168貴族令嬢は21枚目が消えるのを見ます。 神様との契約も終了です。ここから世界が変わります。奴隷 低賃金労働 ピンハネが出来なくなります。 人身売買
第168章 貴族令嬢は21枚目が消えるのを見ます
署名の日になりました。
3日前、神様から届いた労働に関する契約書は、20か国分と神様の分を合わせて21枚ありました。
最低賃金は、精算する時点からさかのぼった直近1年間について、その国で正規兵としての基礎訓練を終えた一年目の普通の下級兵士へ、平時の通常勤務を続けるだけで本人に直接支払われた基礎給与の平均値を基準にします。食事、宿舎、制服、武器、弾薬、募集費、訓練費、輸送費など、兵士を雇用するために国家側が負担する費用は基準に含めません。戦地手当、危険手当、遠隔地手当、航海手当など、特別な勤務に対する手当も含めません。ただし、名目だけを「手当」に変えても、通常勤務を続けるだけで一年目の下級兵士全員へ固定的に支払われる金は基礎給与として扱います。
最低賃金は本人に、その国の通貨で支払います。親、主人、所有者、仲介人、債権者へ渡した金は、本人への賃金には数えません。前払いの長期契約なら、契約期間全体の最低賃金を先に本人へ払います。
それまで本人へ払われていなかった労働は、その直近1年間の基礎給与平均を使って清算します。さらわれた時点の昔の低い兵士給与へ戻して計算することはできません。拘束されていた人が望むなら、元の居住地へ戻します。戻す費用も使用者側が負担します。
「下級兵士の基礎給与は、さらわれた時の額ではないのですね」
契約文を確認していた実務者が聞きました。
「精算時点の直近1年間の平均です」
「では、精算する直前だけ一年目の兵士の基礎給与を下げて、基準を下げる方法も?」
「直近1年間の平均値ですから、直前だけ変えても大きくは下がりません。それに兵士も労働者ですから、すでに効いている最低賃金より基礎給与を下げることはできません」
さらわれた昔の安い賃金で精算することも、精算直前だけ一年目の兵士の基礎給与を不自然に下げることも、どちらもやりにくい基準になっていました。
罰則は一行も書かれていません。
それが、かえって怖いところでした。
過去には、神様からの知らせを意図的に遅らせただけで年齢加算の対象になった人がいます。バベルの塔では、何階までならよかったのか、どの日までなら戻れたのか、最後まで誰にも分かりませんでした。
今回も、何日待ってくれるのか、何をしたら何が起こるのかは書かれていません。
本会議場には20か国の代表が集まっていました。
エルレンフェルト、グレートブリテン王国、フランス、ネーデルラント連邦共和国、イタリア王国、ドイツ連邦共和国、オーストリア、デンマーク、ポルトガル、スペイン、ロシア共和国、スイス、サンマリノ、アンドラ、ベトナム社会主義共和国、アユタヤ王国、ブータン、琉球王国、清国、オスマン帝国です。
どろちゃんのお父様も、エルレンフェルトの代表として署名するために席にいました。
署名するのはお父様です。どろちゃんはラジオ放送の通訳を担当しました。
いつもの放送の人の横に座って、各国代表が話すたびに共通語へ訳し、必要なら各国語へ戻します。ライデン大学の先生も解説席にいました。
「本国だけが対象なのでしょうか」
会議場から質問が出ました。
「海外領土はどうなりますか」
「植民地の法律が本国と違う場合は」
「勅許会社の土地なら、国家と会社のどちらが使用者になるのでしょう」
「現地住民と本国民で扱いを分けられますか」
質問は続きました。
どろちゃんは訳しながら、机の上の契約書を見ました。
「でも、『本国だけ』って、どこにも書いてないよ」
通訳席の近くにいた人たちが、どろちゃんを見ました。
「働いた人がいて、その仕事で誰かが儲かったんでしょう?」
「そうなります」
「だったら、植民地って名前をつけても同じじゃない?」
ライデン大学の先生が、ラジオへ向かって補いました。
