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16貴族令嬢は、町へ買い物に行きます。 どろちゃんはライデン大学の博士になりました

第十六章 貴族令嬢は、町へ買い物に行きます


 その朝、食堂には焼きたてのパンの匂いが残っていました。


 料理人が夜明けから焼いた丸い小麦パンは、籠の中でまだ少し温かく、割ると薄い皮がぱりりと音を立てます。黒いライ麦パンも薄く切られ、白い布を掛けた別の籠へ入っていました。


 食卓には、柔らかくしたバター、蜂蜜、燻した肉、塩を少し振ったゆで卵、林檎を形が残るくらいに煮たものが並んでいます。小さな鍋には温めた乳があり、お母様の前には香草を入れた湯気の立つ飲み物が置かれていました。


 どろちゃんは小麦パンを二つに割り、片方へバターを塗りました。


「今日は、町でお昼を食べるのでしょう」


 お母様が林檎を取りながら言いました。


「そのつもり。布を見るのに、どのくらいかかるか分からないけれど」


「布なら、いつもの商人を呼べばよかったのではなくて?」


「新しい布ではだめなの。何度も洗った古い布を、触って選びたいの」


 お父様は卵の殻を割りながら、娘を見ました。


「服にするのではないのだな」


「飛行機を拭くの。窓に使うものと、油を取るものは分ける」


「では、黄色い服を着て、古布を買いに行くのね」


 お母様は、どろちゃんがバターの上へ蜂蜜まで重ねたのを見ました。


「町へ着く前に、袖へ付けないようになさい」


 どろちゃんがパンを口へ運ぼうとしたところで、食堂の扉が開きました。


 執事が銀盆に一通の書状を載せています。その後ろには、朝早く到着した使者から受け取ったらしい、革紐でまとめた平たい包みがありました。


「ライデンからでございます」


 どろちゃんはパンを持ったまま振り返りました。


「もう?」


「帰ってきてから、まだそれほどたっていないわね」


 お母様が言いました。


 外側の書状は、エルレンフェルト子爵宛でした。お父様が封蝋を割るあいだに、どろちゃんは蜂蜜の付いた指を布で拭きました。そうしておかなければ、ライデン大学の書類に朝食の続きが残ります。


 包みの中から、厚い紙が何枚も出てきました。大学の印があり、先生たちの署名があり、一番大きな紙には、ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトの名が書かれています。


 どろちゃんは、お父様の横からその文字を読みました。


「私に?」


「そうらしい。こちらは学位記だな」


「学位記って、こんなに大きいの」


「小さければ、ありがたみが減ると思ったのではなくて?」


 お母様はそう言いましたが、椅子を少し寄せて一緒に見ました。


 学位記には、どろちゃんがライデンで参加した研究、大学工房へ伝えた知識、飛行と観測の記録、言語資料の読解について、たいへん丁寧に書かれていました。本人がしたことなのに、大学の文章になると、別の人の経歴のように見えます。


「私、こんなに立派に説明しなかったわ」


「大学の先生は、短く書く方が難しいのでしょう」


 お母様は、冷めかけた乳をどろちゃんの方へ寄せました。


「先に飲んでしまいなさい」


 学位記の下には、大学に籍を置いたまま子爵領で研究を続けるための書類がありました。


 自然哲学、数学、機械諸技芸、言語、飛行、気象、測量。子爵領で行った実験、試作、観測を記録し、ライデンへ送ること。大学から届く質問には、分かる範囲で答えること。そのために大学は、書籍、器械、材料と、毎年の研究俸を用意すること。


