第172章 貴族令嬢は、世界の給料が変わるのを見ます。 通訳作業をできる人を養成する方法を思いつきます。
第172章 貴族令嬢は、世界の給料が変わるのを見ます
エルレンフェルトへ帰った翌朝も、机の上には紙がありました。
昨日まで赤い鉛筆を入れていた実務マニュアルの校正刷りです。
その横には、各国から届いた新しい報告が積まれていました。
「増えてる」
どろちゃんが椅子へ座ると、フランソワさんが少し離れたところへ朝のお茶を置きました。
「昨夜のうちにも届いたようでございます」
「世界が変わると、紙が増えるんだね」
「お嬢様の場合は、変わらなくても増えております」
「それは言わないで」
最初に開いたのはフランスからです。
神様との労働契約が動き始めて一か月ほど。過去の未払い賃金の精算だけでなく、その後の雇用にも数字が出始めていました。
農園では、残ることを選んだ人へ新しい賃金が払われています。
工房でも、奉公人という名前だけで給金を曖昧にすることができなくなりました。
港の荷役、倉庫、商店、家内労働、船員。仕事の種類が違っても、本人へ直接払う最低線は同じです。
基準になっているのは、精算時点からさかのぼった直近一年間に、その国で正規兵としての基礎訓練を終えた一年目の普通の下級兵士へ、平時の通常勤務を続けるだけで本人へ直接支払われた基礎給与の平均です。
通常勤務に対して一年目の兵士全員へ固定的に支払われる金は、名目だけを「手当」に変えても基礎給与として扱います。
食事、宿舎、制服、武器、弾薬、募集費、訓練費、輸送費は基準に含めず、戦地手当、危険手当、遠隔地手当、航海手当のような特別勤務への手当も別に扱います。
「ここは、ちゃんと動いてる」
どろちゃんは報告の数字を追いました。
兵士自身も労働者なので、一年目の普通の下級兵士の基礎給与も、その時点で効いている最低賃金を下回ることはできません。
軍の会計担当者から来た質問もありました。
『危険手当を増やした場合、翌年の最低賃金基準へ含めるか』
「特別な勤務への手当として別に扱うよ」
どろちゃんは余白へ書きました。
『平時の通常勤務に対する基礎給与と、危険な勤務に対する手当を分けて帳簿へ記載すること。通常勤務をする一年目兵士全員へ固定的に払う金は、名目だけを「危険手当」に変えても基礎給与として扱う』
次の報告は、もっと目に見える変化でした。
靴屋の売上が増えています。
衣料品も売れています。
食料品店では、これまで一番安い穀物だけを買っていた家が肉や卵、果物まで買うようになった例が載っています。
家具を買い直した人もいました。
屋根を修理した人もいます。
子どもを学校へ通わせるための費用を出した家もあります。
過去の未払い分をまとまって受け取った帰還者に加えて、今までより高い賃金を毎週、毎月受け取る人も増えています。
「ルイ陛下が言ってた通りだね」
働く人が金を持てば、その人が別の人の客になります。
パンを買えばパン屋へ行きます。
靴を買えば靴屋へ行きます。
家を直せば大工や左官の仕事になります。
そこからまた給料が出ます。
その変化についていけない事業も出ました。
最低賃金を払うと採算が合わない農園はありました。
人をほとんど無給で働かせることを前提にしていた工房もあります。
国から融資を受け、過去分を精算してから事業を組み直せたところは残りました。
どう計算しても、新しい賃金では利益が出ないところは閉じました。
その一方で、機械の注文が増えました。
揚水用のポンプ、鉱山の巻上げ機、製材機、粉ひき機、荷役用のウインチ。馬一頭と人何人かでしていた仕事を、別の動力へ置き換える相談も増えています。
工作機械も熟練工も数が限られているので、世界中へ同じ設備を一度に置くことはできません。
注文だけ増えて、納期が長くなった工場もありました。
「人を安く増やすより、機械を買った方がよくなってきたんだ」
ライデン大学の経済の先生が、向かいで別の報告を読みながら頷きました。
「ただし、国ごとの差はかなりあります。資本も技術者も多い国は早く機械へ移れます。小さな国では、まず賃金を払える仕事へ人を集め、機械は共同で使う方が早い場合もあります」
