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18貴族令嬢はロンドンへ飛びます。長距離飛行です。ロバートフックに会うよ。

第十八章 貴族令嬢はロンドンへ飛びます


 ライデン大学から、大きな封書が届きました。


 大学からの書類にしては厚く、角を折らないよう、薄い板ではさんであります。


 表には、大学の先生の字で、どろちゃんの名前が書かれていました。


「また図面?」


 朝食のあと、どろちゃんは食堂の窓際で封を切りました。


 中から出てきたのは、大学の手紙です。


 その次に、見慣れない封筒。


 ロンドンから届いた物を、ライデンで包み直して送ったと書いてあります。


 どろちゃんは、その封筒を先に開けました。


「ろばーとっちからだ」


 お父様が新聞から顔を上げました。


「ろばーとっち?」


「ロバート・フック先生」


「本人には、その呼び方をしないように」


「しないわ」


 たぶん。


 手紙には、レンズが無事に届いたこと、古い顕微鏡へ取り付けるために少し工夫したこと、像が明るくなり、色のにじみが大きく減ったことが書かれていました。


 そして、どろちゃんが送った肖像への返礼として、小さな包みを同封した、とあります。


 どろちゃんは紙包みを開きました。


 一枚ではありません。


 厚紙へ貼った小さな自画像。

 横顔を描いた細い紙。

 もっと若いころらしい顔を、簡単な線で描いた一枚。


 どれにも、フック自身の署名がありました。


「三枚ある」


 どろちゃんは、最初の一枚を窓の光へ向けました。


 髪。

 鼻。

 頬。

 少し疲れて見える目。


 論文の中で何度も名前を見た人が、急に顔を持ちました。


 後の世へは残らないかもしれない顔が、いまはここにあります。


 どろちゃんの手の中に三枚。


「宝物にする」


 お父様は、三枚を一度見てから、どろちゃんへ返しました。


「それは、しまう場所を決めた方がよいな」


「私の机」


「鍵のかかるところだ」


「では、机の鍵が必要ね」


「先に金庫を使いなさい」


 どろちゃんは少し考え、素直に金庫へ持って行きました。


     *


 フックの手紙には、もう一つ書いてありました。


 健康が許せば、直接会って話してみたい。


 どろちゃんは、その一行を二度読みました。


 最初の手紙は、ライデン大学を経由しました。


 相手が本当にロバート・フックなのか。

 送り主が本当にエルレンフェルト子爵家のドロテーヤなのか。

 大学が間に入ったことで、双方とも確かめられました。


 今度は、ロンドンの宛先が分かっています。


 どろちゃんは、新しい便箋を出しました。


 今度は大学へ送りません。


 直接、ロンドンへ送ります。



Hochgeehrter Herr Hooke,


für Ihren freundlichen Brief und für Ihre Bildnisse danke ich Ihnen von Herzen. Sie sind für mich ein großer Schatz.


Wenn Ihre Gesundheit es erlaubt, würde ich Sie sehr gern persönlich besuchen und mit Ihnen über Ihre Arbeiten und über das Fliegen sprechen.


Ich kann London mit meinem Flugzeug erreichen. Falls ein ausreichend freier Platz für Landung und Start vorbereitet werden kann, werde ich zu einem von Ihnen bestimmten Tage kommen.