 どろちゃんは途中まで読んでから、パンの残りを食べました。今度は蜂蜜を付けませんでした。


「大学へ住むとは書いていないのね」


「お前がライデンへ住めないことは、向こうも知っている」


「それなら、家で研究して、時々行けばよいの?」


「そういうことになるな」


 どろちゃんは、もう一度任命の文面を見ました。


「在宅研究者」


 ロシアにいたころ、日本のアニメ雑誌で見た言葉を思い出しました。意味は少し違いますが、家を拠点にして、遠くの大学へ報告するところは似ています。


「何か変なの?」


 お母様に尋ねられ、どろちゃんは首を振りました。


「昔、似た言葉を見ただけ」


 同封されていた友人の手紙は、大学の書類より薄い紙でした。


 学位だけ渡すと、どろちゃんは面白そうな研究を勝手に始め、報告する前に次へ進むかもしれない。給与を払えば、大学には報告を催促する理由ができる。先生たちは、そう話していたらしい。


 最後には、折れた試験片のことと、大学で作った後席を忘れないことが書かれていました。


 ライデンで実際に見せたのは、電流で磁針を動かすことと、磁石を動かしたときだけ銅線に電流が生じることを確かめる、短い実験でした。けれど、どろちゃんはそれだけを残して帰ったわけではありません。


 鉄の芯へ、互いに触れないようにした銅線を巻き、電流を流して電磁石にする方法。通信線の向こうでその電磁石を動かし、鉄片を打つ音によって情報を送る電信機の考え方と設計図。短い信号と長い信号を文字へ変える符号表と、同じ符号を世界中で使えれば、言葉の違う土地のあいだでも通信の決まりを共有できること。


 さらに、鉛蓄電池が電気を蓄えて繰り返し使える理由、極板、希硫酸、容器、端子の作り方、最初に電流を流して使える状態へする手順まで、図と文章へまとめて大学へ置いてきました。大学の先生たちは、その書類を読み、作れる部分から試し、特許の手続きも進めていたのです。


