第183章 貴族令嬢は、改めて自己紹介をしてお食事をします。 紀州の和歌山 徳川吉宗夫妻と和歌浦で簡単なお食事しながらお話です。
第183章 貴族令嬢は、改めて自己紹介をしてお食事をします。
「では、改めてちゃんと自己紹介しますね」
どろちゃんは、まだ料理が全部そろっていない卓を見ました。
「8年前は、こんなに増えていませんでしたから」
今日は公式の会見ではなく、8年前に理子さんを助け、その後も何度か知らせを交わしてきた旧知の相手との食事です。どろちゃんの肩書きがどれだけ増えても、吉宗さんと理子さんとの距離は8年前から続いています。
「何がそんなに増えたのですか」
「肩書きです」
吉宗さんが少し嫌な予感のする顔をしました。
「まず、名前からです。ドロテーア・フォン・エルレンフェルト。1685年12月1日生まれで、今は32歳です」
理子さんが、どろちゃんの顔を見ます。
「32歳には見えませんね」
「そこは、さっきのお話の通りです。見た目の方が進まなくなっているみたいです」
「それで、エルレンフェルトの公爵令嬢だったな」
「そこが変わりました」
「そこが変わった、というのはどういうことですか」
「お父様が引退したので、今は私がエルレンフェルトの国家元首です」
吉宗さんが少し黙りました。
「それは驚きました。8年前には公爵令嬢だったあなたが、今は国そのものを預かる立場になったのですね」
「はい」
「こちらが日本のことで手いっぱいだった8年の間に、そこまで変わっていたのですか」
「8年ありましたからね」
「8年というだけで片づけるには大きすぎる話です。私も将軍になりましたが、あなたの8年も相当だったのですね」
「私も、最初から国家元首になるつもりで飛び回っていたわけではありませんよ」
どろちゃんは笑いました。
「ですから、今は吉宗さんと、国を背負う立場としてはだいたい同じですね。吉宗さんは征夷大将軍ですね。やっと日本も軍事国家の頭領が病人や幼児でなくなって、私たちもほっとしています」
「ええ。今は私が征夷大将軍です」
吉宗さんはしばらく何も言いませんでした。
理子さんが先に笑います。
「ずいぶん正直におっしゃいますね」
「前の将軍様たちには聞こえないところですから」
「まあ、今ここで前の方々を呼び出して確かめるわけにもいきません。あなたらしい言い方だと思って聞いておきます」
「それを言うなら、吉宗さんの方も少し悪いですよ」
「先に言い出したのはあなたですから、そこは半分ずつということにしておきましょう」
8年前には紀州藩主と外国から来た女性医師でした。
今は、片方が征夷大将軍。
もう片方も、自分の国を代表する国家元首です。
どろちゃんは指を1本立てました。
「国家元首としての私と、個人としての私は、会計も権利も分けていますからね」
「なるほど。国の財産と、あなた個人の財産を分けて話してくれるなら、こちらも理解しやすいですね」
「あとでお金の話が出ますから、先に言っておきます」
「まだ先があるのですね。ここまででも、8年前とはずいぶん違います」
「まだ、かなりあります」
次に英国です。
「英国では、前にもらった伯爵位が残っています。それとは別に、アン女王陛下からウェストミンスター侯爵位をいただいたので、今、普通に呼ばれるなら侯爵の方です」
「英国だけで爵位が2つあるのですか。それでもまだ英国の話だけなのですね」
「英国だけで2つです」
「英国だけで、ですか。先ほどから国の名前が増えるたびに肩書きも増えていますね」
「フランスではブルジェ侯爵です」
理子さんが、そこでうなずきました。
「そのお名前は覚えています」
「理子さんを診たときに使いましたからね。あの時はVOGの大株主として会いに行くと、政治の人が来たように見えるので、フランス王国のブルジェ侯爵で、薬剤医師として診察を申し込んだんです」
「薬剤医師というのは、薬を作る方というだけではありませんでしたね」
「はい。患者さんを診察して、病気を判断して、薬を選んで、量を決めて、治療して、そのあとの経過まで診られる資格です。ルイ十四世陛下が、私がしていたことに合わせて作った資格なんです」
吉宗さんが聞きました。
「国家元首になった今でも、必要なら医師として診るのですね。理子を診たときの資格も、今もそのまま使えるのですか」