Mit größter Hochachtung


Ihre ergebene

Dorothea von Erlenfeld



 日本語にすれば、次のような内容です。



敬愛するフック様


 ご親切なお手紙と肖像を、心よりありがとうございます。私にとって大切な宝物です。


 お身体が許すようでしたら、ぜひ直接お目にかかり、あなたの研究と、空を飛ぶことについてお話ししたく思います。


 私は飛行機でロンドンまで行くことができます。着陸と離陸に十分な場所をご用意いただけるなら、ご指定の日に伺います。


 最大の敬意を込めて


 ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト



 お父様は、手紙を読みました。


「行くつもりなのだな」


「返事が来てから」


「それならよい」


 どろちゃんも、アポイントメントなしで外国の学者のところへ飛び込むつもりはありません。


 子爵家から送る正式な手紙です。


 返事を待ちます。


     *


 ロンドンからの返事は、今度はライデンを通りませんでした。


 日付。

 訪問を歓迎すること。

 ロンドン近郊の丘に、飛行機のための場所を用意すること。

 着陸予定日の午前には、地上へ大きな布を置き、風向を示すものを立てること。

 馬車を待たせること。


 さらに、外国の子爵令嬢であり、大学の研究者でもあるどろちゃんを迎えるため、簡単な歓迎の席を設ける、と書いてありました。


 フック本人は、体調によってはそこへ出られないかもしれません。


「無理して来なくていいのに」


 どろちゃんは返事を読みながら言いました。


 けれど、その本人が、数日後にはもっと無理をすることになります。


     *


 英国へ持って行く物は、前日のうちに並べました。


 地図。

 時計。

 水。

 食べ物。

 外套。

 神様の燃料缶、一つ。


 それから、小さな薬箱。


 アスコルビン酸ナトリウム。

 マルチビタミン製剤。

 抗生物質。


 薬は、名前を書いただけでは渡せません。


 どのようなときに使うのか。

 何回使うのか。

 途中で勝手にやめないこと。

 どのような症状が出たら中止するのか。

 細菌による病気へ使う物であって、骨折や疲労や栄養不足まで治す薬ではないこと。


 説明書を一緒に入れました。


 栄養補助食品は、今回持てる量だけです。


 レトルトの袋を何十個も積めば、その分だけ飛行機が重くなります。追加分は、あとから船で送ることにしました。


 別の箱には、写真を入れます。


 タドポール君。

 小鳥ちゃん。

 じょうろちゃん。


 それぞれ、正面、側面、斜め前から撮った写真。


 翼幅、全長、重量、乗員、速度、高度、用途、推進方式、滑空性能など、公開してよい範囲の主要諸元を一枚にまとめました。


 製作図面ではありません。


 写真を見たあとでも、何の機械だったのか思い出せるための資料です。


 最後に、長い木箱が一つ。


 中には、タドポール君の十二分の一模型が入っています。


 アルミニウムとグラスファイバーで作った、フックへのお土産でした。


 車輪もあります。

 操縦面も動きます。

 重心も合わせてあります。


 飾るためだけの模型ではありません。


 ちゃんと飛びます。


「これを一番喜ぶかもしれない」


 どろちゃんが言うと、技師さんの一人が頭の中で答えました。


 ――落として壊すかもしれん。


「飛ぶ物は、飛ばした方がいいでしょう」


 ――だから予備部品を付けろ。


「そうする」


 模型の箱へ、交換できる小さな金具と、修理方法を書いた紙が追加されました。


     *


 英国行きの日。


 朝は晴れていました。


 高分子材料で作った増槽は、機体の重心変化をできるだけ小さくする位置へ固定されています。


 どこへ置けばよいかは、機体の重量と重心を知っている技師さんたちが決めました。


 どろちゃんは、自分の想像で位置を変えません。


 模型の箱。

 薬箱。

 写真。

 燃料缶。


 全部の固定を確認します。


 ――操縦系統。


「異常なし」


 ――燃料。


「主槽、増槽、弁、確認」


 ――積荷。


「動かない」


 ――天候。


「雲は少ない。西へ行くほど風が少し強い」


 タドポール君が言いました。


『ロンドンは、ライデンより遠い?』


「飛ぶ距離は長い。でも途中で大学へ寄らないから、今日はまっすぐ行くの」


『海があるよ』


「知ってる」


『海へ降りる場所はないよ』


「それも知ってる」


 ――だから燃料と天候を確認した。


 技師さんの声が入りました。


「はい。分かっています」


 タドポール君は丘を下りました。


 翼が風を受けます。


 主輪が草を離れました。


 お父様とお母様が小さくなります。


 町が小さくなります。


 工場の煉瓦屋根も、薬品研究所の新しい建物も、すぐに地図の記号くらいの大きさになりました。


 どろちゃんは西へ針路を取りました。


     ◇ ◇ ◇


 大陸の上では、町と川を目印にしました。


 空から見ると、道路より川の方が見つけやすいことがあります。


 森の中で道は消えます。

 川は光ります。


