15大学の工房に翼が残ります 一部技術移転します
第十五章 大学の工房に翼が残ります
ライデンへ来た翌朝。
どろちゃんが目を覚ますと、友人はもう着替えていました。
「早いのね。昨日は、私より先に眠っていたでしょう」
「大学の工房へ行くのでしょう。寝ている場合ではないわ」
「まだ朝食も食べていないし、工房へ行ったからといって、すぐ空を飛べるわけではないのよ」
「後席を作るのでしょう。私の席を」
「作るのは職人さんよ。私は技師さんの話を伝えるだけ。材料を選ぶのも、金具を打つのも、試験するのも、大学の人たちがするの」
「では、私は座って待っていればよいのね」
「完成した座席へ座るのは最後。最初に座るのは砂袋かもしれないわ」
友人は顔をしかめました。
「昨日から、私より砂袋の方が大切にされていない?」
「砂袋なら、壊れても文句を言わないもの」
「壊れる予定の座席へ、私を乗せるつもりだったの?」
「壊れないと確かめるために、先に砂袋を乗せるの」
友人はしばらく考え、ようやく納得しました。
「それなら、朝食を急ぎましょう。砂袋に先を越される時間を、少しでも短くしたいわ」
どろちゃんは、急いでも試験時間は短くならないと言おうとしました。
しかし、長い説明になりそうなので、先に服を着ました。
◇ ◇ ◇
大学の工房では、先生と職人たちがタドポール君を囲んでいました。
天文学者。
数学者。
自然哲学の先生。
機械に詳しい先生。
大学の工房を預かる親方。
木工職人。
金工職人。
学生たち。
一機の飛行機に対して、人が多すぎます。
一人は翼端を測ろうとし、一人は操縦席をのぞき、一人はジェットの吸入口へ顔を近づけています。
「待ってください。いま全員が別々の場所へ触ったら、誰が何を動かしたのか分からなくなります」
どろちゃんは、少し大きな声で言いました。
昨日までなら、もっと遠慮したかもしれません。
けれど、目の前で全員が同時に研究を始めそうになっています。
――正しい。勝手に外させるな。
頭の中で技師さんが言いました。
「技師さんたちも、順番を決めてからにしてほしいと言っています。私は、この機体を帰りにも使うのです。調べることには賛成ですが、飛べない状態へしてから相談するのでは遅いでしょう」
機械の先生が、吸入口から顔を離しました。
「中を見なければ、仕組みが分からない」
「どこまで外せば元へ戻せるのか、先に決めてください。先生が知りたいところと、職人さんが戻せるところは、同じとは限りません」
工房の親方がうなずきました。
「まず増槽を外し、後席を作る。機体を飛べる状態へ戻してから、寸法を測る。エンジンへ触る話は、そのあとです」
「それでは時間がかかる」
先生が言いました。
「壊せば、もっと時間がかかります」
親方は穏やかに答えました。
大学には、知るためなら分解したい人がいます。
工房には、使える物を壊したくない人がいます。
どちらも必要ですが、同じ工具を同時に持たせてはいけないことがあります。
◇ ◇ ◇
増槽には、帰りに使う燃料が少し残っています。
火を使う工房の中で、いきなり配管を外してはいけません。
燃料を別の容器へ移します。
弁を閉じます。
工房の窓を開けます。
火床の火を落とします。
――火気なし。
――残圧確認。
――受け皿。
技師さんたちの声が硬くなりました。
実際の作業中だからです。
どろちゃんは、指示を一つずつ親方へ伝えました。
親方は、工具の順番を職人へ指示します。
学生たちは遠くから見ています。
「近くで見たい」
友人が言いました。
「燃料を扱っているから、いまはだめ。あの線より内側へ入らないで」
「私は学生ではないわ」
「燃えるとき、学生かどうかは関係ないでしょう。昨日、飛行機へ乗りたいと言ったばかりなのに、今日は工房を燃やすつもり?」
「そんなつもりはないわ。ただ、私の座席がどこへ付くのか見たいだけ」
「増槽を外せば見える。いま近づいても、職人さんの背中しか見えないわ」
友人は少し口を尖らせました。
けれど、決められた線の外へ下がります。
増槽が外れると、タドポール君の後席部分が空になりました。
友人は、許可を待ってから近くへ来ました。
「ここへ座るの?」
「後ろ向きに」
「飛んでいる間、あなたの顔は見えないのね」
「私の後頭部なら、少し見えるかも。けれど、無理に前をのぞこうとしないで。身体をひねると拘束具が正しく働かなくなるから」
「景色は?」
「来た方がよく見える。どこへ行くかは私が見る」
「あなたが道を間違えたら?」
「後ろから教えてもらっても、もう通り過ぎたあとでしょう」
友人は空の後席へ座るふりをしました。
「本当に狭いわ」
「まだ座席がないからよ。座席と詰め物と帯が入れば、もっと狭くなる」
「いま、安心させるところではなかった?」
「飛行機の座席を、居間の椅子のように思われる方が困るもの」
◇ ◇ ◇
元の後席は、子爵領に保管されています。
ライデン大学では、図面と寸法を使って新しい座席を作ります。
ただし、未来の工場で作られた物を、そのまま同じ材料で複製することはできません。
木枠。
革。
詰め物。
織った帯。
鉄の金具。
今ある材料を使い、同じ働きを持つ物を作ります。
どろちゃんは、技師さんの言葉を職人へ伝えました。
「座面の枠は、この寸法。取付点は変えないでほしいそうです」
親方が木材を見ました。
「この木なら、図面より少し厚くしたい。薄いままでは、接合部の近くから割れる恐れがあります」
――重くなる。後席だけで許容重量を使うな。
「厚くすると重くなるから、別の方法を考えられないか、と」
「重いのは分かっています。では二枚を重ね、木目を交差させる。ただし、接着剤が湿気に耐えるか試さなければなりません。ここはライデンです。乾いた子爵領と同じつもりでは作れない」
どろちゃんは、工房の外にある水路を見ました。