「この契約は、土地の呼び名で対象を分けていません。誰が労働や役務を行い、誰が利益または便益を得たかを見ています。本国、植民地、会社領、船舶という名前だけで外れる条文にはなっていません」
放送の人が聞きました。
「では、植民地だけ従来どおりにする、という批准は?」
「20か国に渡された契約書は同一です。条件を付けて参加する欄もありません」
「批准しないことはできますね」
「できます」
そこは大事でした。
神様は、必ず署名しろとは書いていません。
受け入れられなければ、署名せずに抜けることができます。
ただし、抜ける意味は重くなっていました。
批准しない国の人が外国へさらわれ、売られ、働かされても、この契約による賃金精算と帰還の仕組みには入りません。
一方で、その国の国内では、農奴の購入、前借りによる拘束、人身売買、本人へ十分な賃金を払わない労働を残せます。
放送の人が、少し声を落としました。
「つまり、国内で人を買っている人や、前借りで人を縛っている人に気を遣って批准しなければ、外国へさらわれた自国民も、この仕組みでは助けてもらえない?」
先生は少し間を置きました。
「その選択は記録に残るでしょう。国民を守る仕組みに参加しなかった理由も、同時に残ります」
「さらう側から見れば、批准しなかった国の人は、これまでどおり商品にできる?」
「少なくとも、この契約による保護からは外れます」
会議場の空気が少し変わりました。
批准しない自由はあります。
けれど、批准しない国は、農奴を買った人や奴隷を所有する人に配慮する代わりに、さらわれた自国民を見捨てた国として記録されます。
議論の途中で、ラジオ放送は会議場に来ていたルイ十四世へ直接マイクを向けました。
「陛下。今回の最低賃金は高すぎて、とても払えないという雇用主もおります。どのようにお考えでしょうか」
ルイ十四世は、ほとんど間を置きませんでした。
「その賃金と言っても、正規兵になったばかりの下級兵士の基礎給与だ。それが出せない産業なら、フランスの外でやればいい」
放送席が少し静かになりました。
「フランス人は高い賃金を受け取って働けばよい。音楽を聴き、絵を見て、本を買って学ぶ。食事にも住居にも気を配る。病気になれば治療を受ける。それでよい」
「賃金が上がることで、国内の産業が成り立たなくなるという声もあります」
「給料も払えない産業を国内に置いて、何が残るのだ」
ルイ十四世は続けました。
「働く者が金を持たなければ、物を買えない。税も多くは取れない。十分に食べられず、健康にも気を配れず、病めば働けなくなる。子どもを学ばせる余裕もなくなる。それでフランスが豊かになるのか」
「高い賃金は、また国内で使われると?」
「そうだ。パンを買い、服を買い、家を借りる。音楽を聴き、絵を見、本を買う。その金が別のフランス人の仕事になる。そこから税も取れる」
どろちゃんは、その言葉を次々に訳しました。
四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約が成立したあと、四か国は戦争を続けるより、利益の出る産業や交易へ資金を回す方が得だと考えていました。ルイ十四世の話も、その延長にありました。
戦争へ消えていた金を利益の出る方へ向ける。
今回は、人をただ同然で働かせて残す産業より、賃金を払っても利益の出る産業へ資本を移す。
考え方はよく似ています。
それでも、もう時間です。
司会役が立ちました。
「それでは、署名を始めます。各国は、この契約を受け入れる場合には署名してください。受け入れない場合には、署名せずにお戻りください」
ラジオの人も、説明をやめました。
「署名が始まります」
紙を動かす音が放送へ入りました。
ペン先が紙をこする音も聞こえます。
エルレンフェルトでは、お父様が署名しました。
フランスも署名しました。
グレートブリテン王国も、ネーデルラント連邦共和国も署名しました。
イタリア王国、ドイツ連邦共和国、オーストリア、デンマーク、ポルトガル、スペイン、ロシア共和国、スイス、サンマリノ、アンドラ、ベトナム社会主義共和国、アユタヤ王国、ブータン、琉球王国、清国。
