第185章 貴族令嬢は、港の酒場をラジオで聞きます。 この世界ではアフリカ人にさらわれ売買されていたヨーロッパ人奴隷によるアフリカとヨーロッパがミックスされたジャズやブルースが生まれています。
第185章 貴族令嬢は、港の酒場をラジオで聞きます
1MHzのネーザーランド放送に、新しい機械が入りました。
人の声や音楽を細長い紙へ残し、あとから電気信号へ戻す磁気録音機です。
「これで、放送局へ来られない人の声も流せますね」
どろちゃんは、回っている二つのリールを見ながら言いました。
紙の片面には、細かい酸化鉄が均一に塗られています。長時間録音だけを狙って極端に薄くせず、巻いたりほどいたりしても扱いやすいだけの腰を残しました。
録音ヘッドは、細い隙間を持つ磁性体の芯とコイルでできています。音声信号に高周波交流バイアスを加え、通過する酸化鉄の層へ音の変化を磁気として残します。再生するときは、その磁気の変化をヘッドで電気信号へ戻し、真空管で増幅します。
高周波発振も音声増幅も、AM送信機を作ってきた放送局ではすでに日常的に使う技術です。どろちゃんが示した磁気ヘッドの構造と交流バイアスを、技術員たちが実際の機械へまとめました。
テープを送る部分は、機械仕掛けです。
モーターから大きなフライホイールを兼ねたキャプスタンまではベルトでつなぎ、反対側からテープより少し幅の広いピンチローラーを押し当てます。リール側には軽い張力を掛け、巻取側は先へ回ろうとしますが、実際のテープ速度はキャプスタンとピンチローラーの摩擦で決まります。回転数はガバナーと電圧調整で追い込みました。
狙う音質は、1MHzのAM放送へ流す声と音楽を十分に再現できる範囲です。紙なら大量に作ることができ、切ってつなぐ編集も容易でした。
この機械が放送を大きく変えるのは、場所と時刻を離せることでした。
昨日しゃべった人の声を今日の夜に流せます。ロッテルダムで歌った人がライデンまで来なくても、紙のリールを持ち帰れば、その声をライデンの送信所から遠くへ飛ばせます。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、いつもの放送員がマイクの前へ座りました。
「ネーザーランド放送から、新しいお知らせです」
これまでも大学の食堂や会議場へ線を引き、その場所の声を生放送することはありました。磁気録音機が入ったことで、放送局から離れた場所の声をいったん紙へ残し、別の時刻に放送できるようになりました。
「これからは、放送局の外で録音した声や音楽も放送します。録音した時刻と、皆さんが聞く時刻は同じでなくてかまいません」
放送員は、机の横に置かれた紙のリールを指で軽く示しました。
「最初の試験はロッテルダムで行いました。録音機と電源箱を港まで運び、埠頭でも動かし、そのあと酒場へ持ち込んで、人の声と音楽を録りました。運搬中の振動、屋外の風、店の湿気や騒音の中でも使えるかどうかを確かめる試験です」
少し間を置きました。
「では、新しい番組です。『港の酒場を訪ねて』。第1回はロッテルダムです」
技術員が再生機を動かしました。
紙のテープが走り始めます。
最初の数十秒は埠頭でした。風がマイクに当たる低い音の向こうで、索具が軋み、船鐘が鳴り、荷役をする人の声が重なります。
『風が強いですね。少し向きを変えます』
録音員の声のあと、雑音が少し減りました。
足音が続き、扉が開きます。
そこで音が一変しました。
大きな笑い声、椅子を引く音、皿を置く音。何かを倒して、誰かが怒鳴っています。
『こぼしたのは俺じゃないぞ』
『お前の肘だよ』
『肘には酒を飲ませてない』
また笑い声がしました。
録音に同行した放送員が、少し離れたところから話します。
『ロッテルダムの港に近い酒場へ来ています。今日は、普段ここへ来る人たちに、好きにしゃべってもらいます』
『好きにって言ったな?』
『言いました』
『じゃあ酒をもう一杯くれ』
『それは店の人に頼んでください』
店の中で歓声が上がりました。
ライデンのスタジオで聞いていたどろちゃんも笑いました。
「ちゃんと酒場ですね」
「ずいぶん、きれいに録れておりますね」
フランソワさんも、回っている再生リールを見ています。