「みんな同じ速さにはならないね」
「最低線は共通です。その先で、どう生産性を上げるかは各国の仕事です」
この世界では、後世のような大きな人口増加はまだ起きていません。
道路、鉄道、港、鉱山、工場、農地改良、上下水道、住宅。人を必要とする仕事は、むしろいくらでもありました。
給料が上がったから、明日から町中に仕事のない人があふれる、という形にはなっていません。
安く縛られていた人が、もっと条件のよい仕事へ移る方が先に起きています。
軍隊からの報告は、少し違いました。
「やっぱり来た」
「何でございますか」
「徴兵」
紙には、兵役を国家への義務として扱えば、最低賃金より低い条件でも人を集められるのか、と書かれていました。
どろちゃんは法学の先生へ渡しました。
「名前を変えたら外れる?」
「難しいでしょう。今回の契約は、農園を会社領と呼べば外れる、奉公を家族への義務と呼べば外れる、という読み方ができる文面ではありません。兵士も労働者として最低賃金の基準側に入っていますから、国家が『徴兵だから賃金ではない』と名付けるだけでは危険です」
「だよね」
兵士になる人から見ると、民間の仕事でも一年目下級兵士の平時基礎給与以上を受け取れます。
軍務には行動の自由を制限される時間があります。
戦争になれば撃たれる危険もあります。
遠い土地へ送られることもあります。
それなら、同じ最低線のままで大量に志願者を集めるのは難しくなります。
危険な勤務には危険手当、遠隔地なら遠隔地手当、航海するなら航海手当を付けます。そうやって兵士を集めることはできます。
ただし、一人あたりの費用は上がります。
「戦列歩兵の人数も、すぐ減っていくかな」
「そこまで急には変わらないでしょう」
軍事を担当する先生が答えました。
「すでに訓練された兵もいます。国境警備もあります。ただ、安い兵を何万人も並べる方法の魅力は下がります。少ない人数へ射撃、砲兵、工兵、通信、輸送をきちんと教える国は増えるでしょう」
「エルレンフェルトが先にやってた方だね」
「人が少なかったから、そうせざるを得なかった、とも言えます」
どろちゃんは次の紙を取りました。
そこから、仕事の種類が変わりました。
同じ報告書なのに、読めません。
正確には、どろちゃんには読めます。
神様の言語チートがあります。
ほかの人が読めません。
「これ、何語?」
「清側から来た地方報告の添付資料です」
次は別の文字です。
「これは?」
「オスマン側です。ただし中央官庁の文書と、現地の聞き取り記録で言葉が違います」
その次は中央アジア。
その次は南アジア側から回ってきた参考資料。
東南アジアでは一つの港に複数の言葉が並びました。
ヨーロッパの外交ではナーロッパ共通語が広く通じます。
フランス、グレートブリテン、ネーデルラント、イタリアの外交官や学者なら、同じ正文をそのまま読めます。
世界全体へ広げると、一国一言語では終わりませんでした。
「20か国だから20種類、じゃないね」
「むしろ、国の数より増えておりますね」
フランソワさんが紙の山を見ました。
「これ、わたし一人で最終確認するの?」
「各国にも通訳の方はいらっしゃいます」
「日常会話ならね。でも、『本人へ直接払う』とか、『通常勤務の基礎給与』とか、一語ずれたら別の制度になるよ」
難しいのは翻訳者の力量より、同じ制度が存在しない言葉へ新しい法律用語を持ち込むことでした。
家長へ渡した金まで本人の賃金に含む意味になっていないか。
前借りを理由に退職できない仕組みを、普通の借金と同じ言葉で書いていないか。
危険手当と基礎給与を分けられているか。
国外投資なら外れる、と読める文章になっていないか。
どろちゃんが一つずつ見ます。
昼を過ぎました。
まだ半分にも届きません。
「これ、無理」
どろちゃんは赤い鉛筆を置きました。
大学の先生が顔を上げました。
「何をやめます?」
「最終確認をわたし一人へ集める仕組み」
どろちゃんは机の端に置いてあった国際連盟の次回総会資料を引き寄せました。
「会議に出す。読める人を増やす方にする」
校正刷りの山の横へ、新しい議題が一枚増えました。