町全体が湿った風の中にあります。
「技師さん、接着した試験片を、乾いたものと湿らせたものの両方で比べたいそうです」
――そうしろ。時間を短縮するな。
「時間を短縮するな、とも」
友人が横から言いました。
「技師さんまで、私を待たせる側なのね」
「飛行機を作る人は、乗りたい人より試験を大切にするの」
「どろちゃんも、乗る側でしょう」
「私は、降りるところまで考える側でもあるわ」
今度は自然哲学の先生と、接着剤を扱う職人が呼ばれました。
試験片を作ります。
乾かします。
曲げます。
引き離します。
湿らせます。
また引き離します。
「座席一つに、こんなにかかるの?」
友人が尋ねました。
親方が答えました。
「座席一つだからです。翼なら、もっとかかります。小さな部品で試せることを、人を乗せてから試す工房は長続きしません」
友人は、親方に言われると反論しませんでした。
どろちゃんに言われたときとは、少し違います。
◇ ◇ ◇
五点式拘束具の帯も試しました。
腰の左右。
肩の左右。
脚の間。
五本を中央の金具へ集めます。
金具の角は丸く磨きます。
帯が擦れて切れないようにします。
「腰だけではだめなの?」
友人が尋ねました。
どろちゃんは技師さんへ聞き、その答えを自分の言葉へ直しました。
「急に止まったとき、腰だけ留めると上半身が前へ倒れる。肩だけ留めると、身体が下へ抜ける。五本で、身体を座席へ残すの。苦しくなるほど締めるのではなくて、衝撃を受けたときに大きく動かないようにする」
「空を飛ぶのに、自由に動けないのね」
「空で自由に立ち上がれたら、そちらの方が怖いでしょう」
完成した座席へ、最初に座ったのは友人ではありません。
砂袋でした。
「やはり、私の代わりなのね」
「あなたより先に壊れてくれるもの、と考えれば、少しは大切に見えるでしょう」
「人ではないわ」
「だから先に試せるの」
友人は砂袋を見ました。
自分と同じくらいの重さだと聞き、持ち上げようとしました。
動きません。
「私、こんなに重くないわ」
「持ち方が悪いのよ。二人なら動くと思う」
どろちゃんも手を掛けました。
二人で持ち上げようとして、結局、職人を呼びました。
「私は、歩けるから軽いのよ」
友人が言いました。
「砂袋も歩けば、同じくらいに感じるかもしれないわね」
十五歳の女の子二人には、試験用の砂袋は親しみにくい相手でした。
◇ ◇ ◇
座席を取り付けたあと、重心を測ります。
数学者が計算します。
職人が秤を置きます。
技師さんが許容範囲を示します。
どろちゃんは数字を読み上げます。
友人は後席へ座りました。
「動かないで」
「何もしていないわ」
「さっき足を組み替えたでしょう。秤の針が動いたもの」
「それくらいで変わるの?」
数学者が振り返りました。
「変わります。あなたの身体が前後へ動けば、同じ重さでも作用する位置が変わる。飛行機全体から見れば小さな差ですが、測っている最中は止まっていてください」
友人は急に姿勢を正しました。
「呼吸はしてよいの?」
「それはしてください」
数学者も笑いました。
計算の結果、友人を乗せても重心は範囲内です。
ただし、帰りの荷物をどこへ積むかで変わります。
どろちゃんは、友人から渡された本の包みを見ました。
「全部持って帰るの?」
「三冊だけよ。昨日、図書室で読みたいと言ったでしょう」
「読みたいとは言ったけれど、飛行機へ積める重さには限りがあるの」
「大学へ来て、本を持たずに帰る方が不自然だわ」
友人の父親も、天測の本を何冊か貸すつもりでいます。
図書室で写した地図と図譜もあります。
数学者は本の包みを秤へ載せました。
「本は前方の荷物室へ分けた方がよいでしょう。全部を後ろへ置くと、後席の人と合わせて重心が下がりすぎます」
友人は満足そうに言いました。
「学問は、飛行機の前を重くするのね」
「本を置く場所によります」
数学者は真面目に答えました。
◇ ◇ ◇
新しい後席を付けたからといって、すぐ友人を乗せることはできません。
最初は、どろちゃん一人で地上を走ります。
次に、一人で短く飛びます。
その次に、後席へ砂袋を固定して飛びます。
友人は牧草地の端で待ちました。
「砂袋ばかり先に飛ぶ。私は昨日から待っているのに」
「砂袋は、飛行中に気分が悪くならないし、拘束具を外そうともしないもの」
「私も外さないわ。気分も悪くならないと思う」
「思う、では試験にならないでしょう。初めて乗る人がどう感じるかは、乗ってみないと分からないから、短い飛行にするの」
「それなら、最初から私でよいのでは?」
「座席が外れないことと、あなたが気分を悪くしないことを、一度に試さないの。問題が起きたとき、原因を分けられなくなるから」
友人は、しばらく黙ってタドポール君を見ました。
「大学の先生みたいなことを言うようになったわね」
「昨日、大学の先生に一日捕まっていたからかも」
砂袋を積んだタドポール君が着陸しました。
どろちゃんは、座席の取付部と拘束具を調べました。
親方も見ます。
技師さんも頭の中で確認します。
問題はありません。
ようやく、友人の番です。
五点式拘束具を締めます。
「少し苦しい」
「息はできる?」
「できる。けれど、背中を丸められないわ」
「飛行中に丸くなる必要はないでしょう。身体を前へ動かしてみて」
友人は動こうとしました。
ほとんど動きません。
「本当に動けない」
「それでよいの。痛いところがあるなら今言って。飛び始めてから、肩の帯が首に当たると言われても、すぐには直せないから」
友人は肩を少し動かしました。
「右は大丈夫。左が少し擦れる」
どろちゃんは帯を緩め、通る位置を直しました。
「これなら?」
「よいわ。今度は苦しくない」
「では、もう一度全部締め直す。いま直したからといって、腰の方まで緩んでいないか確かめるの」
