特別編7 アフリカ人によるヨーロッパ人の奴隷化と、海辺から消えた村々 史実の解説
史実の解説なので読み飛ばしても影響はありません。
特別編7 アフリカ人によるヨーロッパ人の奴隷化と、海辺から消えた村々
ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷化した
大西洋奴隷貿易
アフリカ人がヨーロッパ人を奴隷化した
地中海のバルバリア奴隷貿易
最初に、この二つの方向を分けて考える必要がある。日本の学校教育で広く扱われるのは、ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷化し、大西洋を越えてアメリカ大陸へ運んだ歴史である。
同じ地域尺度で近世の地中海を見ると、反対方向に、アフリカ人がヨーロッパ人を奴隷化した大規模な歴史がある。北アフリカのアルジェ、チュニス、トリポリ、サレなどを拠点とする海賊・私掠船が、ヨーロッパ人を捕らえて北アフリカへ運び、売却し、労働させ、あるいは身代金の対象にした。
この二つは、奴隷にする人を手に入れる段階の仕組みが大きく違っていた。どちらも、本人の意思に反して人を商品として売買し、労働を強いる理不尽な仕組みである。そのうえで、ヨーロッパ人がアフリカ人を手に入れる主要な方法は商取引であり、北アフリカ側がヨーロッパ人を手に入れる主要な方法は直接の暴力による捕獲だった。
大西洋奴隷貿易では、アフリカ内部の戦争、地域間抗争、襲撃、誘拐、司法上の処分、債務などによって奴隷化された人々が、アフリカ側の国家、支配者、商人、仲介者の交易網を通じて沿岸へ運ばれた。ヨーロッパ人商人は、沿岸の交易拠点でその人々を買い取り、奴隷船へ積んで大西洋を渡り、アメリカ大陸などで販売した。
Herbert S. Kleinは、大西洋奴隷貿易について、ヨーロッパ人買い手がアフリカ人売り手による供給に大きく依存していたことを説明している。ヨーロッパ人がアフリカ内陸へ多数の兵士を送り込み、大量の人を直接捕らえて海岸まで運ぶ方法は、現地国家の軍事力、疾病、補給、輸送、費用の面で大きな負担になった。John Thorntonも、初期のヨーロッパ側による直接襲撃がアフリカ側の抵抗を受け、その後の関係が商取引を中心とする方向へ進んだことを論じている。
ヨーロッパとアメリカ大陸側の巨大な需要は、この人身売買を長期間支えた。ヨーロッパ人商人は買い手と輸送者になり、金融、保険、植民地市場も大量の人間を商品として移動させる仕組みを支えた。その需要が、アフリカ側で人を捕らえて売る利益をさらに大きくした。
したがって、「ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷化した」という説明と、「大量供給の現場では、アフリカ側で捕らえられた人をヨーロッパ人が買い取る形が中心だった」という説明は両立する。
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アフリカ人がヨーロッパ人を奴隷化した地中海のバルバリア奴隷貿易では、入口の仕組みが大きく違っていた。
北アフリカを拠点に活動した海賊・私掠船は、研究文献ではコルセールとも呼ばれる。彼らは自分たちの船でヨーロッパ側へ出航し、海上ではヨーロッパの商船や漁船を拿捕して、乗員や乗客を直接捕らえた。
さらにヨーロッパ沿岸へ船を寄せ、武装した人員を上陸させた。沿岸の村や町へ入り、そこで暮らしていたヨーロッパ人を捕らえ、浜まで連行して船へ積み、アルジェ、チュニス、トリポリ、サレなど北アフリカの港へ運んだ。
アルジェで行われた身代金交渉の記録を4,000人以上について分析した研究では、身代金によって解放された人々の8割弱が海上で捕らえられ、約11%が陸上で捕らえられていた。陸上で捕らえられた人の記録には、家畜の世話をしていた人や洗濯をしていた人まで含まれる。北アフリカ側の捕獲活動は、航行中の船員だけでなく、ヨーロッパの陸地で日常生活を送る住民そのものを対象にしていた。
北アフリカの港へ連れ去られたヨーロッパの住民や船員は、所有権や分配の手続きを経て奴隷市場や収容施設へ送られた。公的所有となる者、船主や出資者の取り分となる者、市場で売却される者がおり、年齢、技能、身分、身代金を期待できるかどうかによって扱いも変わった。港湾労働、建設、家内労働、ガレー船での労働などに使われる人がいる一方、家族、国家、教会組織から高額の身代金を引き出せると判断された人は、長期間拘束されることもあった。