「後席は忘れていないわ」


「まだ返していないの?」


 お母様が尋ねました。


「子爵領まで一人分余計に飛べる燃料がないもの。次に行くとき、また考える」


 残りの書類には、電信機と蓄電池の特許が含まれていました。


 電鍵を押すと、遠くの電磁石が鉄片を引き、カチ、カチカチ、と音を出す通信機。短い信号と長い信号を組み合わせ、どろちゃんが覚えているモールス符号で文字を送ります。


 繰り返し充電して使う鉛蓄電池と、液をこぼさず持ち運べる乾電池にも、別の特許状がありました。


 発明者の欄は、どれもドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトです。


 ところが、特許料、研究俸、製造を許可する契約、受け取った金額を管理する書類は、お父様へ送られていました。


 どろちゃんは、学位記とお父様の前の書類を見比べました。


「名前は私なのに、お金の紙だけお父様のところへ行くのね」


「未成年だから、という理由だけではないようだ」


 お父様は文面を読み進めました。


「女性が財産と契約を一人で管理するのは適当でない、と書いてある」


「電池を作るのはよくて、お金を数えるのはだめなの?」


「大学が決めたというより、今ある制度に合わせたのだろう」


 お父様は腹を立てた様子もなく、かといって当然だという顔もしませんでした。朝食の横へ領地の帳面を一冊持ってこさせ、空いている頁を確かめています。


「お前の研究の収入は、領地の収入や家の費用とは分ける。使ったものも、残ったものも、ここへ書く。帳簿はお前も見る」


「私も書いてよい?」


「数字を左右逆に書かなければな」


 どろちゃんは少し考えました。


「一度だけでしょう」


「一度でも、帳簿では残る」


 学位の朝でしたが、どろちゃんは以前の増槽計算で左右を逆に書いたことまで思い出されました。


 お母様は蜂蜜の壺へ蓋を戻しました。


「学位記は食堂へ置いたままにしない方がよいわね。お昼には、別の紙が上へ載っていそうですもの」


 執事が書類を運ぶ準備を始めました。


 どろちゃんは特許状の一枚を取り、鉛蓄電池の項目をもう一度見ました。


「発電機がなくても、最初の電池は作れるわ」


「充電はどうする」


「神様から届いている大きなバッテリーを使うの。酸化鉛と硫酸鉛の極板を希硫酸へ入れて、最初の化成をする。そこから先は、発電機が届いてから」


「もうすぐ届くと言っていた機械か」


「うん。天幕も昨日できたでしょう」


 お父様は窓の外を見ました。工房から少し離れた草地には、指示された寸法の大きな天幕が張られています。今朝まで、その中は空でした。


「町から戻るころには、何か入っているかもしれないな」


「帰ってから見る」


 どろちゃんは残っていた煮林檎を食べました。学位も特許も届きましたが、今日の予定は変わりません。


 飛行機を磨く布を買いに行きます。


     *


 朝食のあと、どろちゃんは厨房へ寄りました。


 食堂から一段下がった場所にある厨房では、朝の片づけと昼の仕込みが同時に進んでいます。大きな炉にはまだ火が残り、銅鍋の底が赤く照らされていました。焼いたパンを冷ます棚、刻んだ根菜、吊るした香草、皮をむかれた玉葱。料理人の助手が、朝食に使った卵の殻を桶へ集めています。


 料理人は、昼に出す鶏の下ごしらえをしていました。


「今日は、私とフランソワさんのお昼はいりません。町で食べてきます」


 料理人は手を止め、どろちゃんの後ろにいるフランソワさんも見ました。


「お二人ともでございますね」


「うん。夕食までには戻るつもり」


「では、お嬢様の分に小さく焼く予定だった肉のパイは、使用人の昼食へ回しましょう。夕食はいつもどおりでよろしいですか」


「お願いします」


「町で菓子だけ召し上がって、食事を済ませたことにはなさいませんように」


 料理人は、どろちゃんが返事をする前に鶏へ向き直りました。


 フランソワさんが小さくうなずいたので、どろちゃんも何も言いませんでした。


     *


 外出の支度は、フランソワさんが整えました。


 どろちゃんの服は黄色を基調にしたもので、明るい布の上へ、少し濃い色の縁取りが入っています。工房へ行く服より裾は長く、町の店へ入っても子爵令嬢として困らない形でした。


 フランソワさんは水色の外出着です。黒い髪を後ろでまとめ、帽子の下へ収めています。身長は百六十センチメートルほどで、細身ですが、腰や肩の線が素直に服へ出る体つきでした。屋敷の者には見慣れた姿でも、町へ出ると、見慣れていない人が振り返ります。


 フランソワさんの家は、記録が残っている最初のころからエルレンフェルト家に仕えていました。料理人だった人、馬を見た人、子どもの世話をした人、帳面を書いた人。代ごとに役目は変わっても、領主家と同じ町で暮らし、同じ家へ働きに来ています。


 どろちゃんが玄関へ降りると、フランソワさんは薄い手袋を差し出しました。


「いまは暖かいよ」


「帰りに風が出るかもしれません」


 どろちゃんは受け取りましたが、すぐにはめず、外套のポケットへ入れました。


 玄関前では二頭の栗毛が馬車につながれ、鼻から白い息を短く出しています。御者が革具を確かめ、後ろには荷物を扱う使用人が一人乗りました。


 馬車の扉にはエルレンフェルト家の紋章があります。中は向かい合わせの座席で、深い色の布を張った座面には馬毛が詰められていました。足元には小さな敷物があり、壁際には手袋や包みを入れる革の袋が付いています。


 どろちゃんが先に座り、フランソワさんが向かいへ座りました。扉が閉まると、外の音は少し遠くなります。それでも馬が歩き始めると、蹄の音、車輪が砂利を押す音、車体を吊るす革帯の軋みが、床と座席から伝わってきました。


 屋敷の丘を下る道では、馬車はゆっくり進みます。平らな空を滑るタドポール君とは違い、片側の車輪が石を踏むたび、身体が少し遅れて揺れました。


「飛行機より酔う人がいるの、分かる気がする」


 どろちゃんが窓の外を見たまま言いました。


「お嬢様は、飛行機で酔わないのでしょう」


「操縦していると、次に動く方向が分かるもの。馬車は御者さんが決めるから」


 フランソワさんは、どろちゃんの膝の上で外套の端が折れているのを直しました。


 馬車はエルレンフェルトの町へ入りました。


 市場へ向かう荷車、井戸から水を運ぶ人、店の戸板を外している商人。町の人は紋章の付いた馬車へ気づくと道を空け、近い者は頭を下げました。どろちゃんもガラス窓の内側から小さく頭を下げます。