友人は待ちました。
空を飛ぶ前には、待つことがたくさんあります。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは前席へ座りました。
『今度は話す人が増えたね』
タドポール君が言いました。
「友人には、タドポール君の声が聞こえないの」
『ぼくには聞こえるよ』
「何か言った?」
後席から友人が尋ねました。
「タドポール君が、話す人が増えたと言っているの。あなたの声は聞こえるそうよ」
「では、私が話せば、どろちゃんを通さなくてもよいのね」
『聞く方はね。返事は、どろちゃんに頼むよ』
「返事は私を通すの。大学の工房と同じね。技師さんと職人さんの間を通し、今度は飛行機と友人の間を通す」
「便利でしょう」
「一度に全員が話さなければね。私の頭と口は一つしかないのよ」
友人は少し声を落としました。
「怖くなったら、どろちゃんへ言えばよい?」
「怖いだけでも言って。気分が悪い、帯が痛い、何か変な音がする、それも全部。無理に平気なふりをしないで」
「あなたも?」
「私も。操縦する人が平気なふりをすると、もっと危ないもの」
ジェットが始動しました。
友人は後ろ向きです。
牧草地の端に立つ大学の先生たちが、正面に見えます。
タドポール君が走り始めると、先生たちが遠ざかります。
「みんなが後ろへ行く!」
「私たちが前へ進んでいるの」
「分かっているけれど、後ろ向きだと、地面の方が私へ向かってくるように見える!」
主輪が草を離れました。
友人の声が止まりました。
どろちゃんは一瞬、不安になりました。
「大丈夫? 声が聞こえないけれど」
「待って。いま、町が全部見えた」
しばらくして、友人が言いました。
城壁。
教会塔。
大学。
運河。
牧草地。
浅い湖。
湿地。
水に囲まれた畑。
友人が毎日暮らしている場所が、一つの景色へまとまりました。
「私の家も見える?」
「後ろの右側。赤い屋根が三つ並んで、その隣」
「赤い屋根ばかりよ。地上では、うちの家だけはすぐ分かるのに」
「空から見ると、家の人の顔までは屋根に書いていないもの」
どろちゃんは、友人が見つけるまで浅い旋回を続けました。
『少し右へ回るよ』
「右へゆっくり回るって」
タドポール君が傾きます。
友人の正面で地平線が傾きました。
「わあ。町が横へ滑っていく。水路が、思っていた形と違うわ」
「地上では、橋を一つずつ渡るから、全体の形を同時に見ないでしょう」
「お父様は、いつも星の位置を測っているのよ。大学のすぐ外の水路の形は、知らないかもしれない」
「帰ったら聞いてみよう。地図を持ってきて、こちらが間違っていると言い出すかもしれないけれど」
「それなら、今度はお父様を乗せる?」
「後席は一つよ。まず、あなたが無事に降りてから次を考える」
二人は笑いました。
地上では、天文学者の父親が望遠鏡を空へ向けていました。
本来は星を見る器械です。
今日は娘を見ています。
望遠鏡には、使う相手を選ぶ機能はありません。
◇ ◇ ◇
短い飛行を終え、タドポール君は牧草地へ戻りました。
友人には着陸する地面が見えません。
後ろ向きだからです。
「もう降りている?」
「降りている。あと少しで地面へ触れるから、背中を座席へ付けたままにして」
「見えないと、いつ来るのか分からないのね」
「私には見えている。着地の瞬間は、少し身体が帯へ押されるかもしれないけれど、驚いて外そうとしないで」
「分かった。任せるわ」
主輪が草へ触れました。
今度は跳ねません。
タドポール君はまっすぐ走り、止まりました。
『今日は一回で着いたね』
「昨日も一回よ」
『二度、地面に触れたよ』
友人には聞こえません。
「何を話しているの?」
「昨日の着陸のこと。まだ覚えているの」
「飛行機なのに、都合の悪いところだけ記憶がよいのね」
『友達も同じことを言うね』
「タドポール君が、あなたとは話が合うと言っているわ」
友人は後席から降りました。
父親が駆け寄ってきました。
「どうだった」
「町が地図みたいだった。大学の水路は、お父様が描いた図より、少し東へ曲がって見えたわ」
「高度と見る角度による歪みかもしれない。どの位置から見た?」
友人は父親を見ました。
「普通は先に、怖くなかったかと聞かない?」
天文学者には、よくあることでした。
◇ ◇ ◇
友人を乗せた飛行が無事に終わると、大学の先生たちは、いよいよタドポール君を詳しく調べたがりました。
ただし、どろちゃんはジェットエンジンを分解させませんでした。
「中を見なければ、作れない」
機械の先生が言いました。
――分解しても作れない。
頭の中でエンジンの技師さんが答えました。
どろちゃんは、そのまま短く伝えず、理由まで聞きました。
「技師さんたちは、いまの工房では、分解して形を写しても同じエンジンにはならないと言っています。耐熱材料、精密な軸受、回転体の釣合い、燃料を細かく調整する装置。どれか一つだけでなく、全部が要る。中を見れば研究にはなるかもしれませんが、元へ戻せなければ、帰る飛行機を失います」
「では、何も学べないではないか」
「外から測れることはあります。吸入口と排気口の寸法、取付位置、燃料消費、始動手順、音や振動の変化。でも、何を知りたいか決めずに外すのは、研究より先に分解を目的にしているように見えます」
機械の先生は不満そうでした。
工房の親方が口を開きました。
「先生。私どもが作れないねじを一本外しただけでも、戻せなくなることがあります。まず、自分たちが作れる機械から始めませんか」
機械の先生は、しばらく黙ってから尋ねました。
「では、あなたの工房でも、この時代に作れる機械しか作れないのですね」
「いまは、そう。でも、ずっと同じではないわ」
どろちゃんは、子爵領へもうすぐ届く予定の工作機械を思い浮かべました。
旋盤。
正確な穴をあける機械。