 城壁の町は、遠くからでも形が分かりました。


 時計と地図で位置を確かめ、風に流された分を直します。


 午後になる前に、地平線の色が変わりました。


 陸の向こうに、陸ではない平らな明るさがあります。


「海」


『海』


 タドポール君も同じことを言いました。


 海岸線へ近づくと、畑と村が突然終わります。


 その先は、水です。


 どろちゃんは燃料を確認しました。


 高度を確認しました。


 方位を確認しました。


 技師さんたちの声が、また短くなります。


 ――海峡横断中は、余計なことをするな。


「写真は?」


 ――帰りにしろ。


「帰りも海でしょう」


 ――では撮るな。


 海峡の途中では、船がいくつも見えました。


 帆が小さな白い点になっています。


 船からタドポール君が見えたかどうかは分かりません。


 見えていても、鳥だと思ったかもしれません。


 鳥にしては速すぎます。


 やがて、前方に別の陸が現れました。


 イングランドです。


 どろちゃんは、少しだけ肩の力を抜きました。


『海、終わったね』


「帰りにもう一度あるけれどね」


『いま言わなくてもよかったのに』


「タドポール君が先に言ったの」


     ◇ ◇ ◇


 ロンドンが近づくにつれ、煙が増えました。


 川は大きく曲がり、船が多くなります。


 町そのものへ入る前に、どろちゃんは指定された丘を探しました。


 広い草地。

 周囲より少し高い場所。

 白い布。

 長い吹き流し。


 見つけるのは難しくありませんでした。


 丘の端には、人と馬車が集まっています。


 少し離れたところには、すでに大きな天幕が張られていました。


「ずいぶん準備したのね」


『ぼくの家かな』


「一晩だけよ」


 どろちゃんは一度、着陸地の上を通りました。


 草の状態。

 傾斜。

 石。

 人の位置。

 馬車。

 風。


 ――北寄りから入れ。


「了解」


 大きく回ります。


 ジェットを絞ります。


 速度を落とします。


 草地が近づきました。


 主輪が触れます。


 今回は跳ねませんでした。


『一回で着いた』


「覚えていたの?」


『ライデンで二回着いたから』


「一回だったでしょう」


 着陸後の会話は、もう操作ではありません。


 技師さんたちは止めませんでした。


     *


 地上では、最初に兵士が近づいてきました。


 武器を向けるためではありません。


 着陸場所から人を離し、機体を守るためです。


 英国側は、どろちゃんが乗ってきた機械を、見物人の中へ置いておくつもりはありませんでした。


 タドポール君は、数人の兵士と係の人に見守られながら天幕へ収容されました。


 どろちゃんは、翼へ勝手に触らないこと、操縦席へ入らないこと、火を近づけないことを説明しました。


 天幕の入口には警備兵が立ちます。


 神様の燃料缶も中へ入れました。


 到着後、必要な燃料を機体へ移します。


 空になった燃料缶は、そのまま天幕へ置きました。


 翌朝には、また規定の量まで入っています。


「これは、開けないでください」


 警備の士官へ言いました。


「理由を伺っても?」


「明日の朝、中身が戻っています。説明すると、もっと触りたくなると思うので」


 士官は少し黙りました。


「では、触れないようにいたします」


 理解したのか、理解することを諦めたのかは分かりませんでした。


     *


 丘には馬車が待っていました。


 どろちゃんは、そのままロンドンへ向かいます。


 最初に訪ねる相手は、歓迎式典の人たちではありません。


 ロバート・フックです。


 約束の時刻があります。


 フックは体調が悪く、長く待たせるわけにはいきません。


 案内された部屋は、どろちゃんが想像していたより狭く、物が多くありました。


 本。

 紙。

 器具。

 箱。

 時計。


 病人の部屋というより、仕事を止められない人の部屋でした。


 フックは椅子に座っていました。


 かなり痩せています。


 立ち上がろうとしました。


「そのままで」


 どろちゃんが先に言いました。


 フックは、立ち上がる途中で止まりました。


 そして、どろちゃんの顔を見ました。


 もう一度見ました。


 机の上に置いてあった一枚の紙へ目を移しました。


 どろちゃんが送ったポートレートでした。


「……同じだ」


「私ですから」


 フックは、しばらく何も言いませんでした。


「私は、昔の肖像だと思っていました」


「昔?」


「あなたの学位と肩書きを読みました。大学の研究者で、特許を持ち、工場まで動かしている。それで、その肖像は若い頃のものだと」


 どろちゃんは、自分の黄色い服を見下ろしました。


「十五歳です」


「……十五」


「はい」


 フックは、肖像と本人をまた見比べました。


 英国側では、どろちゃんを子爵令嬢として扱います。


 大学関係者は、教授級の研究者として扱います。


 その扱いだけ先に聞けば、年齢をもっと上に想像しても不思議ではありません。


「レンズを作ったのも?」


「設計したのは私ではありません。完成した処方があります。職人さんたちが作りました。私は製作条件を整理して、検査しました」


