176貴族令嬢は、船連絡列車で地峡を渡ります。 先に開通させたスエズ運河横の多用途鉄道にのります。
第176章 貴族令嬢は、船連絡列車で地峡を渡ります
スエズ側の旅客駅は、普通の駅だけを想像して来ると少し変でした。
線路の横まで、水が入っています。
紅海側から入ってきた小型船が、そのまま駅の一部へ入り、岸壁のようなホーム脇へ寄せられる構造です。
水際には大きな門型クレーンがありました。
クレーンの脚はホームの両側をまたぎ、レールに沿って移動できます。その向こうには2870mm軌間の積込線があり、幅の広い無蓋貨車が待っています。
どろちゃんとフランソワさんが駅へ着いたとき、ちょうど1隻のスループを積むところでした。1本の帆柱に大きな帆を張る、50tから70t級の小型帆船です。
帆柱はすでに外され、索具もほどいて束ねてあります。帆柱を立てたまま鉄道へ載せれば架線に当たるので、船体と帆装は分けて運びます。
もう1つ、船から降ろしているものがありました。バラストです。
「これも別にするのでございますか」
フランソワさんが、門型クレーンの脇へ積まれていく荷を見ました。
「うん。航海中は大きな帆を使うために必要だけど、今は船を浮かべて走らせるんじゃなくて、吊って貨車に載せるからね。重いまま船体を吊るより、外へ出せる重さは外へ出した方がいいよ」
門型クレーンがあるので、バラストも船外へ移して別の無蓋貨車へ載せられます。帆柱、索具、バラストを分ければ、クレーンが実際に吊る船体は航海中よりかなり軽くなります。
船を丸ごと地峡の反対側へ運びたいなら、この準備をして8時間鉄道へ預ける方が、喜望峰を回るよりずっと小さな負担で済みます。スループ級の船でアフリカ南端を回る長い航海には、真水、保存食、予備の帆布、索具、薬、乗員の体力が要り、人数の少ない船では病人が何人か出るだけで当直や操船まで苦しくなります。
船そのものを紅海側やインド洋側で使いたい人には、船体、帆装、バラストをまとめて反対側へ送れる8時間の鉄道輸送はかなり魅力がありました。
「吊ります」
荷役の人が周囲へ声をかけ、旅客が入らないよう作業区域が閉じられました。太い吊り具が船体へ掛けられ、門型クレーンがゆっくり荷重を取ると、軽くなったスループが水面から少しずつ持ち上がり、船底から水が落ちます。
クレーンはそのまま積込線側へ動き、待っていた無蓋貨車の受け台へ船体を下ろしました。
「大きい荷物ですね」
フランソワさんが見上げました。
「船だけど、鉄道から見たら貨物だね」
船体の位置を合わせて固定具を締め、取り外した帆柱と索具、船外へ移したバラストも同じ列車へ載せます。
反対側のターミナルでは、まず船体を貨車から吊り上げて水へ下ろし、バラストを戻して喫水と左右の傾きを確認してから、帆柱を立て直して索具を組みます。そこで航海できる状態へ戻ります。
船を運ばず、中身だけ積み替えたい荷主もいます。
そういう貨物には有蓋貨車もあります。雨や砂を嫌う荷物、箱物、布、紙、食品などは船から貨車へ積み替え、反対側で別の船へ移します。
旅客も同じです。
船から降り、駅へ歩き、列車へ乗り、8時間後には反対側の海で次の船へ乗れます。
運河がまだ1本も船を通せない段階でも、地中海と紅海の間の輸送はもう始まっていました。
◇ ◇ ◇
今日の列車には旅客車が2両あります。
その後ろへ有蓋貨車と無蓋貨車が付き、さらにさっきのスループを載せた貨車も連結されました。
完全な旅客列車ではなく、船連絡の混合列車です。
2870mmの軌間を使う車両は、普通の鉄道よりはるかに幅があります。
車両限界は8m級で、旅客室の内側だけでも幅4mほどあります。
セカンドクラスは、その幅を使って横8席です。
中央通路は省きました。
座席の前後移動は、船のように車体の外側へ付けた廊下を使います。客室内を通路で割らないため、横8席でも座席幅を確保できます。
前後の座席ピッチも広く取ってあります。
8時間座ることを前提にしたセカンドクラスです。
「これ、セカンドクラスでいいの?」
どろちゃんは座ってみました。
膝の前にも余裕があります。
「長い船旅の途中で、さらに8時間こちらへ詰め込まれましたら、皆様お疲れになるのではございませんか」
「そうだよね」
ファーストクラスは個室です。
扉を閉めれば家族や同行者だけで使えます。こちらも外廊下から各室へ入る船室に近い構造でした。
2両の旅客車のうち、片方にはバーラウンジもあります。
ここだけはファーストとセカンドを分けていません。
どちらの客も同じ入口から入ります。
サモワールが据えられ、ピロシキ、パン、簡単な肉料理、菓子、ジャム入り紅茶、酒類を出せます。