軸や歯車を測る器具。
細い銅線を巻くための治具。
技師さんたちが使い方と製作手順を知り、子爵領の職人たちが実際の材料を扱います。
「ジェットエンジンは、工作機械が一式届いただけで作れるものではないわ。でも、小さな発電機やモーターなら、ずっと近いところにある」
「発電機。モーター」
先生は、聞いたことのない言葉を、ゆっくり繰り返しました。
「それは、どのような機械です」
どろちゃんは説明しようとして、やめました。
言葉だけで、磁石と導線と電流の関係を百年早く理解してもらうのは、あまりよい方法ではありません。
「先生。亜鉛の板と銅の板はある?」
「小さな物なら、どちらもあります」
「細い銅線と、棒磁石。それから鋼の針、紙、食塩水も」
「何を作るのです」
「見た方が早いわ。工房を少し借りてもよい?」
先生は、すぐ親方を呼びました。
親方は必要な物を書き留めながら、どろちゃんを見ました。
「火を使いますか」
「使わない。強い酸もいらないわ。最初は食塩水で十分」
「爆発は」
「しない」
「空は飛びますか」
「飛ばない」
親方は安心したような、少し残念そうな顔をしました。
◇ ◇ ◇
最初に作ったのは、方位磁石でした。
どろちゃんは鋼の針へ棒磁石の同じ極を当て、いつも同じ向きへ何度もこすりました。
「往復させないのですか」
先生が尋ねました。
「同じ向きだけ。戻すときは離すの」
磁化した針を軽い木片へ通し、水を張った皿へ浮かべます。
少し揺れたあと、針は南北を向きました。
先生たちには、それほど珍しい実験ではありません。
船乗りも測量士も磁針を使っています。
「ここまでは、よく知っている物ですね」
「ええ。だから、これを目にする道具として使うの」
次に、亜鉛板と銅板の間へ、食塩水をたっぷり含ませた布を挟みました。
二枚が直接触れないようにし、それぞれへ銅線をつなぎます。
積み重ねた電堆ではありません。
一組だけの、小さなセルです。
「これだけですか」
「まずは一つでよいわ。針金を短くして、磁針へ近づければ見えると思う」
どろちゃんは、一方の板から出た銅線を、方位磁石の針と平行になるよう、すぐ上へ渡しました。
もう一方の板から出た線は、まだつなぎません。
「いまから両方をつなぐ。針を見ていて」
線の端が触れました。
磁針が、北から外れて動きました。
先生が息を止めました。
どろちゃんが線を離すと、針はゆっくり元の向きへ戻ります。
もう一度つなぐ。
また同じ側へ振れます。
今度は亜鉛板と銅板につなぐ向きを反対にしました。
磁針は、先ほどと反対側へ動きました。
「磁石を動かしてはいない」
先生は、方位磁石と二枚の金属板を交互に見ました。
「それなのに、線をつないだときだけ針が動く。つなぐ向きを変えると、動く向きも変わる」
「銅線の中を、向きを持った働きが通っているから」
どろちゃんは言いました。
「私のいた時代では、この一まとまりの現象を電気と呼ぶの。いま線の中を通ったものは、電流」
「電気。電流」
先生は、今度は新しい言葉を、目の前の現象と一緒に覚えました。
「琥珀を擦ったときの働きとも、同じなのですか」
「同じ電気として扱える。でも、いま見せたものは、亜鉛と銅と食塩水があるあいだ、線をつなげば流れ続ける。火花を一度飛ばして終わるものではないわ」
「動物の身体は使わないのですか」
「蛙の脚を動かして、動物の中に特別な電気があるのか議論する道もある。でも、金属板だけで流れを作れると先に見せた方が早いでしょう」
友人が、皿の中の磁針を見ました。
「蛙も、その方がよいと思うわ」
大学で最初に百年先へ進んだのは、人間ではなく、使われずに済んだ蛙だったかもしれません。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは、そこで終わりにしませんでした。
「今度は、反対を見せるわ」
「反対?」
「さっきは、電流で磁針を動かしたでしょう。次は、磁石を動かして電流を作るの」
先生は何か言おうとして、やめました。
今度は、先に実験を見ることにしたようです。
紙を丸め、細長い筒を作りました。
その外側へ細い銅線を何十回も巻きます。
針金どうしが触れないよう、間を少し空けました。重なるところには薄い紙を挟みます。
巻き終わると、二つの端を直接つなぎました。
「せっかく巻いたのに、両端をつないでしまうの?」
友人が尋ねました。
「輪を閉じるの。開いたままでは、流れる道が途中で切れているでしょう」
紙筒を方位磁石のすぐ上へ置きました。
磁針が普段向く南北に対して、筒は東西へ向けます。
どろちゃんは棒磁石を持ちました。
「針を見ていて」
棒磁石を、紙筒の中へ素早く差し込みます。
磁針が、ぴくりと横へ振れました。
磁石を筒の中で止めると、針は元へ戻ります。
磁石を引き抜く。
今度は反対側へ振れました。
もう一度差し込む。
同じ向きへ振れます。
磁石の南北を入れ替えて差し込むと、振れる向きも逆になりました。
工房の中が静かになりました。
先生も職人も、今度はすぐに質問しません。
自分の目で見たことを、頭の中で並べ直しているのです。
やがて先生が言いました。
「磁石が筒の中にあることではなく、動くことが必要なのですね」
「そう。止めているだけでは流れない。入れるときと抜くときで向きが反対になる。磁石の極を入れ替えても反対になる」
「先ほどは、金属板から銅線へ流れを与え、その流れが磁針を動かした。今度は、磁石を動かすことで、閉じた銅線の輪に流れを生じさせた」
「ええ。これを電磁誘導と呼ぶの」
「また新しい言葉です」
「でも今度は、言葉より先に現象を見たでしょう」
先生はうなずきました。
「見ました。しかも、繰り返せる」
先生は自分で棒磁石を持ち、紙筒へ差し込みました。
磁針が振れます。
ゆっくり動かすと、振れは小さくなりました。
