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17開いていた倉庫が工場になります ロバートフックへの手紙

第十七章 空いていた倉庫が工場になります


 天幕の入口を閉じたあとも、どろちゃんの頭の中では、まだ何人もの技師さんが話していました。


 旋盤の据付け。

 発電機の接続。

 測定器を置く部屋。

 蓄電池から出る水素。

 切削油と火気。

 床の強さ。


 全部、今夜のうちに決める必要はありません。


 親方は天幕の紐を結び直し、見張りを二人残しました。フランソワさんは、町から持ち帰った焼き菓子の包みを抱えたまま、どろちゃんの外套に付いた草を払いました。


「中へ入るのは、明日にしましょう」


「まだ見ただけよ」


「見たものが多すぎます」


 どろちゃんは、天幕のふくらみを振り返りました。


 機械は一晩では逃げません。


 夕食の席で、どろちゃんは何度か話し始めかけましたが、お母様に先にスープを飲むよう言われました。町で昼食を食べてきたのに、夕食も普通に入ります。料理人は、薄く焼いた川魚に香草と焦がしたバターをかけ、温かい豆と小さな玉ねぎを添えていました。


 お父様は、娘が魚を半分食べるまで、工場の話をしませんでした。


「町外れのレンガ倉庫が空いている」


 どろちゃんは顔を上げました。


「水車小屋の並び?」


「もう少し下流だ。染物屋が使っていた倉庫の隣」


「川から水を取れる?」


「明日、測量係に見せる」


 お父様は、それ以上を食卓で決めませんでした。


     *


 翌朝、どろちゃんは親方、測量係、お父様と一緒に町外れへ行きました。


 フランソワさんも同行しました。昨日の水色の外出着ではなく、裾を少し短く仕立てた濃い青灰色の服です。倉庫の床や川岸を歩くため、靴も町へ出るときより丈夫な物を履いています。


 町の中心を抜けると、家の間隔が広くなりました。


 鍛冶場の前には炭の袋が積まれ、製材所からは乾いた木の匂いが流れてきます。荷車の轍は深く、道の端には割れた煉瓦や削り屑が落ちていました。朝から槌の音が続いていますが、ここでは誰も窓を閉めません。最初から、音の出る仕事をする場所だからです。


 空いていた倉庫は、小川から少し離れた高い地面に建っていました。


 赤茶色の煉瓦壁。高い屋根。荷車を入れられる両開きの扉。窓は少なく、内部には古い木箱と壊れた棚が残っています。床の一部は厚い板でしたが、荷を置いていた中央だけ石が敷かれていました。


 どろちゃんは入口で立ち止まりました。


 天幕にあった旋盤をここへ置いた姿を考えます。


 技師さんたちは、壁より先に床を見ました。


 ――機械ごとに基礎を分ける。

 ――旋盤と研削盤を同じ床へ載せるな。

 ――測定室は振動源から離せ。


 どろちゃんは親方へ伝えました。


「床を全部作り直すのではなくて、重い機械の下だけ、地面から別の基礎を作りたいって」


 親方は杖の先で床板を叩き、倉庫の奥まで歩きました。


「この板は外します。石床も、機械を載せるところは掘り直した方がよいでしょう」


 窓の位置も見ます。


 金属を削る場所には光が要ります。けれど、直射日光が測定器へ当たり、一方だけ温めるのも困ります。屋根近くには換気口を作り、切削油の霧や研磨粉を外へ出さなければなりません。


「この壁は残せる?」


「残せます。ただし、こちらの扉は広げます。長い材料が曲がらず入るように」


 親方は倉庫の奥を指しました。


「製図と測定は、あちらを壁で分けましょう。鍛冶はここへ入れません。火床は別棟です」


「蓄電池も別」


「酸を使う部屋ですね」


「空気も戻さないで」


 親方は帳面へ書きました。


 どろちゃんが何を作るか知っていても、煉瓦壁へ穴を開け、石の基礎を据え、屋根を直すのは職人さんです。どろちゃんが槌を持って一日働いても、壁は少しも早く完成しません。


 フランソワさんは、床から出ていた古い釘を見つけ、どろちゃんの袖を引きました。


「そちらは歩かないでください」


「見えているわ」


「いま踏みそうでした」


 どろちゃんは、別の板の上へ足を移しました。


     *


 測量係は、倉庫から小川までの高さを測りました。


 小川は大きくありません。しかし上流側に緩い落差があり、昔の水車用に掘られた水路の跡も残っています。使われなくなった石積みを直し、取水口から短い導水路を作れば、発電用の水を分けられそうでした。


