第170章 貴族令嬢は実務マニュアルを配ります。 翻訳作業で倒れそう。
第170章 貴族令嬢は実務マニュアルを配ります
神様との契約が動き始めると、イスタンブールの混乱はとくに大きくなりました。
トプカプ宮殿、官庁、港、海軍、造船所、商人の倉庫、奴隷を扱っていた市場や収容施設、富裕層の屋敷。
昨日まで「所有物」「債務者」「捕虜」「買い取った人」として帳簿に書かれていた人について、役人が1人ずつ確認します。
「この人は誰ですか」
「いつ、どこから来ましたか」
「本人へ賃金をいくら払いましたか」
「本人へ直接ですか」
「帰郷を希望しますか」
奴隷を買った人も逃げられません。
買った瞬間から、その人について過去の未払い賃金を清算する側になります。
「この人を別の人に売れば」
そう考える所有者もいました。
けれど、買う側も同じです。
「買ったら、その人の過去の未払いまでこちらが払うのか」
誰も買いません。
人を売って資金を作る市場は、一気に動かなくなりました。
さらに危険なことを考える商人も出ました。
「払うくらいなら、星にしてしまえば――」
契約履行を逃れるため、その人を殺してしまおう。
商人がその方針を頭の中で決定した、その瞬間でした。
衣類だけが床へ落ちました。
商人本人は消えました。
実行にも、命令書にも、部下への指示にも進んでいません。契約を逃れるために人を消す方針を決定した時点で、神様現象が起きました。
そして本人は、将来のスコット基地予定地へ送られました。
イスタンブールでは、数件起きただけで十分でした。
「支払いが惜しいから殺す、と決めたら消える」
その話は港から市場へ、市場から商館へ、あっという間に広がりました。
払える人は払い、足りなければ資産を処分し、国の制度が使える人は融資を受ける。その方が安全だと、商人たちもすぐ理解しました。
20か国に国籍を持つ人について、現在の所有者や使用者が南極送りになり、本人への精算ができなくなった場合には、神様が自動で処理しました。
未払いだった労働賃金が、その人の国の金貨や銀貨として本人の手元に現れます。
そして、その金を持ったまま、さらわれる前、あるいは買われる前に属していた国の王宮へ送られました。
10年間働かされていた人なら、精算する時点からさかのぼった直近1年間について、その国で正規兵としての基礎訓練を終えた一年目の普通の下級兵士へ、平時の通常勤務に対して本人へ直接支払われた基礎給与の平均値を基準にし、それを10年分の未払い期間へ適用します。食事、宿舎、制服、武器、弾薬、訓練費などの軍側の負担や、戦地・危険・遠隔地などの特別手当は入りません。現代日本の金額感覚に直すと、約1500万円分になることもあります。
さらわれた10年前の兵士給与で計算することはなく、精算の直前だけ一年目兵士の基礎給与を下げて基準を操作することも、直近1年間の平均値を使うため簡単にはできません。兵士自身も労働者なので、その時点ですでに効いている最低賃金より基礎給与を下げることもできません。この世界の一年目の下級兵士の基礎給与自体は後世の高額な軍人給与より低い水準でしたが、10年分をまとめれば大きな金額になります。
王宮には、突然大きな金貨袋や銀貨袋を持った帰還者が現れます。
「どこから来た」
「さらわれました」
「いつだ」
「10年ほど前です」
本人確認と出身地の確認をして、そこから故郷へ送り返します。
突然まとまった財産を持った人が増えれば、その金を狙う者も出ます。
詐欺師や、言葉巧みに近づいて金をかすめ取ろうとする者が現れました。商売として男性を相手にする女性の中にも、帰還者の大金をだまして取ろうと考える人が出ました。
普通に商売をすることと、だまして金を奪うことは別です。
「この人なら、少し抜ける」
そう方針を決めた瞬間、その人も衣類だけを残して消えました。
送られた先は南極です。
南極には、さらわれてきた女性は以前からいました。
ただ、商売として男性を相手にしていた女性が神様現象で送られてくるのは初めてです。
服はあります。
船の残骸には、粗末な船員服だけでなく、高価なシルクのドレス、上等な靴、装身具も残っています。
金銀財宝も大量にあります。
「……ここ、どこ?」
「海賊の国みたいなところだ」
「この宝石、本物?」
「本物だよ」
元の世界では帰還者から金を取ろうとしていた人が、南極へ着くと金貨や宝石の山を見て驚くことになりました。
ただし、古参側は放火事件のあと、新参側との交流を禁じています。
どこへ出現したかによって、その後の生活は大きく変わりました。
同じころ、南極の古参共同体でも大きな変化が起きました。