速く動かすと、大きく動きます。
途中で止めると、針も戻ります。
「速く動かすほど強い」
「巻く回数を増やしても強くなる。磁石を強くしても変わる。筒の中へ鉄を入れる方法もある。でも、今日はここまでで十分でしょう」
「十分ではありません」
先生は、すぐ答えました。
「巻く回数を倍にしたものを作りたい。太い線と細い線も比べたい。磁石との距離も変えたい」
親方が言いました。
「先生。今日は飛行機の後席を作る日ではなかったのですか」
先生は紙筒を持ったまま、タドポール君を見ました。
それから、新しい実験装置を見ました。
大学の先生に、二つの未知を同時に見せるべきではありません。
どちらを先に調べるか決められなくなるからです。
◇ ◇ ◇
「これで、発電機という言葉の意味は分かる?」
どろちゃんが尋ねました。
先生は紙筒と棒磁石を机へ置きました。
「磁石か、銅線の巻いた物のどちらかを、機械で動かし続ける。そうすれば、いま一瞬だけ生じた電流を、続けて取り出せる」
「そう。回転運動にすれば、水車や手回しでも続けられる」
「モーターは、その逆ですか」
「さっき電池から流した電流で、磁針が動いたでしょう。磁針ではなく、回るように取り付けた磁石や鉄へ、順序よく力を加え続ければ軸を回せる」
「原理は、いまの二つの実験にある」
「原理はね。でも、実用になる機械はまだないわ」
どろちゃんは、もうすぐ子爵領へ届く工作機械を思い浮かべました。
真っすぐな軸。
同じ形の鉄片。
均一に巻いた銅線。
線どうしを触れさせない絶縁。
回転する部分へ順番に電流を渡す整流子。
摩擦を減らす軸受。
「これだけ見れば、発電機もモーターもすぐ作れそうに思えるでしょう。でも、回り続け、壊れず、同じ働きを何度も出す機械にするには、材料と加工精度が要る。私一人では作れない。技師さんと、子爵工房の職人さんと、届く工作機械が必要なの」
「それでも、作れる見込みはあるのですね」
「小さな物からなら。ジェットエンジンとは違うわ。あと少しで、始められるところまで来ている」
――そのとおり。
頭の中で技師さんが言いました。
――まず磁石式の小型機。巻線、絶縁、軸受、整流子を別々に試す。
――最初から屋敷を明るくしようとするな。
「技師さんも同じことを言っている。最初は、針を動かしたり、別の小さな機械を回したりする程度。それを確実に作れるようにしてから、次へ進むの」
「その最初の機械ができたら、必ず知らせてください」
先生は言いました。
今度は、理解できない未来語に興味を持ったのではありません。
自分の手で再現した三つの現象の、その先を見たくなったのです。
「知らせるわ。ただし、今日の実験も大学で続けて。私が帰ったあと、針が動かなかったから全部間違いだった、では困るもの」
「もちろんです。条件を変え、記録し、別の者にも再現させます」
「それなら大学へ置いていけるわ」
どろちゃんは、レーィカちゃんの図を広げました。
木の骨組み。
簡単な操縦席。
長い主翼。
尾翼。
ジェットはありません。
丘と風を使って短く滑空する、プライマリーグライダーです。
「最初はこちらを作りたいの。タドポール君と同じ物ではないけれど、人が翼を作り、操縦し、地面から離れて戻るところまでは学べる」
「ずいぶん簡単ですね」
学生が言いました。
「簡単だから、作る意味があるのよ。最初から遠くへ飛ぼうとすると、何が悪かったのか分からないまま壊れる。少し浮く。まっすぐ飛ぶ。安全に降りる。一つずつできるようにする方が、次の機体へつながるでしょう」
その言葉は技師さんから借りたものではありません。
伯爵領でレーィカちゃんを作り、地上練習と短い滑空を何度も見た、どろちゃん自身の言葉でした。
◇ ◇ ◇
大学工房で、最初のグライダー作りが始まりました。
数学者は荷重を計算します。
自然哲学の先生は、翼へかかる風の力を考えます。
天文学者は、なぜか計算へ参加しました。
「お父様、今日は星ではなく翼よ」
友人が言いました。
「星の位置を計算する式を、そのまま翼へ使うつもりはない。けれど、測定値の扱い方と誤差の考え方は同じだ」
「数字なら、何でもお父様の仕事になるのね」
「数学者が足りないときだけだ」
隣で数学者が言いました。
「足りています。ただし、手は多い方がよいので、計算の照合をお願いします」
天文学者は満足そうに席へ着きました。
工房の親方は木材を選びました。
まっすぐな木。
節の少ない木。
乾いている木。
曲げても割れにくい木。
先生が紙の上でよいと言った材料でも、親方が首を振ることがあります。
「この木は使えません」
「寸法から見れば、必要な強度は足りるはずです」
数学者が言いました。
「中に割れがあります。表面には出ていませんが、この筋の流れ方がよくない」
「見えませんが」
「削れば出ます。出なければ、私の見立て違いです」
実際に削ると、細い割れが現れました。
数学者は、計算表へ「材料は一様ではない」と書き加えました。
どろちゃんは、技師さんへ尋ねました。
「未来の木材なら、全部同じ強さなの?」
――そんなことはない。選別する。検査する。ばらつきを見込む。
「未来でも同じだそうです。材質がそろって見える物でも、検査して、弱い方へ余裕を取るって」
親方は満足そうでした。
「未来の技師も、木を信用しすぎないのですね」
――木だけではない。
「木だけではないそうです」
親方は、さらに満足そうでした。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは、工房で何もかも指示したわけではありません。
木をどう削ればよいかは、職人の方が知っています。
当時の接着剤が、湿気の多いライデンでどう変わるかは、大学の先生と親方が試します。
数学者の長い計算は、どろちゃんには途中から追えません。
