166貴族令嬢は、フランソワさんに小鳥さんを任せます。 フランソワさん 音速突破 成層圏も突破
第166章 貴族令嬢は、フランソワさんに小鳥さんを任せます
◇ ◇ ◇
エレソスからエルレンフェルトへ帰って、数日がたちました。
旧飛行場の格納庫に、小鳥さんがいます。
細い胴体と、後ろへ大きくたためる翼。単座の操縦席。その周りを、どろちゃんとフランソワさん、それに整備士さんたちが囲んでいました。
今日はフランソワさんが乗り、どろちゃんは地上に残ります。
フランソワさんにとって、初めての小鳥さんです。
「ほんとに乗る日が来たね」
「はい。少し緊張しております」
「それは私も最初は同じだったよ」
フランソワさんは、自分で飛行機を操縦するところまで進んでいます。
飛行訓練を始めたのは、ずっと前のコウノトリちゃんでした。最初はどろちゃんが横にいる状態で、巡航中に操縦を預かり、まっすぐ飛ぶこと、高さを保つこと、旋回、速度の調整、スロットル、ラダー、トリム、フラップ、進入、着陸まで、少しずつ覚えてきました。その後はコウノトリちゃんで単独飛行も行い、離陸して、巡航して、降りるところまで、自分で判断して操縦できます。
水玉An-2で訓練を進めているのは、ムリヤちゃんのFEさんたちです。
それでも、小鳥さんは別の飛行機です。
ロケットで加速し、音より速く飛び、空気の薄い高いところまで上がります。
どろちゃんとフランソワさんは、今回の飛行でどこまで行くかを、もう決めていました。
「音速を越える」
「はい」
「それから、成層圏を上まで抜ける」
「そこまで行きます」
「帰りは無理しない。上で少し無重量を体験したら、早めに翼を使って減速して帰ってくる」
「分かりました」
今日の目的は、フランソワさんが小鳥さんを自分で操縦し、音速を越え、成層圏を抜け、そのまま安全に戻ってくることです。
◇ ◇ ◇
今日使うロケットユニットは、ピラジョーク君です。
ピロシキなどを揚げたあと、食用には使わなくなったヒマワリ油を燃料側の原料に利用した、小鳥さん用の固体ロケットです。
4本を並べます。
1本の質量は約250キログラム。そのうち推進剤が約220キログラムで、燃焼室やノズルなどが約30キログラムです。
1本の推力は約20キロニュートン。
燃焼時間は約30秒。
小鳥さんは、操縦者、与圧装置、引込み脚などを含め、ロケットユニットを付けない飛行準備質量を約900キログラムとして計算します。
そこへ250キログラムのピラジョーク君を4本載せるので、
900キログラム+250キログラム×4本。
発進時質量は約1900キログラムです。
「最初がいちばん重いね」
「4本とも推進剤が入っていますから」
「だから最初だけ2本」
整備士さんも計算表を見ます。
最初の30秒は、2本を同時に燃やします。推力は合わせて約40キロニュートンです。
2本の推進剤、合わせて約440キログラムを使い切れば、機体は一気に軽くなります。
空になったケースは捨てません。
4本とも最後まで小鳥さんに付けたまま帰ってきます。
最初の2本が燃え終わったときの質量は、およそ1460キログラム。
そこから3本目を1本だけ30秒使い、さらに約220キログラム軽くなって、およそ1240キログラム。
最後に4本目を1本使い、全ての推進剤を使い終えたときは、およそ1020キログラムです。
「重いうちは40キロニュートン。軽くなったら20キロニュートンを1本ずつ」
「2本、1本、1本ですね」
「うん。2本、1本、1本」
フランソワさんも、もう一度順番を確認しました。
◇ ◇ ◇
飛行計算も机の上にあります。
小鳥さんは上昇中、翼を高速側へ大きく後退させます。
翼を最大後退させたときの計算用の抗力係数は0.25。機体正面形状を含めた等価基準面積は0.50平方メートルとしてあります。
したがって計算上の CdA は0.125平方メートルです。
空気抵抗は、
Fd=1/2×ρ×Cd×A×v²
で計算します。
空気密度ρは高度ごとの標準大気を使い、重力加速度も高度による変化を入れます。推進剤を燃やしている間は、機体質量も時間とともに減っていきます。
今回は上昇角をおよそ60度に保つ計画です。