 フックは、その答えを聞いて少し笑いました。


「その方が、もっと信じられます」


「全部一人で作った、と言った方が面白かった?」


「面白くても、信用はしません」


 どろちゃんも笑いました。


 最初の面会は、短く終える予定でした。


 予定でした。


 顕微鏡の話を始めるまでは。


     *


 フックは、新しいレンズを取り付けた顕微鏡を見せました。


 古い鏡筒へ、どろちゃんの工場で作った取付具が追加されています。


「ここは削りました」


「削ったの?」


「合わなかったので」


「説明書に、合わない時は削らないで別の金具を使ってと書いたのに」


「一番薄い金具でも足りませんでした」


「では、寸法を測り間違えたのは私たちね」


「削れば合いました」


 その答え方が、職人さんに少し似ていました。


 標本を置きます。


 像は、前の顕微鏡より明るく、色の縁が少なくなっています。


 フックは、対物レンズの形を知りたがりました。


 どろちゃんは、三群六枚であることだけでは足りないと思い、持ってきた断面図を見せました。


「この曲率を、どう求めたのですか」


「求めていません」


「では?」


「製作データが届きました」


「誰から」


「神様」


 フックは、少し考えました。


「その答えは、研究者には困りますね」


「私も困っています」


 ふたりは、同じところで困りました。


     *


 午後には、英国側の歓迎式典がありました。


 フックは欠席しました。


 体調を考えれば当然です。


 どろちゃんは子爵令嬢として紹介され、そのあと、ライデン大学と研究上の関係を持つ学術的賓客として紹介されました。


 十五歳という年齢が読み上げられたとき、少しざわめきが起きます。


 その中に、アイザック・ニュートンがいました。


 どろちゃんは、名前を聞く前から分かりませんでした。


 顔を知らなかったからです。


 紹介されて、初めて分かりました。


「ニュートン先生」


「エルレンフェルト嬢」


 ニュートンは、どろちゃんの顔より、まず年齢を確認するように見ました。


 それから、飛行機について尋ねました。


「あなた自身が操縦して、ここまで?」


「はい」


「動力を止めても飛ぶと聞きました」


「飛びます。落ちない、ではなく、前へ進みながら高度を失います」


「その説明は、今日の講演で?」


「今日?」


 どろちゃんは聞いていませんでした。


 隣にいた大学関係者が困った顔をしました。


「フック博士から、ぜひ今日、講演を、と」


「今日は休んでいるのでは?」


「主催すると申しております」


 どろちゃんは、少し天井を見ました。


「ろばーとっち、無理してる」


「何と?」


「何でもありません」


     *


 歓迎の席は、長くはありませんでした。


 どろちゃんは、外国の貴族令嬢として挨拶を受け、研究者として質問を受けました。


 話題の半分は飛行機でした。


 残りの半分も、途中から飛行機になりました。


 空を飛んで来た本人が目の前にいるので、仕方ありません。


 どろちゃんは、その日の夕方、もう一度フックのところへ行きました。


 今度は、薬箱を持っています。


     *


「これは、薬です」


「見れば、そう思います」


「見ただけでは使えません」


 どろちゃんは、一つずつ机へ並べました。


 アスコルビン酸ナトリウム。

 マルチビタミン。

 抗生物質。


 フックは、最初の二つより、最後の小瓶へ目を向けました。


「これは?」


「細菌による病気へ使います」


「細菌」


「顕微鏡で見える、とても小さい生き物の一部です。全部が病気を起こすわけではありません。でも、傷や肺や他の場所で増えると、人を殺すものがあります」


 フックは、顕微鏡の方を見ました。


「見えるのですか」


「種類によります。染めないと分かりにくいものもあります」


「この薬は、それを殺す?」


「ものによります。人には効いても、その細菌には効かないこともあります。だから万能薬ではありません」


 説明書を渡しました。


 フックは、薬より先に説明書を読みました。


 用量。

 間隔。

 日数。

 副作用。

 中止条件。

 保存方法。


「ずいぶん細かい」


「勝手に増やしたり減らしたりすると困るから」


「学者へ渡す説明としては、少し信用されていない気がします」


「学者さんほど、自分で試したくなるでしょう」


 フックは否定しませんでした。


 どろちゃんは、別に包んだ抗生物質を一つ出しました。


「これは、先生の分とは別です」


「誰の?」


「誰のものでもありません。緊急用です。およそ一か月分あります」


「なぜ私に」


「英国で、科学の話を聞いてもらえて、王様や王室のお医者様まで話を届けられる人を、私は先生しか知りません」


「ニュートンがいます」


「今日初めて会いました」


 フックは、少しだけ口元を動かしました。


「なるほど」


「大きな怪我をした人が熱を出したり、傷が腫れたり、肺の病気で高い熱が続いたりしたとき、細菌が原因なら役に立つかもしれません。でも、骨折は治りません。切れた腱もつながりません。痛みも全部は消えません」