「必要なときは診ます。国家元首になったからといって、病気が分からなくなるわけではありませんから」
「理屈はその通りです。国の主になったから、それまで身につけたことを捨てる理由はありませんね」
「それから、イタリアです」
「まだ別の国の話もあるのですか。ここまでで十分多いと思っていました」
「まだ出ます」
どろちゃんは少し姿勢を直しました。
「イタリア政府の古代ローマ遺跡修復担当大臣です。まだ辞めていません」
吉宗さんが今度こそ止めました。
「それは少し整理させてください。自分の国では国家元首で、そのうえイタリア政府では現職の大臣でもある、ということですか」
「はい」
「両方の政府が、その兼任を認めているのですか。こちらの感覚では、かなり珍しい立場です」
「今のところ、関係している人たちは特に困っていません」
「実務が回っていて、当事者も困っていないから続いているわけですか。今のヨーロッパらしい話なのかもしれませんね」
「ローマの遺跡の保存と調査と修復は続いていますし、フランチェスコ・ビアンキーニさんたちが現地で仕事をしています。私は担当大臣として、必要な判断をします」
「人も研究も産業も国境を越えるなら、役職まで国境を越えることがあるのですね。8年前の感覚では、そこまでは想像できませんでした」
「今のヨーロッパでは、昔より人も仕事も国境を越えますから」
どろちゃんは、そこで茶をひと口飲みました。
「政治の方は、だいたいここまでです」
「政治の方は、ということは、まだ別の話が続くのですか」
「次は学術があります」
吉宗さんが理子さんを見ました。
「政治の話だけで、これだけありましたからね。学術の方も、きちんと聞かせてもらいましょう」
「聞きましょう」
理子さんは楽しそうです。
「ライデン大学教授です」
「ライデン大学の教授なのですか。研究に関わっていることは知っていましたが、教授会に出る立場まで行っていたのですね」
「はい。名前だけではなくて、教授会にも出ます。最初に大学から学位と研究者としての任命をもらったときは、自然哲学、数学、機械諸技芸、言語、飛行、気象、測量でした。領地で実験や試作や観測をして、結果を大学へ送る仕事だったんです」
「学位と研究者任命の範囲としては、ずいぶん広いですね。普通なら何人かに分かれそうな内容です」
「最初から飛行機に乗って大学へ行っていましたから」
「飛行機で大学へ通ったことと、研究分野が広いことは、あまり理由になっていない気もしますが」
「大学の人が書いた学位記ですから、私に言われても少し困ります」
フランソワさんが少し笑いました。
「お嬢様は、届いた学位記をご覧になって、ご自分の経歴なのに別の方のことのようだとおっしゃっていました」
「本当に長かったんです」
「では、今はその中でも、どの分野を主に研究しているのですか」
「航空、測量、気象、電気、機械、鉄道、材料、医療です。全部を私1人で作っているわけではありません。大学の先生、技師さん、工房の人、医師、薬を作る人と分担しています。私は知っていることを出して、実験して、失敗したら直して、測って記録する側です」
「肩書きを並べた話より、今の説明の方が、8年前に会ったあなたらしく聞こえます。知っていることを持ち寄って、実際に試して確かめる人でしたからね」
「私も、そう思います」
「まだ学術の肩書きがありますよ、お嬢様」
フランソワさんが言いました。
「そうでした」
どろちゃんは指をもう1本立てます。
「英国王立協会会員です。それから、フランス王立科学アカデミー外国人会員でもあります」
「英国とフランスの両方で、正式な学術団体の会員なのですか」
「両方です」
「英国とフランスは、かつて戦争をしていた国どうしでしょう。それでも科学のつながりは切らなかったのですか」
「ですから、科学の方では話を切らないようにしたんです。測定の単位とか、電気の言葉とか、鉄道の線路幅とか、国ごとに勝手に決めてから困るより、先に研究者同士で話した方がいいですから」
「なるほど」
「次は、お金の方です」
「やはり経済の話もあるのですね。先ほど国の財産と個人の財産を分けると言っていた理由が、ここで出てくるわけですか」
「あります」
どろちゃんは、今度は自分の胸を指しました。
「ここからは国庫ではなくて、私個人の話です」