大西洋奴隷貿易では、ヨーロッパ人がアフリカ側から人を「買う」ことが大量供給の中心だった。地中海のバルバリア奴隷貿易では、北アフリカ側がヨーロッパまで「捕りに行く」ことが大きな特徴だった。この違いが、地中海沿岸の集落と人口分布に直接影響した。
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北アフリカの海賊・私掠船による活動は、単発の犯罪ではなく、船舶、出資、国家権力、奴隷市場、身代金交渉を結びつけた長期的な経済活動だった。
Robert C. Davisは、1530年から1780年までに北アフリカのバルバリア沿岸で奴隷化されたヨーロッパ人を、およそ100万から125万人と推計した。この数字は、特定時点の奴隷人口から長期の流入数を逆算する方法を含むため、推計方法をめぐる研究上の議論がある。そのため、100万から125万人を確定した総数として扱うことはできない。しかし、この推計を採用するかどうかとは別に、ヨーロッパの住民や船員が数世紀にわたり大量に北アフリカへ連れ去られ、奴隷市場、身代金制度、国家財政、沿岸防衛へ大きな影響を与えたことは、多数の別系統の史料から確認できる。
北アフリカ諸都市では、連れ去られたヨーロッパの住民や船員を売る市場、収容施設、身代金交渉の制度が長期間維持された。ヨーロッパ側では、連れ去られた人々を買い戻すための修道会、慈善募金、国家交渉、商人や領事による仲介が発達した。
Bernard Cappが研究した、北アフリカへ連れ去られたイギリス人の場合でも、家族が身代金を用意できない例が多く、国家に介入を求める圧力が強まったことが示されている。
こうした制度が何世代も続いた結果、ヨーロッパ側が負担したのは捕らえられた個人の人生だけではなかった。船主は航路を変え、国家は護衛と海軍を整備し、沿岸地域では見張り塔や砦が増え、住民は海辺に住む危険そのものを生活条件として考えるようになった。
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沿岸集落にとって、北アフリカからの襲撃は地理を変える圧力になった。
海岸に家を構えれば、漁業や交易には便利である。しかし、沖に現れた船から武装集団が上陸し、住民を奴隷として連れ去る状況が長期間続けば、海辺に家族を住まわせる利点よりも危険が大きくなる。そこで、住民は丘陵、高台、谷の奥、城壁のある町などへ生活の中心を移し、海岸には漁業施設、港、見張り塔だけを置く形が増えた。
住民が生き延びて内陸へ移った場合でも、元の海岸集落へ戻らなければ、その海辺の村は集落として消える。近世地中海で見られる「海岸部の人口が少なく、少し内陸や高所に旧市街がある」という地理には、地形、水、マラリアなど複数の要因がある。地域によっては、北アフリカからの継続的な襲撃も非常に大きな要因となった。
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現在のスペイン東岸にあるベニドルムは、その影響を具体的に確認できる例である。
現在のベニドルムは海岸沿いに高層建築が連なる大規模な観光都市だが、市の公式歴史案内によれば、町と城は15世紀に大きな海賊襲撃を受け、1448年以後に人口を失った。市が公開している城郭資料では、1447年8月のチュニス艦隊による襲撃で住民全員が捕らえられたと説明されている。史料や整理によって年の表記に1447年と1448年の差があるものの、この時期の襲撃後に町が事実上無住となった点は共通している。
16世紀には城の修理や拡張が行われたが、1574年の記録でも、安定した集落を形成しない少数の漁師家族が確認される程度だった。町が再び定住地として確立していくのは、沿岸防備の改善、漁業の発達、水利整備などが進んだ17世紀以降である。ベニドルムでは、海賊襲撃が一時的な人的被害にとどまらず、海岸都市としての人口の連続性そのものを断ち切った。
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「奴隷として運ぶ人を捕らえる」ことと、「船で運ぶ対象にされなかった住民を殺す」ことが同じ襲撃の中で起きた例として、1554年のヴィエステ襲撃がある。ヴィエステはイタリア南部、アドリア海に突き出したガルガーノ半島の沿岸都市である。