進行方向については、推力から空気抵抗と重力の進行方向成分を引き、
dv/dt=T/m-Fd/m-g(h)sin60°
高度方向は、
dh/dt=v sin60°
として追ってあります。
計算結果の紙を、どろちゃんが指でたどります。
「発進から24秒ちょっと。高度、だいたい3.4キロメートル」
「そこでマッハ1ですね」
「うん。計算では約24秒で音速を越える」
最初の2本が燃え終わる30秒後。
高度は約5.2キロメートル。
対気速度は約秒速406メートル。
時速に直せば約1460キロメートル。
その高度で、およそマッハ1.27です。
そこから3本目を1本だけ燃やします。
発進から約46秒で、高度約11キロメートル。
対流圏界面付近を越え、成層圏へ入ります。
3本目を使い終わる60秒後には、高度約16.6キロメートル。
対気速度は約秒速498メートル。
最後の4本目は、さらに軽くなった小鳥さんを押します。
90秒後。
4本目の燃焼終了時には、高度約32キロメートル。
対気速度は約秒速746メートル。
時速にすると約2685キロメートル。
その高度では、およそマッハ2.45です。
「ここからは、もうロケットを使わない」
「翼も、すぐには広げません」
「うん。なるべく空気抵抗を増やさず、そのまま上がってもらう」
燃焼終了時点でも、上向きの速度は大きく残っています。
そこからは小鳥さんとフランソワさんが、一緒に地球へ落ちながら上へ進みます。
「上へ行ってるのに、落ちてるんですね」
「そう。ロケットが終わったあとは自由落下。上向きの速度が残ってるから、しばらく高度が増えるだけ」
「最高点で無重量になるのではなく、燃焼が終わって自由落下に入ったところから、ということですね」
「そういうこと」
ただし、高度32キロメートルには、まだ薄い空気が残っています。
上がるほど空気抵抗による加速度は小さくなります。
高度40キロメートル付近では、抗力による加速度はおよそ0.01G。
高度50キロメートル付近では、およそ0.001G。
そこまで行けば、身体が座席へ押し付けられる感覚はほとんどなくなります。
「この辺から、ほんとに浮く感じになると思う」
「物を離して試してもよろしいですか」
「小さい物はやめよう。帰ってこなくなると困るから」
「では、腕で確かめます」
「それが安全」
二人とも少し笑いました。
計算では、4本目が燃え終わってから約66秒後。
発進から約156秒で、最高高度は約54キロメートルになります。
成層圏の上端はおよそ50キロメートルです。
今回の小鳥さんはそこを越え、ほんの少し中間圏へ入ります。
上昇中に高度50キロメートルへ達するころの速度は約秒速460メートル、マッハ1.4ほど。
それでも空気密度がとても小さいため、動圧は約0.10キロパスカルしかありません。
「速さだけ見たら、まだすごく速いんだけどね」
「空気がほとんどありません」
「だから速度だけで翼の負荷を考えたらだめ。動圧を見る」
「はい」
最高点を越えたあとも、少しだけ翼をたたんだままにします。
そして降下して再び高度50キロメートル付近へ来たところで、速度は約秒速460メートル、マッハ1.4前後。
動圧は約0.11キロパスカルです。
そのあたりから、翼を早めに動かし始めます。
いきなり低速用の位置まで全部広げるのではなく、空気の薄いうちから少しずつ前へ出し、動圧が増えるのに合わせて減速へ移ります。
4本目の燃焼終了から、降下側の50キロメートル付近で翼を動かし始めるまで、およそ95秒。
1分半あまりの弾道飛行になります。
「1分半」
「長いですか」
「乗ったら、たぶん長く感じると思う」
「楽しみです」
フランソワさんは、計算表をもう一度見ました。
◇ ◇ ◇
整備士さんたちと、機体の準備を始めます。
ピラジョーク君を1本ずつ、小鳥さんの取付部へ収めます。
一番から四番まで順に収め、固定部、点火回路、配線、ノズルまわりを確認します。
一人が確認したところを、もう一人が見ます。
「1番、固定よし」
「2番、固定よし」
「3番、固定よし」
「4番、固定よし」
「1番、2番、同時点火回路よし」
「3番、4番、個別点火よし」
どろちゃんも記録表と照らしました。
