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ドロティアとフランソワは空を飛びます どろちゃんの飛行日誌 飛行機から始まった貴族令嬢の社会改変  作者: アントノフ


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175/210

167貴族令嬢は、三日後の契約書を受け取ります。   神様との契約書2回目が来ます。

第167章 貴族令嬢は、三日後の契約書を受け取ります



 小鳥さんは、旧飛行場の格納庫で念入りな点検を受けています。細い機体に大きな力をかけて、高度54キロメートル近くまで上がったばかりです。整備士さんたちは急いで次の飛行を入れず、時間をかけて機体を確かめています。


 どろちゃんは領主館の自分の部屋へ戻り、机の上にレスボス島の地図を広げていました。西側のエレソス、海岸側と内陸側の集落、その周りの港と航路を見ながら、紙の端にはエレナとアナスタシアの名前を書いてあります。


 エレソスの小さな家と土地を管理してくれることになったエレナさんは、一人で暮らしています。以前の海賊の襲撃で両親が連れ去られ、その後の別の襲撃では妹のアナスタシアさんまで連れ去られました。両親もアナスタシアさんも、海賊に連れていかれたあとの所在も生死も分かっていません。


「どこへ行ったんだろう」


 海賊に連れ去られた人を探すとなると、追う先は襲撃した一隻の船から、その先の港、市場、買い手へ広がります。地中海では、アルジェ、チュニス、トリポリなど北アフリカの港を拠点にするバルバリアの海賊が、何世代にもわたって船を捕らえ、ヨーロッパや地中海の沿岸集落へ上陸して人を連れ去ってきました。16世紀以降の数世紀に捕らえられ、奴隷にされた人の総数は、推計によって幅がありますが80万人から125万人ほどともされています。


 最盛期には、北アフリカのバルバリア諸地域で同時に拘束されていたヨーロッパ出身の奴隷だけでも約35,000人、そのうちアルジェと周辺に約27,000人、チュニスに約6,000人、トリポリと周辺に約2,000人という推計もあります。海辺の小さな町や村が繰り返し襲われ、住民が海岸から内陸へ生活の中心を移した地域もありました。エレソスの海岸側から人が少なくなっていった事情も、その長い地中海の襲撃史と重なります。


 海賊側の構成も複雑でした。16世紀初めにはバルバロッサ兄弟が北アフリカで勢力を伸ばし、17世紀にはジョン・ウォードのようなイングランド出身者や、ジーメン・ダンスカーのようなネーデルラント出身者まで、改宗したり現地勢力へ加わったりして海賊活動を続けています。1600年ごろにはヨーロッパから新しい航海術や造船技術も持ち込まれ、活動範囲は地中海だけに収まらず大西洋側へも伸びました。エレナさんの家族を連れ去ったのがどの集団だったのかは、まだ分かりません。だから、まず襲撃そのものを特定する必要があります。


 連れ去られた人は、船から市場へ運ばれ、そこから何度も別の買い手へ渡ることがあります。アルジェ、チュニス、トリポリなどの奴隷市場へ運ばれ、バグニオと呼ばれる収容施設へ入れられ、身代金交渉の対象になる人もいれば、そのまま売られて別の土地へ移される人もいます。買い手がさらに転売すれば、レスボス島から始まった人の移動は、港から港へ何度も枝分かれします。名前を変えられれば、アナスタシアという名前だけでは途中から追えません。


 男性ならガレー船へ回された可能性もあります。バルバリアのガレー船は年間80日から100日ほど海上で行動するものが多く、漕ぎ手として船に乗っていない期間にも、捕らえられた人は陸上の厳しい肉体労働へ使われました。1本のオールを5人か6人で漕ぎ、座っている間は足枷と鎖を付けられ、監督者が鞭を持って歩く。睡眠、食事、排泄まで同じ座席で済ませる例もあります。


 さらに、17世紀後半から18世紀初めのイスタンブールでは、オスマン皇帝のガレー船へ入れられた奴隷が非常に長期間拘束され、平均で19年ほど働いたとされる例まであります。何年も船を離れられない人がいるなら、エレナさんの両親も、今なお生きて働かされている可能性があります。どろちゃんたちは、つい先日までイスタンブールにいました。調べる先には、遠い北アフリカだけでなく、オスマン帝国自身の港、収容施設、ガレー船関係の記録まで入ります。