「先ほど言っていた通り、ここからはエルレンフェルトの国庫ではなく、あなた個人の話なのですね」
「はい。4か国合同の東インド会社、VOGの株を8/32持っています」
「8/32」
「1/4です」
「4分の1なら、単なる出資者というより会社の大きな方向にも関わる持ち分ですね」
「それから、オーストリア国鉄の持ち株会社です」
「国鉄と名のつく会社まで、あなた個人の持ち株なのですか」
「持ち株会社の株は100%、私が持っています」
吉宗さんが止まりました。
「100%というのは、本当に持ち株会社の株を全部という意味ですか」
「全部です。ただし、鉄道の会計と私個人の会計は別です。鉄道の売上をそのまま私の財布へ入れているわけではありませんよ」
「そこを分けているなら分かります。国鉄の収入をそのまま個人の財布へ入れるという話ではないのですね」
「重要な特許もいろいろ持っています。工場を私が経営していなくても、使われている技術の特許料が入るものがあります」
「それで終わりかと思ったら、まだあるのですね。今度は特許ですか」
「真珠の会社もあります」
「今度は真珠の会社ですか。そこまで事業が広がっているのですね」
「高品質の養殖真珠を作って売る会社です。それから人工のルビーとサファイア、ダイヤモンドに似た炭化ケイ素の結晶を作って装飾品にする会社。ジャム入りのお茶とピロシキのお店も何軒かあります」
吉宗さんは、もう驚くのを少し諦めたようでした。
「国の主で、複数の爵位があり、大臣で、教授で、医師で、そのうえ事業や持ち株まである。8年前に知っていた肩書きだけでは、もう全然足りませんね」
「商売そのものは会社の人がやっています。私は株や権利を持っている方です」
「そこをきちんと区別するところは、昔から変わりませんね。経営していることと、株や権利を持つことは別、ということですね」
「そこは大事です」
理子さんが笑いました。
「これで全部ですか」
どろちゃんは少し考えました。
「大きいところは、これくらいです」
「大きいところは、という言い方が少し怖いですね。小さいものまで数え始めると、まだ続くのですか」
「たぶん、まだあります」
「大きいところまで聞ければ、ひとまず十分です。まだある分は、また今度にしましょう」
「じゃあ、フランソワさん」
「わたくしも、ですか」
「私だけ全部お話しして、フランソワさんを『侍女です』で終わらせるわけにはいかないでしょう」
吉宗さんもフランソワさんを見ます。
「そういえば、8年前もフランソワさんはいつもあなたのそばにいましたね。こちらも、侍女の方という印象だけで見ていました」
「今もおります」
「まず名前です。フランソワ・フォン・ゲーテ。1682年12月1日生まれで、35歳です。私よりちょうど3歳上で、誕生日は同じです」
「35歳?」
今度は理子さんが声を上げました。
「見えませんでしょう?」
フランソワさん自身が少し困ったように笑います。
「見えません」
「私が生まれた日に、フランソワさんはちょうど3歳だったんです。それで、私の身の回りを手伝う子として先に選ばれました。ですから、本当に私が生まれたときから一緒です」
「それなら、主従になってから32年というより、本当に人生の最初から一緒なのですね」
「32年です」
「数字だけ聞くと、余計に顔と合いませんね」
理子さんが言いました。
「次は身分です。エルレンフェルトでは、本人を初代にした世襲男爵家の当主です」
フランソワさんが軽く頭を下げました。
「男爵になっても、侍女は辞めていません」
「はい。今もお嬢様のおそばにおります」
「英国では、どのような身分なのですか」
「世襲騎士爵です」
どろちゃんが答えました。
「アン女王陛下からいただきました。これは私の付き添いだからではなくて、フランソワさん本人の功績です。自分でコウノトリさんを操縦して、英国北部の航空測量や連絡飛行を分担し、土地を借りる手続きや記録、物資、人員の仕事も担当しましたから」
「フランソワさん自身も飛行機を操縦するのですか。付き添って乗っているだけだと思っていました」
「はい。わたくしも操縦します」
フランソワさんが答えます。
「今日も、必要なら途中で代われましたよ」
「今日はお嬢様が操縦なさいました」
「私が飛びたかったから」
「ええ。そうでしたね」