食堂車の連結は、旅客需要が増えてからです。
今の旅客数なら、バーラウンジで軽食を出せば足ります。需要が増え、8時間のあいだにきちんとした食事を希望する人が増えたら、そのとき食堂車を連結する計画です。
いまのところ、バーラウンジの値段設定だけ少し困っています。
セカンドクラスの客には、毎日使うには少し高い。
ファーストクラスの客には、料理も器も少し簡素です。
船から乗り継いできた人は、どちらの船室等級だったとしても同じバーラウンジを使います。
「ごめんなさいだね」
「何についてでございましょう」
「セカンドクラスの人には高くて、ファーストクラスの人には安っぽい」
フランソワさんがメニューを見ました。
「どちらにも完全には合っておりませんね」
「食堂車が必要になるまで、これで我慢してもらおう」
どろちゃんは今日はセカンドクラスへ座ることにしました。
事業主だからファーストへ入るのではなく、普通の乗継客が8時間どう過ごすかを見たいからです。
切符も普通に買っています。
◇ ◇ ◇
発車すると、列車はゆっくり速度を上げました。
速度より、混合運転と工事区間の安全を優先します。
工事列車も貨物列車も走り、小型船まで運びます。沿線ではまだ工事が続いています。
スエズから地中海側の新港まで、約8時間。
窓の外には、運河予定地と鉄道が長く続きます。
どろちゃんはしばらく席にいましたが、やがて外廊下へ出ました。
風と一緒に、砂も少し飛んできます。
その代わり、工事現場がよく見えました。
「こっちの方が見やすい」
「手すりから身を乗り出されませんようお願いいたします」
「分かってるよ」
列車が最初に通った大きな工区では、運河の掘削がかなり進んでいました。
ただし、現実の後世のスエズ運河のように、砂を大きく掘り下げて、そのまま水を入れる断面にはしていません。
海水を入れる前に、砂地を構造物へ変えます。
通常区間の断面は逆台形です。
底を狭くして、上へ行くほど広がる断面です。
掘った砂地盤をそのまま残さず、必要なところはセメントを混ぜて固め、締め固めます。その上へコンクリートの底部と斜面部分を施工します。
底と壁をまとめて巨大な一体構造として打たず、工区を分け、ブロックを張り合わせるように施工できます。
崖崩れを止める斜面工事を、ずっと大きくして運河へ使うような考え方です。
逆台形なので、コンクリート自身の重さも、砂が内側へ崩れようとする力を押さえる側に働きます。
どろちゃんは走る列車から、施工途中の区間を見ました。
最先端では重機が砂を掘り、その後ろで地盤を整え、さらに後方では底部のコンクリート施工と斜面へのブロック張りが続いています。
作業が一本道に並んでいるので、列車から見ると工事の順番がそのまま見えました。
「トンネルを開けていくのと似てるね」
「上が開いておりますけれど、先へ先へ設備が移っておりますね」
「うん。乾いてるうちに全部やる」
水が入った後で砂の斜面を延々補修し続けるより、最初に固めます。
海水を入れるのは、その区間の構造ができてからです。
◇ ◇ ◇
しばらく走ると、断面が急に変わりました。
左右が立っています。
通常の逆台形ではなく、大きなU字に近い形です。
「ここが締切のところだね」
運河全線には、およそ10か所、将来の大規模整備に備えた締切閘門を設けています。
水位調整には使わず、保守のために運河を締め切る閘門です。
地中海とスエズ湾は、海面式でつなげられるほど平均水位差が小さい場所です。
この判断は地図だけで決めず、両端の海面を長期間測り、水準測量を行い、重力場による海面の基準面――ジオイドまで含めて比較しました。潮汐や風で一時的な流れは生じても、巨大な水位差から恒常的に大量の水が流れ続ける地形ではないことを確かめています。
水位を上げ下げする閘門を並べる理由は消えました。
その代わり、帆船には牽引が要ります。狭い運河では、風上へ向かうための大きなタッキングが運河幅を越えます。蒸気船が航路の船を完全に置き換える時代までは、帆船が来るたびに両岸の2870mm鉄道が動きます。狭い区間では左右から索を取り、中央の広い交換盆地では岸側の牽引と舵を組み合わせます。船長の都合で速度を上げるより、運河側が牽引速度をそろえた方が岸と船の両方に優しい運用になります。
この門は、必要なときに運河の一部を閉じて排水するために作ります。
底版の大規模補修、壁の作り直し、運河そのものの増深が必要になったときに使います。
そんな工事が、50年後に来るか、100年後にも来ないか、今は分かりません。