今日の最初の加速では、1番と2番を同時に点火します。
30秒後に三番。
さらに30秒後に四番。
燃え終わったケースを空中で切り離す操作はありません。
帰還後に地上で外し、ケース、ノズル、取付部を点検します。
状態がよければ、また新しい推進剤を詰めて使います。
小鳥さんを載せた台車を、格納庫から発射設備へ動かしました。
台車用の線路を進み、発射スレッドのところで止めます。
門型の設備で小鳥さんを持ち上げ、スレッドへ載せます。
発射スレッドの役目は、ロケットに点火した直後の小鳥さんを、決めた向きと姿勢のまままっすぐ案内することです。
加速する力は、最初から小鳥さんへ取り付けたピラジョーク君が出します。
固定が終わりました。
フランソワさんが、小鳥さんの操縦席を見ます。
「一人ですね」
「単座だからね」
「今まで、お嬢様がここへ座っているところを外から見ていました」
「今日は私が外から見る番」
フランソワさんが少し笑いました。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは機首のそばへ行きました。
長く一緒に飛んできた小鳥さんは、今ではどろちゃんへ自分の声を返し、操縦の状態も自分で見ています。
「小鳥さん」
『はい、どろちゃん。』
「今日はフランソワさんが乗るよ」
『分かっています。』
「お願いがあるの」
『何でしょう。』
「フランソワさんを手伝ってあげて。操縦はフランソワさんにしてもらうけど、危ない方へ大きく入れたときとか、姿勢を崩しそうなときはフォローして」
『はい。お手伝いします。』
「ありがとう」
この会話を聞けるのは、どろちゃんだけです。
フランソワさんには、小鳥さんの声は聞こえません。
機体側は操縦状態を見て、安全限界へ近づけば操作を補うことができます。フランソワさんは自分で操縦し、必要なところだけ小鳥さんが支えます。
「小鳥さん、何と?」
「手伝ってくれるって」
「それなら安心です」
「でも、操縦するのはフランソワさんだからね」
「はい。そこは自分で行います」
どろちゃんは頷きました。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってまいります、お嬢様」
◇ ◇ ◇
フランソワさんが操縦席へ入りました。
身体を固定します。
ハッチを閉じます。
電源、計器、与圧、酸素、無線、姿勢表示、操舵系、翼位置を確認し、続いてロケット1番と2番の同時点火回路、三番、四番をひとつずつ見ます。
地上側の整備士さんからも確認が入りました。
「発射スレッド、準備よろしいです」
「こちらも準備できております」
フランソワさんの声が、無線から聞こえました。
どろちゃんは少し離れたところから小鳥さんを見ます。
「最初は2本。1分半くらい上で遊んだら、早めに帰ってきてね」
「はい」
「60度くらい。速度を落としすぎないように」
「分かりました」
フランソワさんが1番と2番へ選択器を合わせます。
「1番、2番、同時点火します」
点火。
2本のピラジョーク君が、同時に推力を出しました。
◇ ◇ ◇
約40キロニュートン。
発進時質量約1900キログラムの小鳥さんを、最初の2本が一緒に押します。
フランソワさんの背中が、座席へ強く押されました。
「……強い」
声は出せます。
けれど、コウノトリちゃんやAn-2の離陸とは、身体に来るものがまるで違いました。
滑走路脇の景色が一気に後ろへ流れます。
発射スレッドが小鳥さんをまっすぐ案内し、その終端から機体が空へ出ました。
フランソワさんは機首を上げ、上昇角をおよそ60度へ持っていきます。
小鳥さんが、操作をそのまま受け取ります。
上げすぎるところだけ、ほんの少し柔らかく止まりました。
フランソワさんには声は聞こえません。
ただ、操縦桿の先にいる機体が、自分の操作を分かっているような感触があります。
「60度……これで」
地面が急速に遠ざかります。
ロケットの音と振動が後ろから続きます。
空が広くなりました。
発進から20秒。
高度は3キロメートルへ近づきます。
対気速度計の数字が上がり続けました。
24秒を少し越えたところ。
高度、約3.4キロメートル。