 新しい地図を作ってから、道の見え方が変わっていました。


 空からは、町全体が屋根と道の形になります。馬車の高さでは、同じ町が一軒ずつ現れます。写真で見つけた狭い曲がり角では、今日も荷車が二台、先に通る方を決めかねて止まっていました。古い地図と位置が違っていた水路には、洗った布が長く干されています。


 町を抜けると、川沿いの道になりました。


 左には畑と葡萄の列が続き、右には川が見えたり、柳と倉庫の陰へ隠れたりします。水車の近くでは粉を運ぶ荷車が並び、川には荷を積んだ平底の舟が進んでいました。風が窓の隙間から入ると、湿った土、馬、遠くの薪煙が混じった匂いがします。


 道の悪いところでは、会話が何度か途切れました。


 どろちゃんは特許状のことを話しかけ、車輪が溝を越えたところで一度やめました。そのあと、同じ続きではなく、窓の外の新しい水車について話しました。


 ストラスブールの高い塔が見え始めるまで、およそ一時間かかりました。


     *


 ストラスブールは、遠くから見るより近くで歩く方が、いくつもの町を重ねたように見えました。


 水路沿いには荷を揚げる倉庫があり、石造りの大きな家の隣には、木の骨組みを外へ見せた家があります。窓の形も屋根の傾きも、通りを一本曲がると変わりました。


 北から来た商人、西から来た職人、川を下ってきた船乗り、山を越えて布や金属を運んできた人。同じ言葉を話し、同じ文字の看板を使っていても、服の留め方、帽子、パンの形、店に並べる品物には違いがあります。


 馬車が布を扱う通りへ入ると、店先の何人かが振り返りました。


 紋章を見た人も、黄色い服の子爵令嬢を見た人もいました。けれど、先に降りたフランソワさんを見た若い男性は、それより少し多かったようです。


 向かいの金物店にいた若い職人は、磨いていた取手を同じ場所でもう一度磨きました。パン屋の前では、二人で話していた男の子の片方が返事を忘れ、相手に肩を押されています。


 フランソワさんは馬車の踏み台を押さえました。


「お嬢様」


 どろちゃんは手を借りて降りました。


 最初に入った店の表には、新しい反物が並んでいました。光沢のある絹、細い毛織物、刺繍を施した布、夏向きの薄い麻布。壁際には色見本が下がり、店の奥まで染料と新しい布の匂いがします。


 店の主人はエルレンフェルト令嬢が来ると聞き、奥から上等な反物を出してきました。


「今日は、それではないの。何度も洗った古い麻布か綿布を見たいのだけれど」


「仕立て直しにお使いでしょうか」


「飛行機を拭くの」


 主人は、黄色い袖と、後ろのフランソワさんを順に見ました。


 どろちゃんは続けました。


「糊が残っていなくて、毛羽が少ないもの。白か、色の薄いものがよいわ。破れていても、縫い目を外して大きく取れるならかまわない」


 主人は少し考え、店の奥にいた者へ声を掛けました。


「表ではなく、裏の倉庫を見ていただいた方がよさそうです」


 倉庫には、買い取った古布が用途ごとに積まれていました。


 宿屋で長く使われたシーツ、食卓布、仕立て直しのあとに残った大きな端切れ、何度も洗われて色の薄くなった麻布。まだ衣服へ使えるもの、紐や詰め物にするもの、最後には掃除へ回すものに分けられています。