「神の薬でも?」


「神様から来ても、薬は薬です」


 フックは、小瓶を手に取りました。


 後の年、この小瓶が王のところへ行くことになります。


 この日のふたりは、まだ知りません。


     *


 薬の話が終わると、今度は時計の話になりました。


 振り子。

 ばね。

 脱進機。

 温度で変わる長さ。

 摩擦。


 フックが机の上の小さな部品を指で動かします。


「規則正しく動かすには、規則正しく邪魔をしなければならない」


「止めながら進ませるのね」


「そうです」


「飛行機でも少し似ています。安定だけなら動きにくくなるし、操縦しやすくしすぎると落ち着かなくなる」


「安定と応答の交換ですか」


「技師さんたちは、いつもそこを気にします」


 その次は、ばねでした。


 力を加えた量と、伸び。


「これは知っています」


「私の論文を?」


「何度も」


 どろちゃんは、後の時代でそれがフックの法則と呼ばれていることは言いませんでした。


 本人の前で、本人の名前が付いた法則の未来を説明するのは、少し変な感じがします。


 重力の話へ移りました。


 地上と高い場所。

 振り子。

 天体。

 引力。


 どろちゃんは、知っている未来の式を全部出しませんでした。


 相手の考えているところを聞きたかったからです。


 フックも、どろちゃんを試験しませんでした。


 自分の考えを話し、どこまで通じるか確かめています。


 途中で、どろちゃんの方が紙へ図を描きました。


 翼。

 空気。

 速度。

 力。


「今日の講演は、ここから始めた方がいいかもしれない」


 フックが言いました。


「本当に来るの?」


「私の講演です」


「私が講師でしょう」


「私が主催です」


「そこは譲らないのね」


「譲りません」


 病人の顔をしていましたが、研究者の顔でもありました。


     ◇ ◇ ◇


 その日の午後も遅くなってから。


 グレシャム・カレッジの講義室には、人が集まっていました。


 大学の先生。

 王立協会に関わる人。

 数学者。

 医師。

 機械に詳しい人。

 船や測量に関わる人。


 ニュートンもいます。


 そして、フックも来ました。


「本当に来た」


 どろちゃんは、小さな声で言いました。


 フックは歩くのがつらそうでした。


 椅子が用意されています。


 最初から立ち続けるつもりはありません。


 歓迎式典には欠席した人が、飛行機の講演には来ています。


 フックは座ったまま、短い紹介をしました。


 外国から来た子爵令嬢。

 ライデン大学と研究上の関係を持つ研究者。

 実際に空を飛んでロンドンへ来た操縦者。


 最後の紹介だけで、講義室が少しざわめきました。


 どろちゃんは前へ出ました。


「今日は、グライダーのお話をします」


 黒板へ、横から見た翼を描きます。


「最初に、一つだけ。翼は羽ばたかなくても飛べます」


 何人かが紙へ書きました。


 そこから始めなければなりません。


     *


 どろちゃんは、じょうろちゃんの写真を最初に見せました。


 動力がありません。


 軽い機体。

 長い翼。

 坂や曳航で速度を得て、空気の中を滑ります。


「エンジンがないなら、上へは行けないのですか」


 最初の質問が出ました。


「上昇する空気があれば、上へ行けます。山の斜面に風が当たって上へ向かう場所や、暖められた空気が上がる場所を使います」


「風が止まれば?」


「高度を使って前へ進み、着陸します」


「真下へ落ちない?」


「速度を保てば、すぐには落ちません」


 別の人が手を上げました。


「翼を二倍にすれば、二倍長く飛べますか」


「そうはなりません。面積だけでなく、形、重さ、抵抗、翼の長さ、速度が関係します」


「軽ければ軽いほどよい?」


「弱くなって壊れれば飛べません」


 また別の質問。


「風が後ろから吹けば、永久に飛べるのでは?」


「地面に対しては遠く進めます。でも空気に対する速度と、高度を失う関係は別です。風そのものからいつまでもエネルギーを取れるわけではありません」


 世界でも指折りの頭脳が集まっています。


 けれど、航空機については全員初心者でした。


 質問は素朴です。


 その代わり、一度答えると理解するのが速い。


 次の質問は、もう一段深いところから来ます。


     *


 次に、タドポール君の写真を出しました。


「これは、昨日私が乗ってきた機体です」


 講義室の空気が少し変わりました。


 写真の横には主要諸元があります。


 乗員。

 翼幅。

 重量。

 速度。

 航続。

 滑空性能。

 ジェット推進。


「動力を止めても、先ほどの機体と同じように滑空するのですか」


「はい。重くて速いので、同じ飛び方ではありません。でも、原理は同じです」


 ニュートンが手を上げました。


「推進力を失った後も前進を続ける。そのとき、機体を支える力は、どこから得るのですか」


 どろちゃんは、黒板へ速度の矢印を描きました。


「空気に対して進むことで、翼へ力が生じます。その力を、重さを支える方向と、進行を妨げる方向に分けて考えます」


「つまり、前進を続けるために高度を失う」


「はい」


「では、高度は蓄えられた仕事のように扱える」


 質問だったのか、確認だったのか分かりません。


「そう考えると分かりやすいです」


 ニュートンは紙へ何か書きました。


 どろちゃんは、少しだけ困りました。


 航空工学の初心者に説明しているはずなのに、理解したあとが速すぎます。


     *


「空中で止まることはできますか」


「タドポール君はできません」


「鳥はできます」


「鳥は翼を動かします。それに風を使う鳥もいます」


「では、翼を動かせばよい」


「人が乗れる大きさになると、軽さと強さと動かす力が難しくなります」


「機械で動かせば?」


「その機械が重くなります」


「では、もっと強い動力を」


「もっと燃料が要ります」


「燃料を増やせば」


「重くなります」


 講義室で笑いが起きました。


「飛行機は、何かを増やせば全部よくなる機械ではありません」


 どろちゃんは言いました。


 フックが椅子の上でうなずいています。


 時計の話と同じです。


 一つを良くすると、別のところへしわ寄せが来ます。


     *


 小鳥ちゃんの写真を出すと、今度は質問の前に沈黙がありました。