対気速度、秒速約327メートル。
マッハ表示が、1.0を越えました。
「音速……」
マッハ表示が一を越えても、機体の感触はそのまま連続しています。
ロケットの音も続いています。
計器だけが、今まで自分が操縦した飛行機では見たことのない数字を示しました。
「越えました」
地上にも、その声が届きます。
「見えてるよ」
どろちゃんの返事が無線から来ました。
30秒。
最初の2本が燃え終わります。
高度、約5.2キロメートル。
対気速度、約秒速406メートル。
時速約1460キロメートル。
マッハ1.27。
2本分の推進剤を使い、質量は発進時の約1900キログラムから、およそ1460キログラムまで減っています。
背中を押していた力が、一度消えました。
フランソワさんは、すぐに次を見ます。
「3番、点火」
3本目が燃え始めました。
今度は1本、約20キロニュートンです。
それでも小鳥さんは、もう最初より440キログラムほど軽くなっています。
上昇角を保ちます。
高度8キロメートル。
9キロメートル。
10キロメートル。
地上の細かなものは、もうほとんど見分けられません。
発進から約46秒。
高度約11キロメートル。
成層圏へ入りました。
「11キロメートル」
「そのままで大丈夫」
どろちゃんの声が来ます。
フランソワさんは返事をして、計器へ視線を戻しました。
空の青が濃くなっていきます。
60秒。
3本目の燃焼が終わりました。
高度、約16.6キロメートル。
対気速度、約秒速498メートル。
質量は、およそ1240キログラム。
フランソワさんは最後の選択器へ手を伸ばします。
「4番、点火」
4本目。
最後の約20キロニュートンが、小鳥さんをさらに高いところへ押し上げます。
◇ ◇ ◇
20キロメートルを越えました。
空は、もう地上で見る青とは違います。
上の方が暗い。
青が濃くなったというより、黒へ近づいています。
ロケットはまだ燃えています。
フランソワさんは高度と対気速度を交互に見ました。
25キロメートル。
30キロメートル。
空気が薄くなるにつれて、機体から伝わってくる空力の音や振動は小さくなっていきます。
速度は逆に上がっています。
90秒。
4本目が燃え終わりました。
高度、約32キロメートル。
対気速度、約秒速746メートル。
時速約2685キロメートル。
マッハ2.45前後。
4本すべての推進剤を使い切り、質量は約1020キログラムまで減りました。
急に、後ろから押す力が消えます。
ロケットの音もなくなりました。
「4番、燃焼終了」
「確認したよ」
どろちゃんの声は聞こえます。
小鳥さんの声は聞こえません。
フランソワさんは予定どおり、翼を高速側へたたんだままにしました。
ここからは、なるべく空気抵抗を増やしません。
小鳥さんはまだ上へ進んでいます。
けれど、もう自分で上へ押している力はありません。
機体もフランソワさんも、同じ重力を受けながら自由落下へ入っています。
上向きの速度が残っているので、その自由落下の軌道が、まだ高度を増やしているのです。
フランソワさんは、座席へ押し付けられていた身体が急に軽くなったのを感じました。
「これが……」
腕へかかっていた重さが変わります。
操縦桿を握る手から、余計な力を抜きます。
ベルトが身体の位置を決めていました。
高度が上がるほど、空気抵抗も小さくなります。
40キロメートル。
このあたりでは、計算上、空気抵抗による加速度は約0.01Gです。
空気から受ける力が、地上で身体に感じる重さの100分の一ほどまで小さくなっています。
フランソワさんは片腕を少しだけ浮かせました。
腕が落ちません。
「ほんとうに、浮きますね」
「浮いた?」
「はい。腕が、そこにいます」
「物は離さないでね」
「離しません」
思わず笑いました。
空は、さらに黒くなっています。
下を見ると、明るい大気の層が地平線の近くに残っています。
自分の周りは暗いのに、地球の縁だけが青く光って見えました。
町や道は、細かな模様に近い大きさまで遠ざかっています。
50キロメートル。
上昇中の速度は、約秒速460メートル。
マッハ1.4ほどです。
それだけの速度が残っていても、動圧は約0.10キロパスカル。