 アナスタシアさんについては、家庭内の労役や工房などへ売られ、表から見えにくい場所へ移された可能性もあります。だから同じ襲撃で連れ去られた人を一人でも見つけ、最初にどの港へ運ばれ、どこで売られ、そのあと誰がどこへ移したかを逆向きにたどる方が確実です。


 大きな町には商館や港があり、VOGの職員も出入りします。グレートブリテン、フランス、ネーデルラント、イタリアの4か国の人が混じっている可能性も高くなります。四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約があるため、そうした場所を襲う側には船ごと南極へ転移する危険があります。


 海賊側から見ると、残りやすい標的は国際交易から外れた小さな沿岸集落です。そこには商船の積荷のような大きな財宝が少なく、人間そのものを連れ去って売る方へ利益が偏ります。エレナさんの両親が一度目の襲撃で連れ去られ、その後の別の襲撃でアナスタシアさんまで連れ去られたことも、この残り方ならつながります。


 どろちゃんはアナスタシアの名前の横へ、連れ去られた時期、当時の年齢、家族、同時に連れ去られた人、襲撃した船の特徴、使っていた言葉、海へ出た方向、と書き足しました。その下には、ミティリニ、イスタンブール、アルジェ、チュニス、トリポリ。さらに、奴隷市場、バグニオ、身代金交渉、売買記録、ガレー船の名簿、と並べます。


 最初にエレナさんから分かることを全部聞き、オスマン帝国側の記録と周辺港の記録を当たる。同じ襲撃で連れ去られた人を探し、その人たちが最初に運ばれた港を突き止める。そこから売却先を一本ずつ追う。両親の事件とアナスタシアさんの事件が別なら、二つの経路を並行して調べます。


「広いなあ……」


 紙の上だけでも、レスボス島から地中海の各地へ線が伸びています。人をさらった海賊船を今から見つけることより、売られた人間が通った市場と記録を逆向きにたどる仕事の方が大きくなりそうでした。


 そのとき、扉がノックされました。


「お嬢様」


「どうぞ」


 入ってきたフランソワさんは、一度後ろを振り返りました。


「木箱が届いております」


 どろちゃんの手が止まりました。


「木箱?」


「はい。久しぶりです。それほど大きくはありませんが、かなり重いですね」


「紙かな」


「持った感じでは、そのように思います」


 海賊の記録を考えていた頭から、神様から届く木箱の記憶が出てきました。二人で部屋を出ます。



          ◇ ◇ ◇



 木箱は領主館の広い机へ載せられていました。蓋を開けると、機械も薬品もなく、厚い書類の束が入っています。


 どろちゃんは一番上を取り、表紙を見ました。


「これ……前のに似てる」


「私掠船の運航停止のときの書類ですか」


「うん。あのときの神様との契約書」


 紙の作り方も署名欄の置き方もよく似ています。箱の中の同じ書類を数えると、現在の国際連合加盟国20か国の分と、神様の分が1部。全部で21部ありました。


「今回は4か国じゃないね」


「国際連合の加盟国すべてですね」


 どろちゃんは本文を読み始めました。題名の下には、最低賃金と労働についての規定が短い文章で並んでいます。


 最低賃金は、精算する時点からさかのぼった直近1年間について、その国で正規兵としての基礎訓練を終えた一年目の普通の下級兵士へ、平時の通常勤務を続けることで本人に直接支払われた基礎給与の平均値を基準とする。通常勤務に対して一年目の下級兵士全員へ固定的に支払われる金は、名目だけを「手当」に変えても基礎給与として扱う。食事、宿舎、制服、武器、弾薬、募集費、訓練費、輸送費は基準に含めない。戦地手当、危険手当、遠隔地手当、航海手当など、特別な勤務に対する手当も基準に含めない。


 一定期間の賃金を前渡しする労働契約は、その契約期間に相当する最低賃金総額を、労働者本人へ前渡ししたときに成立する。


 賃金は、労働者本人へ、その国の通貨で支払う。親、主人、所有者、仲介人、債権者など、労働者本人以外へ支払った金は、その労働者本人への賃金として扱わない。


 個別の労働者について、過去の労働に対する賃金が本人へ支払われていない場合は、その期間について、精算する時点の最低賃金基準を用いて精算する。本人へ支払われていた額が最低賃金に満たない場合は、その不足分を同じ基準で精算する。従前の労働契約は無効となる。本人が望む場合は、本来居住していた場所へ、使用者側の費用と責任によって帰還させる。