 翼の形が違います。


 高度。

 速度。

 ロケット。


 数字だけが、ほかの二機から離れています。


「これは、同じ種類の飛行機なのですか」


「グライダーです」


「この速度で?」


「最初にロケットで高度と速度を得ます。燃焼が終わったあとは、翼を使って滑空します」


「火薬の反動で?」


「似ています。ただし、長く安定して燃やします」


「翼の形が変わるのは?」


「高速では後ろへ、遅くなると前へ動かします」


 質問者は写真を見ました。


「飛んでいる途中で?」


「はい」


 また沈黙しました。


 初めて聞く概念を、一つ理解したら、次の初めてが来ます。


 どろちゃんは、全部説明しようとはしませんでした。


 今日の講演は、ロケット工学の講義ではありません。


「小鳥ちゃんのお話は、今日はここまでです」


 何人かが残念そうな顔をしました。


     *


 講演の最後に、どろちゃんは重心の話をしました。


 機体を一本の棒のように考えます。


 前が重すぎても困る。

 後ろが重すぎても困る。


 燃料を使えば、飛行中に重さの分布も変わります。


「今回の英国行きでは、増槽も重心変化が小さくなる位置へ置いています」


「どこですか」


「それは言えません」


 質問者が少し驚きました。


「秘密なのですか」


「いいえ。私も正確には分かりません」


 今度は講義室全体が静かになりました。


「機体の詳細な重量と重心を知っている技師さんたちが決めています。私は、その位置を勝手に推測して動かしません」


 フックが笑いました。


「よい答えです」


 どろちゃんは肩をすくめました。


「分からないことを分かったことにすると、飛行機では落ちます」


 この一言だけは、誰も笑いませんでした。


     *


 質疑応答は、予定より長くなりました。


 どうやって曲がるのか。

 雨の中でも飛べるのか。

 雲の中はどうするのか。

 夜に飛べるのか。

 翼が折れたらどうするのか。

 鳥と衝突しないのか。

 高く上がると息が苦しくならないのか。

 海の上で動力が止まったらどうするのか。


 どれも航空機を知っている時代なら、最初の授業で出る質問です。


 一七〇一年には、世界最高級の学者たちが本気で聞きます。


 どろちゃんは、笑いませんでした。


 自分も、技師さんたちに同じような質問を何度もしたからです。


 最後にフックが手を上げました。


「一つだけ」


「先生は主催者でしょう」


「主催者も質問します」


「どうぞ」


「あなたは、飛ぶことに慣れましたか」


 どろちゃんは少し考えました。


「離陸と着陸では、毎回緊張します」


「それを聞いて安心しました」


「どうして?」


「慣れたと言う人より、長く生きそうです」


 講義室に、また笑いが起きました。


     *


 講演が終わると、資料が配られました。


 タドポール君。

 小鳥ちゃん。

 じょうろちゃん。


 三機の写真と、主要諸元。


 ニュートンも一組受け取りました。


 紙を折らずに持っています。


「これは持ち帰ってよいのですか」


「そのために作りました」


「製作方法はない」


「ありません」


「残念です」


「写真だけで作れたら、私たちも苦労しません」


 少し離れたところで、フックが椅子に座ったまま待っていました。


 どろちゃんは、長い木箱を持って行きました。


「先生には、こっち」


 箱を開きます。


 十二分の一のタドポール君が現れました。


 フックは、まず何も言わずに見ました。


 翼の付け根。

 尾翼。

 操縦面。

 車輪。

 表面。


 指で軽く持ち上げました。


「軽い」


「アルミニウムとグラスファイバーです」


「これも、神から?」


「材料は。作ったのは工場の人たち」


「精巧な模型ですね」


「飛びます」


 フックの手が止まりました。


「飛ぶ?」


「飛ばせます」


 今度は、講演中より目が元気に見えました。


「外へ」


「今日はだめ」


「なぜ」


「先生が先に休むから」


 フックは、模型とどろちゃんを見比べました。


「明日」


「私は明日帰ります」


「では、私があとで飛ばします」


「修理部品も入っています」


「壊す前提ですか」


「飛ばすなら」


 フックは箱を閉じませんでした。


 しばらく、模型を膝の上へ置いたまま眺めていました。


     *


 夕食会は、その日の夕方に開かれました。


 長い卓上には、焼いた肉、魚、温かいパイ、根菜、豆、パン、果物が並びました。


 香辛料の匂いが混ざります。


 どろちゃんの前には、水が置かれました。


 飛行した日の夜なので、あまり重い物を一度に食べる気にはなりません。


 肉を少し。

 パイを少し。

 温かい野菜。

 パン。


 講演の続きを聞きたい人が、食事中にも話しかけてきます。


「翼を前後へ動かす機体について、もう少し」


「今日は小鳥ちゃんの講演ではないです」


「では次回」


「次回があるの?」


「来ていただければ」


 どろちゃんは、水を飲みました。


 飛行機で来られることが分かると、外国が近くなりすぎます。


 馬車と船なら何週間もかかる距離を、周囲の人たちはもう「次も来られる距離」と考え始めています。


 ニュートンとは、夕食の席でも少し話しました。


 飛行機より、重力の方へ話が寄りました。


 けれど、長い議論にはしませんでした。


 どろちゃんは、翌朝飛ばなければなりません。


 ニュートンも、話を途中で切れる人でした。


「続きはいずれ」


「はい」


 それで終わりました。


     *


 その夜、どろちゃんは用意された客室で眠りました。


 タドポール君は丘の天幕の中です。


 警備兵が外に立っています。


 燃料缶の中では、朝までに燃料が戻ります。


 タドポール君自身も、一晩で、飛行中に進んだ摩耗や材料の劣化を戻していきます。


 オイル。

 パッキン。

 ベアリング。

 金属内部の劣化。


 人間の整備士が見つけにくいものまで戻ります。


 だからといって、翌朝の点検を省くことはありません。


 直ることと、確認しなくてよいことは別です。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 丘には薄い霧が残っていました。