使わない可能性もあります。
それでも、後から「水を抜きたいのに締め切れない」と困るより、乾式施工できる今のうちに用意します。
閘門の前後だけは、船を通す大きなドックに近い垂直断面です。後世のパナマ運河の閘門と比べても大きな断面を取るため、この短い区間だけは通常部と構造が大きく変わります。
水が入っていない施工中は、外側の土圧に対抗する内側の水圧がかからないため、垂直に近い壁が内側へ寄らないよう上部に大きな支え材を渡します。
ここだけは支保工が目立ちます。
通常区間の逆台形断面には、同じ支保工を延々並べません。
「大きいね」
「門だけでも、かなりの工事でございますね」
「使わなかったら、あとで取っちゃえばいいよ。全部逆台形に直せるようにしてあるから」
締切設備の役目は、将来必要になるかもしれない大規模保守へ備えることです。保守方法が変わり、2本目の運河まで完成したあと、ほとんど使わないと分かった締切閘門は撤去することもできます。
最初の運河しかない間は、締切閘門で挟んだ工区を完全に排水すると、その工区を船が通れなくなるため、運河全体の通航も止まります。
2本目の運河が完成すれば事情が変わります。通常は2本を方向別に使い、北向きと南向きの船をそれぞれ流しますが、片方を修理のため閉鎖しても、もう片方だけで通航を続けられます。その場合は中央の広い湖を行き違い場所にして、北向きと南向きの船を交互に通す、鉄道でいえば単線運行に近い使い方になります。
そのため、まず1本目の運河を早く開通させて通航料を得ながら2本目を造り、完成後は片方を使ったまま、もう片方を締め切って拡幅や増深、大規模修理を行える計画でした。
◇ ◇ ◇
昼前、列車は締切閘門に近い幅の狭い区間を通り、回旋橋のそばで少し速度を落としました。閘門設備と橋を近くへまとめ、通常より狭く造る区間を横断地点にも使っています。
橋を閉じているときは人、馬、馬車が渡れ、両岸の2870mm鉄道もここでつながります。船が来れば、橋桁を水平に旋回させて運河の上を開けます。
「真ん中を支点にして回す橋ではないのでございますね」
フランソワさんが橋を見ながら尋ねました。
「うん。運河の真ん中に旋回用の橋脚を置きたくないから。帆柱のある船を通す場所だし、狭いところほど真ん中は空けておきたいの」
「では、両岸から半分ずつ橋を出して、中央でつなぐ方法はいかがでしょう」
「この鉄道でそれをやると、真ん中の継ぎ目がいちばん気になるよ。客車だけじゃなくて、重機も船も運ぶからね。閉じたときは、1本の橋としてきちんと荷重を流したいの」
フランソワさんは、橋の根元から陸側へ続く桁を見ました。
「跳ね橋ではいけませんでしたか」
「橋桁が重いから、同じくらい大がかりな釣り合いと支柱が要るよ。昇降式だと上へ持ち上げても構造が残るから、帆柱の高い船には邪魔になるしね」
「それで横へ回すのでございますね」
「うん。それに、回る方がかっこいいし」
どろちゃんはそこだけ楽しそうに付け足しました。
回転機構は片岸側にあり、運河へ張り出す橋桁の反対側には、ほぼ同じ質量になる陸橋桁と路面が続いています。別に巨大なカウンターウェイトを積むのではなく、橋として使う陸側の構造そのものを釣り合い側に使い、旋回部分は円弧状の支持レールと支持輪で受けます。
「列車が載っているときも、あの丸いレールで支えるのでございますか」
「そう。閉じたときは対岸側でも運河側の桁端を受けるから、重量列車を片持ちで支える橋にはならないよ」
「では、片持ちになるのは……」
「橋を回して、運河側の桁端が対岸の支えから離れている間だけ。列車はそのとき通さないから、橋桁自身を回せればいいの」
船が近づくと通行を止め、橋桁全体が片岸の回転機構を中心にゆっくり水平旋回します。運河側の桁が対岸の支持から離れて岸側へ逃げると、帆柱の上にも橋桁の下にも障害物を残さない開口ができました。
橋を閉じれば対岸側の支持へ桁端を載せ、鉄道と道路を再びつなげます。重量物を運ぶ鉄道だからこそ、列車が載る状態と、橋だけを旋回させる状態を分けて荷重を受ける構造にしてありました。
列車は橋を渡らず、そのまま同じ側の本線を北へ進みます。
◇ ◇ ◇
昼になり、どろちゃんたちはバーラウンジへ行きました。
サモワールから湯気が上がっています。
ピロシキを2個と、ジャム入り紅茶を2杯頼みました。
フランソワさんは皿を受け取り、窓際の席へ運びました。
「食堂車なくても、今日はこれでいいね」
「お嬢様はピロシキでございましたら、どこでも満足されるように見えます」
「場所によるよ」
どろちゃんは値札を見ました。
中くらいの値段です。