録音の中では、誰かが机を指で叩き始めました。拍はきれいにそろわず、少し前へ出たり、後ろへ引いたりします。
『その歌、あとでやってください』
『あとじゃ忘れる』
『今でも半分忘れてるだろ』
『だから今やるんだよ』
笑いの中で、弦を弾く音が入りました。
その前に、放送員が1人の男へ尋ねます。
『あなたはアフリカから戻った方ですね』
『そうだよ。戻った。俺はな』
さっきまで大声で笑っていた男の声が、少しだけ低くなりました。
『一緒だった人たちは?』
『全部は戻ってない』
酒場の別の場所から声が飛びます。
『またその話か』
『するよ。俺の話だ』
誰も止めませんでした。
『海の近くで売られたやつもいた。俺みたいに何度か持ち主が変わって、それでも海からそう遠くないところにいたやつもいる。だけど、もっと内陸へ売られたやつがいる。中央アフリカまで行ったって聞いた。そこから先は知らん』
グラスを置く音がしました。
『帰還した人の名簿にも?』
『いない。まだいない。死んだかもしれんし、生きてるかもしれん。別の名前でどこかにいるかもしれん。分からん』
少し沈黙しました。
『だから歌うんだよ』
別の男が言いました。
『お前は酔うと毎回そこへ戻るな』
『戻れるところがあるだけいいだろ』
酒場のざわめきが少し小さくなりました。
弦が、ゆっくり鳴り始めます。
最初の旋律は教会の聖歌でした。男がさらわれる前、家族と一緒に歌っていたものです。
そこへ別のリズムが重なります。
一人が旋律を伸ばすと、周りから短い声が返ります。机を叩く音が拍の表と裏を行き来し、足を踏む音も加わります。同じ聖歌なのに、教会で歌うときとはまったく違う動きになりました。
『それ、教会の歌ですよね』
放送員が尋ねました。
『最初はな』
『最初は?』
『さらわれる前に歌ってた。向こうへ行ってから覚えた拍子で歌うようになった。仕事しながらでも歌える。1人が言って、みんなが返す。歌詞なんか、その場で変える』
『今の歌詞も?』
『今のは今作った』
周囲から笑い声が戻りました。
『だから間違えたのか』
『作ったものに間違いがあるか』
『音を外しただろ』
『あれも今作った音だ』
酒場がまた騒がしくなり、そのまま2曲目が始まりました。
今度は短い旋律を何度も繰り返し、歌う人が少しずつ音をずらします。悲しい話をしているのに手拍子は止まらず、途中から別の人が勝手な言葉を重ね、さらに別の人が弦で返します。
どろちゃんには、その音楽の行き先が分かりました。
ブルースに近い。そこから先にはジャズも見えます。
この世界でその音楽を作っているのは、アフリカで長いあいだ奴隷として暮らし、ヨーロッパへ帰ってきた白人たちでした。
さらわれる前から知っていた聖歌へ、アフリカで覚えた拍子、掛け合い、その場で変えていく歌い方が混ざっています。聖歌の言葉の間へ、戻ってこなかった仲間の名前や、売られた土地や、帰りたい場所がその場で入りました。
歌う人の声に、手拍子と机を叩く音が重なり、少し遅れて別の声が返ってきます。
紙テープには、旋律だけでなく、その場にいた人たちが一緒に作った酒場の音まで残りました。
◇ ◇ ◇
録音が終わると、音はライデンのスタジオへ戻りました。再生機のリールはまだ回っています。
「少し揺れたところはありますね」
技術員が言いました。
「港まで運びましたからね」
「それでも、声は十分聞き取れます。音楽も放送用なら問題ありません」
別の技術員が紙の端を確認しています。
運搬後も巻きは崩れず、酒場の湿気を吸って少し変化した部分も走行を止めるほどではありませんでした。
「紙を薄くしすぎなくてよかったですね」
どろちゃんが言いました。
「長く録ることより、まず絡まずに走る方を優先しましたから」
最初の持ち出し試験としては十分です。録音機を放送局の外へ運び、その場所で声を残し、本人をライデンへ連れてこなくても数日後に放送できます。ニュースの取材、学者の話、港へ入った船の乗組員、地方の教会の歌、帰還者の音楽まで、放送局が集められる音の範囲が一気に広がりました。
放送員が、最後の原稿を読みました。
「『港の酒場を訪ねて』第1回、ロッテルダムからお送りしました。来週は少し近いところへ行きます」
紙を1枚めくります。
「来週は、ライデンの学生酒場です」