 最後には定義があります。労働者とは労役を行う者。使用者とは、その労役によって利益を得る者。


 どろちゃんは最後まで読み、最初へ戻りました。


「奴隷って、一回も書いてない」


「はい」


「でも、働かせたら労働者になる」


「その労役によって利益を得ている方が、使用者になります」


「『買った人だから雇った人じゃない』も通らないね」


「賃金を本人以外へ支払うことも禁じられております」


 どろちゃんはアナスタシアさんのことを考えました。海賊や仲買人へ渡した購入代金は、アナスタシアさん本人への賃金になりません。その後、別の人へ転売されても同じです。契約書が見ているのは、働いた本人へ、その国の通貨で賃金が渡っているかどうかでした。


「見つけても、買い戻さなくていいんだ」


 フランソワさんが、もう一度文面を確認します。


「この契約が成立して、その対象となるのでしたら、そうなりますね」


「うん」


 どろちゃんは次に罰則の条項を探しました。違反者へ罰金を科すとも、牢へ入れるとも、神様が何かをするとも書かれていません。


「やっぱり、書いてない」


「何のことでしょうか」


「守らなかったときの罰」


 フランソワさんも最後のページまでめくりました。


「見当たりませんね」


「前と一緒だ」


 四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約にも、違反した場合に何が起こるかは書かれていませんでした。それでも、その後に起きた神様現象は各国が知っています。


 どろちゃんは契約書を閉じかけて、表紙の下にある日付へ目を止めました。


「フランソワさん。日付、もう入ってる」


 締約日は3日後です。二人でしばらく、その日付を見ました。


「これ、急いで集めないと」


「国際連合の皆様ですね」


「うん。臨時説明会」


 どろちゃんは契約書を抱えました。



          ◇ ◇ ◇



 国際連合の大会議室へ、常駐代表と外交担当者が集められました。今回は現在の加盟国すべてを呼びます。


 席札には、エルレンフェルト、グレートブリテン王国、フランス、ネーデルラント連邦共和国、イタリア王国、ドイツ連邦共和国、オーストリア、デンマーク、ポルトガル、スペイン、ロシア共和国、スイス、サンマリノ、アンドラ、ベトナム社会主義共和国、アユタヤ王国、ブータン、琉球王国、清国、オスマン帝国の20か国が並びました。


 第一回の大きな会議から加わっている国々に、1708年のうちに琉球王国が加わり、その後、清国とオスマン帝国も正式加盟しています。


 四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約について、会議棟で撮られた写真や記録を通して知っている国は多くあります。署名の場面を写真の中でしか見たことのない国もあります。実際に神様との契約へ署名した経験を持つのは、グレートブリテン、フランス、ネーデルラント、イタリアの4か国です。


 エルレンフェルトでさえ、四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約ではオブザーバーでした。開催地として会議を支え、起きたことも見ていますが、締約国として与えられた絶対的な保護には入っていません。後から追加で締約国になる道もありませんでした。


 その経験がある4か国の代表は、机へ置かれた契約書を見た段階で表情が変わりました。


「同じ形式ですな」


 フランス席にいた、いつもの人――トルシー侯が言いました。


「似ています。今回は国際連合の現在の加盟国分と、神様の分が届きました。締約日は3日後です。もう書いてあります」


 何人かが一斉に日付を確認しました。


「3日後ですか。その後に参加することはできますか」


 その契約に加わっていない国の代表から質問が出ます。


「できません。神様とのこの種類の契約は、あとから加入できません。今回も3日後の締約日に署名しなかった国は、この契約の外に残ります。四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約でも、エルレンフェルトは今までずっとオブザーバーのままです」


 大会議室が少し静かになりました。通常の多国間条約なら後日批准や追加加入の手続を作れますが、神様との契約は締約時に参加した国だけで閉じます。今回も、箱の中にあるのは現在の加盟国の分と神様の分だけです。


「元首陛下や政府へ確認が必要な国は、この3日の間にお願いいたします。電話が使えるところは電話で、電信の国は電信で連絡できます。では、内容を説明します」


 どろちゃんは契約書を開きました。



          ◇ ◇ ◇



「最初に、最低賃金です。精算する時点からさかのぼった直近1年間で、その国で正規兵としての基礎訓練を終えた一年目の普通の下級兵士に、平時の通常勤務で本人へ直接支払われた基礎給与の平均を使います」