 水車職人も呼ばれました。


 神様から届いた発電機は、水車の軸へそのまま付ければよい物ではありません。水量が変わっても回転しすぎない仕組み、枝や落葉を止める格子、砂を沈める場所、洪水のときに水を逃がす水門が要ります。


 測量係が高さを記し、水車職人が流れを見て、石工が古い水路を調べました。


 どろちゃんは発電機の説明書を読み、必要な回転数と出力を伝えました。


「夜も回すのですか」


 水車職人が尋ねました。


「水があるあいだは。機械を使っていない時間は、蓄電池へためるの」


「水車を止めない方がよいのですね」


「止めることもできないと困るわ。掃除するとき、人が近くへ入るでしょう」


 技師さんが頭の中でうなずきました。


 発電所は小さくても、勝手に回り続ける物を、人の手だけで押さえるわけにはいきません。


     *


 工場の改造が始まりました。


 空の倉庫から古い棚が運び出され、床板が外されます。機械の位置には穴を掘り、石と煉瓦で重い基礎を作りました。屋根を直し、窓を増やし、材料を運び込む扉を広げます。


 天幕の工作機械は、梱包を解かれても、すぐには動きませんでした。


 親方と職人たちは、説明書を見ながら部品を確かめました。防錆油を拭き、輸送用の固定具を外し、水平を取り、基礎へ据えます。主軸を手で回し、異音がないか聞き、潤滑箇所を一つずつ確認しました。


 どろちゃんは、毎日工場へ来ました。


 けれど、旋盤の上へ身を乗り出して鋼材を削ることはありません。切削工具を研ぐのも、重いチャックを持ち上げるのも、油に手を入れて歯車を組むのも職人さんです。


 どろちゃんは図面を開き、技師さんの指示を親方へ伝えました。測定値を書き、試験片へ番号を付け、失敗した加工も帳面から消さないようにしました。


 爪の間に油が入る前に、フランソワさんが布を渡します。


 町で買ったウエスも、ようやく届きました。洗われ、乾かされ、布の種類ごとに束ねられています。機械油を拭く布と、測定器へ使う布と、透明な物を磨く布は、最初から別の籠へ分けられました。


     *


 工場の温度は、十五度から二十五度の間に保つことになりました。


 夏は、小川の水を使う水冷式冷房機を動かします。


 冷却水は、取水格子と沈砂槽を通し、工場の排水とは別の管で冷房機へ送ります。使い終えた水は、油や酸へ触れないまま放水路へ戻しました。


 冬は、機械と電動機が出す熱を利用し、それでも十五度を下回る日は暖房を使います。


 温度計は、入口、一般加工場、精密加工室、測定室へ置かれました。


 初めのうちは、職人さんたちも、暑くなければよいと思っていました。しかし、朝に測った軸と、午後に測った同じ軸の数字が違いました。長い棒ほど差が出ます。


「削ったのに戻ったのですか」


 若い職人が尋ねました。


「戻ったのではなくて、温かくなって伸びたの」


 どろちゃんは、測定器と軸を同じ部屋へ置きました。


「明日の朝、もう一度測って」


 翌朝、数字はまた変わりました。


 それからは、精密な部品を測る前に、部品と測定器を測定室へ置き、同じ温度になるまで待つようになりました。


 工場を涼しくすることは、職人さんが倒れないためだけではありません。作った物が、測るたびに違う大きさにならないためでもありました。


     *


 銅は、外から買いました。


 領内にも、銅を含む石はあります。どろちゃんは、鉱石から金属を取り出す方法も知っています。


 しかし、選鉱、焙焼、製錬まで工場で始めれば、煙と鉱滓と汚れた水が出ます。動力をもらう小川へ、金属を含む水を戻すわけにはいきません。


 商人へ注文したのは、精錬済みの銅地金、板、棒、太い線材でした。


 工場では、それを切り、延ばし、細く引き、焼きなまし、巻線へ使います。


 アルミニウムは別でした。


 この時代に、まとまった量のアルミニウム材を使えるのは、神様から板、棒、形材を受け取ったこの工場だけです。有限の材料ですから、飾りには使いません。軽さが必要な部品、腐食を避けたい器具、他の金属では重くなりすぎる物へ回します。


 もっと大きな水力発電所と、化学工業と、電解設備が整えば、いつか自分たちで製錬できるかもしれません。


 いまは、届いた材料を一片も無駄にしない方が先でした。


     *


 高分子材料は、板ではなく、粒の状態でも届きました。


 透明な物、白い物、乳色の物、黒い物。袋には材料名と、乾燥温度、成形温度、冷却方法が書かれています。


 袋を使って減らしても、翌朝には、神様の箱の中で規定の量まで戻っていました。空の袋が勝手にふくらむのではありません。箱を開けると、未使用の材料が、決められた荷姿で補充されています。