「ここから、なぜこの数字になるの?」
どろちゃんが尋ねると、数学者は大きな紙をもう一枚広げました。
「まず、翼全体へ同じ力がかかると考えないことです。付け根に近いところと翼端では、桁が受ける曲げの大きさが違います。ここまでなら分かりますか」
「そこまでは。けれど、この項が急に二つ増えた理由が分からないわ」
「急に増えたのではなく、前の行で省略していました」
「省略しないで書いてください。私は頭の中の技師さんに聞けば答えをもらえるけれど、大学の学生が同じ紙を見るなら、途中が飛んでいると困るでしょう」
数学者は、少し驚いた顔をしました。
それから、省略した式を書き足しました。
友人が、どろちゃんの耳元で言いました。
「聞かなければよかったと思っていたでしょう」
「少しだけ。でも、聞いたから途中が増えたわ」
「紙も増えた」
二人は計算の終わりを待ちながら、試験片へ番号札を付けました。
どろちゃんにできる仕事もあります。
技師さんの注意を人間側へ伝えること。
飛行経験から、操縦者が困る形を教えること。
伯爵領で作ったレーィカちゃんの記録を見せること。
そして、先生と職人が別々の言葉で同じ問題を話しているとき、間をつなぐことです。
「先生は、翼を軽くしたいのです」
どろちゃんが親方へ言います。
「私も軽くしたい。しかし、折れては困ります」
「親方は、折れない太さが必要だと」
「その太さでは、計算上の滑空性能が落ちる」
先生が言います。
「親方も性能を落としたいわけではないの。いまある木で、同じ太さのまま強くする組み方がないか考えている」
「ならば、張線を増やす案は?」
「増やせば支えられますが、空気の抵抗が増える。先生が嫌がるでしょう」
「嫌う理由はある。しかし、飛ばないよりはよい」
話しているうちに、反対していた二人の間へ、次の試験案が生まれました。
どろちゃんが答えを持ってきたのではありません。
互いの言葉が届くところまで運んだのです。
◇ ◇ ◇
最初のプライマリーグライダーは、タドポール君よりずっと素朴な形になりました。
木の骨組み。
布張りの翼。
張線。
簡単な操縦席。
下には車輪ではなく、そりがあります。
最初は砂袋を載せました。
友人は、また砂袋が先だと言いました。
「ライデン大学では、砂袋の方が学生より先に飛ぶのね」
「安全な大学だと思えばよいでしょう」
弾性索を引きます。
離します。
グライダーは草の上を滑り、ほんの少し浮きました。
すぐに降ります。
壊れません。
二度目は、少し長く浮きました。
三度目は片方の翼が下がり、そりが地面をこすりました。
職人たちが駆け寄ります。
操縦索の取り回しを直します。
翼のねじれを測ります。
原因を一つずつ調べます。
友人が尋ねました。
「いまのは、操縦する人がいないから曲がったのではないの?」
「そうかもしれない。でも、それだけだと決めると、機体の方の問題を見落とすわ」
頭の中の技師さんたちも、見ただけで決めつけません。
――左翼が下がった。
――索の摩擦か。
――風か。
――翼のねじれも測れ。
――一つに決めるな。
大学の先生と職人が測り終えるまで待ちました。
原因は一つではありませんでした。
左側の操縦索が少し擦れていました。
同時に、風も少し変わっていました。
機械の失敗は、いつも一つの悪者だけで起きるとは限りません。
修正したあと、無人滑空は安定しました。
次に、人を乗せます。
最初の操縦者は、大学の若い職員でした。
地上で何度も操縦練習をしています。
丘の下には、広い草地があります。
弾性索が引かれます。
離されます。
グライダーが前へ進みます。
そりが草を離れました。
ほんの短い飛行です。
高くは上がりません。
遠くへも行きません。
けれど、大学で作った機械が、人を乗せて空へ浮きました。
着地したあと、操縦者はしばらく何も言いませんでした。
「怖かったの?」
友人が尋ねました。
職員は息を整え、丘の上を振り返りました。
「怖かった。けれど、もう一度飛びたい。今度は、離れた瞬間に操縦桿を動かしすぎないようにしたい」
「怖くても、もう一度なの?」
「怖くなかったと言えば、次に気をつけるところを忘れます。怖かったところが分かっているから、次は準備できる」
大学の先生たちは測定値を書きました。
工房の親方は翼を見ました。
学生たちは歓声を上げました。
どろちゃんは、少し離れたところで笑いました。
自分が作った飛行機ではありません。
けれど、自分が持ってきたタドポール君を見て、ここで新しい一機が生まれました。
それがうれしかったのです。
◇ ◇ ◇
プライマリーグライダーが飛ぶと、大学の先生たちは、すぐ次の機体を考え始めました。
もっと長く飛びたい。
もっと高く上がりたい。
上昇気流を使いたい。
タドポール君のような長い翼を持つ、本格的なソアラーを作りたい。
数学者は翼幅を計算しました。
自然哲学の先生は翼型を考えました。
親方は主桁の寸法を見積もりました。
木材。
接着剤。
金属継手。
張線。
外皮。
使える材料を表へ並べます。
最初の計算では、翼が重くなりすぎました。
桁を細くします。
今度は強さが足りません。
金具を増やします。
また重くなります。
張線を増やせば支えられます。
しかし、空気抵抗が増えます。
長い木材は、よい物をそろえるだけでも難しくなります。
接着した桁は、乾いた室内では強くても、湿気を含んだときの値が安定しません。
何日も計算しました。
何本も試験片を折りました。
先生たちは数字を変えました。
親方は材料を変えました。
技師さんたちは頭の中で意見を出しました。
どろちゃんは、そのたびに伝えました。
けれど、どう組み替えても、タドポール君級の細長い翼を、十分軽く、十分強く作ることができません。
最後の計算が終わった夜。
工房は静かでした。
