163貴族令嬢は、ヒマラヤを見ながら西へ帰ります。 清とオスマントルコ編最終章
第163章 貴族令嬢は、ヒマラヤを見ながら西へ帰ります
北京を離れたムリヤちゃんは、西へ向かっています。
ただし、イスタンブールまでの最短航路そのものには乗っていません。
少し南へ外れます。
北京で燃料を多めに積んだ理由の一つが、これでした。
「今日は、まっすぐイスタンブールへ向かわないんだよね」
フランソワさんが地図を見ます。
「少し南へ回るのでございましたね」
「うん。ヒマラヤの南側へ行くの。お日様が当たってる時間だから、たぶんきれいだよ」
「北京で燃料を多めに入れたのは、そのためでしたか」
「そう。ちょっと遠回りするからね」
今日は時間短縮より、景色を楽しめる南回りの航路を選びました。安全の余裕は十分に残します。
ムリヤちゃんは進路を南西寄りへ取り、やがて巨大な山脈を南側から眺められる位置へ向かっていきました。
◇ ◇ ◇
白いものが、遠くに見え始めました。
最初は雲のようにも見えます。
でも、動きません。
「右の窓、見てください」
どろちゃんが客室へ知らせました。
「また右側ですか」
近くの人が笑いました。
「今度は朝日じゃないよ。山」
遠くに長い白い線があります。
「雲ですか」
「山」
「……あれが全部?」
「うん。ヒマラヤ」
近づくにつれて、一枚の白い帯だったものが峰と谷に分かれていきます。
でも、ムリヤちゃんは山へ寄っていきません。
高度は一万メートル。
その高度を保ち、山脈からも十分に距離を取ります。
「もう少し近くを飛べば、もっと大きく見えるのでは?」
客室から来た人が、操縦席の後ろで聞きました。
「近づかないよ」
「気流のためですか」
フランソワさんが言います。
「うん。あれだけ大きな山が並んでると、風も素直には流れないから。山の近くは上昇流も下降流も強くなるし、山岳波や乱流も出る。今日は一万メートルを保って、ちゃんと距離を取るの」
「見るために危ないところへ入ることはございませんね」
「そう。遠くからでも十分きれいでしょう」
雪をかぶった山々へ、南側から日が当たっています。
明るい斜面は白く光り、その裏側には青黒い影が入ります。
一つの峰だけでなく、白い山並みがどこまでも続いていることを遠くからまとめて眺められます。
階下の百二十席側でも、また窓を交代で使うことになりました。
今度は日の出より長く見えます。
マルガレーテさんたちも急がせません。
「こちらをご覧になった方は、次の方へお願いいたします」
「まだしばらく見えますので、慌てなくても大丈夫でございます」
人が入れ替わります。
右側の窓へ寄る。
見る。
次の人へ譲る。
また別の窓でも同じことをしています。
「きれいですね」
「これを見たかったの」
どろちゃんは右手遠方の山並みを見ました。
◇ ◇ ◇
「あの山の向こうに、ラサがあるね」
どろちゃんが言いました。
フランソワさんも窓の外を見ます。
「昨夜まで、あの向こうにいたのですね」
「うん。飛行機だと越えてしまうけど、インドの方から地上でラサへ行こうとしたら、あの山を越えていくんだよね」
「昨夜、待合室で見た地図の日数が、よく分かりますね」
「ほんと。道を一本描いたら着ける、っていう場所じゃないよ」
朝の日を受けた雪面が白く光っています。
峰から十分に離れたまま飛んでいても、その山の大きさが分かります。
「紅茶農園を買うとき、ムリヤちゃんで何度か越えたでしょう」
「はい。何度も往復いたしました」
「上からだと、山を越えて、雲を見て、また向こうへ降りればいいけど……地上からは大変だね」
「荷物もございますし、天候が悪くなれば、その場で待たなければなりませんね」
「峠まで行って、通れなかったら戻ることもあるしね」
第161章で売店に並んでいた地図には、馬車で進める道、駄獣へ替える区間、らくだ隊に向く道、水場、峠、距離、それに何日かかるかまで書いてありました。
空の上から白い山脈を眺めると、その数字の意味がもう一度よく分かります。
「ムリヤちゃんで越えたから、近く感じてたんだね」
「飛行機は、距離の感じ方まで変えてしまいますね」
「うん。でも地面は、何も短くなってない」
フランソワさんは、しばらく何も言わず山を見ていました。
◇ ◇ ◇
ヒマラヤが少しずつ後ろへ移っていきます。
階下の人たちも席へ戻りました。
今度は昼食です。
北京では食事を積んでいません。
これもラサで朝食と一緒に積んだものです。
マルガレーテさんと三人の給仕さんが、上部デッキと階下へ食事を運びます。
「北京で積まなかったのは、そのためでしたか」
「うん。ラサで昼の分まで用意できたから、北京では人と貨物と燃料だけでよかった」
「結果として、地上時間も短くできました」
「今日はまだ先が長いからね」
白い山並みが後ろへ遠ざかると、窓の外には乾いた土地が増えてきます。
景色が少しずつ変わります。
「この先は、どちらへ向かわれますか」
「このまま西へ行って、ペルシャ湾」
「ずいぶん南を通りますね」