 それでも、一日に使える量には限りがあります。


 最初に大量生産したのは食器でも飾りでもなく、絶縁部品と、薬品を入れる小さな栓でした。


 その次に、ライデン大学から図面が届きました。


 大学工房で研究している機体へ付ける、透明な曲面風防です。


 木型を作り、透明材を加熱し、形へ沿わせ、ゆっくり冷やします。外周を切り、取付部を加工します。


 形ができても、まだ完成ではありません。


 表面には、型の跡と細かな波が残りました。向こう側の窓枠を見ると、まっすぐな線が途中で揺れます。


 風防の仕上げを任されたのは、研磨を長くしてきた女工さんでした。


 町では、名前より先に「風防磨きのおばさん」と呼ばれるようになります。


 彼女は、透明になっただけでは受け取りませんでした。


 窓の前へ持ち上げ、少し傾けます。格子の線を透かし、明るい空を反射させ、布を替えながら研磨しました。


 若い工員が、もう傷は見えないと言っても、風防は戻されました。


「ここ」


 指した場所を見ても、最初は誰にも分かりません。


 少し角度を変えると、窓枠の線がほんのわずかに曲がりました。


 彼女は、その場所だけを強く磨きません。周囲とつなげながら、少しずつ面を直します。


 完成した風防には、材料、成形条件、冷却時間、重量、寸法、研磨工程、透過像の検査結果を書いた紙が添えられました。曲面へ力がかからないよう、木箱の中に支持枠を作ります。


 ライデン大学へ送る最初の製品でした。


 大学が研究し、エルレンフェルトの職人さんが作ります。


 設計図だけでも、職人一人だけでも、同じ風防はできません。


     *


 工場の職人を欲しがる人も現れました。


 新しい旋盤を扱える者、巻線のできる者、透明材を磨ける者。高い賃金を出すと持ちかける商人もいました。


 お父様は、職人さんたちの賃金を上げ、怪我をしたときの手当と、家族が住む場所を整えました。


 ただし、一人を連れていけば工場ごと持ち帰れるわけではありません。


 旋盤工は、自分の刃物と加工の感覚を知っています。巻線工は、線を切らず、乱さず巻く方法を知っています。風防磨きの女工さんは、像の揺れを見分けます。


 けれど、図面、工程表、専用治具、検査記録、安定した電源、温度管理、材料の供給、大学から届く研究結果、親方の工程管理がなければ、同じ製品にはなりません。


 工場の技術は、一人の頭の中へ収まっていませんでした。


     *


 金属工場とは別に、薬品を扱う建物も作られました。


 切削粉、油、鉛、酸の霧がある場所で、微生物を培養することはできません。薬品工場は金属工場と道を分け、空気も排水も混ざらない場所へ置きました。


 そこへ、神様から新しい箱が届きます。


 冷蔵庫。

 電子天秤。

 恒温槽。

 培養容器。

 遠心分離機。

 フィルター。

 細い管。

 栓。

 注射器。

 耐薬品性の容器。


 そして、二千年ごろのツァイス製顕微鏡。


 顕微鏡は、薬品工場の中でも、振動の少ない部屋へ置かれました。遠心分離機とは床も机も分けます。


 冷蔵庫や遠心分離機は、一晩置いても増えません。壊れれば直さなければなりません。


 フィルターや培養容器など、消耗品として箱へ収められていた物は、使った翌朝、規定の数量まで新しい物が補充されました。汚れた容器がきれいになるのではありません。使用済みの物は洗浄するか廃棄し、箱の中には未使用品が戻ります。