 どろちゃんが着くころには、日が上がり、草の先の水滴が光っています。


 天幕の入口で、夜勤の兵士と交代したばかりの兵士が敬礼しました。


「異常は?」


「ありません。誰も中へ入れておりません」


「ありがとう」


 中へ入ります。


 燃料缶は、昨夜空にしたはずなのに重くなっていました。


 どろちゃんは持ち上げて確認します。


「戻ってる」


『ぼくも元気だよ』


 タドポール君が言いました。


「昨日も元気だったでしょう」


『今日は昨日の朝くらい元気』


「毎朝同じね」


 点検をします。


 操縦系統。

 翼。

 脚。

 ジェット。

 燃料。

 積荷。


 帰りは、薬箱と模型が減っています。


 代わりに、フックの手紙と自画像セットは、どろちゃんの荷物の中へ大切に入っています。


「これを落としたら、もう一度描いてもらうわけにはいかないからね」


 ――なら二重に固定しろ。


「もうしてあります」


     *


 離陸すると、ロンドンの煙が後ろへ流れていきました。


 テムズの曲がりが遠くなります。


 昨日見た丘も、小さくなりました。


 帰路は、往路より少し南へ寄る予定です。


 地図には、いくつか見たい場所へ印を付けてありました。


 観光だけではありません。


 地形を見るためです。


 もし次に飛ぶなら。

 もし天候が悪くなったら。

 もしジェットを止めて降りなければならなくなったら。


 どこに広い草地があるか。

 どの川をたどればよいか。

 どの町が遠くから見つけやすいか。


 空を飛ぶ道には、道標が立っていません。


 だから、地上の物を覚えます。


     ◇ ◇ ◇


 海峡を越え、大陸へ戻りました。


 往路より雲が少なく、地上がよく見えます。


 いくつかの城館が見えました。


 城壁。

 塔。

 川を見下ろす高台。


 上から見ると、城がなぜそこへ作られたのか分かる場所があります。


 街道が集まる。

 川を渡る。

 谷を押さえる。

 丘の上から周囲が見える。


「地図だけより、ずっと分かりやすい」


『お城の人は、ぼくが上から来るとは考えていないね』


「この時代にはね」


 城壁は横から来る人には強そうでした。


 上から見ると、庭までよく見えます。


 どろちゃんは、少し申し訳ない気持ちになりました。


     *


 アミアンが見えてきました。


 町の中から、大きな教会が立ち上がっています。


 まだ後の時代の姿と完全に同じではありません。


 それでも、大きさは空からでも分かりました。


「大きい」


『下から見たら、もっと大きい?』


「たぶん。でも、上から見ると屋根の形がよく分かる」


 どろちゃんは少し高度を保ったまま、町の外側を通りました。


 大聖堂の屋根。

 交差する身廊。

 塔。

 周囲に集まる家々。


 町の大きさに対して、建物だけが一段大きく見えます。


 地上で見れば、人を見上げさせる建物です。


 空から見ると、町全体をまとめる目印でした。


「航法にも使えるわね」


 ――目立つ建物は有効。ただし似た塔と取り違えるな。


「分かってる」


 技師さんたちは、景色を見ても最後は航法へ戻します。


     *


 アミアンを離れたあとも、どろちゃんは地面を見ていました。


 広い牧草地。

 川沿いの平坦地。

 畑の続く場所。

 丘の長い斜面。


「あそこは降りられそう」


 ――候補。


「候補ね」


 上から平らに見えても、溝があるかもしれません。

 石があるかもしれません。

 作物が高いかもしれません。

 湿地かもしれません。


 地上で確認していない場所を、安全な着陸場と決めることはできません。


 それでも、何も知らないよりはよいです。


 どろちゃんは地図の余白へ、小さな丸を付けました。


 次の町。


 次の川。


 次の丘。


 城館が見えれば、その位置も書きます。


 飛行機で旅をすると、観光地と非常用着陸候補地が同じ地図へ書かれていきました。


     ◇ ◇ ◇


 午後になると、見慣れた地形が増えました。


 遠くに山並み。

 川の曲がり。

 町の位置。


 エルレンフェルトへ近づいています。


『帰ってきたね』


「まだ着陸していないわ」


『昨日は、一回で着いたよ』


「今日も一回で着く予定」


 ――着陸前に雑談するな。


 技師さんの声が硬くなりました。


「はい」


 どろちゃんは地図をしまいました。


 見慣れた丘へ向きを合わせます。


 速度。

 風。

 進入。


 主輪が草へ触れました。


 少し走ります。


 止まりました。


『一回』


「一回」


 今度は、どろちゃんも認めました。


 お父様とお母様が待っています。


 英国へ持って行った模型はありません。

 薬も減りました。

 写真も配ってしまいました。


 代わりに、荷物の中にはロバート・フックの顔が三枚あります。


 そして地図には、アミアンの大聖堂と、いくつもの城と、まだ名前のない着陸候補地が増えていました。


 ロンドンまで飛んで帰ってくると、世界は少し狭くなりました。



第十八章の小さな説明


【一七〇一年の英国】


 この章の時点は一七〇一年です。イングランド王はまだウィリアム三世で、アン女王の即位は翌一七〇二年です。アイザック・ニュートンはすでに王立造幣局の長官を務める時期に入っています。

 ロバート・フックは晩年で、健康を大きく崩しています。本作では、どろちゃんが史実で亡くなる前に会える時期を一七〇一年に置いています。


【フックの肖像】


 現実世界では、ロバート・フック本人と確実に同定できる肖像は現在まで残っていません。肖像が一度も作られなかったと断定できるわけではありませんが、後世の私たちが確実に本人だと確認できる絵がありません。

