離陸します。
3500mの滑走路があります。今日の搭載量なら、離陸にも十分な余裕がありました。
エンジン音が大きくなり、ムリヤちゃんが走り始めます。
「動いた」
MRJシート側から声が聞こえました。
速度が上がり、機体が地面を離れます。そのまま東へ上昇しました。
紀ノ川に沿って進むと、あっという間に今の橋本市あたりまで来ます。
「もうここまで来たのか」
吉宗が窓の外を見ました。
「地上からだと遠いのですが、上からだと早いですね」
そこから右へ旋回し、高野山の上空へ向かいます。山が重なって見えました。道は谷に沿って曲がり、集落が小さく点々としています。
「この山の向こうも、同じ紀州なのですね」
重役の子女の1人が言いました。
地図では知っていても、上空から連続した地形として見るのは初めてです。
ムリヤちゃんは高野山側から折り返し、もう一度和歌山へ戻りました。今度は高度を上げながら南へ向かいます。
紀ノ川、城下、海、さっき離陸した滑走路が、一度に見える高さになりました。
「四国が近い」
学生の1人が窓の向こうを見ました。
「海の向こうに、あんなにはっきり見えるとは思いませんでした」
紀州と四国の近さも、空からなら一目で分かります。
さらに南へ進むと、海の色が変わりました。
「色が違う」
日御碕を境に、北側には緑がかった青が広がっています。南側は、もっと深い群青です。
境目を上から見ると、船の上から見るよりずっと分かりやすく見えました。
「同じ海でも、こんなに違うのですね」
「流れも水の性質も違いますから」
どろちゃんが答えます。
ムリヤちゃんはそのまま串本まで南下しました。そこで右へ旋回します。
「ここから嘉手納へ向かいます」
ようやく紀伊半島を離れました。
◇ ◇ ◇
嘉手納では、人の乗り換えが中心でした。琉球と清の間を移動する学生や技術者が乗り降りします。
黒糖や螺鈿用の貝を和歌山で降ろしたあとの貨物区画には、別の荷物が入りました。
嘉手納で人と荷物の確認を終えると、ムリヤちゃんはすぐ北京へ向かいました。
北京では事情が違います。
「ここは時間がかかります」
VOGの担当者が言いました。
往路では大学関係の人と荷物が中心でした。復路では、清からヨーロッパ方面へ向かう輸出品を本格的に積み込みます。
清は大国です。この世界の清は領土と権益を保ったまま自立し、大学も交易も自分たちの側から大きく動かしています。
「積み込みの間は、いったん全員降りてください」
「どのくらいかかりますか」
「見学して戻ってくるくらいです」
そのための用意もありました。
清の皇帝側が、空港内と北京城内を回る馬車見学を用意しています。
「馬車までありますね」
「待っているだけではもったいないですから」
紀州から来た一行も、ムリヤちゃんを降りました。
空港の施設を見たあと、希望者は馬車へ乗ります。北京城内を回り、町並みや店を見ることができます。お土産を買う時間もありました。
「この紙は?」
「書店で買いました」
学生が包みを抱えています。
「ずいぶん買いましたね」
「まだ入りますよね」
「ムリヤちゃんには入りますけれど、自分で持てる量にしてくださいね」
フランソワさんに言われて、学生は包みを抱え直しました。
商人たちは、土産物だけでなく、商品そのものや値段を見ています。吉宗夫妻も町を見て回りました。
見学組が戻るころには、貨物室の様子がかなり変わっていました。清からの輸出品が、行き先別に積まれています。
「では、次はラサです」
◇ ◇ ◇
ラサでの滞在は、今回は珍しく短くなりました。2時間ほどです。
大きな大学機材や食糧は往路で降ろしてあります。復路は人の乗り換えが中心でした。
「2時間なら、外へは出ない方がいいですね」
「空港の中でも買い物できますよ」
お土産物屋があります。ジャムを入れた紅茶と、ピロシキを出す店もあります。
「これ、前にも食べましたね」
マルガレータさんがピロシキを見ました。
「乗り換えで食べると、また違います」
学生たちも店をのぞき、土産物を見ています。
その間に、エルレンフェルトまでの人員確認と、ラサで積み込む機内食の搬入が進みました。
「もう出発ですか」
「今日は早いですよ」
2時間ほどでムリヤちゃんは再び離陸しました。
◇ ◇ ◇
ここから先は、西へ向かって飛びます。
東から近づいてくる夜がムリヤちゃんを追いかけます。けれど、ムリヤちゃん自身も西へ進んでいるので、夜はなかなか追いつけません。
「ずっと夕方ですね」
貨物室のMRJシートに座った学生が窓を見ました。
「夜が後ろから追いかけてきていますけれど、こちらも西へ飛んでいますから」