 大学の医師、領内の医師、薬師、訓練を受けた工員が働き始めました。


 どろちゃんは、顕微鏡を一人で占有しませんでした。


 血液、酵母、カビ、汚れた水、洗浄前後の器具。同じ物を、条件を変えて見ます。恒温槽の温度、培養時間、使った容器、濾過方法を帳面へ残しました。


 薬が効いたように見えても、同じ条件でもう一度確かめます。


 一回だけうまくいったものは、まだ製品ではありません。


     *


 光学用の箱には、別の材料が入っていました。


 異常分散ガラス。

 それと組み合わせるための光学ガラス。

 研磨材。

 接合材。

 蒸着材料。


 真空釜もありました。


 どろちゃんは、最初、ツァイスの顕微鏡を分解して中を見ようとはしませんでした。


 あれは基準です。


 同じ標本を見て、現地で作った顕微鏡がどこまで近づいたか確かめるために残します。


 神様の箱には、ガラスだけでなく、対物レンズの製作データも入っていました。


 三群六枚。


 各面の曲率半径、中心厚、空気間隔、接合面、ガラスの種類、向き、有効口径、作動距離、許容される芯ずれ、コーティング条件。


 これは、現地の数学者が光線を一本ずつ追い、一生かけて設計するための資料ではありません。


 じょうろちゃんの組立説明書と同じです。


 完成した設計を、指定された材料と順序で正しく作るための文書でした。


 光学職人は、指定された曲率までレンズを研磨しました。厚みを測り、中心を合わせ、向きを間違えないよう番号を付けます。真空釜では、洗浄したレンズを保持具へ置き、指定された材料を指定された厚さで蒸着しました。


 複雑な対物レンズの処方は変えません。


 しかし、接眼レンズは別です。


 ホイヘンス式やラムスデン式なら、二枚のレンズの焦点距離と間隔が定型化されています。用途と倍率に合わせ、工場で作り、試すことができました。


 鏡筒、焦点機構、載物台、照明、絞りも、職人さんたちが改良します。


 最初の現地製顕微鏡は、ツァイス製には及びませんでした。


 それでも、古い複式顕微鏡より、色の縁取りが少なく、明るく、細部が見えます。同じ物を見ているのに、像の中から別の構造が現れました。


     *


 ライデン大学から届いた手紙に、ロンドンのロバート・フックが病気で弱っていると書かれていました。


 どろちゃんは、『ミクログラフィア』を知っています。


 薄いコルクの中に、小さな部屋が並んでいたこと。

 蚤や虱を、見たくないほど大きく描いたこと。

 肉眼では見えない世界を、図と文章で人へ渡したこと。


 ろばーとっちは、もう長くないかもしれません。


 どろちゃんは、完成した対物レンズの中から、像のよい物を選びました。低倍率、中倍率、それより少し高い倍率。ホイヘンス式の接眼レンズと、取付け位置を調整できる鏡筒も付けます。


 既存の顕微鏡へ取り付けられるよう、寸法違いの金具も作りました。


 説明書には、レンズの向き、間隔、清掃方法、強く締めすぎないことを書きます。


 箱の中へ、どろちゃんの小さなポートレートも入れました。


 手紙は、短く、正式な形にしました。



Hochgeehrter Herr Hooke,


Ihre Abhandlungen habe ich mit großer Freude und Bewunderung gelesen. Sie haben mir eine Welt gezeigt, die dem bloßen Auge verborgen bleibt.


Als Zeichen meiner Hochachtung erlaube ich mir, Ihnen einen Satz von Linsen mit den dazugehörigen Fassungen und Hinweisen zu übersenden. Ich hoffe, dass sie sich an Ihrem Mikroskop verwenden lassen und Ihnen bei Ihren Beobachtungen Freude bereiten.


Mein Bildnis habe ich ebenfalls beigelegt.


Ich wünsche von Herzen, dass Sie bald wieder zu Kräften kommen.


In größter Hochachtung


Ihre ergebene Bewunderin

Dorothea von Erlenfeld



 日本語にすれば、次のような内容です。



敬愛するフック様


 私は、あなたの論文を大きな喜びと敬意をもって愛読してまいりました。あなたは、肉眼では見ることのできない世界を私に示してくださいました。


 敬意のしるしとして、レンズ一式を、取付具および説明書とともにお送りいたします。あなたの顕微鏡でお使いいただけ、観察のお役に立ち、喜んでいただければ幸いです。


 私の肖像も同封いたしました。


 一日も早くお元気になられることを、心より願っております。


 最大の敬意を込めて


 あなたを敬愛する者

 ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト



 ポートレートの裏には、名前と、ライデン大学から授けられた学位名を正式な綴りで記しました。


 その下に、もう一行だけ書きます。



Ich hoffe von Herzen, dass Sie bald wieder gesund werden.