ヴィエステの現地資料とガルガーノ国立公園の解説では、ドラグート・レイス率いる艦隊が1554年7月に町を攻略し、家屋や教会を略奪して住民を殺害・拉致したとされる。地域に伝わる記録では、働ける男性や若い女性は船へ連行され、奴隷として売られた。一方、高齢者や病弱者など、奴隷として運ぶ対象にされなかった人々は殺害されたと伝えられている。
沿岸住民にとって、北アフリカからの襲撃は「捕まれば奴隷になる」という危険だけではなかった。町を攻略された時点で、連行、殺害、略奪が同時に起こりうる。海辺から内陸や高所へ生活の中心を移す行動は、このような危険が長期間続いた地域では合理的な生存策でもあった。
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さらに広い地域を対象に、北アフリカからの襲撃と人口配置の関係を公文書から検証した研究がある。Francisco Velasco Hernándezによる、16世紀から17世紀のムルシア王国沿岸を扱った研究である。
ムルシア沿岸はアルジェから一日余りの航海で到達でき、海賊・私掠船の活動圏に近かった。Velasco Hernándezは、シマンカス総合文書館、国立歴史文書館、ムルシア、カルタヘナ、ロルカ、マサロンなどの自治体文書を調べ、住民が1世紀以上にわたり海岸へ近づきにくい状況が続いたことを示している。
防備されたカルタヘナやマサロンのような拠点は存在したが、その間には定住人口の少ない長い海岸が残った。見張り塔、砦、民兵、沿岸監視網が整い、さらに海賊・私掠船による圧力が弱まるにつれて、17世紀後半から沿岸への再定住が進んだ。ここでは、北アフリカからの襲撃が「海辺の村を襲った」という個別事件の集合ではなく、100年以上にわたって沿岸居住そのものを抑制したことが史料から追跡できる。
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イタリアでも、北アフリカからの襲撃は都市と人口の分布に長期的な影響を残した。
2024年に公表された経済史研究では、16世紀以降に北アフリカ沿岸から行われた襲撃への曝露度と、イタリア各地の人口分布との関係が数量的に分析されている。襲撃を受けやすい沿岸地域では人口の増加が相対的に弱く、安全性の高い内陸や山地側の集落ほど人口を引きつけたことが示されている。
南ヨーロッパに多数残る沿岸監視塔も、同じ圧力の物的証拠である。サルデーニャの文化遺産解説では、北アフリカの海賊・私掠船が船だけでなく沿岸地域へも繰り返し上陸し、住民を奴隷または身代金目的で誘拐したこと、それに対抗するため多数の沿岸塔が設けられたことが説明されている。
海から見える塔は、軍事施設であると同時に、住民に襲撃の接近を知らせて逃げる時間を作る警報装置でもあった。17世紀のスペインについて身代金記録を分析した研究では、1650年以降に陸上で捕らえられる人の割合が低下しており、その一因として沿岸監視塔の整備が指摘されている。
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北アフリカからの奴隷狩りは、ジブラルタル海峡を越えて大西洋側のヨーロッパへも広がった。アイルランドやアイスランドまで、北アフリカから来た襲撃船の活動範囲に入った。
1631年、アイルランド南西部のボルティモアが襲撃された。現地の歴史資料によれば、アルジェから出た2隻の船に乗る200人以上の武装集団が夜間に上陸し、眠っていた住民を家から連れ出した。100人を超える男女と子どもが船へ押し込まれ、北アフリカの奴隷市場へ運ばれた。
この事件では、襲撃後に生き残った住民の多くが安全を求めてスキバリーンなど内陸へ移った。捕らえられた107人のうち、その後の消息が確認できた人はごく少数であり、身代金によって帰還できた女性もわずかだったとされる。ここでは、人の直接捕獲と、襲撃後の集落人口の移動が一つの事件の中で確認できる。
さらに1627年には、北アフリカから来た襲撃船がアイスランドへ到達した。アイスランド大学系の学術解説では、サレやアルジェを拠点とする襲撃者がグリンダヴィークなどへ上陸し、アイスランド人、デンマーク人、船員を捕らえて北アフリカへ運び、奴隷として売ったことが説明されている。アイスランド議会でも、この1627年の事件は近年まで国家的な記憶事業の対象となっている。
北アフリカから見れば、ヨーロッパ人を捕らえる範囲はイベリア半島やイタリアだけではなく、アイルランドやアイスランドまで広がっていた。