 どろちゃんは手袋を外しました。


 布を指先で擦り、明るい窓へ透かします。端を軽く引き、糸が抜けないか見ます。折って掌へ当て、硬さが残っていないかも確かめました。


 フランソワさんが一枚の白い麻布を広げました。


「これは、ずいぶん柔らかくなっています」


 どろちゃんは端を少しほぐしました。


「窓には使えそう。でも、切ったところから糸が出るから、縁を縫ってもらった方がよいわね」


「縫い目のある側を持つよう、印も付けますか」


「うん。それなら工房で混ざらない」


 別の布は、柔らかくても細かな毛羽が出ました。濃い色の木板へ擦ると、白い糸がいくつも残ります。


「これは油を取る方。透明な窓には使わない」


 厚い布は、機体の下へ落ちた油や水を吸わせるものにしました。薄く滑らかな布は、タドポール君と小鳥ちゃんの窓や塗装面へ使います。細長く切っても糸が抜けにくいものは、配管や金具の周囲へ差し込むために分けました。


 どろちゃんが三つの山を作ると、フランソワさんは店の紙札へ用途を書きます。途中から倉庫の人も分け方を覚え、毛羽の多いものを先に避けるようになりました。


 数枚選べば足りると思っていました。


 けれど、窓用の布へ油が付けば、もう同じ用途には戻せません。機体ごとに分けるものもあります。工房では、これから電信機、電池、発電機、モーターも扱います。金属を磨く布と、絶縁物を拭く布も一緒にはできません。


 どろちゃんは、最初に作った山の倍ほどを選びました。


 それでも倉庫にはまだ布があります。


「この一列もお願いします」


 店の主人は、積み上がった量を見ました。


「お持ち帰りになりますか」


 フランソワさんが先に馬車の方を見ました。


「お嬢様、座る場所がなくなります」


「届けてもらえる?」


「もちろんでございます」


 古布はもう一度、石鹸を使って洗い、よくすすぎ、糊を付けずに乾かすことになりました。金具、厚い縫い目、刺繍は外します。窓用、油用、狭い場所用を混ぜず、別々の包みにしてエルレンフェルト家の工房へ送ります。


 見本だけは、どろちゃんたちが持ち帰りました。


 倉庫を出ると、昼の鐘が鳴っていました。


     *


 昼食は、水路に面した料理店の二階で取りました。


 一階には商人と旅人が入り、扉が開くたびに声と食器の音が階段まで上がってきます。二階の小部屋は低い梁のある部屋で、白く塗った壁に小さな絵皿が掛かり、隅の陶製暖炉から穏やかな熱が出ていました。


 窓の下には水路があります。平底の舟が橋の下を通ると、船頭の声が水面へ反響しました。向かいの家の窓では、赤い布が風に揺れています。


 食卓には白い布が掛けられ、錫の皿と磨いた匙、二人分の小さなグラスが用意されました。どろちゃんには薄めた果汁、フランソワさんには水が出ています。


 最初の皿は、根菜と香草を煮た温かいスープでした。澄んだ汁の中に蕪、人参、細く切った葱が入り、上には刻んだ香草が浮いています。歩いたあとに飲むと、塩気と湯気が身体の中へ戻ってきました。


 どろちゃんは最初の匙を飲み、もう一度窓の外を見ました。


「朝、料理人さんに言われたでしょう」


 フランソワさんが言いました。


「菓子だけではないわ」


「まだスープです」


 次には、皮を香ばしく焼いた川魚が出ました。身は白く、表面には溶かしたバターと刻んだ香草がかかっています。酸味を付けたキャベツと燻した肉が小さく添えられ、別の皿には、玉葱と白い柔らかな乳製品を薄い生地へ載せて焼いたものがありました。


 川沿いの料理と、山側から来た料理と、西の町で好まれる味が、一つの食卓へ並んでいます。


 フランソワさんは魚の背骨に沿ってナイフを入れ、骨をきれいに外しました。どろちゃんも真似をしましたが、身を少し崩しました。


「こちら側から入れると取りやすいです」


「飛行機の配管より細い」


「食べるものですから、工具はお使いにならないでください」


 どろちゃんはナイフだけで続けました。


 焼いた玉葱の甘い匂いと、燻した肉の塩気が部屋に残ります。下の階からは、椅子を引く音と笑い声が聞こえました。給仕が扉を開けるたび、厨房から焼いたパンと肉汁の匂いが入り、扉が閉じると水路の音が戻ります。