「無理なの?」
友人が尋ねました。
どろちゃんは、すぐには答えませんでした。
数学者は計算表を見ています。
親方は試験で割れた桁を見ています。
結論を出すのは、どろちゃん一人ではありません。
「先生。いまの材料と方法では、どこまでなら作れるの?」
数学者は、しばらく黙ってから言いました。
「タドポール君と同じ翼幅、同じ細さを求めれば、必要な強さを得た時点で重くなりすぎます。軽くすれば、突風や着陸の衝撃へ十分な余裕を取れない。計算上、一度だけ飛ぶ形は作れても、人を繰り返し乗せる機体として認めることはできません」
親方も言いました。
「形だけなら似せられます。しかし、似た形の危ない物を作るくらいなら、違う形の飛べる物を作った方がよい」
友人は、タドポール君の長い翼を見ました。
「せっかく、ここまで考えたのに」
どろちゃんも残念でした。
頭の中には未来の技師さんがいます。
その知識を伝えれば、何でも作れるような気がしていました。
けれど、知識だけでは木材の強さは増えません。
計算だけでは、よい接着剤が現れません。
「技師さん。どうすればよいの?」
すぐには答えが返りませんでした。
何人かが話し合っています。
やがて、一人が言いました。
――同じものを作るのをやめる。
「研究もやめる、という意味ではないわね」
――違う。翼幅を短くする。翼型を変える。桁を太くする。必要なら張線を使う。材料に合わせて、別の飛行機を作る。
どろちゃんは、その言葉を大学の人たちへ伝えました。
「タドポール君の複製を目標から外して、レーィカちゃんより長く飛べて、いまの材料で安全に作れる機体を探す。翼幅も翼型も変えてよい。似ていることより、飛べることを先にする。技師さんたちは、そう言っています」
数学者が顔を上げました。
自然哲学の先生は、新しい紙を出しました。
親方は、割れた桁の隣へ、もっと短い木材を置きました。
「中間ですね」
友人が言いました。
親方は首を振りました。
「中間というと、二つの間で半端に止めたように聞こえます。そうではない。いまある材料で、いま作れる最もよい位置を探すのです。将来、材料が変われば、その位置も変わるでしょう」
「では、完成ではないの?」
「飛行機は完成させます。研究は終わりません」
その答えを、友人は気に入ったようでした。
◇ ◇ ◇
どろちゃんが帰る日。
大学の工房には、完成したプライマリーグライダーがありました。
その横には、まだ名前のない次の機体の図面があります。
短くした翼。
新しい桁。
張線。
試験する接着法。
材料ごとの強度表。
失敗した試験片にも番号が付けられ、捨てずに残されました。
失敗した理由を忘れれば、同じところでもう一度失敗するからです。
友人が尋ねました。
「どろちゃんが帰ったら、技師さんにも聞けなくなるのでしょう。それでも研究は続けられるの?」
どろちゃんは、大学の先生たちを見ました。
自分が答えるより先に、数学者が言いました。
「続けます。技師さんから聞けないことは増えるでしょう。しかし、ここで測った値、折れた試験片、飛んだ機体は残ります。次に何を試すかも、もう決まっています」
親方も言いました。
「未来の答えを教えてもらうだけなら、工房はいりません。こちらの木を削り、こちらの接着剤を試し、こちらの失敗から覚える仕事は、私たちにしかできない」
どろちゃんがいなければ、未来の技師さんへ新しい質問をすることはできません。
けれど、大学には数学者がいます。
自然哲学の先生がいます。
天文学者がいます。
職人がいます。
学生がいます。
自分たちで測り、考え、作り、壊し、また作ることができます。
どろちゃんは、何もかも教えてから帰る必要はありません。
そもそも、何もかも知ってはいません。
「次に来たとき、私が知らない飛行機ができていたらよいわ」
どろちゃんが言いました。
友人は少し驚きました。
「どろちゃんに分からない物を作ってよいの?」
「その方が大学でしょう。私が答えを全部持っていて、皆さんが写すだけなら、ここへ来る意味がないもの」
図書室で東方写本を見たとき、学者は言いました。
一人の生涯で終わらなければ、次の人が続ける。
飛行機の研究も同じです。
タドポール君の形を一度で写し取るのではなく、ライデンの材料と人の手で、続けられる知識へ変えなければなりません。
◇ ◇ ◇
タドポール君には、大学で作った後席が付いています。
帰りは増槽を積むため、後席をもう一度外さなければなりません。
友人は少し残念そうでした。
「帰りも乗れたらよいのに。子爵領まで行って、あなたの地図と工房を見たいわ」
「途中で燃料がなくなるわ。あなたと後席の重さの分だけ燃料を減らしたら、どこかの牧草地へ二人で降りて、そこから馬車になる」
「それも少し面白そう」
「私は面白くない。お父様とお母様へ、友人を連れて途中で燃料がなくなりました、と手紙を書くことになるもの」
「では、次に増槽をもっと大きくすれば?」
「大きくしたら重くなるし、入る場所もないわ。飛行機は、願った分だけ何でも積める箱ではないの」
「分かった。今日は燃料へ席を譲る。でも、次は私の番を先に考えて」
「それなら、途中で燃料を補給できる場所を作るところからね」
大学の工房で作った後席は、丁寧に外され、木箱へ入れられました。
子爵領へ持ち帰り、これからも使います。
増槽が取り付けられます。
帰りの燃料が入ります。
どろちゃんは六分儀と時計と星図を確認しました。
天文学者から借りた観測の手引き。
友人から借りた三冊の本。
図書室で写した海図と東方資料の目録。
途中まで二人で写した日本の身体図。
数学者から渡された計算表。
親方からは、折れた試験片の一部を持たされました。
「なぜ折れたか、技師さんにも見てもらってください。ただし、答えだけを書いて送り返すのではなく、どのように考えたかも教えていただきたい」