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この問題が18世紀末になっても国際政治を動かしていたことは、独立直後のアメリカ合衆国を見るとよく分かる。
独立前の北米植民地の商船は、英国海軍と英国外交の保護の中にあった。独立後のアメリカ船はその保護から外れ、1785年にはアルジェ側がアメリカ船を拿捕して船員を拘束した。1793年にも多数のアメリカ商船が捕らえられ、乗員が北アフリカへ連行された。
ミシガン大学William L. Clements Libraryの資料は、捕らえられたアメリカ人船員が服を奪われ、鎖につながれ、奴隷として扱われたことを紹介している。アメリカ政府は、すでに捕らえられた自国民を取り戻すための身代金と、今後アメリカ船を攻撃しないための貢納を組み合わせて交渉した。
1795年にアメリカがアルジェへ支払った身代金と貢納などは約100万ドルに達し、クレメンツ図書館はこれを当時の連邦政府年間予算のおよそ20%に相当すると説明している。国家予算の5分の1という規模は、北アフリカの海賊・私掠船問題が遠方の一部商人だけの問題ではなく、建国直後の国家財政そのものを動かす問題だったことを示している。
米国務省Office of the Historianによれば、1795年のアルジェとの条約によって83人のアメリカ人船員が解放された。クレメンツ図書館は、1784年から第二次バーバリ戦争が終わる1815年までに北アフリカ側に捕らえられたアメリカ人を、推計で約700人としている。
北アフリカへ連れ去られ、奴隷として拘束されたアメリカ人船員の問題は海軍政策にも直結した。1794年3月27日、連邦議会は6隻のフリゲート建造を認める海軍法を成立させた。米国立公文書館と米海軍歴史遺産司令部はいずれも、アルジェ側によるアメリカ商船の拿捕が、この海軍建設を進めた中心的な要因だったことを説明している。
その後、アメリカは第一次バーバリ戦争、第二次バーバリ戦争を戦うことになる。建国直後のアメリカ海軍史の最初期に北アフリカが大きく登場するのは、交易路の安全だけでなく、アメリカ人が捕らえられ、奴隷として拘束され、国家が身代金と貢納を求められていたからである。
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この歴史を人の数だけで見ると、地中海沿岸で起きた変化の一部しか見えない。
捕らえられた人には、その後の人生がある。奴隷市場で売られ、別の主人へ転売され、労働を強制され、身代金を待ち、改宗し、家庭を持ち、あるいは記録から消えた人もいる。家族の側から見れば、海岸から連れ去られた瞬間から、生死も居場所も分からなくなることがあった。
残された側にも長期的な変化が起きる。住民は海辺から高所へ移り、城壁の内側へ集まり、監視塔を建て、農地や漁場への通い方を変える。船主は航路と保険を考え、国家は護衛艦と外交費を増やす。遠く離れたアメリカ合衆国まで国家予算の大きな部分を支払い、海軍を建設した。
奴隷化された人数、放棄された集落、内陸へ移った人口、海岸線に並ぶ監視塔、身代金を集める教会組織、国家予算に計上される貢納、そして新設された軍艦は、すべて同じ歴史の異なる断面である。
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「ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷化した」という歴史は、近代世界を理解するうえで不可欠である。同じように、「アフリカ人がヨーロッパ人を奴隷化した」という歴史も、近世地中海と大西洋沿岸の社会を理解するうえで欠かせない。
二つの奴隷化では、人を獲得する仕組みが異なった。ヨーロッパ人によるアフリカ人の奴隷化では、アフリカ内部で捕らえられ、沿岸へ運ばれてきた人をヨーロッパ人商人が買い取る仕組みが大量供給の中心となった。アフリカ人によるヨーロッパ人の奴隷化では、北アフリカ側の船がヨーロッパへ出向き、海上の船員や沿岸住民を直接捕らえて北アフリカへ運ぶ仕組みが大きな役割を占めた。
アフリカ人によるヨーロッパ人の奴隷化が数世紀にわたって続いた結果、奴隷市場へ送られた人々に加えて、沿岸の集落そのものが大きな影響を受けた。ベニドルムのように人口の連続性を失った町があり、ムルシア沿岸のように100年以上にわたって定住が抑えられた地域があり、ボルティモアのように住民が連れ去られたあと生存者が内陸へ移った村もあった。イタリアでは、襲撃の危険が都市人口の分布にまで影響したことが数量的に示されている。