「それから、フランソワ温泉郷です」
吉宗さんが眉を上げました。
「温泉にご本人の名前が付いているのですか。それはまた、侍女という印象からずいぶん遠い話ですね」
「冬にフランソワさんが1人で飛んでいたとき、山の中から湯気が出ているのを見つけたんです。そこから調べて、土地を買って、鉄道を引いて、温泉郷を作りました」
「お嬢様。わたくしがしたのは、最初に湯気を見つけたところまでです」
「だから、見つけなかったら始まってないでしょう」
「その話は何度もいたしました」
「名前ももう変えないんでしょう」
「はい」
どろちゃんは吉宗さんへ向き直りました。
「フランソワさんは、温泉そのものの所有者ではありません。『フランソワ温泉郷』という名前の所有者です」
「施設そのものではなく、『フランソワ温泉郷』という名称の権利を本人が持っている、ということですか」
「はい。それと、今は温泉施設だけではなくて、古代文化遺産の研究と修復と復元をする施設にもなっています。ローマから壊れた彫像を借りて、修復方法を研究して、直したものをしばらく展示して返したり、外の遺跡へ研究者を派遣したりしています。フランソワさんは、そちらの運営でも責任のある立場です」
「お嬢様、その言い方は少し困ります」
「では、『責任のある立場』にしておきます」
「その言い方なら大丈夫です」
「侍女でありながら、男爵家の当主で、英国の世襲騎士爵を持ち、自分で飛行機を操縦し、温泉郷の名称を持ち、古代文化遺産の研究施設の運営にも関わっている。フランソワさんの方も、8年前の印象だけでは足りませんね」
「はい」
フランソワさんは普通に答えました。
「そこまで役割が増えても、今もどろちゃんの侍女としてそばにいるのですね」
「はい」
吉宗さんは、しばらくフランソワさんを見ました。
「フランソワさんの経歴も十分すごいですよ。どろちゃんと比べるから普通に見えてしまうだけですね」
「お嬢様ほどではないかと」
「比べる相手が悪い」
理子さんがまた笑いました。
◇ ◇ ◇
自己紹介がようやく終わったころ、料理がそろいました。
8年ぶりの客に出す食事なので、普段より少し良い材料を使い、紀州で食べているものを何品かそろえてあります。大宴会のように珍味を積み上げた膳にはしていません。
白い飯に、白味噌の味噌汁。味噌汁には豆腐と大根、青菜が入っています。
焼き物は紀州で上がった大きな太刀魚です。厚く切り、1人分ずつ塩焼きにしてあります。大きな1匹ものをそのまま卓へ載せる出し方はしません。
鮎は砂糖と醤油を使った甘露煮です。砂糖が入ってくるようになり、こうした甘い煮物も普通に作れるようになっています。
小さな皿には鯛の刺身があり、湯浅の醤油を付けて食べます。ほかに大根と里芋の煮物、香の物、金山寺味噌も少しずつ並びました。
食後には、有田から来たみかんと柿が用意されていました。
「いい匂いですね」
どろちゃんは白味噌の汁を見ました。
「こちらの味噌汁は白いんですね」
「紀州では、こういう味もよく食べます」
理子さんが答えました。
「少し甘いんですか?」
「少し」
「楽しみです」
どろちゃんは目の前を見ました。
飯。
味噌汁。
太刀魚。
鮎。
刺身。
煮物。
そして箸。
そこで止まりました。
吉宗さんが気づきます。
「箸を見たところで止まりましたね。何か困りましたか」
「私、お箸が使えないんです」
「日本の言葉はあれほど自然に話すので、箸も普通に使えるのだと勝手に思っていました」
「言葉と指は別なんです」
どろちゃんは箸を持ってみせました。
「持ち方は知っています。どの指で動かすかも知っています。でも、知っていることと、魚の骨を外しながら普通に食べられることは別なんです」
「これまで日本へ来たときに、少し練習する機会はなかったのですか」
「練習したことはあります。でも毎日使って育っていませんから、ナイフとフォークの方が速いんです」
フランソワさんも静かにうなずきました。
「わたくしも同じです」
「フランソワさんも同じなのですか。2人とも、言葉は平気でも箸は別なのですね」
「2人ともです」
どろちゃんは持ってきた小さなケースを出しました。自分のマイカトラリーです。
フランソワさんも、自分のケースを出します。
中には磨かれたステンレスのナイフ、フォーク、スプーン。