「伝えるわ。技師さんが一言で答えようとしたら、私が詳しく聞く」
――一言で答えるとは限らない。
「いま、少し不満そうです」
親方は笑いました。
どろちゃんの荷物は、来たときより増えました。
大学とは、帰る人を本と疑問で重くする場所でした。
◇ ◇ ◇
発進前。
友人は操縦席の横へ来ました。
「次は、いつ来るの?」
「分からない。帰ったら領地の仕事もあるし、伯爵領の工房も見に行かないといけないもの」
「また手紙を出すわ」
「今度は、もっと普通に書いて。『一度くらい来て』ではなくて」
「では、『図書室の写しを返し、後席を持って、すぐ来なさい』と書く」
「もっと偉そうになっているわ」
「素直に『会いたい』と書けば、本当にすぐ来る?」
どろちゃんは、少し考えました。
「飛べる天気で、領地の仕事がなくて、タドポール君の整備が終わっていれば」
「条件が多すぎる」
「でも、会いたいと思ったら、来る方法を考えるわ。今回もそうしたでしょう」
友人は、返す言葉を探しました。
結局、何も言わずにどろちゃんを抱きしめました。
手紙ではできない挨拶でした。
どろちゃんは少し驚いてから、抱き返しました。
「今度の手紙には、これを書けないわね」
「書かなくてよいの。覚えていれば」
二人が離れると、どろちゃんは操縦席へ入りました。
五点式拘束具を締めます。
――増槽固定。
――燃料弁。
――時計。
――地図。
――六分儀。
技師さんたちの声が硬くなります。
実際の飛行が始まります。
タドポール君が牧草地を走り、空へ上がりました。
どろちゃんは一度、町の上を大きく回りました。
眼下には大学があります。
工房があります。
完成したプライマリーグライダーがあります。
まだ完成していない翼があります。
図書室には、どろちゃんには読めても、大学ではまだ十分に読み解かれていない文字の本と、遠い海を渡ってきた地図があります。
友人が手を振っています。
どろちゃんも手を振ろうとして、操縦桿から手を離してはいけないと技師さんに止められました。
「分かっているわ。少しだけ、翼を振る」
タドポール君は、左右へゆっくり翼を傾けました。
『さようなら、かな』
「また来る、よ」
ライデン大学には、タドポール君の複製は残りませんでした。
ジェットエンジンも作れません。
本格的なソアラーも、今すぐには作れません。
それでも、空へ浮いた一機のグライダーと、次の翼の図面と、続ける人たちが残りました。
どろちゃんが持ってきたのは、完成した答えではありません。
空を飛ぶという、たいへん大きな問いでした。
大学は、その問いを長く預かることになったのでした。
◇ ◇ ◇
第十五章の小さな説明
【大学工房での後席製作】
ライデンへの往路では、後席位置へ増槽を搭載しています。
到着後、大学工房が増槽を外し、木材、革、織帯、鉄金具など、当時入手できる材料で後席と五点式拘束具を製作します。
設計上の条件は頭の中の技師さんたち、材料と加工の判断は工房職人、重量と重心の計算は大学の数学者が担当します。
【試験の順序】
新しい座席を付けても、すぐ人を乗せません。
地上試験、どろちゃん一人での短時間飛行、砂袋を載せた飛行を行い、取付部、拘束具、重心、操縦性を確かめてから友人を乗せます。
【百年先の三つの実験】
どろちゃんは、亜鉛板と銅板の間へ食塩水を含ませた布を挟み、一組だけのボルタ電池を作ります。
その両端を銅線でつなぎ、磁化した針で作った方位磁石のすぐ上へ線を通すと、磁針が動きます。つなぐ向きを逆にすると、針の振れる向きも逆になります。これにより、電流が磁気的な働きを生じることを示します。
次に、紙筒へ銅線を互いに触れないよう何十回も巻き、両端をつないで閉回路にします。方位磁石の上へ置き、棒磁石を紙筒へ出し入れすると、磁針が一時的に動きます。磁石を止めれば戻り、出し入れの向きや磁極を変えれば振れも反対になります。これは電磁誘導の基本実験です。
史実では、ボルタ電池の発表は一八〇〇年、電流による磁針の偏れは一八二〇年、電磁誘導は一八三一年です。本作では、現代中学校の知識を持つどろちゃんが、入手できる材料だけで三つを一度に再現し、ライデン大学の研究を約百年先へ進めます。
ただし、原理を示す実験と、長時間安定して動く発電機・モーターの製作は別です。子爵領へ届く工作機械、均一な銅線、絶縁、鉄心、軸受、整流子、測定と反復試験がそろって、ようやく実用的な試作へ進みます。
【プライマリーグライダー】
大学工房では、ジェットエンジンを再現できません。
そこで最初に、レーィカちゃんと同じ系統の、構造が簡単なプライマリーグライダーを作ります。
短い滑空から始め、地上操縦、直線飛行、着陸を学ぶ機体です。
【本格ソアラーを作れない理由】
長く細い翼には、軽さと強さの両方が必要です。
当時入手できる木材、接着剤、金属継手、索材、外皮では、タドポール君級の翼を十分軽く、十分強く、安定した品質で作ることができません。
そのため完全な複製は行わず、翼幅、翼型、桁構造、張線、外皮、接着法、材料選別を研究し、当時の材料で作れる中間的なグライダーを目指します。
【どろちゃんの役割】
どろちゃんは、すべての技術を一人で考える人物ではありません。
頭の中の技師さんたち、大学の学者、工房の職人、操縦者の間をつなぎ、自分が経験した飛行について話し、分からないことは尋ねます。
大学で出会った資料は、神様から与えられた言語理解によって、どの言葉・文字でも読むことができます。ただし、資料の真偽、年代、来歴、写し間違い、専門的な妥当性は別に調べなければなりません。どろちゃんは内容を読み、学者と背景を検討し、図や数字を正確に写して持ち帰ります。
最後に何を持ち帰り、どの研究を大学へ残すかを判断するのは、十五歳のどろちゃん自身です。