空気抵抗による加速度は、およそ0.001Gまで小さくなっています。
「空が……黒いです」
無線の向こうで、どろちゃんが少し黙りました。
「見えたね」
「はい。黒いです。でも、下の方は青いです」
「私も最初にそこへ行ったとき、ずっと見てた」
フランソワさんは、ほんの少しだけ窓の外を見ました。
計器へ戻ります。
51キロメートル。
52。
53。
成層圏の上端を越えています。
ほんの少しですが、中間圏へ入りました。
上昇速度は小さくなっていきます。
身体はまだ軽いままです。
ロケットが切れてから、重さが戻ってきません。
フランソワさんは、さっきの言葉を思い出します。
無重量感は、ロケットが切れてから機体も自分も一緒に自由落下していることで生まれています。座席が身体を支える力が、ほとんど要らなくなっているのです。
高度計の動きが、だんだんゆっくりになりました。
発進から約156秒。
高度、約54キロメートル。
上昇が止まりました。
「いちばん上です」
「54くらい?」
「はい。約54キロメートルです」
「計算どおりだね」
その瞬間も、身体は浮いたままでした。
上昇速度がゼロになった瞬間にも自由落下は続いています。小鳥さんごと地球へ落ち続けています。
少しして、高度計が反対へ動き始めました。
◇ ◇ ◇
53キロメートル。
52。
小鳥さんは降下へ入ります。
翼はまだ高速側です。
フランソワさんは急いで操縦桿を大きく動かしません。
この高さでは空気が薄く、舵を動かしても地上付近のような反応は出ません。
小鳥さんが、わずかな操作を受け取ります。
少し大きく入りそうになったところで、また操縦桿の感触が柔らかくなりました。
「手伝ってくれてるのかな」
返事は聞こえません。
それでもフランソワさんには、機体が一緒に飛んでいる感じがありました。
再び、高度50キロメートル。
対気速度、約秒速460メートル。
マッハ1.4前後。
動圧、約0.11キロパスカル。
4本目の燃焼が終わってから、約95秒たっています。
1分半あまり、ロケットの推力を使わない弾道飛行を続けました。
「翼、始めます」
「うん。早めにゆっくり」
フランソワさんが翼の操作を始めます。
後ろへ大きくたたんでいた翼が、少しずつ前へ動きます。
まだ空気はとても薄いので、速度の数字ほど大きな力はかかりません。
動圧を見ながら、段階的に広げます。
ここから下へ行けば行くほど、空気は濃くなります。
同じ速度のままなら動圧は急速に大きくなります。
だから、空気が薄いうちから翼を使い始め、速度を落としながら降ります。
黒かった空に、少しずつ青が戻ってきます。
同時に、機体の外を流れる空気の音も戻ってきました。
さっきまでほとんど感じなかった空気が、翼と胴体へ力を返し始めます。
身体にも重さが戻りました。
フランソワさんは、座席へ自分の身体が再び落ち着いていく感覚をはっきり感じました。
「戻ってきました」
「重さ?」
「はい。それと、空気も」
「そこからは、いつもの小鳥さんみたいに帰ってきて」
「分かりました」
翼を少しずつ前へ。
速度を落とします。
超音速域を抜け、さらに減速します。
マッハ0.8付近まで落ちたところで、翼を通常の滑空に使う広い位置へ持っていきます。
小鳥さんは、高速のロケット機からグライダーへ戻りました。
◇ ◇ ◇
ここからは、フランソワさんにも知っている飛び方です。
ロケットは4本とも燃え終わっています。
エンジンもありません。
残っている高度と速度を使い、旧飛行場へ戻ります。
降下は穏やかになりました。
地上の形が、少しずつ大きくなります。
川。
町。
線路。
飛行場。
さっきまで54キロメートルの高さから見ていた地面が、また自分の飛ぶ場所へ戻ってきます。
フランソワさんは進路を合わせました。
高度1000メートル。
対気速度、約200キロメートル毎時。
場周へ入ります。
脚を出します。
高度500メートルで約170キロメートル毎時。
300メートルで約155キロメートル毎時。
滑走路へ合わせます。
高度150メートル。
対気速度、約145キロメートル毎時。
100メートルで約百四十。
50メートルで約百三十。