「うん。今日は最短距離じゃないから。それから北西へ上がって、アナトリア半島を通ってイスタンブール」
「北京で多めに給油した理由が、よく分かりました」
「そう。景色を見るために遠回りするけど、途中で燃料を心配する飛び方はしないよ」
食事が終わります。
機体は西へ進み続けました。
◇ ◇ ◇
やがて、乾いた大地の向こうに大きな水面が見えてきました。
ペルシャ湾です。
「さっきまで雪山だったのに」
窓を見ていた人が言いました。
「ずいぶん景色が変わりましたね」
「飛行機だと、一日のうちにこれだけ変わるんだよね」
どろちゃんも前方と地図を交互に見ます。
白いヒマラヤ。
乾いた大地。
ペルシャ湾。
同じ日の飛行の中で、窓の外が大きく変わっていきます。
ここから進路を北西へ取ります。
アナトリア半島へ入れば、今度はつい数日前まで滞在していたオスマン帝国側へ戻ってきます。
「あの方々は、もうすぐお仕事の場所ですね」
フランソワさんが客室の方を見ました。
北京から乗ってきた清国側の交代要員です。
「うん。先に残ってくれた人たちと交代してもらう」
「今度の方々は、オスマン帝国の事情をご存じなのですね」
「そう。最初の人たちは急だったから、早く交代してもらわないと」
アナトリア半島を横切ります。
やがて、見覚えのある地形が近づいてきました。
「戻ってきたね」
「はい。つい先日出発したばかりでございますが」
「今度は皇帝陛下はいないけど、交代の人を連れてきた」
イスタンブールです。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんはイスタンブールへ降下しました。
地上から風と滑走路の情報を受けます。
進入を整えます。
接地。
減速。
誘導路へ入り、所定の位置で停止しました。
ここでも、地上滞在は必要な作業の時間だけです。
乗降扉を開けると、イスタンブールまでの人が降り始めます。
オスマン帝国の全権さん。
ラサからイスタンブールまで乗ってきた大学関係者。
そして北京から乗ってきた、清国側の正式な交代要員。
待っていたのは、今回急にイスタンブールへ残ることになった清国側の人たちです。
「お待たせしました」
新しく来た人が挨拶しました。
「ずいぶん早かったですね」
「北京から、そのまま参りました」
「助かります。こちらは何も分からないところから始めましたので」
「引き継ぎをお願いします」
急に残った人たちは、オスマン帝国の専門要員として選ばれた人たちではなく、まず清国側の連絡窓口を空けないために現地へ残った外交官たちです。必要な文書を受け取り、本国との連絡を続けていました。
そこへ、今度は事情を知る人が来ました。
短い引き継ぎを済ませます。
「では、こちらをお願いいたします」
「承りました」
交代した人たちは、ムリヤちゃんへ乗ります。
この人たちは、そのままエルレンフェルトへ向かいます。外交官なのでナーロッパ共通語には不自由しません。しばらくはエルレンフェルトを拠点に、ヨーロッパ側の仕事へ回ることになっています。
◇ ◇ ◇
そのあいだ、貨物側も止まっていません。
イスタンブールで降ろす貨物を外へ出します。
FEさんたちは給油を進めます。
「燃料、入れます」
「お願いします。次も余裕を持って」
北京からヒマラヤ南側へ回り、ペルシャ湾、アナトリア半島を通ってきました。
長い区間です。
ここであらためて必要量を入れます。
乗客も入れ替わりました。
貨物も減りました。
給油が終わります。
ただ、ここまで来ると乗務員の勤務時間もかなり長くなっています。
「勤務時間、長くなってきたね」
「はい。こちらで長く時間を使わない方がよろしいかと存じます」
「うん。でも確認は全部やるよ」
「もちろんでございます」
地上滞在は必要な作業の時間だけにして、終わり次第すぐ帰路へ出ます。飛行前の確認は一つずつ確実に行います。
◇ ◇ ◇
外では、FEさんたちが機体を見て回りました。
長い区間を飛んできたあとの主脚と前脚、タイヤ、ブレーキ周辺、エンジンまわり。油や燃料が漏れていないか、外板や点検口に異常がないか、給油口が閉まっているかも確認します。
貨物側では、イスタンブールで降ろすものがすべて出たことを確認し、残る荷物の固定を見直します。
客室では、マルガレーテさんと三人の給仕さんが新しく乗った人を席へ案内します。手荷物、通路、非常口の周囲、シートベルトも見ます。
どろちゃんとフランソワさんも操縦席へ戻りました。
「燃料量」
「確認しました。左右差も範囲内です」
「貨物」
「イスタンブール分、荷下ろし完了。残る貨物、固定確認済みです」
「乗客」
「全員搭乗しております」
「乗降扉」
「閉鎖、ロック確認」
「貨物扉」
「閉鎖、ロック確認」
電気、油圧、操縦系統、計器、無線、風、滑走路、帰りの航路。
必要なものを一つずつ見ていきます。
長時間勤務だからこそ、思い込みで飛ばしません。
「全部終わった?」
「はい。出発できます」