 本作では、絵の巧いフックが、どろちゃんのポートレートへの返礼として自画像を数点送ります。これらはエルレンフェルト家の私蔵品となるため、現実世界の史料状況とは別の歴史になります。


【英仏海峡横断】


 どろちゃんは一七〇一年にタドポール君で英仏海峡を往復します。現実の航空史で、ルイ・ブレリオが動力飛行機による英仏海峡横断に成功するのは一九〇九年です。

 本作のタドポール君は未来由来の機体であり、この飛行だけで一七〇一年の現地技術が二百年進んだという設定にはしません。講演を受けた学者たちは原理を学び始めますが、同じ機体をすぐ製作できるわけではありません。


【ロンドン近郊の着陸場所】


 具体的な場所は固定しません。ロンドン近郊の、十分な長さと傾斜条件を持つ草地の丘を英国側が事前に確保し、目印と吹き流しを設置したことだけを設定します。

 着陸後のタドポール君は天幕へ収容され、英国側の警備兵が警護します。見物人が勝手に機体へ触れたり、火を近づけたりすることを防ぐためです。


【英国往復の燃料と機体回復】


 英国往復そのものには十分な航続余裕があります。帰路用の燃料確保には、神様から届いた燃料缶を一つ持参します。使用して空になった燃料缶は、一晩で規定量まで補充されます。

 タドポール君は一晩置くことで、オイル、パッキン、ベアリング摩耗、材料内部の劣化、水素脆化など、通常なら寿命管理や交換を要する部分も回復します。ただし、飛行前後の点検を省略するわけではありません。


【高分子製増槽】


 増槽には軽量で耐燃料性のある高分子系材料を使用します。具体的な搭載位置、個数、形状は、機体の詳細な重量重心資料と構造図がないため固定しません。

 設定として確定するのは、燃料消費による重心移動が小さくなるよう、技師さんたちが適切な重心位置付近へ配置することまでです。


【フックへの薬】


 どろちゃんは、アスコルビン酸ナトリウム、マルチビタミン製剤、抗生物質を持参します。栄養補助のレトルト食品は、追加分を後から船便で送ります。

 抗生物質は万能薬として扱いません。細菌による感染症へ使う薬であり、骨折や栄養不足そのものを治すわけではありません。用量、投与間隔、日数、副作用、保存法を記した説明書を付けます。

 また英国側の緊急用として、およそ一か月分をフックに預けます。本作では、この薬が翌一七〇二年のウィリアム三世の落馬事故後に王室医師へ渡り、感染性合併症を抑えて王の死亡を防ぐことになります。ただし骨折の後遺症や慢性痛は残り、ウィリアム三世はその後退位して王位をアンへ譲ります。


【フックの回復】


 史実のフックの最終的な死因は確定していません。晩年には強い体調不良、浮腫、胸部症状、衰弱などが知られています。

 本作では感染、栄養不良、ビタミン不足など、どろちゃんの持参した薬と栄養介入で改善できる要素が大きかったことにし、訪問後フックは急速に体調を取り戻します。抗生物質だけで全症状が治る設定ではありません。


【グレシャム・カレッジの講演】


 フックは歓迎式典には出席できませんが、どろちゃんのグライダー講演だけは無理をして主催します。

 聴衆には一流の数学者、自然哲学者、医師、機械技術者が含まれます。しかし、一七〇一年には航空工学という学問体系そのものが存在しないため、グライダーについては全員が初心者です。

 そのため質疑応答では、「動力が止まったのになぜ真下へ落ちないのか」「翼を大きくすれば長く飛べるのか」「風が止まったらどうなるのか」といった、後世なら航空の入門段階に属する質問が出ます。ただし答えを理解した後の議論の進み方は非常に速くなります。


【フックへの一/十二模型】


 ロバート・フック個人への土産として、タドポール君の一/十二模型を贈ります。アルミニウムとグラスファイバー製で、外形だけを似せた展示模型ではなく、重心を調整した実際に滑空可能な模型です。

 フックは時計、機械、顕微鏡、測定器を自ら作り、改良する人物でもあるため、単なる記念品より、実際に動かして観察できる模型の方が似合います。


【講演参加者への資料】


 フック以外の参加者には、タドポール君、小鳥ちゃん、じょうろちゃんの写真と主要諸元表を配布します。翼幅、全長、重量、速度、高度、乗員、用途、推進方式、滑空性能など、公開してよい範囲のスペックを記載します。

 製作図面や材料処方を配るのではなく、講演後に各自が写真と数値を見ながら考察できる学術資料です。


【帰路の空中観察】


 ロンドンで一泊した翌日、どろちゃんは直接エルレンフェルトへ戻ります。「帰りました」で省略せず、帰路も航空旅行として描きます。

 アミアン大聖堂を空から眺め、途中の城館、城壁都市、川、街道、丘陵を地理的な目印として確認します。同時に、将来の緊急着陸に使える可能性のある平坦地や草地も観察します。

 ただし、上空から平坦に見えるだけで安全な飛行場とは判断しません。地上確認をしていない場所は、あくまで「着陸候補地」として地図へ記録するだけです。


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