30メートルで約百二十。
滑走路が風防いっぱいに近づきました。
10メートル。
約110キロメートル毎時。
失速速度のすぐ上を使います。
少しだけ機首を起こし、滑走路の上を伸びます。
主脚が地面へ触れました。
接地。
車輪が回ります。
翼の揚力が抜け、小鳥さんの重さが脚へ戻ってきます。
フランソワさんはまっすぐ走らせ、速度を落としました。
小鳥さんが止まります。
「帰りました」
無線に、フランソワさんの声が入りました。
「おかえり!」
どろちゃんの声がすぐ返ってきました。
◇ ◇ ◇
整備士さんたちが小鳥さんへ近づきます。
ハッチが開きました。
地上の空気が操縦席へ入ります。
フランソワさんはベルトを外し、ゆっくり立ち上がりました。
「どうだった?」
どろちゃんがすぐ近くまで来ています。
フランソワさんは一度、空を見上げました。
地上から見る空は、普通の青です。
「上は、本当に黒いのですね」
「黒かったでしょう」
「はい。途中までは青が濃くなっていくように見えていました。その先は、もう黒でした」
「下の縁だけ青いのも見えた?」
「見えました。あれは忘れないと思います」
少し間を置いて、フランソワさんが自分の腕を見ました。
「それから、身体が軽くなる感じも、不思議でした」
「腕、浮いた?」
「はい。手を少し離しても、下へ落ちませんでした。最高点へ着く前からずっと」
「そこ大事」
「はい。ロケットが終わって、小鳥さんと一緒に自由落下へ入ったところからですね」
「そのとおり」
フランソワさんは笑いました。
「お嬢様が何度も行きたくなる理由が、少し分かった気がします」
「また乗りたい?」
「もう一度は乗りたいです」
「一回じゃないんだ」
「今日、初めてでしたから」
「じゃあ、また飛ぼう」
「はい」
どろちゃんは機首の方を見ました。
「小鳥さん、ありがとう」
『どういたしまして。』
「フランソワさん、どうだった?」
『上手でした。大きく動かしそうになったところだけ、少しお手伝いしました。』
「やっぱり」
フランソワさんが、どろちゃんを見ます。
「何と?」
「上手だったって。少しだけ手伝ったって」
フランソワさんは小鳥さんの機首へ向き直りました。
「ありがとうございます。声は聞こえませんけれど、途中で分かりました」
『こちらこそ。』
「今は、こちらこそって言ってる」
「それも聞いてみたいですね」
「いつか聞こえるかな」
小鳥さんから返事がありました。
『それは、わたしにも分かりません。』
どろちゃんだけが聞いて、少し笑いました。
◇ ◇ ◇
飛行後の確認を始めます。
4本のピラジョーク君は、全部小鳥さんに付いたままです。
燃焼室。
ノズル。
取付部。
外板。
翼。
操舵面。
脚。
順番に見ていきます。
記録装置も回収しました。
発進時質量、約1900キログラム。
最初の2本を同時に約30秒燃焼。
約24秒、高度約3.4キロメートルでマッハ1を通過。
30秒、高度約5.2キロメートル、秒速約406メートル、マッハ約1.27。
3本目を1本で燃焼。
約46秒、高度約11キロメートルで成層圏へ進入。
60秒、高度約16.6キロメートル、秒速約498メートル。
4本目を1本で燃焼。
90秒、高度約32キロメートル、秒速約746メートル、時速約2685キロメートル、マッハ約2.45。
その後は翼を高速側へたたんだまま弾道上昇。
高度40キロメートル付近で、空気抵抗による加速度は約0.01G。
高度50キロメートル付近では約0.001G。
発進から約156秒、最高高度約54キロメートル。
成層圏上端のおよそ50キロメートルを越え、中間圏へ少し入っています。
降下側の高度50キロメートル付近で、秒速約460メートル、マッハ約1.4、動圧約0.11キロパスカル。
4本目の燃焼終了からそこまで約95秒。
1分半あまりの弾道飛行でした。
そこで翼の展開を始め、空気の薄いうちから少しずつ揚力と抗力を使います。
さらに降下して速度を落とし、マッハ0.8付近から通常の滑空に使う広い翼位置へ移り、旧飛行場へ帰還しました。
どろちゃんは記録を見て、フランソワさんを見ました。
「全部、予定どおり」
「帰ってこられました」
「それが一番大事」