 通常勤務に対して一年目の下級兵士全員へ固定的に支払われる金は、名目だけを「手当」に変えても基礎給与として扱われます。食事、宿舎、制服、武器、弾薬、募集費、訓練費、輸送費は入りません。戦地手当、危険手当、遠隔地手当、航海手当のような特別な勤務への手当も入りません。


「次が賃金の前渡しです。何年か先まで働いてもらう契約なら、その期間分の最低賃金総額を本人へ前渡しして、初めて前渡し契約として成立します」


 親、主人、所有者、仲介人、債権者へ金を渡した場合も、人を売った者へ購入代金を払った場合も、労働者本人への賃金にはなりません。


「賃金は、本人へ、その国の通貨で支払います。本人以外へ支払った金は本人への賃金として扱われません。過去の労働について本人へ支払われていなかった分は、精算する時点の最低賃金基準で精算します。最低賃金に満たない額しか支払われていなければ、その不足分も精算します。従前の労働契約は無効になります。本人が望めば、本来住んでいた場所まで、使用者側の費用と責任で帰還させます」


 ここで手が上がりました。


「使用者とは、契約書へ署名した雇い主でしょうか」


「定義があります。労働者は労役を行う者。使用者は、その労役によって利益を得る者です」


 質問した人の顔が変わります。


「所有している奴隷を働かせている者も?」


「文面どおりなら、その人の労役で利益を得ている人が使用者になります」


「購入時に代金を払っていても?」


「購入代金を本人へ賃金として払っていなければ、本人への賃金にはなりません」


「過去の分もですか」


「はい。過去の未払い期間にも、精算する時点の最低賃金基準を使うと書いてあります」


 何人かが椅子へ深く座り直しました。大きな農園、鉱山、工房、家内労働など、それぞれの国に思い当たる制度があります。今この瞬間の帳簿だけを見れば、大きな負担に見えます。


「これを実施したら、使用者側の費用はかなり増えます」


 会場から声が出ると、トルシー侯が答えました。


「そうでしょうな。ただし、支払われた金は別の場所へ動きます。これまでほとんど貨幣を持たなかった者が、本人名義の賃金を受け取ります。その国の通貨で、食料を買い、布を買い、靴を買い、家具や道具を買うでしょう。買い手が増えます」


「それでも、雇う側は高くなる」


「はい。人を大勢、安く使うほど有利だった仕事は変わります。ちょうど、その変化が始まっております」


 鉄道、工作機械、水力や蒸気を使う工場、電信、化学工業が広がり始めています。人数だけを集めれば動く仕事から、機械を扱い、修理し、測定し、図面を読み、品質を揃える仕事へ産業が変わります。


「これから必要になるのは、熟練した労働者です。旋盤を扱える者、機械を修理できる者、図面を読める者、計測のできる者。そういう者を育てて長く働いてもらう国の方が、いずれ多く作れます」


 別の代表が聞きました。


「しかし、賃金を上げれば製品価格も上がるのでは」


「上がるものもあるでしょう。同時に、その製品を買える人も増えます。商品を大量に作れるようになっても、買える者が少なければ商売は広がりません。この契約は使用者の支出を増やしながら、各国の中に購買層も増やします」


 どろちゃんも頷きました。


「大きなプランテーションとか、大きな工場がいっぱいできたあとだと、もっと難しくなると思います」


「その通りでございますな。低い賃金を前提に巨大な農園や工場へ資本を投じたあとでは、それを変えるだけで多数の利害が衝突します。今なら、これから作る産業を最初からこの条件へ合わせられます」


「だから3日なのかな」


 どろちゃんが契約書の日付を見ました。理由の説明は付いていませんが、この時期を逃せば締結がずっと難しくなることは、会場にいる人たちにも分かります。



          ◇ ◇ ◇



 説明が一段落したところで、トルシー侯がどろちゃんへ顔を向けました。


「お嬢様。今回は、守らなかった場合にはどうなると思われますか」


 会場が静かになりました。


 どろちゃんは契約書を見ます。


「分かりません。罰則は書いてないです。四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約にも、罰則は書いてなかったです」