神様から届いた、例のノーベルシリーズです。
会議棟で使っているものと同じ系統で、欠けても補充対象になる方です。普段使いのために同じ物をそろえてあるカトラリーです。
「これが私のです」
「自分の食具まで持ち歩いているのですか。日本へ来ることを考えて用意したのですね」
「日本へ来ると分かっていましたから」
「そこまで準備してあるなら、今日はその食具を使う方が自然ですね」
「お箸で焼き魚は、さすがに無理です」
「持ち方まで知っているなら少しは使えそうに見えますが、魚の骨を外すところまでとなると別なのでしょうね」
「そこは知識だけなんです」
理子さんは箸を取って、太刀魚の身をきれいに外しました。
どろちゃんはそれを見ます。
「やっぱり、その道具はこの魚には強いですね」
「慣れですよ」
「その慣れがないんです」
どろちゃんはフォークで太刀魚を押さえ、ナイフを入れました。
厚い身は簡単に外れます。
問題は骨です。
「ここですか?」
「もう少し内側です」
理子さんが教えます。
「これですか?」
「はい。そこを持ち上げると」
「あ、取れました」
吉宗さんが見ています。
「さっきまで国家元首や大学や外国の大臣の話をしていた人が、魚の骨がきれいに取れたことでそんなに喜ぶのですね。その方が少し安心します」
「骨がきれいに取れたら、うれしいでしょう?」
「それは確かに、きれいに取れればうれしいですね」
鮎の甘露煮は楽でした。
フォークを入れると、よく煮えた身が崩れます。
「これは食べやすいですね」
「骨まで食べられます」
「本当ですか?」
どろちゃんは少しだけ取って口へ入れました。
「食べられますね。甘いです。醤油も入っていますか?」
「入っています」
「砂糖も、普通に料理へ使えるくらい入るようになったんですね」
吉宗さんが答えました。
「以前より手に入りやすくなった。何にでも使うほど安くはないが、このくらいの料理には使える」
「いいですね。甘いものが増えます」
「砂糖が料理に使えるようになった話より、まず甘いものが増えることを喜ぶのですか。そこも変わりませんね」
「大事です」
今度は刺身です。
小皿の醤油を少し付けました。
「これは、湯浅ですか?」
「ええ、湯浅の醤油です」
「ゆわさ」
どろちゃんが、少し発音を変えて言いました。
吉宗さんが見ます。
「湯浅を知っているのですか。日本の地名まで、本当にいろいろ知っていますね」
「名前は知っています。醤油のところでしょう?」
「醤油の土地だというところまで知っているのですか。それなのに箸だけは使えないというのが面白いですね」
「知っていることは多いんですけど、お箸は使えないんです」
「日本のことをこちらより知っているところがあるのに、箸では困る。便利なのか不便なのか、こちらも分からなくなりますね」
「私も、そう思います」
白味噌の味噌汁は、どろちゃんが思っていたより甘みがありました。
「これ、好きです」
「お嬢様、先ほどから甘いものばかりお好きですね」
「白味噌はお菓子ではありませんよ」
「存じております」
金山寺味噌も少し食べます。
「これも味噌なのに、汁にする味とは全然違いますね」
「そのまま食べます」
「ご飯に合いますね」
しばらくは、肩書きの話が止まりました。
国家元首も、征夷大将軍も、侯爵も、大臣も、教授も、男爵も、今は飯を食べています。
理子さんは箸で太刀魚をきれいに食べ、吉宗さんも普通に続きます。
どろちゃんとフランソワさんだけ、1718年の紀州の膳の横に、磨かれたステンレスのナイフとフォークを置いていました。
最後に有田のみかんが出ました。
どろちゃんは皮をむきます。
「これは道具がいりませんね」
「ようやく同じ食べ方になりましたね」
理子さんが言いました。
「みかんは得意です」
「みかんが得意というのは、さすがに自慢するところではないでしょう」
「今日の食事では大事ですよ」
吉宗さんは呆れたように笑いました。
8年前、理子さんの部屋では、どろちゃんは薬と体温計を持っていました。
今日は、同じ理子さんが向かいに座り、自分で太刀魚を食べ、みかんの皮をむいています。
どろちゃんは、その光景を見てから、自分のみかんを1房口へ入れました。
「やっぱり、お元気で本当によかったです」
理子さんは、今度は何も言わずに笑いました。