海辺から村が消えた歴史には、海岸地形に加えて、人を商品として持ち去る船が何世代にもわたって来航したという人為的な要因がある。北アフリカからの奴隷狩りは、地中海沿岸の地理そのものを形づくった重要な要因だったのである。
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参考資料
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以下は、本特別編の事実関係を確認するための主な資料である。英語、スペイン語、カタルーニャ語、アイスランド語の資料も原題とURLを残した。現在はブラウザ翻訳やGoogle翻訳で内容を確認しやすいため、日本語資料だけに限定していない。
【日本の学校教材】
1 山川出版社『年間指導計画表・評価規準』中学校歴史
ヨーロッパの海外進出と、アフリカの人々が奴隷として新大陸へ運ばれた歴史を学校教育でどのように配置しているかを確認する資料。
https://new-textbook.yamakawa.co.jp/pdfs/junior_syllabus.pdf
【大西洋奴隷貿易の供給構造】
2 Herbert S. Klein, “The African Organization of the Slave Trade,” in The Atlantic Slave Trade, Cambridge University Press, 2010.
ヨーロッパ人買い手がアフリカ人売り手に依存し、沿岸で購入する仕組みが大西洋奴隷貿易を支えたことを扱う。
DOI: 10.1017/CBO9780511779473.010
https://www.cambridge.org/core/books/abs/atlantic-slave-trade/african-organization-of-the-slave-trade/0D98CCDCA1424F8E013C5942EC41FC12
3 John Thornton, “The Development of Commerce between Europeans and Africans,” in Africa and Africans in the Making of the Atlantic World, 1400–1800, Cambridge University Press.
初期のヨーロッパ側による沿岸襲撃へのアフリカ側の抵抗と、その後の商取引中心の関係を扱う。
https://www.cambridge.org/core/books/abs/africa-and-africans-in-the-making-of-the-atlantic-world-14001800/development-of-commerce-between-europeans-and-africans/A90464F5DB35DEB7651FF8979BCB1085
4 John Thornton, “The Process of Enslavement and the Slave Trade,” in Africa and Africans in the Making of the Atlantic World, 1400–1800, Cambridge University Press.
戦争、奴隷化、ヨーロッパ需要とアフリカ側の政治・軍事構造の関係を扱う。
https://www.cambridge.org/core/books/abs/africa-and-africans-in-the-making-of-the-atlantic-world-14001800/process-of-enslavement-and-the-slave-trade/777DA26E18B1DD2682A29F900AFD8CAF
5 David Eltis, “Africa, Africans, and the Slave Trade,” in Atlantic Cataclysm: Rethinking the Atlantic Slave Trades, Cambridge University Press, 2025.