「地図で聞くより分かりやすいです」
ラサで積み込んだ機内食が配られました。窓の外には、いつまでも低い太陽の光が残っています。
食べ終わっても夕方が続きます。話をして、少し眠って、目を覚ますころ、ようやく空の暗い部分が広がってきました。
「追いついてきましたね」
「はい。もうすぐ夜です」
どろちゃんが言いました。
しばらくすると、夜がムリヤちゃんに追いつき、窓の外が暗くなりました。
そのころ、ムリヤちゃんはエルレンフェルトへ近づいていました。
◇ ◇ ◇
夜のエルレンフェルトへ到着すると、紀州から来た人たちはホテル棟へ案内されました。
「最初に、お部屋についてご説明します」
ホテルの係が名簿を確認します。
吉宗夫妻だけはスイートです。そのほかの人たちは、ファーストとビジネスの客室へ分かれます。大使候補夫妻も、学生も、商人も、滞在目的に合わせて部屋が決まりました。
「お部屋代は、こちらで払うのですか」
紀州側の役人が尋ねました。
「国連ができてからは、公式の滞在でしたらテネリフェ方式が使えます。こちらへご署名いただければ、あとで国へ請求されます」
「毎回、現金を出さなくてよいのですね」
「はい。対象になる宿泊や食事はそれで処理できます」
夕食はホテル棟のレストランです。
好きな料理を選ぶアラカルトと、内容の決まったメニュー、つまり定食の両方があります。
「どちらがよいのでしょう」
「初めてなら、メニューでもいいと思いますよ」
「私は選びたいです」
学生たちはさっそく分かれました。吉宗夫妻も、長い飛行のあとでゆっくり食事を取りました。
◇ ◇ ◇
食後は、そのまま部屋へ戻る人と、もう少し夜を楽しむ人に分かれました。
ホテル棟の窓から見る夜のライン川はきれいです。川には灯りをつけた水玉船が動いていました。
「夜でも船が走っているのですね」
「小型レーダーができてから、夜間運航もしています」
ブラウン管に映った輝点が残像でしばらく残る方式で、他船や岸の位置を確認しながら走れます。
「乗れるのですか」
「運航時間なら乗れますよ」
ピーチライナーも動いています。
「これは、どこへ行くために乗るのですか」
「用事がなくても乗れます」
どろちゃんが答えると、学生たちが顔を見合わせました。
「では、乗ってみても?」
「もちろん」
用もないのにピーチライナーへ乗る人が出ました。夜の水玉船へ行く人もいます。部屋の窓からライン川を見るだけにした人もいました。
◇ ◇ ◇
ホテルの案内には、もう1つ大事なことが書かれています。
「ストラスブールへ行かれる方は、先にホテルで両替してください」
「サインでは買えないのですか」
「テネリフェ方式は、ホテルなど公式精算のできる場所で使います。町の普通のお店では現金で払ってください」
「何のお金が必要ですか」
「エルレンフェルトの通貨か、フランスの通貨です」
ストラスブールのお姉さんのお店でも、このどちらかの現金で払います。個人の買い物に使う分は、ホテルで先に両替しておきます。
「どのくらい両替すればよいでしょう」
「お部屋の案内をご覧ください」
ホテルのマガジンラックにも、各客室にも、ストラスブールのおすすめ地図と相場表が置いてあります。
書店、衣料品店、食堂、菓子店、お姉さんのお店など、普通に利用できる店を載せ、ぼったくりバーのようなところはおすすめから外してあります。
食事や土産物のだいたいの値段も書いてあるので、両替する金額の目安になります。
「ずいぶん親切ですね」
「いろいろな国から人が来ますから」
髷を結った武士が町へ出ても、周囲は「東の国から来た人だ」と見るくらいです。エルレンフェルトやストラスブールでは、服装も髪型も違う人を日常的に見ています。
むしろ目立ったのは、体格でした。
紀州から来た成人男性は、150cm台半ばから後半が多く、まとまって歩くと一団全体がかなり小さく見えます。エルレンフェルトやストラスブールでは170cm前後の男性も珍しくなく、女性にも160cm前後の人がいます。
「紀州の方々、小さいですね」
ホテルの若い係が、少し離れたところで同僚に言いました。
「東の方の人は小柄だと聞いていたけど、集まると分かるね」
紀州側も、町を歩く女性まで自分たちの男性と同じくらいの背丈なのを見て、何度か振り返りました。
「髷より、背の高さを見られている気がする」
護衛の武士が小声で言いました。
「たぶん、その通りです」
学生が笑いました。
和歌山を出て、嘉手納、北京、ラサを経て、長い夕方を追いかけた一日は、夜のライン川の灯りの中で終わりました。