この値段については、帰りにもう少し考えることになりました。
列車が動き出すと、窓の外にまた工事支線が現れます。
◇ ◇ ◇
本線からは、間隔を空けて短い支線が何本も運河と反対側へ伸びています。運河と本線の間は、牽引索、保守通路、排水設備、架線柱から伸びる片持ち腕などで使うため、セメント工場を置ける余裕がありません。
上から見ると七支の剣にも似ていますが、枝はすべて外側だけへ伸び、その先に移動式のセメント工場が置かれていました。バルカン半島には石灰岩の採取地を複数設け、採った石灰岩を船で地中海側へ運んでから鉄道へ積み替え、必要な工区の支線まで送ります。
そこでセメントを作り、骨材と合わせて現場へ供給するので、工事が進めば工場そのものも前へ移っていきます。
次の支線へ移動するときは、塔、煙突、高いホッパーなど車両限界を越える部分をいったん解体し、低くできる設備を貨車へ載せます。次の支線へ運んだあとで再び組み立てるため、巨大な工場全体を完成形のまま架線下へ通す必要はありません。
支線そのものも先へ作り替えます。
「工場が歩いてるみたい」
どろちゃんが外廊下から見ました。
「先ほどの工場跡にも線路が残っておりますね」
「全部取らなくてもいいからね」
工事が終わった支線跡には、すでに小さな建物がいくつか残っていました。
作業員宿舎、資材倉庫、給水設備、電気設備が残っています。
西のナイル川から来た淡水配管も、そこで分岐しています。
セメント工場を動かすために必要だった水が、工場移転後には人の生活へ使えます。
「ここ、人が残ったら駅になるね」
「お店もできそうでございます」
「水があるし、線路もあるし、道もあるから」
史実の後世のように、砂の斜面を抱えた運河だけが延びている景色とは条件が違います。
この運河では岸の形を固め、その脇には鉄道、淡水、工事用の電気と通信が残ります。
工事拠点が、そのまま町の種になります。
住みたい人がいなければ、支線を撤去して終わりです。
残る人が増えれば、そこへ駅を作ればいい。
どろちゃんは、まだ名前のない駅候補をいくつも通り過ぎました。
◇ ◇ ◇
午後、地面がさらに低くなってきました。
中央低地です。
自然の地形は、もともとなだらかな皿に近い形をしていました。
そのまま海水を入れれば、周辺に遠浅の水面が大きく広がります。
船の交換場所としては使いにくく、浅い縁には砂が動きます。
そこで、海水を入れる前に形を変えています。
低地の縁を掘り、出た砂を必要な場所へ盛り直します。
層ごとに締め固め、セメントで固化します。
内側は急な形へ整え、底面は必要な深さへ広く取ります。
皿だった断面が、お盆に近い断面へ変わっていました。
「まだ水ないね」
「海とつながっておりませんから」
「今のうちにできること、全部やろう」
海水が入る前なので、底へ重機を下ろせます。
護岸も乾いた状態で施工できます。
ここは通常の細い逆台形の運河区間とは違い、船が待ち、交換するための大きな人工盆地になります。
最初の運河は1本です。
狭い区間で船同士がすれ違う余裕を作りすぎず、中央低地の広い水面で待避と交換を行います。
それで掘削量を抑え、早く開業します。
運河通航料、鉄道収入、港湾収入が入るようになれば、次の工事費を自分で生み出せます。
その収入を2本目の運河へ回します。2本目ができれば、通常は方向別に使いながら、必要なときには片方ずつ拡幅や増深を行えます。船が大きくなった時代に合わせて、運河そのものも世代ごとに大きくできます。
どろちゃんは中央低地を通り過ぎるまで、外廊下からずっと工事を見ていました。
◇ ◇ ◇
夕方が近づくころ、線路の周囲に建物が増え始めました。
資材置場に加えて、恒久利用を考えた建物も増えています。
倉庫、宿舎、食堂、事務所、診療所、商店が線路の周囲へ増えています。
そして遠くには、大量の石材が整然と積まれています。
地中海側の新港です。
後世にはポートサイドと呼ばれる都市になる場所ですが、1709年の今は「地中海側の新港」と呼ばれています。
列車は約8時間かけて、ゆっくり駅へ入りました。
到着線の向こうにも水が入り、門型クレーンが見えます。
反対側の海へ運ばれてきた小型船を、ここでまた水へ戻せます。
どろちゃんは外廊下からホームへ降りました。
「ちゃんと8時間だったね」
「お疲れでございますか」
「思ったより平気。セカンドクラスの椅子、広くしてよかった」
ホームの向こうでは、サモワールから湯気が上がっていました。
そのさらに向こうでは、神様から届いた石材を使って、新しい町の工事が続いています。