アフリカ沿岸でヨーロッパ人商人とアフリカ人商人が取引した構造を、近年の数量研究を踏まえて再検討している。
https://www.cambridge.org/core/books/abs/atlantic-cataclysm/africa-africans-and-the-slave-trade/9B7F58DFFD7A62C766DA2010294B987B
【北アフリカによるヨーロッパ人奴隷化】
6 Robert C. Davis, “Counting European Slaves on the Barbary Coast,” Past & Present, Vol.172, 2001, pp.87–124.
北アフリカで奴隷化されたヨーロッパ人の総数推計で知られる論文。総数推計には研究上の議論があるため、著者・対象期間・推計方法とともに読む必要がある。
DOI: 10.1093/past/172.1.87
https://academic.oup.com/past/article/172/1/87/1498240
7 Robert C. Davis, Christian Slaves, Muslim Masters: White Slavery in the Mediterranean, the Barbary Coast, and Italy, 1500–1800, Palgrave Macmillan, 2003.
バルバリア沿岸でのヨーロッパ人奴隷化、連れ去られた人々の生活、身代金、イタリアなどへの影響を扱う研究書。
https://link.springer.com/book/9780333719664
8 Bernard Capp, British Slaves and Barbary Corsairs, 1580–1750, Oxford University Press, 2022.
北アフリカで奴隷化されたイギリス人について、捕獲から奴隷市場、労働、身代金、逃亡、国家対応までを扱う。
https://academic.oup.com/book/41464
9 “Measuring the Military Decline of the Western Islamic World: Evidence from Barbary Ransoms,” Explorations in Economic History, Vol.58, 2015.
アルジェから身代金で解放された4,000人以上の記録を分析し、海上・陸上・軍事衝突など捕獲状況の比率、沿岸監視塔整備後の変化を数量的に検討する。
DOI: 10.1016/j.eeh.2015.03.002
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0014498315000169
10 Michael Brett, “An Islamic Africa,” in Approaching African History, Cambridge University Press, 2013.
モロッコ、アルジェ、チュニス、トリポリなどを拠点とするコルセールが、ヨーロッパの海岸と船舶を襲い、住民や船員をアフリカへ連れ去って奴隷化する活動を商業化したことを概説する。
https://www.cambridge.org/core/books/abs/approaching-african-history/an-islamic-africa/0424E8CABE451093AD8648FB3C709DDD
【沿岸集落と人口配置】
11 Portal Benidorm, “Historia”.
1410年ごろと1448年の海賊襲撃、1448年以後の人口消失、1574年にも安定した集落が形成されていなかったことを記すベニドルムの公式歴史案内。
https://www.portalbenidorm.com/es/guia-de-la-ciudad/historia
12 Ayuntamiento de Benidorm, “Castillo de Benidorm”.
1447年8月のチュニス艦隊襲撃で住民が捕らえられ、その後の人口放棄と1666年の再入植について説明する市の資料。
https://contenidos.benidorm.org/sites/default/files/documentos/folleto_castillo_spa.pdf
13 Francisco Velasco Hernández, “La influencia del corso berberisco en la tardía repoblación del área litoral del reino de Murcia (siglos XVI y XVII),” Espacio, Tiempo y Forma, Serie IV, Historia Moderna, 34, 2021.
ムルシア沿岸で1世紀以上続いた定住困難と、コルセール圧力の低下後に進んだ再定住を公文書史料から検証する。
DOI: 10.5944/etfiv.34.2021.27250
https://www.researchgate.net/publication/355784170_La_influencia_del_corso_berberisco_en_la_tardia_repoblacion_del_area_litoral_del_reino_de_Murcia_siglos_XVI_y_XVII
14 Francisco Velasco Hernández, “Las galeras del corsario Alí Bitchín y sus campañas de saqueo en las costas de Alicante y Murcia durante la década de 1630,” Revista de Historia Moderna, 2015.