 4か国側の席では、その意味を知っています。


「でも、神様が国と契約するなら、国が払うことになる気がします。未払いの賃金があったら、その分を国庫から取るとか」


「国が、でございますか」


「国庫で足りなかったら、ほかの財産から取るかもしれません。その労働者本人の財産は残して、関係ない人の財産からも」


 会場のあちこちで、小さな声が出ました。


「関係のない者からも?」


「国が神様と契約して、その国が守らなかった、と神様が考えたら、ありそうです。それでも足りなかったら、王族とか、実際に働かせていた使用者が、このあと受け取る収入からも、足りるまで抜かれ続けるとか」


 ここから先は、どろちゃんの予想です。契約書には処理方法が書かれていません。それでも誰も笑いませんでした。


 神様現象には前例があります。バベルのときには、各国が飛ばした航空機はたった2機ずつでした。その結果、国全体から言語が失われ、帝国や王国そのものが消えています。四か国が神様と交わした、私掠船の運航停止と海賊行為を禁止する契約でも、違反時の処理は罰則として列挙されていませんでした。フランス国籍の私掠船が宮廷へ送り返されたこともあります。


 トルシー侯が、さらに聞きました。


「現在、外国へ連れ去られ、そこで働かされている締約国の国民については?」


 どろちゃんは、さっきまで机で考えていたアナスタシアさんを思い出しました。


「神様が直接処理するなら、王宮へ帰すかもしれません」


「王宮へ?」


「国中の元の村や町へ一人ずつ突然返したら、誰が何人帰ってきたのか分からなくなります。家がなくなってる人も、家族が移ってる人もいるし、何年も前に連れ去られた人もいます。中央でいったん受け取れば、名前と出身地を確認して、家族を探して、そこから故郷へ送れます」


 以前、フランス国籍の私掠船が宮廷へ送り返された前例もあります。


「前の私掠船みたいに、国の王宮へまとめて返す方が処理しやすいと思います」


 フランス席の何人かが、ヴェルサイユを想像したようでした。


「人数は、どれほどになるでしょうな」


「分かりません。地中海の人さらいは多いから、フランスだけでも何千人になるかもしれません」


「その者たちは、何も持たずに帰されるのでしょうか」


「たぶん、働いた分の賃金を、その国の通貨で持ってると思います。本人へ賃金を払うって、ここに書いてあるから。神様が処理するなら、未払いのまま帰すより、働いた分を本人に持たせると思います」


 何年も無給で働かされていた人なら、短期間の生活費だけでは済まない額になります。それだけの人が王宮へ一度に現れれば、食事、宿泊、身元確認、故郷への移動で大仕事になりますが、帰還者自身が労働分の賃金を持っていれば、全員が無一文で保護を求める状況とは大きく違います。


 会場の代表たちは、それぞれ自国の王宮や政府庁舎を思い浮かべているようでした。


「全部、私の予想です。神様がどうするかは、契約書には書いてありません」


 どろちゃんがそう付け加えると、トルシー侯は契約書を閉じました。


「十分でございます。私も陛下にお伺いを立てますので」


「あ、はい」


 いつもの人は、そのまま会議室からいなくなりました。さっきまで購買層と熟練労働者の話をしていた人が、自分の国の判断になると一番早く動きます。


 それを見て、ほかの代表たちも次々に立ち上がりました。本国へ電報を送る人、電話を使う人、契約書の全文を送ろうとする人、元首本人へ確認を取りたい人が一斉に動き始めます。


 締約日は3日後です。どろちゃんは通信担当の人を呼びました。


「この3日間、この契約についての各国と本国の通信を最優先にしてください。普通の商業通信や急がないものは、少し待ってもらって。電話も電信もです。遠い国から返事が来る方を先にお願いします」


「承知いたしました。すぐ通信室へ伝えます」


 大会議室から、人が次々に通信室や各国の事務室へ散っていきました。机の上には、神様から届いた21部の契約書が残っています。


 最低賃金、本人への支払い、過去の未払い、労働契約の無効、本人が望んだ場合の元の居住地への帰還。そして、3日後の日付。


 ついさっきまで、どろちゃんは一人のアナスタシアさんをどう探すかで悩んでいました。今は、世界中で同じように連れ去られ、売られ、働かされている人たちまで、この紙の向こう側にいます。


 署名の日まで、あと3日です。


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