20か国に国籍を持つ、さらわれてきた女性や少年が、次々に帰還し始めたのです。
今回の帰還現象では、本人の国籍が基準になっていました。
以前の四か国については、条件に当てはまる海賊船そのものが王宮へ送られる現象が起きていました。今回は、どの船でさらわれたか、どの海賊集団にいたか、どの船籍だったかでは分かれず、20か国の国民である本人が帰還対象になっています。
本人が20か国の国民なら、さらわれ、賃金を払われずに働かされていた過去が精算されます。
南極で比較的安全に暮らしていた人たちも、元はさらわれて来た人たちです。
金貨や銀貨で賃金を受け取り、元の国の王宮へ送られていきました。
そして、神様は南極で築かれた人間関係まで機械的に切りませんでした。
「この人も一緒に来てほしい」
帰還する女性や少年が、長いあいだ一緒に暮らしてきた新人海賊の生き残りを望むことがあります。
その場合、その新人海賊も一緒に王宮へ送られました。
南極で何年も一緒に火を維持し、船を解体し、小屋を直し、保存食を分け、病人や怪我人を助けてきました。そうしてできた関係です。
王宮へ現れた帰還者の横に、元新人海賊が立っていることも珍しくなくなりました。
「この者も海賊だったのか」
「はい。でも、この人がずっと助けてくれました」
新人海賊たちは、すでに年齢加算を受け、その後は南極で長期間暮らしています。
海賊への恩赦は以前から多くありました。
長い南極生活まで含めれば、懲罰期間として十分だと判断される例が多くなりました。
こうして南極から、温厚な実務派が次々に消えていきました。
「また誰か帰ったぞ」
「誰だ」
「船材を選んでたあいつ」
「屋根を直せるやつ、また減ったな」
帰還者が一緒に連れて行きたいと望むのは、共同生活で信頼された人に偏ります。火を管理でき、木工ができ、食料を公平に配り、揉め事を大きくしない人たちです。南極の海賊国家にとっては、ありがたい人から減っていくことになりました。
そして、その帰還者の中にアナスタシアさんもいました。
トプカプ宮殿へ戻ってきています。
ただし、誰もまだ気づいていません。
トプカプ宮殿には、万人単位の帰還者が集まっていました。
名前だけでは到底探し切れない人数です。
さらわれた後に名前を変えられた人もいます。同じ名前の人もいます。
アナスタシアさんは、その大勢の帰還者の中の一人として、まず記録を取られていました。
どろちゃんやエレナさんのところへ知らせが届くには、出身地、家族構成、さらわれた時期、以前の記録などを照合する作業が必要でした。
本人はもう戻っています。
けれど、まだ見つかってはいませんでした。
アルジェ、チュニス、トリポリの各政権と、その奴隷市場・バグニオ・港湾商人の側では、もっと大きな精算が進みました。
今回、自動帰還の対象になるのは20か国の出身者です。20か国以外の出身者は南極や各地に残りました。
けれど、20か国の人をさらい、売り、働かせ、身代金を取り、本人へ賃金を払わず利益を得てきた奴隷商人たちは、ほとんど財産を失いました。
現金だけでは足りません。
神様は金貨、銀貨、宝石、商品、船、倉庫、屋敷、建物を回収し、王宮の装飾や軍の具足、大砲、銃、刀剣、武装船の装備まで持っていきました。国家がその利益に関わっていれば、国家財産まで消えます。
「砲台の大砲がない」
「港の船もだ」
「王宮の銀器が消えている」
「壁の装飾までないぞ」
人間社会から見ると、神様にむしられたような状態でした。
回収された資産は、未払い賃金の支払いへ回されます。
そして連鎖倒産が起きました。
「この奴隷商人に貸した金がある」
「債権はいくらだ」
「大きい」
「では回収先は?」
「……ない」
紙の上には債権が残ります。
けれど、相手の資産は神様に回収されています。
価値のない債権だけが残りました。
その債権を担保にしていた者も損をします。
さらにその先へ貸していた者にも影響します。
奴隷売買で成り立っていた国々では、国家財政と民間資産が同時に大きく傷みました。
どこへ消えた資産が行ったのかは、誰にも分かりません。
どろちゃんは、王宮から装飾や刀剣まで消えたという報告を読んで、ぽつりと言いました。
「そのうち、どこかの世界でオークションでもしてたりして」
フランソワさんが少し考えました。
「学者の方々が欲しがりそうですね」
「お宝より、帳簿とか船とか?」
「どなたを、いつ、どこから連れてきて、どなたへ売ったのか分かる帳簿でしたら、歴史を調べる方には宝石以上でしょうね」
「大砲とか、銃とか、具足とかも?」
「軍事史の方でしたら、そちらも欲しがるでしょう」
もちろん、本当にどこかで売られているかは分かりません。
この世界では、消えたものは消えたままでした。