アルジェ・チュニスのガレー船によるアリカンテ、ムルシア沿岸への上陸襲撃、住民の連行と奴隷化、船舶強奪、沿岸塔への攻撃を一次史料から検討する。
DOI: 10.14198/RHM2015.33.08
https://revistahistoriamoderna.ua.es/article/view/2015-n33-las-galeras-del-corsario-ali-bitchin-y-sus-campanas-de-
15 “Pirate attacks and the shape of the Italian urban system,” Regional Science and Urban Economics, 2024.
北アフリカからの海賊襲撃への曝露度と、イタリアの長期的な人口分布の関係を数量的に分析する研究。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0166046224000668
16 Sardegna Cultura, “Corsairs and pirates in the Mediterranean”.
北アフリカの海賊・私掠船による沿岸への上陸、人の誘拐、身代金、奴隷化と、イタリア沿岸に多数の監視塔が築かれた背景を説明する。
https://virtualarchaeology.sardegnacultura.it/index.php/en/archaeological-sites/eta-medievale/torri-costiere-di-arbatax/detailed-sheets/3220-corsari-e-pirati-nel-mediterraneo
【大西洋側への襲撃】
17 Baltimore, West Cork, “The Sack of Baltimore”.
1631年のボルティモア襲撃、100人を超える住民の連行、生存者の内陸移住、連れ去られた住民の多くがその後消息不明となったことを紹介する地域史資料。
https://www.baltimore.ie/the-sack-of-baltimore
18 Þorsteinn Helgason, “Hvað gerðist í Tyrkjaráninu?”, Vísindavefurinn.
1627年にサレとアルジェから来た襲撃者がアイスランドへ上陸し、住民や船員を捕らえて北アフリカで奴隷として売った事件を、アイスランドの研究者が解説する。
https://www.visindavefur.is/svar.php/svar.asp?id=5743
19 Alþingi, “Tillaga til þingsályktunar um minnisvarða og fræðslusjóð um Tyrkjaránið árið 1627”.
1627年の北アフリカからの襲撃を、アイスランド議会が歴史記憶事業の対象として扱った資料。
https://www.althingi.is/altext/155/s/0106.html
【ヴィエステ襲撃】
20 Vieste.it, “Draguth Rais, La Chianca Amara”.
1554年のヴィエステ襲撃について、家屋の略奪、住民の殺害と拉致、働ける男性や若い女性を船へ連行して奴隷として売ったことを説明する現地資料。
https://www.vieste.it/draguth_rais.htm
21 Ente Parco Nazionale del Gargano, “Chianca amara”.
ガルガーノ国立公園の公式文化財解説。1554年7月15日のドラグート・レイスによる襲撃と、住民の殺害を地域史として解説する。
https://www.parcogargano.it/poi/chianca-amara/
【アメリカ合衆国】
22 William L. Clements Library, University of Michigan, “Early American Interactions with the Barbary States”.
1795年のアルジェへの身代金・貢納など約100万ドルを年間連邦予算のおよそ20%とする説明、約700人のアメリカ人が北アフリカ側に捕らえられたという推計と、連れ去られた船員が奴隷として扱われた状況を紹介する。
https://clements.umich.edu/exhibit/barbary-wars/early-barbary-interactions/
23 Office of the Historian, U.S. Department of State, “Barbary Wars, 1801–1805 and 1815–1816”.
独立後のアメリカ船への攻撃、1795年の条約による83人の船員解放、1794年の6隻の海軍艦艇建造などを説明する。
https://history.state.gov/milestones/1801-1829/barbary-wars
24 U.S. National Archives, “Launching the New U.S. Navy”.
アルジェ側の脅威を背景に、1794年3月27日に6隻の艦艇建造が承認された経緯を、議会史料とともに説明する。
https://www.archives.gov/education/lessons/new-us-navy
25 Naval History and Heritage Command, “U.S. Navy’s Six Original Frigates”.
バルバリア諸国によるアメリカ商船と乗員の拿捕、身代金要求と、最初の6隻のフリゲート建造との関係を米海軍史側から整理する。
https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/ships/original-frigates.html