フランソワさんも頷きます。
数日前まで、二人はエレソスの海辺で、夕方の海を見ながら何もしない時間を過ごしていました。
今日はその同じフランソワさんが、一人で小鳥さんへ乗り、音より速く飛び、青い空を抜け、黒い空を見て帰ってきました。
どろちゃんは小鳥さんの翼へ手を置きました。
「また一人、ここまで来たね」
『はい。』
格納庫へ戻る小鳥さんの横を、二人で歩きました。
*
第166章の小さな説明
【今回使ったピラジョーク君】
小鳥さんへ取り付ける固体ロケットユニットです。
1本約250キログラム。そのうち推進剤約220キログラム、燃焼室・ノズルなど約30キログラム。
1本あたりの推力は約20キロニュートン、燃焼時間は約30秒です。
燃料側の原料の一部には、ピロシキなどを揚げたあと食用には使わなくなったヒマワリ油を利用しています。
今回の搭載数は4本。
最初の2本を同時に燃焼し、その後は1本、1本の順に使います。
4本とも燃焼終了後に空中投棄せず、空ケースを付けたまま帰還します。
【質量の変化】
ロケットを除く飛行準備質量:約900キログラム。
発進時:
900+250×4=1900 kg
最初の2本で推進剤約440キログラムを使ったあと:
1900-440=1460 kg
3本目の推進剤約220キログラムを使ったあと:
1460-220=1240 kg
4本目の推進剤約220キログラムを使ったあと:
1240-220=1020 kg
空になった4本のケース約120キログラムは、最後まで機体に残っています。
【上昇計算】
上昇角は約60度。
翼を最大後退させた状態について、計算用の抗力係数 Cd=0.25、等価基準面積 A=0.50 m² としています。
したがって CdA=0.125 m²。
抗力は、
Fd=1/2 ρ Cd A v²
を使います。
ρは高度ごとの標準大気密度、重力加速度gは高度による変化を入れ、燃焼中は推進剤消費による質量減少も入れます。
進行方向の近似式は、
dv/dt=T/m-Fd/m-g(h)sin60°
高度方向は、
dh/dt=v sin60°
です。
この条件による概算値は次の通りです。
約24秒:
高度約3.4 km
マッハ1を通過
対気速度約327 m/s
30秒:
最初の2本が燃焼終了
高度約5.2 km
対気速度約406 m/s
約1460 km/h
マッハ約1.27
質量約1460 kg
約46秒:
高度約11 km
成層圏へ進入
60秒:
3本目が燃焼終了
高度約16.6 km
対気速度約498 m/s
質量約1240 kg
90秒:
4本目が燃焼終了
高度約32 km
対気速度約746 m/s
約2685 km/h
マッハ約2.45
質量約1020 kg
【燃焼終了後の弾道飛行】
4本目の燃焼終了後は、翼を高速側へたたんだまま、なるべく空気抵抗を増やさず弾道飛行します。
高度40 km付近では、空気抵抗による加速度は約0.01 G。
高度50 km付近では、約0.001 G。
機体と搭乗者がほぼ同じように重力で落ちているため、フランソワさんは明瞭な無重量感を体験できます。
最高点は、4本目の燃焼終了から約66秒後。
発進から約156秒で、最高高度約54 km。
成層圏上端のおよそ50 kmを越え、少し中間圏へ入ります。
【翼を早めに使う理由】
最高点を越えたあとも少し翼を後退させたまま降下し、再び高度50 km付近へ来たところで翼の展開を始めます。
このときの概算は、
対気速度:約460 m/s
マッハ数:約1.4
動圧:約0.11 kPa
です。
速度だけを見ると非常に速いままですが、高度50 kmでは空気密度が小さいため、動圧はまだ小さな値です。
空気が濃くなってから高速のまま翼を大きく動かすより、上空の低動圧のうちから少しずつ翼を前へ動かし、降下しながら速度を落としていきます。
4本目の燃焼終了から、この翼展開開始まで約95秒。
約1分半の弾道飛行です。
その後は動圧を見ながら翼を広げ、速度がマッハ0.8付近まで落ちたところから通常の滑空に使う広い翼位置へ移ります。
最後はロケットもエンジンも使わず、グライダーとして旧飛行場へ帰還します。