 お元気になることを、心より願っています。


 どろちゃんは、乾くまで触らずに待ちました。


 レンズは柔らかな布で包み、それぞれを仕切りのある小箱へ入れます。小箱はさらに、衝撃を受けにくい木箱へ収めました。


 ライデン大学を経由し、ロンドンへ届けてもらいます。


 フックが受け取ったあと、何を見るのかは分かりません。


 どろちゃんができるのは、見えるように作った物を送り、元気になることを願うところまででした。


 木箱は荷馬車へ載せられました。


 今回は、空を飛ばずに出発しました。



第十七章の小さな説明


【空きレンガ倉庫の工場化】


 エルレンフェルト機械工場は、住宅区域や子爵邸の庭へ新築されるのではなく、町外れの産業区域にあった空きレンガ倉庫を改造して作られます。

 工作機械は、それぞれ独立した基礎へ据え、振動の多い加工場と測定室を分けます。鍛冶、蓄電池、薬品製造も同じ室内へ入れません。


【マイクロ水力と温度管理】


 小川から取水し、発電機を回します。夜間や機械を使わない時間も発電を続け、蓄電池へためます。

 工場内は十五度から二十五度に保ちます。これは労働環境を守るだけでなく、素材、工作機械、治具、測定器の熱膨張による寸法差を抑えるためです。


【材料の扱い】


 銅は製錬時の煙、鉱滓、汚水を避けるため、精錬済みの地金や線材を購入します。

 アルミニウムは、現段階では神様から供給された材料を持つエルレンフェルト工場だけが実用的に加工できます。将来、大量の電力と化学設備がそろえば、電解製錬へ進む余地があります。


【消耗品の補充】


 高分子ペレット、フィルター、培養容器など、神様の箱に消耗品として規定量が収められている物は、使用して減った翌朝、箱の中へ未使用品が規定量まで補充されます。

 使用済み品が再生するのではなく、耐久設備が増えるわけでもありません。


【顕微鏡の光学系】


 三群六枚級の対物レンズを現地で設計することはできません。神様から届いたデータシートは、完成済みの光学処方と製作指示書です。

 光学職人は、指定されたガラス、曲率、厚み、間隔、向き、公差、コーティング条件に従って製造します。

 ホイヘンス式、ラムスデン式など、構成が定型化された接眼レンズは、現地でも用途に合わせて製作できます。


【ロバート・フックへの贈り物】


 どろちゃんは、ロバート・フックを顕微鏡の研究者としてだけ知っているのではありません。

 ばねや弾性体に加えた力と変形の関係を示した、後に「フックの法則」と呼ばれる研究。時計を正確に動かすための調速機構や脱進機の研究。重力と引力についての実験や論考。機械、天文、建築を含む幅広い仕事を読み、ひとりの学者がこれほど多くの分野を観察し、測り、形にしたことに敬意を持っています。


 なかでも『ミクログラフィア』は、顕微鏡で見えたものを記録しただけの本ではありません。蚤、虱、蠅、ダニなどの生き物が、形だけでなく、脚や毛、殻の重なりまで、今にも動きそうな姿で描かれています。どろちゃんは、フックが観察の人であると同時に、見たものを正確な絵として人へ渡せる人であることも好きなのです。


 病気で弱っていると知り、どろちゃんは、現地製の対物レンズ、接眼レンズ、取付具、説明書を送ります。これはフックの研究を顕微鏡だけに限って考えたからではなく、今のエルレンフェルトから、フックの手元へ直接役立つ形で届けられる最良の品がレンズだったためです。


 自分の小さなポートレートも同封します。これは、十五歳の貴族令嬢が著名な学者へ自分の顔を見せたい、というだけの添え物ではありません。どろちゃん自身はフックの本を読み、顕微鏡で見た生き物の姿まで知っているのに、フック本人がどんな顔をしているのかは知りません。


 現実世界でも、現在までロバート・フック本人と確実に同定された肖像画は一枚も残っていません。フックの日記には、一六七四年に誰かが自分の「picture」を描いたらしい短い記録があり、後年には王立協会でフックの肖像を見たという記述もあります。しかし、どちらも現在残る特定の作品へ確実につなげることはできません。ニュートンがフックの肖像を故意に処分した、という有名な話にも確かな証拠はありません。つまり、肖像が一度も作られなかったと断定できるわけではない一方、後世の私たちが「これがロバート・フック本人である」と安心して見ることのできる肖像は残っていないのです。


 だからこそ、どろちゃんが先に自分のポートレートを送ることには、もう一つ小さな意味があります。遠い土地の十五歳の愛読者が、自分の論文を読んでいたことを伝え、レンズを贈り、自分の顔まで知らせてくれたなら、フックも返礼に自分の顔を知らせようと思うかもしれません。手元にあった素描を送るかもしれませんし、新しく小さな肖像を描かせるかもしれません。絵の得意なフック自身が、簡単な自画像を添えることも考えられます。


 もし、その一枚がエルレンフェルト家へ届けば、どろちゃんは現実世界の私たちが見ることのできなかったロバート・フックの顔を見ることになります。それが子爵家の私室や書庫に長く私蔵され、後世に失われたり所在不明になったりすれば、「確実なフック像が現存しない」という現実の歴史とも衝突しません。


 フック側の反応と返礼は、この章では描きません。

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