 先ほど布の店の前にいた若い職人が、橋の向こうを歩いていました。同じ水色の服を見つけたらしく、一度こちらを見上げましたが、窓辺にどろちゃんもいることへ気づき、すぐ前を向きました。


「知っている人?」


 どろちゃんが尋ねました。


 フランソワさんも窓の外を見ました。


「父の知り合いの工房にいた方かもしれません」


「名前は?」


「分かりません」


 そう言って魚を食べましたが、少したってから、もう一度だけ橋の方を見ました。若い職人はもういませんでした。


 食事が半分ほど進んだころ、どろちゃんは朝のことを思い出しました。


「学位が届いたの、フランソワさんは見ていないでしょう」


「お部屋へ運ばれるところは見ました。ずいぶん大きな紙でした」


「大学で働くことになったらしいの」


「ライデンへお住まいになるのですか」


「家で研究して、時々行くの。お父様のところには、私のお金の書類が届いた」


 フランソワさんは少し考えました。


「お嬢様のお名前で、子爵様がお預かりになるのですね」


「そう。でも、私が女だから一人では管理できない、と書いてあるの」


 フランソワさんはすぐには答えず、キャベツを一口食べました。


「私は、自分のお給金は自分で持っています」


「使うものも、自分で決める?」


「はい。ただ、家を買えるほどではありません」


「私の方が、たくさんあるのに触れないのね」


「帳簿は見せていただけるのでしょう」


「一緒に見るって」


「では、先に帳簿の書き方を覚えた方がよいかもしれません」


 どろちゃんは朝の左右逆を思い出しました。


「お父様も同じことを考えていそう」


 食後には、林檎と薄い生地を重ねて焼いた菓子が出ました。端はぱりぱりしていて、中の林檎は柔らかく、少しだけ酸味が残っています。上には粉砂糖ではなく、細かく砕いた木の実が散らしてありました。


 どろちゃんは半分だけ食べるつもりで切りました。


 話しているうちに、皿には何も残らなくなりました。


 フランソワさんの皿も空になっています。


「料理人さんには、きちんと食べたと言えるわね」


「何を召し上がったかも聞かれると思います」


「全部覚えている?」


「お嬢様よりは」


 どろちゃんは、最後に残っていた木の実を指で集めるのをやめました。


     *


 帰りの馬車には、選んだ布の見本と、料理店で包んでもらった小さな焼き菓子が増えました。大量の古布は、洗い直してから荷馬車で届きます。


 午後の通りは、朝より人が多くなっていました。


 フランソワさんが馬車へ近づくと、店先の若い男が帽子を取りました。少し離れたところでは、別の男が頭を下げています。誰が顔見知りで、誰がただ挨拶をしたかっただけなのか、どろちゃんには分かりません。