「じゃあ、ここで時間を延ばすより、行こう」
マルガレーテさんの安全案内が客室へ流れます。
六発を順に始動しました。
イスタンブールに着いたばかりですが、もう出発です。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんは再び西へ向かいました。
今度の目的地はエルレンフェルトです。
冬の日は短いはずなのに、外はまだ明るさを残しています。
「まだ明るいね」
「西へ向かっておりますから、日暮れを追いかけるような飛び方になりますね」
「朝は北京へ向かいながら日の出を見たのに、今度は夕方を引き延ばしながら帰ってる」
東から西へ飛ぶので、地上の太陽時を追いかけます。
時計の上では時間が進んでも、窓の外の夕方はなかなか終わりません。
それでも太陽は少しずつ低くなります。
西の空が橙色へ変わります。その上に淡い黄色、さらに高いところには青が残ります。
「今日は長いですね」
「ラサを出たの、ずいぶん前みたい」
「同じ一日の運航でございます」
「朝日を見たのも今日なんだよね」
「はい」
どろちゃんは少し笑いました。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトが近づいたころ、太陽そのものはもう地平線の下へ入りました。
でも、西の空にはまだ明るさが残っています。
「エルレンフェルト、見えてきました」
「間に合ったね」
「日没には間に合いませんでしたが、まだ残照がございます」
「うん。ぎりぎり明るいうちに降りられる」
地上から風と滑走路の情報を受けます。
滑走路の灯火も点いています。
周囲はもう夕方から夜へ移りかけていますが、地面の形はまだ見えます。
どろちゃんは降下を続けました。
速度を合わせます。
降下率を整えます。
滑走路が正面へ入ります。
「このままで大丈夫です」
「うん」
フレア。
主脚が接地しました。
前脚をゆっくり降ろします。
逆噴射。
減速。
長い一日の最後に、ムリヤちゃんはエルレンフェルトへ戻ってきました。
「今日は長かったね」
「はい。ラサを出ましたのが、ずいぶん前のことのようでございます」
「でも、まだ今日なんだよね」
西の空には、ほんの少しだけ明るさが残っています。
◇ ◇ ◇
降りた人たちの中には、イスタンブールで交代してきた清国の外交官たちがいます。
しばらくはヨーロッパ要員です。
ナーロッパ共通語を使えるので、エルレンフェルトや周辺国で仕事をするうえで、言葉には困りません。
「こちらの方々は、しばらくエルレンフェルトに滞在なさるのですね」
「うん。外交官だし、ナーロッパ語も大丈夫だから、ヨーロッパ側で仕事してもらえるよ」
「では、ホテル棟へ?」
「長くなるから、ファーストとビジネスに分けて泊まってもらおう」
「以前、一度お使いになっておりますね」
「うん。お風呂とか電話とか、また最初から全部説明しなくていいね」
ホテル棟では長期滞在として受け入れます。
役割や身分に合わせて、ファーストとビジネスの客室へ分かれます。
以前一度使った人たちなので、設備説明は簡単です。部屋、食堂、電話、必要な連絡方法。以前と変わったところだけを確認すれば足ります。
近いうちには薩摩へ向かう予定もあります。
東西を結ぶムリヤちゃんの運航は、これからも続きます。
エルレンフェルトへ残った人も、今ここへ来た人も、順番に交代できます。
◇ ◇ ◇
機体側の到着処理が終わったあと、乗務員だけが短く集まりました。
どろちゃん、フランソワさん、FEさん二人、マルガレーテさん、三人の給仕さん。
八人です。
「では、今日の確認だけして終わりましょう」
どろちゃんが言いました。
「機体で気になったところ、ありますか」
「ありません。北京からの長距離区間も、イスタンブールからの帰路も正常です」
「燃料系も?」
「問題ありません。記録は残してあります」
「客室は?」
マルガレーテさんが答えます。
「こちらも問題ございません。ラサでお土産が増えましたので収納には少し手を取りましたが、通路を塞ぐこともございませんでした」
「みんないっぱい買ったからね」
「模型が多かったですね」
三人の給仕さんの一人が笑いました。
「フルシチョフカもございました」
「大学も」
「トロリーバスもございました」
「地図もね」
少しだけ笑い声が出ました。
「ほかに何かありますか」
八人は確認します。
特にありません。
「じゃあ、今日は終わり。長かったから、ちゃんと休んでください」
「お嬢様もでございます」
フランソワさんに言われました。
「うん。私も帰る」
長いミーティングはしません。
必要なことは記録へ残しました。
機体は地上側へ引き継ぎます。
八人は、それぞれ自分の家や部屋へ帰っていきました。
ラサの夜から始まり、空から日の出を見て、北京へ降り、ヒマラヤを南から眺め、ペルシャ湾を越え、イスタンブールへ寄り、西へ太陽を追いかけて帰ってきた一日です。
エルレンフェルトの西の空には、最後の残照だけが残っていました。