植民地の大農園でも問題が続きました。
農奴中心のプランテーションでは、過去の未払い賃金を全部払おうとすると、農園主の手元資金では明らかに足りないところが多くありました。
「農奴を売れば資金になる」
以前ならそうしました。
今は売れません。
「買ったら、その人の過去の未払いまでこちらが清算するのだろう」
「そうだ」
「では、いらない」
人そのものが、資産として売れなくなりました。
売って資金にできるのは土地、家畜、農具、倉庫、精糖設備、収穫物です。人間は資産の欄から外れました。
それでも農園や商店を続けたい人のために、ライデン大学が実務処理例の教本を作りました。法学者に加えて、会計、商業、行政、数学の人も参加しました。
典型例を置きます。
「農園に80人。平均12年間、本人への賃金支払いが不足している場合」
本人ごとに期間を確認します。
本人へ直接払った金だけを差し引きます。
主人、親、仲介人、債権者へ渡した金は入れません。
不足額を合計します。
手元資金で足りなければ、国の融資を申請します。
国から借りた金で、まず本人へ精算します。
そのうえで、
「帰りますか」
「ここで、新しい条件で働きますか」
と選んでもらいます。
残る人とは、所定の賃金を前提に新しい契約を結びます。
教本には、帳簿が途中からない場合、本人の名前が変えられている場合、家族単位で売買されている場合、所有者が死亡して相続されている場合、会社所有の農園の場合、複数の所有者を転々としている場合、現在の所有者が南極へ送られて神様による自動精算が済んでいる場合まで載せました。
売って債務を逃がそうとする例も、はっきり書きました。
「未清算の人を別の者へ売却しても、精算義務は消えない。購入者は新たに精算義務を負う」
農園や商店を潰したくないなら、教本に従った方が早くなりました。
「国から借りて、まず払う。そのあと任意契約にする」
それで立て直せる事業は残ります。
最低賃金を払うと、どう計算しても利益が出ない事業は残りません。
奴隷や極端な低賃金を前提にしていた業種は、その事業形態のままでは産業として消えていきました。
すると、別のことを考える人もいます。
「20か国の外へ出せばいい」
生産拠点そのものを加盟国外へ移すことはできます。
けれど、20か国の人や会社がそこへ金を出し、奴隷や極端な低賃金で得た利益を配当として受け取るなら、同じ問題が戻ってきます。
ライデン大学の教本にも注意書きが入りました。
「投資先が加盟国外であることだけを理由に安全と判断しないこと。誰が労働し、誰が利益または便益を受けるかを確認すること」
銀行や商人は、投資先の農園についてまで調べるようになりました。
「賃金はいくらか」
「本人は辞められるか」
「前借りで拘束していないか」
「人を購入していないか」
人を安く縛る産業は、20か国の外へ出ても、20か国の資本を簡単には使えなくなりました。
それから、およそ1か月。
世界は、少しずつ落ち着きました。
最初の数日は大混乱でした。万人単位の帰還者を受け入れ、未払い賃金を精算し、農園や商店への融資を始め、人身売買市場が止まり、アルジェ、チュニス、トリポリの各政権や関係商人からは資産が消え、価値を失った債権が積み上がりました。議会では議員が眠り、国会を占拠した者が失踪し、南極からは女性や少年が元新人海賊を伴って戻ってきました。
それでも1か月たてば、役所には手順ができ、帳簿の書式ができ、融資の窓口ができました。
大火災や地震のあとでも、人は残ったもので生活を作り直します。
今回も、それに似ていました。
そして、どろちゃんの仕事は思ったより地味でした。
ライデン大学の教授として、実務マニュアルを整えます。
印刷所へ回します。
各国へ必要部数を送ります。
現地から届いた質問や新しい実例を次の版へ入れます。
「これって、追加のお仕事代あるの?」
どろちゃんが聞くと、大学の人が笑いました。
「教授のお仕事の範囲です」
「やっぱり?」
「はい。給与の中です」
どろちゃんは、積み上がった次版の校正刷りを見ました。
「世界がひっくり返るくらいの条約だったのに、最後は校正なんだ」
「実際に動かすには、こういうものが必要ですから」
「それはそうだね」
机の上には、農園向け、商店向け、船員向け、家内労働向け、国外投資向けの実務処理例が並んでいました。
神様は契約を作りました。
けれど、契約のあとに帳簿を書き、金を数え、人を故郷へ送り、農園を立て直し、法律を日々の仕事へ変えるのは人間です。
どろちゃんは赤い鉛筆を持ちました。
「次。ここ、例が一つ足りない」
世界が変わっても、教授のお仕事は続きました。