1か国も抜けませんでした。
最後はオスマン帝国です。
オスマン帝国の全権が、21枚すべてへ最後の署名を書き終えました。
ペンが紙から離れました。
その瞬間です。
「あ」
どろちゃんの通訳が止まりました。
21枚のうち、神様の分として置かれていた1枚が淡い金色に光りました。
紙の縁から細かな光がほどけます。
光は次第に増え、契約書1枚がそのまま細かな金色の粒子へ変わりました。
音も立てず、金色の粒子は、しばらく机の上で揺れて、それから空中へ散り、そのまま消えました。
会議場には20枚だけが残りました。
「……いま、神様の分として用意されていた1枚が消えました」
ラジオの人が言いました。
どろちゃんは机の上を数えました。
「20枚、残ってます。神様の分だけです」
ライデン大学の先生も、しばらく契約書があった場所を見ていました。
「神様側が、自分の一部を受け取ったと考えるのが自然でしょう」
この瞬間、20か国すべてが締約国になりました。
そして、署名式が終わった直後から、別の会議が始まりました。
今度は実務者会議です。
議題は、誰を帰すか、いくら払うか、誰が払うか、どうやって払わせるか、そして各国の国内で今日から何を法として効かせるかでした。
同じ契約に批准した以上、国内法も同じ強さで動かす方針になりました。
「共通の文章にしませんか」
ライデン大学側の法学者が言いました。
「その方がよいでしょう。小国には、この範囲全部を短時間で立法できる法学者が少ない国もあります」
「大国側で条文の穴を探します。小国側は、実際に運用できない役所名や制度名があれば指摘してください」
法律家たちが一斉に仕事を始めました。
「『雇用主』だけでは狭い。名義上の雇用主とは別に、利益を受けた所有者が逃げます」
「『適正な報酬』もやめましょう。意図的に狭く解釈できます」
「本人への直接払いを明記します」
「親、主人、所有者、仲介人、債権者その他の第三者へ渡した金は本人への賃金とみなさない、と」
「一度本人へ渡して、直後に紹介料や借金返済の名目で強制的に取り返す場合は?」
「そこも書きましょう。名目ではなく実質を見られる文章にします」
「前借りを理由に退職や帰郷を妨げる場合も」
「入れます」
「本国、海外領土、植民地、属領、会社統治地域、船舶。名称を問わないことも明記しましょう」
「行政機関名は国ごとに違います」
「『当該国が指定する権限ある機関』で統一できます」
どろちゃんは、そのやり取りも必要なところで通訳しました。
半日でした。
大国の法学者が抜け道を探し、小国の実務者が運用上の問題を出し、それをまた条文へ戻しました。
意図的に誤解しようとしても、一つの意味にしか読みにくい文章へ寄せていきます。
そして、20か国共通の施行法が完成しました。
「各国へ送ります」
「施行日は?」
「本日です。法律として成立できる国は、今日から」
通信担当が動きました。
エルレンフェルトでは議会へ送られ、その日のうちに通過しました。
フランスやイタリアでも、法として動かせる手続が進みました。
けれど、すべての国が同じ速さでは動きませんでした。
議会の承認が法律成立の条件になっている国では、そこで止まりました。
とくに、海外農園、船会社、金融、商業、大土地所有などに深く関わる有力者が議席を持つ国です。
とくにグレートブリテン王国とネーデルラント連邦共和国では、同じ共通法が机の上に届いているのに、採決まで進みません。
「条文が難しいのでしょうか」
ラジオの人がライデン大学の先生へ聞きました。
「条文は同じです。エルレンフェルトではすでに通りました」
「では、何で止まっているのでしょう」
「法律が今日成立すると、自分の財産や投資先に直接影響する人が、票を持っているのでしょうね」
議会によっては、出席者の過半数、議員総数の過半数、あるいは3分の2の賛成が必要です。
法律の文章は共通でも、票を持つ人の利害は国ごとに違っていました。
神様との契約は、もう成立しています。
それでも人間側の法律は、いくつかの国で止まったままでした。