 フランソワさんは同じように軽く頭を下げ、どろちゃんが乗るまで踏み台を押さえました。


 馬車が城壁を出ると、人の声は遠くなりました。


 昼食のあとで身体が温まり、行きより座席が柔らかく感じられます。車輪の規則的な音と、革帯のゆっくりした揺れが続きました。


 どろちゃんは窓の外を見ながら、いつの間にか少し眠っていました。


 目を開けると、馬車は川沿いの水車を過ぎるところでした。向かいでは、フランソワさんが包みを膝の上へ置き、窓の外を見ています。


「寝ていた?」


「少しだけです」


「どのくらい?」


「水車を二つ分くらい」


 それが時間としてどのくらいなのかは分かりませんでした。


 エルレンフェルトの町へ戻ると、夕方の市場が始まりかけていました。朝に干されていた布は取り込まれ、狭い曲がり角には別の荷車が止まっています。


 丘を上る途中で、どろちゃんは屋敷の手前に張った天幕を見つけました。


 朝より形が大きく変わっています。


 空だったはずの布の内側から、四角い物がいくつも押し、屋根の中央も高く張っていました。入口の前には、親方と職人たちが集まっています。誰も紐へ触れていません。


「朝は、何もなかったよね」


「はい。床板だけでした」


 馬車が止まりきる前から、どろちゃんは扉の方を見ていました。


 フランソワさんは先に降り、いつものように踏み台を押さえました。どろちゃんが急いで裾を踏まないよう、外套の端も持っています。


 指示された時刻まで、まだ少しありました。


 どろちゃんは町から持ち帰った布を工房の机へ置き、親方と一緒に天幕の周囲を見ました。布に破れはなく、地面へ沈んだ場所もありません。


 日が丘の向こうへ近づき、ようやく入口の紐を解ける時刻になりました。


 天幕の中には、木箱と防水布に包まれた機械が、厚い床板の上へ並んでいました。


 工作物を回して削る旋盤。正確な穴を開けるボール盤。平面や溝を削るフライス盤。研削盤、測定器、切削工具。長い箱には軸材、板材、管、さまざまな金属材料が収められています。


 別の一角には、水車へつなぐ発電機と制御装置、大型バッテリー、インバーター、電動機、太い電線、配電器具がありました。


 さらに、ガラス繊維の布、樹脂、硬化剤、離型材、ローラー、秤、防護具をまとめた、FRP製作用の箱があります。


 箱の表面には神様の文字が並んでいました。


 どろちゃんが一歩入ろうとすると、頭の中の技師さんたちが止めました。


 ――待て。

 ――床荷重を確認する。

 ――電源はまだつなぐな。

 ――梱包ごとに番号を付ける。

 ――先に目録。


 どろちゃんは足を戻しました。


 親方は入口の外から中を見ています。


「大学でお話しになった機械は、これでしょうか」


「たぶん。まだ箱を開けないと、全部は分からないわ」


「今日は、目録までにいたしますか」


 どろちゃんは、工房の机へ置いてきた布の見本を思い出しました。


 たくさん買ったウエスは、まだストラスブールで洗われています。


 磨く機械の方が、先に届いてしまいました。



【学位と研究俸】


 学位と大学所属の研究者としての任命は、ドロテーヤ本人に対して行われます。

 ただし、十五歳の未婚女性が契約、財産、継続収入を単独で管理することは認められにくいため、研究俸、特許料、製造許諾、会計関係の書類は父であるエルレンフェルト子爵へ送られます。

 子爵は領地の収入や家計へ混ぜず、娘の研究資金として別の帳簿を作り、どろちゃんにも内容を見せます。



【ライデンへ残した技術書類】


 大学で行った実演は、電流による磁針の偏れと、磁界の変化による一時的な電流を示す基礎実験です。

 どろちゃんは帰国前に、電磁石、有線電信機、通信符号、鉛蓄電池について、原理、製作手順、回路、設計図をまとめた書類を大学へ残しました。第十六章で届く特許状は、この書類と大学での検討を基礎にしています。



【鉛蓄電池と乾電池】


 どろちゃんは鉛蓄電池と乾電池の原理を学んでいます。

 発電機はまだ領地で完成していませんが、酸化鉛と硫酸鉛を使って極板を作り、希硫酸へ入れ、すでに神様から届いている大型バッテリーを電源として初期の充電と化成を行えます。

 乾電池は、携帯する電信機や測定器の電源として使います。



【フランソワさん】


 十八歳。黒髪。身長約百六十センチメートル、体重約四十五キログラム。

 非常に整った容姿と均整の取れた体つきで、同年代の中でも上位一パーセントほどの美人です。町の若い男性たちの注目を集めます。まだ独身です。

 フランソワさんの家は、記録が残る最初期から何代にもわたりエルレンフェルト家に仕えています。

 どろちゃんを「お嬢様」と呼び、どろちゃんは「フランソワさん」と呼びます。



【二人の外出着】


 どろちゃんは黄色、フランソワさんは水色を基調とした服を着ています。

 二人が並ぶと青と黄になり、アントノフの故郷であるウクライナを思わせる配色になります。作中の人々には、明るく相性のよい二色として見えています。

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